古代から近代までの時代と、それ以降から今までの時代では宗教へのスタンスは違って当然?それは何故? (2026年8月4日)
こんにちは。
宗教とくに仏教は日本人にとって、なじみの深いものであるでしょう。
仏壇のある家庭は多くありますし、葬式は仏教式でやる家庭も多くありますし、江戸時代においては寺子屋といってここが子弟の教育を施す最高の機関だったのです。
しかし、それも今では政府の管轄である学校にとって代わられています。
そこで、仏教機関に入ってそこで悩みの相談を打ち明けて、打開を図ろうとする人も多くいるようです。
浄土真宗の親鸞が以下の言葉を読んだ悩みを持っていた人がいるようです。
「兎や羊の毛の先にある塵のような小さい罪を犯すのも、すべて思いを超えた無限の因縁が背景にあると感知すべきである。
見えるか見えないかの小さな罪ですら、宿世からの因縁であり、現世での報いとしてこうむる。
たとえ、自分に重い背景があったとしても、それは自分を成り立たせている大事な背景なのだと理解できれば、重い過去が大事な過去になり、喜んで引き受けて立ち上がっていけるというふうに変わって行くのでは?」
ということです。
ピンチはチャンス、宿業を恨んで戦っていても消耗するだけです。
一方、受容できると自分の命、存在というものの価値が変わり、勝ち負けだけの価値観から離れることはできないということでもあるのです。
両手両足切断の旅芸人の中村久子は、この親鸞の言葉に出会い、自らの生涯を受け入れ、明るく生きることで周囲の人々を照らしたようです。
つらかった人生が喜びに代わったということです。
それだけで意味があると実感したようで、精神の蘇生が見事叶ったようで、万雷の拍手を贈りたい気持ちになったのです私は。
こういうカリスマ的な宗教者の言葉は誰もが真摯に読んで、そこから意味を探ろうとします。
そして、そこから人生が劇的に好転する様子を見ると、やはりカリスマ的な人間はなろうと思ってなれるものではないのだなあと感心するばかりです。
しかし、こういう蘇生劇は浄土真宗だけのものではないのが、いろんな本や冊子を読んでいくとわかります。
幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏の遺した『太陽の法』(下写真)は、幸福の科学では古典的な名著であり、この本を読んで見事、魂や精神の蘇生がかなった例を、当会の冊子で見ることができるのです。

大川氏曰く「人間だれしも、人生の課題を携えてこの世に生まれてきた。その課題を克服するための人生だ」ということです。
夫に先立たれて多くの子供たちを女手1つで育てていかなくてはならなくなった夫人、夫が重度の認知症になって介護と家事を両立しなくてはならなくなってしまった人、事故で足を切断してしまっ手先の人生真っ暗になってしまった人…こういう例が世界各地で列挙されているのですが、いずれもこの『太陽の法』を読んで、感動して、精神の蘇生がかなっていまは充実した人生を送っているということで、その大川氏のカリスマ性には驚嘆するものを感じました。
私がこういう似たような文言を書いて本にしても、読んだ人がこのような蘇生劇を歩むかどうかは全然保証の限りではないのです(笑)。
また大川氏はこの著書の332頁から333頁にかけて以下のように書いています。
「黄金の勇気を奮い起こし、黄金の鉞をふりあげ、迷妄という名の大木を切り倒すことです。力強く鉞を打ち込んでいくことです。自らの悩み、苦しみ、あるいは運命のしがらみに勇気をもって打ち勝っていくことです。そして、黄金の勇気をふるって自らを縛る運命の糸を断ち切ることです。……その途中で、放棄してしまいたくなるような苦しいときが必ず来るのです。その苦しい期間を通りすぎると、なぜか足が軽くなり、最後まで走り続けることが出来るのです。」
これもまた理路整然として清純な文章であり、カリスマ性を感じるものですし、これは非常に励みになる言葉です。
これが、大川氏(下写真)の多読によって得られたものなのか、事実エルカンターレという仏陀やキリストやムハンマドといった世界の大宗教者を指導した超越神が大川氏に下生していたからなのかはわかりません。

それを検証するすべは私にはありません。
しかし、その信仰に値する資質は大いに感じるものです。
このように、現代では宗教に入信しなくても、素人の立場から、いろんな本を読んで、苦境に立った時の蘇生法や、励みになる言葉を探すことが可能なのです。
本をかなり安価に入手して、そこから学ぶべきものが得れるからです。
そこから精神的な蘇生が可能だからです。
先の中村久子氏の体験談を読めば、浄土真宗に入ろうかなと思われる向きもあろうかとは思いますが、そうではなく、いろんな本を濫読することで、そういう言葉に出くわすことは充分に可能なのです。
こういうゆえに、私は1つの宗教だけに拘泥はしないのだし、1つだけの宗教を勧めることも出来ないのです。
どうしても1つの宗教だけに入りたい、という人があったら、いろんな宗教の本を読んで、「これだ!」と思うものにはいればいいのではないか、という言葉しかかけようがないのです(笑)
先にも指摘したように教育は江戸時代の寺子屋ではなく政府による学校に移動したのもさることながら、自身でいくらでも本を読んで自己を啓蒙することができるのです。
だから宗教は不要…そうは言いません。
宗教からは学ぶことはいくらでもあるのですから、真摯に学ぶ姿勢を永続して生きたいと正直に思っているのです。
それはどんな内容かは以下の電子書籍.ペーパーバックに書いてありますので興味わいたかたは読んでみてくださいませ!
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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