社会を変えるのはいつの世も変わり者?親鸞も例外ではなかった? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というものは研究していくとわかりますが、やはり社会変動に伴って、それにそぐう感じで自身の宗教も変動させなくては支持を得れない、ということがわかります。
古今東西、既存のものを保存しておこうという勢力は必ず存在していて、その既存のものを一切変えないようにする勢力と、それを時代にそぐうようにしようという勢力との対立は必ず起こるようです。
そのどちらにつこうと私がとやかくいうものではないようです。
自身の脳で考えて行動して、自身くだして行動した結果はすべて自身で負ってくださいというのが私の立場です。
浄土真宗の親鸞が今も支持されるのは、出家仏教(人里離れたところに、共同体をつくり、時代や社会と離れたところ人間としての独立を回復させようとする)ではなかったからだということです。
親鸞もまた既存の仏教とは違う立場を貫き、行動していったことで反感を買ったのはよくわかります。
しかし、そういう声をよそに毅然と行動していったのはさすがですね。
社会を変えるのは、いつもこういった変わり者なのですね。
これまでの既存のやり方や思想で、社会を変えた例は私の知る限り1つもないです。
親鸞(下写真)は、それまでの仏教とは違う形で実存共同体を作るのが、目的だったのです。

その象徴的な言葉が「非僧非俗」でした。
まさに僧にあらず俗にあらず。
従来の僧侶というものは妻子などなく肉や魚は食べず、悟りを開くのが目的だったのです。
しかし、親鸞は妻も子供もいて、肉や魚を食べて、悟りを開くこともなかったのです。
これがいわば非僧です。
世俗にまみえることなく、1人ひとりにとって救いとなる教えていこうという明確な意思があった。
こういった行動こそ、まさに伝道というものでした。
まさにイエス.キリストと行動は一緒でした。

まさに親鸞は聖書を学び、それによってヒントを得て、行動に結び付いたのです。
変わり者が社会を変える、ということを先に指摘しましたが、そのための行動のヒントはどうすれば得れるかは、やはり既存の書物からは得れず、新奇な書物によって得ることができるのです。
親鸞が学んでいた聖書は、景教といわれるネストリウス派といわれるキリスト教の一派の人間がもたらした『世尊布施論』というもので、それを親鸞が読んでいたとして、西本願寺に保存されているのです。
その内容については以下の電子書籍.ペーパーバックに書いてあります。
それが親鸞の元に届いたということは、やはり神や仏という人智を超えた存在が、親鸞に諭し、非僧非俗の行動をとらせようとしたからだろうという気がします。
その書物を親鸞が読んで、行動に移させることを目的だったのではないか?
そんな気がするのですね。
当時の僧侶たちは、経文を唱えて、弔えばそれだけで生活していけたのです。
しかし、親鸞はそれだけでは物足りなく、僧侶のあるべき姿ではないと悟ったのでしょう。

この教えを衆生にわけいって教えなくければ、という使命感が親鸞の全身にインストールされたのだとしか思えないです。
今は紙がふんだんにあり、当然本もたくさんありますからそんな気にはならないでしょう。
それらから主体的に学んで自分の哲学を構築せよ!人から教えてもらうのを待っているな!と声高に私は言いたいです(笑)
ゆえに親鸞にように衆生にわけ行って教えを説くなどということは私は面倒くさいのです(笑)
こういった社会背景を考慮に入れれば、1つの宗教に入って、それだけにぞっこんになるのはおかしい、と思うのですが、ある宗教にぞっこんになってしまった人にそのことを諭すと、「そんなことない!」と突っぱねられるのがおちです(笑)
こう書くと私が無神論者と思われるでしょうがそんなことはないです。
神や仏といった存在には畏敬の念を持ち、世の中を良くしていこうという気概は並み以上にあると自分では思っています。
そんな立場ですが、そういう立場にや親鸞の知られざる歴史に興味のある人には以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めしたいです!
●以下よりどうぞ!(※ペーパーバックとは、注文が入った後に、印刷.製本されて発注者のお家に配達されるシステム本の事です!)
⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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