学問において当為を語るべきか、語らないべきか?加藤秀俊と梅棹忠夫を比べて論じる! (加藤秀俊)
こんにちは。
大学で講義されている学問というものは、どんな姿勢で臨めば一番モチベーションが上がるかということを考えると、やはり、自身が生きている社会の中で、それをどう生かすか、を考えながら聞いたり、読んだりすることではないか、と思われてならないですね。
そういうスタンスで臨めば、聞いたり、読んだりしているときにふと重要なことに出くわして、それをチェックしていけば、自身の生活や人生でいかせることが出来るのではないか、と思われてならないのですね。
逆に、そういうスタンスがなければ、聞いたり読んだりしている時に、重要と思われるものに出くわしても、通り過ぎてしまう性質をはらんでいることに間違いはないでしょう。
人間社会というものは、一度何かを築いてしまえば、永久的にその状態を維持できる、というものはないようです。
やはり一難去ってまた一難…これが永遠に繰り返されるのでしょう。
その状態にあえいだのがかの有名なアレクシス.トックビル(下写真)でした。
その一難去って、また一難というのが繰り返されるのですから、やはり人間たるもの、創造力を磨かなくてはならないでしょう。
創造力とは、常に発生する問題点に対峙して、それを良きものに改善していくことです。
まあ、人によってその定義には若干違いがあるようですが、たいてい誰にでも納得できるニュアンスはこれであるのではないでしょうか。
それは学問のアプローチングと軌を一にするのが見てわかります。
しかし、一難去ってまた一難という状態に嘆いたとはいえ、学者として生涯を全うしたのですトックビルは。
学問と社会生活でも、そこは軌を一にするのがわかるのであれば、やはり学問こそ誰もが真剣に取り組まなくてはいけないでしょう。
そういうモラルであったがゆえに、故.加藤秀俊氏(下写真)は、その著『独学のすすめ』において、「問題つくりができない学生が大勢いる。」ということを嘆いていたのです。
問題点は社会生活において常に隆起するものです。
それを人から指摘されるのではなく,自分で見つけなくてはいけないのは言うまでもあり子供ではなく大人なのだから。
それが出来ないことを嘆いていたのです。
ゆえに、同著内で「毎年同じノートを読んでいるだけの教授の講義はばかばかしくて出られなかった。」とまで書いているのです。
しかし加藤氏の盟友であった故.梅棹忠夫氏は、学問に対してそういうスタンスはほとんどなかったように感じました。
梅棹氏は、「知の巨星」とまで言われ、民族学博物館の館長を務めたこともあり、加藤氏とは対談集も出し、共著も出していたまさに盟友だったのです。
梅棹氏は、いろんな知の領域に関心を寄せて、それを分析力でもって論じることでいい、としていたのです。
勿論、知識.情報の単なる寄せ集めではなく、巷にはないもの見かた、考え方、分析眼でもって論文を提示するだけでいいとしていたのです。
勿論、その場合に当為(〜をすべき、〜とすべきという論)を提示する必要はないということです。
そういう当為を語らうために『文明の生態史観』を書いたのではないとしているのです。
梅棹忠夫(下写真)の『文明の生態史観』は、人類の文明史を語るうえでかなりセンセーションを巻き起こした本で、1957年という昔に発表された本であるにも関わらず、今も版を重ねて売られているのです。
「そんな版を重ねられた本を出した人が当為を語る必要はないというのだったら、語る必要はないかな…」と思い勝ちになりますがちょっと保留しておきたい事態です。
加藤秀俊氏は、そういうスタンスにちょっと違和感があった気がします。
その著、『社会学』(中公新書)において、社会科学なるものは科学ではない。
人間社会には法則なるものは成立しない。
万有引力の法則は、いつの世でも、どこでやっても、同じ法則になっていて不変である。
しかし、人間社会には、必ずいつの世でも、どこでやっても必ず成立するような法則はないからだ、というのがその論拠のようでした。
しかし、そんな厳密には法則性はなくとも、ある程度はおなじような法則で動くのだから、科学ではない、ということはありえないだろうというのが私の立場なのです。
ゆえに法則性の硬さは自然科学よりも緩いのであれば、なおさら当為を語る必要があるでしょうということです。
それに、単なる知への周遊でいい、ということであれば読書をする際にも、惰性になってしまいますし、緊張感が緩んでしまうでしょう。
何か当為を語る部分はないか?と思いながら周遊していった方が、緊張感が高まるのは言うまでもありません。
確かに、『文明の生態史観』は壮大な気宇を擁した本であり、私も読んでかなり感銘を受けた本ではありますし、その他梅棹氏の本をいくつもコレクションの中に入れてあります。
しかし、完全には梅棹氏には与さないものです。
これは一立場として言っているわけで、これ以外は邪道といっているのでもありません(笑)
ましてや知の巨星とまで言われた梅棹氏より私の方が正しいなどといっても誰もついては来ないでしょう、私ごときには(笑)。
こういった論客の意見をいろいろ汲んだ上で、自分のスタンスを脳内で考えて決める。
これも学問における守破離として非常に大事なことなのです。
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⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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