幸福は予定調和ではなく、各自の描く思想にある。(幸福の科学)
幸せとは人によって定義づけが変わってくるでしょう。
しかし、共通するのは、いろんな要素はそれぞれの人によって配合が違ってくるということです。
これだけのお金があればいい。
これだけの友人がいればいい。
こういう職に就きたい。
こういうところで働きたい。
こういうて以後の内容は人によって違ってくるのです。
しかし、人と仲良く、そして友人が多く、ということは、誰でも共通するわけではないのです。
世の中には友人がいてもうれしくないというモラルで生きている人もいるわけです。
そういう人は、宗教に入っている人にとっては信じれないことでしょうが、それは事実なのです。
そう、友人がいないと人生が嫌だ、という人ほど宗教に入るのです。

そして、互いに励ましあい、褒めあって、暖かい人間関係を作ることに専念する。
その際に、大事なのは、人との関係に興味ない人が、自分の職場などにいて、その人が暖かい人になるように働きかける、というような行為はNGですね。
そういう人が、暖かくなるように一生懸命にお祈りをしたりする。
それでその行為は報われることはないから注意が必要です。

なぜならば、人の心に興味ない人は、生まれてから死ぬまでそういうモラルでいるからです。
そういうことを心理学の本を読んで知りました。
それで、私は吹っ切れて、そういう人がいたらロボットに接するような態度に変えました。
それでも、相手は傷ついている風には見えないので安心しました。
そうすることで、ノーストレスでいられることがわかり、その本の著者に感謝したくなりました。
そういう人間に振り回されている人がいたら、是非ともそういう真似をすることをお勧めします。
しかし、また大事なのは、人の痛みを実際に知ること、体感することでしょう。
いくら相手を慮るといっても、実際に暴力を受けて、その痛みやそれによる惨めさは、実際に受けないことにはわからないのです。
わかったという人がいたら、それは慢心としか言いようがないのです。
これが人間の限界なのです。
いくら科学が発達しようが、これは無理なのです。
また宗教的な手段によっても無理なのです。
いくら経文をあげても、相手が痛みをわかるようになることは不可能なのです。
どれだけ心身ともに痛いか、ということは、やはり経験し、実感していくことで、初めて分かるのです。
ゆえに、その体感を得るためには、野外に出て、いろんな人との交わりやスポーツやエクササイズをしていくことが大事なのです。
決して観念的なことで終わらせるのではなく。

しかるに、空手やボクシングなどの格闘技をこなすことは非常に大事でしょう。
世の中が便利になりすぎて、こういった基本的な感情がわからなくなる可能性は大きいです。
そのような痛みがわかるような人間に育てたいならば、格闘技を習わせる。
あるいは、野外でのスポーツを体験させることが大事なのです。
そして教育を施す父母自身もそういう行為に自分を置かなくてはいけないことは言うまでもありません。
自分がしていないのに、子供にだけ命令していては、子供の心はゆがんだものになることは必至です。
こういったことを教えている宗教はまずないでしょう。
ゆえに、そういう人間像を描きたいならば、自分が属している宗教の発行する新聞や冊子だけ読むのではなく、自ら主体的にいろんな他の領域の本を読み、そして大事と思われることに関しては実際に行動に移していくことです。
こういう立場なので、私は予定調和説というものを否定するのです。
予定調和説とは、自分が神に対して必死に祈った。
その結果、今の状態がある。
ゆえにこれは神様がお計らいになった状態だから、これで満足するべきなんだという思想ですね。

しかし、これは科学の発達していなかった時代の思想の産物であって、それを現代においても信じろ、などというのは受け入れられない話しです。
例えば、一生懸命に神に対して祈った。
その結果、自分の国で戦争が起きた。
これは神様がお計らいになったことゆえに、神に感謝しなければならない、などと思わなくてはいけないのでしょうか?
そんなことないですよね?(笑)
こういう思考パターンに日蓮正宗の信徒団体だった顕正会は陥っているように思えます。
その長は浅井昭衛氏(下写真)でした。

この団体は、鎌倉時代を生きた日蓮を開祖と崇める団体で、その日蓮が生前に「末法になると社会は天変地異に襲われる」と書いていた言葉を否定もせずに受け入れているのです。
しかし、その遺言通りに、大地震が発生した。
そうしたら、この団体の信者は「日蓮大聖人の仰せの通りだ」といって喜ぶパターンもあるのです。
「大地震が起きて死者が出ているのに喜んでいるの?」と顕正会の人を訝し気に思ってしまいました。
こういうのではなく世の中を俯瞰して、正しいと思われる状態を措定し、その状態を目指すにはどうすればいいか?
そして自分は何をすべきなのかを考え行動する。
こういうスタンスが大事なのです。

心身の関係も予定調和で片づけては科学の意味がないのです。
そうではなく、宗教に入っているひとにとって大事なのはメタ認知でしょう。
メタ認知とは、人によっていろんな定義がありますが、ここでは、「今自分がいるところから離れて、大きくそれを俯瞰して、重要なことを認知していくこと」という風に定義づけしたいです。
その宗教で書かれていることだけを重要視して、それだけで満足していては、幸せはやってこないでしょう。
そうではなく、宗教以外にもいろんなことを主体的に学んでいくという気概をもって行動していく人こそ、幸福はやってくると思います。
●そういう気概を持った人にこそ、以下の本は読んでほしいし、お勧めしたいです。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯幸福の科学
♯予定調和説
しかし、共通するのは、いろんな要素はそれぞれの人によって配合が違ってくるということです。
これだけのお金があればいい。
これだけの友人がいればいい。
こういう職に就きたい。
こういうところで働きたい。
こういうて以後の内容は人によって違ってくるのです。
しかし、人と仲良く、そして友人が多く、ということは、誰でも共通するわけではないのです。
世の中には友人がいてもうれしくないというモラルで生きている人もいるわけです。
そういう人は、宗教に入っている人にとっては信じれないことでしょうが、それは事実なのです。
そう、友人がいないと人生が嫌だ、という人ほど宗教に入るのです。
そして、互いに励ましあい、褒めあって、暖かい人間関係を作ることに専念する。
その際に、大事なのは、人との関係に興味ない人が、自分の職場などにいて、その人が暖かい人になるように働きかける、というような行為はNGですね。
そういう人が、暖かくなるように一生懸命にお祈りをしたりする。
それでその行為は報われることはないから注意が必要です。
なぜならば、人の心に興味ない人は、生まれてから死ぬまでそういうモラルでいるからです。
そういうことを心理学の本を読んで知りました。
それで、私は吹っ切れて、そういう人がいたらロボットに接するような態度に変えました。
それでも、相手は傷ついている風には見えないので安心しました。
そうすることで、ノーストレスでいられることがわかり、その本の著者に感謝したくなりました。
そういう人間に振り回されている人がいたら、是非ともそういう真似をすることをお勧めします。
しかし、また大事なのは、人の痛みを実際に知ること、体感することでしょう。
いくら相手を慮るといっても、実際に暴力を受けて、その痛みやそれによる惨めさは、実際に受けないことにはわからないのです。
わかったという人がいたら、それは慢心としか言いようがないのです。
これが人間の限界なのです。
いくら科学が発達しようが、これは無理なのです。
また宗教的な手段によっても無理なのです。
いくら経文をあげても、相手が痛みをわかるようになることは不可能なのです。
どれだけ心身ともに痛いか、ということは、やはり経験し、実感していくことで、初めて分かるのです。
ゆえに、その体感を得るためには、野外に出て、いろんな人との交わりやスポーツやエクササイズをしていくことが大事なのです。
決して観念的なことで終わらせるのではなく。

しかるに、空手やボクシングなどの格闘技をこなすことは非常に大事でしょう。
世の中が便利になりすぎて、こういった基本的な感情がわからなくなる可能性は大きいです。
そのような痛みがわかるような人間に育てたいならば、格闘技を習わせる。
あるいは、野外でのスポーツを体験させることが大事なのです。
そして教育を施す父母自身もそういう行為に自分を置かなくてはいけないことは言うまでもありません。
自分がしていないのに、子供にだけ命令していては、子供の心はゆがんだものになることは必至です。
こういったことを教えている宗教はまずないでしょう。
ゆえに、そういう人間像を描きたいならば、自分が属している宗教の発行する新聞や冊子だけ読むのではなく、自ら主体的にいろんな他の領域の本を読み、そして大事と思われることに関しては実際に行動に移していくことです。
こういう立場なので、私は予定調和説というものを否定するのです。
予定調和説とは、自分が神に対して必死に祈った。
その結果、今の状態がある。
ゆえにこれは神様がお計らいになった状態だから、これで満足するべきなんだという思想ですね。
しかし、これは科学の発達していなかった時代の思想の産物であって、それを現代においても信じろ、などというのは受け入れられない話しです。
例えば、一生懸命に神に対して祈った。
その結果、自分の国で戦争が起きた。
これは神様がお計らいになったことゆえに、神に感謝しなければならない、などと思わなくてはいけないのでしょうか?
そんなことないですよね?(笑)
こういう思考パターンに日蓮正宗の信徒団体だった顕正会は陥っているように思えます。
その長は浅井昭衛氏(下写真)でした。

この団体は、鎌倉時代を生きた日蓮を開祖と崇める団体で、その日蓮が生前に「末法になると社会は天変地異に襲われる」と書いていた言葉を否定もせずに受け入れているのです。
しかし、その遺言通りに、大地震が発生した。
そうしたら、この団体の信者は「日蓮大聖人の仰せの通りだ」といって喜ぶパターンもあるのです。
「大地震が起きて死者が出ているのに喜んでいるの?」と顕正会の人を訝し気に思ってしまいました。
こういうのではなく世の中を俯瞰して、正しいと思われる状態を措定し、その状態を目指すにはどうすればいいか?
そして自分は何をすべきなのかを考え行動する。
こういうスタンスが大事なのです。

心身の関係も予定調和で片づけては科学の意味がないのです。
そうではなく、宗教に入っているひとにとって大事なのはメタ認知でしょう。
メタ認知とは、人によっていろんな定義がありますが、ここでは、「今自分がいるところから離れて、大きくそれを俯瞰して、重要なことを認知していくこと」という風に定義づけしたいです。
その宗教で書かれていることだけを重要視して、それだけで満足していては、幸せはやってこないでしょう。
そうではなく、宗教以外にもいろんなことを主体的に学んでいくという気概をもって行動していく人こそ、幸福はやってくると思います。
●そういう気概を持った人にこそ、以下の本は読んでほしいし、お勧めしたいです。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!



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