偉大なる開祖の教義は従来の教義に抗って打ち建てられた?そして、その開祖の教義も抗わられる運命に? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
社会とは不変であることはないのです。
ゆえに、変動が起きた場合に、どのような処置をすべきかが問われるのは言うまでもないのです。
その宗教に入った時に、あまりにその開祖が偉大だった場合に、次代の長のくだした処置に反対が出てしまうのも、古今東西変わらぬ事実のようです。
その場合、その長のくだした内容に賛同ならば、その団体に残ればいいし、反対であれば抜けて別団体を作ればいいでしょう、としか言いようがないのです。
このようにして、古今東西いろんな宗教団体は分裂をくりかえしてきました。
しかし、翻って、こと開祖のしてきたことも、従来のものに抗ってきたものであることを忘れてはならないでしょう。
親鸞(下写真)の生きた時代においては、妻帯は僧侶にとって厳禁なものでした。

おのれの一切の欲を断ち切って、俗世から離れるという見本を民衆に見せなくてはならないのだから、異性を娶るなどもってのほか、という認識だったのです。
それをどう考えるかは人それぞれでしょう。
そして、親鸞の生きた時代はまさに大変動の時代であり、古代仏教では生物を殺すのは禁忌だったのですが、こと鎌倉時代は、魚を採って生計をたてて生きる漁民が出現していたのです。
そして当時は、戦乱の世であり、戦さで相手を殺さないことには自分が殺されてしまう時代だったのです。
これもまた禁忌に触れる行為だったのです。

そこで親鸞の認識はこうでした。
古代仏教で戒められていたことをおこなわなくてはいけない悪人でも、阿弥陀仏に帰依すれば、死後、極楽に往生することができる、ということでした。
これがまさに悪人正機説だったのです。
当時は、「悪人でも成仏できるなどというのはなんたる不埒な思想か!」と誰もが憤ったでしょう。
しかし、つぶさに内容をみると、悪い犯罪をおかした人でも成仏できるということではなく、古代仏教で禁忌とされたことを日々していかなくてはならないわれわれ悪人でも成仏できる、ということです。
こういう誤解が生まれてしまうがゆえに、親鸞は、衆生にはたやすく悪人正機説を説くなといっていたようです。
念仏に帰依する覚悟のある人にだけ説けとしたようです。
まさに当時の民衆の側にたった救済的な理論だったのです。
そして、妻帯においても日ごろから考えていたのでしょう。
「恋愛をして、そして結婚するからこそ人は強くなれるし、幸せになれる、なのに僧侶は…」
このようなことを。
鎌倉時代の新興仏教の祖であった日蓮にしろ、道元にしろ、親鸞にしろ聖徳太子(下写真)に生きていたのです。

聖徳太子が建てたとされる四天王寺に赴いて、その憲法のうちの2条に「仏法僧を敬え」としたためられていましたが、それを日蓮にしろ、道元にしろ、自身の教義にそのことを盛り込んだのです。
そしてニュアンスは違えど、親鸞も例外ではなかったのです。
そしてよく親鸞は行き詰まると聖徳太子に助けをも求めたと言い伝えられます。
聖徳太子の御廟で受けた「磯長の夢告」が有名です。
「あなたはあと14年しか生きれない」…聖徳太子が祀られている四天王寺の六角堂で、聖徳太子の姿をした救世観音からこういうお告げを親鸞は受けたのです。
またのちの機会には、「もし修行者が過去の行いによって不淫戒を破り、女性と関係しなければならないのなら、私が玉女となって現れて関係を持ちましょう。そして生涯修行者の人生を飾り、一生添い遂げ、臨終の際には極楽に導きましょう」
と聖徳太子の観音はいったということです。
これを機会に、親鸞は妻帯を赦し、自身も妻帯したのです。
衆生の味方になって阿弥陀仏の功徳を説きに衆生の中に入っていったことが有名ながら、妻帯をも庶民の側に立って報赦したのです。
これは仏教弘教の最大の功労者として崇め奉られていた聖徳太子が、仏教界において影響力のあろうと思われる人に、よき方向へ行くと思われる指向を託す計らいをしたのではないか?そんな気がするのですね。
肉食は致し方ない、妻帯も致し方ない、でも古代仏教においては禁忌とされている。ではどうすれば…そんなことを親鸞は悩みに悩んでいたのだろうかと思います。
やはり社会はいつも動いている。
不変であろうはずがない。
そこでどのような策を弄すべきかが、やはり問われているのではないか?そんな気がするのですね。
その変化において、それを支持するかしないかはその人の自由です。
しかし、その支持した結果、自分に逢着した事柄についてはすべて自分の責任であるということを脳内に入れておかないといけないでしょう。
そんな仏教弘教の最大の功労者として崇め奉られていた対象が、自分の元にやってきて、アドバイスを降したのだから、肉食も妻帯も今では許されてしかるべき、という強い自身になったことは間違いないでしょう。
こういう、従来の事柄から抗うことで新宗教は出来上がったというのが通底する現象なのです。
ゆえに、その新宗教ができてからも、そういう変化の波は現れるのが当然です。

その新宗教の教祖が建てた教義に対して、それを曲げたり、削除したりするのは最大の御法度という気持ちになってしまうのはよくわかりますが、時代はいつも動いている、ということを忘れてはならないでしょう。
偉大なる開祖の教義をも変化させなくてはならないことは往々にして出てくるのは必然です。
そんなことを、宗教を研究していく上でいつも考えてしまうのです。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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