天台宗の延暦寺が堕落していなかったらこんにちの親鸞の地位はない?団体の栄枯盛衰の歴史を正視すべし! (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教とは不思議というか興味深いもので、仏教でいうならば、仏陀−インド生まれのガウタマ.シッダールタを崇拝の対象として、この人を崇める、あるいは同時にこの人の教えを学んでいくことで始まったものです。
しかし、時がたつにつれて、そうではなくなり、その他の対象、たとえば大日如来や阿弥陀仏といった違う対象を崇め始めたりすることになったのです。
大日如来は真言宗、阿弥陀仏は浄土宗や浄土真宗が崇めの対象になっているのです。
また別の例でいえば、法華経という経典を崇めるようになった団体も出てきました。
それが、日蓮宗や日蓮正宗といった団体になります。
それでも、こういった団体は一応、仏教団体ということになっているのです。
仏陀を最高の対象とする至上主義の人からすれば、これらの団体は仏教団体として認めない、というような意見が出てもおかしくはないでしょう。
しかし、何故、崇めの対象が仏陀ではなく、大日如来や阿弥陀仏になってしまったのでしょうか?
こういう素朴な疑問が沸き起こりますね。
こと浄土真宗の親鸞(下写真)で言えば、この人は元は天台宗を学ぶ僧侶でした。
この天台宗の崇めの対象は釈迦如来で、文字通り、仏陀を崇めていたのです。
しかし、当時の最高学府として仏教の教学の場であった天台宗の延暦寺は、貴族の師弟たちの出世の手段として使われるようになり、仏教の教学の場としては廃れていたのです。
こういう場では、衆生を救うことはできないと悟った親鸞は、山を下りて、法然を師と崇めだすのです。
そして、この人から念仏を学び、この人の教えを広めようと、一気に民衆の中に入っていって、念仏を弘めていったのです。
その広まりの早さたるは尋常ではなく、北陸に真宗王国とまで言われるほどの地帯ができるまでになったのでした。
これはその弘めた人の並み並みならぬ情熱と行動力がなければできなかった話です。
その根源はどういう精神から発していたのでしょうか?
まず親鸞の思考として、阿弥陀仏にぞっこんになってしまった、ということでしょう。
先に、延暦寺が貴族の師弟たちの出世のための手段と化してしまっていた、ということを書きましたが、それでけではないでしょう。
上手くいかなかった時期を試行錯誤して長く長い時間を過ごす。
そうしたなかでちょっとしたことがきっかけで、好転する。
すると、それで心が晴れて猪突猛進になってその物事に突き進むことになる。
そんな経験はだれしもするでしょう?
親鸞は、釈迦如来に縋れど縋れど人生が好転せず、阿弥陀仏に縋ることによって人生が好転しだした。

それで、阿弥陀仏にぞっこんになったのです。
この場合から得れる教訓は、「上手くいかなかった時期を試行錯誤して長く過ごす」ということが大事なのであって、そこですぐさまアドバイスすることは控えなくてはならないということでしょう。
その経緯を経ることで、人は成長していけるのです。
ましてや、それは私に任せろなどといって他のことをさせるのも間違いなのは言うまでもないのです。
野球が大好きな人が、連日雨が降って何日も練習できずじまいだった。
しかし、次の日に快晴になって、その喜びでその日は練習に猪突猛進になって気がついたら4時間くらい練習してしまった、なんていうこともあるでしょう。
またある人が、空手をしていて、テクにばかり意識がいって練習していた。
しかし、それでは全然うまくいかなかった。
その後、ある時ヒントを得て、身体頑強で攻撃を速く強くにすると相手が退き出し試合で優位になるようになった。
それでそれまで空手からとおざかっていたが、空手にぞっこんになり毎日毎日練習ばかりになった、そんな経験談もあります。
男性の某有名な芸能人で娘がいる人の書いた本がありますが、そこには、「大学生の娘には小遣いとして携帯代と定期代しかあげない。あとは自分で稼いでものを得ることをさせる。生活に必要なお金を全部あげることはできる。しかし、それでは自分で稼いで物を買う喜びを味わえないで終わってしまう」という、子供を持つ親には非常に参考になる教訓が書いてありました。
私は、今のようにネットフリマやネットオークションのようなものがなかった時代には、中古本屋や中古盤屋しかなかったので、ここらで要らなくなった本やCDを売るしかなかったのです。
その額たるや、50円とか150円がいいところでした。
新本で5000円していたものが中古本屋にもっていっても高くて150円でしか買ってもらえなかったのです。
しかし、ネットフリマを使えば、1500円くらいで売れることもあるのです。
高いときは1900円でも。
その本をピンポイントでほしい人がアクセスしてくるからですね。
こういう喜びが味わえるのは、中古本屋や中古盤屋しかなかった苦悩の(?)時代を味わってきたからです。
それを経ているからこそ、ネットフリマのありがたさが身にしみてわかるのです。
こういう昔の苦悩を経験してきたからこそ今のネットオークションやネットフリマのありがたさがわかり、そちらばかりに猪突猛進になることが出来るのです。
そのありがたさがわかるからこそ、売れた時には、オマケを無料で付けたりすることができるし、オマケをつけたら購入者から感謝の言葉をもらったりするのです。
そういう苦悩の時期や時代は人の精神的な成長や豊かさを形成するには必須のものなのはいうまでもないのです。
ゆえに、そういう経験を部下や子供にはさせなくてはならないでしょう。
もちろん、自身にも永遠に課していかなくてはならないのは言うまでもないです。
そういう苦悩の時代を生き抜けば、その結果得た豊かな結果を得れたら、その時代のありがたさがわかり、生き生きとなるのです。
もし、親鸞が釈迦如来に縋ったことで功徳を得れたとしたら、今の親鸞の地位はなかったでしょう。
天台に縋っていただけの一僧侶で終わったでしょう。
これは何も天台宗を貶しているわけではないのです。
いくら隆盛を極めた宗教団体でも、その組織が堕落してしまったり、その宗教団体の宗教的な効用が薄れてしまう時代が必ずやってくるのが、人類の歴史を観ればわかります。
いつまでも隆盛を誇り続けることはできない。
そして、その現状を打破する勢力や人物が現れ出てきて、新しい団体を創り、それがまた新勢力として台頭してくることになる。
その浮き沈みは必ず出てくるのです。
ゆえに、安穏とはしていられないのはどの団体でも一緒です。
いま、日本で一番信者が多いのは浄土真宗だそうです。
これには驚きました。
一番多いのは創価学会だとばかり思っていたからです。
その最大勢力である浄土真宗でさえも、やはりその団体に疑問を抱き、それを打破する勢力が出てきても私は驚きません。
それが必然だからです。
そして、その際も、浄土真宗を貶す気にもならないのです。
永久に栄え続ける団体がないのも必然だからです。
ただ、今回指摘しておきたいのは、団体の浮き沈みは必然であり、そのことについて非難するには及ばない、ということです。

上手くいかなかった停滞する時期に悩みに悩み、それを打破することができたら、その後はすごく人を生き生きとさせる活力剤になるということです。
その停滞する時期を作ってしまうのが、旺盛を極めた団体である場合もあるということです。
これはその団体にとっては正視するのがきつい場面ではありますが、きちんと認識しなければならないということです。
そんな停滞の時期を暮らした後の、親鸞の半端ない行動とその後の時代について詳しく知りたい人におすすめなのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります!
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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