学問を修めていくうえで、当為は必要か、不必要か? (加藤秀俊)
大学で学ぶ学問というものは、実学とも呼ばれ、それを実社会において役立つ知識や情報を学べるものなのです。
それを脳内に吸収して、どう生かすかを考えて行動していく、そういう姿勢を持つ人が多く出ることを学問は期待しているのです。
『生きる場の哲学』という表題の本がありましたが、まさに学問や科学全般がそういう性質を持っているのです。
そういうことを発見した私は、大学時代に「大学での勉強こそ皆が一生懸命に取り組まないといけない性質のものだ!」と強く思ったものです。
しかし、多くの大学生は、そういう性質のものを学ばずに、授業をボイコットしているのです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、その著書の中で、「大学生で真剣に学んでいるのは全体の2割くらい」と書いていました。
氏は30年以上大学に勤務していた結果、そういうことを書いているのですから信憑性があります。
どういう問題点があるかを考える。
それこそが大学生の大きな課題であるはずが、それが出来ない学生が多いということでした。
加藤氏(下写真)は、『独学のすすめ』という本の中で、「問題つくりができない学生がいる。」と嘆きの言葉を書いていました。

その問題点を探し、それを良きものに変えていくことこそが実生活での基本的に重要なことであるということです。
それは、何も大学の授業だけではなく、社会に出てからも必要なことであるのは言うまでもないことです。
ゆえに、大学の授業で単なる知識を求めるだけでなく、そこに自分の考えなり、主義主張が介在さえなくてはいけない性質のものであることは間違いないです。
その通りでしょう。
しかし加藤氏と盟友だった梅棹忠夫氏も亡くなってしまい、哀しい限りですが、加藤氏と対談集を出したり、編著本を出していたのですが、立場は若干異なるみたいです。
加藤氏は、問題点を見つけて、良きものに変えるための自分の意見を出すべし、ということでしたが、梅棹氏はいろんな知の世界を飛び回ればいいわけで別段、当為を語る必要はない、ということです。
今も版を重ねている梅棹氏(下写真)の『文明の生態史観』は当為を語るために書いたものではない、としているのです。

ここは難しい問題であり、一概にどちらを肯定し、どちらかを否定すべき、ということではないようです。
その論争の後、どちらに与するかは、その人次第としか言いようがないです。
学問は問題点を探し、その内容を構造的に明らかにして、その良き状態にするためにどのようなことをすべきか、ということを書くことによって印象付けて、脳内にそのことを忘れないようにインプットされるのは間違いないです。
そういう姿勢を持っていなければ、主体的に物事を学ぶ気力も出てこないでしょうし、本も読んでいて惰性になってしまうことは間違いないです。
ただ知識を得るためだけでいいのであれば、大学の教授など必要ないでしょう。
そういうスタンスゆえに、加藤氏は同著で、「毎年同じノートを講義で読んでいるだけの教授の講義はばかばかしくて出られなかった。」 と書いているのですし、そんな授業は私もでたくなかったですが、単位を取るためにいやいや出ていたのは難しい問題でした(笑)
また同じく私が敬愛していた桜井邦朋氏は、他の本からの引用ばかりして、自分の考えや主張の入っていない論文など読むのもつまらないと書いていたのですし、それには同感です。
私も引用ばかり、知識だけの祖述だけの論文の本には魅力を感じなくなってしまい、そういう本はそうそうに古本屋に売ってしまっていました。
単なる知識を得るためであれば論述など必要ないでしょうし、そもそもの学問の存立意義などないでしょう。

しかし、梅棹氏は、得てして考えを必ずしも書く必要はないとしているのです。
特に当為を書く必要はないとしているのです。
当為とは〇〇すべしである、という意見のことです。
これは難しい問題です。
特に梅棹氏は「知の巨星」とまで言われて、日本の代表的な歴史小説家であった司馬遼太郎氏とも対談をしてそれが本になっているだけに、その人にモラルでたてつくとは、といぶかし気に思われること必至です。
それはどうするべきかは、自身の頭で考えてこれからの人生をどうするかと行動で決めていくべきでしょう。
どちらが正しい、どちらが間違っているということで裁断されるものではないのです。
しかし私は加藤氏を支持したいのです。
●このような内容に支持できる人には、以下の電子書籍.ペ−パーバックはお勧めです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
それを脳内に吸収して、どう生かすかを考えて行動していく、そういう姿勢を持つ人が多く出ることを学問は期待しているのです。
『生きる場の哲学』という表題の本がありましたが、まさに学問や科学全般がそういう性質を持っているのです。
そういうことを発見した私は、大学時代に「大学での勉強こそ皆が一生懸命に取り組まないといけない性質のものだ!」と強く思ったものです。
しかし、多くの大学生は、そういう性質のものを学ばずに、授業をボイコットしているのです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、その著書の中で、「大学生で真剣に学んでいるのは全体の2割くらい」と書いていました。
氏は30年以上大学に勤務していた結果、そういうことを書いているのですから信憑性があります。
どういう問題点があるかを考える。
それこそが大学生の大きな課題であるはずが、それが出来ない学生が多いということでした。
加藤氏(下写真)は、『独学のすすめ』という本の中で、「問題つくりができない学生がいる。」と嘆きの言葉を書いていました。
その問題点を探し、それを良きものに変えていくことこそが実生活での基本的に重要なことであるということです。
それは、何も大学の授業だけではなく、社会に出てからも必要なことであるのは言うまでもないことです。
ゆえに、大学の授業で単なる知識を求めるだけでなく、そこに自分の考えなり、主義主張が介在さえなくてはいけない性質のものであることは間違いないです。
その通りでしょう。
しかし加藤氏と盟友だった梅棹忠夫氏も亡くなってしまい、哀しい限りですが、加藤氏と対談集を出したり、編著本を出していたのですが、立場は若干異なるみたいです。
加藤氏は、問題点を見つけて、良きものに変えるための自分の意見を出すべし、ということでしたが、梅棹氏はいろんな知の世界を飛び回ればいいわけで別段、当為を語る必要はない、ということです。
今も版を重ねている梅棹氏(下写真)の『文明の生態史観』は当為を語るために書いたものではない、としているのです。
ここは難しい問題であり、一概にどちらを肯定し、どちらかを否定すべき、ということではないようです。
その論争の後、どちらに与するかは、その人次第としか言いようがないです。
学問は問題点を探し、その内容を構造的に明らかにして、その良き状態にするためにどのようなことをすべきか、ということを書くことによって印象付けて、脳内にそのことを忘れないようにインプットされるのは間違いないです。
そういう姿勢を持っていなければ、主体的に物事を学ぶ気力も出てこないでしょうし、本も読んでいて惰性になってしまうことは間違いないです。
ただ知識を得るためだけでいいのであれば、大学の教授など必要ないでしょう。
そういうスタンスゆえに、加藤氏は同著で、「毎年同じノートを講義で読んでいるだけの教授の講義はばかばかしくて出られなかった。」 と書いているのですし、そんな授業は私もでたくなかったですが、単位を取るためにいやいや出ていたのは難しい問題でした(笑)
また同じく私が敬愛していた桜井邦朋氏は、他の本からの引用ばかりして、自分の考えや主張の入っていない論文など読むのもつまらないと書いていたのですし、それには同感です。
私も引用ばかり、知識だけの祖述だけの論文の本には魅力を感じなくなってしまい、そういう本はそうそうに古本屋に売ってしまっていました。
単なる知識を得るためであれば論述など必要ないでしょうし、そもそもの学問の存立意義などないでしょう。
しかし、梅棹氏は、得てして考えを必ずしも書く必要はないとしているのです。
特に当為を書く必要はないとしているのです。
当為とは〇〇すべしである、という意見のことです。
これは難しい問題です。
特に梅棹氏は「知の巨星」とまで言われて、日本の代表的な歴史小説家であった司馬遼太郎氏とも対談をしてそれが本になっているだけに、その人にモラルでたてつくとは、といぶかし気に思われること必至です。
それはどうするべきかは、自身の頭で考えてこれからの人生をどうするかと行動で決めていくべきでしょう。
どちらが正しい、どちらが間違っているということで裁断されるものではないのです。
しかし私は加藤氏を支持したいのです。
●このような内容に支持できる人には、以下の電子書籍.ペ−パーバックはお勧めです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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