どの宗教の開祖も民衆よりも卓越した能力を持っていてしかるべし?その是非は? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
小学校の国語の教科書には必ずと言っていいほど頻出していた童話作家の宮沢賢治はご存じでしょうが、この人は仏教に触れていたようです。
最初は、浄土真宗でした。
生家が浄土真宗の信仰だったつてでした。
しかし、18歳のとき宮沢賢治(下写真)は島地大等編『漢訳対照南無妙法蓮華経』に接して、全身のふるえるような感動を覚えた、ということです。

それによって、宮沢は浄土真宗をすてて日蓮宗に帰依したようです。
自身で自分のやる気やモチベートを鼓舞して行動に移らせるのは、まさに自力本願なのです。
その自力本願が日蓮系の宗教の基本になります。
そういう根幹の方が、近代以降の人々には魅力的に映るようになりやすい傾向があるようです。
ましてや、凡人以上の血のにじむような努力が日常生活で必要な場合には猶更そのような傾向が見て取れます。
それに宮沢は惚れてしまったのでしょう。
それまでの宗教を捨てて改宗させてしまったのですから、よほど日蓮宗が魅力的に映ったのでしょう。
ここまでくれば止めることはできないのです。
こういうところにあるのです、私が1つの宗教に入って、その宗教の良さや素晴らしさを語り、その宗教に入っていない人を入信させる気にはならないところが!(笑)
私が浄土真宗の信徒だとして、その素晴らしさを人に語るとしましょう。
しかし、勧誘するときに相手から宮沢のような例を持ち出されたらどう反論すればいいかわからないのです。
「浄土真宗はこの上なく素晴らしいんでしょう?ならばなぜ、宮沢賢治のように改宗してしまう人が出てくるんですか?」と問われたら、私は答えに窮します。

なので、日蓮宗がいいのか、浄土真宗がいいのかわからない場合は、各自で両方の宗教について書いてある本をそれぞれ1冊づつ読んで、自分で判断してください、としか言いようがないのです。
それでどちらかを選んでそちらに入信した。
その結果いいことが起きたら、「それはよかったですね。さらに足りないところがあったらそれを脳内で補強しながら更なる上を目指してください!」といいますし、よくないことが起きたら「それは災難でした。それはその宗教のせいと決めつけるのは尚早です。自分の人生が良くなるようにいろんなことを学んで、良きことと思ったことは実行していってください。」と発破をかけるでしょう。
この宗教に入れば必ず万事良くなる、というようなおとぎ話は信じないし、ありえない、と思っているので、こういうアドバイスしかできないのです。
日本で一番信者が多いという浄土真宗でさえも、宮沢のような例が出てきてしまうのですから、万事大丈夫などということはできないのです。
ゆえに、日蓮系の団体でいう信徒になることへの勧誘である「折伏」という行為はしたい気がしないのです。
巷にはいくらでも本があり、それらをいくらでも買って読めて、そこからいくらでも人生において大事なことを学べるからです。
日蓮系について知りたい、という人がいれば、「そのことについて書いてある本を読んでください。」としか言いようがないのです私は!(笑)
自分がいいと思っていても、他人が良いと思うかどうかは別の話しなのですから。
それに、「この宗教こそ万人を救済できる!」と悟った宗教などいまだに出会えていないのです。
いろんな文字の媒体に接し、そこから自分で重要と思われる部分を選択して行動した結果はすべて自分の責任に帰すということを覚えておいてほしいものです。
浄土真宗にしろ、日蓮系の宗教にしろ、民衆の立場になって民衆を鼓舞していくという面では一緒です。
しかし、こと空海の興した真言宗の設立の当初はそういう気風があまり感じれないのです。
空海(下写真)の創造した真言密教の修法の中に、孔雀明王に象徴された大日如来、すなわち宇宙の大生命と一体化する行があります。
生命力にあふれた空海は好んでこの法をおこなったが、平凡な僧がこれを試みると暗い虚空にカミソリのような鋭い裂け目が生じ、ともすればそこへ身がめいってあやうく切り裂かれそうになる。
要するに、凡人では開祖の宗教的なレベルには到達しない、ということの好例であるということですね。
これには賛否が分かれることでしょう。
偉大なる人智を超えた能力を持った開祖に従えば人生で明瞭な指針が得れて、幸せな人生を歩める、ということでしょう。
批判する人は、それはあまりに選民主義であり、民衆の立場にたった宗教ではない、ということでしょう。
「民衆こそ王者だ!」と日蓮正宗の信徒団体だった創価学会の新聞にはそういう文言がよく書いてありました。
ゆえに、こういう選民主義には、創価学会の人間は反発するでしょう。
また、目に見えない神や仏に対峙して行をおこなう、という密教的な内容も創価学会では講ぜられることがないので、こういう面も否定的にみられるでしょう。
しかし、私はそうではありません。
多くの民衆を引っ張っていかなくてはならない開祖は、やはり人智を超えた存在かそれと同等のレベルの能力がなくて話しになりません。

それを生まれ持って人より並外れた能力を持っていた空海に神仏が、そういった能力を付与したのだ、ということがいえるとおもいます。
それが自然というものでしょう。
みんなと同じレベルの能力では、多くの人を導く開祖は務まらないのは言うまでもないのです。
こと日蓮だって、人並み外れた能力を持っていたことは指摘できるでしょう。
本に接して教学していけたのは、日蓮が生きた鎌倉時代には、天皇、貴族、僧侶含めてほんの一握りの人間だけでした。
書物を1つ書くには、100の書物を読まなくてはいけないというのが通説のようです。
もちろん使命感がわかなくては、そういった書物を作ろうとは思わないですし、よしんば作ったとしても、作らなかったとしても、生活に支障は出なかったのです。
にもかかわらず、日蓮は数多くの書物を遺していったのです。
守護国家論、災難興起由来、災難対治抄、立正安国論、顕謗法抄、法華浄土問答抄、八宗違目抄、開目抄…その他、実に計27冊もの書物を発行したのです。
書物を書くのは、当時並外れた記憶力と思考力がなければ話になりませんでした。
今のように紙がふんだんにあって、パソコンもあって、内容を忘れてしまうからといって、紙に書いておく、あるいはパソコンに上書きしておくといったことができなかった当時に、よくもこれだけの書物を出したなと感心するばかりでした。
それほど記憶力のない私が鎌倉時代に生まれていたら、100%書物など出せなかったことは間違いないでしょう。
誰だって今こういう芸当は不可能でしょう。
こういう場面を観ると、やはり日蓮(下写真)も人智を超えた存在で、神や仏から能力を付与されたとしか言いようがないのです。

しかし、私は創価学会時代に、日蓮の『報恩抄』を読んでみましたが、感動を呼び起こさなかったので、感動はなく、人に勧めようとは思わなかったのが正直なところです。
いくら人智を超えた能力があった人の書いた書物でも、自分が読んで感動できなければ、その熱烈な信者にはなれないですし、人に勧めようとは思わないのが必然です。
それに日蓮は密教的なことを嫌う性格だったようで、霊との交信だとか、地獄の描写だとか、悪霊や病魔を倒すといったことは忌避していたのがわかります。
あるいはそういうものがみれなかったか、生きながらにしてそういう場所に行ける能力がなかったのでしょうか。
しかし、宗教とはもともとそういう面があるからこそ宗教的な魅力を感じるのであって、それを一切なしでは「これが本当に宗教なの?」と疑問が頭をもたげざるを得ないのが正直なところでした。
この宮沢云々や、空海の能力云々については、福島章の 『不思議の国の宮沢賢治』を読むことで知ることができました。
こういう本が他にもふんだんにあって、それをリーズナブルな値段で買って読めて、思考や知性を膨らますことができるのが現代という素晴らしい時代なのです。
それを生かさない手はないのです。
先の空海の卓越した能力を示した文章を読めば、選民主義というような批判が出てきそうですが、選民でなければ信者になれないとも、なるなとも空海は言っていないのです。
しかし、そういう誤解をしたままの他の宗教の信者は、一知半解なまま空海および真言宗を批判するのです。

これもまた宗教広布の難しいところです。
しかし、空海があまりに卓越した人物だったゆえに難解だなという、雰囲気的に近寄るのが難しいという印象を受ける人が出てくるのは否定できません。
しかし、こと親鸞は「凡夫であっても阿弥陀仏に縋り、南無阿弥陀仏と唱えることで極楽浄土に往生できる」として、こういう他力仏教が鎌倉時代に広まったのです。
こういう平民を土台にし、衆生の精神的な幸せを全面に出した宗教はやはり大衆的な支持を広く受けやすいのは明白です。
そして大衆の注目を受けやすいはずです。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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