小乗ではなく大乗の立場に立った親鸞の思想は、どのように偉大か? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教を大きな視点で俯瞰していくと、やはりどの宗教もうつりゆく社会との兼ね合いを考慮して存続していったのがわかります。
開祖の言ったことだからといって、そっくり兼ね合いを論じないまま、現代社会で通そうとすること自体不可能ですし、そんな行動をしていては、その宗教は取り残されてしまうということが危惧されます。
例えば、日蓮正宗系の宗教では、いま朝5座、夜3座の勤行をしています。
しかし、元をたどれば朝は12座していたのです。

そんな多くの座をできていたのは、誰もが自営業で、働き場がすぐ家の近くにあった時代だからです。
ゆえに可能だったのです。
しかし、戦後誰もがサラリーマン化して、職場が家から30分や1時間以上もかかるところに行かなくてはならない時代になってしまっては、とても12座などできないことになったのです。
ゆえに、朝5座ということになったのでした。
私の祖母は、「日蓮正宗 創価学会」という名目だった時代に、創価学会員になり、その時代の経本を見せてもらいました。
そこには本当に12座分が書いてあったので驚きました。
そういう時代背景を考慮に入れずに、「日蓮大聖人様が言ったことゆえに…」ということで、信者に12座も課していては誰もが信者を辞めたことでしょう。
やはりどの宗教も変動を余儀なくされるのです。
こう書くと、規律のない朝礼没改を勧めるような意見者のように映るかもしれないですがそうではなく、変動を余儀なくされながらも、その変動の際はきちんとした考慮を経て、信者のだれもが納得のいくような説明責任を負わなくてはならないのが宗教だ、というのが私の立場です。
しかし、それでも完璧な決定などないがゆえに、その変更を行ってもやはり、不満者が出て、その団体からの脱退者が出てしまうのが世の常である、ということも重々承知しているのです。
こと、親鸞の浄土真宗も一緒でした。
「宿業は自分の生きている根のようなものだから、切ったら死んでしまう。ならば宿業から離れず宿業因縁のままに助かるか、自分の中に具体化できるか」という問題意識が親鸞の中にあったのです。
人間はどんなに愚かであっても、阿弥陀仏の前では許される。

ありのままの姿が、そのままの大非の働きであるとしたのです。
それは、大乗の立場に立った意見なのです。
悟りを開いた少数者だけが救われるという小乗の立場とは逆に、誰もが救われるとしたのが大乗の立場なのです。
そういう立場であれば、世間の大半を占める大衆寄りになり、その大衆をつぶさに観察して、その立ち場になって理解をしていくのが自然な成り行きでしょう。
そうなれば、僧侶であろうが、一般大衆であろうが、生活の内容は一緒、という考えになってもおかしくはないでしょう。
親鸞は、人間は愚かで弱く、煩悩から逃れるのは到底無理だから、もう煩悩の中に立ってしまえと全く発想を転換させたのです。
ゆえに妻帯したのでは?という疑問が出てもおかしくはないでしょう。
当時の仏教界においては、妻帯することなどもってのほかだったのです。
すべての煩悩を捨てて、民衆の範にならなくてはならないがゆえに、そういった根源的な情をも捨てなくてはいけない…だから僧侶は妻帯してはならなかったのです。
しかし、民衆と僧に分け隔てはない、という思想からか、煩悩を完全に断つことなど不可能だし、その生活が決していい方向にはいかないと数多の実情を見てゆえになのかはわかりかねるが、親鸞(下写真)は妻帯を自らしていったのです。

それには賛否両論が渦巻いたのは必然でしょう。
また、魚を採って食べる、あるいは魚を採ってそれを売る漁民をも放免したのでしょう。
古代仏教では、生物を殺すことを強く戒めていたのです。
しかし、その食べることによる至福の感情や、食べた後の体の体調の良さなどを綿密に知れば、やはりその禁忌を破らざるを得ない成り行きをそっと見守らなくてはならなかったのでしょう。
しかし、罪は罪である。
その罪を犯さざるを得ない悪人と民衆を規定したのです親鸞は。
しかし、その悪人さえも阿弥陀仏に帰依すれば死後、極楽浄土に往生することができるとしたのです。
それが悪人正機説なのです。
悪人さえも往生できる、ならば率先して悪事をおこなってやろう、と親鸞の言ったことを曲解する人が出てくるのも必然でした。
しかし、実際は悪事をしてもいいということではないのです。
こういう誤解をする輩が出てくるから、一般民衆には悪人正機説を説くなと親鸞は戒めていたのです。
真剣になってこの私が言ったことを理解しようとする人にだけ説け、と親鸞はいったようです。
そこは抜かりないですね。
ことは、選民思想に凝り固まって一部の人間しか救済されないとする立場と、そうではなく一般民衆でさえも救済されるとされる立場の2つがありますが、そのどちらを選択して、持論を展開するのかは自身任せにしてくれとしか言いようがないのです。
やはり現代社会であれば民主主義思想がいきわたって、選民のみが救われるなどという立場に与する人など皆無だろうと思われますが、そうでない人は必ずどの世でもいるのです。
そういった考えを完全に矯正することなど不可能なのです。
ゆえにその矯正は、ご自身が「直さねば!」と自発的に思いに至るまで待つほかないのです。
そして、その選民思想を展開した結果、自分に逢着した結果についてはすべて自身の責任である、ということをお断りしておきたいのです。
しかし、親鸞は自身が生きれるのも、すべて民衆がいるからこそ、という立場だったからこそ、大乗の立場になり民衆にわけ行って、浄土思想を説いて回ったのです。
その偉大なる思想には私は万般の賛同を寄せるものです。
その「すべて民衆がいるからこそ」という点が非常に大事で、それが多くの人の共感を得て、多くの信者を輩出し、それのみか偉大なる実業家を多く生み出したのが浄土真宗なのです。
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⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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