人間だれしも哲学構築法は一緒なのでそれに依拠すべき。宗教第一になる理由は…


私が親戚のお葬式に参列して、その時の寺院は曹洞宗の寺でしたが、そのときにお坊さんがお経をあげていてた時に、日蓮正宗系の団体が毎日唱えている自我偈を読み始めたのです。
私は、「ええっ!」と興ざめたのです。
ここは日蓮正宗系の寺院ではないのに、なぜ自我偈を唱えているんだ!ということです。
不思議だなあと思って調べていくと、その理由が判明しました。
天台宗の開祖である道元は、天台宗の園城寺に遊学し、同じく日蓮も園城寺に遊学し、それぞれ自我偈が大事という思いで、自分の宗教を開祖するときに、それを取り入れたのです。
そして曹洞宗の寺院では、いまでも毎日、自我偈をとなえているのです。

その他、誦読という行為=経文をあげるのも、真言宗からの影響なのです。
毎日、方便品や自我偈を唱えることもさることながら、そもそも経文を唱える誦読ということも、真言宗由来なのです。
日蓮は東寺という真言宗寺院にて真言宗を学んだのです。
のみならず、念仏も臨済も禅宗も学び、それぞれ必要と思われる部分は抜きだして、不要と思われる部分は取り入れなかったのです。
そうして築き上げた自分の思想体系=哲学が日蓮(下写真)の宗教だったわけです。

こういった情報の取捨選択は人間なら誰しもしていることなのです。
そのフィルターはそれぞれに人によって違うわけです。
日蓮と私のも当然違ってくるわけです。
なのになぜ日蓮のフィルターに合わせなくてはならないのだろうか?と私は不思議になっていたのです創価学会にいた時に。
思想は、無から有を生みだすことはできないわけです。
やはりいろんなものから学んで、そして取捨選択をして出来上がるわけです。
それは日蓮も例外ではなかったのです。
それは自我偈や誦読の例からも明らかでしょう?
それなのに、日蓮正宗系の団体の人は、「この宗教こそが最高の宗教だ」と言い張るわけです(笑)
なら、他の宗教と比較して、どんな根拠で秀でていて、どの宗教もたどり着かないような至高の教えなどあるのか、という疑問は絶えずありました。
日蓮の宗教から離れて、一歩他の仏教なり、宗教なりを学んでみれば、それぞれ学ぶところはあるのです。
日蓮からは学べないものも当然あるのです。

なのに、なぜ日蓮のみが至高なのか、まるでわからなかったし、今でもわかりません。
やはりいろんな本を読み、いろんな人と話し、いろんなことを聞くことで自分の哲学は形成されるものです。
日蓮だけに一途にならなければならない理由はないのです。
そういう根拠ゆえに、私は日蓮だけにぞっこんにはなれないし、この宗教団体には入らないとしているのです。
こういうことを書くと、日蓮正宗系の団体からは、「日蓮大聖人から離れて、そんな自己流でやっていては幸福にはなれないよ。功徳をいただけないよ。」と反論されそうですが、そのようになるかもしれないし、そうならないかもしれないです。
先のことはわかりません。
どちらに転んでも、自分が進んだ道に関しては結果はどうあれ、自分の責任として受け取るつもりであることは覚悟しています。
ゆえに、そんなアドバイスは受けない、と私は思っています。
日蓮の遺した書物をいくら読んでも感銘を受けないのですから仕方がないのです。
いくら、創価学会の『聖教新聞』を読んでも、顕正会の『顕正新聞』を読んでも結果は一緒だったのです。

ゆえに、どの日蓮正宗系の団体にも与することはないでしょう。
日蓮は生前において、真言宗を邪教扱いしていたのです。
その根拠は、いくら探求すれどもわからないのです。
自身が真言の東寺に行って学んだにもかかわらずです。
それって裏切り行為ではないの?と思う人が出てもおかしくはないです。
それは、日蓮の遺した書物を全部読んだわけではないので、全部読めば出てくる可能性はありますが、そういう作業をする時間がないし、割く覚悟もないのです。
ひとえに真言宗は、密教的でいかがわしい雰囲気を出していたからかなとは思います。
ましてや護摩炊きなどのように、火を焚いてそこに札などを入れて拝む姿がやはりいかがわしいと日蓮は思ったのかもしれないですね。

しかし、一般の民衆向けでないような雰囲気を醸し出していたのは、仕方ない部分もあるのです。
当時の仏教界を修めるにはかなり多くの知識を必要としていたし、やはりそういう万般の知識を仕入れていくには、やはり勉強しかないわけで、閉じた雰囲気をどうしても醸し出してしまうのは致し方ないです。
その雰囲気を打破して、もっとさわやかな雰囲気を出したかったのかもしれないですね日蓮は。
やはり人のパーソナリティを形作るのはその人の環境であり、そしてその宗教の性格を形作るのもその環境なのです。
開祖が、自分がこれこそが最高の宗教ができたと思っていても、傍から見ていればそうでもないと感じることは往々にしてあるわけで、それを逐一非難していても仕方がないでしょう。
それは自分に合わないと思えば、その宗教を奉じなければいいし、合っていると思うならばそこに入って奉じればいいだけの話しです。
合っている宗教に入っても、足りない部分があれば継ぎ足せばいいし、納得がいかない部分があれば捨てればいいのです。
万人に通底する完璧な宗教はない…それは真理でしょう。
得てきた情報の内容は人によって千差万別ゆえに、人によって考えは違っていて当然なのです。
そうしてできた自分の思想体系=哲学によって行動していく。
そして到来した結果については自分の責任として覚悟する。
そういう気概でいるのです私は。

しかし、宗教団体に入って、足りないと思われる部分は継ぎ足して、いらないと思われるものは削除していく生活で、どうしても自家撞着になってどうしてもうまくいかないのであれば、自分で宗教を開祖するまでか?ということです(笑)
本当ですね。
それしかないです。
しかし、新たな宗教を立ち上げるに際しても、やはりそれまで自分が接してきた宗教の教えが中心になってしまうし、それほど大きな違いはないのが、これまでの宗教の歴史なのです。
やはり保守的なのです人間は、私も含めて。
私も保守的ゆえに、そのできた宗教に関しては保守的だとか二番煎じと一批判する気は全くないです。
ただ、その宗教が大きな組織になるかどうかは、その思想が多くの人の心を捉えられるかどうかなのです。
そういう宗教家になれる自信もないし、他から学べるものはいっぱいありますから、そこから学ぶのがいいでしょうというのが私の立場です。
そんな私の思想に共鳴してくれる人ならば、以下の電子書籍は参考になるでしょう。
読むのがいいでしょう。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
→楽天Kobo
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。


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