学問は何のために存在するか?そして、それは大学に通わずとも学べる?! (加藤秀俊)
こんにちは。
前回のページにおいて、学問は社会にある問題点を浮かび上がらせて、その内容を構造的に明らかにして、その問題点をよき方向へ舵取りしていく性質のものであると書きました。
そのためには、それについて書いた本を多くの人が読んで、それについて自覚して、日々社会生活において行動していくべきである、ということを書きました。
ゆえに、学問を学び行動する人が多ければ多いほどいいのは言うまでもないのです。
ゆえに、その学問を学ぶ場である大学においてこそ、人生上で一番心や時間にバイアスをかけて学んでほしいのですが、実際は逆なのです(笑)。
多くの人は遊び惚けていて、年末の試験にだけ時間と労力をかけて、試験後には、そこで学んだ内容については脳から雲散霧消してしまうのです。
私の通った大学は中より上のレベルでしたが、事情は一緒でした。

それについて、私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、複数の本の中で「大学生で真剣に学んでいる人は、全体の2割くらい…」ということを書いていたのです。
それをどう捉えるべきでしょうか?
私はいろいろ思索してきました。
いろんな本を読んで。
それはウィリアム.ジェイムズというアメリカの哲学者の言葉です。
それについては、このページで紹介している電子書籍を参照してほしいです。
しかし、学問は、人々をよき方向へ行動に結び付けるのを目的にしているということですが、そうでない部分もあるのです。
行動に結びつかないことであっても、読んだ人の思想を変えて、その人の人生を心温かいものに変えたり、その人の心を明るい未来に変えさせる要素を含んでいるものであることが必要です。

そういう性質をもったものでなければ、読書など必要ないでしょう。
たとえば、自分を卑下して、「自分は人から愛される資格などない」という人生観でいる人は社会内で一定数いるものです。
その人はどうしてそういう世界観を抱いてしまうのでしょうか?
それは、親から我儘な期待を受けて育ったがゆえにそうなってしまうのです。
「学校の成績は5段階評価で3以下は1つも取ったらだめだ!」とか、リトルリーグを子供がしていたら、「次の試合、必ずレギュラーを取ってこい!」とかいうような我儘な要求です。
それで子供が学校で3や2や1を取ったらこっぴどく叱るとか、子供がレギュラーを取れなかったらこっぴどく叱るなどというような我儘な要求です。
親がこういうことを何年もかけて行ってきたら、子供は自己卑下の精神をもってしまうのです。
それが社会生活や人生にいい結果をもたらすわけがないのです。
子供がそんな卑下した状態では、小さな声で話すようになり周りの人間に気味悪がられてしまうでしょうし、仕事や勉強においての生産性をあげることなどできた話しではなくなります。
何よりも卑下した状態では、生活が重く暗いものになることはないのです。

その他、いろんな弊害が出てくるのです。
それでは、このように自分を卑下した人は、どうすればいいのでしょうか?
概略で話しますが、まず「自分は人に愛される資格のある人間なんだ」というように自分の心を鼓舞するのです。
そして、少しでも自分が物事で向上したら、その際に、自分を褒めるのです。
そういう精神的な営みを長くしていくことで、いつしか自分に誇りが持てるようになるのです。
そういう精神的な営みなくして、日々の漫然たる生活だけで精神的に立ち直れることはないから注意が必要です。
やはり科学的な本が必須になります。
こういう状態から脱するのに、宗教的な行為、とくにその宗教で唱えられる経文を毎日あげていれば脱することができるなどと本気で思っている信者がいるから困ったものです(笑)
そういった手段には頼らずに、私はこういった科学的な方法こそが王道であると思っているのです。

確かに、宗教的な行為の効用は認めるのにやぶさかではないですが、すべて解決できるなどというものではないことは認識してほしいモノです。
このように、学問は、社会生活において行動に結びつけるものではなくとも、よき方向へ舵取りすることができる性質のものであることは間違いないでしょう。
谷沢永一という人が『悩みの9割は読書が解決してくれる』という本を書きましたが、まさにその通りなのです。
加藤秀俊氏も、まさにそのモラルでいるのです。
ゆえに、大学に通わなくても、本は巷に溢れているのですからそれらに頼ればいいのですし、ジャンルにこだわらずに、いろんな本を濫読していって、それを実際に生活上で行動し、精神的な覚醒を得たら、よき人生になることは間違いないのです。
●そんなスタンスに興味のある人に読んでほしい電子書籍は以下です。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
前回のページにおいて、学問は社会にある問題点を浮かび上がらせて、その内容を構造的に明らかにして、その問題点をよき方向へ舵取りしていく性質のものであると書きました。
そのためには、それについて書いた本を多くの人が読んで、それについて自覚して、日々社会生活において行動していくべきである、ということを書きました。
ゆえに、学問を学び行動する人が多ければ多いほどいいのは言うまでもないのです。
ゆえに、その学問を学ぶ場である大学においてこそ、人生上で一番心や時間にバイアスをかけて学んでほしいのですが、実際は逆なのです(笑)。
多くの人は遊び惚けていて、年末の試験にだけ時間と労力をかけて、試験後には、そこで学んだ内容については脳から雲散霧消してしまうのです。
私の通った大学は中より上のレベルでしたが、事情は一緒でした。
それについて、私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、複数の本の中で「大学生で真剣に学んでいる人は、全体の2割くらい…」ということを書いていたのです。
それをどう捉えるべきでしょうか?
私はいろいろ思索してきました。
いろんな本を読んで。
それはウィリアム.ジェイムズというアメリカの哲学者の言葉です。
それについては、このページで紹介している電子書籍を参照してほしいです。
しかし、学問は、人々をよき方向へ行動に結び付けるのを目的にしているということですが、そうでない部分もあるのです。
行動に結びつかないことであっても、読んだ人の思想を変えて、その人の人生を心温かいものに変えたり、その人の心を明るい未来に変えさせる要素を含んでいるものであることが必要です。
そういう性質をもったものでなければ、読書など必要ないでしょう。
たとえば、自分を卑下して、「自分は人から愛される資格などない」という人生観でいる人は社会内で一定数いるものです。
その人はどうしてそういう世界観を抱いてしまうのでしょうか?
それは、親から我儘な期待を受けて育ったがゆえにそうなってしまうのです。
「学校の成績は5段階評価で3以下は1つも取ったらだめだ!」とか、リトルリーグを子供がしていたら、「次の試合、必ずレギュラーを取ってこい!」とかいうような我儘な要求です。
それで子供が学校で3や2や1を取ったらこっぴどく叱るとか、子供がレギュラーを取れなかったらこっぴどく叱るなどというような我儘な要求です。
親がこういうことを何年もかけて行ってきたら、子供は自己卑下の精神をもってしまうのです。
それが社会生活や人生にいい結果をもたらすわけがないのです。
子供がそんな卑下した状態では、小さな声で話すようになり周りの人間に気味悪がられてしまうでしょうし、仕事や勉強においての生産性をあげることなどできた話しではなくなります。
何よりも卑下した状態では、生活が重く暗いものになることはないのです。
その他、いろんな弊害が出てくるのです。
それでは、このように自分を卑下した人は、どうすればいいのでしょうか?
概略で話しますが、まず「自分は人に愛される資格のある人間なんだ」というように自分の心を鼓舞するのです。
そして、少しでも自分が物事で向上したら、その際に、自分を褒めるのです。
そういう精神的な営みを長くしていくことで、いつしか自分に誇りが持てるようになるのです。
そういう精神的な営みなくして、日々の漫然たる生活だけで精神的に立ち直れることはないから注意が必要です。
やはり科学的な本が必須になります。
こういう状態から脱するのに、宗教的な行為、とくにその宗教で唱えられる経文を毎日あげていれば脱することができるなどと本気で思っている信者がいるから困ったものです(笑)
そういった手段には頼らずに、私はこういった科学的な方法こそが王道であると思っているのです。
確かに、宗教的な行為の効用は認めるのにやぶさかではないですが、すべて解決できるなどというものではないことは認識してほしいモノです。
このように、学問は、社会生活において行動に結びつけるものではなくとも、よき方向へ舵取りすることができる性質のものであることは間違いないでしょう。
谷沢永一という人が『悩みの9割は読書が解決してくれる』という本を書きましたが、まさにその通りなのです。
加藤秀俊氏も、まさにそのモラルでいるのです。
ゆえに、大学に通わなくても、本は巷に溢れているのですからそれらに頼ればいいのですし、ジャンルにこだわらずに、いろんな本を濫読していって、それを実際に生活上で行動し、精神的な覚醒を得たら、よき人生になることは間違いないのです。
●そんなスタンスに興味のある人に読んでほしい電子書籍は以下です。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
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