死後の世界の詳細が不明な場合、どうすればいいか? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
死後というものは人間にとって興味深いものではないでしょうか?
こんにちにように、医学が発達して、しかも便利な文明の利器に囲まれている時代においては、それほどではないでしょうが、現代とは社会の様相がまるで違う古代や中世の人間にとっては、非常に関心の高い事であったことは間違いないでしょう。
やはりいつ死ぬかわからない時代にあっては、臨床的だったのですあの世というものは。
歴史からさか上って見てみましょう。
死は悪いところへ行くことだから、哀しいのではなく、あまりに哀しいから黄泉の国は汚く悪い世界と思われていた。
それが日本に仏教が伝わった古代の時代での文字に接することのできていた人たちの認識だったのです。
死をもつ生の悲しみを克服するには死が存在しない国、永世の国を信ずるほかなかったようで、それが推古時代の仏教は死の世界ではなく、不死の世界を人々に保証する思想であったのです。
死者はもはや暗い黄泉の世界へ行くのではなく、仏のいます命と光の明るい世界に行くのです。
そして、そのことを保証してくれるものは、寺々に安置されている美しく尊い様々な仏像でした。

しかし、そこには、まだ現世そのものを否定する思想は見られない。
この世でかなえられない生への願いが死後の世界に投射されただけでした。
日本人が現世そのものを否定する超越的な彼岸の世界に触れたのは、源信の浄土教においてだった。
この源信は浄土真宗の親鸞が天台宗の延暦寺にいた時に接した人でした。
このころにはもう仏教は多岐化していて、天台宗の従来の本尊だった釈迦如来へだけの信仰以外にも信仰の的は他にもできていた、いや芽生えていたのはわかります。
源信曰く、「真に清浄な世界はけがれたこの現世を捨てる人間の態度に対してのみ開かれるのである」ということでした。
穢土を超越した世界こそ浄土なのであるということでした。
源信(下写真)は、『往生要集』において、八つの地獄の恐ろしい姿を生き生きと描いて、この世を厭い離れ、極楽浄土を求めるべきゆえんを説いたのです。

「しかし、源信の浄土教はこの世に生きる人間存在の不安と恐れと悲しみを完全に癒すまでには至らなかった。
黄泉の国の暗い幻影を克服することはできなかった。
親鸞の真宗の核心は、源信の思想の中にあったこのような不幸の意識をすっかり克服し、永らく死後の世界の未来にだけ置かれていた浄土は、親鸞にとって遠い他界という性格を脱ぎ捨てて現世そのものを一瞬一瞬を支える根底になった。
親鸞のいう浄土とは現世がその中にある場所の事ということ。」
これは浄土真宗の住職も務めたことがある大峯顕の書物からの引用です。
つけ足しながら親鸞は、還相回向と往相回向の両方をおこなうことで、極楽浄土に往生でき、この世でも極楽をきずけるとしたのです。
これをどう捉えるかは各人に任せます。
大峯氏は、親鸞のカリスマ性にすっかり魅入ってしまったようで、その親鸞の文言だけですっかり信じてしまっていた。
ゆえに、それ以上の突っ込んだ探索はせずに、浄土真宗の住職にもなり、その論述をすすめ浄土真宗に関する本も何冊も出していったのでしょう。

その浄土教は、6世紀の中国北魏の曇鸞が明らかにし、その内容を親鸞が学んで信仰対象にしたのです。
その際に師匠として崇めた法然にとことんまで浄土教を学び、その教えを広める覚悟をして、実際に衆生にわけ行って布教していった。
それが親鸞の人生の根本なのです。
その際の親鸞の言葉は、以下です。
「この私においては、ただ念仏によって実在を回復できるという如来の本願の道を法然上人からいただいて、それを信じるのみである。
念仏は、本当に浄土という世界へ往くための原因なのか、また地獄という世界へ落ちる行為なのか、私は一切知らない。
法然上人にだまされた念仏して、地獄に堕ちたとしても決して後悔しない。」
これだけを読むと、親鸞はあの世−天国や地獄といった場所にいけなかったのではないか…そんなことを考えてしまうのです。
仏教の創始者である釈迦−インド生まれのガウタマ.シッダールタ(下写真)は、そういう能力を持ち合わせていたようですが。

しかし、親鸞が生きながらにしてあの世に行けて帰ってくる能力があった。
その親鸞思想によって死後、浄土に行けた人が、どのような行定を辿っているかを見ることができた。
その描写が非常に写実的、というのであれば、われわれは親鸞の描写した世界観を受け入れることができるでしょうが、それらがないならば信じることは留保せねばならないのではないか、と考えてしまうのです。
こうなれば、誰もが納得できるでしょうが、そういう描写がないのです。
源信は非常に写実的に地獄絵図を描いたので、源信は生きた身のままあの世に行って帰ってこれた可能性がありますが。

ただ一般人というのは学者とは違って、接する書物には限りがあるので、物事を微に入り細にわたって知ることができないわけです。
ならば、その道の専門家に訊くほかないわけですし、また少ない情報内で割り切る必要があるのです。
短期間でそういう割りきりができた人が、その宗教の信者になるのでしょう。
しかし、注意しなければならないのは、それで満足していては真理に近づく前に終わってしまうわけです。
であるならば、その手の非常に写実的な描写がある宗教書を読むほかないでしょう。
それでどのようにしたら真に極楽に行けるのかが判明するでしょう。
それが自分の属す宗教とは関係のないものであっても真摯に読む必要があるでしょう。
今は、いろんな本が安価で入手出来て、読み、自分の糧に出きる素晴らしい時代なのです。
しかも中古本ならばもっと安価にできるのです。
それならばより深く、広く物事を探求してから進み、何もかも専門家に任せずに真理に近づいたわけで、何もかも専門家に任せていた時よりも褒めれる状態であることは間違いないのです。
もしかしたら親鸞に対する研究を進めていった結果、親鸞が生きながらあの世に行けていた可能性が判明するかもしれないのです。
それならば万般の信頼を親鸞に寄せてもいいわけですが、いまのそうでない状態のまま親鸞を手放しでは信頼は寄せれないですし、保留のままです。
こう書くと親鸞(下写真)をコケにしているように見えるかもしれないですがそんなことはないのです。

それまでの偉業については非常に感銘を受けるものですし、この人から学ぶものが大いにあることは間違いないです。
ただ完璧であることには留保をつけなくてはいけないとしているので、その他についてどんどん学び続けている、というスタンスでいるだけです。
当然、私も真理に到達したわけではないのです、まだまだ学ぶべきことはあるわけですし、知らないことばかりですので。
ゆえに満足せずに、どんどん学び続けたいというのが本音なのです。
先に「自分の属す宗教とは関係のないものであっても真摯に読む必要があるでしょう。」と書きましたが、そういうスタンスはまさに親鸞が地でおこなっていたことなのです。
そういう柔軟さがどなたにもほしいです。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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