それまでのメインの勢力に反発をすることによって人類は歴史を歩んできた。親鸞も例外ではなかった?その是非は… (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教を研究していくと、人類共通の事象がみられることがあります。
前回において、親鸞が天台宗の僧侶としてキャリアが始まり、その後、念仏を唱える浄土教に帰依することになったのは、当時の天台宗の延暦寺が、貴族の出世のための組織に成り下がってしまっていたこと。
そして、天台宗の本尊である釈迦如来に縋れども縋れども、社会の問題の打破に繋がらなかったことが起因していたことを指摘しました。
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⇒前回記事
そういう反動的な勢力が起きて、それまでのメインの組織の勢力が揺るがされる、ということは往々にしてあるようですね。
私は、ロックの鑑賞が好きなのですが、これは80年代に大きなブームになり、そのブームゆえに必然的にミュージシャンの演奏のレベルが高くなっていき、特にギターのレベル高が注目を集めました。
80年代のブームにおいては、速弾きが流行って行きました。
そして、多くのバンドのコピーをしようと、その楽譜も売りに出されるようになりました。
しかし、当時のギターのレベルはかなり高く、コピーしようにもコピーできる人は100人中1人くらいだったのではないでしょうか?
しかし、その速弾きブームは、ロックの凋落とともに終わりを迎えました。
そして、優しい手なりのギターソロをメインにしていたバンドが大ヒットを記録すると、その追随をしようと、いろんな人が、そのコピーをしようと、そのバンドのアルバムを買い、楽譜を買ってコピーしていったのです。
それでそのバンドはそれまでのアリーナバンドから、スタジアムバンドに成り上がりました。
それがAERSMITH(下写真)というバンドです。

それまでは日本武道館などの会場で演奏していましたが、それ以降は東京ドームや福岡ドーム等のドームでツアーをするようになりました。
やはり優しい手なりのソロであれば、誰でもできるので、誰もがどんどんコピーするようになるのです。
その回数が重ねれば重ねるほど、どんどん親近感が強くなって、そのバンドにぞっこんになっていくのです。
テクニカルかどうかは、やはり二の次、三の次のようです。
あまりにテク二カル過ぎると、コピーできないので、ファンの心はどんどん疎遠になっていくのです。
上手い=大衆の支持を集める、ということではないようです、テクニカル派には残念ながら…。
その速弾きブームの終焉からはや30年以上たっていますが、流行らない現状は現在も変わっていないのです。
親鸞の思考もこのようなメインブームの反動として成長したのは明白でしょう。
親鸞が、阿弥陀仏にぞっこんになったのも、やはりそれまでの釈迦如来への帰依をしていた天台宗への反発であったのでしょう。
いくら空海と最澄の2人が遣唐使から帰国して、唐で学んだ密教のブームが日本中で巻き起こっても、それらがいつまでもブーム的な勢いが永続であるとは限らないでしょうし、他の崇めの対象が神や仏の導きなのか、日本中で巻き起こった崇めの対象を差し置いて発生してくるようです。
それが親鸞の時代には、まさに阿弥陀仏だったのです。

それにはいろんな議論が巻き起こってくるでしょうが、ここでは不問にしておきましょう。
その阿弥陀仏への帰依によって、親鸞は民衆に入っていって布教していったのです。
そういう動きにはどうしても非難が出るようで、親鸞も例外ではなかったようです。
当時は、こんにちのように仏教の宗派が敢然と分かたれていたわけではなく、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗といった南都六宗を兼学するのが仏教の習わしでしたが、こと親鸞は念仏だけを取り上げて布教していったことも非難にあがっていたのです。
また,当時は仏教者であろうと神への帰依も同時にしていなくてはならなかったのです。
その他、7つの罪状が送られていたのです。
しかし、物事を広く俯瞰していくと疑問がわくのが、なぜ阿弥陀仏だけ親鸞の俎上にあがったのか?ということですね。
阿弥陀仏は『法華経』という仏教の経典に書いてあり、大通智勝如来という仏がいて、その仏には16人の王子がいたのです。
その王子のうちの1人が阿弥陀仏だったのです。
他の15人の王子を差し置いて、どうして阿弥陀仏だけが抜擢されたか、という素朴な疑問がわくのです。
阿弥陀仏だけが抜擢されたのは、他の15人の王子よりかなり優れた効用を持つ仏だったからなのか、それともそれはどうでもいいから釈迦如来以外の崇拝の対象が欲しかったから名の知られた阿弥陀仏が抜擢されたのかはわかりかねます。
経済に問題が起こると、その打破のために引き合いに出されるのは、アダム.スミス、カール.マルクス、ジョン.メイナード.ケインズといった経済学者の理論と相場がほぼ決まっているのです。
だが私はニーアル.ファーガソンというカナダの経済学者を引き合いに出したらどうかと思われてならないのです。
その詳細を書くと、ものすごい長さになってしまうので、その内容を書いて、いつしか書籍として出せればなと思っています。
先に、難行であった速弾きブームに反発して、今の手なりのプレイがもてはやされる時代になったということを書きましたが、それと同じ動きが、仏教界でもあったようです。
それまでの、一握りの人しか敢行できない修学もする必要もなく、またつらい苦行をすることもなく「ただ南無阿弥陀仏と唱えれば誰もが成仏できる」とする簡易な教えの方が大衆的な支持を得やすいということです。
この教えがまさに浄土真宗の教えなのです。
一握りの人間しか修められないというのでは、支持を集めにくいということです。
それは音楽の世界と一緒ですね。
いま浄土真宗は日本で一番信者の多い宗教団体のようです。

それまで、創価学会が一番と思っていた私には寝耳に水でした。
こういう興味関心のわくことを知れるからこそ、本を読んで研究していくことは面白いことです。
1つの宗教団体にだけ属して、その中だけで講義される内容だけを修めていくということは私の性に合わないし、新しい発見もないのです。
ゆえに、いくら親鸞が偉大でも、その人の内容については敬意を抱くものの、それだけでは終わりではないのです。
他に偉大な人物はたくさんいるからです。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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