現代社会は現代の利器と宗教の両方を使うことで現状を打破できる? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
どうも現代人にとって宗教というものは疎遠になりがちです。
それは仕方ないという面も多分に含んでいることは否めません。
宗教的なことに縋らなくても、普通に暮らせて行けるからでしょう。
しかし、私は物事がうまくいかない場合に、宗教面を無視した方策を探すのではなく、もっとマクロな視点で、方策を探す方がメリットはあるのではないだろうか、という気がしてならないのです。
事業が上手くいっている場合、その会社のオフィスには神棚がある、ということがよくあります。
また、人間関係もビジネスもうまくいっている人は、やはり墓参りを欠かせていない、ということも指摘しておくべきでしょう。
やはり、人智を超えた存在に対して畏敬の念を持つ、あるいはそういったものに対してまで、大事にするという姿勢が重要であるということでしょう。

やはり物事は、いろんなものが連なって、出来ているのですから、その構成するもの全部を大事にすることは当然でしょう。
そういう姿勢がない人は、やはり忌避したくなるでしょう。
ある仲間とはフレンドリーに接するけれども、そうでない人にはまるでぞんざいに扱うシーンをみたら、その人の店で物を買いたい、と思うでしょうか?
思わないですよね。
それと一緒で、過去世といったものまで、視野に入れて人生を生きていく姿勢は必須ではないでしょうか?
誰でも。
そうでなくては、これから先の人生を暗澹としたものに変わる可能性も否定できないでしょう。
浄土真宗の親鸞(下写真)が言った言葉に、「兎や羊の毛の先にある塵のような小さい罪を犯すのも、すべて思いを超えた無限の因縁が背景にあると感知すべきである。」 というものがあります。
これは宗教を忌避している現代人には新たな視点が得れるような目の覚めるようなものではないでしょうか?
見えるか見えないかの小さな罪ですら、宿世からの因縁であり、現世での報いとしてこうむる。
ある仏教の説話では、「僧侶が小石投げて誤って鳥にあたって死んだ。その死んだ鳥が猪に生まれ変わった。その猪が石をかき分けて食べ物をあさっていると、石が転がり落ちてその僧侶に当たって死んでしまった」という因果応報の話がある。
やはり、いま品方公正に生きていても、なにか不幸が訪れてしまう。
それを改善しようと努めるも務めるも一向に埒があいてくれない。
それで、その過去世の因縁を解除するために仏に祈る、あるいは墓参りを欠かさずするようになった、あるいは神に祈るようになった。
すると次から次に幸運が訪れるようになった。

こんな経験談もあるのです。
やはり、視野が狭窄になると、どうしても現代にある方法だけで対処しようとしてしまう。
それではあまり解決には程遠くなることがあるので注意が必須です。
こういった話しは親鸞の経典の中にもあるのです。
「見えるか見えないかの小さな罪ですら、宿世からの因縁であり、現世での報いとしてこうむる。」と親鸞はいうのです。
両手両足切断の旅芸人の中村久子は、こういう親鸞の教えに出会い、自らの生涯を受け入れ、明るく生きることで周囲の人々を照らしだしたというのです。
たとえ、自分に重い背景があったとしても、それは自分を成り立たせている大事な背景なのだと理解できれば、重い過去が大事な過去になり、喜んで引き受けて立ち上がっていけるというふうに変わって行くのでは?と思われてならないのです。
確かに現代社会においては、システムや機器などの便利なものがあり、それに縋ることで現状打破をかなえることは出来るのですが、それだけでなく宗教的なものにもすがることで打破できることが出来るということです。
現代の利器に縋ることはいいことでしょうが、それだけでなく宗教的な面も見過ごしてはならないし、それに縋ることで打破できるのであるから、その両方に縋るべきである、ということです。
その割合は、自身のこれまでの経験値から割り出して日々行動してもらうほかないです。
そこは自身で決めてもらうほかないのです。
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⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて終了します。
ここまでの精読に感謝いたします!

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