大学教授は、誰しも、桜井邦朋、外山滋比古、加藤秀俊を模範とすべし? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学というところは、いつに時代にも物議を醸すところですね。
私も問題の多い場所であると在学時代に思いました。
その1つは、研究をしないでいる教授が多い、ということです。
毎年毎年、同じ講義のために作ったノートを読んで解説しているだけで、あまり研究している素振りが見えなかった教授があまりにも多い、ということを感じました。
そして、講義用の教科書に指定した本を読んで、それを解説しているだけの教授も多かった気がします。

こういった講義でも、何かしら学ぶ箇所はあるので、学ぶものがゼロだったなどといことは言いませんが、それでも授業料の割に空虚な感じがしたのは私だけではないでしょう。
在学中にしておけばよかったと思うことですが、1コマの講義がいくらするのかな、ということで計算してみることが大事でしょう。
1年間の授業料を自分が履修する講義の数×年間の授業数で割るのです。
すると1コマの講義は当時2500円していた計算になります。
しかし、昨今はもっと高くなっています。
1コマ3000円はするでしょう。
授業料が高い大学は4000円はするでしょう。
そんな価値は今思うとありえない、ということが断言できます(笑)
そんな高いお金を払っていたにもかかわらず、いい加減な講義しかしていなかった教授が多かったことには腹が立たざるを得ないですね。
講義ノートや教科書を読んで解説しているだけの教授には。
毎回研究結果をさらす如く、ぎっしり研究をしてきたノートで講義していた教授もいたことは確かです。

よしんば、そういう立派な教授の講義でも、そんなに高い授業料を払ってまで受ける必要はあるか、と問われればそんなことはないでしょう。
ではどうすれば?
その教授の出した本を買って読んで、勉強すればいいのです。
1コマが3000円でそれを年間30回受けるとしましても90000円の授業料がかかるのです。
しかし、そのりっぱな教授の出した本を5冊としますと、それを1冊3000円としても15000円で買って勉強すればいいのです。
どちらが合理的かは言うまでもないことです。
今思い起して腹が立つのは、毎月10万円もの研究費なるものをもらっていたということです、どの教授も。
それなのに、この講義の内容…まるで値段とみあってないと思います。
学生の親御さんたちが大学にお金を出してこどもを大学に行かせているのです。
それが大学運営の大きな基金になっているのは言うまでもないのです。
それならば、誠心誠意尽くして研究をすべきではないかと思われてならないですね。
私の敬愛している学者で桜井邦朋(下写真)という人がいます。

この人は、これまでに本を100冊くらい出しています。
その桜井氏は、その著書で「大学には研究らしい研究をしていないクズ教授がたくさんいる」ということを書いていました。
その通りですね。
しかし、そのクズ教授たちはなぜ、研究をしないのでしょうか?
それは、研究をしなくても高い給料がもらえるからです。
ゆえに研究をしない。
1コマの講義にいくらかかるかは先に書いた通りです。
それは文系の大学ですが、理系になったらもっと高いことは言うまでもないことです。
いい加減な講義に怒りを覚えたら、誰もが辞めてほかのことをすればいいのでし、実際そういう人はいます。
しかし、それはかなり少数派で、たいていの人は居残って大学に在学し続けるのです卒業まで。
何故か?
大学卒という肩書が欲しいからであり、キャンパスライフを愉しみたいからですね大抵の学生にとって。

それゆえに、多くの人が残り高い学費を払い続ける。
いい加減な講義しかしない教授であっても。
それゆえに、研究らしい研究をしない教授が日本にはあまりにも多いのです。
そんな教授をのさばらせているのは、学生に責任が帰すわけで、それや日本の学歴至上主義的な雰囲気が原因なのです。
こういう教授の講義はボイコットせよ、と言いたいです。
しかも投書が可能であれば、その教授のいい加減さを指摘し糾弾しなくてはならないでしょう。
その桜井氏は、学者の書く論文についても批判しているのですが、その論文に関しても、「祖述だけではつまらない。引用ばかりで自身の考えや主張がない論文は読むのもつまらない」ということです。
こういう論文だけ書いていれば教授が務まる日本の大学はやはり、他国に比べて大学進学を希望する人が多いからでしょう。
学問というものに関して畏敬の念を無条件に受け入れて、そこに進もうとする。
こういう現象は欧米では考えられず、大学に進学するのは少数派なのです。
だから教授になるのも厳しいのです。
良い論文を書くには、自分の専門だけにとどまらず、いろんなジャンルの本を常に読み続けながら、情報を収集していなくては格好の例示を探すことはできないし、自分の専門を確立するための考え方を学ぶことは出来ないのです。
また考えることや思索も常日頃から続けていなくて話しにならないのです。
知的生産で有名な外山滋比古氏(下写真.故人)は、外出しているときにアイデアや参照できる事物に出くわしたら忘れてはいけないので、すぐさまノートできるように手帳大のノートをいつも持ち歩いていたのだそうです。

そういった積み重ねが、学者としての偉業につながったのでしょう。
この人は161冊もの本を出したのです。
こういう姿勢はかなり手本になりますね。
手本になる人の例は故.加藤秀俊にもあるでしょう。
この人は、1つの専門に閉じこもることなく、いろんなジャンルに手を伸ばし、足を運んで情報を摂取して、日々、文章を書いてきたのです。
その数100冊以上。
それにプラスして著作集が12冊、選集を2冊出すまでにいたったのです。
桜井邦朋、外山滋比古、加藤秀俊の3人に共通しているのは、1つの専門に閉じこもることなくいろんなジャンルに食指を伸ばし、毎回研究結果を講義に盛り込んでいた、本を多数出していた、ということです。
こういう人が、大学の教授のどの人もなってくれてたらなあと思わざるを得ないですが、現実はなかなか難しいですね(笑)
●こんな内容に共鳴してくれる人がいるのならば、その人は以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めいたします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
大学というところは、いつに時代にも物議を醸すところですね。
私も問題の多い場所であると在学時代に思いました。
その1つは、研究をしないでいる教授が多い、ということです。
毎年毎年、同じ講義のために作ったノートを読んで解説しているだけで、あまり研究している素振りが見えなかった教授があまりにも多い、ということを感じました。
そして、講義用の教科書に指定した本を読んで、それを解説しているだけの教授も多かった気がします。
こういった講義でも、何かしら学ぶ箇所はあるので、学ぶものがゼロだったなどといことは言いませんが、それでも授業料の割に空虚な感じがしたのは私だけではないでしょう。
在学中にしておけばよかったと思うことですが、1コマの講義がいくらするのかな、ということで計算してみることが大事でしょう。
1年間の授業料を自分が履修する講義の数×年間の授業数で割るのです。
すると1コマの講義は当時2500円していた計算になります。
しかし、昨今はもっと高くなっています。
1コマ3000円はするでしょう。
授業料が高い大学は4000円はするでしょう。
そんな価値は今思うとありえない、ということが断言できます(笑)
そんな高いお金を払っていたにもかかわらず、いい加減な講義しかしていなかった教授が多かったことには腹が立たざるを得ないですね。
講義ノートや教科書を読んで解説しているだけの教授には。
毎回研究結果をさらす如く、ぎっしり研究をしてきたノートで講義していた教授もいたことは確かです。
よしんば、そういう立派な教授の講義でも、そんなに高い授業料を払ってまで受ける必要はあるか、と問われればそんなことはないでしょう。
ではどうすれば?
その教授の出した本を買って読んで、勉強すればいいのです。
1コマが3000円でそれを年間30回受けるとしましても90000円の授業料がかかるのです。
しかし、そのりっぱな教授の出した本を5冊としますと、それを1冊3000円としても15000円で買って勉強すればいいのです。
どちらが合理的かは言うまでもないことです。
今思い起して腹が立つのは、毎月10万円もの研究費なるものをもらっていたということです、どの教授も。
それなのに、この講義の内容…まるで値段とみあってないと思います。
学生の親御さんたちが大学にお金を出してこどもを大学に行かせているのです。
それが大学運営の大きな基金になっているのは言うまでもないのです。
それならば、誠心誠意尽くして研究をすべきではないかと思われてならないですね。
私の敬愛している学者で桜井邦朋(下写真)という人がいます。
この人は、これまでに本を100冊くらい出しています。
その桜井氏は、その著書で「大学には研究らしい研究をしていないクズ教授がたくさんいる」ということを書いていました。
その通りですね。
しかし、そのクズ教授たちはなぜ、研究をしないのでしょうか?
それは、研究をしなくても高い給料がもらえるからです。
ゆえに研究をしない。
1コマの講義にいくらかかるかは先に書いた通りです。
それは文系の大学ですが、理系になったらもっと高いことは言うまでもないことです。
いい加減な講義に怒りを覚えたら、誰もが辞めてほかのことをすればいいのでし、実際そういう人はいます。
しかし、それはかなり少数派で、たいていの人は居残って大学に在学し続けるのです卒業まで。
何故か?
大学卒という肩書が欲しいからであり、キャンパスライフを愉しみたいからですね大抵の学生にとって。
それゆえに、多くの人が残り高い学費を払い続ける。
いい加減な講義しかしない教授であっても。
それゆえに、研究らしい研究をしない教授が日本にはあまりにも多いのです。
そんな教授をのさばらせているのは、学生に責任が帰すわけで、それや日本の学歴至上主義的な雰囲気が原因なのです。
こういう教授の講義はボイコットせよ、と言いたいです。
しかも投書が可能であれば、その教授のいい加減さを指摘し糾弾しなくてはならないでしょう。
その桜井氏は、学者の書く論文についても批判しているのですが、その論文に関しても、「祖述だけではつまらない。引用ばかりで自身の考えや主張がない論文は読むのもつまらない」ということです。
こういう論文だけ書いていれば教授が務まる日本の大学はやはり、他国に比べて大学進学を希望する人が多いからでしょう。
学問というものに関して畏敬の念を無条件に受け入れて、そこに進もうとする。
こういう現象は欧米では考えられず、大学に進学するのは少数派なのです。
だから教授になるのも厳しいのです。
良い論文を書くには、自分の専門だけにとどまらず、いろんなジャンルの本を常に読み続けながら、情報を収集していなくては格好の例示を探すことはできないし、自分の専門を確立するための考え方を学ぶことは出来ないのです。
また考えることや思索も常日頃から続けていなくて話しにならないのです。
知的生産で有名な外山滋比古氏(下写真.故人)は、外出しているときにアイデアや参照できる事物に出くわしたら忘れてはいけないので、すぐさまノートできるように手帳大のノートをいつも持ち歩いていたのだそうです。
そういった積み重ねが、学者としての偉業につながったのでしょう。
この人は161冊もの本を出したのです。
こういう姿勢はかなり手本になりますね。
手本になる人の例は故.加藤秀俊にもあるでしょう。
この人は、1つの専門に閉じこもることなく、いろんなジャンルに手を伸ばし、足を運んで情報を摂取して、日々、文章を書いてきたのです。
その数100冊以上。
それにプラスして著作集が12冊、選集を2冊出すまでにいたったのです。
桜井邦朋、外山滋比古、加藤秀俊の3人に共通しているのは、1つの専門に閉じこもることなくいろんなジャンルに食指を伸ばし、毎回研究結果を講義に盛り込んでいた、本を多数出していた、ということです。
こういう人が、大学の教授のどの人もなってくれてたらなあと思わざるを得ないですが、現実はなかなか難しいですね(笑)
●こんな内容に共鳴してくれる人がいるのならば、その人は以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めいたします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
コメントを書く... Comments