人の心は社会によって規定される?そういうことに関心がある人は…(加藤秀俊)
こんにちは。
2023年に亡くなった社会学者,加藤秀俊(下写真)の本は私の精神にとって大きな変革を、もたらすものでした。

身の回りの事物を巧みに分析し、その分析事象を読んで読者にこれからの行方を占い、どういうおこないや言動をしていくかを脳内で自覚出来るのではないか、と思われて仕方なかったからです。
大学で習う学問とは、科学や哲学の総称ですが、その学問とは身近な事象について研究し、構造的に明らかにして、それを読んだ人が、そこに存在する問題点についてどう考えて、どう行動するかを問うものであるということがわかりました。
いろんな学問の本を読んで、そう結論せざるを得なかったです。
ゆえに誰もが学問を学び問題点を抽出した理論を知り日々の行動に結びつけなくてはらないなのではないでしょうか?
加藤秀俊の書いた本である『比較文化への視角』という本に所収の「無目標社会の論理」と題する論文には、当時書かれた60年代の日本はもうすでに工業化を達成してしまった。
ゆえに、国民全体を1つの方向へ行動づける一大動機が喪失してしまった、ということでした。
もちろん、工業はいつまでも稼働し続けるわけですが、国民のほとんどが衣食住に困らない生活になっていたがゆえに、国全体を1つのベクトルに向かわせるようなものは喪失してしまった。

それゆえに、国民の関心はバラバラで、根性論なるものはすたれていってしまう、ということでした。
その結果、日々刹那的に生きる若者があふれていってしまう結果になるのは目に見えていたのでしょう。
これには、目の覚める思いがしたものでした。
工業化を達成するまでは逆境に負けない主人公を描いた漫画なり、物語小説が人々の心に明かりを灯したものですが、工業化を達成してしまった後の社会においては、そういうものが関心を集めることは少なくなっていったのも頷けます。

その結果、どの分野においても自己目的化していっているというのだろうと思います。
工業化を達成している前の社会においては、山に登るのは自分の心を鍛えるため、という名目でしていたのが、それ以降においては、「山があるからそこに登るんだ」という国家が向かっている方向への動機付けからは離れていってしまった、ということです。
これにはかなり説得力のある論理だと思いました。
やはり社会によって、人の心は規定されるのでしょう。
人の心を捉えるものも違ってきてしまう。
経済的にあまりに恵まれすぎると、打たれ弱くなってしまう。
豊かな社会に英雄は出てこない。
そんな結果になってしまうのは目に見えてます。
そういうのを弊ととらえるならば、人とすべきことは何か。
やはり妥当な教育でしょう。

自分の子が、経済的に不自由しなくなれば、ハングリー精神を失い、打たれ弱くなってしまうのであることが、こういった社会学的な面からも明らかならば、やはり厳しく教育をしなくてはならない。
何から何まで与えてしまうのは精神的にもよろしくない。
適度にあげて、適度にあげないという工夫が大事でしょう。
しかし、難しいのは子供だけに厳しくしているだけでは、子供に健全な精神を植え付けることはできません。
その際に励ましながら教育するのがいいのか?
貶すだけでいいのか?
それには多面的な検証が必須です。
いろんな人と会い、接する中で検証を試みるのがいいでしょう。
ゆえに誰もが、大学時代にバイトをしていくのは良い手段だと思います。

ゆえに、私は勉強だけの生活には反対なのです。
そして、学問を修める際にも、1つの専門だけに拘るのは学問のアプローチとして加藤氏は反対していますし、私も反対です。
実際の社会生活においても、1つの面だけを見てこれが妥当と思われるものだけに拘るのも反対です。
いろんな方法や意見を聞きながら取り入れて柔軟に対応していくのがいいでしょう。
それによって王道が見えてくるのは、これまでの生活で明らかだからです。
やはり王道は、どの世界においても一致しているように感じます。
1つの面だけからアプローチしない、ということです。
そしてその検証と行動は永続していかなくてはいけないものなのです。
学問とは何も難しいものではなく、日々の生活や社会を良くしていくためのモノなのです。
そういうことに関心のある人には、加藤秀俊の思想には是非とも触れて、覚醒し日々の生活を生き生きとしたものに変えていってほしいものです。
●そんな論旨に興味のある人にうってつけな電子書籍は以下です。
おすすめです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終了します。
では失礼いたします。
加藤秀俊ホーム
2023年に亡くなった社会学者,加藤秀俊(下写真)の本は私の精神にとって大きな変革を、もたらすものでした。
身の回りの事物を巧みに分析し、その分析事象を読んで読者にこれからの行方を占い、どういうおこないや言動をしていくかを脳内で自覚出来るのではないか、と思われて仕方なかったからです。
大学で習う学問とは、科学や哲学の総称ですが、その学問とは身近な事象について研究し、構造的に明らかにして、それを読んだ人が、そこに存在する問題点についてどう考えて、どう行動するかを問うものであるということがわかりました。
いろんな学問の本を読んで、そう結論せざるを得なかったです。
ゆえに誰もが学問を学び問題点を抽出した理論を知り日々の行動に結びつけなくてはらないなのではないでしょうか?
加藤秀俊の書いた本である『比較文化への視角』という本に所収の「無目標社会の論理」と題する論文には、当時書かれた60年代の日本はもうすでに工業化を達成してしまった。
ゆえに、国民全体を1つの方向へ行動づける一大動機が喪失してしまった、ということでした。
もちろん、工業はいつまでも稼働し続けるわけですが、国民のほとんどが衣食住に困らない生活になっていたがゆえに、国全体を1つのベクトルに向かわせるようなものは喪失してしまった。
それゆえに、国民の関心はバラバラで、根性論なるものはすたれていってしまう、ということでした。
その結果、日々刹那的に生きる若者があふれていってしまう結果になるのは目に見えていたのでしょう。
これには、目の覚める思いがしたものでした。
工業化を達成するまでは逆境に負けない主人公を描いた漫画なり、物語小説が人々の心に明かりを灯したものですが、工業化を達成してしまった後の社会においては、そういうものが関心を集めることは少なくなっていったのも頷けます。
その結果、どの分野においても自己目的化していっているというのだろうと思います。
工業化を達成している前の社会においては、山に登るのは自分の心を鍛えるため、という名目でしていたのが、それ以降においては、「山があるからそこに登るんだ」という国家が向かっている方向への動機付けからは離れていってしまった、ということです。
これにはかなり説得力のある論理だと思いました。
やはり社会によって、人の心は規定されるのでしょう。
人の心を捉えるものも違ってきてしまう。
経済的にあまりに恵まれすぎると、打たれ弱くなってしまう。
豊かな社会に英雄は出てこない。
そんな結果になってしまうのは目に見えてます。
そういうのを弊ととらえるならば、人とすべきことは何か。
やはり妥当な教育でしょう。
自分の子が、経済的に不自由しなくなれば、ハングリー精神を失い、打たれ弱くなってしまうのであることが、こういった社会学的な面からも明らかならば、やはり厳しく教育をしなくてはならない。
何から何まで与えてしまうのは精神的にもよろしくない。
適度にあげて、適度にあげないという工夫が大事でしょう。
しかし、難しいのは子供だけに厳しくしているだけでは、子供に健全な精神を植え付けることはできません。
その際に励ましながら教育するのがいいのか?
貶すだけでいいのか?
それには多面的な検証が必須です。
いろんな人と会い、接する中で検証を試みるのがいいでしょう。
ゆえに誰もが、大学時代にバイトをしていくのは良い手段だと思います。
ゆえに、私は勉強だけの生活には反対なのです。
そして、学問を修める際にも、1つの専門だけに拘るのは学問のアプローチとして加藤氏は反対していますし、私も反対です。
実際の社会生活においても、1つの面だけを見てこれが妥当と思われるものだけに拘るのも反対です。
いろんな方法や意見を聞きながら取り入れて柔軟に対応していくのがいいでしょう。
それによって王道が見えてくるのは、これまでの生活で明らかだからです。
やはり王道は、どの世界においても一致しているように感じます。
1つの面だけからアプローチしない、ということです。
そしてその検証と行動は永続していかなくてはいけないものなのです。
学問とは何も難しいものではなく、日々の生活や社会を良くしていくためのモノなのです。
そういうことに関心のある人には、加藤秀俊の思想には是非とも触れて、覚醒し日々の生活を生き生きとしたものに変えていってほしいものです。
●そんな論旨に興味のある人にうってつけな電子書籍は以下です。
おすすめです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終了します。
では失礼いたします。
加藤秀俊ホーム
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