人間社会においては変化は必然!その時にどんな対応をするかが大事?(幸福の科学)
幸福の科学の総裁であった故.大川隆法氏が学生であった70年代は、学界では、1つの専門に閉じこもり、その他の専門には通じていない専門家がもてはやされた時代でした。
しかし、それでは、社会全体を俯瞰してことを論じることができないし、何よりもそういう専門家の書く論文には説得力がない、とうことで、専門をまたいでいろんなことが論じれる人の方が学界人としては妥当という認識になったのでした。
私もその方を支持します。
それは、何も学界だけでなく宗教界においても同様でしょう。

仏教の中でも、いろんな分派が分かれて、その派の中の長の価値観だけが全面に出て、本来の仏教のことを創始期からさかのぼって広く俯瞰して論じていくことができないでいるということになっていたのでしたし、それはいまだに継続しているといってもいいでしょう。
それは致し方ない面も含んでいます。
それぞれの仏教がいろんな宗派に分かれて勃興した鎌倉時代とは違って、今は紙が無限に手に入れることができる時代です。
そんな時代だからこそ、いろんな人がいろんな事を書いて、冊子にしたり本にしたりできる時代ゆえに、その宗派の中に関する情報を処理することだけに精一杯で、他の宗派について勉強することなどできないのですから。
ましてや、仏教の全体的な歴史など俯瞰してはいられないのですから。
しかし、それでいいかといえばそんなことはなくて、社会全体を俯瞰して、ことを論じ、人心や社会の救済をしていかなくてはいけないのが宗教の本質なのですから、自派の勉強だけでいいというのでは、妥当性がないでしょう。
例えば薬師如来という拝む対象が仏教にはありますが、これは名の通り、この仏像を拝むことによって、病気を治すことを祈願して祈たのでしょう。

そして、それを祈ったことで本当に治癒した、という人が続出したのであろうことが想像できます。
そのことによって、それを祀った寺院は、「この仏像に祈ることで病気が治癒しますよ。」という喧伝を盛んにするようになった。
それはそれでいいでしょう。
しかし、ことをそれだけで済ませるのではなく、人心の啓蒙、神仏に対する敬虔は心の養成、社会変革の方途の講義…こういったことについても幅広くしていかないことには、仏教として存立の意味がないでしょう。
その宗教のセールスポイントを切り取って、その1つの側面だけに焦点を当てて宣伝し喧伝する。
そのことで、本来の仏教の意義が見えなくなり、その信者に不信感を与えて、脱退者やたまにしか顔を出さない信者が出てくることにつながるのでしょう。
そういうマイナス面を見なくてはならないでしょう。
そういって疎遠になった信者も、そうなってしまった歴史的な背景を認識したうえで、自分から仏教全体を俯瞰して勉強していかなくてはならないでしょう。
そうすることで全体性がわかり、ひいては幸福、社会全体をよくしていくという意味での幸福につながるわけですから。
そういう事態が起きるのは人類の歴史を俯瞰して必然という認識を得れば別段、憤る必要もないでしょう。
自分から主体的に全体像を勉強すればいいのですから。
そういう自派だけに特化した宗派が存立してしまった後に、その反動から多面性を有した宗教が出てくるのも、また必然なのでしょか?
それが幸福の科学であり、生長の家なのでしょう。

そういう宗教が出てくるのはいいとは思います。
現代社会においては、誰もが仕事に忙しくて、そういうものを主体的に学ぶには限界がありますから。
しかし、それで終始万全かというとそうではないでしょう。
やはり、その宗教はいつでも変化しているわけで、それが傍らから見て万全のままでいる、ということはあり得ないわけです。
考えれるのは、そういった多面性を有した宗教にも反動が起こるのは必然ということでしょう。
学界を例にすれば、いろんな分野に精通していながらも、確固たる専門がなくあやふやな学者が出てきてしまうといった事態になってしまうのです。
やはり正当なのは、日々努力して専門性を確立しながらも多面性をも確立していくのが妥当ということではないでしょうか?
それが人さまから評価されるには、やはり外部からの意見を真摯に受けれる度量がないことには務まらないでしょう。
そんなことを考えてしまいました。
●そんなスタンスに共鳴できる方には以下の本(電子書籍)はお勧めです。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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しかし、それでは、社会全体を俯瞰してことを論じることができないし、何よりもそういう専門家の書く論文には説得力がない、とうことで、専門をまたいでいろんなことが論じれる人の方が学界人としては妥当という認識になったのでした。
私もその方を支持します。
それは、何も学界だけでなく宗教界においても同様でしょう。
仏教の中でも、いろんな分派が分かれて、その派の中の長の価値観だけが全面に出て、本来の仏教のことを創始期からさかのぼって広く俯瞰して論じていくことができないでいるということになっていたのでしたし、それはいまだに継続しているといってもいいでしょう。
それは致し方ない面も含んでいます。
それぞれの仏教がいろんな宗派に分かれて勃興した鎌倉時代とは違って、今は紙が無限に手に入れることができる時代です。
そんな時代だからこそ、いろんな人がいろんな事を書いて、冊子にしたり本にしたりできる時代ゆえに、その宗派の中に関する情報を処理することだけに精一杯で、他の宗派について勉強することなどできないのですから。
ましてや、仏教の全体的な歴史など俯瞰してはいられないのですから。
しかし、それでいいかといえばそんなことはなくて、社会全体を俯瞰して、ことを論じ、人心や社会の救済をしていかなくてはいけないのが宗教の本質なのですから、自派の勉強だけでいいというのでは、妥当性がないでしょう。
例えば薬師如来という拝む対象が仏教にはありますが、これは名の通り、この仏像を拝むことによって、病気を治すことを祈願して祈たのでしょう。

そして、それを祈ったことで本当に治癒した、という人が続出したのであろうことが想像できます。
そのことによって、それを祀った寺院は、「この仏像に祈ることで病気が治癒しますよ。」という喧伝を盛んにするようになった。
それはそれでいいでしょう。
しかし、ことをそれだけで済ませるのではなく、人心の啓蒙、神仏に対する敬虔は心の養成、社会変革の方途の講義…こういったことについても幅広くしていかないことには、仏教として存立の意味がないでしょう。
その宗教のセールスポイントを切り取って、その1つの側面だけに焦点を当てて宣伝し喧伝する。
そのことで、本来の仏教の意義が見えなくなり、その信者に不信感を与えて、脱退者やたまにしか顔を出さない信者が出てくることにつながるのでしょう。
そういうマイナス面を見なくてはならないでしょう。
そういって疎遠になった信者も、そうなってしまった歴史的な背景を認識したうえで、自分から仏教全体を俯瞰して勉強していかなくてはならないでしょう。
そうすることで全体性がわかり、ひいては幸福、社会全体をよくしていくという意味での幸福につながるわけですから。
そういう事態が起きるのは人類の歴史を俯瞰して必然という認識を得れば別段、憤る必要もないでしょう。
自分から主体的に全体像を勉強すればいいのですから。
そういう自派だけに特化した宗派が存立してしまった後に、その反動から多面性を有した宗教が出てくるのも、また必然なのでしょか?
それが幸福の科学であり、生長の家なのでしょう。
そういう宗教が出てくるのはいいとは思います。
現代社会においては、誰もが仕事に忙しくて、そういうものを主体的に学ぶには限界がありますから。
しかし、それで終始万全かというとそうではないでしょう。
やはり、その宗教はいつでも変化しているわけで、それが傍らから見て万全のままでいる、ということはあり得ないわけです。
考えれるのは、そういった多面性を有した宗教にも反動が起こるのは必然ということでしょう。
学界を例にすれば、いろんな分野に精通していながらも、確固たる専門がなくあやふやな学者が出てきてしまうといった事態になってしまうのです。
やはり正当なのは、日々努力して専門性を確立しながらも多面性をも確立していくのが妥当ということではないでしょうか?
それが人さまから評価されるには、やはり外部からの意見を真摯に受けれる度量がないことには務まらないでしょう。
そんなことを考えてしまいました。
●そんなスタンスに共鳴できる方には以下の本(電子書籍)はお勧めです。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!



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