科学的な情報を得ることが世の中の向上させる最高の手段?これは屁理屈にあらず? (加藤秀俊)
こんにちは。
私や本を読むことに意義を感じている人は、しきりに、本を読むべし、としているのです。
それは教条的に学問が大事であるということを先人たちが言ってきたからということを踏襲している主義ではなく、本に書いてあることを実行することで、読んだ人が生活上で何らかの向上をするからなのです。
そういうことがわからない人は、理屈は嫌いだとか、屁理屈は嫌いだから、本を読むことなどしなくてもいい、ということであるようです。

ただ言われたことだけをすればいい。
それに逆らう人間は屁理屈野郎だ、ということであるようです(笑)。
しかし実際はそうではないのです。
その人の生活上で何らかのいいことが書いてあるからこそ読書の効用を勧めているのです。
例えば、私は職場でなかなか疲れが抜けない中年男性の人にアドバイスしました。
酢やクエン酸を飲むことがいいということを。
疲れて血液がドロドロになることで疲れが抜けないのです。
そこに酢やクエン酸をのむことで血液がサラサラになり、そのことで疲れが取れるのです、とアドバイスしたところ「理屈は嫌いだ」みたいなことを言われて、まともに取り合ってくれませんでした。
その人にとってスタミナドリンクを飲むことがあたかも最高の手段であるかのように思っているのと、「クエン酸やレモンを飲むとサラサラ血液にすることで疲れが取れる」ということは聞いたことがなかったのでしょう。
テレビやラジオで話されていることがあたかも王道である、というような気になっていたのでしょう。

確かに、そういうマスコミ情報でも取り入れるメリットのあるものもありますが、それ以外にも、役立つ情報はいくらでもありうるのです。
そのためには、自分が得たい情報の真偽は、その本を一冊通して読んで、それから吟味してもらうほかないのです。
そのためには読書好きではないとかなわない話しなのです。
そのためマスコミ情報こそが王道という脳内でいる人にとっては、あまり表に出ない情報は偽りであり、よしんば偽りでなくても聞くに値しない情報なのでしょう。
理屈をこねていると思われて嫌な顔される…これは永遠に変えることのできない事柄なのでしょうか?
そうでないことを祈るばかりです。
人生何から何まで国が教えてくれるわけではないですし、自身で取捨選択して、そのうえで行動に移さなくては、いろんな分野でよき人生を創造できるわけではなありませんので、そこは注意が必要です。
もちろん健康状態も、何から何まで政府が面倒見てくれることはあり得ないのです。

率先して本を読み、ネットにアクセスして、自身で取捨選択して行動していくべきなのです。
「屁理屈は聞きたくない」みたいな顔するのはやめにしましょう(笑)。
●そんなスタンスに共鳴できる人には以下の電子書籍.ペーパーバックはお勧めです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
私や本を読むことに意義を感じている人は、しきりに、本を読むべし、としているのです。
それは教条的に学問が大事であるということを先人たちが言ってきたからということを踏襲している主義ではなく、本に書いてあることを実行することで、読んだ人が生活上で何らかの向上をするからなのです。
そういうことがわからない人は、理屈は嫌いだとか、屁理屈は嫌いだから、本を読むことなどしなくてもいい、ということであるようです。
ただ言われたことだけをすればいい。
それに逆らう人間は屁理屈野郎だ、ということであるようです(笑)。
しかし実際はそうではないのです。
その人の生活上で何らかのいいことが書いてあるからこそ読書の効用を勧めているのです。
例えば、私は職場でなかなか疲れが抜けない中年男性の人にアドバイスしました。
酢やクエン酸を飲むことがいいということを。
疲れて血液がドロドロになることで疲れが抜けないのです。
そこに酢やクエン酸をのむことで血液がサラサラになり、そのことで疲れが取れるのです、とアドバイスしたところ「理屈は嫌いだ」みたいなことを言われて、まともに取り合ってくれませんでした。
その人にとってスタミナドリンクを飲むことがあたかも最高の手段であるかのように思っているのと、「クエン酸やレモンを飲むとサラサラ血液にすることで疲れが取れる」ということは聞いたことがなかったのでしょう。
テレビやラジオで話されていることがあたかも王道である、というような気になっていたのでしょう。
確かに、そういうマスコミ情報でも取り入れるメリットのあるものもありますが、それ以外にも、役立つ情報はいくらでもありうるのです。
そのためには、自分が得たい情報の真偽は、その本を一冊通して読んで、それから吟味してもらうほかないのです。
そのためには読書好きではないとかなわない話しなのです。
そのためマスコミ情報こそが王道という脳内でいる人にとっては、あまり表に出ない情報は偽りであり、よしんば偽りでなくても聞くに値しない情報なのでしょう。
理屈をこねていると思われて嫌な顔される…これは永遠に変えることのできない事柄なのでしょうか?
そうでないことを祈るばかりです。
人生何から何まで国が教えてくれるわけではないですし、自身で取捨選択して、そのうえで行動に移さなくては、いろんな分野でよき人生を創造できるわけではなありませんので、そこは注意が必要です。
もちろん健康状態も、何から何まで政府が面倒見てくれることはあり得ないのです。
率先して本を読み、ネットにアクセスして、自身で取捨選択して行動していくべきなのです。
「屁理屈は聞きたくない」みたいな顔するのはやめにしましょう(笑)。
●そんなスタンスに共鳴できる人には以下の電子書籍.ペーパーバックはお勧めです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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・加藤秀俊ホーム
自身のスタンスで著者や出版社を選べば読書を思い白くする? (加藤秀俊)
こんにちは。
文系大学において学生は、本しかも論文の本を読むのは必須です。
いろんな理論を学び、それを自己内で消化し、取捨選択をして、自分の頭で考えて行動に移す。
そのことで社会や人間関係はよくなるからです。

その回数が多ければ多いほど、そういうことをする人が多ければ多いほどいいのは言うまでもありません。
ゆえに、考えを促してくれるような、人生観がガラッと変わるような本に出合えれば、これに勝る喜びはありません。
それも冊数や著者数が多ければ多いほどいいのは言うまでもありません。
読書に、王道はありません。
自身でいろな本を、いろんな著者のを読んでいくことで、自身のスタンス.型ができてくるのですから、そういうスタンス.型を作れたらこれもまたその人の人生を心豊かにしてくれることは間違いありません。
いろいろ読んでいくと、この著者はいいからまた読みたい、逆に、この著者は悪いから次から読まない、といった自分なりのスタンスができてくるのです。
著者のみならず、出版社にもできてくるのです。

いろんな出版社がありますが、あるいい本が発見できると、その本の出版社までいい印象を受けるのは間違いないです。
やはり、出版社にも、その会社のスタンスがあるわけで、それにかなった著者を選んで出版していくのですから、だいたいそういう傾向があるのは否めません。
しかし、私としては、論文の本は読んだ人のモラルを啓蒙していい社会や人間関係を醸成するよう目を果たさなくてはいけない、と思っているので、やたら難しい表現ばかりの本や、引用ばかりの本、祖述だけの本を出版している会社の本は読まないようにします。
というか自然的にそういう本を書く筆者の本は忌避しているのに気が付きました。
そしていつしかそういう著者のは本屋の店頭で見ても、買わないで済ますのです。
逆に、大きな感動を覚えた本の著者のものを店頭で発見したら、すぐさま手に取って買ってしまうのです。
そういう自然と沸き立つ感情に奮起させてしまう著者の本を、ずっと買って読んでいくべきでしょう。
そういうスタンスが築ければ、これはその人の人生を心豊かにします。
そういう本を多く出してくれた学者は、故.加藤秀俊(下写真)になります。

本は読んだ人の心の啓蒙を目指す…のであれば、やはり、祖述だけではなく、引用も少なく、難しい表現をしない本を出している著者のを選ぶべきでしょう。
そして一部の人だけにしか通用しない内容しか書かれていない本ばかりを出版している会社の本は読む必要はまったくないでしょう。
そのもっとな例は、法政大学出版会でしょう。
この出版会社のいでたちは、非常にアカデミックで、エレガンスな趣きに溢れていて、つい手に取って読みたくなる品位に溢れています。
そして買って読んでみるも、かなりマニアックで奥深く、いや深すぎで、一般人が読んでも一向に興味をそそらない内容で、最大でも40ページくらいしか読みたい気にさせない代物の本が多すぎて、いつも途中で読みやめてしまいます。
それのみか、この会社の本は、やたらと学説の深い、いや深すぎる検証が長々と展開されていて、読むのに辟易してしまうのです。
あまり一般市民向けではないのです。
そして再び、その会社の本を店頭で見ると、カバーの趣きの優雅さにまた買って読みたくなる衝動にかられますが、これまでの失敗から、買わないと自分を諫めているのです(笑)

こういうことを書くと、営業妨害の誹りを免れないかもしれないですが、仕方がないです。
確かにマニアックすぎる論調でも、マニアックすぎる学説の検証でも、何かしらの効用があるわけで、それを面白いと思って読んでいる読者もいるわけで、それについてケチをつけるつもりも批判するつもりもないです。
ただ、自分はこの会社のものは読みたくはない、というスタンスでいるわけです。
また、日本の冠たる岩波書店ですが、この会社の岩波新書にはいいものがあふれています。
この新書の黄判、青判には読みやすく人を啓もうする品位に溢れています。
しかし、この新書の赤版はマニアックすぎる知識がこれでもかと盛り込まれて、全然日常生活に必要と思われる品位が感じないので、すぐ読みやめてしまいます。
大学院生あるいは大学教授たちが読むのにはいいかもしれません、いやそういった人たちですらも読むのに辟易してしまうパターンもあるのではないかと思われるくらいマニアックすぎなものもあります。
ゆえに、岩波新書は黄色か青にすべしと思っているのです私は。
また、未來社という出版社のものは概して難解な表現を使っているので、読みにくい傾向があります。

そして、東海大学出版会の本は、あまりに引用が多すぎて気持ちが平易してしまいます。
みすず書房のはやわらかく繊細な論調のものが多く文明史などの本であれば、朝コーヒーを嗜みながら読むと最高の休日が送れる本が多いのは事実です。
しかし、あまり当為が語られていない場合が多いというのが難点かなとは思います。
いろんな会社によって一長一短ですが、読まないと決めた出版社のものは忌避しがちになるのです。
いずれも私が批判した出版社のものは、私のこれまでの経験上、そういう批判の的になる事柄が多かっただけのことで全部の本を
検証したわけではないですから「一部」なのです。
ゆえに他その出版社の本でいいものがある可能性はあるわけだし、そういうものに出会えたら率先して読んでみたいとは思っているのは確かです。
心は閉ざさないでいるつもりです。

そういう本にであえる可能性を広くするには、人との情報共有にあると思っているので、それも継続していきたいと思っています。
もちろん、批判した出版会社のでも例外はあるわけで、岩波新書の赤版でも著者によってはいいものはあります。
樋口陽一氏や小野善康氏の本は非常に読みやすく、マニアックではあるけれども市民にも読みやすく入れるレベルにとどまっていたので、買う対象ではあります。
未來社のでも、本や著者によりけりで、的場昭弘氏の本は非常に感銘を受けました。
やはり例外はあるわけで、画然とした断定は控えなくてはいけないでしょう。
こういったスタンスを築くのもまた読書の楽しみの一つではあります。
今回はこれにて失礼いたします。
●大学生におすすめの学問へのスタンスを論じた電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
文系大学において学生は、本しかも論文の本を読むのは必須です。
いろんな理論を学び、それを自己内で消化し、取捨選択をして、自分の頭で考えて行動に移す。
そのことで社会や人間関係はよくなるからです。

その回数が多ければ多いほど、そういうことをする人が多ければ多いほどいいのは言うまでもありません。
ゆえに、考えを促してくれるような、人生観がガラッと変わるような本に出合えれば、これに勝る喜びはありません。
それも冊数や著者数が多ければ多いほどいいのは言うまでもありません。
読書に、王道はありません。
自身でいろな本を、いろんな著者のを読んでいくことで、自身のスタンス.型ができてくるのですから、そういうスタンス.型を作れたらこれもまたその人の人生を心豊かにしてくれることは間違いありません。
いろいろ読んでいくと、この著者はいいからまた読みたい、逆に、この著者は悪いから次から読まない、といった自分なりのスタンスができてくるのです。
著者のみならず、出版社にもできてくるのです。
いろんな出版社がありますが、あるいい本が発見できると、その本の出版社までいい印象を受けるのは間違いないです。
やはり、出版社にも、その会社のスタンスがあるわけで、それにかなった著者を選んで出版していくのですから、だいたいそういう傾向があるのは否めません。
しかし、私としては、論文の本は読んだ人のモラルを啓蒙していい社会や人間関係を醸成するよう目を果たさなくてはいけない、と思っているので、やたら難しい表現ばかりの本や、引用ばかりの本、祖述だけの本を出版している会社の本は読まないようにします。
というか自然的にそういう本を書く筆者の本は忌避しているのに気が付きました。
そしていつしかそういう著者のは本屋の店頭で見ても、買わないで済ますのです。
逆に、大きな感動を覚えた本の著者のものを店頭で発見したら、すぐさま手に取って買ってしまうのです。
そういう自然と沸き立つ感情に奮起させてしまう著者の本を、ずっと買って読んでいくべきでしょう。
そういうスタンスが築ければ、これはその人の人生を心豊かにします。
そういう本を多く出してくれた学者は、故.加藤秀俊(下写真)になります。
本は読んだ人の心の啓蒙を目指す…のであれば、やはり、祖述だけではなく、引用も少なく、難しい表現をしない本を出している著者のを選ぶべきでしょう。
そして一部の人だけにしか通用しない内容しか書かれていない本ばかりを出版している会社の本は読む必要はまったくないでしょう。
そのもっとな例は、法政大学出版会でしょう。
この出版会社のいでたちは、非常にアカデミックで、エレガンスな趣きに溢れていて、つい手に取って読みたくなる品位に溢れています。
そして買って読んでみるも、かなりマニアックで奥深く、いや深すぎで、一般人が読んでも一向に興味をそそらない内容で、最大でも40ページくらいしか読みたい気にさせない代物の本が多すぎて、いつも途中で読みやめてしまいます。
それのみか、この会社の本は、やたらと学説の深い、いや深すぎる検証が長々と展開されていて、読むのに辟易してしまうのです。
あまり一般市民向けではないのです。
そして再び、その会社の本を店頭で見ると、カバーの趣きの優雅さにまた買って読みたくなる衝動にかられますが、これまでの失敗から、買わないと自分を諫めているのです(笑)
こういうことを書くと、営業妨害の誹りを免れないかもしれないですが、仕方がないです。
確かにマニアックすぎる論調でも、マニアックすぎる学説の検証でも、何かしらの効用があるわけで、それを面白いと思って読んでいる読者もいるわけで、それについてケチをつけるつもりも批判するつもりもないです。
ただ、自分はこの会社のものは読みたくはない、というスタンスでいるわけです。
また、日本の冠たる岩波書店ですが、この会社の岩波新書にはいいものがあふれています。
この新書の黄判、青判には読みやすく人を啓もうする品位に溢れています。
しかし、この新書の赤版はマニアックすぎる知識がこれでもかと盛り込まれて、全然日常生活に必要と思われる品位が感じないので、すぐ読みやめてしまいます。
大学院生あるいは大学教授たちが読むのにはいいかもしれません、いやそういった人たちですらも読むのに辟易してしまうパターンもあるのではないかと思われるくらいマニアックすぎなものもあります。
ゆえに、岩波新書は黄色か青にすべしと思っているのです私は。
また、未來社という出版社のものは概して難解な表現を使っているので、読みにくい傾向があります。
そして、東海大学出版会の本は、あまりに引用が多すぎて気持ちが平易してしまいます。
みすず書房のはやわらかく繊細な論調のものが多く文明史などの本であれば、朝コーヒーを嗜みながら読むと最高の休日が送れる本が多いのは事実です。
しかし、あまり当為が語られていない場合が多いというのが難点かなとは思います。
いろんな会社によって一長一短ですが、読まないと決めた出版社のものは忌避しがちになるのです。
いずれも私が批判した出版社のものは、私のこれまでの経験上、そういう批判の的になる事柄が多かっただけのことで全部の本を
検証したわけではないですから「一部」なのです。
ゆえに他その出版社の本でいいものがある可能性はあるわけだし、そういうものに出会えたら率先して読んでみたいとは思っているのは確かです。
心は閉ざさないでいるつもりです。
そういう本にであえる可能性を広くするには、人との情報共有にあると思っているので、それも継続していきたいと思っています。
もちろん、批判した出版会社のでも例外はあるわけで、岩波新書の赤版でも著者によってはいいものはあります。
樋口陽一氏や小野善康氏の本は非常に読みやすく、マニアックではあるけれども市民にも読みやすく入れるレベルにとどまっていたので、買う対象ではあります。
未來社のでも、本や著者によりけりで、的場昭弘氏の本は非常に感銘を受けました。
やはり例外はあるわけで、画然とした断定は控えなくてはいけないでしょう。
こういったスタンスを築くのもまた読書の楽しみの一つではあります。
今回はこれにて失礼いたします。
●大学生におすすめの学問へのスタンスを論じた電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
大学教授であろうが一般人であろうがアマチュア精神が必要? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学および学界への警鐘的なことを今回は書きましょう。
大学に入学して、1年次はいきなり専門科目は履修させてくれません。
法学部生であれば、専門の科目は、法学概論、憲法、民法総則、これくらいでしょう。
その他は一般教養というものがほとんどでした。
社会学、気候学、倫理学、文学、思想、歴史学、心理学…こういったものがほとんどでした。

なぜ法学部に入ったのに、こんな関係ないものばかり習わなくてはいけないんだろう?と思った人もいるでしょう。
それはもっともな疑問です。
しかし、こと法学を学ぶに際しても、いろんな学問を収めないことには、堅実な学にはなりえません。
法学は人間社会の一部であって、それだけ修めても説得力はないです。
社会によって、慣習や風俗は違うわけで、それらを総合してことを論じないことには妥当な道は示せません。
こういった法律が、心理的には妥当なのかどうか、習慣的にどうか…こういったことを交えながら法律を論じなくては説得力はないのです。
ゆえに、いろんな学問を修めたうえで、自身の専門を論じていかなくては説得力のむなしい論述しかできないで終わってしまうのです。
日本は主に西洋からいろんな学問を輸入してきました。

その際に、いろんな分野に分かれた状態で輸入されたゆえに、学問は1つという思想が育たなかったことが弊として挙げられるでしょう。
ゆえに、自分の専門とする学問だけ修めていればいい、という風潮が生まれてしまい、他の分野について知っていることだけ、あるいは他の分野について知っていることが恥というような風潮が1960年代、70年代に風靡したということを明らかにした本を読んだことがあります。
しかし、それは間違いであって、いろんな学問を収めることで自分の学問を昇華させることが出来るのです。
私は法学部生でしたが、民法総則の教授に質問しに行きました。
「これは憲法との関連ではどういう…」と質問したところ、「私の専門は民法だからわからない」と拒絶されてしまいました。
憲法は国の最高法規であり、その関連でその合法性、違法性、妥当性、そしてその国の方向性を決めるべきであり、その際にいろんな法律も兼ね合わせながら論じていかなくてはいけないものなのは言うまでもないのです。
それを私の専門ではないから〜では、すまないでしょう。
他の分野について知らないことがステータスである時代に生きてしまった典型例なのでしょうその教授は。

確かに今はいろんな学問があり、それをすべて把握し、万般にわたり修めるなどというのは不可能を要求しているに等しいわけです。
そんなことを要求するのは野暮ですが、それでも広く修めていかないことには、自分の専門分野も高めることはできないでしょう。
それは大学生自身が味わっていただくほかないでしょう。
民法の教授は、民法だけではなく隣接する法律について知っていてもおかしくはないでしょうし、そうするべきでしょう。
それは、どの分野の学問でも一緒です。
著名な学者はいずれも多分野にわたってことを修めてきたのは言うまでもないのです。
コール−イギリス経済学者、経済閣僚、推理小説家
ガルブレイス−経済学者、人類学の著者、
チャーチル−軍人、政治家、画家
アンドレマルロー−作家、ゲリラ、大臣、パイロット、泥棒(笑)
と何れも多分野にわたって修めてきたのはわかるでしょう。
そういう多面性は何も学者だけではなく一般人でも同様でしょう。
いろんな知識を持っていれば、いろんな場面で通用するし、打開策が見えてくるのです。
お金のやりくり、資産の増やし方、学習の効率的な修め方、植物の発育の効率的なさせ方、人との最高のコミュニケーションの仕方、スポーツでの効率的な成果のあげ方、効率的なダイエット法…人生は多分野にわたっているのです。
それらを日々多面的に修めることによって人生は心豊かになるのではないでしょうか?
いろんなものを多分野にわたって修めるが、どれも専門家といわれるほど奥深く、万般性はない…それについてどう考えるか?
所謂、アマチュアということですね。
それについて私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、「そのアマチュア精神でいい」ということですね。

もちろん専門家といわれるほどに奥深く、万般の知識や情報を得られるのであれば、それはそれで結構でしょう。
しかし、一般人は仕事があり、人付き合いがあり、趣味もあり、レジャーもあり、子育てもありといろいろあり、時間がないのは言うまでもないです。
そんな人たちに、学問について専門家顔負けの習得を目指せというのは酷でしょう。
そうではなくいろんな分野にわたって物事を修めることで人生を豊かにすることは間違いないです。
それは加藤秀俊氏の『暮らしの思想』という本で展開されていましたし、その内容には大いに共鳴したのです私は。
しかし、専門家といっても、それに胡坐をかいていては、いずれアマチュアにまけてしまうことは明らかです。
アマチュアでいいとしても、一般人が奥深く広く学んでいきたいというのであれば、それを目指しても全然構わないですし、そうなるべきでしょう。
●そんな理論に共鳴できたかたは、以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
大学および学界への警鐘的なことを今回は書きましょう。
大学に入学して、1年次はいきなり専門科目は履修させてくれません。
法学部生であれば、専門の科目は、法学概論、憲法、民法総則、これくらいでしょう。
その他は一般教養というものがほとんどでした。
社会学、気候学、倫理学、文学、思想、歴史学、心理学…こういったものがほとんどでした。
なぜ法学部に入ったのに、こんな関係ないものばかり習わなくてはいけないんだろう?と思った人もいるでしょう。
それはもっともな疑問です。
しかし、こと法学を学ぶに際しても、いろんな学問を収めないことには、堅実な学にはなりえません。
法学は人間社会の一部であって、それだけ修めても説得力はないです。
社会によって、慣習や風俗は違うわけで、それらを総合してことを論じないことには妥当な道は示せません。
こういった法律が、心理的には妥当なのかどうか、習慣的にどうか…こういったことを交えながら法律を論じなくては説得力はないのです。
ゆえに、いろんな学問を修めたうえで、自身の専門を論じていかなくては説得力のむなしい論述しかできないで終わってしまうのです。
日本は主に西洋からいろんな学問を輸入してきました。
その際に、いろんな分野に分かれた状態で輸入されたゆえに、学問は1つという思想が育たなかったことが弊として挙げられるでしょう。
ゆえに、自分の専門とする学問だけ修めていればいい、という風潮が生まれてしまい、他の分野について知っていることだけ、あるいは他の分野について知っていることが恥というような風潮が1960年代、70年代に風靡したということを明らかにした本を読んだことがあります。
しかし、それは間違いであって、いろんな学問を収めることで自分の学問を昇華させることが出来るのです。
私は法学部生でしたが、民法総則の教授に質問しに行きました。
「これは憲法との関連ではどういう…」と質問したところ、「私の専門は民法だからわからない」と拒絶されてしまいました。
憲法は国の最高法規であり、その関連でその合法性、違法性、妥当性、そしてその国の方向性を決めるべきであり、その際にいろんな法律も兼ね合わせながら論じていかなくてはいけないものなのは言うまでもないのです。
それを私の専門ではないから〜では、すまないでしょう。
他の分野について知らないことがステータスである時代に生きてしまった典型例なのでしょうその教授は。
確かに今はいろんな学問があり、それをすべて把握し、万般にわたり修めるなどというのは不可能を要求しているに等しいわけです。
そんなことを要求するのは野暮ですが、それでも広く修めていかないことには、自分の専門分野も高めることはできないでしょう。
それは大学生自身が味わっていただくほかないでしょう。
民法の教授は、民法だけではなく隣接する法律について知っていてもおかしくはないでしょうし、そうするべきでしょう。
それは、どの分野の学問でも一緒です。
著名な学者はいずれも多分野にわたってことを修めてきたのは言うまでもないのです。
コール−イギリス経済学者、経済閣僚、推理小説家
ガルブレイス−経済学者、人類学の著者、
チャーチル−軍人、政治家、画家
アンドレマルロー−作家、ゲリラ、大臣、パイロット、泥棒(笑)
と何れも多分野にわたって修めてきたのはわかるでしょう。
そういう多面性は何も学者だけではなく一般人でも同様でしょう。
いろんな知識を持っていれば、いろんな場面で通用するし、打開策が見えてくるのです。
お金のやりくり、資産の増やし方、学習の効率的な修め方、植物の発育の効率的なさせ方、人との最高のコミュニケーションの仕方、スポーツでの効率的な成果のあげ方、効率的なダイエット法…人生は多分野にわたっているのです。
それらを日々多面的に修めることによって人生は心豊かになるのではないでしょうか?
いろんなものを多分野にわたって修めるが、どれも専門家といわれるほど奥深く、万般性はない…それについてどう考えるか?
所謂、アマチュアということですね。
それについて私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、「そのアマチュア精神でいい」ということですね。
もちろん専門家といわれるほどに奥深く、万般の知識や情報を得られるのであれば、それはそれで結構でしょう。
しかし、一般人は仕事があり、人付き合いがあり、趣味もあり、レジャーもあり、子育てもありといろいろあり、時間がないのは言うまでもないです。
そんな人たちに、学問について専門家顔負けの習得を目指せというのは酷でしょう。
そうではなくいろんな分野にわたって物事を修めることで人生を豊かにすることは間違いないです。
それは加藤秀俊氏の『暮らしの思想』という本で展開されていましたし、その内容には大いに共鳴したのです私は。
しかし、専門家といっても、それに胡坐をかいていては、いずれアマチュアにまけてしまうことは明らかです。
アマチュアでいいとしても、一般人が奥深く広く学んでいきたいというのであれば、それを目指しても全然構わないですし、そうなるべきでしょう。
●そんな理論に共鳴できたかたは、以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
今は、なぜ大学に行かなくていいのでしょうか、その理由は? (加藤秀俊)
こんにちは。
学歴信仰について考えてみましょう。
日本の大学においては、国公立大学の授業料が他の大学に比べて信じれないほど安いのです。
才能を持ちながら貧困という理由で進学できない人物を出さない、というのが日本の縦前なのです。

しかし、それ例外にも深く物事をみると、そういった国立の大学に行けるのは、年収の高い家庭の子女なのです。
幼いころから、家庭教師をつけるなり、高額な学習塾に行かせることで、そういう国公立大学への進学が可能になるのです。
もちろん、そういう家庭に生まれなくとも、そういう大学に行けることはありますが、それは稀なのです。
ゆえに、貧困家庭でも、国公立大学に行けるという表面的な現象だけを見て早急な判断は慎むべきでしょう。
収入の高くない家庭でもがんばれば国公立大学に行けたのは、戦後まもなくの時代だけであり、今の熾烈になった大学進学の時代では難しいのでしょう。
それもまた必然であるという気がします。
今や、学歴も収入によって決まってしまう時代なのでしょうか?

しかし、日本よりももっと収入や家柄によって学歴が決まってしまうのが欧米なのです。
ヨーロッパやアメリカで一流とされる大学は、こんにちでも貧乏人にはほとんど門を閉ざしているのです。
やはり日本以上に学歴信仰が高いのが欧米なのです。
しかし、学歴によって決まってしまう、という思い込みを今一度外す必要がある気がします。
今は、そういった学歴だけで通用する時代ではないのが明白なのです。
急激に変化するいまの時代において、大学受験勉強のような知識の吸収の速さを売り物にした能力だけでなく、良きものに変えていく能力、今何が必要とされているかを察知していく能力が問われている…そんな気がするのです。
ゆえに、以前の知識の吸収能力だけで勝負する時代は終わったのです。
そういった学歴信仰はいまでは意味なし…そう考える人の多い時代になっているのでしょうし、私自身もそんな気がします。
自分で本を買ってそれを学べる時代であり、ネットでもいろんな情報を主体的に学べば、自身をすぐさま啓蒙できる時代なのです。
そしてすぐさま脳力を上げることもできるのです。
昔は本は貴重なもので、明治期や昭和の30年代においては、本があまりなく、大学に行ったら、だれもが写経のように、必死に教授のいうことをノートしていったのです。
ゆえに大学=写経の場、だったのです。

しかし、今や本などは豊富にあり、中古本屋もいっぱいあり、そこで最安の本を買って読んで、勉強するほうがはるかに安上がりだし有意義なのです。
ジョエル.コトキンという人の書いた、『大学にいっても意味はない』という本にそういう趣旨の言葉があり、非常に参考になりました。
興味ある人はその本を読んで見ることをお勧めします。
そして私が敬愛していた故.加藤秀俊氏も、同じ趣旨のことを書いていました。
そこを読んで、やはり、自分の理論は間違っていなかった、ということを実感できたですし、今の現状をみると猶更そんな気がします。
加藤氏が『独学のすすめ』というかなり突っ込んだ勉学についての本を書いたときは、日本は一億総一流国家といわれていた時代だったのです。
日本人の9割が自分は中流と思っていた時代で、しかも、一番資産のある人と一番資産のない人の所得差が世界で一番小さい時代だったのです。
しかも、戦後復興のおかげで、誰もが収入を伸ばしていた時代で、30年間働き続れば誰も年収1000万円もらえる時代だったのです。

そんな時代であれば、親御さんたちも、「ちょっと財布にいたいけれども子供には大学に行かせてあげよう」という気になったんでしょう。
しかし、今や格差社会です。
年収1000万円もらえる世帯は限られているのです。
そんな時代にもかかわらず学費は上がっている。
私の時代よりも30万円くらい高いです。
それを4年間でかけると120万円も高いのです。
そんな時代であれば、大学に子供を行かせるには財布にいたい。
そのためにどうするか?
奨学金を借りるしかないですね。
その奨学金を借りる学生は全体の55%にも及ぶようです。
私の時代は20%にも及ばなかったにもかかわらずです。
それで、大学を卒業したら、その返済が始まるのです。
そんなことでいいのでしょうか?
その見返りがあるのならばともかく、そんな見返りがあるとは思えないです。
大学での講義の内容を書いたノートを今も保管してみていますが、その内容と、自身で買って読んで学んだ内容を比べると、そんな大差ない、いや本で学んだ内容の方がずっと有意義な気がします。

ならば高すぎる大学の授業料を払って、しかも奨学金を借りてまで行く必要があるとは思えないのが実情です。
そのことを今の学生は考えて行動する必要があるでしょう。
私の時代にはなかった「奨学金破産」などという言葉が昨今ではあるようですが、私には信じれなかったです。
奨学金が返せなくて家計が行き詰まり、ヒートオーバーしてしまうことですね、この言葉は。
非常に不愉快な時代に生きているなと感じます。
●以下の電子書籍.ペーパーバックで、なぜ、大学通学を突貫すべきでないのかを、もっと詳らかにしているので興味のある人は読んでみてくださいませ。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
学歴信仰について考えてみましょう。
日本の大学においては、国公立大学の授業料が他の大学に比べて信じれないほど安いのです。
才能を持ちながら貧困という理由で進学できない人物を出さない、というのが日本の縦前なのです。
しかし、それ例外にも深く物事をみると、そういった国立の大学に行けるのは、年収の高い家庭の子女なのです。
幼いころから、家庭教師をつけるなり、高額な学習塾に行かせることで、そういう国公立大学への進学が可能になるのです。
もちろん、そういう家庭に生まれなくとも、そういう大学に行けることはありますが、それは稀なのです。
ゆえに、貧困家庭でも、国公立大学に行けるという表面的な現象だけを見て早急な判断は慎むべきでしょう。
収入の高くない家庭でもがんばれば国公立大学に行けたのは、戦後まもなくの時代だけであり、今の熾烈になった大学進学の時代では難しいのでしょう。
それもまた必然であるという気がします。
今や、学歴も収入によって決まってしまう時代なのでしょうか?
しかし、日本よりももっと収入や家柄によって学歴が決まってしまうのが欧米なのです。
ヨーロッパやアメリカで一流とされる大学は、こんにちでも貧乏人にはほとんど門を閉ざしているのです。
やはり日本以上に学歴信仰が高いのが欧米なのです。
しかし、学歴によって決まってしまう、という思い込みを今一度外す必要がある気がします。
今は、そういった学歴だけで通用する時代ではないのが明白なのです。
急激に変化するいまの時代において、大学受験勉強のような知識の吸収の速さを売り物にした能力だけでなく、良きものに変えていく能力、今何が必要とされているかを察知していく能力が問われている…そんな気がするのです。
ゆえに、以前の知識の吸収能力だけで勝負する時代は終わったのです。
そういった学歴信仰はいまでは意味なし…そう考える人の多い時代になっているのでしょうし、私自身もそんな気がします。
自分で本を買ってそれを学べる時代であり、ネットでもいろんな情報を主体的に学べば、自身をすぐさま啓蒙できる時代なのです。
そしてすぐさま脳力を上げることもできるのです。
昔は本は貴重なもので、明治期や昭和の30年代においては、本があまりなく、大学に行ったら、だれもが写経のように、必死に教授のいうことをノートしていったのです。
ゆえに大学=写経の場、だったのです。
しかし、今や本などは豊富にあり、中古本屋もいっぱいあり、そこで最安の本を買って読んで、勉強するほうがはるかに安上がりだし有意義なのです。
ジョエル.コトキンという人の書いた、『大学にいっても意味はない』という本にそういう趣旨の言葉があり、非常に参考になりました。
興味ある人はその本を読んで見ることをお勧めします。
そして私が敬愛していた故.加藤秀俊氏も、同じ趣旨のことを書いていました。
そこを読んで、やはり、自分の理論は間違っていなかった、ということを実感できたですし、今の現状をみると猶更そんな気がします。
加藤氏が『独学のすすめ』というかなり突っ込んだ勉学についての本を書いたときは、日本は一億総一流国家といわれていた時代だったのです。
日本人の9割が自分は中流と思っていた時代で、しかも、一番資産のある人と一番資産のない人の所得差が世界で一番小さい時代だったのです。
しかも、戦後復興のおかげで、誰もが収入を伸ばしていた時代で、30年間働き続れば誰も年収1000万円もらえる時代だったのです。
そんな時代であれば、親御さんたちも、「ちょっと財布にいたいけれども子供には大学に行かせてあげよう」という気になったんでしょう。
しかし、今や格差社会です。
年収1000万円もらえる世帯は限られているのです。
そんな時代にもかかわらず学費は上がっている。
私の時代よりも30万円くらい高いです。
それを4年間でかけると120万円も高いのです。
そんな時代であれば、大学に子供を行かせるには財布にいたい。
そのためにどうするか?
奨学金を借りるしかないですね。
その奨学金を借りる学生は全体の55%にも及ぶようです。
私の時代は20%にも及ばなかったにもかかわらずです。
それで、大学を卒業したら、その返済が始まるのです。
そんなことでいいのでしょうか?
その見返りがあるのならばともかく、そんな見返りがあるとは思えないです。
大学での講義の内容を書いたノートを今も保管してみていますが、その内容と、自身で買って読んで学んだ内容を比べると、そんな大差ない、いや本で学んだ内容の方がずっと有意義な気がします。
ならば高すぎる大学の授業料を払って、しかも奨学金を借りてまで行く必要があるとは思えないのが実情です。
そのことを今の学生は考えて行動する必要があるでしょう。
私の時代にはなかった「奨学金破産」などという言葉が昨今ではあるようですが、私には信じれなかったです。
奨学金が返せなくて家計が行き詰まり、ヒートオーバーしてしまうことですね、この言葉は。
非常に不愉快な時代に生きているなと感じます。
●以下の電子書籍.ペーパーバックで、なぜ、大学通学を突貫すべきでないのかを、もっと詳らかにしているので興味のある人は読んでみてくださいませ。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
明治時代の大学進学のメリットが今もあるか?ないです(笑) (加藤秀俊)
こんにちは。
今回は大学の意義と、その行方を占う事柄を書いてみたいと思います。
高校の卒業生中の半分が大学に行くという国は日本くらいでしょう。

そんなに多いは何故か?学生の多くが学問が大事と思っている…そうではないでしょう、表面的にはそう思っているように見えますが。
実際は、大学卒という肩書が欲しいのとキャンパスライフを謳歌したいだけでしょう。
そして多くの人が何か学歴というものに威厳のようなものを感じているだけでしょう。
本人は勉強したくはないのにも関わらず。
明治10年代、高等教育を受けて立身出世を願う若者たちが東京に集まったのです。
東大、慶應義塾、攻玉社、東京専門学校、全部合わせて3000人、受験志望者はその10倍だったのです。

予備校生、いや寄宿して働いていた人間が4万から5万人いたのです。こういう青年たちを書生といったのです当時は。
苦労の甲斐があって大学受験に合格すればその将来は洋々たるものであった。
当時はやったフレーズが「書生書生と軽蔑するな 明日は太政官のお役人」「書生書士と軽蔑するな 大臣参議はみな書生」ということです。
学生はその学業を修めると「学士」になり、成績がよく郷党の援助でもあると卒業後、外国留学をして、日本に帰るとすぐに高位高官のポストが約束されていたようです。
しかし、明治以降、サラリーマンは増加し、給料生活者というのは、ある組織に属して、自分の労働をその組織に提供し、それに対して給料を支給される生き方をする人たちのことです。
その人の行動はいつも何かの組織によって管理されているのです。
現代は組織と管理の時代です。
立身出世を驀進した民衆のエネルギーが結果として、築き上げたものは、まさに立身出世を否定するような巨大な官僚的組織になってしまったのです。
わかりましたでしょうか?
大学は立身出世のための手段だったのですが、今日においてはそういう機能は果たさないのです。
しかし、そういう手段として大学進学を決める人が少なからずいるようですし、大学というものに何か根拠なく威厳というか、有難さを感じている人もすくなからずいるようです。
日本人というのは宗教や学問に対して無批判に受け入れて多額の金を出してしまう気質があるようです。

これらに対して無批判になって崇拝してしまう気質があるからですね。
しかし、本人が心底学びたいという気概があり、困難が待ち構えていても、やり遂げる気があるのであれば、行くメリットはあるのですが、それらがないのであればいく必要はないでしょう。
私の大学時代は、父母さんたちの誰もが、国民の90%が「自分は中流家庭だ」というアンケート調査結果があったのですし、実際、当時はお金を持っている人と持っていない人の資産の差が世界一小さかった時代だったのです。
しかも、戦後の復興ブームで30年以上働き続ければ誰もが年収1000万円もらえる時代だったのです。
そんな時代であれば、父母たちはちょっと財布には痛いけれども、子供を大学に行かせてやろうという気概を持っていたのでしょう。
文系の大学は初年度で100万円前後、次年度からは80万円前後のお金を3年間払い続けても大丈夫だったのです。
しかし、今は格差社会。
年収1000万円以上稼げている人はほんの1握りになってしまっているのです。

そんな時代にもかかわらず大学の学費の値段は上がっているのです。
私の時代よりも年30万円くらい高いです。
そうなれば、父母の働きだけでは足りなくなってしまった。
そこでどうするか?
奨学金を借りるほかないのです。
その学生のパーセンテージは今や、55%だということです。私の時代は20%もいなかったし、借りるとしても少額でした。そして、借りても卒業後に返し続けなくてはならないのです。
そこまでして学びに行くメリットはあるか?
ないと断言しましょう!(笑)
大学で講義されている内容は、本を読んで勉強すれば事足りるのです。
大学入試で培った現代文の読解力があれば事足ります。

BOOKOFFやその他、廉価販売している古本屋で100円、300円、500円とバリエーションは様々ですが、それらを買って読んで勉強すれば事足ります。
大学の講義のお金は、いまは1コマ3000円くらいするのでしょうか?
私の頃は2500円くらいでしたが。
1コマ3000円…そんな価値はないのは明白です。
試しに、大学で講義を受けて、そこで書いたノートと本1冊読んだ内容を比べて見てくださいませ。
全然本の方が有意義でしょう。
ゆえに、行くメリットなどないのです。
これまでに学んだことがない内容が講義で出てくるから何か意義があるのではないか?
大勢の人間がいる教室にいると圧倒されて、そういったことを考えることなく無批判になってしまうのは明白です。
しかし、講義後の帰途でもいいです。
そこで冷静になって考えてくださいませ。
虚心坦懐に、本と講義内容のどちらが価値に見合っているかを判断するのです。

それで通い続けていいことがあるかどうかを自身で判断することをお勧めします。
本当にメリットがあるかどうか?
大学に行かずとも大業を成し遂げた人としてどんな人がいるか?
通い続けることで大学教授に対してどんなデメリットがあるか?
自分にもどんなデメリットがあるか?
●そういった内容について興味の湧いた人は是非とも、以下の電子書籍.ペーパーバックを読んでもらいたいです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
今回は大学の意義と、その行方を占う事柄を書いてみたいと思います。
高校の卒業生中の半分が大学に行くという国は日本くらいでしょう。
そんなに多いは何故か?学生の多くが学問が大事と思っている…そうではないでしょう、表面的にはそう思っているように見えますが。
実際は、大学卒という肩書が欲しいのとキャンパスライフを謳歌したいだけでしょう。
そして多くの人が何か学歴というものに威厳のようなものを感じているだけでしょう。
本人は勉強したくはないのにも関わらず。
明治10年代、高等教育を受けて立身出世を願う若者たちが東京に集まったのです。
東大、慶應義塾、攻玉社、東京専門学校、全部合わせて3000人、受験志望者はその10倍だったのです。
予備校生、いや寄宿して働いていた人間が4万から5万人いたのです。こういう青年たちを書生といったのです当時は。
苦労の甲斐があって大学受験に合格すればその将来は洋々たるものであった。
当時はやったフレーズが「書生書生と軽蔑するな 明日は太政官のお役人」「書生書士と軽蔑するな 大臣参議はみな書生」ということです。
学生はその学業を修めると「学士」になり、成績がよく郷党の援助でもあると卒業後、外国留学をして、日本に帰るとすぐに高位高官のポストが約束されていたようです。
しかし、明治以降、サラリーマンは増加し、給料生活者というのは、ある組織に属して、自分の労働をその組織に提供し、それに対して給料を支給される生き方をする人たちのことです。
その人の行動はいつも何かの組織によって管理されているのです。
現代は組織と管理の時代です。
立身出世を驀進した民衆のエネルギーが結果として、築き上げたものは、まさに立身出世を否定するような巨大な官僚的組織になってしまったのです。
わかりましたでしょうか?
大学は立身出世のための手段だったのですが、今日においてはそういう機能は果たさないのです。
しかし、そういう手段として大学進学を決める人が少なからずいるようですし、大学というものに何か根拠なく威厳というか、有難さを感じている人もすくなからずいるようです。
日本人というのは宗教や学問に対して無批判に受け入れて多額の金を出してしまう気質があるようです。
これらに対して無批判になって崇拝してしまう気質があるからですね。
しかし、本人が心底学びたいという気概があり、困難が待ち構えていても、やり遂げる気があるのであれば、行くメリットはあるのですが、それらがないのであればいく必要はないでしょう。
私の大学時代は、父母さんたちの誰もが、国民の90%が「自分は中流家庭だ」というアンケート調査結果があったのですし、実際、当時はお金を持っている人と持っていない人の資産の差が世界一小さかった時代だったのです。
しかも、戦後の復興ブームで30年以上働き続ければ誰もが年収1000万円もらえる時代だったのです。
そんな時代であれば、父母たちはちょっと財布には痛いけれども、子供を大学に行かせてやろうという気概を持っていたのでしょう。
文系の大学は初年度で100万円前後、次年度からは80万円前後のお金を3年間払い続けても大丈夫だったのです。
しかし、今は格差社会。
年収1000万円以上稼げている人はほんの1握りになってしまっているのです。
そんな時代にもかかわらず大学の学費の値段は上がっているのです。
私の時代よりも年30万円くらい高いです。
そうなれば、父母の働きだけでは足りなくなってしまった。
そこでどうするか?
奨学金を借りるほかないのです。
その学生のパーセンテージは今や、55%だということです。私の時代は20%もいなかったし、借りるとしても少額でした。そして、借りても卒業後に返し続けなくてはならないのです。
そこまでして学びに行くメリットはあるか?
ないと断言しましょう!(笑)
大学で講義されている内容は、本を読んで勉強すれば事足りるのです。
大学入試で培った現代文の読解力があれば事足ります。

BOOKOFFやその他、廉価販売している古本屋で100円、300円、500円とバリエーションは様々ですが、それらを買って読んで勉強すれば事足ります。
大学の講義のお金は、いまは1コマ3000円くらいするのでしょうか?
私の頃は2500円くらいでしたが。
1コマ3000円…そんな価値はないのは明白です。
試しに、大学で講義を受けて、そこで書いたノートと本1冊読んだ内容を比べて見てくださいませ。
全然本の方が有意義でしょう。
ゆえに、行くメリットなどないのです。
これまでに学んだことがない内容が講義で出てくるから何か意義があるのではないか?
大勢の人間がいる教室にいると圧倒されて、そういったことを考えることなく無批判になってしまうのは明白です。
しかし、講義後の帰途でもいいです。
そこで冷静になって考えてくださいませ。
虚心坦懐に、本と講義内容のどちらが価値に見合っているかを判断するのです。
それで通い続けていいことがあるかどうかを自身で判断することをお勧めします。
本当にメリットがあるかどうか?
大学に行かずとも大業を成し遂げた人としてどんな人がいるか?
通い続けることで大学教授に対してどんなデメリットがあるか?
自分にもどんなデメリットがあるか?
●そういった内容について興味の湧いた人は是非とも、以下の電子書籍.ペーパーバックを読んでもらいたいです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
創造力の養成は大学でなければ不可能か? (加藤秀俊)
こんにちは。
教育の目的は、創造力の養成を主眼とすべきとしていた、私の敬愛する故.加藤秀俊氏(下写真)が『独学のすすめ』で書いていたことです。

しかし、それを試みている教師は少ないし、それを自らしようともしない学生があまりにも多いと感じたのでしょうか加藤氏は?
創造力とは、目の前にある問題点を良きものに変えていく作業である、としていました加藤氏は。
それは、どの人でも一緒なのはわかります。
ゆえに、最終学歴が終了したらそれで教育は終わりではなく永続していくべき性質を持っているということを私は中学時代から感じていたことですし、加藤氏も同じことをその著で書かれていました。
では、その創造力は高い学歴を持たなくては叶わないことなのでしょうか?
そんなことはないのです。
学校教育とは無関係に世界的な発明をした例をあげましょう。
それもその『独学のすすめ』からの引用です。
エディソン、アイザック.シンガー(ミシンの発明) ジョージ.ウェスティングハイツ(交流電源を普及) ウィットコム.ジョドソン(ファスナーを発明) ジョージ.イーストマン(乾式写真) ヘンリーフォード(車を全国に普及させた)、ウィルバーとオーヴィル.ライト兄弟
これはすさまじいです。
大学出ではない人たちがこれほど世界的な発明をこなしてしまったのですから。
その発明もまた創造力といっていいでしょう。
良きものに変えていく、という作業なのですから。

その際に必要なのは、物事を構造的に探究することでしょう。
そのためには表面だけで物事を見ていてはわかりません。
内部をみなくては。
その際に必須なのは、本を読むということでしょう。
その行為によって構造がわかり、問題点が探れるのです。
そのためには、知的好奇心がなくてはいけないでしょう。
また本が好きでなければ叶わないでしょう。
その2つを持ち合わせた場合、そして失敗しても何度も挫けずに挑戦し続ける根性がなくてはいけないのも言うまでもありません。
そういったものを持ち合わせている人は少ないと感じざるを得ないのです。
しかし、その構造的に物事を探る行為ですが、それは大学にいかなくても可能なものです。
世間には本があふれているのですから。
古本屋に行けば、素晴らしい本でも100円で売っているパターンも往々にしてあります。
それらを読めば、わざわざ大学に行って高い授業料を払っていく必要はないでしょう。

私の大学時代は、講義1コマで2500円の計算になりました。
しかし、昨今では3000円はします。
高いところでは4000円もします。
そんな値段に見合ってないのは言うを待たないのです(笑)
「学校に行かずとも本を読めばよろしい」と加藤氏はその著で書いていました。
私も同感なのです。
こういう意見が一致するところも相性のいい証拠だったのです。
その相性のいいゆえに、加藤氏の本でまだ読んでいないものが本屋であったら、すぐさま手に取り勘定しに行くこともしばしばでした。
●そんな加藤氏に興味を持った人は、以下のその氏の偉業について書いた電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
教育の目的は、創造力の養成を主眼とすべきとしていた、私の敬愛する故.加藤秀俊氏(下写真)が『独学のすすめ』で書いていたことです。
しかし、それを試みている教師は少ないし、それを自らしようともしない学生があまりにも多いと感じたのでしょうか加藤氏は?
創造力とは、目の前にある問題点を良きものに変えていく作業である、としていました加藤氏は。
それは、どの人でも一緒なのはわかります。
ゆえに、最終学歴が終了したらそれで教育は終わりではなく永続していくべき性質を持っているということを私は中学時代から感じていたことですし、加藤氏も同じことをその著で書かれていました。
では、その創造力は高い学歴を持たなくては叶わないことなのでしょうか?
そんなことはないのです。
学校教育とは無関係に世界的な発明をした例をあげましょう。
それもその『独学のすすめ』からの引用です。
エディソン、アイザック.シンガー(ミシンの発明) ジョージ.ウェスティングハイツ(交流電源を普及) ウィットコム.ジョドソン(ファスナーを発明) ジョージ.イーストマン(乾式写真) ヘンリーフォード(車を全国に普及させた)、ウィルバーとオーヴィル.ライト兄弟
これはすさまじいです。
大学出ではない人たちがこれほど世界的な発明をこなしてしまったのですから。
その発明もまた創造力といっていいでしょう。
良きものに変えていく、という作業なのですから。
その際に必要なのは、物事を構造的に探究することでしょう。
そのためには表面だけで物事を見ていてはわかりません。
内部をみなくては。
その際に必須なのは、本を読むということでしょう。
その行為によって構造がわかり、問題点が探れるのです。
そのためには、知的好奇心がなくてはいけないでしょう。
また本が好きでなければ叶わないでしょう。
その2つを持ち合わせた場合、そして失敗しても何度も挫けずに挑戦し続ける根性がなくてはいけないのも言うまでもありません。
そういったものを持ち合わせている人は少ないと感じざるを得ないのです。
しかし、その構造的に物事を探る行為ですが、それは大学にいかなくても可能なものです。
世間には本があふれているのですから。
古本屋に行けば、素晴らしい本でも100円で売っているパターンも往々にしてあります。
それらを読めば、わざわざ大学に行って高い授業料を払っていく必要はないでしょう。
私の大学時代は、講義1コマで2500円の計算になりました。
しかし、昨今では3000円はします。
高いところでは4000円もします。
そんな値段に見合ってないのは言うを待たないのです(笑)
「学校に行かずとも本を読めばよろしい」と加藤氏はその著で書いていました。
私も同感なのです。
こういう意見が一致するところも相性のいい証拠だったのです。
その相性のいいゆえに、加藤氏の本でまだ読んでいないものが本屋であったら、すぐさま手に取り勘定しに行くこともしばしばでした。
●そんな加藤氏に興味を持った人は、以下のその氏の偉業について書いた電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
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創造力は誰にとっても絶対に必須か? (加藤秀俊)
こんにちは。
前回の続きです。
前回において、故加藤秀俊氏(下写真)は、現代教育においては、創造力を培うことが最大の眼目とすべきである、ということを力説していましたが、それへの端緒をどう考えるかを示唆したいと思います。

それを考えるに際して、現代教育はそういうことにベクトルが向いていないということです加藤氏に言わせれば。
氏の書である『独学のすすめ』から以下、引用しましょう。
「…しかし、それも無理からぬことなのであった。
自分の力で考えるということが日本の教育にはほとんどないのである。中学生は高校の受験、高校生は大学受験のための勉強に必死になっていて、とにかく、あらゆることを、無批判に暗記することだけに忙殺されている。
教育というものはほとんど、例外なしに他律的なのだ。
生徒はガンガンと詰め込まされている。あらゆる知識をただおぼえこむ記憶機械のようなものだ。
どんなことであれ、「なぜ」を問うことは創造性の第一歩である。
既存のものを疑ってみないことには、新しい観念を生み出すことは出来ない。
その「なぜ」にこたえようとしないのが現代の教育である。
私が大学で簿記を習っていた時に先生に質問しに行った。
金がもうかればもうかるほど簿記での「借方」が大きくなる。
なぜプラスを借方というのか質問した。
そうしたらその先生はげらげら笑いだし、「なぜも何もないんだよ。昔からそうなっているんだよ」と相手にしてくれなかった。
「昔からそうなっているんだ」などというのは答えになっていない。
創造的な人間こそ、本当に充実した人間である。そういう人間を育てることを日本の教育は怠っている。詰め込み教育も早く変えなくてはいけない。」
創造とは、なぜそうなっているかを構造的に探ることが大事であるということであろうか?
そういう内情を探るのではなく、ただ単に詰め込めばいい、という現代教育がその原因になっている、ということを加藤氏は言いたかったのだろうと思います。

詰め込み教育…それは仕方ない面も多分に含んでいると思います。
現代日本では多くの人が大学に進学しようとします。
今では高校生の半分以上が、それへの進学を希望しているのです。
そうなれば競争が熾烈になり、大学入試の問題も必然的に、多くのものを暗記するものに変貌せざるを得ないでしょう。
さすれば、内情を問うよりも、量を問うことに行かざるを得ないでしょう。
ゆえに、現代の日本が詰め込み教育の変貌したのでしょう。
それゆえに、勉強とは、暗記することであるという思い込みが必然的に植え付けられてしまった。

ゆえに、内情を問うことを学生がしなくなった…そういう分析も成り立つことも当然認めざるを得ないでしょう。
しかし、私が思うに、それは現代日本に特有の問題であって、他の諸国も日本のように著しい進学率になったら、必然的にそうなるような気がしてならないです。
いつの時代でも、教育=詰め込み、と勘違いしてしまう人もいるでしょうし、物事の内情を深く知りたいという欲求が出てくる人はいるでしょう。
ものすごい理論を生み出すのは、やはり暗記教育だけでは無理、というのは頷けます。
しかし、創造力は、膨大な情報量の積み重ねによってはじめて可能になるのであって、ことさらそれを無暗に批判するのはどうかなと思います。
暗記こそは、創造を生み出す第一歩であることは間違いないです。
現代日本の教育が、それに貢献している面も否定はできないでしょう。
加藤氏は、物事を深く広く追及することによって、問題点の解決が叶った経験がたくさんあるのでしょう。

ゆえにそういう創造力を培うことをすすめているのだと思いますね。
しかし、その作業においては読書というものが必然的に必要になってきます。
しかし、その読書も、もともと知的好奇心がなくては務まらないものです。
その知的好奇心は、あるかどうかはその領域にもよりますし、いろんな幅広い分野においても出るかどうかは生まれつき決まっているようです。
それがない人にはいくら読書の効用を説いても無駄でしょう。
そういうことを私は大学時代に大いに経験してきました(笑)
しかし、それは悪いことではないのです。
興味のないものに対して興味を持て、と言われても湧かない人は湧かないのです。
それになくても、大学卒業後に、立派に社会人として生活を営み、業務をこなしている人しか私は知りません。

卒業後に同窓会であった同僚たちと話をしていると…。
ゆえに、創造力をつけたいかどうかは本人によるのであって、いらないといえばことさら騒ぐことはしない方がいいような気がします。
●ただ、その創造力がどういうもので、どんな効用があるのかといったことを探り、経験してみたいなという人がいたら、以下、加藤秀俊の偉業について著した電子書籍.ペーパーバックの読了をお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
前回の続きです。
前回において、故加藤秀俊氏(下写真)は、現代教育においては、創造力を培うことが最大の眼目とすべきである、ということを力説していましたが、それへの端緒をどう考えるかを示唆したいと思います。
それを考えるに際して、現代教育はそういうことにベクトルが向いていないということです加藤氏に言わせれば。
氏の書である『独学のすすめ』から以下、引用しましょう。
「…しかし、それも無理からぬことなのであった。
自分の力で考えるということが日本の教育にはほとんどないのである。中学生は高校の受験、高校生は大学受験のための勉強に必死になっていて、とにかく、あらゆることを、無批判に暗記することだけに忙殺されている。
教育というものはほとんど、例外なしに他律的なのだ。
生徒はガンガンと詰め込まされている。あらゆる知識をただおぼえこむ記憶機械のようなものだ。
どんなことであれ、「なぜ」を問うことは創造性の第一歩である。
既存のものを疑ってみないことには、新しい観念を生み出すことは出来ない。
その「なぜ」にこたえようとしないのが現代の教育である。
私が大学で簿記を習っていた時に先生に質問しに行った。
金がもうかればもうかるほど簿記での「借方」が大きくなる。
なぜプラスを借方というのか質問した。
そうしたらその先生はげらげら笑いだし、「なぜも何もないんだよ。昔からそうなっているんだよ」と相手にしてくれなかった。
「昔からそうなっているんだ」などというのは答えになっていない。
創造的な人間こそ、本当に充実した人間である。そういう人間を育てることを日本の教育は怠っている。詰め込み教育も早く変えなくてはいけない。」
創造とは、なぜそうなっているかを構造的に探ることが大事であるということであろうか?
そういう内情を探るのではなく、ただ単に詰め込めばいい、という現代教育がその原因になっている、ということを加藤氏は言いたかったのだろうと思います。

詰め込み教育…それは仕方ない面も多分に含んでいると思います。
現代日本では多くの人が大学に進学しようとします。
今では高校生の半分以上が、それへの進学を希望しているのです。
そうなれば競争が熾烈になり、大学入試の問題も必然的に、多くのものを暗記するものに変貌せざるを得ないでしょう。
さすれば、内情を問うよりも、量を問うことに行かざるを得ないでしょう。
ゆえに、現代の日本が詰め込み教育の変貌したのでしょう。
それゆえに、勉強とは、暗記することであるという思い込みが必然的に植え付けられてしまった。
ゆえに、内情を問うことを学生がしなくなった…そういう分析も成り立つことも当然認めざるを得ないでしょう。
しかし、私が思うに、それは現代日本に特有の問題であって、他の諸国も日本のように著しい進学率になったら、必然的にそうなるような気がしてならないです。
いつの時代でも、教育=詰め込み、と勘違いしてしまう人もいるでしょうし、物事の内情を深く知りたいという欲求が出てくる人はいるでしょう。
ものすごい理論を生み出すのは、やはり暗記教育だけでは無理、というのは頷けます。
しかし、創造力は、膨大な情報量の積み重ねによってはじめて可能になるのであって、ことさらそれを無暗に批判するのはどうかなと思います。
暗記こそは、創造を生み出す第一歩であることは間違いないです。
現代日本の教育が、それに貢献している面も否定はできないでしょう。
加藤氏は、物事を深く広く追及することによって、問題点の解決が叶った経験がたくさんあるのでしょう。
ゆえにそういう創造力を培うことをすすめているのだと思いますね。
しかし、その作業においては読書というものが必然的に必要になってきます。
しかし、その読書も、もともと知的好奇心がなくては務まらないものです。
その知的好奇心は、あるかどうかはその領域にもよりますし、いろんな幅広い分野においても出るかどうかは生まれつき決まっているようです。
それがない人にはいくら読書の効用を説いても無駄でしょう。
そういうことを私は大学時代に大いに経験してきました(笑)
しかし、それは悪いことではないのです。
興味のないものに対して興味を持て、と言われても湧かない人は湧かないのです。
それになくても、大学卒業後に、立派に社会人として生活を営み、業務をこなしている人しか私は知りません。
卒業後に同窓会であった同僚たちと話をしていると…。
ゆえに、創造力をつけたいかどうかは本人によるのであって、いらないといえばことさら騒ぐことはしない方がいいような気がします。
●ただ、その創造力がどういうもので、どんな効用があるのかといったことを探り、経験してみたいなという人がいたら、以下、加藤秀俊の偉業について著した電子書籍.ペーパーバックの読了をお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
怠惰な大学教授は、なぜ学者を志していたころの情熱を失ってしまったか?どうすれば熱心になれるか? (加藤秀俊)
こんにちは。
私の大学時代に読んだ本で、感銘を受けた大学教授として桜井邦朋という人が挙げられます。
宇宙物理学の研究で、第一人者でした。
この人が書いた本の中で、「大学教授たるもの、日々の研究結果として本の出版はしなくてはならない」ということを書いていました。
そういうことには何気なく一年次の頃に私も思ってました。
講義内容が詳説されている冊子を見て、学生は自分が受ける講義を選択するのですが、その講義内容の冊子には教授たちのプロフィールや、これまで出した本や訳書本などが書いてあるのが普通でした。
しかし、どの教員たちも、そこには出した本の例が少なくて辟易したものです。
日々研究しているのだから、それが集大成となって、本の1冊や2冊を出版できるのが普通ではないか?

しかし、出版できている例は、非常に少なかったです。
研究においては、必ず文章を書く、というのが必然です。
しかし、それを習慣づけることがないから、ほとんどできていない教授や助教授がほとんどでした。
大学教授の常として、講義では毎年毎年、同じ講義ノートを読んで、解説しているだけ、というのがよくありました。
そういう教授に限って、研究などしていないのです。
ゆえに、35年の教授人生の中で、出版した本の数は1冊だけ、という例がよくあります。
仕方ないでしょう。
そういう研究のスタンスでも、毎年自分の講義を受講してくれる学生が大勢いるからこそ、こういう惰性の教授をのさばらせてしまうのですから。
そういういい加減な教授の授業など受けたくない、といってボイコットする学生がわんさか出れば、そういう教授も必死に研究するようになるでしょう。
しかし、そんな教授の授業こそ、毎回毎回同じことを言っているだけだから、年末試験が楽なのです。
楽だから、受講生が多いのです。
多いから、その分、高額の給料が入ってくるのです。

気張って研究しなくても給料が高ければ、必死になって研究して本を出版しようという気概がうせてしまうのでしょう。
しかし、教授たちは、当初、学者を志したからこそ、そういう気概があったのでしょう。
しかし、そういう好きなことを毎日毎日していると逆に、好きや憧れという気がなくなってしまうことも考えれます。
皆、すしは好きですよね?
そのすしは毎日食べていれば、好きではなくなります。
逆にうんざりしてしまうでしょう。
たまーに食べるから美味しいし、ありがたみがわかるのです。
それと学問の研究も一緒なのではないか、そんな気がするのです。
毎日毎日好きなことだけやっていれば、好きではなくなるのは明白です。
ゆえに、あまり乗り気でない早朝アルバイトなどもすることで、研究に打ち込めるのではないでしょうか?

そんな気がするのです。
私は本を読んだり文章を書いたりするのが好きですが、毎日毎日そればかりではやはりうんざりという気になってしまいます。
しかし、不本意な早朝のバイトなどをすることで、それが終了してからの本読みや物書きは非常に心地よいものなのです。
誰もが経験する中学時代の3年時の部活の終了時期を思い出してくださいませ。
それまでは、スポーツと勉強の二足の草鞋を履いていた。
しかし、受験を控えるがゆえに、部活は辞めなくてはならない。
ゆえに、勉強する時間が増えて、勉強の効率が抜群にあがる…そういきまいていたにもかかわらず、実際そうはならない。
何故か?
部活にいかなくてもいいからと気が抜けて、その分遊んじゃうからですね。
それは中学時代だけでなく、どの世代にも当てはまります。
ゆえに大学教授は好きな研究活動に取り込めると息巻いても、時間が多すぎて怠惰になってしまう例がわんさかあるようです。
ゆえに、自分の好きでない不本意なことを自らに課していくことが大事でしょう。
幼かった中学時代の自分に学び返すことが重要でしょう。

それで、自分の今のスタンスを見直すことで、研究に没頭することが叶うのではないか、そんな気がしますね。
ただし、研究できる時間が多すぎるからこそ、逆に研究しまくりになって、教授生活の中で、100冊以上もの本を出版してきた学者の例もあることは間違いないです。
その好例として外山滋比古、吉本隆明、桑原武夫といった例があります。
そして当の桜井邦朋もその例に漏れないのです。
そして、私が敬愛していた加藤秀俊(下写真)もその例でした。
この人も100冊以上の本を逝去するまでに出してきたのです。

まさに知識人としてのあるべき姿を体現していたのですから尊敬に値する人物でした。
専門という枠にとらわれずに、好奇心の赴くまま、いろんな本をよみまくり、フィールドワークのしまくりによって、本を出版しまくりになっていたのです。
学問に関するラジオのパーソナリティにもなったこともあり、また、地方のシンポジウムの講演にも呼ばれて、そこでの講演の内容が本になったこともありました。
そういう姿を見せつけることが学者が学生に対してすべき一番大事なのではないでしょうか?
●そんな加藤氏に興味わいた人に読んでほしいのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
私の大学時代に読んだ本で、感銘を受けた大学教授として桜井邦朋という人が挙げられます。
宇宙物理学の研究で、第一人者でした。
この人が書いた本の中で、「大学教授たるもの、日々の研究結果として本の出版はしなくてはならない」ということを書いていました。
そういうことには何気なく一年次の頃に私も思ってました。
講義内容が詳説されている冊子を見て、学生は自分が受ける講義を選択するのですが、その講義内容の冊子には教授たちのプロフィールや、これまで出した本や訳書本などが書いてあるのが普通でした。
しかし、どの教員たちも、そこには出した本の例が少なくて辟易したものです。
日々研究しているのだから、それが集大成となって、本の1冊や2冊を出版できるのが普通ではないか?
しかし、出版できている例は、非常に少なかったです。
研究においては、必ず文章を書く、というのが必然です。
しかし、それを習慣づけることがないから、ほとんどできていない教授や助教授がほとんどでした。
大学教授の常として、講義では毎年毎年、同じ講義ノートを読んで、解説しているだけ、というのがよくありました。
そういう教授に限って、研究などしていないのです。
ゆえに、35年の教授人生の中で、出版した本の数は1冊だけ、という例がよくあります。
仕方ないでしょう。
そういう研究のスタンスでも、毎年自分の講義を受講してくれる学生が大勢いるからこそ、こういう惰性の教授をのさばらせてしまうのですから。
そういういい加減な教授の授業など受けたくない、といってボイコットする学生がわんさか出れば、そういう教授も必死に研究するようになるでしょう。
しかし、そんな教授の授業こそ、毎回毎回同じことを言っているだけだから、年末試験が楽なのです。
楽だから、受講生が多いのです。
多いから、その分、高額の給料が入ってくるのです。
気張って研究しなくても給料が高ければ、必死になって研究して本を出版しようという気概がうせてしまうのでしょう。
しかし、教授たちは、当初、学者を志したからこそ、そういう気概があったのでしょう。
しかし、そういう好きなことを毎日毎日していると逆に、好きや憧れという気がなくなってしまうことも考えれます。
皆、すしは好きですよね?
そのすしは毎日食べていれば、好きではなくなります。
逆にうんざりしてしまうでしょう。
たまーに食べるから美味しいし、ありがたみがわかるのです。
それと学問の研究も一緒なのではないか、そんな気がするのです。
毎日毎日好きなことだけやっていれば、好きではなくなるのは明白です。
ゆえに、あまり乗り気でない早朝アルバイトなどもすることで、研究に打ち込めるのではないでしょうか?
そんな気がするのです。
私は本を読んだり文章を書いたりするのが好きですが、毎日毎日そればかりではやはりうんざりという気になってしまいます。
しかし、不本意な早朝のバイトなどをすることで、それが終了してからの本読みや物書きは非常に心地よいものなのです。
誰もが経験する中学時代の3年時の部活の終了時期を思い出してくださいませ。
それまでは、スポーツと勉強の二足の草鞋を履いていた。
しかし、受験を控えるがゆえに、部活は辞めなくてはならない。
ゆえに、勉強する時間が増えて、勉強の効率が抜群にあがる…そういきまいていたにもかかわらず、実際そうはならない。
何故か?
部活にいかなくてもいいからと気が抜けて、その分遊んじゃうからですね。
それは中学時代だけでなく、どの世代にも当てはまります。
ゆえに大学教授は好きな研究活動に取り込めると息巻いても、時間が多すぎて怠惰になってしまう例がわんさかあるようです。
ゆえに、自分の好きでない不本意なことを自らに課していくことが大事でしょう。
幼かった中学時代の自分に学び返すことが重要でしょう。
それで、自分の今のスタンスを見直すことで、研究に没頭することが叶うのではないか、そんな気がしますね。
ただし、研究できる時間が多すぎるからこそ、逆に研究しまくりになって、教授生活の中で、100冊以上もの本を出版してきた学者の例もあることは間違いないです。
その好例として外山滋比古、吉本隆明、桑原武夫といった例があります。
そして当の桜井邦朋もその例に漏れないのです。
そして、私が敬愛していた加藤秀俊(下写真)もその例でした。
この人も100冊以上の本を逝去するまでに出してきたのです。
まさに知識人としてのあるべき姿を体現していたのですから尊敬に値する人物でした。
専門という枠にとらわれずに、好奇心の赴くまま、いろんな本をよみまくり、フィールドワークのしまくりによって、本を出版しまくりになっていたのです。
学問に関するラジオのパーソナリティにもなったこともあり、また、地方のシンポジウムの講演にも呼ばれて、そこでの講演の内容が本になったこともありました。
そういう姿を見せつけることが学者が学生に対してすべき一番大事なのではないでしょうか?
●そんな加藤氏に興味わいた人に読んでほしいのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
難解な表現をする著作物はメリットはある?しかしデメリットの方が多い? (加藤秀俊)
こんにちは。
日本の大学生はとにかく遊びすぎていて、大学自体がレジャーランド化していることが海外でささやかれていたのを大学在学時代に知りました。
しかし、それは海外と比較して、異常なほどの大学進学率がゆえにその面が強調されるからではないか、という気がします。
高校生のうち、卒業生の半分が大学に進学をするのは日本だけです。
その異常なほどの進学率ゆえに、その遊び惚けてしまう人が目立つのでしょう。
もしもイギリスやドイツが、日本のように大学への進学率を記録するようになったら、そんなことが起きるのではないでしょうか?

やはり遊び惚けしまう大学生が目立つようになってしまう、という事態に。
それは、人類を俯瞰して、文字好きよりも文字嫌いの方が比率的に多いという人類普遍的な真理があるあるからです。
それゆえに、日本の大学生が遊び惚けているという事態をそれほど嘆く必要はないのかなという気がします。
その遊び惚けていた大学生も社会人になったら、それなりに立派な業務への取り組みをしているのがわかります。
ただ文字嫌いの人は、受験という後ろ盾がないから勉強しないのであって、後ろ盾があれば勉強するのだから、それはそれでいいでしょう。
ただ、そんな文字嫌いの人に、勉強に向かわせる工夫はやはり必要ではあるのは事実でしょう。
大学の講義への出席が苦手であるならば、せめて本くらいは読むべきではないか?
そんなことを思ってしまいます。
しかし、大学の授業料はかなり高いのです。
私の時代は、1時間半の1コマの講義代は2500円くらいでした。

今考えれば、かなり高いですし、そんな価値はないのは明白でした。
今はもっと高いでしょう。
そのことに気が付いて、辞退する(=退学する)のがいいのではないか、とそんなことを考えてしまいます。
いや本当のことです。
講義1コマの内容と、本を1冊買って読むのとどちらが有意義で学ぶものが多いかを自分なりに研究したらいいと思います。
BOOKOFFで1冊100円で買ってきて読んだ本の方が有意義なことは間違いないです。
その際に、読みやすい筆致で書かれたものの方がいい気がします。
やれ〜性だの、〜的といった表現が多い著作は読んでいて、疲れますし、1文をかなり長く書くような著者の本もいただけません。
また、祖述だけの本もいただけません。
引用ばかりの本を書く著者のもいただけません。
その著者の主張や意見、主義なども書かれたものではないと、面白くもなんともないのです。
こういう本ばかりに出合ってきてしまった大学生は、学問など面白くないと思って忌避してしまうことも間違いないでしょう。

しかし、一歩下がって、そういう難解な表現をする人ではなく、わかりやすく書いて、しかもその著者の考えなども盛り込んでいる人の本に出会えるまで、探索を続けてもらいたいものです。
そういう難解な表現を使う著者や、祖述だけの著者、引用ばかりの著者、考えの書いていない著者のは、私は読みたくないですし、そういう本にであったら、その著者は、ワードのNGリストに入れて2度とその著者の本は買わないことにしているのです。
話題になったりしている著者の本が出て、それを読もうと思ったときに、そのNGリストを見て、そこにその著者がリストアップされていたら、私は買わないことにしているのです。
そうすることで、無駄な時間やお金を使わなくてよくなるからです。
引用ばかりの本を書いている人は、やはり次の本も、また次の本も引用ばかりの本を書いているのが通常だからです。
難解な表現をしている著者は、やはり他の著書でも難解な表現をしているのが通常だからです。
しかし、戦後において、そういう難解な表現をしている著者が持てはやされた時期があったのも事実です。
その代表として政治学や日本思想史で有名な丸山真男(下写真)を挙げたいと思います。

この人は古文や漢文に造詣が深くて、江戸時代の日本思想を引き合いに出して、その日本の思想のあり方を批判していたのです。
しかし、当時の儒教等が、当時の日本人の内面を形成し、明治以降の政治的な行動に結びつけられたことは間違いないです。
しかし、それを難解な言葉で表現して、江戸時代の古文や漢文の引用ばかりで、いただけなかったのです私は。
江戸時代の古語ばかりの文献の引用ばかりだったからわかりにくかった印象がいまだに残っています。
説得力がまるでなかったです。
私は政治学のゼミに入っていましたが、そのゼミの先生は、丸山真男の信奉者だったのです。
その先生曰く、「私は学生時代に丸山真男の本に感動した。「頭がいいっていうのはこういうことかなっ!」と思ったね。学生時代から今まで丸山真男の本を何度読んだかわからない。もう本はボロボロだもの!」と感情をこめていっていたのです。
その先生は私と20歳も年長ゆえに古文の教養はたくさんあったのは確かです。
ゆえに、私に、受験が終了してしまった後に雲散霧消してしまった古文の教養が脳内にたくさん残っていたのであれば、丸山への認識は違ったものになっていたのだろうか?と疑問に思いますが、ちょっと考えて…そんなことはないだろうと思います(笑)。
元々、引用が多い文は読みづらい性質を孕んでいるし、支離滅裂な文章になり、そういう文章は書く人の場合、自身の意見がほとんど書かれていないがゆえに、非常につまらなくなるのです。
それを覆してくれる例を知っているならば、是非とも教えてほしいものです。

ここで問いたいのは、「難解さ」が、丸山の魅力の1つになるのだろうか?ということです。
確かに簡潔すぎる単語を使うよりも、若干難解な語を使うことで、読み手に思考の契機を与えてくれるもので、覚醒作用があることは確かです。
しかし、あまりに難解すぎて、読む気が失せるほどのモノであっては、意味がないでしょう。
私にとってはまさに丸山が好例なのです。
それゆえに、丸山よりも、自分の言葉でわかりやすく論述している著作家の方が好感が持てたのは間違いないです。
私は政治学のゼミに属していましたが、他の、丸山を政治学の神様と崇めていた政治学史の教授がいたことは確かですが、そう崇める人がいても関心もなかったですし、評価もしなかったです私は丸山を。
読んでいて、まるで意味不明な難解な表現を駆使していたし引用ばかりだったので、読了してから印象が全くなかったのです。
そういう人を評価せよといわれても無理でしょう?(苦笑)
そういう人の本よりも、わかりやすい筆致の文章で書いてくれる人の方が好感が持てましたし、今でもそうです。
学問は、読んだ人に意味不明な感想を持たせてその場で立ち往生させてしまうのではなく、読んだ人の精神を覚醒させて、良き方向へカジ取りさせるように行動に結びつけることを目的しているのです。
それに同感の人であるならば、故.加藤秀俊の偉業に関心が持てるのではないでしょうか?
●そんな方に是非とも読んでほしい電子書籍.ペーパーバックが以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
日本の大学生はとにかく遊びすぎていて、大学自体がレジャーランド化していることが海外でささやかれていたのを大学在学時代に知りました。
しかし、それは海外と比較して、異常なほどの大学進学率がゆえにその面が強調されるからではないか、という気がします。
高校生のうち、卒業生の半分が大学に進学をするのは日本だけです。
その異常なほどの進学率ゆえに、その遊び惚けてしまう人が目立つのでしょう。
もしもイギリスやドイツが、日本のように大学への進学率を記録するようになったら、そんなことが起きるのではないでしょうか?
やはり遊び惚けしまう大学生が目立つようになってしまう、という事態に。
それは、人類を俯瞰して、文字好きよりも文字嫌いの方が比率的に多いという人類普遍的な真理があるあるからです。
それゆえに、日本の大学生が遊び惚けているという事態をそれほど嘆く必要はないのかなという気がします。
その遊び惚けていた大学生も社会人になったら、それなりに立派な業務への取り組みをしているのがわかります。
ただ文字嫌いの人は、受験という後ろ盾がないから勉強しないのであって、後ろ盾があれば勉強するのだから、それはそれでいいでしょう。
ただ、そんな文字嫌いの人に、勉強に向かわせる工夫はやはり必要ではあるのは事実でしょう。
大学の講義への出席が苦手であるならば、せめて本くらいは読むべきではないか?
そんなことを思ってしまいます。
しかし、大学の授業料はかなり高いのです。
私の時代は、1時間半の1コマの講義代は2500円くらいでした。
今考えれば、かなり高いですし、そんな価値はないのは明白でした。
今はもっと高いでしょう。
そのことに気が付いて、辞退する(=退学する)のがいいのではないか、とそんなことを考えてしまいます。
いや本当のことです。
講義1コマの内容と、本を1冊買って読むのとどちらが有意義で学ぶものが多いかを自分なりに研究したらいいと思います。
BOOKOFFで1冊100円で買ってきて読んだ本の方が有意義なことは間違いないです。
その際に、読みやすい筆致で書かれたものの方がいい気がします。
やれ〜性だの、〜的といった表現が多い著作は読んでいて、疲れますし、1文をかなり長く書くような著者の本もいただけません。
また、祖述だけの本もいただけません。
引用ばかりの本を書く著者のもいただけません。
その著者の主張や意見、主義なども書かれたものではないと、面白くもなんともないのです。
こういう本ばかりに出合ってきてしまった大学生は、学問など面白くないと思って忌避してしまうことも間違いないでしょう。
しかし、一歩下がって、そういう難解な表現をする人ではなく、わかりやすく書いて、しかもその著者の考えなども盛り込んでいる人の本に出会えるまで、探索を続けてもらいたいものです。
そういう難解な表現を使う著者や、祖述だけの著者、引用ばかりの著者、考えの書いていない著者のは、私は読みたくないですし、そういう本にであったら、その著者は、ワードのNGリストに入れて2度とその著者の本は買わないことにしているのです。
話題になったりしている著者の本が出て、それを読もうと思ったときに、そのNGリストを見て、そこにその著者がリストアップされていたら、私は買わないことにしているのです。
そうすることで、無駄な時間やお金を使わなくてよくなるからです。
引用ばかりの本を書いている人は、やはり次の本も、また次の本も引用ばかりの本を書いているのが通常だからです。
難解な表現をしている著者は、やはり他の著書でも難解な表現をしているのが通常だからです。
しかし、戦後において、そういう難解な表現をしている著者が持てはやされた時期があったのも事実です。
その代表として政治学や日本思想史で有名な丸山真男(下写真)を挙げたいと思います。
この人は古文や漢文に造詣が深くて、江戸時代の日本思想を引き合いに出して、その日本の思想のあり方を批判していたのです。
しかし、当時の儒教等が、当時の日本人の内面を形成し、明治以降の政治的な行動に結びつけられたことは間違いないです。
しかし、それを難解な言葉で表現して、江戸時代の古文や漢文の引用ばかりで、いただけなかったのです私は。
江戸時代の古語ばかりの文献の引用ばかりだったからわかりにくかった印象がいまだに残っています。
説得力がまるでなかったです。
私は政治学のゼミに入っていましたが、そのゼミの先生は、丸山真男の信奉者だったのです。
その先生曰く、「私は学生時代に丸山真男の本に感動した。「頭がいいっていうのはこういうことかなっ!」と思ったね。学生時代から今まで丸山真男の本を何度読んだかわからない。もう本はボロボロだもの!」と感情をこめていっていたのです。
その先生は私と20歳も年長ゆえに古文の教養はたくさんあったのは確かです。
ゆえに、私に、受験が終了してしまった後に雲散霧消してしまった古文の教養が脳内にたくさん残っていたのであれば、丸山への認識は違ったものになっていたのだろうか?と疑問に思いますが、ちょっと考えて…そんなことはないだろうと思います(笑)。
元々、引用が多い文は読みづらい性質を孕んでいるし、支離滅裂な文章になり、そういう文章は書く人の場合、自身の意見がほとんど書かれていないがゆえに、非常につまらなくなるのです。
それを覆してくれる例を知っているならば、是非とも教えてほしいものです。
ここで問いたいのは、「難解さ」が、丸山の魅力の1つになるのだろうか?ということです。
確かに簡潔すぎる単語を使うよりも、若干難解な語を使うことで、読み手に思考の契機を与えてくれるもので、覚醒作用があることは確かです。
しかし、あまりに難解すぎて、読む気が失せるほどのモノであっては、意味がないでしょう。
私にとってはまさに丸山が好例なのです。
それゆえに、丸山よりも、自分の言葉でわかりやすく論述している著作家の方が好感が持てたのは間違いないです。
私は政治学のゼミに属していましたが、他の、丸山を政治学の神様と崇めていた政治学史の教授がいたことは確かですが、そう崇める人がいても関心もなかったですし、評価もしなかったです私は丸山を。
読んでいて、まるで意味不明な難解な表現を駆使していたし引用ばかりだったので、読了してから印象が全くなかったのです。
そういう人を評価せよといわれても無理でしょう?(苦笑)
そういう人の本よりも、わかりやすい筆致の文章で書いてくれる人の方が好感が持てましたし、今でもそうです。
学問は、読んだ人に意味不明な感想を持たせてその場で立ち往生させてしまうのではなく、読んだ人の精神を覚醒させて、良き方向へカジ取りさせるように行動に結びつけることを目的しているのです。
それに同感の人であるならば、故.加藤秀俊の偉業に関心が持てるのではないでしょうか?
●そんな方に是非とも読んでほしい電子書籍.ペーパーバックが以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
丸山真男は評価すべきかしないべきか? (加藤秀俊)
こんにちは。
本を読むことは、大学生にとってはかなり多くしてほしいことではあります。
これによって本人の精神を覚醒して、社会をひいて自身の健やかさを目指すことに繋がるのですから。
その際に、どのような本を読むのがいいのでしょうか?
論文の本の場合ですこの回では。
小説や文学等は除きます。
その論文の本において、他の本からの引用ばかりの本は私は読みたくないですね。
そういう本を読んでいては、集中力が萎えてきますし、そういう本を読んでいると精神が疲れてきますからね(笑)
また難しい表現ばかりの本もNGですね。
そういう本も読むのに気が萎えてきて、不快な気分になってしまいますから。
先にも書いたように、読書は読んだ人の精神を覚醒して、社会をひいて自身の健やかさを目指すことにあるのですから、そういう類いの本は読むに値しないのです。
そこで思い起こされるのは、日本の思想や政治の分野で神のように崇められている丸山真男(下写真.故人)ですね。

この人は私が大学在学中に、いろんな教授が取り上げて崇めていたものです。
政治学史の教授は「政治学の神様」と言っていたし、政治学原論の助教授は丸山の本を読んだ時のことを引き合いに出して「頭がいいっていうのはこういうことかなって思いました。大学時代から丸山の本を何度読んだかわからない。もうボロボロだもの」といっていました。
そんなにすごいのかな、と思い私もこの人の本を買って読みました。
しかし、それほどの感銘を受けたかといえばそんなことはなく、一知識人として脳内に残るくらいでした。
未読の丸山氏の本が本屋に並んでいたら、すぐさま手に取って買いに行こう、という気になったことはなかったです。
そういう気にさせてくれる著作家こそが、その人にとっての必読の著作家にすべきであることは間違いないです。
そういう著作家の本こそいつまでも読み続けて、提携していけばいいのです。
しかし、丸山真男の本の印象はとにかく、読む気にさせないですし、脳内に残らないのです。
非常に難解な表現をしていて、我慢して読み進めるも、最終ページに来て読了しても、何が書いてあったかがわかないのです。
これは丸山が頭角を現した戦後当時の日本の学界の事情にも起因していることは間違いないです。
社会科学の後進国という負い目から、明治時代においてドイツ語やフランス語の文献を日本人は多くの翻訳していたが、そこでは日本語に訳しきれない未開の単語を、訳しきれずに面白く、難しく書いていたのだろうことは間違いないです。
日本は、第二次世界大戦の敗戦国ゆえに、後ろめたさを感じ、そういった先進国からの学問から得た難解語を交えて表現するのが科学の本質、あるいはと当時のステータスという誤った知的土台があったのではないか、と思われてならないのです。

しかし、読み手が意味不明で晦渋な気分になって読む気がうせるのであれば、そこは読みやすく理解しやすいように表現するのが知識人の役目ではなかったか、と思われてならないのです。
今でも大著として有名なのが丸山の『日本政治思想史研究』ですが、ここにおいても、また『現代政治の思想と行動』という本においても、難解な表現が多様されていて、それのみならず江戸時代の文献の長々と引用がなされて、読みにくいことこの上なく、読み終わった後の感想は、何も残らなかった、と言いうのが私の本心です。
印象が何も残らなかったがゆえに、惜しげもなく古本屋に売ったのです。
そのことで後悔は全くなかったです。
日本の宗教や思想研究の著者である加地信行は、丸山の本を「難解で読みづらい」と評していたし、総合的に社会科学を修めた佐伯啓思は丸山を「興味がない」としていたし、各国の思想研究で有名な加藤尚武は丸山の思想を「大学院生並みの認識論」と評していたのです。
こういった人たちの評を読んで自分の意見を決めているのではないのです。
自分で丸山の本を読んで下した評価が以上に書いた通りなのですね。
ただ、こういった人たちの評が、自分の意見を力づけたことは間違いないです。
ただ読者の立場に立ってどんな表現にすべきかを考える場合、やはり読みやすく、ということに逢着するでしょう。
それは、故人である加藤秀俊(下写真)の書いた『自己表現』という本の最終ページに書いてあったことが、今でも印象に残っているのです。

そこでは、読みやすく書くべき、ということが書かれていました。
その意見に与し続けているからこそ、私はそのモラルを踏襲しているのです。
ただ難解な表現にはメリットもあることは間違いないです。
それに出くわすことで、「これはどんな意味なのか?」「どう考えればいいのか?」といった具合に、読者に思考を喚び起す働きがあることは間違いないです。
それによって精神生活が豊かになること間違いないです。
読書は単に知識を得るのみならず思考を促さなくて意味がないのですから。
しかし、それはあくまでも本全体の中で、ちょっとで済ますべきであって、本の最初から最後まで全体が難解な表現だらけでは、意味がないでしょう。

ゆえに難解な表現は、程度の問題であって、過ぎるはNGにしなくてはならないでしょう。
それは間違いないです。
ゆえに私は丸山を評価しないです。
そういう評は自分で、その人の本を読んで下すべきであって、学界の評で決めるべきではないのです。
そういうスタンスもまた自分の精神生活を豊かにするものである、ということを忘れないでほしいものです。
丸山を高く評したい人は全然するべきでしょうし、とがめだてはしないものです。
●そんな意見に与することが出来る人には以下の加藤秀俊の偉業について著した電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
本を読むことは、大学生にとってはかなり多くしてほしいことではあります。
これによって本人の精神を覚醒して、社会をひいて自身の健やかさを目指すことに繋がるのですから。
その際に、どのような本を読むのがいいのでしょうか?
論文の本の場合ですこの回では。
小説や文学等は除きます。
その論文の本において、他の本からの引用ばかりの本は私は読みたくないですね。
そういう本を読んでいては、集中力が萎えてきますし、そういう本を読んでいると精神が疲れてきますからね(笑)
また難しい表現ばかりの本もNGですね。
そういう本も読むのに気が萎えてきて、不快な気分になってしまいますから。
先にも書いたように、読書は読んだ人の精神を覚醒して、社会をひいて自身の健やかさを目指すことにあるのですから、そういう類いの本は読むに値しないのです。
そこで思い起こされるのは、日本の思想や政治の分野で神のように崇められている丸山真男(下写真.故人)ですね。
この人は私が大学在学中に、いろんな教授が取り上げて崇めていたものです。
政治学史の教授は「政治学の神様」と言っていたし、政治学原論の助教授は丸山の本を読んだ時のことを引き合いに出して「頭がいいっていうのはこういうことかなって思いました。大学時代から丸山の本を何度読んだかわからない。もうボロボロだもの」といっていました。
そんなにすごいのかな、と思い私もこの人の本を買って読みました。
しかし、それほどの感銘を受けたかといえばそんなことはなく、一知識人として脳内に残るくらいでした。
未読の丸山氏の本が本屋に並んでいたら、すぐさま手に取って買いに行こう、という気になったことはなかったです。
そういう気にさせてくれる著作家こそが、その人にとっての必読の著作家にすべきであることは間違いないです。
そういう著作家の本こそいつまでも読み続けて、提携していけばいいのです。
しかし、丸山真男の本の印象はとにかく、読む気にさせないですし、脳内に残らないのです。
非常に難解な表現をしていて、我慢して読み進めるも、最終ページに来て読了しても、何が書いてあったかがわかないのです。
これは丸山が頭角を現した戦後当時の日本の学界の事情にも起因していることは間違いないです。
社会科学の後進国という負い目から、明治時代においてドイツ語やフランス語の文献を日本人は多くの翻訳していたが、そこでは日本語に訳しきれない未開の単語を、訳しきれずに面白く、難しく書いていたのだろうことは間違いないです。
日本は、第二次世界大戦の敗戦国ゆえに、後ろめたさを感じ、そういった先進国からの学問から得た難解語を交えて表現するのが科学の本質、あるいはと当時のステータスという誤った知的土台があったのではないか、と思われてならないのです。
しかし、読み手が意味不明で晦渋な気分になって読む気がうせるのであれば、そこは読みやすく理解しやすいように表現するのが知識人の役目ではなかったか、と思われてならないのです。
今でも大著として有名なのが丸山の『日本政治思想史研究』ですが、ここにおいても、また『現代政治の思想と行動』という本においても、難解な表現が多様されていて、それのみならず江戸時代の文献の長々と引用がなされて、読みにくいことこの上なく、読み終わった後の感想は、何も残らなかった、と言いうのが私の本心です。
印象が何も残らなかったがゆえに、惜しげもなく古本屋に売ったのです。
そのことで後悔は全くなかったです。
日本の宗教や思想研究の著者である加地信行は、丸山の本を「難解で読みづらい」と評していたし、総合的に社会科学を修めた佐伯啓思は丸山を「興味がない」としていたし、各国の思想研究で有名な加藤尚武は丸山の思想を「大学院生並みの認識論」と評していたのです。
こういった人たちの評を読んで自分の意見を決めているのではないのです。
自分で丸山の本を読んで下した評価が以上に書いた通りなのですね。
ただ、こういった人たちの評が、自分の意見を力づけたことは間違いないです。
ただ読者の立場に立ってどんな表現にすべきかを考える場合、やはり読みやすく、ということに逢着するでしょう。
それは、故人である加藤秀俊(下写真)の書いた『自己表現』という本の最終ページに書いてあったことが、今でも印象に残っているのです。
そこでは、読みやすく書くべき、ということが書かれていました。
その意見に与し続けているからこそ、私はそのモラルを踏襲しているのです。
ただ難解な表現にはメリットもあることは間違いないです。
それに出くわすことで、「これはどんな意味なのか?」「どう考えればいいのか?」といった具合に、読者に思考を喚び起す働きがあることは間違いないです。
それによって精神生活が豊かになること間違いないです。
読書は単に知識を得るのみならず思考を促さなくて意味がないのですから。
しかし、それはあくまでも本全体の中で、ちょっとで済ますべきであって、本の最初から最後まで全体が難解な表現だらけでは、意味がないでしょう。

ゆえに難解な表現は、程度の問題であって、過ぎるはNGにしなくてはならないでしょう。
それは間違いないです。
ゆえに私は丸山を評価しないです。
そういう評は自分で、その人の本を読んで下すべきであって、学界の評で決めるべきではないのです。
そういうスタンスもまた自分の精神生活を豊かにするものである、ということを忘れないでほしいものです。
丸山を高く評したい人は全然するべきでしょうし、とがめだてはしないものです。
●そんな意見に与することが出来る人には以下の加藤秀俊の偉業について著した電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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