本尊に縋ることで救済された。しかし、その本尊は完璧?そんなことはないです。 (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
人間の言論にはいつの時代でも、考えさせられる内容を含んでいて、それについてついつい思考を巡らせて、その言論に対して自分の意見はどうだということを考えてしまいます。
本を読んでいて、以下のような文章に会いました。
「近代以降、ヨーロッパでは、知は力なりという、知が社会を変えられるという認識がある。
本当にそうだろうかという問いが起り、その際、親鸞の他力本願に沿うと全身から救われた。」
という文章がありました。
これは著作家の田口ランディ氏の言葉ですが、それはなるほどと思いました。
人間の中にある可能性を広げる思想が、いわゆる中世ヨーロッパの啓蒙思想だったわけです。
それが根幹にあってこそ科学が発達して、そして人間は精神的にも物質的も豊かになることができたことは間違いないです。
しかし、ここまで来た研究結果により、「人間ならば何でもできる」という思想には限界があった、ということですね。
それは認識すべき議論であることは間違いないです。
どんなに科学が発達しても、人間が地球を創ることなどできた話しではないですし、地震を止めることも出来ないです。
その他不可能なことは挙げればいくらでもできるでしょう。
やはり、人間には深い可能性があって、頑張れば何でも出来る、という思想自体が間違っていた、ということでしょうし、その通りでしょう。
その何でもできる、という思想が吟味されることなく、とにかく猪突猛進になって行動することだけがよしとする思想文化にあきれ果てた人が、こういう社会思想に疑問を抱き、そして批判を表明する、ということでしょう。
やはり何事も、わき目もふらずに行動し続けることは良きことでも、し過ぎはよくないですし、それについて吟味は必須です。
その際に、思想を矯正するいろんな解決策を求めるのも、また人間の普遍的な原理という気がします。
先の思いを表明した田口ランディ氏は、浄土真宗の阿弥陀仏に縋ることで、その気持ちが晴れたということです。

私としては「そういう手段もあるんだ…」ということでしたが、何はともあれ、そういう精神の回復がなされた事には万般の拍手を贈りたいというのが正直なところです。
人間は、人智を超えた存在に縋ることで救いを得ることができるのは、古今東西変わらぬ事実のようです。
その救われた経験から、身の回りにいる人に、その対象を教えて、その人にも縋ろうと勧める。
それによって、精神が救われた気になり、風光明媚で明鏡止水な気分になる。
これ以上の至福な気分はないということでしょうか。
「自分の力でいつでも善をなしうると思っている人は一心に本願をたのむこころが欠けているのだから、阿弥陀の本願に沿うものではない。
しかし、そのような善人も自力の心を妄念であると気づいて本願力にすべてを任せることが出来るならば、阿弥陀如来の真実の世界へ生まれることが出来るのである。」
こうしたためたのは親鸞(下写真)ですが、この人は、仏道に入ったきっかけが天台宗の延暦寺だったのですが、その内容について主に教団のシステムに対して疑問を抱き、その天台宗の崇めの対象であった釈迦如来ではなく、阿弥陀仏に縋ることで精機を見いだしたのだといます。
こうなると、やはりこれこそが信仰の対象と思い、とにかく猪突猛進になって、その教えを衆生におしえたくなり、いや教えなくてはならないという気持ちになり、誰が頼んだわけでもなく、当時の政府だった朝廷からいわれることもなく自主的に布教に励んでいったのです。
まさしく使命感というものの強さには敬服せざるを得ないものです。
このように、先に挙げた田口ランディの言葉にせよ、親鸞の生涯にしろ、興味があったら覗いてみてはどうかという気にはなります。
しかし、啓蒙思想が全て誤りだったわけでもありません。
啓蒙思想によって人類が救われた部分も多かったし、今の人たちもそうです。
親鸞の思想が今になってその良さが認識されたとは言っても、万能の宗教など、この世に存在しないということは自明の理です。
あまりに猪突猛進すぎると、その良さばかり議論の俎上に上り、欠点に関してはおざなりのままで終わってしまう可能性が大いにありますから注意が必要です。
そのことを認識した上で、宗教に入り、そのことを頭の片隅に置いたまま吟味しながら接していくことが現代人には求められるのではないでしょうか?
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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