信頼のおける宗教であっても、そこで話されていることだけを信じて行動していればいいか?…そんなことはなし。ではどうすれば?(幸福の科学)
私が幸福の科学の某支部の会館にいって、その講義を受けて、それからというもの当会の冊子を毎月無料で送付してもらっているのですが、それは毎月欠かさず読んでいます。
自分にとって意味がない、と思われるのであれば、このようなことにはならず、読まずに捨ててしまいます。
しかしそうならないのは、私が当会の教えに惹かれているからです。

私がそれまで属していた創価学会では、ほぼこの世での人間の倫理を説くばかりで、あの世や霊といったこととの人間の関係については説かれたことがなかったのです。
そういうものを説いてこそ宗教だ、と思っていた私は創価学会には不信を抱いていたのです。
片手落ちの宗教だ、というそしりはまぬかれないでしょう。
それは創価学会は日蓮正宗の信徒団体であったからなのですが、日蓮正宗とは、鎌倉時代を生きた日蓮(下写真)という僧侶が、自分の宗教を開始し、その6人の弟子がいたのですが、そのうちの日興上人だけが、日蓮の教えだけを忠実に守っていたのです。

その教えとは、日蓮の教えだけを正直に伝えなさいとしていた教義なのです。
しかし、あとの5人の弟子たちは、日蓮の教え以外にも、神道や儒教などの教えをも交えて伝えていったのです。
その5人の弟子たちの流れをくむのが日蓮宗と総称されているのです。
しかし、それには反論をしたいのです。
日蓮は、いろんな宗教を主体的に学んでいったのです。
真言、禅、念仏、天台といった仏教はもちろん、儒教や神道をも学んで、必要と思われるものは取り入れ、必要と思われない部分に関しては取り入れずに自分独自の体系を作り上げていったのです。
ゆえに、いまはいくつかに分裂してしまっている日蓮正宗の団体ですが、いずれも神社や他の仏教寺院への参拝を禁止しているのです。
もちろん、それが発見されたとしても除名などといった謹厳なことはしないでしょうが。
そこで疑問の思うのですが、日蓮はいろんな仏教や神道や儒教を学んでいって自身の宗教を開祖したにも関わらず、それらを学ぶな、それについて書かれた本を読むな、というのは自己矛盾と思わざるを得ないですね。

それに…といって講義しても読んでいる人を不愉快にさせることにつながるので、やめておきましょう。
やはり総合性が大事、という頭でいるのです私は。
それにかなった宗教であるからこそ、幸福の科学は信用できるなと思ったのです。
世の中自体が総合性によって成り立っているのです。
人間が食べ物を食べれるのは、いろんな神や仏の計らいによって成り立っているからという議論も成り立つでしょう。
日蓮が、その恩恵を与えてくれているから、私たちが食べものを食べれるのでしょうか?
そんなことはないでしょう。
もし、そんなことが言えるのならば、その詳細を私が屈服するまで話してほしいものです。
そういうことができた日蓮正宗系の信者にあったことがないのです。

ゆえに、日蓮だけに頼らずに、いろんな神や仏に感謝して、周りの人間を含めあらゆる事物に感謝して生きていく所存なのです。
そういった総合性に共感できる人ならば、幸福の科学には目を向けることができるのではないでしょうか?
どういう人間が天国へ行くか?
どういう人間が地獄へ行くか?
霊に対しては、どのような態度にすべきか?
災いをもたらす霊はどのような人が死後なるか?
こういったことを信じながら、日々生活していくことで、今後の人生は大幅に変わってくるでしょう、いい意味で?
もちろん水子の霊についても、知っておく必要があるでしょう。
水子とは、女性の体内に宿った胎児が何らかの理由で流産してしまったとか、中絶してしまった後に、その親類に災いをもたらす霊ということです。

これも知っていれば、これからの人生についてもいい意味で変わってくるでしょう。
そういうことも幸福の科学で唱えられる経文内で入れるべきであると思っていたのです。
「果たしてそんなことが書いてあるのだろうか?」と思い、幸福の科学の経文の本を見たらあったのですね。
まさかあるとは思わなかったですね。
なぜそんな思いになったのかといえば、当会の機関誌には、水子の例がまるで書かれていなかったからですね。
死んだ家族の霊の供養によって幸福になった、という例がほとんどだったのです。
水子云々についての信者の例は書かれていなかったのです。
しかし、経本内にある観念文にはあるのを発見したのです。
この発見によって、更に「当会は総合的だなあ」という気にさせたのでした。
気になったのは、水子に関して詳説がないのです。
いろんな霊についての本を読むと、水子の霊の供養をすることによって災いが降りかからなくなった、という例をいくつも読んできて、そういうテレビ番組も多く見てきた私としては、かなり興味がわいていたのです。
当会の故.大川総裁(下写真)による水子の供養が成功した、ということはあった可能性も大いにあるでしょう。

この宗教団体の信者による霊からの災いから脱却の体験談は多くあるからです。
しかし、それを当会の供養法を勧めるかどうかは、私は心もとないです。
そういう経験は私にないからです。
ゆえに、当会による供養をするかどうか。
あるいは、他の寺院に行って供養してもらうかどうかは、その人に任せるほかないのです。

自身で調べ、その寺院に赴き、供養をお願いするかは決めてもらうほかないのです。
「この宗教で必ず幸福になれる!」などということは絶対にいえないのです。
かならず幸せになれる保証などないのですから。
だから、私は創価学会員時代に誰にも勧めなかったし、他の宗教も勧めないのです。
選択と行動は自身に任せるとしか言えないわけです。
しかし、いろんな仏教の本を読んできて、ロウソク、線香、花のお供えは、先祖供養の基本とされているのです。

これらに関しては幸福の科学では講義されることがないのですし、実際これらは使っていないです。
ゆえに、それらを投げ出して当会に入ることで幸福を必ず引き寄せれるのかどうかは、確かなことは言えないわけです。
人間だれしも程度の差はあれ保守的なのです。
ロウソク、線香、花のお供えに行動を移行したことで開運した人は、幸福の科学に批判的になるだろうし、批判しなくても自身にとっては興味の射程外になることは間違いないでしょう。
こういうことが人生上に往々にして存在するわけで、「この宗教で必ず幸福になれる!」などということは言えないことがおわかりでしょうか?
私としては、確定的と思われた宗教にはまることはいいが、それにプラスして、いろんなことを他の科学的なことを書いた本や宗教から学んで取り入れて、自身の哲学を構築せよ、ということが言いたいわけです。
ゆえに、幸福の科学を勧める、という立場にはなれないわけです。
しかし、当会は、私のモラルと大幅にフィットするがゆえに、哲学の一部として取り入れているわけです。
ゆえに勧めればいいじゃんと思われる向きもあるでしょうが、それだけでなく、他のことも主体的に学んで取り入れるのがいいでしょう、ということが言いたいわけです。
だから、特定の宗教に入るだけでは幸せにはなれないですよ、ということを言いたいのです。
それが基本モラルになっているのです私は!
そんなスタンスをすすめているわけです。
●それに共鳴できる人ならば、以下の本はお勧めしたいです。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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自分にとって意味がない、と思われるのであれば、このようなことにはならず、読まずに捨ててしまいます。
しかしそうならないのは、私が当会の教えに惹かれているからです。

私がそれまで属していた創価学会では、ほぼこの世での人間の倫理を説くばかりで、あの世や霊といったこととの人間の関係については説かれたことがなかったのです。
そういうものを説いてこそ宗教だ、と思っていた私は創価学会には不信を抱いていたのです。
片手落ちの宗教だ、というそしりはまぬかれないでしょう。
それは創価学会は日蓮正宗の信徒団体であったからなのですが、日蓮正宗とは、鎌倉時代を生きた日蓮(下写真)という僧侶が、自分の宗教を開始し、その6人の弟子がいたのですが、そのうちの日興上人だけが、日蓮の教えだけを忠実に守っていたのです。

その教えとは、日蓮の教えだけを正直に伝えなさいとしていた教義なのです。
しかし、あとの5人の弟子たちは、日蓮の教え以外にも、神道や儒教などの教えをも交えて伝えていったのです。
その5人の弟子たちの流れをくむのが日蓮宗と総称されているのです。
しかし、それには反論をしたいのです。
日蓮は、いろんな宗教を主体的に学んでいったのです。
真言、禅、念仏、天台といった仏教はもちろん、儒教や神道をも学んで、必要と思われるものは取り入れ、必要と思われない部分に関しては取り入れずに自分独自の体系を作り上げていったのです。
ゆえに、いまはいくつかに分裂してしまっている日蓮正宗の団体ですが、いずれも神社や他の仏教寺院への参拝を禁止しているのです。
もちろん、それが発見されたとしても除名などといった謹厳なことはしないでしょうが。
そこで疑問の思うのですが、日蓮はいろんな仏教や神道や儒教を学んでいって自身の宗教を開祖したにも関わらず、それらを学ぶな、それについて書かれた本を読むな、というのは自己矛盾と思わざるを得ないですね。

それに…といって講義しても読んでいる人を不愉快にさせることにつながるので、やめておきましょう。
やはり総合性が大事、という頭でいるのです私は。
それにかなった宗教であるからこそ、幸福の科学は信用できるなと思ったのです。
世の中自体が総合性によって成り立っているのです。
人間が食べ物を食べれるのは、いろんな神や仏の計らいによって成り立っているからという議論も成り立つでしょう。
日蓮が、その恩恵を与えてくれているから、私たちが食べものを食べれるのでしょうか?
そんなことはないでしょう。
もし、そんなことが言えるのならば、その詳細を私が屈服するまで話してほしいものです。
そういうことができた日蓮正宗系の信者にあったことがないのです。

ゆえに、日蓮だけに頼らずに、いろんな神や仏に感謝して、周りの人間を含めあらゆる事物に感謝して生きていく所存なのです。
そういった総合性に共感できる人ならば、幸福の科学には目を向けることができるのではないでしょうか?
どういう人間が天国へ行くか?
どういう人間が地獄へ行くか?
霊に対しては、どのような態度にすべきか?
災いをもたらす霊はどのような人が死後なるか?
こういったことを信じながら、日々生活していくことで、今後の人生は大幅に変わってくるでしょう、いい意味で?
もちろん水子の霊についても、知っておく必要があるでしょう。
水子とは、女性の体内に宿った胎児が何らかの理由で流産してしまったとか、中絶してしまった後に、その親類に災いをもたらす霊ということです。

これも知っていれば、これからの人生についてもいい意味で変わってくるでしょう。
そういうことも幸福の科学で唱えられる経文内で入れるべきであると思っていたのです。
「果たしてそんなことが書いてあるのだろうか?」と思い、幸福の科学の経文の本を見たらあったのですね。
まさかあるとは思わなかったですね。
なぜそんな思いになったのかといえば、当会の機関誌には、水子の例がまるで書かれていなかったからですね。
死んだ家族の霊の供養によって幸福になった、という例がほとんどだったのです。
水子云々についての信者の例は書かれていなかったのです。
しかし、経本内にある観念文にはあるのを発見したのです。
この発見によって、更に「当会は総合的だなあ」という気にさせたのでした。
気になったのは、水子に関して詳説がないのです。
いろんな霊についての本を読むと、水子の霊の供養をすることによって災いが降りかからなくなった、という例をいくつも読んできて、そういうテレビ番組も多く見てきた私としては、かなり興味がわいていたのです。
当会の故.大川総裁(下写真)による水子の供養が成功した、ということはあった可能性も大いにあるでしょう。

この宗教団体の信者による霊からの災いから脱却の体験談は多くあるからです。
しかし、それを当会の供養法を勧めるかどうかは、私は心もとないです。
そういう経験は私にないからです。
ゆえに、当会による供養をするかどうか。
あるいは、他の寺院に行って供養してもらうかどうかは、その人に任せるほかないのです。

自身で調べ、その寺院に赴き、供養をお願いするかは決めてもらうほかないのです。
「この宗教で必ず幸福になれる!」などということは絶対にいえないのです。
かならず幸せになれる保証などないのですから。
だから、私は創価学会員時代に誰にも勧めなかったし、他の宗教も勧めないのです。
選択と行動は自身に任せるとしか言えないわけです。
しかし、いろんな仏教の本を読んできて、ロウソク、線香、花のお供えは、先祖供養の基本とされているのです。

これらに関しては幸福の科学では講義されることがないのですし、実際これらは使っていないです。
ゆえに、それらを投げ出して当会に入ることで幸福を必ず引き寄せれるのかどうかは、確かなことは言えないわけです。
人間だれしも程度の差はあれ保守的なのです。
ロウソク、線香、花のお供えに行動を移行したことで開運した人は、幸福の科学に批判的になるだろうし、批判しなくても自身にとっては興味の射程外になることは間違いないでしょう。
こういうことが人生上に往々にして存在するわけで、「この宗教で必ず幸福になれる!」などということは言えないことがおわかりでしょうか?
私としては、確定的と思われた宗教にはまることはいいが、それにプラスして、いろんなことを他の科学的なことを書いた本や宗教から学んで取り入れて、自身の哲学を構築せよ、ということが言いたいわけです。
ゆえに、幸福の科学を勧める、という立場にはなれないわけです。
しかし、当会は、私のモラルと大幅にフィットするがゆえに、哲学の一部として取り入れているわけです。
ゆえに勧めればいいじゃんと思われる向きもあるでしょうが、それだけでなく、他のことも主体的に学んで取り入れるのがいいでしょう、ということが言いたいわけです。
だから、特定の宗教に入るだけでは幸せにはなれないですよ、ということを言いたいのです。
それが基本モラルになっているのです私は!
そんなスタンスをすすめているわけです。
●それに共鳴できる人ならば、以下の本はお勧めしたいです。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!



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