『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で有名なマックス.ウェーバーが浄土真宗に資本主義に必須の精神を見いだしていた? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教思想にしろ、一般人の思想にしろ、他の媒介から得て、それを高次に引き上げる性格であるという点に関しては一緒ですね。
世界中で信者がいて、多くの人から賞賛されるような宗教であっても、他の媒介から得ないで発展してこなかったものはないのです。
こと日本で一番信者が多いという浄土真宗でも同様なのです。
この宗教の寺院である本願寺や、その僧侶のいでたちや扱っているオブジェや教本などは、外見から見ると、いかにも和風なたたずまいゆえに、日本でだけ純粋に発展してきたと思われがちです。
しかし、その宗祖の親鸞(下写真)の生い立ちや生涯をたどっていくと、国内の情報だけでは発展せず、いろんな宗教をこの人が勉強し、それらから重要と思われる観念の数々取り入れて、自身の脳内で発酵させて、1つの教義を創りだしたのがわかります。

いろんなものを取り入れて、ということが大事なのです。
宗祖になる人は例外なく、いろんな宗教を修めてきた…これもまた共通点なのです。
深く親鸞の生涯をたどっていくと、意外なるものから影響を受けていたのがわかります。
それは何でしょう?
しかし、その前に、親鸞の宗教である浄土真宗の特異な点を指摘しておきましょう。
それは「悪人でさえも南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に往生できる」という主旨なのです。
これを読むと、悪いことをしても救われる…ならば率先して悪いことをしてやろう、とする人間が現れてしまうのが必至です。

そういう歪曲をしてしまった人は大勢いました。
しかし、そうではないのです。
「この世に、悪いことをしてこなかった人はいない。例えば嘘をつかなかった人はいない、幼少期であろうがなかろうが。盗みを事の大であれ小であれしてなかった人はない。いやなことが起きた時につい人をぞんざいに扱ってしまったことがない人がいないだろうか、ないだろう。
こういうことを一切してこなった人はいない。ゆえに我々人間はみんな悪人である。その悪人も南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生できる」としたのです。
決して悪いことを生業にしている人の擁護ではないのです。
こういう誤解をしてしまう人が出てくるから、私の言葉を聞きたいという人のみに講義をしろと、親鸞はしていたのです。
やはり上記の定義に従えば、人間は誰もが悪人なのです。
もちろん私もです!(笑)
その悪人でさえも浄土に往生できるとしていたのです。
必ず悪いことを成してしまうからこそ、人間はだれしも1日を振り返って反省と悔い改めが必須としているのがキリスト教なのです。
しかし、そのキリスト教会でも、いろんな宗派に分かれてしまい、それぞれの長の意向や価値観によって、そういう反省と悔い改めをしないところも出てきてしまうのが宗教の哀しい歴史なのです。
ならば、前の時代のその宗教について書かれた書物を読むなりして、今の自身の宗教をみなおすことが大事でしょう。
これが温故知新の精神なのです。
しかし、私が通った文系大学においては、4年間の間で社会科学を総合的に修めたドイツのマックス.ウェーバーの名を聞かなかった年はなかったです。
それくらいウェーバーは神格化されていたのです。
その地位にふさわしく、その書いた本の内容は瞠目すべきものがあったのは確かです。
そのアプローチは、宗教にまで入って社会科学を論じていたのです。
やはり社会を動かすのは人間であり、人間こそが主体なのです。
その主体を動かす精神は少なからず宗教が関与しているのが明らかです。
ウェーバー(下写真)の有名な本は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ですが、プロテスタンティズム精神が資本主義発展のもとになっているということです。

興味のわいた人はこの本を読んでみるのがいいでしょう。
ここでその詳細を展開することは字数の関係上できません。
しかし、ウェーバーの『中間考察』という別の本には興味深いことが書かれているのです。
世にある救済宗教の特徴をウェーバーは列挙しているのです。
それは以下です。
1、救済は、万人にとって到達可能だとする同胞倫理。これは選ばれた者だけが救いに預かれるピューリタニズムと相反するものですね。
2、この世は罪あるもののために作られている世界とする考え方。この世は罪を負った人間が寄り集まってできた世界である。現世の不完全さは動かしがたい事実。
3、不合理なるがゆえにわれ信ずという要請なしにやってゆけるような生命力にあふれた救済宗教は存在しない、ということ。
こういった分析をしているのを見ても、一見そうなのかねえと思われがちですが、巷にあるものを垣間見たり当てはめてみたりするとなるほどと思われる析出ができているから驚くほかないのです。
こういう析出ができる人がどれだけいるでしょうか?
しかし、2番目の分析事項は、まさに浄土真宗と一致しているのがわかります。

それがゆえにではなく、ウェーバーは、浄土真宗を自身の本の中で取り上げて評価しているのです。
盲目的に指導者に従うグルイズムが日本には発生しなかった。
禁欲思想が浄土真宗には蔓延して、衆生を商行為に向かわせて発展に寄与した。
こういった点をです。
やはり、行動に向かわせるのは精神、その精神を培うのは書物であり思想なわけです。
それらが、その際に浄土真宗はよい意味で寄与した、ということです。
これには驚きました。
大学の4年間で一度も名を聞かなかった年はなかったほど有名な大学者が日本の宗教、しかも私にとって盲点だった浄土真宗を取り上げて評価していたというのですから。
とりわけ、プロテスタンティズムと浄土真宗は、形成の仕方や歴史も受けた影響も違って発展してきたわけではないですから、教義において内容が異なっても自然でしょう。
しかし、クリスチャンと共通する面があるのは瞠目すべきでしょう。
通底するものを感じたのであるからゆえに、ウェーバーは浄土真宗を高評してくれているのだろうか。
文系の大学では、どこでもマックス.ウェーバーを取り上げてやまない。
そして、いまだに世界中でその人の本が読まれて売れ続けている。
…それくらい、高名な学者であるにもかかわらず、その人の書いたどの本も入手可能かといわれればそうではないのです。
その人の『中間考察』という本は、残念ながら廃刊になってしまっているけれども、読む価値は充分にあるのは間違いないです。
人類は誰もが悪人、罪を犯さなかった人はいない…この教えはどう見てもキリスト教から得たとしか思えないでしょう。
しかし、親鸞がキリストの教えを学んだはずはないだろう、と誰もが思うでしょう。
しかし、実際は違うのです。
西本願寺に、親鸞が読んだとされる聖書が保管されているのです。
その名は、『世尊布施論』(下写真)というのですが、その内容を確かめると見事な聖書だったのです。
これには驚きでしょう?
私も驚きました。

やはり、他の媒介からヒントを得て、それが大事ゆえに自身の教義に盛る、それが王道でしょう。
それが他宗教のであったら邪道だからしない…そういう頭の堅い考えは捨てたほうがいいでしょう!(笑)
重要と思われる事柄は自宗教だけではなく巷のあちこちに転がっているのですから。
親鸞が聖書から大いにヒントを得て悪人正機説を創始したといえるでしょう。
その考えを携えて自身の人生を心豊かにする…非常に結構なことでしょう。
しかし、反省と悔い改めに関しては親鸞は教義に盛り込んではいないのです。
しかし、浄土真宗の信徒の人で、それらが良いと思えるのであれば、それらを毎日の日課にすればいいでしょう。
もちろん他の宗教の人でも、一般人でも。
1日を振り返って、今日どんなことをしたか、そのうえで何か法的な罪にはならなくても、人を傷つけてしまったとか、環境や社会に対してよくないことをしてしまったのかどうかを考えて、もし思い当たることがあれば、それを神や仏に告白して、それを赦してもらうように願うのです。
まさに懺悔ですね。
こういうことは非常に有効でしょう。
明日よき日を過ごしたいと願うのであれば。

こういうように、いろんなことがいろんな媒体から学べる現代において、1つの宗教の教義だけを学んでいくだけでいいとする風潮には私は反対なのです。
それに、1つの宗教団体に入っていても、現代は他の宗教や本からも学ぶべきものがいろいろ出てくるがゆえに、その教義だけに拘ることがのちに教義と齟齬をきたしてしまうがゆえに、1つの宗教だけに入ることができないのです私は。
1つの宗教に拘るのはいい事でしょう。
しかし、それ以外にも学べることはどんどん学んでいって人生の途上で行動に移す、自身の哲学に上書きする、そういうスタンスが大事でしょう。
そのようにして親鸞は生きてきたのです。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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