丸山真男は評価すべきかしないべきか? (加藤秀俊)
こんにちは。
本を読むことは、大学生にとってはかなり多くしてほしいことではあります。
これによって本人の精神を覚醒して、社会をひいて自身の健やかさを目指すことに繋がるのですから。
その際に、どのような本を読むのがいいのでしょうか?
論文の本の場合ですこの回では。
小説や文学等は除きます。
その論文の本において、他の本からの引用ばかりの本は私は読みたくないですね。
そういう本を読んでいては、集中力が萎えてきますし、そういう本を読んでいると精神が疲れてきますからね(笑)
また難しい表現ばかりの本もNGですね。
そういう本も読むのに気が萎えてきて、不快な気分になってしまいますから。
先にも書いたように、読書は読んだ人の精神を覚醒して、社会をひいて自身の健やかさを目指すことにあるのですから、そういう類いの本は読むに値しないのです。
そこで思い起こされるのは、日本の思想や政治の分野で神のように崇められている丸山真男(下写真.故人)ですね。

この人は私が大学在学中に、いろんな教授が取り上げて崇めていたものです。
政治学史の教授は「政治学の神様」と言っていたし、政治学原論の助教授は丸山の本を読んだ時のことを引き合いに出して「頭がいいっていうのはこういうことかなって思いました。大学時代から丸山の本を何度読んだかわからない。もうボロボロだもの」といっていました。
そんなにすごいのかな、と思い私もこの人の本を買って読みました。
しかし、それほどの感銘を受けたかといえばそんなことはなく、一知識人として脳内に残るくらいでした。
未読の丸山氏の本が本屋に並んでいたら、すぐさま手に取って買いに行こう、という気になったことはなかったです。
そういう気にさせてくれる著作家こそが、その人にとっての必読の著作家にすべきであることは間違いないです。
そういう著作家の本こそいつまでも読み続けて、提携していけばいいのです。
しかし、丸山真男の本の印象はとにかく、読む気にさせないですし、脳内に残らないのです。
非常に難解な表現をしていて、我慢して読み進めるも、最終ページに来て読了しても、何が書いてあったかがわかないのです。
これは丸山が頭角を現した戦後当時の日本の学界の事情にも起因していることは間違いないです。
社会科学の後進国という負い目から、明治時代においてドイツ語やフランス語の文献を日本人は多くの翻訳していたが、そこでは日本語に訳しきれない未開の単語を、訳しきれずに面白く、難しく書いていたのだろうことは間違いないです。
日本は、第二次世界大戦の敗戦国ゆえに、後ろめたさを感じ、そういった先進国からの学問から得た難解語を交えて表現するのが科学の本質、あるいはと当時のステータスという誤った知的土台があったのではないか、と思われてならないのです。

しかし、読み手が意味不明で晦渋な気分になって読む気がうせるのであれば、そこは読みやすく理解しやすいように表現するのが知識人の役目ではなかったか、と思われてならないのです。
今でも大著として有名なのが丸山の『日本政治思想史研究』ですが、ここにおいても、また『現代政治の思想と行動』という本においても、難解な表現が多様されていて、それのみならず江戸時代の文献の長々と引用がなされて、読みにくいことこの上なく、読み終わった後の感想は、何も残らなかった、と言いうのが私の本心です。
印象が何も残らなかったがゆえに、惜しげもなく古本屋に売ったのです。
そのことで後悔は全くなかったです。
日本の宗教や思想研究の著者である加地信行は、丸山の本を「難解で読みづらい」と評していたし、総合的に社会科学を修めた佐伯啓思は丸山を「興味がない」としていたし、各国の思想研究で有名な加藤尚武は丸山の思想を「大学院生並みの認識論」と評していたのです。
こういった人たちの評を読んで自分の意見を決めているのではないのです。
自分で丸山の本を読んで下した評価が以上に書いた通りなのですね。
ただ、こういった人たちの評が、自分の意見を力づけたことは間違いないです。
ただ読者の立場に立ってどんな表現にすべきかを考える場合、やはり読みやすく、ということに逢着するでしょう。
それは、故人である加藤秀俊(下写真)の書いた『自己表現』という本の最終ページに書いてあったことが、今でも印象に残っているのです。

そこでは、読みやすく書くべき、ということが書かれていました。
その意見に与し続けているからこそ、私はそのモラルを踏襲しているのです。
ただ難解な表現にはメリットもあることは間違いないです。
それに出くわすことで、「これはどんな意味なのか?」「どう考えればいいのか?」といった具合に、読者に思考を喚び起す働きがあることは間違いないです。
それによって精神生活が豊かになること間違いないです。
読書は単に知識を得るのみならず思考を促さなくて意味がないのですから。
しかし、それはあくまでも本全体の中で、ちょっとで済ますべきであって、本の最初から最後まで全体が難解な表現だらけでは、意味がないでしょう。

ゆえに難解な表現は、程度の問題であって、過ぎるはNGにしなくてはならないでしょう。
それは間違いないです。
ゆえに私は丸山を評価しないです。
そういう評は自分で、その人の本を読んで下すべきであって、学界の評で決めるべきではないのです。
そういうスタンスもまた自分の精神生活を豊かにするものである、ということを忘れないでほしいものです。
丸山を高く評したい人は全然するべきでしょうし、とがめだてはしないものです。
●そんな意見に与することが出来る人には以下の加藤秀俊の偉業について著した電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
本を読むことは、大学生にとってはかなり多くしてほしいことではあります。
これによって本人の精神を覚醒して、社会をひいて自身の健やかさを目指すことに繋がるのですから。
その際に、どのような本を読むのがいいのでしょうか?
論文の本の場合ですこの回では。
小説や文学等は除きます。
その論文の本において、他の本からの引用ばかりの本は私は読みたくないですね。
そういう本を読んでいては、集中力が萎えてきますし、そういう本を読んでいると精神が疲れてきますからね(笑)
また難しい表現ばかりの本もNGですね。
そういう本も読むのに気が萎えてきて、不快な気分になってしまいますから。
先にも書いたように、読書は読んだ人の精神を覚醒して、社会をひいて自身の健やかさを目指すことにあるのですから、そういう類いの本は読むに値しないのです。
そこで思い起こされるのは、日本の思想や政治の分野で神のように崇められている丸山真男(下写真.故人)ですね。
この人は私が大学在学中に、いろんな教授が取り上げて崇めていたものです。
政治学史の教授は「政治学の神様」と言っていたし、政治学原論の助教授は丸山の本を読んだ時のことを引き合いに出して「頭がいいっていうのはこういうことかなって思いました。大学時代から丸山の本を何度読んだかわからない。もうボロボロだもの」といっていました。
そんなにすごいのかな、と思い私もこの人の本を買って読みました。
しかし、それほどの感銘を受けたかといえばそんなことはなく、一知識人として脳内に残るくらいでした。
未読の丸山氏の本が本屋に並んでいたら、すぐさま手に取って買いに行こう、という気になったことはなかったです。
そういう気にさせてくれる著作家こそが、その人にとっての必読の著作家にすべきであることは間違いないです。
そういう著作家の本こそいつまでも読み続けて、提携していけばいいのです。
しかし、丸山真男の本の印象はとにかく、読む気にさせないですし、脳内に残らないのです。
非常に難解な表現をしていて、我慢して読み進めるも、最終ページに来て読了しても、何が書いてあったかがわかないのです。
これは丸山が頭角を現した戦後当時の日本の学界の事情にも起因していることは間違いないです。
社会科学の後進国という負い目から、明治時代においてドイツ語やフランス語の文献を日本人は多くの翻訳していたが、そこでは日本語に訳しきれない未開の単語を、訳しきれずに面白く、難しく書いていたのだろうことは間違いないです。
日本は、第二次世界大戦の敗戦国ゆえに、後ろめたさを感じ、そういった先進国からの学問から得た難解語を交えて表現するのが科学の本質、あるいはと当時のステータスという誤った知的土台があったのではないか、と思われてならないのです。
しかし、読み手が意味不明で晦渋な気分になって読む気がうせるのであれば、そこは読みやすく理解しやすいように表現するのが知識人の役目ではなかったか、と思われてならないのです。
今でも大著として有名なのが丸山の『日本政治思想史研究』ですが、ここにおいても、また『現代政治の思想と行動』という本においても、難解な表現が多様されていて、それのみならず江戸時代の文献の長々と引用がなされて、読みにくいことこの上なく、読み終わった後の感想は、何も残らなかった、と言いうのが私の本心です。
印象が何も残らなかったがゆえに、惜しげもなく古本屋に売ったのです。
そのことで後悔は全くなかったです。
日本の宗教や思想研究の著者である加地信行は、丸山の本を「難解で読みづらい」と評していたし、総合的に社会科学を修めた佐伯啓思は丸山を「興味がない」としていたし、各国の思想研究で有名な加藤尚武は丸山の思想を「大学院生並みの認識論」と評していたのです。
こういった人たちの評を読んで自分の意見を決めているのではないのです。
自分で丸山の本を読んで下した評価が以上に書いた通りなのですね。
ただ、こういった人たちの評が、自分の意見を力づけたことは間違いないです。
ただ読者の立場に立ってどんな表現にすべきかを考える場合、やはり読みやすく、ということに逢着するでしょう。
それは、故人である加藤秀俊(下写真)の書いた『自己表現』という本の最終ページに書いてあったことが、今でも印象に残っているのです。
そこでは、読みやすく書くべき、ということが書かれていました。
その意見に与し続けているからこそ、私はそのモラルを踏襲しているのです。
ただ難解な表現にはメリットもあることは間違いないです。
それに出くわすことで、「これはどんな意味なのか?」「どう考えればいいのか?」といった具合に、読者に思考を喚び起す働きがあることは間違いないです。
それによって精神生活が豊かになること間違いないです。
読書は単に知識を得るのみならず思考を促さなくて意味がないのですから。
しかし、それはあくまでも本全体の中で、ちょっとで済ますべきであって、本の最初から最後まで全体が難解な表現だらけでは、意味がないでしょう。

ゆえに難解な表現は、程度の問題であって、過ぎるはNGにしなくてはならないでしょう。
それは間違いないです。
ゆえに私は丸山を評価しないです。
そういう評は自分で、その人の本を読んで下すべきであって、学界の評で決めるべきではないのです。
そういうスタンスもまた自分の精神生活を豊かにするものである、ということを忘れないでほしいものです。
丸山を高く評したい人は全然するべきでしょうし、とがめだてはしないものです。
●そんな意見に与することが出来る人には以下の加藤秀俊の偉業について著した電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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