宗教にハマってしまう人は猪突猛進、無批判になりがち。それでは厳として弊が存在する!
私の母が創価学学会員だったことによって、かなり前に私はそのつてで創価学会に入ることになりました。
学会員の皆さんは、「この宗教こそ世界最高峰の宗教だ!」というので、世界最高峰の宗教がどのようなものかを見たかったのです。

しかし、なんていうことはなく、毎回毎回同じ言葉の繰り返しでした、新聞でも講演でも。
これでは行く意味がないと思い、いつしか疎遠になり、新聞の購読もストップし、講演にもいかなくなりました。
宗教団体の常として、世俗とは思考や生活が異なっているいるがゆえに、批判の対象になりやすいのですね。
創価学会も例外なく。
その宗教にのめりこむ人間はやはり「この宗教こそ至上のものだ!」という思考になりがちゆえに、その宗教を受け入れられない人に対して、そして宗教内では其の組織の方針に反対する人に対しては猪突猛進ぎみになってしまうのですね。
ここでは、自分を一歩引いて外から眺めて、客観視する必要があります。
非信者に対しては無理やり勧誘し、エスカレートして監禁するまでになってしまう。
創価学会内では、広布部員といって、毎年、創価学会で募る募金を出してくれる人を徴収する人員を募集するのです。
その際に、幹部たちに口数増やしてくれと再三訪れられることに批判に上がっていることもありました。
また、非信者に創価学会の書籍の啓蒙のための講義を強いたり、民音の切符の割り当てなど金銭的な負担強いることなどを強制されたりして批判を浴びていもいたのです。
こういった姿は、現代のような科学が蔓延している社会においては、滑稽な姿に映る人が増えているのは言うまでもないことです。

科学のみならず、宗教をもくまなく見ている私にとっても、やはり宗教ばかりにこだわるのはやはりおかしいと思うのです。
自分が対面した現象が、宗教的な現象であることもあれば、科学的な現象であることもあるのです。
私はそれを両方支持するのです。
やはり、宗教にばかり猪突猛進になってしまう人というのは、宗教的な本や新聞や雑誌や冊子しか読まないゆえに、それ以外のものを等閑視できないのですね。
そうならないためには、他の分野についても主体的に学んでいくことが大事でしょう。
いろんなものが相対的に関わって起きている。
ゆえに、1つの宗教には拘らないし、その宗教を支持してくれといったことは、人には話さないですね私は。
何か宗教に入りたいと思ったら、自分で、いろんな本や新聞、雑誌等を読んで、これだ、と思ったところに入ればいいし、宗教団体に入りたくなければ、その宗教を学んでいくだけでいい。

そういったスタンスは自分で決めればいい、と思っているのです。
「創価学会こそが世界最高峰」といわれたので、この宗教に入れば自分も感化され、いろんな人にこの宗教の素晴らしさについて語り、選挙の際には、この宗教が母体になっている公明党の議員に入れてくれ、と多くの人に頼むようになるのかなあと思っていましたが、そうはならなかったですね残念ながら(笑)。
この創価学会は、元は日蓮正宗の信徒団体だったのですが、91年にその日蓮正宗から破門処分を下されています。
同じく信徒団体だった顕正会も、破門処分にされているのです。
創価学会と顕正会、どちらも屹立して現在も団体を維持しているのです。
そして、創価学会から顕正会に移る人もいるようです。
創価にあきれをきたして。
日蓮正宗から破門にされた後に、創価の会長だった池田大作(下写真)は、学会員にそれまで家にあった先祖が祭ってある仏壇の位牌を捨てさせたということもあったようです。

やはり宗教団体として、確固たる姿勢を正していかなくてはならないが故の行動だったのでしょうか?
私が、創価学会に一途な人であれば、それもやむなしとして、そういうことも受け入れたでしょうが、そんなことはいろいろな神道や仏教を勉強してきた私としてはそんなことは断じて許されないことです。
位牌には、その故人の魂が宿っているがゆえに、そんな捨てる行為などは、その故人を地獄に突き落とすこういうゆえに、そんなことはたとえ池田大作の命令でも、行為には及ばなかったことは間違いないです。
ただし、これは顕正会の機関紙である『顕正新聞』からの抜粋だったので嘘だった可能性もあるし、その真偽はわからないです。
もし真実としたら、破折すべき行為です。
また、創価学会の新聞など表には出ないけれども、公明党議員の賄賂、汚職三昧であることも、その『顕正新聞』でも明かされています。
やはり、そういうことは、創価の『聖教新聞』では取り上げないのですね。
当然といえば当然です(笑)。
新参の政党だった公明党は、その政党を支持する人を増やすためには、認知してもらわなくてはいけない。
そのためのお金をだしてくれる地元の有力な人に金頼みのことをしなくてはいけないのが必然なのです。
その他、他の議員や公務員との懐柔といったことも必要になってしまう。
そのために、どうしても賄賂、汚職が必然的に起こってしまうものなのです。

私は、議員などはしたことはないですが、もしもお金がらみのそういった話しが来たら、その圧力に負けてしまうかもしれないですし、負けないかもしれないです。
それは議員になったことがないのでわからないです。
要するに、こういった黒歴史をどの団体でも持っているのです。
その黒歴史をどの団体の信者も知らされていなく、その団体の歴史や長の特長ばかりが言及されているがゆえに、その団体について悪いことが書かれていると、そこの信者はヒステリーを起こして、「デマだ」「陰謀だ」「事実無根だ」といった反応しかしないのです。
私がお勧めしている電子書籍についても、レビューでそんなことが書かれているのです。
そうならないためには、謙虚になって、一歩外に出て、虚心坦懐に、他の分野にも好奇心でもって学び、真実をつかみ取る気概を持ってほしいものです。
そうなれば、どの団体も一長一短であり、「この宗教こそがこの世で至高のものだ」というモラルにはならないと思うのですがどうでしょうか?
「この宗教こそがこの世で至高のものだ」という思考になってしまったら、その宗教には無批判になってしまい、それこそ、その宗教の管理者たちの野放図な施策を許すことになってしまう弊が待ち構えていることは間違いないです。
そうはならなことこそが、社会にとって望ましいと思うのですがどうでしょうか?
こういう意見に与することができる人にとっては以下の電子書籍はお勧めです。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
→楽天Kobo
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。

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学会員の皆さんは、「この宗教こそ世界最高峰の宗教だ!」というので、世界最高峰の宗教がどのようなものかを見たかったのです。

しかし、なんていうことはなく、毎回毎回同じ言葉の繰り返しでした、新聞でも講演でも。
これでは行く意味がないと思い、いつしか疎遠になり、新聞の購読もストップし、講演にもいかなくなりました。
宗教団体の常として、世俗とは思考や生活が異なっているいるがゆえに、批判の対象になりやすいのですね。
創価学会も例外なく。
その宗教にのめりこむ人間はやはり「この宗教こそ至上のものだ!」という思考になりがちゆえに、その宗教を受け入れられない人に対して、そして宗教内では其の組織の方針に反対する人に対しては猪突猛進ぎみになってしまうのですね。
ここでは、自分を一歩引いて外から眺めて、客観視する必要があります。
非信者に対しては無理やり勧誘し、エスカレートして監禁するまでになってしまう。
創価学会内では、広布部員といって、毎年、創価学会で募る募金を出してくれる人を徴収する人員を募集するのです。
その際に、幹部たちに口数増やしてくれと再三訪れられることに批判に上がっていることもありました。
また、非信者に創価学会の書籍の啓蒙のための講義を強いたり、民音の切符の割り当てなど金銭的な負担強いることなどを強制されたりして批判を浴びていもいたのです。
こういった姿は、現代のような科学が蔓延している社会においては、滑稽な姿に映る人が増えているのは言うまでもないことです。

科学のみならず、宗教をもくまなく見ている私にとっても、やはり宗教ばかりにこだわるのはやはりおかしいと思うのです。
自分が対面した現象が、宗教的な現象であることもあれば、科学的な現象であることもあるのです。
私はそれを両方支持するのです。
やはり、宗教にばかり猪突猛進になってしまう人というのは、宗教的な本や新聞や雑誌や冊子しか読まないゆえに、それ以外のものを等閑視できないのですね。
そうならないためには、他の分野についても主体的に学んでいくことが大事でしょう。
いろんなものが相対的に関わって起きている。
ゆえに、1つの宗教には拘らないし、その宗教を支持してくれといったことは、人には話さないですね私は。
何か宗教に入りたいと思ったら、自分で、いろんな本や新聞、雑誌等を読んで、これだ、と思ったところに入ればいいし、宗教団体に入りたくなければ、その宗教を学んでいくだけでいい。

そういったスタンスは自分で決めればいい、と思っているのです。
「創価学会こそが世界最高峰」といわれたので、この宗教に入れば自分も感化され、いろんな人にこの宗教の素晴らしさについて語り、選挙の際には、この宗教が母体になっている公明党の議員に入れてくれ、と多くの人に頼むようになるのかなあと思っていましたが、そうはならなかったですね残念ながら(笑)。
この創価学会は、元は日蓮正宗の信徒団体だったのですが、91年にその日蓮正宗から破門処分を下されています。
同じく信徒団体だった顕正会も、破門処分にされているのです。
創価学会と顕正会、どちらも屹立して現在も団体を維持しているのです。
そして、創価学会から顕正会に移る人もいるようです。
創価にあきれをきたして。
日蓮正宗から破門にされた後に、創価の会長だった池田大作(下写真)は、学会員にそれまで家にあった先祖が祭ってある仏壇の位牌を捨てさせたということもあったようです。

やはり宗教団体として、確固たる姿勢を正していかなくてはならないが故の行動だったのでしょうか?
私が、創価学会に一途な人であれば、それもやむなしとして、そういうことも受け入れたでしょうが、そんなことはいろいろな神道や仏教を勉強してきた私としてはそんなことは断じて許されないことです。
位牌には、その故人の魂が宿っているがゆえに、そんな捨てる行為などは、その故人を地獄に突き落とすこういうゆえに、そんなことはたとえ池田大作の命令でも、行為には及ばなかったことは間違いないです。
ただし、これは顕正会の機関紙である『顕正新聞』からの抜粋だったので嘘だった可能性もあるし、その真偽はわからないです。
もし真実としたら、破折すべき行為です。
また、創価学会の新聞など表には出ないけれども、公明党議員の賄賂、汚職三昧であることも、その『顕正新聞』でも明かされています。
やはり、そういうことは、創価の『聖教新聞』では取り上げないのですね。
当然といえば当然です(笑)。
新参の政党だった公明党は、その政党を支持する人を増やすためには、認知してもらわなくてはいけない。
そのためのお金をだしてくれる地元の有力な人に金頼みのことをしなくてはいけないのが必然なのです。
その他、他の議員や公務員との懐柔といったことも必要になってしまう。
そのために、どうしても賄賂、汚職が必然的に起こってしまうものなのです。

私は、議員などはしたことはないですが、もしもお金がらみのそういった話しが来たら、その圧力に負けてしまうかもしれないですし、負けないかもしれないです。
それは議員になったことがないのでわからないです。
要するに、こういった黒歴史をどの団体でも持っているのです。
その黒歴史をどの団体の信者も知らされていなく、その団体の歴史や長の特長ばかりが言及されているがゆえに、その団体について悪いことが書かれていると、そこの信者はヒステリーを起こして、「デマだ」「陰謀だ」「事実無根だ」といった反応しかしないのです。
私がお勧めしている電子書籍についても、レビューでそんなことが書かれているのです。
そうならないためには、謙虚になって、一歩外に出て、虚心坦懐に、他の分野にも好奇心でもって学び、真実をつかみ取る気概を持ってほしいものです。
そうなれば、どの団体も一長一短であり、「この宗教こそがこの世で至高のものだ」というモラルにはならないと思うのですがどうでしょうか?
「この宗教こそがこの世で至高のものだ」という思考になってしまったら、その宗教には無批判になってしまい、それこそ、その宗教の管理者たちの野放図な施策を許すことになってしまう弊が待ち構えていることは間違いないです。
そうはならなことこそが、社会にとって望ましいと思うのですがどうでしょうか?
こういう意見に与することができる人にとっては以下の電子書籍はお勧めです。
●以下よりどうぞ!
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。



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