反.宗教論は宗教を全部否定するにあらず。宗教だけに依拠する姿勢を否定しているのです。


私はこれまで反.宗教的な言論を展開してきました。
しかし、これは決して宗教のすべてをまで否定しているわけではないのです。
神仏は厳として存在し、その恩恵を受けていると感じて、謙虚になっている所存ではあります。
しかし、否定しているのは、その宗教団体で言われていることに無批判になっていくことや、自分の身に起きた良きことをすべて神仏のおかげと言い切る狭い了見に対して批判しているわけです。
そういった神仏だけでなく、人類が発明し発展させてきた科学に対しても畏敬の念を持っているし、感謝が絶えないですし、周囲の人間全員に有難さを抱いているのも事実なのです。
ゆえに、自分に起きた有難いことについては、神仏のおかげということもあるし、科学のおかげということもあるでしょう。
どちらか一方だけではないのです。
それはケースバイケースで判断していくのがいいでしょう。
その科学ですが、その発達で一番の効用はストレスの軽減ではないか?と思っているのです。
心理学もその科学の1つです。
これが発達しておかげで、幅広い考えを持ち、そのことで対人関係において、イラっとして血がのぼるのを防ぐことができるのです。
そのかっとなることは高血圧を引き起こし、そしてストレスの元になるのです。
複眼的な思考法は対人においてかなり大事です。
複眼的な思考ができないで、すぐさまカッとなってしまう人は損をするし、その人の周囲には人が根付かないです。
複眼的な思考は、心理学や他の分野の本を読むことでできるようになるのです。
私はこれまで対人において、自尊心がいかに重要かということを書いてきました。
夫のマウントが原因で離婚した夫婦がいるとします。
その夫は自尊心がないがために、いつもマウントをとってしまっていたのです。
自尊心とは、何もしなくても自分に自信が持てて、人の成功や成長に対して無償で褒めれる心とでも言いましょうか。

それがない人は、人を貶したり命令したりして自信を得ようとするのです。
しかし、そうした心は時間がたてばすぐに消沈してしまう性質を持っているがゆえに、また人を貶したり命令したりして得ようとするのです。
いつまでも心が埋まらないがゆえに、何度もそういうことをしてしまうのです。
その様子が、ICレコーダーで録音され、それが離婚の決定打になり、その結果、離婚が決定してしまった。
その夫は妻から慰謝料請求され、ただでさえ自尊心がないのに余計に精神が沈んでしまう結果になるのです。
しかし、これでは根本解決にならず、ということはわかりますね。
根本解決は、その夫が自尊心を得ることです。
何もしなくても人を誉めれて受け入れれるようになることですね。
どうすればいいか?
宗教団体に入って祈ることではないのです。
それは、この場で何度も紹介している電子書籍の中に書いてあります。
こういうことを鑑みると、やはり宗教だけにすがって物事の打開を図るのは邪道というのがわかりますよね?
その科学、心理学は、日蓮(下写真)が生きた時代にはなかったので、その思考が欠落しているからといって批判するには及ばないのです。

しかし、それだけではダメということがわかったのだから、有効と思われる方法を実践するのが王道なのは言うまでもないですよね?
日蓮正宗系の団体では、日蓮の遺した教えだけに依拠して教義を展開しているのです。
しかし、日蓮の6人いた弟子のうちの5人は、日蓮の教え以外にも神道や儒教などといった別の宗教や教えをも盛り込んだのです。
その5人の弟子たちが展開した宗教を総称して日蓮宗という名称になっているのです。
しかし、日蓮正宗と日蓮宗、どちらをとるかは、その人の判断に任せるほかないのです。
私が、これがよくて、これが悪いなどといったことは言えないし、言うつもりはないのです。
しかし、完全に日蓮の言ったことだけを引き合いに出しているのかというとやはり疑問にならざるを得ないのです。
以下は、日蓮正宗の信徒団体だった顕正会の新聞からの抜粋です。

「一切の仏神等のまつまりまぼり、昼夜に影のごとくまぼらせ給う法にて候。よくよく御信用あるべし」(妙心尼御前御返事)
これは、訳すと以下の文になります。
「御本尊を身に持てば、一切の仏、神が集まって昼夜にわたって影のように守られるのでありましょう。よくよく信じていきなさい。」
神が引き合いに出されているではないですか、と苦笑せざるを得ないのです(笑)
日蓮の遺した書物は、大きな御書という本になっているのです。
そこには、いたるところで神が入ってくるのです。
やはり、鎌倉時代の当時も、神への信仰は社会全体であったし、それを完全否定はできなかったのでしょう。
しかし、人にその教えを講義するに際して、その教える人の価値観や自分の学んだ事柄も盛り込んでしまうのが人間社会の常なので、そのことについては否定はしないのです。
やはり、雑種的な様相を呈してしまうのです。
それは否定しないけれども、その雑種性があまりに開祖の教えから隔たってしまった場合は、やはり反対分子を多く輩出してしまうのも人間社会の常なのです。
最悪の場合、多くの人が抜けてしまったり、分裂をしてしまうのです。
その雑種性が自分とぴったり一致している団体などあろうはずはないがゆえに、私は宗教団体には属しないのです。
開祖の教えを伝達するに際して、指導するその人の価値観に偏ってしまうのは否めないのです。
ことは宗教だけでなく、武道団体でも一緒です。
私がしていた空手の極真会館も同じ事がおきています。
この団体は大山総裁という人が設立しましたが、その2代目を継いだ松井章圭氏(下写真)は華麗な組手を信条としていたので、その価値観よろしくテクニカルな面ばかりを強調して指導していたのです。

現実の指導においても、雑誌においても。
その結果、松井派はまさに武道空手から離れていってしまったのです。
しかし、松井派に反旗を翻した新極真会は、それとは対照的に相手を叩きのめす組手を体現している団体を維持しているのです。
こういう例が伝達時に起きてしまうのですから、宗教者は元の開祖の教えを絶えず吟味していく必要があるのはわかるでしょう?
神仏は畏敬の念の対象ではありますが、それゆえにも、その教えが人間によって薄められていないか、歪められていないかを吟味していくのが大事なのです。
日蓮が開宗した宗教に興味を持ったのならば、その団体で話されている内容を第一にすべきではなく、やはり日蓮の書物を集大成した先ほど引きあいに出した『御書』を最初から最後まで読むのがいいのです。
それで感銘を受けなかったら、その宗教の信者.信徒になる必要はないでしょう。
現代社会においては、他にいくらでも依拠できる本や冊子はいくらでもあるのですから。
そんな私の立場に賛同できる人には是非とも以下の電子書籍を読んでもらいたいです。
是が非でもお勧めです。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
→楽天Kobo
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。



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