宗教のバックグランドを幅広く、奥深く探っていくと意外なる事実が隠されていることを知ることができる?それを知る喜びを知ったら1つの宗教に拘泥することはできない? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
日本は大学への進学を希望する人が高校を卒業する人の半分以上いるということで、かなりその競争が熾烈を極めていたのは明白でした。
そのために、必然的に、その出題は記憶だけを頼りにしたものになる傾向があったのも必然でした。
ゆえに、ただ脳内にいっぱい知識を詰め込むことが中心にならざるを得ないのです。
すると、暗記ばかりにバイアスがかかって、脳内で思考することがおざなりになってしまう。

ゆえに日本人は考えることが苦手である。
ゆえに創造力が欧米に比べてない、というような主旨の本を大学時代に読んだことがあります。
確かに、知識だけを問う傾向になれば、思考することがおざなりになることは明白で、そういう考えることをおざなりになってしまう人が多く出てしまうことは否定できないでしょう。
そのために、「大学での勉強は単に知識を詰めるだけでなく、自分の脳内で考えることもしなくてはいけない、その過程で培った哲学が社会に出て重要になるんだよ!」といったことを言っても暖簾に腕押し状態になってしまうのもまた否定できない事実でしょう。
しかし、考えることをおざなりになってしまう人が多く出てしまうのは全部が全部、受験戦争に起因する、という意見には与しがたいのもっじつです。
それまでの受験勉強ゆえに学生や教授の全員が全員、考えることをおざなりになった祖述ばかりの論文を書くようにはならないのも明白です。
やはりどの世でも古今東西、人を唸らせる論文や本を書く人は大勢出てくるわけです。
受験地獄を生き抜いてきた人でもです!
思考することをおざなりにした祖述だけ、あるいは抜き書きばかりの論文や本を書く人は、そんな大学受験が熾烈ではなかった時代にもいたのです。
それはその年代の本を売っている古本屋に行って確かめてみるのがいいでしょう。
ゆえに、祖述ばかり、抜き書きばかりの論文や本を書くことしかできない人は、もともとそういう文章しか書けない、要するに資質のない人なのです。
受験戦争云々ではない気がします。
私が、このように考えざるを得ないのは、やはりどの時代のでも読者を唸らせる著者、学者がいるからです。
多くの人と話してきましたが、どの人もそれぞれ自身の頭で考えて創り出した哲学を持っていることが明らかです。
もちろん、全然考えることを放棄している人もいますが(笑)
しかし、大学に来て思考することを踏まえながら、学問を愉しみたいというのならば、いろんな本をむさぼり読むことをお勧めするのです。
それによって、いろんなことを深く広く学び、脳内が大きな気宇に包まれてものすごい快感を感じることができるからです。
これほどの楽しさはない、と断言します。
しかし、どの世でも読書が苦手で、どう頑張っても読めない、という人も古今東西いるわけで、そういう人には学問は楽しめないと諭すほかないのです、残念ながら…。
そういう読書が苦手な人で、大学受験を勝ち抜いてきた人は、非常に覚えるのが得手ですね。
それは私も舌を巻くほどで。
しかし、何か宗教の事について、出くわしたり、ある宗教に入ったら、そこで教えられていることだけを覚えて、それで終わりということが多いようです。
私が、ある人たちに勧められて日蓮正宗の信徒団体だった創価学会にはいることにしましたが、あまりに同じことを新聞や講演で話さなされているだけなので辟易して、新聞購読も中止し講演にも全くいかなくなりました。
しかし、そこで毎回唱える自我偈というものは天台宗由来で、天台宗でも、日蓮と同じくそこで学んだ道元の開いた曹洞宗でも唱えられているものなのです。

これには驚きました。
これを知っただけでも、日蓮正宗や日蓮宗が至高のものではないことは明らかでしょう。
日蓮が無から有を生み出したものではないのです。
その他、崇拝する対象の名を声を出して唱えることで救われる、という考え自体が、キリスト教由来で、古代仏教にはなかったものです。
また、日蓮自体が、いろんな念仏や天台や真言や儒教、道教といったものを学んで、自身の宗教に取り入れたものだということは資料から明らかなのです。
ゆえに、日蓮こそがこの世で最高の宗教者ということは言えない、ということを言っても、日蓮系の信者たちは取り合ってくれないのです(笑)。
今自分が学んでいる内容だけでなく、その背景を形成しているもっと奥深い事柄をまで広く勉強しようとしない姿勢にははっきり言って辟易してしまったのです。
やはり、知識をつめこめばそれでいい、とする時代の産物なのでしょうか?
そんなことはないのです。
奥深く探求していこうという気概が持てる人は全体的に古今東西少ない、という気がします。
これは好奇心が旺盛ではないから、失格などということを言おうとしているのではないのです。
…でももったいないなというのが正直なところです。
あるひとが神道に入って神道の三社託宣(天照大神、左に八幡、右には春日大社)を教えられたとします。
しかし、これは神道特有のものなのでしょうか?
これはキリストの三位一体に由来しているのです。

これは誰が伝えたのでしょうか?
こういう考え自体が仏教にも儒教にもない代物なのです。
しかし、神道に入った人は、大抵、そこで教えられたことだけを暗記してそれでおしまい。
そして、その神道で祀られている神様に縋ってそれで満足…これだけではもったいないですね。
これは、7世紀の昔に、聖徳太子のブレーンだったユダヤ人の秦河勝(下写真)が伝えたのです。

この人は、景教といわれるキリスト教.東方ネストリウス派といわれる宗派の人間だったようで、日本全国にキリストを祀る神社を作っていったのです。
この派では、父と子と聖霊という三位一体の思想を主幹として携えていたのです。
それが、この人の作った神社にも盛られたのです。
その影響で、三社託宣の思想に繋がったのです。
右手でわっかを作っているのがまさに三位一体なのです。
それが鳥居にも表れているのです。
蚕の社が有名です。
また、秦氏が作った広隆寺の菩薩像も右手でわっかをつくっています。

この寺は、まさにキリスト像を祀るキリスト寺だったのです。
昔、神を祀る所でも、寺と名乗っていた箇所はよくあるのです。
私が最近行った石川県の観法寺、これは日本史の教科書に出てくる行基という僧侶の作ったたくさんある寺のうちの1つですが、実際足を運んだら、これは神を祀るお寺でした。(上の写真が観法寺の道しるべ、下の写真が入口の鳥居です)

面白いでしょう?
こんにちのように、神は神社に、仏は寺にという画然とした境界線はなかったのです。
景教においては、読経のようなことを1〜2時間かけて行うのですが、その様子はまるで仏教のようで、今の海外の景教の人たちが日本に来て、仏教のその様子を見ると、その類似性に驚くようです。
また景教では香炉で煙をたくのです。
これはまさに日本の線香のようだといいます。
ユダヤ人は礼拝のために香をたくのです。
これはモーセの幕屋の時代からあります。
数珠は仏教もカトリックも景教も経文を読むときに使います。
非常に興味深いでしょう。
ユダヤ、そしてそれから派生したキリスト教の民たちが、すでに7世紀の昔に日本に来て、その宗教のみならず、文化を伝えて、こんにちまで深く影響を及ぼしているのですから。
小学校の日本史から「日本にキリスト教が伝わったのは1459年のポルトガルの宣教師ザビエルが来た時が最初だ」と誰もが教わったのですが、実際は違うのです。

1つの宗教だけに拘ることは私にはできないのです。
いろんなものが折り重なって、こんにちの状態を形作ったのですから、この宗教だけでいいという教えには与することはできないのです。
それをも含めていろんな宗教があって、こんにちの私たちの精神生活を支えているのですから、「いずれも大事!」というのが私のモラルです(笑)
邪道かもしれないですが、この意見を変えることはしないです(笑)。
●そんな立場に興味ある人、その他、景教の日本への影響の詳細、そしてそれが親鸞にまで与えた影響の詳細について知りたい人は以下の電子書籍.ペーパーバックを読むことをお勧めします!(※ペーパバックとは、注文が入った後に、印刷.製本されて発注者のお家に配達されるシステム本の事です!)
⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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