現代と親鸞の生きたか鎌倉時代とは社会の様相が違うゆえに、現代にふさわしい哲学を形成すべし? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
世の中には、いろんな宗教があり、その宗派があるものです。
仏教があり、その中に、日蓮宗があり、曹洞宗があり、浄土真宗がありというように。
しかし、そのいずれの宗派の開祖といわれる人たちは、非常に貪欲に世の中の事柄について学び、その膨大な学んだ内容の中から、自分が大事と思われる部分は取り入れ、要らないと思われる部分については捨てる、という取捨の行為を経て、自分の宗派を形成したのです。
その得てきた情報の中には、他の宗教、そして他の宗派からも学んだことも入っているのが通常の事です。
例えば日蓮(下写真)は、真言宗も、天台宗も、浄土宗も、律宗も、禅宗も、果ては和宗の四天王寺まで赴いて仏教を学んだのです。

それらの膨大な観念の中から、自身が重要と思われることを拾い、要らないと思われるものを捨てて自身の宗教を完成させたのです。
最大の拠り所は天台宗だったようで、その宗派で唱えられている自我偈というものは、日蓮系の信者は日蓮が創始したことであると思われるかもしれないですが、そうではなく、天台宗で唱えられていることを日蓮は自分の宗教に取り入れたのです。
その自我偈は、同じく天台を学んだ曹洞宗の道元も唱えたので、曹洞宗でも当然、自我偈は唱えられていることなのです。
こういった事象を学べば、無から有を生みだすことなど不可能ゆえに、誰もが、既存のものから学んで、取捨選択して、自身の宗教を確立した、ということが言えると思います。
そういうことを説いても、日蓮正宗系の人にはなかなか信じてもらえません(笑)
その自我偈は、天台宗の経本を見れば一目瞭然なのに、それすらもしないのです。
これはどういうことに由来するのか?
以下に紹介した電子書籍.ペーパーバックにも書いてあります。
別の思想からヒントを得て、自分の思想を形作るのが人間の普通の性というものなのはこれで明らかでしょう。
確かに、宗教で講義されることの内容から学べるものがあるのは否定しません。
しかし、こんにちでは、そこからだけでなく、本から学べるのです。
人との良好な関係構築法や、医学的な内容、環境に対する知識、人類のこれからの行方を占う上での歴史的教訓等々、こういったことは、宗教に頼らずとも、自身で主体的に本を買って読んでいけば学べる性質を持っているのです。
しかし、浄土真宗の親鸞(下写真)にしろ、日蓮宗.日蓮正宗の日蓮にしろ、当時彼らの生きた時代には本などなかったのです。
いや、紙自体がかなり貴重なもので、庶民は手にすることすらできない代物だったのです。
ゆえに、何か物事を学ぶには特権階級にいた僧侶の説法を聞くほかなかったのです。
それでもあきたらず、親鸞や日蓮は自身で民衆の中にわけ行って説法をこなしていったのです。
日蓮の辻説法は有名ですね?
それは、小学校の「日本の歴史」でも習いましたよね?
しかし、現代ではそういったことはもはや無用といっていいでしょう。
何故なら、本が非常に安価に入手できる時代になったからです。
古本ならもっと安価に入手できるのです。
しかも、一般の教育は、政府によって小学校から中学校までの9年間は義務として施されるゆえに、その僧侶による説法が鎌倉時代と比較してどれほど重要かは、言うまでもありません。
やはり重要度は低くなっているのが事実です。
こんにちのように、紙が湯水のように手に入り、毎週各家庭からわんさかと資源ごみ回収の日に大量の紙が排出されるような事態になることは親鸞や日蓮は予想だにしていなかっただろうことは間違いないでしょう。
もしもタイムマシーンなるものがあって、それに乗って鎌倉時代にタイムスリップして親鸞や日蓮に会い、連れてきて現代の様子をみせたらさぞ驚くだろうし、私の教えだけに依拠せよなどという言葉は撤回するだろうことは間違いないです。
そうはいうも、全く不要とまでは言わないし、現代の僧侶たちやその宗教の説法者たちの説く内容が全くの不要などと極論は言いませんし、学ぶことのメリットはあるのは厳然たる事実です。
ゆえに私は反宗教ではないですし、宗教に勧めれる部分はあるのは確かですが、その宗教だけで万事OKなどということも出来ないのは事実です。
ではどんなスタンスがいいのでしょう?
●そんな内容に興味がわいた人に、お勧めしたいのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(ペーパーバックとは注文が入り次第、印刷をして注文者の住所に届ける製本システムの事です!)
⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて終了します。
ここまでの精読に感謝いたします!

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