学問に限らず、生業は適材適所!そのことを心に留めて職業を選ぶべし? (加藤秀俊)
こんにちは。
私は、底辺高校に入学しましたけれども、何か大学だけは行きたいなと考えていました。
幼少のころからのなんとなくした憧れですね…下手の横好きですね(笑)
それで高校2年の終わりごろに、その高校内にあった進学相談室の前に来て、その廊下にあった棚にいっぱいあった各大学のパンフレットを取り出して閲覧してみました。
そこには、大学生の受講する姿がいろいろ写ってましたが、どれもやる気なさそうな、気怠そうな顔をしている人が多い印象を与えました(笑)
「つまんないな〜」「早く終わってくれないかな〜」みたいな感じですね(笑)。
そして浪人の末に、私は一応合格がかないました。
そして、授業の最初からすべて私は出席していました。
登録した授業はすべてです。
それについて何ら抵抗は感じませんでした、つらくもなんともなく…いな毎回新しいことが学べて楽しかったです。
しかし、そういう意見とは反対に、「かったるい」とか「つまんない」とか声に出していう学生が多いのに気が付きました。
しかし、私は「何でつまんないんだろう?勉強が好きで大学進学を決めたんじゃないの?」という思いが強かったです。
大学入学当初、いろんなサークルの勧誘をしていた先輩たちがいて、その男性用サークルで勧誘していた人が「大学なんて遊び場だよ、遊び場!」なんて言っていた人もいました。
「それではもったいないでしょう。高い授業料を払ってきているのに…」という思いを隠せませんでした。
それで、年末の試験の2か月から1か月前になると、大学構内や近くのコンビニのコピー機の前には、友人のノートを借りてコピーをする人の行列ができているから驚きました。
「こんなに講義に出ていない人ばかりなの?」ということでした。
やはり高校時代に見たパンフのやる気のない学生のイメージはどこも一緒なんだ、ということですね。
確かに私も友人からノートを借りてコピーしたことはありましたが、それも風邪を引いてやむなく欠席してしてしまったから仕方なしの行動だったのです。
しかし、そういう状態が改善されることなく、4年間はそういうコピー機の行列を毎年必ず目にするまま卒業しました。
何故、こうなるのか?
どうしてやる気のない学生ばかりなのか?
こういう疑問はいつまでも拭い去ることができませんでした。
卒業後、浅羽通明というひとの書いた『大学で何を学ぶか』という本を買って読んでみたことでちょっと解明の筋が見えました。
そこには「大学に入って本を読めという人がいるけれども、その人は、本1冊読むだけで精神が疲弊してしまう人の心がわかっていない」ということがかかれていました。
「はあ?」と思ったのですね。
「学生なら誰もが本を読むことなんて楽しい事なんじゃないの?」と思ったのです。
私は大学在学中に、本を300冊は読みました。
その読書の時は楽しくて愉しくて仕方なかった、ということです。
その内容と、講義で受けた内容を重ねながら思索する脳内の感覚が気持ちよかったです。
誰もがそういう思いをしたいんじゃないの?ということでしたが、そういう人は少ないのです。
愉しいけれども、あえてやらない、あるいは愉しいけれども、遊びなどの誘惑に負けて講義をさぼる、ということだったと理解していたのですが、これはまったくの誤解だったのです。
そして更に確定的に思いを変えなくてはならなくなったのは、アメリカの哲学者だったウィリアム.ジェイムズ(下写真)の抽出した理論を読んでからですね。
ウィリアムによれば、彼は、「かたい心」と「やわらかい心」という2つの人間類型を挙げているのです。
この2つが人間社会に大きく分けて分類されるとしていました。
「かたい心」とは、リンゴでも、みかんでも、バナナでも、パインでもいい。その間に序列をつけたり、関係づけたりするのではなく、いろんなものが並列的状態にあるというように、多元的に捉える思想です。
それに対して、「やわらかい心」は、この世は最終的に1つの絶対価値に収斂して、その体系の中に諸々のものがちりばめられているというように世界を一元的に捉える思想です。
前者が八百万の神々が併存する日本と、神は1つとするキリスト教やイスラム教という違いになる。
「かたい心」の人は、当然ながらものごとを断片的に捉え、その断片1つ1つに意味があるという立場をとる。
それに対して、「やわらかい心」の人は、1つ1つの情報や事柄が大きな体系の中に組み込まれていないと満足しない。体系の中に組み込めないものは無意味として排除して、理論や体系というものに関連させている。
いわば多元論者は相対的、一元論者は絶対的と言える。
この分析からすると、「かたい心」と「やわらかい心」の2つは形容の仕方が逆のような気もしますが、とにかくこのように分析しているのです。
立場上の違いから察せるように、「かたい心」の人は文字好き、「やわらかい心」の人は文字嫌いという結果になってきます。
そして、ウィリアム.ジェイムズによれば、後者の方が多数派であるということです。
私は自分の経験から、誰もが自分と同じ好みで生きているんだと勘違いしていたのです。
大半の学生は読書好きでないからといって咎める筋合いなどなかったのですね。
物事を狭く考えすぎていたのです。
しかし、読書好きでなくても、勉強嫌いな人でも、卒業後立派に業務をこなして生計を立てている人はいます。
否、そういう人ばかりでしょう。
学生時代に堕落していた生活を送っていたからといって、卒業後も堕落した生活を送っているかといえばそんなことはなく、それは単に勉強が好きでないからという理由だったのですね。
なら、どうして勉強に勉強を重ねて大学に入ったのか?
やはり事情を聞くと、高校が進学校だったから、それに身を任せるだけであった、そんな人が多いのです。
取りたてて勉強は好きでもなかったし、むしろ嫌いだったというのです。
なら仕方ないですね。
嫌いなものを無理やり好きになろうとしても、少しは好きな方にバイアスは行きますが、限度があるのです。
ならそういうことをするのではなく、卒業後、ある程度、学問には触れながら、今の仕事を頑張ってみては?ということです。
学問は、社会にある問題点を構造的に明らかにして、それをよき方向へ向かわせるためにあるのです。
それを学び、具体的な行動をしていく人が多ければ多いほど社会にとってはいい事なのです。
ゆえに勉強が嫌いでもいいから、そういう問題点を指摘した本をできるだけ読んで、自分のなすべきことを認識して行動することを勧めたいのです。
私はただ本を読んだり、勉強することが好きですから、それに適った仕事をすればいいのですし、それだからといって慢心することなく、自分の出来ないことをしてくれる人がいるからこそ、自分は生活していけるんだという認識は消さないで、脳内に止めたままにしておく所存です。
やはり人生は適材適所なのです。
それは、ウィリアム.ジェイムズの理論をもう一度読み直して、自分に適格な職業を探し探求していくことをお勧めしたいのです。
嫌いなものをいくら好きになろうと努力しても好きにある程度なっても、限度があるということは確かです。
しかし、幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏や、400冊もの本を書いた生長の家の創立者である谷口雅春にしろ、「かたい心」の持ち主だったことは疑いがないですね。
こういう人たち、宗教の教祖あるいはその長になる人というのはおしなべて「かたい心」の人でなければ務まらないのは言うまでもない事です。
しかし、人間というものはだれしも多面的な存在であって、自分が何百冊も本を読んでいても、ほとんど本など読まない人から学ぶものがあるから謙虚さが必要です。
やはり、いろんな人から学ぼうという謙虚さがいつの世でも大事なのは言うまでもない事ですね。
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今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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