どの偉大なる宗教も雑種性が基本にあり?ゆえに自身で至高のカクテルを作って人生哲学を構築すべし、浄土真宗信徒も? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教に嵌ってしまう人の観察をしていくと、どうしても「その宗教で言われていることに無批判」ということが挙げれると思います。
偉大なる宗祖が言ったことだから、開宗から何百年も生き延びてきた偉大なる宗教だから、といった理由でその宗教に無批判になってしまうのでしょう。
また、その宗教の大きな境内に足を踏み入れるとどうしてもその壮大さに圧倒されてしまうのですね。
かくいう私もです。
奈良の東大寺の大仏を目の前にした時にはあまりの大きさと威厳に精神が吸い込まれそうになった思い出があります。
また東京池上にある日蓮宗の本門寺の境内に足を踏み入れた時に、あまりの荘厳さに心清らかになったこともありました。

その効用や威厳については、人間にとって必須のものでしょう。
自分の精神を洗い流すことにおいても、神仏の依代に触れて自分のサイズにも向き合っていくうえでも。
しかし、心してほしいのは、どんな宗教も幾多の変遷を遂げて今まで生き抜いてきたということです。
宗祖の言われたことだけをそのまま踏襲してきたわけではないのです。
こと一般人の人間も一緒です。
いろんな情報に触れて、いると思われるものはを脳内に入れて、不要と思われたものは捨てて、そして考え、行動していったことで自分の哲学を形成して、今まで生きてきたのです。
ゆえに、宗教だけでここまで生きてきたわけではないのです。
しかし、宗教で言われていることだけは無批判になってしまう(笑)。
ちょっと滑稽ではないでしょうか?
日本で一番大きな宗教団体である浄土真宗は親鸞の教えを継承した団体です。
この団体は、ただ阿弥陀仏に縋ればいいとしたのです。
これを他力本願というのですが、その逆に自分の力で努力して地上に浄土を築けとした宗教を自力本願というのです。
浄土真宗の信徒は、自分からという発想で物事を見ていくと親鸞のおっしゃる言葉とどうしてもすれ違ってしまうのだ、という経験があるようです。
自分から外を見ていく、自分から人を見ていく、自分から真理を探すといった態度をしているとどうしてもそういう事態に直面するのは必然でしょう。
世間一般は、学校教育からして自力を奨励しているのが普通ですから。
しかし、浄土真宗は、自力は自らの努力や修行、善い行いをすれば悟りを得られる極楽浄土へ行けるという教えを基本とするのです。
しかし、人間はどれだけ真面目にこつこつ努力しても真の意味の真実にたどりつけない。
そのことをしって、他力イコール阿弥陀仏に本願力の働きにお縋りつくのが最善ということなのでしょう。

これは人類に必須の考えでしょう。
科学の発達によって、古代の人たちができなかったことが現代ではかなり可能事になったのです。
それを創始したのはほかならぬ人間なのですから。
その精神の根源は、事物を構造的に明らかにして、それから以降、人類に必要なものを創り上げていったのです。
ゆえに、この過程を経れば、何もかもが可能になる。
可能にならないものはない、という土台的な思想が科学精神を支えているのです。
しかし、何でも科学によれば可能という思想はやはり限界にきているのでしょうか?
どんなに科学が発達しても、地震を止められるわけでもないし、雨をやませることも出来ないし、地球をつくることだってできないのです。
しかし、だからといって「人間はどれだけ真面目にこつこつ努力しても真の意味の真実にたどりつけない。
そのことをしって、他力イコール阿弥陀仏に本願力の働きにお縋りつくのが最善」という考えは、全般的には賛同しかねる、というのが私の正直な気持ちではあります。

こういう考えだけで走ってしまっては、主体性が薄れるのは明白でしょう。
そこでやはり自力や積極的な行動理論などと、他力本願は中和すべきだと思うのです。
どの程度自力本願で、どの程度他力本願かはその人それぞれでしょう。
その割合は人それぞれです。
各自、自分の頭で考えてその割合の至高のカクテルを自分自身で作り上げて人生を生きる、それが重要と思うのです。
今や地球上にはいろんな観念が存在しています。
その観念は、誰もが入手できるがゆえに、それについて書いた本なり冊子なり資料なりをよむことで合体してしまうのです。
自力本願がいいとしていた人でも、他力本願について書いた本を読むことで「一理ある」ということで納得したなら、他力本願の観念を取り入れるでしょう。
これは何も恥ずべきことではないのです。
そのように人類はこれまで発展してきたのです。
かくいう私もそうです。
こと仏教だって、無から発生して純粋培養されたものなど1つもないのです。
それは断言します。
「阿弥陀というのは無限なる光、無限なる智慧、無限なる命など、いろいろな意味がある。その無限なるもの=アミターがいつでも見守ってくださっている働きを阿弥陀といいます。」
このように浄土真宗では講義されますが、この教えだってユーラシア大陸から渡ってきた思想と融合して出来たものなのです。
決して日本だけの文化で創造されたものではないのです。
阿弥陀仏にしろ、それを飾ってある本願寺にしろ、閲覧すれば純日本風のいでたちをしていますが、それは当初はユーラシアの色を持ちながらも、徐々に日本の風土に合うように変性していったのです。

事の起源をたどると非常に興味深いです。
先の「アミターがいつでも見守ってくださっている」という教えにしろ、何かキリスト教めいていないでしょうか?
そうです、浄土真宗はキリストの教えを入れてきたのです。
「そんなバカな!」と思われる向きもあるでしょうが、実際入れてきました。
浄土教にしろ、日本発祥ではないのです。
中国の浄土教が土台にあるのです。
その中国は、ユーラシア大陸上の、キリスト教発祥のイスラエルと地続きです。
そうなれば、必然的にキリストの思想が中国に伝わってきて、その教えと融合して日本に渡ってきたのです。
そういう雑種性をどの宗教も持っているのです。
遣唐使や遣隋使は日本から中国にいって、当時最先端の中国の文化や宗教とくに仏教を学んできた僧が日本に仏教を伝えたのです。

ゆえに、それだけでもキリスト教の教えが入っているのがわかります。
もちろん、道教やヒンドゥー教、ゾロアスター教もありました。
その内容については、ここで書くと膨大な量になるのでやめておきますが(笑)、とにかくいろんな開祖たちがいろんな情報のカクテルを作ることでいろんな仏教宗派ができた、ということです。
ゆえに、これからも時代の変遷によってカクテルの調合具合は変わってくるでしょうし、変えなくては生きてこれないでしょう。
そして宗教信者も、自身で最高と思われるカクテルを作ることが大事なのではないでしょうか?
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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