祖述だけ、引用ばかりの文章からは忌避せよ? (加藤秀俊)
こんにちは。
今回も、大学教授や著作家に求める人間像について書きたいと思います。
学問は理論を文章で書くことです。
その理論が書かれた本なり冊子なりを読んで、読者が感銘を受けて、その人の人生がいい意味で変わる。
そしてあわよくば、行動に駆り立てられることを目的にしているのです。
それゆえに、単なる理論の祖述だけであったり、他の本からの引用ばかりでは読んでいる人に感銘を与えることはできないのです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、そういう文ばかりを書く学生は多いし、大学教授といわれる人でも、そういうことをして生計を立てているパターンが多い、ということを氏の著作物で書いていました。

私も、そういう指摘に同意します。
私が属した大学には廊下に、学論集なるものが置いてありました。
それは教授たちの書いた論文を集めてペーパーバック状にして発行していたもので、それを学生は自由にもらっていってよかったですが、その内容を見ると、やはりそういう祖述だけ、引用ばかりの文章の方が多かったです。
祖述だけならまだしも、引用ばかりの文章では、読んでいるこちらは集中力が萎えるのです。
しかも、そういう文章を書く人は概して自分の主張なり考えなりを書かないのがほとんど、いや全部といってでしょう。
「この場合は〇〇(著作家の名)の以下の文章を読んでいただきたい。」と前置きして、その〇〇の他の本からの文を引用で逢着させるのです。
それでその教授の考えはなし…これでは味気ないことこの上ないのです。
そういう文章を書く人の本なり編著本は、本屋で見かけても買いたい気が起きないですね。
引用をするなといっているのではないのです。
所によっては、引用を書かなくてはならない場面もあることは確かです。
しかし、章の最初から最後までほとんど引用ばかりでは、学ぶところがないと自然にその人に烙印を押してしまうのが必然です。

私も文章を書いたり、書籍を書いたりしますが、その際に引用をする段になって、その時に思ったのは「この人の文章を引用すれば学術的な感じを読者に与えるだろう!」と、一瞬思うのですが、そういう引用ばかりの本を読んだ感想から「ちょっと待って。引用が多いと、読者は読みにくいし、集中力が萎える」と思い直して、引用ではなく、そこからかみ砕いて、自分の言葉に変えて、自分の色を添えて、なるべく引用しないでおこうと思いなおして文章にします。
そしてできた文章を読むと、全然読みやすいようになっていました。
引用ばかりの文章を書く人は、やはり読者の立ち場になっていないのです。
一度でいいから、そういう文章を読んで、自分の文章の矯正をしていくほうが賢明です。
読者に気遣いをしたらどうですかと言いたくなるのです。
引用ばかりでは読みにくいし、集中力が萎えてくるのに加えて、自分が意見をするなり、自分の立場を明確にすることにためらいをその著者は感じているのか、学をひらかしているのだろうか?
これだけのものを読んだんだぞ、ということを言いたいのだろうか?
あるいは自分に自信がないから、他の引用でごまかしているのだろうか?
といろいろ検索してしまうのですね。
いずれにせよ、引用ばかり、そして祖述だけの文章では読者な萎えてしまうし、読むのに一苦労です、ということを言いたいのです。
こういう文章を書く人からはほとんど、あるいは全然学ぶものがないですから注意が必要です。

私は、祖述だけ、あるいは引用ばかりの文章は読みたくなくなる。
これは、他人のふり見てわがふり直せ、ということわざ通りです。
私も完璧ではないですから、私の悪いところを見ながら、自分のモラルや人生を矯正してきた人もいるでしょう。
それを思ったら…いや実に恥ずかしい限りです(笑)
祖述だけ、引用ばかり…そんなスタンスとは逆に、加藤秀俊氏の本は、それとは一線を画し、壮大な気宇を有していました。
喫茶店に籠って、2時間3時間読んでしまう魅力に溢れていました。
●そんな加藤秀俊氏に興味わいた人に読んでほしい電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
今回も、大学教授や著作家に求める人間像について書きたいと思います。
学問は理論を文章で書くことです。
その理論が書かれた本なり冊子なりを読んで、読者が感銘を受けて、その人の人生がいい意味で変わる。
そしてあわよくば、行動に駆り立てられることを目的にしているのです。
それゆえに、単なる理論の祖述だけであったり、他の本からの引用ばかりでは読んでいる人に感銘を与えることはできないのです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、そういう文ばかりを書く学生は多いし、大学教授といわれる人でも、そういうことをして生計を立てているパターンが多い、ということを氏の著作物で書いていました。
私も、そういう指摘に同意します。
私が属した大学には廊下に、学論集なるものが置いてありました。
それは教授たちの書いた論文を集めてペーパーバック状にして発行していたもので、それを学生は自由にもらっていってよかったですが、その内容を見ると、やはりそういう祖述だけ、引用ばかりの文章の方が多かったです。
祖述だけならまだしも、引用ばかりの文章では、読んでいるこちらは集中力が萎えるのです。
しかも、そういう文章を書く人は概して自分の主張なり考えなりを書かないのがほとんど、いや全部といってでしょう。
「この場合は〇〇(著作家の名)の以下の文章を読んでいただきたい。」と前置きして、その〇〇の他の本からの文を引用で逢着させるのです。
それでその教授の考えはなし…これでは味気ないことこの上ないのです。
そういう文章を書く人の本なり編著本は、本屋で見かけても買いたい気が起きないですね。
引用をするなといっているのではないのです。
所によっては、引用を書かなくてはならない場面もあることは確かです。
しかし、章の最初から最後までほとんど引用ばかりでは、学ぶところがないと自然にその人に烙印を押してしまうのが必然です。
私も文章を書いたり、書籍を書いたりしますが、その際に引用をする段になって、その時に思ったのは「この人の文章を引用すれば学術的な感じを読者に与えるだろう!」と、一瞬思うのですが、そういう引用ばかりの本を読んだ感想から「ちょっと待って。引用が多いと、読者は読みにくいし、集中力が萎える」と思い直して、引用ではなく、そこからかみ砕いて、自分の言葉に変えて、自分の色を添えて、なるべく引用しないでおこうと思いなおして文章にします。
そしてできた文章を読むと、全然読みやすいようになっていました。
引用ばかりの文章を書く人は、やはり読者の立ち場になっていないのです。
一度でいいから、そういう文章を読んで、自分の文章の矯正をしていくほうが賢明です。
読者に気遣いをしたらどうですかと言いたくなるのです。
引用ばかりでは読みにくいし、集中力が萎えてくるのに加えて、自分が意見をするなり、自分の立場を明確にすることにためらいをその著者は感じているのか、学をひらかしているのだろうか?
これだけのものを読んだんだぞ、ということを言いたいのだろうか?
あるいは自分に自信がないから、他の引用でごまかしているのだろうか?
といろいろ検索してしまうのですね。
いずれにせよ、引用ばかり、そして祖述だけの文章では読者な萎えてしまうし、読むのに一苦労です、ということを言いたいのです。
こういう文章を書く人からはほとんど、あるいは全然学ぶものがないですから注意が必要です。
私は、祖述だけ、あるいは引用ばかりの文章は読みたくなくなる。
これは、他人のふり見てわがふり直せ、ということわざ通りです。
私も完璧ではないですから、私の悪いところを見ながら、自分のモラルや人生を矯正してきた人もいるでしょう。
それを思ったら…いや実に恥ずかしい限りです(笑)
祖述だけ、引用ばかり…そんなスタンスとは逆に、加藤秀俊氏の本は、それとは一線を画し、壮大な気宇を有していました。
喫茶店に籠って、2時間3時間読んでしまう魅力に溢れていました。
●そんな加藤秀俊氏に興味わいた人に読んでほしい電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
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