教授や著作家に求める著作の内容の2つの条件とは? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学教授や、著作家に求める書物の質というものはどういうものかを考えました。
私が、第一に求めてしまうのは、幅広く物事を学ぶ姿勢をもっているかどうかですね。
大学では、経済学部とか経営学部とか文学部とか法学部とか、学部がわかれています。
これは、現代の情報が無数にある科学を、学びやすくするために、専門を狭めているからこそ、こういう区分けをしているだけであって、経済学部なら経済学だけを、法学部なら法学だけを修めていればそれでいいというものではありません。
専門を持ちながらも他の科学について、いろいろ修めていて、いることで説得力のある文が書けるのであって、専門だけに閉じこもっているだけの専門家の文章には魅力を感じません。
そういう専門家を批判する論争が1960年代や70年代になされたようで、その反省からそういう専門に閉じこもることから遠ざかろうという動きが日本の学界では起きたようですが、やはり、そういう論争が終わってもそういう専門家は出てきてしまうのが世の常のようです。

「これは私の専門内容ではないから」という理由で、他の分野について語ろうとしない。
論じようとしない。
そういう人に対して信頼がおけますでしょうか?
こういう対応をされて、また質問しに行こうと思うでしょうか?
思わないですよね?
ことのつまり、専門に閉じこもって、ことを論じようとしない人は、知的対象が狭い、ということのみならず、知的なことに興味がないということが言えるでしょう。
先に書いたように、専門の事だけで論じようとする人は説得的な文章を書くことができない。
こういう人は学界での評価も低いです。
知的な関心がない、興味がなく楽しんでいない、ということでも人としての魅力が乏しい、ということにも繋がります。
そういう人は、学界で成功することにはつながらないのです。
やはり「好きこそものの上手なれ」ということわざ通り、楽しくて楽しくてしょうがない、というモラルでいないことには、どの分野でも成功することはないでしょう。

そして、「大学教授や、著作家に求める書物の質」のもう1つとして、文章を他の書物から引用ばかりしない、ということを挙げたい共います。
他の書物からの引用はどの著者もすることです。
いな、他の書物をむさぼるように読んで、その内容を脳内で発酵させて、理論を構築して文章を書く、ということに繋がるわけです。
ですから引用と、このような発酵は紙一重といっていいくらい繋がっています。
しかし、そっくりそのままの引用ばかりでは、読んでいる方は、読みにくいことこの上ないのです。
集中力が読んでいて萎えてくるのです。
読者は、その人の構築した理論を読みたいのではないでしょうか?
少なくとも私はそうです。
引用を極力少なくして、自身の理論がほとんどである人の文章こそ読みたくなるのです。
その理論がオリジナリティあふれるものであるならばいいのですが、そんな卓越したオリジナリティあふれる著作家などそれほどいないわけで、そんな高いものを求めることなど私はしないのです。
そんな卓越したオリジナリティはそれほどなくても、きちんと自分自身で構築した理論を持っている人の本であるならば、他に出した本があったら、それを買って読みたいと思い、その著作家の本をワードの「読みたい著作家リスト」に書いておいて次の著作を買うつもりでいます。

しかし、引用ばかりの文章を書く人は自分の理論に自信を感じていないのでしょう。
私が先に書いたように卓越したオリジナリティなど万人に求めることなどしないです。
他の人と同じような理論であっても、きちんと自身で構築したものであるならば、それでいいとしているのです。
しかし、引用ばかりで収着させてしまう人は、自信がないからそういうことになってしまうのでしょうか。
それで引用ばかりになってしまうのでは本末転倒です。
読んでいて、こちらは集中力が萎えてしまうのですし、そういう人は忌避されてしまいます。
そうなると更に自信がなくなって、ひいては論文を書くという教授や著作家としての基本的な行為がおろそかになってしまいますから、かなり注意が必要です。
自分の理論に自信がないからこそ、他の有名な著作家の本を引用して、見栄を張るというのではこれまた本末転倒です。
もっと知的に頭を使って、自身の理論構築をしていくべきだ、と思います。
そして、その知的作業に愉しみを感じていない、ということが言えるでしょう。
最初の幅広くことを修めていない人の内情の1つである「幅広く物事を学ぶ姿勢をもっていない」ということとも通じるものがあります。

そういう人は、まず引用する事ばかりを辞めて、自身の脳内で構築した理論を出すことに務める。
それが面白いと思えるようになったのであれば、そういう著作活動を続けていくことをお勧めしたいです。
それでも、面白くないのであれば、その職業は辞めるべきではないでしょうか?
つまらなそうな顔でそういう活動をしている姿は、はたから見ていてつらいことこの上ないですし、人に悪影響を与えるものです。
逆に面白い、それゆえに楽しくて仕方ないという姿で活動している人ならば、他の人たちの見本になるものです。
誰でも得手不得手はあるのです。
こと著作も得手不得手はあるのです。
幅広く学び、引用はせずに自身での理論構築に生きがいを持てる人であるならば、そういう職業に向いているでしょう。

しかし、そういう人にも欠点があるのです。
それは、自身の家などで1人で著作活動をしている時に、集中力が萎えてしまい、他の事に意識が行って著作に手がつかなくなる、ということです。
あれこれと、知的な関心が分散してしまうので、著作をしている時に、他の本から参考に調べ物をしようとすると、調べている時にほかにいろんな関心が出てきてしまって、他の事柄について調べたり読んだりしているうちに肝心の著作がおろそかになってしまう、ということです。
こういう意識が分散してしまう人はリーキーアテンションということです。
メンタリストのDAIGOという人の動画を観て、その人が言うに、起業家に向いている人は、こういう関心の分散が起きてしまう。
こういう人こそが、起業家に向いているということです。
起業家は自分1人で情報を摂取していかなくてはならない性質のものです。
そのためには、いろんな領域に関心が自然と向いていかなくてはならないでしょう。
人に強制されるまでもなく。
そうならないためにも生まれつき集中力がありながら、意識が分散してしまっている人こそが起業家として向いているというわけです。
そのDAIGOさんの言うことには説得力がありました。
そのDAIGOさんはたぐいまれなる読書家で、いろんな研究結果の本を読んで起業やメンタルヘルスに関心のある人に情報を動画で発信しているのです。

受け売りといえばそうですが、非常に観ていて関心のそそられる思いがするものです。
その意識が分散してしてしまう、というのは著作家でも必須の事でしょう。
自分の専門にだけ閉じこもっていては話しにならないのですから。
人に言われるまでもなく、他の領域に関心を向けてしまい、それに就いて自ら調べ、その内容についての本すらも出してしまう。
こういう人は、意識が分散してしまうので1人住まいの人は、集中力が萎えてきて自分のしたい他の事にいつしか没頭して肝心の仕事ができなくなってしまうようです。
だから、そういう人は公民の図書館や、喫茶店、ファミレスなどで仕事をした方がいいということです。
こう書くと結局、いろんなことに意識が行って書きものなんかできないじゃないか、と反論されそうですがそうではないのです。
喫茶店などで〇〇について調べる、と紙に書いておいて、帰宅したらその〇〇についてだけ調べると決心するのです。
そして、そのことについては断行するのです。
そして、家に1人だけでいると集中力が萎えるので、人に自分含めて複数人いる場合ならば、集中できるのですから、そういう人は複数人でこそ集中して仕事が出きるということです。

受験生時代は、誰もが図書館などで勉強してましたが、それは単に集中力が低い人の最高のやり方なのです。
逆に、人が何人もいる家でこそ集中できる人こそがリーキーアテンションの高い人なのです。
だから一律に、こういうやり方がいい、という狭い了見で物事を断定するのではなく、その人に合った方法で物事をすることが大事なのです。
リーキーアテンションは一見、欠点にみられがちですが、そうではなく、大きな特長なのであるということを意識すべきでしょう。
自文化中心主義と、多文化中心主義の違いといいますか、大学では後者の方がいいとされるのは当然ですが、本を読むことや講義を受け続けることでじわりじわりとそれが可能となっていくのです。
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著作家として、いろんなものを修める気概がかなりあり、社会学者という肩書ながらいろんな分野に食指を伸ばし、逝去されるまで100冊以上の本を上梓した加藤秀俊を大幅に取り上げたのですから。
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以下よりどうぞ!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
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大学教授や、著作家に求める書物の質というものはどういうものかを考えました。
私が、第一に求めてしまうのは、幅広く物事を学ぶ姿勢をもっているかどうかですね。
大学では、経済学部とか経営学部とか文学部とか法学部とか、学部がわかれています。
これは、現代の情報が無数にある科学を、学びやすくするために、専門を狭めているからこそ、こういう区分けをしているだけであって、経済学部なら経済学だけを、法学部なら法学だけを修めていればそれでいいというものではありません。
専門を持ちながらも他の科学について、いろいろ修めていて、いることで説得力のある文が書けるのであって、専門だけに閉じこもっているだけの専門家の文章には魅力を感じません。
そういう専門家を批判する論争が1960年代や70年代になされたようで、その反省からそういう専門に閉じこもることから遠ざかろうという動きが日本の学界では起きたようですが、やはり、そういう論争が終わってもそういう専門家は出てきてしまうのが世の常のようです。
「これは私の専門内容ではないから」という理由で、他の分野について語ろうとしない。
論じようとしない。
そういう人に対して信頼がおけますでしょうか?
こういう対応をされて、また質問しに行こうと思うでしょうか?
思わないですよね?
ことのつまり、専門に閉じこもって、ことを論じようとしない人は、知的対象が狭い、ということのみならず、知的なことに興味がないということが言えるでしょう。
先に書いたように、専門の事だけで論じようとする人は説得的な文章を書くことができない。
こういう人は学界での評価も低いです。
知的な関心がない、興味がなく楽しんでいない、ということでも人としての魅力が乏しい、ということにも繋がります。
そういう人は、学界で成功することにはつながらないのです。
やはり「好きこそものの上手なれ」ということわざ通り、楽しくて楽しくてしょうがない、というモラルでいないことには、どの分野でも成功することはないでしょう。
そして、「大学教授や、著作家に求める書物の質」のもう1つとして、文章を他の書物から引用ばかりしない、ということを挙げたい共います。
他の書物からの引用はどの著者もすることです。
いな、他の書物をむさぼるように読んで、その内容を脳内で発酵させて、理論を構築して文章を書く、ということに繋がるわけです。
ですから引用と、このような発酵は紙一重といっていいくらい繋がっています。
しかし、そっくりそのままの引用ばかりでは、読んでいる方は、読みにくいことこの上ないのです。
集中力が読んでいて萎えてくるのです。
読者は、その人の構築した理論を読みたいのではないでしょうか?
少なくとも私はそうです。
引用を極力少なくして、自身の理論がほとんどである人の文章こそ読みたくなるのです。
その理論がオリジナリティあふれるものであるならばいいのですが、そんな卓越したオリジナリティあふれる著作家などそれほどいないわけで、そんな高いものを求めることなど私はしないのです。
そんな卓越したオリジナリティはそれほどなくても、きちんと自分自身で構築した理論を持っている人の本であるならば、他に出した本があったら、それを買って読みたいと思い、その著作家の本をワードの「読みたい著作家リスト」に書いておいて次の著作を買うつもりでいます。
しかし、引用ばかりの文章を書く人は自分の理論に自信を感じていないのでしょう。
私が先に書いたように卓越したオリジナリティなど万人に求めることなどしないです。
他の人と同じような理論であっても、きちんと自身で構築したものであるならば、それでいいとしているのです。
しかし、引用ばかりで収着させてしまう人は、自信がないからそういうことになってしまうのでしょうか。
それで引用ばかりになってしまうのでは本末転倒です。
読んでいて、こちらは集中力が萎えてしまうのですし、そういう人は忌避されてしまいます。
そうなると更に自信がなくなって、ひいては論文を書くという教授や著作家としての基本的な行為がおろそかになってしまいますから、かなり注意が必要です。
自分の理論に自信がないからこそ、他の有名な著作家の本を引用して、見栄を張るというのではこれまた本末転倒です。
もっと知的に頭を使って、自身の理論構築をしていくべきだ、と思います。
そして、その知的作業に愉しみを感じていない、ということが言えるでしょう。
最初の幅広くことを修めていない人の内情の1つである「幅広く物事を学ぶ姿勢をもっていない」ということとも通じるものがあります。
そういう人は、まず引用する事ばかりを辞めて、自身の脳内で構築した理論を出すことに務める。
それが面白いと思えるようになったのであれば、そういう著作活動を続けていくことをお勧めしたいです。
それでも、面白くないのであれば、その職業は辞めるべきではないでしょうか?
つまらなそうな顔でそういう活動をしている姿は、はたから見ていてつらいことこの上ないですし、人に悪影響を与えるものです。
逆に面白い、それゆえに楽しくて仕方ないという姿で活動している人ならば、他の人たちの見本になるものです。
誰でも得手不得手はあるのです。
こと著作も得手不得手はあるのです。
幅広く学び、引用はせずに自身での理論構築に生きがいを持てる人であるならば、そういう職業に向いているでしょう。
しかし、そういう人にも欠点があるのです。
それは、自身の家などで1人で著作活動をしている時に、集中力が萎えてしまい、他の事に意識が行って著作に手がつかなくなる、ということです。
あれこれと、知的な関心が分散してしまうので、著作をしている時に、他の本から参考に調べ物をしようとすると、調べている時にほかにいろんな関心が出てきてしまって、他の事柄について調べたり読んだりしているうちに肝心の著作がおろそかになってしまう、ということです。
こういう意識が分散してしまう人はリーキーアテンションということです。
メンタリストのDAIGOという人の動画を観て、その人が言うに、起業家に向いている人は、こういう関心の分散が起きてしまう。
こういう人こそが、起業家に向いているということです。
起業家は自分1人で情報を摂取していかなくてはならない性質のものです。
そのためには、いろんな領域に関心が自然と向いていかなくてはならないでしょう。
人に強制されるまでもなく。
そうならないためにも生まれつき集中力がありながら、意識が分散してしまっている人こそが起業家として向いているというわけです。
そのDAIGOさんの言うことには説得力がありました。
そのDAIGOさんはたぐいまれなる読書家で、いろんな研究結果の本を読んで起業やメンタルヘルスに関心のある人に情報を動画で発信しているのです。
受け売りといえばそうですが、非常に観ていて関心のそそられる思いがするものです。
その意識が分散してしてしまう、というのは著作家でも必須の事でしょう。
自分の専門にだけ閉じこもっていては話しにならないのですから。
人に言われるまでもなく、他の領域に関心を向けてしまい、それに就いて自ら調べ、その内容についての本すらも出してしまう。
こういう人は、意識が分散してしまうので1人住まいの人は、集中力が萎えてきて自分のしたい他の事にいつしか没頭して肝心の仕事ができなくなってしまうようです。
だから、そういう人は公民の図書館や、喫茶店、ファミレスなどで仕事をした方がいいということです。
こう書くと結局、いろんなことに意識が行って書きものなんかできないじゃないか、と反論されそうですがそうではないのです。
喫茶店などで〇〇について調べる、と紙に書いておいて、帰宅したらその〇〇についてだけ調べると決心するのです。
そして、そのことについては断行するのです。
そして、家に1人だけでいると集中力が萎えるので、人に自分含めて複数人いる場合ならば、集中できるのですから、そういう人は複数人でこそ集中して仕事が出きるということです。
受験生時代は、誰もが図書館などで勉強してましたが、それは単に集中力が低い人の最高のやり方なのです。
逆に、人が何人もいる家でこそ集中できる人こそがリーキーアテンションの高い人なのです。
だから一律に、こういうやり方がいい、という狭い了見で物事を断定するのではなく、その人に合った方法で物事をすることが大事なのです。
リーキーアテンションは一見、欠点にみられがちですが、そうではなく、大きな特長なのであるということを意識すべきでしょう。
自文化中心主義と、多文化中心主義の違いといいますか、大学では後者の方がいいとされるのは当然ですが、本を読むことや講義を受け続けることでじわりじわりとそれが可能となっていくのです。
●そんなスタンスに興味のある人、このぺージに興味が持てた方にお勧めの電子書籍.ペーパーバックは以下です。
著作家として、いろんなものを修める気概がかなりあり、社会学者という肩書ながらいろんな分野に食指を伸ばし、逝去されるまで100冊以上の本を上梓した加藤秀俊を大幅に取り上げたのですから。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
以下よりどうぞ!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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