阿弥陀仏と科学、どちらに縋るべきか? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
科学が発達すればするほど、宗教に対する依存心は薄れていくのが通常のようですが、どれだけ科学が発達しても、宗教心が完全になくなることはないようですね。
興味関心の程度が薄れていっているだけで、完全になくなることはないようです。
科学的に解消できなかったことで、どうすればいいかどうかを模索する。
その行為を重ねても、解消ができない。
そこで宗教に頼る。
これで解消できたがゆえに、その宗教にぞっこんになる。
それゆえに、その宗教に入ることを多くの人に勧める。
こういうパターンも散見されます。
人類の歴史を俯瞰すると、科学がいくら発達すれども、人間の悩みが完全払拭されるわけではないようです。
私が興味関心をもって、宗教を調べていくと、日本人ならば浄土真宗は関心の的として、大きく取り上げられることがよくあるようです。
なぜならば、日本の中で一番信者が多いのは、浄土真宗のようです。
その訳(理由)などは、ここでは不問にしておきましょう。
その関心があって、朝日新書の『親鸞 いまを生きる』という本を買って読んでみました。
その中で、鬱の若者が取り上げられていました。
その若者は、「甘やかされた実感がないどころか、一度も無条件で愛されなかったと感じている。その子は、ナンバーワンになるのではなく、特別なオンリーワンになるように期待されて育った。自由にふるまいたいし、社会のルールは鬱陶しい。」ということです。
やはり、異常な教育を受けられなかった子供は、そうい精神的な病に冒されてしまうということですね。
こういったことは教育学の本を読めば、そういう問題が浮上してくるのです。
そして、そこから何を思うか?
自分の子供には、そういった過度な期待は絶対にかけるべきではない、ということを心に止め続けることでしょう。
私は、オウム真理教について勉強していくことで、そういう誤った教育を受けてきた子供たちが、信者になっていったということがわかりました。
オウム真理教は、カルト教団にまで成り上がってしまった宗教団体で、1995年に地下鉄サリン事件を起こし、それがもとで2000年に政府から解散命令を受けたのです。
やはり、そんな若者たちがその教団に入っていってしまったことは、そういう教育的な病理が多く蔓延していたということでしょう。
そうなればやはり、教団を非難して終わりではなく、自分の子供がいる人、あるいは学習塾の講師、あるいはその他一般人も、自身の周りの人間にはそういう教育を絶対に施してはならない、ということでしょう。
こういう社会に散見する問題点を、改善に向かわせるために科学や学問といわれるものは存在しているわけですから、それらを学べる大学での勉強こそ誰もが率先して学ばななくてはならないのですが、実際は逆なのです(笑)
まあ、それもここでは不問にしておきましょう(笑)
しかし、そういう誤った教育を施された人たちが、阿弥陀仏に縋ることで、魂の蘇生がかなったというのですから、その劇には拍手を贈らざるを得ないのです。
しかし、科学には、そういう問題点をよき方向へ向かわせるための方策論があるのが通常ですから、それを学ばない手はないのです。
ここでも明らかなように、やはり宗教にもよき方向へ向かわせる手立てがあるのだし、科学や学問にもあるのだから、どちらも重要、という認識でいるのです。
そこでどういうスタンスでいるべきか?
私は宗教と科学.学問の両方に縋るべき、ということでいるのです。
どちらも効用はあるのです。
それはどのように採択していくべきなのかは、本人に拠っているいるのです。
自身で考えて、情報を集めて、吟味していって採択、そして行動ということをしていってほしいのです。
しかし、浄土真宗を研究していくことによって驚きましたが、浄土真宗こそが日本で一番信者が多いということです。
私はてっきり創価学会が一番であると思っていたのです。
全然違っていたので驚いたのです。
●そんな内容も含めて、今回の内容に興味が出た人にお勧めしたいのは、以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(ペーパーバックとは注文が入り次第、印刷をして注文者の住所に届ける製本システムの事です!)
このページで「不問にしておきましょう」と書いていた内容についても書いてあります。
⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて終了します。
ここまでの精読に感謝いたします!

・親鸞とユダヤ.キリスト ホーム
現代と親鸞の生きたか鎌倉時代とは社会の様相が違うゆえに、現代にふさわしい哲学を形成すべし? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
世の中には、いろんな宗教があり、その宗派があるものです。
仏教があり、その中に、日蓮宗があり、曹洞宗があり、浄土真宗がありというように。
しかし、そのいずれの宗派の開祖といわれる人たちは、非常に貪欲に世の中の事柄について学び、その膨大な学んだ内容の中から、自分が大事と思われる部分は取り入れ、要らないと思われる部分については捨てる、という取捨の行為を経て、自分の宗派を形成したのです。
その得てきた情報の中には、他の宗教、そして他の宗派からも学んだことも入っているのが通常の事です。
例えば日蓮(下写真)は、真言宗も、天台宗も、浄土宗も、律宗も、禅宗も、果ては和宗の四天王寺まで赴いて仏教を学んだのです。

それらの膨大な観念の中から、自身が重要と思われることを拾い、要らないと思われるものを捨てて自身の宗教を完成させたのです。
最大の拠り所は天台宗だったようで、その宗派で唱えられている自我偈というものは、日蓮系の信者は日蓮が創始したことであると思われるかもしれないですが、そうではなく、天台宗で唱えられていることを日蓮は自分の宗教に取り入れたのです。
その自我偈は、同じく天台を学んだ曹洞宗の道元も唱えたので、曹洞宗でも当然、自我偈は唱えられていることなのです。
こういった事象を学べば、無から有を生みだすことなど不可能ゆえに、誰もが、既存のものから学んで、取捨選択して、自身の宗教を確立した、ということが言えると思います。
そういうことを説いても、日蓮正宗系の人にはなかなか信じてもらえません(笑)
その自我偈は、天台宗の経本を見れば一目瞭然なのに、それすらもしないのです。
これはどういうことに由来するのか?
以下に紹介した電子書籍.ペーパーバックにも書いてあります。
別の思想からヒントを得て、自分の思想を形作るのが人間の普通の性というものなのはこれで明らかでしょう。
確かに、宗教で講義されることの内容から学べるものがあるのは否定しません。
しかし、こんにちでは、そこからだけでなく、本から学べるのです。
人との良好な関係構築法や、医学的な内容、環境に対する知識、人類のこれからの行方を占う上での歴史的教訓等々、こういったことは、宗教に頼らずとも、自身で主体的に本を買って読んでいけば学べる性質を持っているのです。
しかし、浄土真宗の親鸞(下写真)にしろ、日蓮宗.日蓮正宗の日蓮にしろ、当時彼らの生きた時代には本などなかったのです。
いや、紙自体がかなり貴重なもので、庶民は手にすることすらできない代物だったのです。
ゆえに、何か物事を学ぶには特権階級にいた僧侶の説法を聞くほかなかったのです。
それでもあきたらず、親鸞や日蓮は自身で民衆の中にわけ行って説法をこなしていったのです。
日蓮の辻説法は有名ですね?
それは、小学校の「日本の歴史」でも習いましたよね?
しかし、現代ではそういったことはもはや無用といっていいでしょう。
何故なら、本が非常に安価に入手できる時代になったからです。
古本ならもっと安価に入手できるのです。
しかも、一般の教育は、政府によって小学校から中学校までの9年間は義務として施されるゆえに、その僧侶による説法が鎌倉時代と比較してどれほど重要かは、言うまでもありません。
やはり重要度は低くなっているのが事実です。
こんにちのように、紙が湯水のように手に入り、毎週各家庭からわんさかと資源ごみ回収の日に大量の紙が排出されるような事態になることは親鸞や日蓮は予想だにしていなかっただろうことは間違いないでしょう。
もしもタイムマシーンなるものがあって、それに乗って鎌倉時代にタイムスリップして親鸞や日蓮に会い、連れてきて現代の様子をみせたらさぞ驚くだろうし、私の教えだけに依拠せよなどという言葉は撤回するだろうことは間違いないです。
そうはいうも、全く不要とまでは言わないし、現代の僧侶たちやその宗教の説法者たちの説く内容が全くの不要などと極論は言いませんし、学ぶことのメリットはあるのは厳然たる事実です。
ゆえに私は反宗教ではないですし、宗教に勧めれる部分はあるのは確かですが、その宗教だけで万事OKなどということも出来ないのは事実です。
ではどんなスタンスがいいのでしょう?
●そんな内容に興味がわいた人に、お勧めしたいのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(ペーパーバックとは注文が入り次第、印刷をして注文者の住所に届ける製本システムの事です!)
⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて終了します。
ここまでの精読に感謝いたします!

・親鸞とユダヤ.キリスト ホーム
聖徳太子が出てきた夢のお告げによってその地が好転した。親鸞も? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
どうも、聖徳太子という人物は仏教界では、仏教公布の最大の功労者としてカリスマ的な人物と崇められて、それにかなうように、いろんな説話があり、それにちなんで今も語られる仏教名所があるのです。
それは私が知っているだけでも2個あります。
まずは奈良県の久米寺(現在の奈良県橿原市)です。
聖徳太子の弟の来目皇子が幼少の頃眼病を患い両目を失明しましたが、聖徳太子のお告げによりこの久米寺の薬師如来に祈願したところ平癒したと言われているのです。
その薬師如来は今も久米寺(下写真)に祀られているのです。
そして、文禄4年(1595年)に、その久米寺から聖徳太子像と十一面観音像を背負って布教のため関東地方に訪れていた賢恵和尚が当地で一泊した際、夢に現れた聖徳太子が現れて「この地に霊地あり、円泉ヶ丘という。恒に霊泉湧き出ず。永くこれに安住せん。汝もともにとどまるべし」と告げられたといわれているのです。
これにより賢恵和尚は、翌年には本堂、聖徳太子堂、庫裡を完成させて手厚く祀りました。
それ以後この地は栄えたので、村の名を太子にちなんで太子堂と名付けたのです。
これが太子堂という地名の由来です。
私が住む東京の世田谷にある太子堂という地名は何となく興味関心もないまま通り過ぎていましたが、仏教について勉強していくうちに、聖徳太子の「太子」という文字が心に引っかかって、調べてみたところ、こういう由来があって驚きました。
以下が、その太子堂です。
しかし、その聖徳太子の霊言は、仏教を信奉する人にはうれしいことかもしれません。
それはないかもしれません…というのは、今はいろんな宗派に林立してしまって、聖徳太子を祀る宗派であれば、それで嬉しくとも、違う派ではそんなことはないかもしれません。
しかし、日本仏教成立の遠い昔に遡ってみれば、聖徳太子の偉業というものは瞠目すべき事実でしょう。
よく、日蓮正宗の信徒団体だった創価学会や顕正会といった団体の信者の人にその話をしても、あまり喜ばないのです(苦笑)。
やはり、これらの団体で一番の崇める対象は日蓮大聖人であって、その他の人は関係ないといった感じです。
しかし、その日蓮の日本全国的な遊学の対象は、聖徳太子もその1つだったのです。
日蓮が、大阪の聖徳太子創建とされた日本最古の官寺である四天王寺に遊学した結果、聖徳太子が制定されたとされる憲法十七条の2条の「篤く三宝を敬え。三宝とは仏、法、僧なり。」という文言を貸借し、その御書に、「僧の恩をいはば仏法、法宝は必ず僧によりて住す。譬えば薪なければ火無く、大地なければ草木生ずべからず。仏法ありといえども、僧ありて、習い伝えずんば、伝わるべからず。乃至、然れば、僧の恩を報じ難し。されば、三宝の恩を報じ給うべし」
としたためたのです。
それゆえに、その日蓮大聖人様が、借用しようとするほどの威厳が、聖徳太子(下写真)にあったということでしょう。

それのみか、実際に他の和尚の夢に出てきて、その人にお告げをして、その地を栄えさせたというのですから、その威厳は実力を持っていたということです。
これは、やはり聖徳太子が神や仏の真の力を得ていた人物ということが言えると思います。
そういうお告げを受けたのがほかならぬ、親鸞もだったのです。
浄土真宗の開祖といわれている親鸞です。
「いわれている」というのはうやむやな表現ですが、親鸞本人は開宗するつもりはなかったので、こういう表現を用いたのです。
親鸞は、ただ師である法然の教えを弘めるべく、それに日々、苦心惨憺の行動をおこなっていたら、信者が大勢出来て、その親鸞の教えを信奉する宗教にすべく明治時代に、浄土真宗という名称にしたようです。
この時代から宗派を決めなければ、寺院としては認可されなかったからのようです。
法然と親鸞では、親鸞が自身で得た知識や考えも盛り込んで布教したゆえに、法然とは若干異なっていったのは自然であり、必然だったでしょう。
ゆえに法然の浄土宗ではなく、浄土真宗という名に変えたのは頷けます。

最初に聖徳太子を引き合いに出したのは、いろんな仏教の礎が太子にもあるからということもありますし、その他、いろんな人や媒体を通じて、形成されたがゆえに、決して1つの教えだけに拠るべからず、という教えを支持したいからでもあります。
勿論、私も例外ではないのです。
色んな人に触れ、いろんな書物や情報によって自分を形成することが出来たのは言うまでもないことです。
そういう広がりのある教えを持っているのがほかならぬ浄土真宗なのです。
●そんな浄土真宗について、これまでにない別な視点で書かれた電子書籍.ペーパーバックに興味のある人には以下からどうぞ!(ペーパーバックとは注文を受けた時点で、印刷をして注文者に届ける本のシステムのことです)
⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
これにて終了します。
ありがとうございました。

親鸞とユダヤ.キリスト ホーム
学問に限らず、生業は適材適所!そのことを心に留めて職業を選ぶべし? (加藤秀俊)
こんにちは。
私は、底辺高校に入学しましたけれども、何か大学だけは行きたいなと考えていました。
幼少のころからのなんとなくした憧れですね…下手の横好きですね(笑)
それで高校2年の終わりごろに、その高校内にあった進学相談室の前に来て、その廊下にあった棚にいっぱいあった各大学のパンフレットを取り出して閲覧してみました。
そこには、大学生の受講する姿がいろいろ写ってましたが、どれもやる気なさそうな、気怠そうな顔をしている人が多い印象を与えました(笑)
「つまんないな〜」「早く終わってくれないかな〜」みたいな感じですね(笑)。
そして浪人の末に、私は一応合格がかないました。
そして、授業の最初からすべて私は出席していました。
登録した授業はすべてです。
それについて何ら抵抗は感じませんでした、つらくもなんともなく…いな毎回新しいことが学べて楽しかったです。
しかし、そういう意見とは反対に、「かったるい」とか「つまんない」とか声に出していう学生が多いのに気が付きました。
しかし、私は「何でつまんないんだろう?勉強が好きで大学進学を決めたんじゃないの?」という思いが強かったです。
大学入学当初、いろんなサークルの勧誘をしていた先輩たちがいて、その男性用サークルで勧誘していた人が「大学なんて遊び場だよ、遊び場!」なんて言っていた人もいました。
「それではもったいないでしょう。高い授業料を払ってきているのに…」という思いを隠せませんでした。
それで、年末の試験の2か月から1か月前になると、大学構内や近くのコンビニのコピー機の前には、友人のノートを借りてコピーをする人の行列ができているから驚きました。
「こんなに講義に出ていない人ばかりなの?」ということでした。
やはり高校時代に見たパンフのやる気のない学生のイメージはどこも一緒なんだ、ということですね。
確かに私も友人からノートを借りてコピーしたことはありましたが、それも風邪を引いてやむなく欠席してしてしまったから仕方なしの行動だったのです。
しかし、そういう状態が改善されることなく、4年間はそういうコピー機の行列を毎年必ず目にするまま卒業しました。
何故、こうなるのか?
どうしてやる気のない学生ばかりなのか?
こういう疑問はいつまでも拭い去ることができませんでした。
卒業後、浅羽通明というひとの書いた『大学で何を学ぶか』という本を買って読んでみたことでちょっと解明の筋が見えました。
そこには「大学に入って本を読めという人がいるけれども、その人は、本1冊読むだけで精神が疲弊してしまう人の心がわかっていない」ということがかかれていました。
「はあ?」と思ったのですね。
「学生なら誰もが本を読むことなんて楽しい事なんじゃないの?」と思ったのです。
私は大学在学中に、本を300冊は読みました。
その読書の時は楽しくて愉しくて仕方なかった、ということです。
その内容と、講義で受けた内容を重ねながら思索する脳内の感覚が気持ちよかったです。
誰もがそういう思いをしたいんじゃないの?ということでしたが、そういう人は少ないのです。
愉しいけれども、あえてやらない、あるいは愉しいけれども、遊びなどの誘惑に負けて講義をさぼる、ということだったと理解していたのですが、これはまったくの誤解だったのです。
そして更に確定的に思いを変えなくてはならなくなったのは、アメリカの哲学者だったウィリアム.ジェイムズ(下写真)の抽出した理論を読んでからですね。
ウィリアムによれば、彼は、「かたい心」と「やわらかい心」という2つの人間類型を挙げているのです。
この2つが人間社会に大きく分けて分類されるとしていました。
「かたい心」とは、リンゴでも、みかんでも、バナナでも、パインでもいい。その間に序列をつけたり、関係づけたりするのではなく、いろんなものが並列的状態にあるというように、多元的に捉える思想です。
それに対して、「やわらかい心」は、この世は最終的に1つの絶対価値に収斂して、その体系の中に諸々のものがちりばめられているというように世界を一元的に捉える思想です。
前者が八百万の神々が併存する日本と、神は1つとするキリスト教やイスラム教という違いになる。
「かたい心」の人は、当然ながらものごとを断片的に捉え、その断片1つ1つに意味があるという立場をとる。
それに対して、「やわらかい心」の人は、1つ1つの情報や事柄が大きな体系の中に組み込まれていないと満足しない。体系の中に組み込めないものは無意味として排除して、理論や体系というものに関連させている。
いわば多元論者は相対的、一元論者は絶対的と言える。
この分析からすると、「かたい心」と「やわらかい心」の2つは形容の仕方が逆のような気もしますが、とにかくこのように分析しているのです。
立場上の違いから察せるように、「かたい心」の人は文字好き、「やわらかい心」の人は文字嫌いという結果になってきます。
そして、ウィリアム.ジェイムズによれば、後者の方が多数派であるということです。
私は自分の経験から、誰もが自分と同じ好みで生きているんだと勘違いしていたのです。
大半の学生は読書好きでないからといって咎める筋合いなどなかったのですね。
物事を狭く考えすぎていたのです。
しかし、読書好きでなくても、勉強嫌いな人でも、卒業後立派に業務をこなして生計を立てている人はいます。
否、そういう人ばかりでしょう。
学生時代に堕落していた生活を送っていたからといって、卒業後も堕落した生活を送っているかといえばそんなことはなく、それは単に勉強が好きでないからという理由だったのですね。
なら、どうして勉強に勉強を重ねて大学に入ったのか?
やはり事情を聞くと、高校が進学校だったから、それに身を任せるだけであった、そんな人が多いのです。
取りたてて勉強は好きでもなかったし、むしろ嫌いだったというのです。
なら仕方ないですね。
嫌いなものを無理やり好きになろうとしても、少しは好きな方にバイアスは行きますが、限度があるのです。
ならそういうことをするのではなく、卒業後、ある程度、学問には触れながら、今の仕事を頑張ってみては?ということです。
学問は、社会にある問題点を構造的に明らかにして、それをよき方向へ向かわせるためにあるのです。
それを学び、具体的な行動をしていく人が多ければ多いほど社会にとってはいい事なのです。
ゆえに勉強が嫌いでもいいから、そういう問題点を指摘した本をできるだけ読んで、自分のなすべきことを認識して行動することを勧めたいのです。
私はただ本を読んだり、勉強することが好きですから、それに適った仕事をすればいいのですし、それだからといって慢心することなく、自分の出来ないことをしてくれる人がいるからこそ、自分は生活していけるんだという認識は消さないで、脳内に止めたままにしておく所存です。
やはり人生は適材適所なのです。
それは、ウィリアム.ジェイムズの理論をもう一度読み直して、自分に適格な職業を探し探求していくことをお勧めしたいのです。
嫌いなものをいくら好きになろうと努力しても好きにある程度なっても、限度があるということは確かです。
しかし、幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏や、400冊もの本を書いた生長の家の創立者である谷口雅春にしろ、「かたい心」の持ち主だったことは疑いがないですね。
こういう人たち、宗教の教祖あるいはその長になる人というのはおしなべて「かたい心」の人でなければ務まらないのは言うまでもない事です。
しかし、人間というものはだれしも多面的な存在であって、自分が何百冊も本を読んでいても、ほとんど本など読まない人から学ぶものがあるから謙虚さが必要です。
やはり、いろんな人から学ぼうという謙虚さがいつの世でも大事なのは言うまでもない事ですね。
●こういった学問の内奥について興味がわいた人におすすめなのは、以下の電子書籍.ペーパバックになります(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
世の中には難解な文章が多い。その理由は?その存率理由は? (加藤秀俊)
こんにちは。
この世には非常に難解な本が多数あるものです。
哲学者といわれる人や、宗教の開祖といわれる人たちの本を読むと、非常に難解なのです。
アルチュセールやハイデガーやヤスパース、西田幾多郎…こういった人たちの本を読んでも、何やら意味が不明で、読後の感想を書けといわれても、難解でよくわからなかったのです。
また、親鸞、道元といった開祖たちの本を読んでも、非常に難しかったです。
宗教というのは衆生の精神的な幸福を目指すためにあるのにもかかわらず、こういう難解な文章を書くのはいかばかりか…そんなことを考えたのです。
確かに、外国の思想家の書いた本は、日本語では書かれていないために、それを翻訳する過程で、難解になってしまったのでしょうか?
宗教の開祖の書いた書物も、当時と今では単語の意味も違うし、表現句法も違っていたでしょう。
しかも、こんにちのように東京弁でほぼ統一されていたわけでもないゆえに、地方の方言で書かれていたがゆえに、それを完全に現代語へ直すのは難しいがゆえに、やはり難解なままになっていたのでしょう。
また、日本の政治学の学者では世界的に認知されている丸山眞男も一緒でした。
私の属した大学の法学部にいた政治学史の教授が言っていたのは、「丸山こそは政治学の神様」といっていたのです。
私のゼミの先生も、丸山について「頭がいいっていうのはこういうことかなって思いました。」といっていたのです。
その先生は学生時代から今まで、何回丸山の本を読んだかわからなく、もうボロボロだということでした。
そんな凄いというのならば、自分も読もうという気概が起きて、丸山の本を買って読みましたが、感想は難解で読みづらい、ということに逢着しました。
引用が多く、しかもそれらは古文や漢文からのが多くて長いので、集中力が萎えていくのがわかりました。
それで無理やり鼓舞して読破しましたが、読後の感想はまるで空白なのです。
こうでは、読む時間がもったいないので、もう丸山の本は読まないと決めたのです。
そして、勢いで買って読んだものは、すべて売りに出しました。
それで後悔はなかったです。
しかし、どんなものにも特長はあるのです。
そういう難解な本をみると、これはどういう意味かな、といった疑問を抱くことによって、人々の関心を集めるということは特長としてあると思います。
それによって、そこに書いてある重要なことを多くの人が読むことによって、人を啓蒙して、社会をよき方向へ導くことがある、ということがあると思います。
ただ単に難解な本で、そこに重要事項がない、あるいはあってもそんなに大した量がないのであれば、学問としての存立理由がないでしょう。
そういう難解な本が1960年代や70年代に流行りましたが、それに乗じて、意味なく難解な本を書いていた著作家も大勢いたことは確かですが、それでは意味がないので、そういう著作家のは読まないでいいとしているのです。
そういう本を自身でかけといわれてもできた話しではないので、私は平易で分かりやすい文章で書くことを第一にしているのです。
確かに「犬が東を向いたら尻尾は西を向く」といったようなあまりに意味なしな文は感動を呼び起しませんが(笑)、かといって難しすぎる文章は忌避したくなるのは確かです。
ゆえに、平易な文章を心掛けているのです。
それは、平易でありながら、読む人の人生を啓蒙する威力を秘めている本を書いている人を見本にしているのです。
大川隆法、堺屋太一、久保有政、外山滋比古、桑原武夫、梅棹忠夫、大山倍達、佐伯啓思…こういった平易な文章、分かりやすい文章を書きながら、人の心の啓蒙をする力を秘めている著作家を私は見本にしているのです。
それと、故人である加藤秀俊(下写真)ですね。
この人の書いた『自己表現』という本を読んで、平易な表現を書くべし、という趣旨のあとがきがいまだに脳裏に残っているのです。
それが今でも、いい意味で後を引いているのです。
ここまで啓蒙してくれる人は稀です。
平易な文章を書くべき、ということだけで、この人にぞっこんになったわけではないのです(笑)。
その他、いろんな魅力を内包していたがゆえに、「平易な文章を書くべし」という文章を読んで、さらにぞっこんになったということです。
1つの文章だけで、その人を著作家として尊敬するようになるわけではないのです。
その著作家を好きなるかどうかは、まず1冊の本を読んで、それにすごく感銘を受けることがまず最初に大事なことでしょう。
●そんな加藤秀俊の魅力の内容について知りたい人は以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
世の中には難解な文章が多い。その理由は?その存率理由は? (加藤秀俊)

こんにちは。
この世には非常に難解な本が多数あるものです。
哲学者といわれる人や、宗教の開祖といわれる人たちの本を読むと、非常に難解なのです。
アルチュセールやハイデガーやヤスパース、西田幾多郎…こういった人たちの本を読んでも、何やら意味が不明で、読後の感想を書けといわれても、難解でよくわからなかったのです。
また、親鸞、道元といった開祖たちの本を読んでも、非常に難しかったです。
宗教というのは衆生の精神的な幸福を目指すためにあるのにもかかわらず、こういう難解な文章を書くのはいかばかりか…そんなことを考えたのです。
確かに、外国の思想家の書いた本は、日本語では書かれていないために、それを翻訳する過程で、難解になってしまったのでしょうか?
宗教の開祖の書いた書物も、当時と今では単語の意味も違うし、表現句法も違っていたでしょう。
しかも、こんにちのように東京弁でほぼ統一されていたわけでもないゆえに、地方の方言で書かれていたがゆえに、それを完全に現代語へ直すのは難しいがゆえに、やはり難解なままになっていたのでしょう。
また、日本の政治学の学者では世界的に認知されている丸山眞男も一緒でした。
私の属した大学の法学部にいた政治学史の教授が言っていたのは、「丸山こそは政治学の神様」といっていたのです。
私のゼミの先生も、丸山について「頭がいいっていうのはこういうことかなって思いました。」といっていたのです。
その先生は学生時代から今まで、何回丸山の本を読んだかわからなく、もうボロボロだということでした。
そんな凄いというのならば、自分も読もうという気概が起きて、丸山の本を買って読みましたが、感想は難解で読みづらい、ということに逢着しました。
引用が多く、しかもそれらは古文や漢文からのが多くて長いので、集中力が萎えていくのがわかりました。
それで無理やり鼓舞して読破しましたが、読後の感想はまるで空白なのです。
こうでは、読む時間がもったいないので、もう丸山の本は読まないと決めたのです。
そして、勢いで買って読んだものは、すべて売りに出しました。
それで後悔はなかったです。
しかし、どんなものにも特長はあるのです。
そういう難解な本をみると、これはどういう意味かな、といった疑問を抱くことによって、人々の関心を集めるということは特長としてあると思います。
それによって、そこに書いてある重要なことを多くの人が読むことによって、人を啓蒙して、社会をよき方向へ導くことがある、ということがあると思います。
ただ単に難解な本で、そこに重要事項がない、あるいはあってもそんなに大した量がないのであれば、学問としての存立理由がないでしょう。
そういう難解な本が1960年代や70年代に流行りましたが、それに乗じて、意味なく難解な本を書いていた著作家も大勢いたことは確かですが、それでは意味がないので、そういう著作家のは読まないでいいとしているのです。
そういう本を自身でかけといわれてもできた話しではないので、私は平易で分かりやすい文章で書くことを第一にしているのです。
確かに「犬が東を向いたら尻尾は西を向く」といったようなあまりに意味なしな文は感動を呼び起しませんが(笑)、かといって難しすぎる文章は忌避したくなるのは確かです。
ゆえに、平易な文章を心掛けているのです。
それは、平易でありながら、読む人の人生を啓蒙する威力を秘めている本を書いている人を見本にしているのです。
大川隆法、堺屋太一、久保有政、外山滋比古、桑原武夫、梅棹忠夫、大山倍達、佐伯啓思…こういった平易な文章、分かりやすい文章を書きながら、人の心の啓蒙をする力を秘めている著作家を私は見本にしているのです。
それと、故人である加藤秀俊(下写真)ですね。
この人の書いた『自己表現』という本を読んで、平易な表現を書くべし、という趣旨のあとがきがいまだに脳裏に残っているのです。
それが今でも、いい意味で後を引いているのです。
ここまで啓蒙してくれる人は稀です。
平易な文章を書くべき、ということだけで、この人にぞっこんになったわけではないのです(笑)。
その他、いろんな魅力を内包していたがゆえに、「平易な文章を書くべし」という文章を読んで、さらにぞっこんになったということです。
1つの文章だけで、その人を著作家として尊敬するようになるわけではないのです。
その著作家を好きなるかどうかは、まず1冊の本を読んで、それにすごく感銘を受けることがまず最初に大事なことでしょう。
●そんな加藤秀俊の魅力の内容について知りたい人は以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
創造力を万人の求めるのは筋違い?それはなぜか? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学における学問は、創造力を高める場である、ということです。
物事の内奥を構造的に明らかにする勉強なのです。
そこにある問題点を改善するために、そういう作業をするわけです。
ゆえに、そのことについて知るためには、それについて書いた本を読まなくてはならないでしょう。
そして、その構造を明らかにしたうえで、自分は日々何をすべきか、という行動論をまで視野に入れなくてはいけないものです。
そういう創造力を養成する人が多ければ多いほどいいのは言うまでもありません。
ゆえに、大学での勉強こそ誰もが一番、力を入れて取り組まななくてはならない性質をもっているのですが、実際は逆なのです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、創造力がある人生が一番充実した人生である、ということを氏の『独学のすすめ』という本で書いているのです。
しかし、30年以上大学の教員を務めた氏に言わせれば、「大学生には期待していない」ということです。
氏に言わせれば、大学生のほとんどは大学に籍を入れているだけで、本気になって勉強に取り組んでいるのは、全体の2割くらいだ、ということです。
本や学問から遠ざかっていては、当然、考えることから遠ざかることは必至です。
こういった、考えを同じくしていた私は、それゆえにか、加藤氏の『日本人の周辺』という本を読んでからというもの、この人の本の虜になってしまっていたのです。
その後、古本屋で加藤氏の本を見つければすぐさま、手に取って買っていったものです。
そして、それでも未知のものがあれば、大学の購買会に行って頼んで取り寄せて買ったものです。
しかし、自身が精神的に成長していくうえでは、自身と考えを違くする人の意見をも取り入れなくてはいけないという厳しい現実があるのです。
ことは加藤氏も同様です。
氏を批判する人の意見も取り入れなくてはいけないのです。
例えば、私が、職場で人を指導する。
その際に、その場では私の意見を取り入れてもらわなくてはいけないのです。
しかし、指導された側は、その後の人生で全部、私の言ったことを踏襲するには及ばないです。
私の言ったことで、良いし、変える必要がないと思われると思うものはそのまま踏襲してくれればいいですし、取り入れるべきではないと思われる部分については取り入れることはないでしょう。
それが守破離というものです。
自分が言ったことをそっくりそのまま取り入れて、まったく意見をするな、というようなことを言う人間が居たら、その人は人間失格でしょう。
何も真理など人間のいうこと、なすことの中にあるはずはないのですから。
最大限、私が尊敬していた加藤氏ですが、やはり批判したいことはありました。
先の『独学のすすめ』において、氏はいろんな社長といわれる人たちとあって話しをしてきた。
その社長といわれる人たちは、押しなべてつまらない。
自分が人から言われたことだけを踏襲することだけに生き甲斐を感じていて、自身で何か楽しいことや重要と思われることを探していくことに生き甲斐を感じている人がいない、ということです。
私が想像するに、その「社長」といわれる人たちは、雇われ社長といわれる人でしょう。
大きな理念をもって自身で学んで、情報を取り入れて、勉強して、経営していった道筋を通った人ではないことは明らかです。
こういう人がつまらないはずはないのです。
しかし、私が思うに、そのつまらない人がいるから生活できる私を含めて大勢の人たちが生活していけるのであって、その「つまらない」ことだけを取り上げて批判するのはいかがなものかという気がしたのです。
巷にある問題点、自身の身の回りにある問題点を改善していくという創造力こそ鍛えるべきだ、という加藤氏の意見には賛同するものです。
しかし、その創造力を、万人に求めるのはいかがなものか?という気がするのです。
その問題点の内奥を知り、構造的に明らかにするには本を読まなくてはけない性質をはらんでいるものです。
その本を読むという作業は、万人には向かないものです。
加藤氏ふくめ私もですが、読書好きな人の数は限られているものです。
本を1冊読むだけで精神が疲弊してしまう人の方がほとんどなのです。
それはアメリカの哲学者であったウィリアム.ジェイムズが明らかにしたもので、それは古今東西変わらない性質な気がします。
それを踏まえれば、やはり創造力を多数に求めるのはいかがなものかなという気がするのです。
やはり、言われたことだけを事務的にこなすだけで終わり、それ以外は何も考えなくてもいい、というモラルでいる人はそれはそれでいいではないか、と思うのです。
そういう人がいるからこそ、自分も社会生活が営めていることも、また間違いないのですから。
しかし、創造力を養うのが大学という場、それこそが大事という意見は与するものです。
しかし、万人向けの意見ではない、というのも事実ゆえに、ここで断定を下すのはいかがなものかという思いもまた消せない事実であるので、何とも微妙な状態なのです…と苦笑を誘わざるを得ない現実です。
●今回のこの内容について興味の沸いた人におすすめなのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
創造力は一般職には無用?そんなことはないです。誰にでも必須です。そのわけは? (加藤秀俊)
こんにちは。
学者の仕事とは、社会に生起するいろんな事象について、一般市民の立場からちょっと距離をおいて、その是非について構造を明らかにして、それがよいことなのか悪いことなのかを論じていかなくてはいけない性質をもっているのです。
ゆえに、大衆に迎合するわけでもなければ、なんでもかんでも反論すべきものでもないのです。
結果的に迎合することもあれば、反論ばかりになる結果になることもあるでしょう。
しかし、それぞれの際において、その理由を詳らかに説明しなくてはいけないのは言うまでもないのです。
ゆえに、毎回毎回、提示されたことについて吟味しているようでは、一般のサラリーマンは務まらないでしょうし、そういう人ばかりでは仕事場はカオス状態になってしまうことは必至です(笑)
しかし、そういうように物ごとを逐一考えてしまう脳内の性質をもっている人は、学者、知識人といわれる人に向いているのでしょう。
ただし、誰もが唸るような内容のある議論が出来なくては話になりませんが。
そういう資質のある人間として、日本が誇る経済企画庁の長官まで務めた故.堺屋太一氏(下写真)をあげれるでしょう。
この人は非常に慧眼な脳をお持ちだったようで、氏の出したどの本も一気に読み入ってしまう威力を秘めていました。
海外には氏の学説を支持する学派まであったようです。
そんな人は稀でしょう。
そんな堺屋太一は事務職は苦手だったといいます。
1つ1つの物事について逐一考えてしまっていたようで、それでは事務職は務まらないのは言うまでもないでしょう。
しかし、そういう人はそういう職ではなく違う職を探して就くべきなのは言うまでもないです。
そこで思い起こすのは、大学での学問は、物事の詳細について構造的に明らかにして、そこに内在する問題点を、良き方向へ変えるための方策を考えて行動に移すことである、ということを学んだことです。
その行動をする力が創造力ということであるというのです。
その創造力の養成が大事ということです。
そういう脳内でいる人は事務職には向いていない、というのであれば、大学でみっちりと学問を学んでしまった人は、事務職には向いていない人を量産してしまう、ということにもなりかねないです。
しかし、それは杞憂に終わるでしょう。
やはり学問のきらいな人は、やはりいつまでたっても嫌いなままですから、そういう訓練をしたところで、卒業後は完全に精神の行き先は自由に決めることになるというのであれば、やはりそんなに創造力を尽力をつくして養成する人は稀でしょう。
しかし、ことの大小はあれ、創造力は誰にも必須でしょう。
良きものを創造していくのは社会に生きる市民として重要でしょう。
また堺屋太一のような創造力の発揮が求められる学者その他、知識人を目指すにしても、普通の一般企業に勤めるにしても、創造力は必須でしょう。
やはりどんな場所でも問題点はあるのですから、それを改善していくのは大事です。
それをそのまま放置していては、問題は大きくなるだけです。
しかし、その創造力のバイアスがかかりすぎると、仕事にはならないということです。
そうはいっても、そのアティチュードを改められないというのであれば、その人は起業した方がいいのかもしれません。
その問題点を放置していられないし、しかも今の企業ではやっていられないというのであれば、起業しかないと思われてならないです。
しかし、起業にはリスクが伴いますから、そこは勉強に勉強を重ねてから行動を起こすのが大事なのは言うまでもないことです。
そして、そういった創造力の養成に興味のない人でも、何かしらの本を読むことはお勧めしたいのです。
論文で書かれた本というのは、問題点を明らかにして、それを読んだ人に何かしらのアクションを起こしてもらうことを期待しているのですから。
昨今の食べ物には、いろんな添加物が入っていて、それを長期にわたって食べ続けることによっていろんな障害や病気を引き起こすことが明らかになっているです。
それを食さないように、他のもので代用することをお勧めしたいのです。
そんなことは国が許可しているから、大丈夫だろう、そんなこと逐一学ぶのは面倒くさい、という人が少なからずいるのは古今東西変わらぬ事実ですが、なぜ、国がそのようなものの添加を許可しているのかも、本を通して学んでいただくほかないです。
私がそういう内情をしていることを指摘するよりも、その手の本を1冊通して読むことで納得がいくはずです。
その手のプロの言葉を読むのが一番いいのです。
昨今の社会には危険なものがいっぱいある。
それはどのようなもので、どうして添加されているのか?
何故、それを国が許可しているのか?
こういった一連の事柄は、本を通して学んでもらうほかないです。
●そんなスタンスに共鳴してもらえる人であれば、以下の電子書籍.ペーパーバックはお勧めです! (※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
芸人や学者は一般人とは精神内容が違う?社会学者の定義とは? (加藤秀俊)
こんにちは。
以前、学者や音楽家や芸人は、一般のサラリーマンとは違うメンタルを持っているということを話しました。
こういった人たちは、巷にある何気ない情報、あるいは素人が見過ごしてしまう情報をピックアップして自身のビジネスに取り入れることで収入につながる、ということです。
その情報を取りいれるかどうかは、その人の価値観によって違ってくるのです。
ある時、ふと思いついたことを自身のビジネスに取り入れるわけですが、その情報はすぐに書き留めないことには忘れてしまうがゆえに、すぐさま書けるようにいつも小さなノートやペンを携えていくことで、防止することが出来るようです。
音楽家も、いつも生の楽譜を携えていくようです。
その情報摂取をすることがなくても、仕事場で与えられる情報だけを覚えているだけでほぼ大丈夫という一般人とは違う、ということですね。
これは、何も一般人を貶していて、学者や音楽家や芸人だけが素晴らしいということを言いたいわけではないのです。
どちらも貴賤はありません。
否どちらかといえば、厳しいのは学者や音楽家や芸人ではないでしょうか?
音楽家は当たればいいですが、そうでない場合は貧困生活を余儀なくされます。
芸人も当たればいいですが、よしんば一回だけ当たったはいいものの、それから以降は鳴かず飛ばずであれば、ひと月の生活もままならなくなるのです。
しかし、軌道に乗ってしまえば、あとは印税が入り続けるから安泰な生活になっていきます。
CDが売れた、カラオケで自身の作詞作曲した曲が歌われれば永続的に印税が入ってくるのです。
ゆえに、ベテランの音楽家ほど年月が経てば経つほどアルバムを出さなくなるのです。
芸人も一度軌道に乗ってしまえば、そのコントが収録されたDVDが売れ続けて、その印税が永続的に入ってくるのです。
こういう生活をみれば一見羨ましそうですが、そうなったらそうなったで障害は出てくるのです。
毎日決まった時間に起きなくていい…しかし、それでは運動不足になってしまいますし、友人がいないことにはコミュ障になってしまいますし、暇な時間が多くなればなるほど、その隙を埋めようとドラッグに手を出したりする例はミュージシャンでは多くあります。
それに、顔に生き生きとしている観があるのはむしろ一般人でしょう。
やはり、毎日挨拶をして、同僚と毎日話し続ける。
これによって、顔が溌溂としていることが出来るのです。
生気がない顔をしているミュージシャンは多くいます(笑)。

やはり、物事は一長一短であって、これに就けば、なんでも万事OKになる、ということはないようです。
ここで音楽家と学者の定義を確認してみたいです。
音楽家は、自身で音楽を作り、それを自身で演奏する、あるいは歌唱することを生業にしている人のことでしょう。
ゆえに、自身で音楽を作らず、ただ歌っているだけの歌手は音楽家ではないのです。
ゆえに、外部の作詞家や作曲家に音楽を作ってもらって、それをただ歌っているだけのアイドル歌手やアイドル歌手グループは音楽家ではないのです。
そんな厳格な定義はどうでもいいかもしれないですが。
そして、学者はその自身の専攻する学問について一家言を持つほどに研究を重ねてきている人のことですね。
ゆえに、他の本や論文からの引用ばかりの文章を書くだけの人は学者ではないのです。
いってみれば学問研究者ということになりましょうか?
そういう学問研究者が、いろんな大学では多い気がします。
私が属した大学では、廊下に、その大学の教授たちが書いた論文をいくつか収録した学論集がおかれていて、それを学生は自由にとっていっていいということでした。
それらをいくつも取って読んでみましたが、やはり学問研究者という人が多い気がしました。
その学論集の内容をみると他の本や資料からの引用や借用が多い気がしました。
哲学者といわれる中島義道という人が書いた『哲学者のいない国』という本がありましたが、そこには海外の学者の批判が収録されていて、「日本で講演をおこなっても私の講演に関して意表をついた質問は出ず、紋切り型の賛辞のみが多く、おおよそ社交辞令的な話に終始していたのは残念である」ということです。
やはり、そういう人が多いのかなという気がします。
やはり昔の思想家について研究している人は哲学研究者であって哲学者ではないのです。
そんな厳格な定義はどうでもいいかもしれないですが(笑)。
それは、どの国でも哲学者といわれる人のパーセンテージは、どこもそんな差があるとは思えないです。
日本は高校生の半分以上が大学に進むという世界でもまれな国ゆえに、そのことが浮き彫りになりやすいだけであって、やはりそんな差はないでしょう。
ことは歴史家といわれる人の割合もいっしょではないでしょうか?
歴史家とは人類の歴史を俯瞰して、奥深く探求を重ねて、そこから出した歴史の理論を読んだ人の人生の転機を創るような、人類の史観を好転させるような威力を秘めた学者のことであって、単に歴史の事実を脳内に叩き込んだ人のことではないのです。
やはりそういう人は歴史家ではなく歴史研究者であるだけなのです。
そんな厳格な定義はどうでもいいかもしれないですが(笑)。
そして、そういう定義については社会学についても言えます。
社会についてたんに知っているというだけでは社会学者ではないのです。
いろんな社会について壮大なビジョンを有していて、その人の書いた本を多くの人が覚醒して、人生を開けるような思いにさせてくれるような学者こそが社会学者なのであって、社会について知っているだけの、知識があるだけの学者は社会研究者に過ぎないのです。
そんな厳格な定義はどうでもいいかもしれないですが(笑)。
しかるに、そういった社会学者としての威力をふんだんに秘めている例として加藤秀俊(下写真)を挙げたいと思います。
この人はもう故人になってしまいましたが、この人の著作を読んで覚醒した人は数知れません。
この人の偉業について説かれたシンポジウムまで開かれて、その内容が大きなムックになったほどです。
そのシンポジウムに参加した学者は老若男女問わずバラエティに富んでいたのです。
興味がわいた人はいるでしょうか?
●そんな加藤氏について興味がわいた人におすすめなのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
加藤秀俊とサンドウィッチマンの共通点とは?学者と芸人の適正は同じ? (加藤秀俊)
こんにちは。
本をむさぼるように読む人というのは、好奇心が旺盛だからですね。
本を読むのは、教養として当然といって高校時代に、月に1冊以上本を読んでいた人も、大学に入ると全然読まなくなるパターンは往往にしてあります。
この理由は、その人たちは、大学受験のプラス要素になるから読んでいただけのことであって、受験が済んでしまえば、もう読書など用なしということだったようです。

どんな人生を歩もうがその人の自由ですが、私はちょっと哀しい思いです、読書好きなだけに…。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、好奇心が旺盛だった人のようで、大学生時代には本を1日に1冊読むことを自分に課していたようです。
それを大学院生時代以降も、ずっと維持していたようで、その継続によって得た懐の深さは、氏の本をランダムに読んでもわかります。
そういう人の本はいろんな知識が含有されていることもさることながら、それらの膨大な知識から醸造された理論が得られることが大いにありますから、いつまでも本棚にしまっていつでも読めるように私はしているのです。
そういう人が人生で1人でもいれば、その人は幸せになれるのではないか、とそんな気がしてならないのですね。
いろんな知識があったのは、やはり常日頃から本を読んでいたからであり、そしてあくなき好奇心があったからでしょう。
本を読んでいると、必ず未知の事柄に出くわします。
その名はどんな由来か?
それはどういう意味か?
こういったことを探索していくと、他の思いがけない事柄と関連があったりするのです。
それを論文として書き連ねていくのです。
その発見の面白さを体感すると、やはり学問の面白さにはまり、その道に人生をかけたくなるのです。
ゆえに、加藤氏(下写真)は、興味のある事柄をとことんまで、調べ、その内情を明らかにし、身近な問題として明らかにし、その内容を一般人に切実な問題として問いかけていたのです。
学問と聞くと、何やら難しい問題を取り扱ったもので、一般人には近づきがたい印象を与え勝ちですが、そんなことはないのです。
誰でも扱えることだし、学ぶのは可能なことなのです。
そのスタンスはお笑いコントのコンビであるサンドウィッチマンと共通するものを感じたものです。
『パソコン教室』という表題のコントが動画としてアップされていますが、それは、まず体験入学に来た客役の伊達氏が来客した場面から始まります。
ここでそのパソコン教室の名前からして笑ってしまいます。
「パソコン教室アービバ.ビバ」となっています。
パソコン教室といえばアビバが有名ですが、それを借用したのでしょう。
しかし、「アービバビバ」とは、かつてドリフターズの深夜番組だった『8時だよ、全員集合!』のエンディングテーマの歌で「アービバビバ」というフレーズがあったのです。
それを結びつけるところがセンスがいいともわざるを得ないのです。
そして向かいいれた講師役の富沢氏が、伊達氏を机に座らせてパソコンを指導します。
そこでクリックを教えます。
そこで言うのは「1回でワンクリック、2回でダブルクリック、3回でハットトリックとなります」という言葉に、会場はどよめきます。
ハットトリックとはサッカーの試合で、1人で3点ゴールを入れることをいうことですが、それを使用したのでしょう。
「クリック」という言葉に似たようなトリックという言葉が重なったのでしょう。
それで、このようなギャグを盛りいれたのでしょう。
そしてメールで気を付けることを講師役の富沢氏が「メールの際に気を付けてほしいのが、知らないアドレスから来たメールが来たら無暗に開かないようにしてほしいんですね。ものによってはパソコンが止まってしまったり、壊れてしまう可能性があるんですね。これをブルースウィルスというんですね!」というとまたざわめきが起こります。
コンピューターウィルスが通常ですが、ブルース.ウィルスとはアメリカの俳優の名です。
それにかけたのでしょう。
こういうモジリがサンドウィッチマン(下写真)の面白さの基本になりますが、その他の面白さの性質について興味がある人はユーチューブで確認するのがいいでしょう。
巷に転がっている何気ない言葉を人を面白がらせるようにお笑いに結びつけてコントにする。
こういう思考がサンドウィッチマンのコントの面白さの基本になっているのです。
これは、学者といわれる人が机に座っていきなり論じる情報や、思考を得て、そこから一気に論文や本を書いてしまおう!と意気込んでみても可能なことではないのと一緒なのです。
常日ごろから、読書していたり、新聞や資料を読んでいる時に、自分が書こうと思っている論文や本の題材に使えそうな情報がいきなり出くわしてきたりする際に、すぐさまチェックを入れておいて、のちにそれを整理しておくことで可能になるのです。
外山滋比古氏の書いた『知的創造のヒント』という本を読むと、氏はいつもノートとペンを携えていて、道を歩いている時などに、情報にでくわしたり、思考が浮かんだりしたときに、すぐさま書き取ってしまう、ということでした。
こういう作業は後になってやろうと思っても、やはり忘れやすい性質をもっているのです。
私は、本を読んでいる時に、いい情報に出くわしても「次の論文に使えそうだな、参考になりそうだな、しかし読後にチェックすればいいでしょう」とたかをくくって読むことだけに集中して、後になってその箇所を探しても、まるで行方不明になり、もう一度その本を読みなおす羽目になったことが何度もあったがゆえに、この外山氏(下写真)の意見には賛同するものです。
そういった知的な積み重ねが論文になり本になるのです。
他の本からの引用と味気ないコメントだけを書けばいいとしている他の人たちとは違うのです。
こういう引用ばかりの本を読んでも、非常につまらないですし、知的生産とは程遠いですし、読んだ人に感銘を与えることは出来た話しではないのです。
ロックを含めた音楽家にも同じことがわかります。
知り合いのミュージシャンに「作曲はどうやってしているのですか?」と質問したところ、「思い浮かんだフレーズや歌詞が浮かんだら、すぐさま家の電話にかけて、留守電メッセージにそれを録音してしまう」ということでした。
それを聞いて、学者も音楽家も、すべきことは一緒だな、と思ったものです。
音楽雑誌を読むと大抵、どのミュージシャンも何も書かれていない生の楽譜を携えていて、フレーズやリフや歌詞を思いついたらすぐさまそこに書いてしまう、ということが話されています。
やはり、後で書こうと思っても、その時浮かんだものは忘れてしまう、ということでした。
これは普通の企業務めの人とは精神内容も、仕事内容も大きく異なるということがわかります。
企業務めの人は、業務に必要のことをすぐさま覚えて業務を遂行する。
自分で考えたり、思ったことをほとんどかそっくりそのまま使うことによってネタになり、それが収入につながるということはまずないのです。
しかし、学者や音楽家は、そういって日ごろから積み重ねたものが収入につながるということです。
その愉しみを体感したからこそ、音楽家や学者を志したのでしょう、それらの道を目指した人は。
それは芸人にも言えることでしょう。
ゆえに、その面白さを味わったサンドウィッチマンの2人は芸人を志したのです。
ゆえに、富沢氏は「自分はサラリーマンは務まらない。サラリーマンにはなりたくない」として芸人を目指したのだといいます。
コントネタのほとんどは富沢氏のペンになります。
やはり、一般企業に勤める人は、そういうものに意義をあまり見いだせないのでしょう。
だから企業務めを選択したのでしょう。
しかし、企業務めの人は、それについては全然誇りにすべきでしょう。
学者や音楽家や芸人は全体から見てかなり少数派ですが、それは脳内思考の違いでしょう。
しかし誰もが永続的に稼げるわけでもなく、一時的に受けて大金が入ってきても、ネタが途絶えてしまえば、たちまち収入の道はゼロになります。
しかし、途絶えなければいいというのであれば、普段から使えそうなものをピックアップしていかなくてはならない、ということです。
いつも神経を尖らせて、使えそうなネタがあったらすぐさまピックアップしていけばいいだけのことでしょう。
しかし、それが可能な人とそうでない人はやはりいるものです。
後者の方だと思った人は企業務めを選択すればいいでしょう。
こういった内情を見て、どういった道を志すべきなのかを大学生は就職先を吟味していくべきでしょう。
一般企業に勤めるべきなのか、学者を目指すべきなのか、芸人や音楽家を目指すべきなのか、その他の道を選択すべきなのか、をじっくり吟味することをお勧めします。
やはり職業については、向き不向きがあるので、単に目指そうと思っても適正のない人は務まらないことは、この文章で分かると思います。
●今回の内容について興味の沸いた人は以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2