大学での論文書きは卒業後の生活=人生の経営者になる作業と一緒ゆえに、今から気合を入れて取り組むべし? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学での試験は論文です。
それを書くに際して、どのような論文がいいのでしょうか?
また、経営者といわれる人が、どのようにその会社をマネージメントしていくべきなのか?
そういうことを考えなくては、いい論文を書くこともかなわないですし、いい会社にしていくことはできません。
いい論文=知的生産の産物ということになりますが、では知的生産とはどういうものか、という疑問がわきます。
その際に最も妥当と思われる定義は故.加藤秀俊氏(下写真)の以下の定義がよろしいかと思います。
知的生産=テーゼ+例示
私は、この定義で書かれた論文や経営指針がよろしいかと思います。

そのためには、加藤氏に言わせれば、目的のない散歩.逍遥が必要ということです。
かなり名を遂げた経営者といわざるを得ない人の著作を読むと、こういうことを日々している気がするのは私だけでしょうか?
飲食店をいずれも成功させて、1つもつぶしていない某.経営者の自叙伝を読むと、「何かお客さんを喜ばせるためのいい方法はないか?」ということをどんな時も考えていたようです。
すると、ある時ふと大考えが浮かんだ、ということです。
その人はバー経営もしていたようですが、酔ったらくだをまき、いろんな人に絡む客がいてはこまるがゆえに、会員制にして、会員からの口コミがない人は、そのバーの会員にならせないようにしたということです。
そのことで、他のお客様がいい思いをして、そのバーで優雅なひと時を過ごせるようになり、いつもお客さんでバーは一杯で、そのバーも潰れていないのだそうです。

あるいは、何気なく読んでいた本から得れるということもあったということです。
このように、ある問題意識を脳内に侍らせているとふとした瞬間に思いついたり、有益な情報に出くわしたりすることが往々にしてあるのです。
それは、私の大学時代にもそういうことは往々にして経験してきました。
法学の試験で使えそうな文章が哲学の本から得られたり、社会学の試験で使えそうな文章が歴史学の本から学べたりしたのです。
政治学に使えそうな文章が経済学の講義で出くわしたりするから面白かったです。
こういう繋がりの法則が発見できて、非常に面白かった記憶があります。
ゆえにどの学校時代よりも大学での勉強が楽しかったと思います。
普段からいろんな本を読んだり、いろんな講義を聞いたりすることでそれが叶うのですから、試験前の1か月間だけ真剣にとりくんだところで、また一夜漬けでのぞんだところでもかなうはずはないのです。
いろんな本を常に読み続けながら、情報を収集していなくては例示を探すことはできないです。
多ければ多いほどいいのですから、可能ならばシーズンオフから取り組むのがいいのは言うまでもないです。
そう4月から…(笑)。

大学受験を経て、入学したばかりの新入生にとっては気が重くなる話でしょうが、それは事実です。
それ付け加えて、そういった長い期間を経て入手できた情報でも、それを文章化する際に、祖述だけではつまらないのです。
自分の主義や主張もおり混ぜて書くことによってはじめて論文になるのです。
ゆえに、考えることや思索も日々続けていなくては話しにならないのです。
こういった一連の作業は、大学での試験のためにはもちろん、大学卒業後の社会人になってからの生活でも必須の性質をもつものです。
ゆえに、永続的にしていかなくてはならないでしょう。
雇われて生きようと、そうでなかろうと、あなたは自分の人生の経営者になるのですから、マネージメントのためには自身で有益な情報を探して吟味して、よいと思われるものに関しては人生の中で行動に移していくのがいいのです。
それによって、自分の人生を実りあるものに変えることが出来るのですから。
そんなことを、いろんな本を読みながら往々にして感じたものです。
特に加藤秀俊の本からはです。
●そんな加藤秀俊の生きざまの内容について読んでみたい人は以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
大学での試験は論文です。
それを書くに際して、どのような論文がいいのでしょうか?
また、経営者といわれる人が、どのようにその会社をマネージメントしていくべきなのか?
そういうことを考えなくては、いい論文を書くこともかなわないですし、いい会社にしていくことはできません。
いい論文=知的生産の産物ということになりますが、では知的生産とはどういうものか、という疑問がわきます。
その際に最も妥当と思われる定義は故.加藤秀俊氏(下写真)の以下の定義がよろしいかと思います。
知的生産=テーゼ+例示
私は、この定義で書かれた論文や経営指針がよろしいかと思います。
そのためには、加藤氏に言わせれば、目的のない散歩.逍遥が必要ということです。
かなり名を遂げた経営者といわざるを得ない人の著作を読むと、こういうことを日々している気がするのは私だけでしょうか?
飲食店をいずれも成功させて、1つもつぶしていない某.経営者の自叙伝を読むと、「何かお客さんを喜ばせるためのいい方法はないか?」ということをどんな時も考えていたようです。
すると、ある時ふと大考えが浮かんだ、ということです。
その人はバー経営もしていたようですが、酔ったらくだをまき、いろんな人に絡む客がいてはこまるがゆえに、会員制にして、会員からの口コミがない人は、そのバーの会員にならせないようにしたということです。
そのことで、他のお客様がいい思いをして、そのバーで優雅なひと時を過ごせるようになり、いつもお客さんでバーは一杯で、そのバーも潰れていないのだそうです。
あるいは、何気なく読んでいた本から得れるということもあったということです。
このように、ある問題意識を脳内に侍らせているとふとした瞬間に思いついたり、有益な情報に出くわしたりすることが往々にしてあるのです。
それは、私の大学時代にもそういうことは往々にして経験してきました。
法学の試験で使えそうな文章が哲学の本から得られたり、社会学の試験で使えそうな文章が歴史学の本から学べたりしたのです。
政治学に使えそうな文章が経済学の講義で出くわしたりするから面白かったです。
こういう繋がりの法則が発見できて、非常に面白かった記憶があります。
ゆえにどの学校時代よりも大学での勉強が楽しかったと思います。
普段からいろんな本を読んだり、いろんな講義を聞いたりすることでそれが叶うのですから、試験前の1か月間だけ真剣にとりくんだところで、また一夜漬けでのぞんだところでもかなうはずはないのです。
いろんな本を常に読み続けながら、情報を収集していなくては例示を探すことはできないです。
多ければ多いほどいいのですから、可能ならばシーズンオフから取り組むのがいいのは言うまでもないです。
そう4月から…(笑)。
大学受験を経て、入学したばかりの新入生にとっては気が重くなる話でしょうが、それは事実です。
それ付け加えて、そういった長い期間を経て入手できた情報でも、それを文章化する際に、祖述だけではつまらないのです。
自分の主義や主張もおり混ぜて書くことによってはじめて論文になるのです。
ゆえに、考えることや思索も日々続けていなくては話しにならないのです。
こういった一連の作業は、大学での試験のためにはもちろん、大学卒業後の社会人になってからの生活でも必須の性質をもつものです。
ゆえに、永続的にしていかなくてはならないでしょう。
雇われて生きようと、そうでなかろうと、あなたは自分の人生の経営者になるのですから、マネージメントのためには自身で有益な情報を探して吟味して、よいと思われるものに関しては人生の中で行動に移していくのがいいのです。
それによって、自分の人生を実りあるものに変えることが出来るのですから。
そんなことを、いろんな本を読みながら往々にして感じたものです。
特に加藤秀俊の本からはです。
●そんな加藤秀俊の生きざまの内容について読んでみたい人は以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
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失礼いたします。

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なぜ、大学の勉強こそが大事か? (加藤秀俊)
こんにちは。
故.加藤秀俊氏が愛媛県の市民会館でおこなった講演を本にした『文化講演会 2』という本をよむと、大学の勉強がいかに大事かということが痛感させられます。
加藤氏(下写真)は、
「過去を一方で振り返りながら、他方で未来から現在を逆算する方法というモノをそれぞれの地域社会は持つべきだ」ということです。
こうなってほしいという理想像を作り上げたうえで逆に現在というものの自らの使命をそこから計算してほしいです自分の生きる社会においてです。

この講演で言われている加藤氏の理論的な言葉である「経営の才能のあった大名がいたことろが栄えた。」とか、「地域社会は、よそ者を入れることで活性化する。」とか「過去を一方で振り返りながら、他方で未来から現在を逆算する方法というモノをそれぞれの地域社会は持つべきだ」といったことは、試験に出るわけでもないし、そのことを知っていただけで金銭を得れるわけでもないです。
しかし、そういう知識を得ることで、人生の指針を得れるはずです。
そして、行動することで、ひいては自分の周りの社会をも変えれるはずです、しかもいい方向に。
そういう社会にある問題点を拾い上げて、そこで何をするか?
知識を得ているだけでは何もならない。
やはり、良き方向へかじ取りする人材を輩出することを学問は目指しているのです。
それが一番大きいのではないか、と私は大学在学中に思ったのですが、それは今も変わりはないです。
「青年よ大志を抱け」とは、札幌農学校の初代教頭だったウィリアム.クラークの言葉ですが、そういう社会を、ひいては世界を良き方向へ変えることを科学は目指しているし、そういう人が多く輩出することを望んでいるのです。

そういう知識を行動に移して、結果が出る。
その結果得た内容が知恵ということになるのです。
そういう知恵をどんどん脳内に蓄積していってほしいものです。
確かに、そういう知識や知恵を得たところで、入社試験に出るわけでもないし、栄誉が付くわけでもない。
でも、自分が住んでいる社会において、生活しているのであれば、それに問題点が浮上すれば、それを改善していこうと思ってほしいものです。
自分の部屋がきたなかったら、掃除するでしょう。
それと同じ理屈なのです。
大学で講義される学問は、社会に存在する、あるいは浮上する問題点がなぜ存在する、あるいは存在してくるのかを構造的に明らかにして、それをどのようにすればいいかを市民が考えて行動に移す。
それによって問題点が解決の方向へ向かう。
そのことを学問は目指しているということです。

ゆえに、多くの人が学問を学び、日々の市民生活において行動する人が多ければ多ければいいのは言うまでもないことです。
しかし、大学生のほとんどは受験勉強で疲弊してしまって、それどころではない。
それに嘆いていたのです私は。
そして加藤氏も同感だったようで、その『文化講演会2』の中で以下のように話しています。
「いまの大学生のすべてが立派に勉強しているなどということは、私全然、夢にも思ったことありません。大体8割くらいは大学に籍を置いているだけで、マージャンをしているというのが主流でありますから、それほどいまの若き学生に期待するところはないのであります。」(39頁)
問題点を良きものに変えていく…これを加藤氏は創造力と呼ぶわけですが、その創造力をつけるのは何も大学だけで学べる類いのものではないのです。
今や、本は誰にでも安価で買えます。
そこに問題点を指摘して、それを改善の方向へ向かわせるための方策が書いてある著者のものであるならば、その著者は学問の存立理由のわかっている人で、非常に好感を持ちます。
そういう人の本を買って読んで、それに共感出来たら行動に移すようにしましょう。
●そんな内容に興味ある人に読んでほしいのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
以下よりどうぞ!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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故.加藤秀俊氏が愛媛県の市民会館でおこなった講演を本にした『文化講演会 2』という本をよむと、大学の勉強がいかに大事かということが痛感させられます。
加藤氏(下写真)は、
「過去を一方で振り返りながら、他方で未来から現在を逆算する方法というモノをそれぞれの地域社会は持つべきだ」ということです。
こうなってほしいという理想像を作り上げたうえで逆に現在というものの自らの使命をそこから計算してほしいです自分の生きる社会においてです。
この講演で言われている加藤氏の理論的な言葉である「経営の才能のあった大名がいたことろが栄えた。」とか、「地域社会は、よそ者を入れることで活性化する。」とか「過去を一方で振り返りながら、他方で未来から現在を逆算する方法というモノをそれぞれの地域社会は持つべきだ」といったことは、試験に出るわけでもないし、そのことを知っていただけで金銭を得れるわけでもないです。
しかし、そういう知識を得ることで、人生の指針を得れるはずです。
そして、行動することで、ひいては自分の周りの社会をも変えれるはずです、しかもいい方向に。
そういう社会にある問題点を拾い上げて、そこで何をするか?
知識を得ているだけでは何もならない。
やはり、良き方向へかじ取りする人材を輩出することを学問は目指しているのです。
それが一番大きいのではないか、と私は大学在学中に思ったのですが、それは今も変わりはないです。
「青年よ大志を抱け」とは、札幌農学校の初代教頭だったウィリアム.クラークの言葉ですが、そういう社会を、ひいては世界を良き方向へ変えることを科学は目指しているし、そういう人が多く輩出することを望んでいるのです。
そういう知識を行動に移して、結果が出る。
その結果得た内容が知恵ということになるのです。
そういう知恵をどんどん脳内に蓄積していってほしいものです。
確かに、そういう知識や知恵を得たところで、入社試験に出るわけでもないし、栄誉が付くわけでもない。
でも、自分が住んでいる社会において、生活しているのであれば、それに問題点が浮上すれば、それを改善していこうと思ってほしいものです。
自分の部屋がきたなかったら、掃除するでしょう。
それと同じ理屈なのです。
大学で講義される学問は、社会に存在する、あるいは浮上する問題点がなぜ存在する、あるいは存在してくるのかを構造的に明らかにして、それをどのようにすればいいかを市民が考えて行動に移す。
それによって問題点が解決の方向へ向かう。
そのことを学問は目指しているということです。
ゆえに、多くの人が学問を学び、日々の市民生活において行動する人が多ければ多ければいいのは言うまでもないことです。
しかし、大学生のほとんどは受験勉強で疲弊してしまって、それどころではない。
それに嘆いていたのです私は。
そして加藤氏も同感だったようで、その『文化講演会2』の中で以下のように話しています。
「いまの大学生のすべてが立派に勉強しているなどということは、私全然、夢にも思ったことありません。大体8割くらいは大学に籍を置いているだけで、マージャンをしているというのが主流でありますから、それほどいまの若き学生に期待するところはないのであります。」(39頁)
問題点を良きものに変えていく…これを加藤氏は創造力と呼ぶわけですが、その創造力をつけるのは何も大学だけで学べる類いのものではないのです。
今や、本は誰にでも安価で買えます。
そこに問題点を指摘して、それを改善の方向へ向かわせるための方策が書いてある著者のものであるならば、その著者は学問の存立理由のわかっている人で、非常に好感を持ちます。
そういう人の本を買って読んで、それに共感出来たら行動に移すようにしましょう。
●そんな内容に興味ある人に読んでほしいのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
以下よりどうぞ!
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大学での試験に高得点を取るにはシーズンオフから対策せよ? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学(文系)の試験は論文で書くのが普通です。
そこで大学生になったら、どういうことを日々していけばいいかをちょっとアドバイスしたいです。
そこで大事なのは、シーズンオフから本を読んでおくことが重要ということです。
1年次の学生からすれば、入学試験が終わって、一息ついているところを何で?と思われるかもしれないですが、まあ読んでくださいませ(笑)
1年次は自分の学部の専門の学問は3つくらいしか受講しないですね。
私は法学部でしたが、1年次は、基礎法学、憲法@、民法総則の3つだけでした。
その他は、一般教養でした。
その際に社会学を受講しました。
その社会学の教授は、ドイツの総合社会科学者であったマックス.ウェーバー(下写真)を神聖視していた人で、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下『プロ倫』)という著書は、文系大学を卒業した人は必ず読んでおかなくてはならない、とすら言っていたのです。

その教授は夏休み前に、学生に『プロ倫』を夏休みに読んで、その意義を論じたレポートを提出せよと課題を出したのです。
しかし、どの学生も、その書物の後ろに書いてある書評を読んで、それを書き抜いてちょっとアレンジを加えただけの論文だったようです。
かくいう私もそうでした(笑)。
そして年末試験の際に、その教授は、もう一度、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで、その意義を論じたレポートを書いて提出せよ、としていました。
それにプラスして、普通の論文の試験でということでした。
非常に変則的でした。
これには、私は困りました。
『プロ倫』は400ページを超える大著えで、これ全般的に読んで、その意義を書いている時間がなかったのです。
他の教科の勉強に忙しかったのですから。
そこで、1年次になってから、何気なく読んだ加藤秀俊(下写真)の『習俗の社会学』という本に、『プロ倫』についての概要と、加藤氏の論評が書いてあったのを思い出しました。

そして、紐解きました。
やはり『習俗の社会学』に『プロ倫』についての概要と、加藤氏の論評が書いてありました。
これを元に自身のこれまで読んで知っていた理論や感想を書付け加えて書けば、これにて、『プロ倫』の後ろに書いてある書評をアレンジしたものではないとみなされることは間違いない。
それをアレンジして論述しレポート用紙に纏めました。
そして試験当日においては、5つの設問から、1つを選んでそれを書きなさい、ということでしたが、それは「ある事柄について集団を批判し、同時に自分をも批判して、その是非を論じよ」という設問を選択し、それを論述しました。
抽象的でわかりにくいですが、ある事柄について批判し、自身をも批判するということは要するに、日本人論を展開する、という作業でした。
日本人を批判するということは、自身を批判するという作業になるのですから。
その論述の進め方は、これも加藤氏の『習俗の社会学』によって知ることが出来ました。
妥当と思われる論述の仕方を。
その内容についてはこのページでは語りつくせないので割愛しますが(笑)、それによって肉付けが可能になったので、試験用紙の
上から下まで書き、それでも行が足りないから裏も上から一番下まで書いたのです。
これほど自身を鼓舞できた内容はなかったので。
その結果、社会学では95点を獲得することが出来ました。
もちろん、量が多かったからではないでしょう。

学問が要求する、社会にある問題点、それをよき方向へ行かせるにはどんな施策がいいかを知識を得て、その内実を構造的に明らかにして、その方策を提示するということが出来ていたからだと自信を持って言えます。
その内容に説得性があれば高得点がとれるということです。
それに論文の量が多ければなおのこと良いのは間違いないです。
自画自賛のきらいがありますが、実際、そういう論述をしていくと決まって高得点が得れたのですから間違いないでしょう。
しかし、そういう学問の理念が大学教授になってもわからずにいる例はあるのは確かです。
論述の試験においても、ただ教科書通りの理論を祖述しているだけで高得点をくれる人もいることは事実です。
そういう教授の試験はあまり自分の意見を書かない方が無難かもしれないです。
私は社会学の試験レポートと論述の両方において加藤秀俊の本によって高得点を得ることがでいたのですから、まさに救世主といってよかったです。

それだけでなく、加藤氏の書く本は、非常にわかりやすく、読みやすく、次から次に興味のわくことを書いてくれるからついつい読み進めてしまう魅力にあふれているのです。
普段の生活で何気なく通ってしまうことでも問題点があるということに気が付かせてくれたのです。
その改善こそが創造力ということです加藤氏によれば。
それゆえに、1年次に何げなく買って読んだ本がきっかけになり、古本屋にいって一気に加藤氏の本を買いまくり、大学の購買会でも取り寄せて買ってしまったほどです。
こういう相性のいい著作家は人生でどれだけいるでしょうか?
誰もが5指以下でしょう。
こういった大学で指定されていない本を好奇心が赴くまま、むさぼるようにシーズンオフから読んでおく。
そのことで、試験で参考になる理論に出くわすことが出来る、ということです。
試験前の1か月の一夜漬け作業ではおぼつかない、ということです(笑)
気を付けましょう!。
そんな魅力にあふれた社会学の教授だった加藤秀俊の魅力をいかんなく明らかにした論文の電子書籍.ペーパーバックはお勧めです(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
●以下です。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
大学(文系)の試験は論文で書くのが普通です。
そこで大学生になったら、どういうことを日々していけばいいかをちょっとアドバイスしたいです。
そこで大事なのは、シーズンオフから本を読んでおくことが重要ということです。
1年次の学生からすれば、入学試験が終わって、一息ついているところを何で?と思われるかもしれないですが、まあ読んでくださいませ(笑)
1年次は自分の学部の専門の学問は3つくらいしか受講しないですね。
私は法学部でしたが、1年次は、基礎法学、憲法@、民法総則の3つだけでした。
その他は、一般教養でした。
その際に社会学を受講しました。
その社会学の教授は、ドイツの総合社会科学者であったマックス.ウェーバー(下写真)を神聖視していた人で、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下『プロ倫』)という著書は、文系大学を卒業した人は必ず読んでおかなくてはならない、とすら言っていたのです。
その教授は夏休み前に、学生に『プロ倫』を夏休みに読んで、その意義を論じたレポートを提出せよと課題を出したのです。
しかし、どの学生も、その書物の後ろに書いてある書評を読んで、それを書き抜いてちょっとアレンジを加えただけの論文だったようです。
かくいう私もそうでした(笑)。
そして年末試験の際に、その教授は、もう一度、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで、その意義を論じたレポートを書いて提出せよ、としていました。
それにプラスして、普通の論文の試験でということでした。
非常に変則的でした。
これには、私は困りました。
『プロ倫』は400ページを超える大著えで、これ全般的に読んで、その意義を書いている時間がなかったのです。
他の教科の勉強に忙しかったのですから。
そこで、1年次になってから、何気なく読んだ加藤秀俊(下写真)の『習俗の社会学』という本に、『プロ倫』についての概要と、加藤氏の論評が書いてあったのを思い出しました。
そして、紐解きました。
やはり『習俗の社会学』に『プロ倫』についての概要と、加藤氏の論評が書いてありました。
これを元に自身のこれまで読んで知っていた理論や感想を書付け加えて書けば、これにて、『プロ倫』の後ろに書いてある書評をアレンジしたものではないとみなされることは間違いない。
それをアレンジして論述しレポート用紙に纏めました。
そして試験当日においては、5つの設問から、1つを選んでそれを書きなさい、ということでしたが、それは「ある事柄について集団を批判し、同時に自分をも批判して、その是非を論じよ」という設問を選択し、それを論述しました。
抽象的でわかりにくいですが、ある事柄について批判し、自身をも批判するということは要するに、日本人論を展開する、という作業でした。
日本人を批判するということは、自身を批判するという作業になるのですから。
その論述の進め方は、これも加藤氏の『習俗の社会学』によって知ることが出来ました。
妥当と思われる論述の仕方を。
その内容についてはこのページでは語りつくせないので割愛しますが(笑)、それによって肉付けが可能になったので、試験用紙の
上から下まで書き、それでも行が足りないから裏も上から一番下まで書いたのです。
これほど自身を鼓舞できた内容はなかったので。
その結果、社会学では95点を獲得することが出来ました。
もちろん、量が多かったからではないでしょう。
学問が要求する、社会にある問題点、それをよき方向へ行かせるにはどんな施策がいいかを知識を得て、その内実を構造的に明らかにして、その方策を提示するということが出来ていたからだと自信を持って言えます。
その内容に説得性があれば高得点がとれるということです。
それに論文の量が多ければなおのこと良いのは間違いないです。
自画自賛のきらいがありますが、実際、そういう論述をしていくと決まって高得点が得れたのですから間違いないでしょう。
しかし、そういう学問の理念が大学教授になってもわからずにいる例はあるのは確かです。
論述の試験においても、ただ教科書通りの理論を祖述しているだけで高得点をくれる人もいることは事実です。
そういう教授の試験はあまり自分の意見を書かない方が無難かもしれないです。
私は社会学の試験レポートと論述の両方において加藤秀俊の本によって高得点を得ることがでいたのですから、まさに救世主といってよかったです。

それだけでなく、加藤氏の書く本は、非常にわかりやすく、読みやすく、次から次に興味のわくことを書いてくれるからついつい読み進めてしまう魅力にあふれているのです。
普段の生活で何気なく通ってしまうことでも問題点があるということに気が付かせてくれたのです。
その改善こそが創造力ということです加藤氏によれば。
それゆえに、1年次に何げなく買って読んだ本がきっかけになり、古本屋にいって一気に加藤氏の本を買いまくり、大学の購買会でも取り寄せて買ってしまったほどです。
こういう相性のいい著作家は人生でどれだけいるでしょうか?
誰もが5指以下でしょう。
こういった大学で指定されていない本を好奇心が赴くまま、むさぼるようにシーズンオフから読んでおく。
そのことで、試験で参考になる理論に出くわすことが出来る、ということです。
試験前の1か月の一夜漬け作業ではおぼつかない、ということです(笑)
気を付けましょう!。
そんな魅力にあふれた社会学の教授だった加藤秀俊の魅力をいかんなく明らかにした論文の電子書籍.ペーパーバックはお勧めです(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
●以下です。
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今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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大学で学ぶ学問の存立理由は?それがわかればだれでも勉学に勤しむ? (加藤秀俊)
こんにちは。
私が大学時代に思ったのは、「大学での勉強こそ一番力を入れなくてはならない」ということでした。
今もその思いに違いはありません。
それは、大学で学ぶ事柄は、実際社会に出て必要なことだからです。
知識もそうですし、普遍原理といったものも学べるからです。
それらを実際社会に出ていかに生かすか?
いかにこうどうにつなげるか?
そういう行動する人間が多ければ多いほど社会はよくなるからです。
そういう信念で生きてきた故.加藤秀俊氏(下写真)と私は意見が一緒だった気がします。

加藤秀俊氏は、愛媛県の市民会館のようなところで開かれたシンポジウムでの講演を頼まれて、それをおこなった内容が『文化講演会 2』という編著本になっているのです。
そういうものに呼ばれること自体がいかに懸命に著作活動を行ってきたかがわかるというものでしょう。
その実績からして真の学者という気がします。
そこでおこなわれた内容を要約すると以下のようになります。
米沢藩(山形県)は上杉鷹山が絹織物を開発をして大いに栄えた。
そして、米沢繊維高等学校を作った。
富山県の前田侯は、本草学を修め、長崎で留学をした立派な医者を何人もスカウトして越中富山の薬売りになって栄えた。
広島の呉は、船大工が作った船が有名で、遣唐使で空海が使った。
それが近代の造船技術と結びついて瀬戸内海における極めて重要な造船業に発展した。

ここで導かれるのは、経営の才能のあった大名がいたところが栄えた、ということです。
地域社会は、よそ者を入れることで活性化する。
土地の人間だけが集まってやあやあと肩をたたきあっているだけでは、新たな方向性が見えてこないということ。
京大はノーベル賞受賞者が多い。
しかし、東大は少ない。
京大は広く全国から人材を集めた。
こういう原理を導くことが大学教授の役目の1つであることは間違いないでしょう。
そういう原理が見えてくることが出来る教授の数は少ないですが、そんな立派な像を全部の教授に求めるのは酷というものでしょうし、私もできた話しではないです(笑)
しかし、できればそういうハッとするようなものを見つけれるように努めることも重要でしょう。
その原理を見つけたら受け手(学生やシンポジウム参加者)は何をすべきでしょうか?
やはり、そこにある問題点を良き方向へ向かわせるように行動すべきでしょう。
これは、地方経済が疲弊していく中で、新たな産業を興せということも大事ながら、少数のグループでも、いろんな意見を外部からも当然ながら、その内部からも意見を求めることなくしては、その組織は衰退していく、ということでしょう。
何も完璧な人や組織などないですし、謙虚にいろんなことから学んでいくという姿勢が大事であるということです。
その姿勢は、会社はもとよりいろんな組織において当てはまる普遍原理でしょう。
そういう認識を持てて、良きものに変えていく努力は死ぬまで続けていくべき筋合いのものでしょう。
そのために、そういったことが学べる大学に来た学生は学び、実際の生活で行動していくことが大事なのです。

しかし、加藤氏が嘆いていたのは、「大学生全体で真剣に学んでいる人は2割くらい。ほとんど私は学生に期待はしていない。」ということでした。
それを改善する手立てはあるのでしょうか?
そんなことを考えて、大学卒業からこんにちまで来ました。
そういう覚醒が起きることを私は期待しているのです。
●そういうものに興味ある人にお勧めしたいのが、加藤秀俊氏の偉業について200ページ以上でまとめて論じた電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
私が大学時代に思ったのは、「大学での勉強こそ一番力を入れなくてはならない」ということでした。
今もその思いに違いはありません。
それは、大学で学ぶ事柄は、実際社会に出て必要なことだからです。
知識もそうですし、普遍原理といったものも学べるからです。
それらを実際社会に出ていかに生かすか?
いかにこうどうにつなげるか?
そういう行動する人間が多ければ多いほど社会はよくなるからです。
そういう信念で生きてきた故.加藤秀俊氏(下写真)と私は意見が一緒だった気がします。
加藤秀俊氏は、愛媛県の市民会館のようなところで開かれたシンポジウムでの講演を頼まれて、それをおこなった内容が『文化講演会 2』という編著本になっているのです。
そういうものに呼ばれること自体がいかに懸命に著作活動を行ってきたかがわかるというものでしょう。
その実績からして真の学者という気がします。
そこでおこなわれた内容を要約すると以下のようになります。
米沢藩(山形県)は上杉鷹山が絹織物を開発をして大いに栄えた。
そして、米沢繊維高等学校を作った。
富山県の前田侯は、本草学を修め、長崎で留学をした立派な医者を何人もスカウトして越中富山の薬売りになって栄えた。
広島の呉は、船大工が作った船が有名で、遣唐使で空海が使った。
それが近代の造船技術と結びついて瀬戸内海における極めて重要な造船業に発展した。
ここで導かれるのは、経営の才能のあった大名がいたところが栄えた、ということです。
地域社会は、よそ者を入れることで活性化する。
土地の人間だけが集まってやあやあと肩をたたきあっているだけでは、新たな方向性が見えてこないということ。
京大はノーベル賞受賞者が多い。
しかし、東大は少ない。
京大は広く全国から人材を集めた。
こういう原理を導くことが大学教授の役目の1つであることは間違いないでしょう。
そういう原理が見えてくることが出来る教授の数は少ないですが、そんな立派な像を全部の教授に求めるのは酷というものでしょうし、私もできた話しではないです(笑)
しかし、できればそういうハッとするようなものを見つけれるように努めることも重要でしょう。
その原理を見つけたら受け手(学生やシンポジウム参加者)は何をすべきでしょうか?
やはり、そこにある問題点を良き方向へ向かわせるように行動すべきでしょう。
これは、地方経済が疲弊していく中で、新たな産業を興せということも大事ながら、少数のグループでも、いろんな意見を外部からも当然ながら、その内部からも意見を求めることなくしては、その組織は衰退していく、ということでしょう。
何も完璧な人や組織などないですし、謙虚にいろんなことから学んでいくという姿勢が大事であるということです。
その姿勢は、会社はもとよりいろんな組織において当てはまる普遍原理でしょう。
そういう認識を持てて、良きものに変えていく努力は死ぬまで続けていくべき筋合いのものでしょう。
そのために、そういったことが学べる大学に来た学生は学び、実際の生活で行動していくことが大事なのです。
しかし、加藤氏が嘆いていたのは、「大学生全体で真剣に学んでいる人は2割くらい。ほとんど私は学生に期待はしていない。」ということでした。
それを改善する手立てはあるのでしょうか?
そんなことを考えて、大学卒業からこんにちまで来ました。
そういう覚醒が起きることを私は期待しているのです。
●そういうものに興味ある人にお勧めしたいのが、加藤秀俊氏の偉業について200ページ以上でまとめて論じた電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
学者としての資質はどういうものか?加藤秀俊を引き合いに出して考える (加藤秀俊)
こんにちは。
大学で学ぶ学問というものは、理論を構築する作業だということでした。
そのために、大学での年末の試験は論文で書くのが通常です。
その自身の理論の構築のためには、肉付けが必須です。
そのためには、目的のない散歩.逍遥が必要なのです。
それが知的であるためには、指定された教科書だけではなんとも無理があるのです。
いろんな資料をみたり、いろんな本しかもその分野には関係のない分野の本を読んだり、他の教科の講義を聴いたりしているときにふと肉付けにぴったりの理論を学ぶことが出来たりするから、興味深かったです。
文系の大学では最初の1年次は、ほとんどが一般教養というものを履修させられます。

私は法学部生でしたが、1年次は、法律に関する教科は民法総則、基礎法学、憲法@の3つだけでした。
あとは一般教養でした。
しかし、そこで出くわしたことでは、面白いことに、『歴史学』の講義で話されていたのは、「フランス革命時にマリー.アントワネットの処刑はしなくてもよかったのでは?」という歴史的な回顧でした。
これは、政治学でも習うであろう、善悪二元論の弊でして、「悪とみなされたものを処刑することによって全部が良くなる。」という史観が当時の世界を蔽っていたのです。
しかし、決してそれは間違いであって、その認識を改めねばならないという理論を聞き手に認識してもらうべきであるということでした。
その善悪二元論の弊は、2年後の『国際政治学』でも習うことでした。
それが、『歴史学』の講義でも、高坂正尭という日本が誇る政治学者が書いた『国際政治』という本でも書かれていたのです。

1つの学問で語られていた理論が、いろんな学問でも参考になる場面が往々にしてある。
それに出くわすためには、主体的に自分から学んでいく、本を読んでいく、という気概がないことには務まらないのは言うまでもありません。
まさに肉付けのためには、目的のない散歩.逍遥が必要といった加藤秀俊氏の言った言葉が当てはまります。
その言葉は編著本である『私の知的生産の技術』という本に書いてありました。
そう言うように書いてある箇所を読んで認識を強くしたのです。
専門に閉じこもることなく、いろんな分野にわたって学ぶことでいろんなことが自身の専門分野にも役立つし、そういう姿勢こそが学問を面白くするということです。
私が履修した社会学において、その教授は学生に課題を出しました。
マックス.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで、その意義についてレポート用紙に書いて論じよ、と。
そのことをしている時間がなかった私は、ふと思い出しました「加藤秀俊の本にそれについて言及した箇所があったよね!」ということを。
そして以前読んでいた加藤秀俊(下写真)の『習俗の社会学』という本を紐解き、その箇所を見つけました。

そうしたら、出てきました。
その本についての意義が書いてある箇所が。
それを参考にして、思ったこと、他の本で学んだこと、これまでに知ったことを総動員してレポート用紙に書いて出しました。
そうしたら高得点をいただくことが出来ました。
また知り合いの後輩が、某大学の文学部国文学科に推薦入試で受験することになり、その時に加藤秀俊の『文芸の社会学』という本に書いてあった文学の存立意義や読むことの意義について書いてあった箇所を思い出したのです。
早速、その本を出して読み直し、その本に書かれていた理論を教えてあげました。
するとその後輩は非常に納得して、その理論を脳内に叩き込んで推薦入試に臨み、その結果、その国文学科に合格することが出来ました。
また知り合いの中国人で、某大学の国際関係学科を推薦入試で受けることになりアドバイスを求められました。
その時思いだしたのは、加藤秀俊の『比較文化への視角』という本に国際化とは何かというモチーフの章があったことを思い出しました。
そこでまたも、加藤秀俊のその本を取り出して、その章を確認しました。
そうしたら、推薦入試に役立つであろう理論が書かれていました。
それを紙に書いて説明し、それを渡し入試面接の日にスラスラ言えるように忠告しておきました。
そうしたら、その中国人も合格することが出来ました。
私と2人の人間が大学の試験で手助けをしてもらったのです加藤秀俊の本から。

こんなに恩義のある人物はいないです。
これはひとえに、加藤秀俊の好奇心の幅広さと博学さによったのです。
加藤氏は亡くなってしまい残念ですが、死去するまでに100冊以上の本を発行したのです。
これは、彼の専門である社会学だけに拘らずに、いろんなものを好奇心の赴くまま修めていった結果でしょう。
知識人としての模範といってでしょう。
私は、大学卒業までに300冊は本を読んだでしょうか。
それゆえに、卒業時にゼミの後輩から色紙に寄せ書きを書いてプレゼントしてもらったのですが、その色紙に書いてあったのは「ゼミで話される内容が奥深く、普段から勉強していらっしゃるのがわかりました。」とか「理論が幅広くてびっくりしました。」とか嬉しいことがいろいろ書かれていました。
自分としては、意気込んで理論を暗記しようと思ったのではなく、いろんな本を読み、そこに書かれていたことを思い出して、引き合いに出していただけでした。
「こんなこと書いてあったなあ」ということを思い出して書いただけ、しゃべっただけです。
自身の理論構築の際には受験勉強のように教科書を片っ端から覚える必要なしなのです。

好奇心の赴くままいろんな本を読んでいけば、大抵思いだせるものです「こんなこと書いてあったなあ」ということは。
思い出せなかったら、再びその本を紐解けばいいのです。
また理論構築時に必要で忘れそうな場合は、紙に書いてそれを保管しておけばいいですし、それかパソコンのワードなどに書いておけばいいのです。
それが終了したら中古本屋に売るか、人にあげることをして手放せばいいすればいいのです。
読んだ本を全部保管して置いたらスペースが足りなくなってしまいますからね(笑)
そういう地道な作業が好きな人は学者として大成するのではないでしょうか?
そういう目的のない散歩.逍遥をせずに、自分の専門に閉じこもってだけ理論を構築しようとすれば、それは叶わないことですし、よしんば成ったとしても、非常につまらなくて、しかも説得力のない理論が出来るだけです。
やはり著作家として大成するには、
いろんな分野に好奇心を赴かせれられる。
自分から主体的に永久的に学ぶ意思がある。
引用ばかりでなく、自身の頭で考えて理論を構築できる。
この3つが必須です。
それを有していたからこそ加藤秀俊は大成し、100冊もの本を出し、著作集まで刊行できたのです。
そんな加藤秀俊に興味の沸いた人には、その意義について大々的に論じた以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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大学で学ぶ学問というものは、理論を構築する作業だということでした。
そのために、大学での年末の試験は論文で書くのが通常です。
その自身の理論の構築のためには、肉付けが必須です。
そのためには、目的のない散歩.逍遥が必要なのです。
それが知的であるためには、指定された教科書だけではなんとも無理があるのです。
いろんな資料をみたり、いろんな本しかもその分野には関係のない分野の本を読んだり、他の教科の講義を聴いたりしているときにふと肉付けにぴったりの理論を学ぶことが出来たりするから、興味深かったです。
文系の大学では最初の1年次は、ほとんどが一般教養というものを履修させられます。
私は法学部生でしたが、1年次は、法律に関する教科は民法総則、基礎法学、憲法@の3つだけでした。
あとは一般教養でした。
しかし、そこで出くわしたことでは、面白いことに、『歴史学』の講義で話されていたのは、「フランス革命時にマリー.アントワネットの処刑はしなくてもよかったのでは?」という歴史的な回顧でした。
これは、政治学でも習うであろう、善悪二元論の弊でして、「悪とみなされたものを処刑することによって全部が良くなる。」という史観が当時の世界を蔽っていたのです。
しかし、決してそれは間違いであって、その認識を改めねばならないという理論を聞き手に認識してもらうべきであるということでした。
その善悪二元論の弊は、2年後の『国際政治学』でも習うことでした。
それが、『歴史学』の講義でも、高坂正尭という日本が誇る政治学者が書いた『国際政治』という本でも書かれていたのです。
1つの学問で語られていた理論が、いろんな学問でも参考になる場面が往々にしてある。
それに出くわすためには、主体的に自分から学んでいく、本を読んでいく、という気概がないことには務まらないのは言うまでもありません。
まさに肉付けのためには、目的のない散歩.逍遥が必要といった加藤秀俊氏の言った言葉が当てはまります。
その言葉は編著本である『私の知的生産の技術』という本に書いてありました。
そう言うように書いてある箇所を読んで認識を強くしたのです。
専門に閉じこもることなく、いろんな分野にわたって学ぶことでいろんなことが自身の専門分野にも役立つし、そういう姿勢こそが学問を面白くするということです。
私が履修した社会学において、その教授は学生に課題を出しました。
マックス.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで、その意義についてレポート用紙に書いて論じよ、と。
そのことをしている時間がなかった私は、ふと思い出しました「加藤秀俊の本にそれについて言及した箇所があったよね!」ということを。
そして以前読んでいた加藤秀俊(下写真)の『習俗の社会学』という本を紐解き、その箇所を見つけました。
そうしたら、出てきました。
その本についての意義が書いてある箇所が。
それを参考にして、思ったこと、他の本で学んだこと、これまでに知ったことを総動員してレポート用紙に書いて出しました。
そうしたら高得点をいただくことが出来ました。
また知り合いの後輩が、某大学の文学部国文学科に推薦入試で受験することになり、その時に加藤秀俊の『文芸の社会学』という本に書いてあった文学の存立意義や読むことの意義について書いてあった箇所を思い出したのです。
早速、その本を出して読み直し、その本に書かれていた理論を教えてあげました。
するとその後輩は非常に納得して、その理論を脳内に叩き込んで推薦入試に臨み、その結果、その国文学科に合格することが出来ました。
また知り合いの中国人で、某大学の国際関係学科を推薦入試で受けることになりアドバイスを求められました。
その時思いだしたのは、加藤秀俊の『比較文化への視角』という本に国際化とは何かというモチーフの章があったことを思い出しました。
そこでまたも、加藤秀俊のその本を取り出して、その章を確認しました。
そうしたら、推薦入試に役立つであろう理論が書かれていました。
それを紙に書いて説明し、それを渡し入試面接の日にスラスラ言えるように忠告しておきました。
そうしたら、その中国人も合格することが出来ました。
私と2人の人間が大学の試験で手助けをしてもらったのです加藤秀俊の本から。
こんなに恩義のある人物はいないです。
これはひとえに、加藤秀俊の好奇心の幅広さと博学さによったのです。
加藤氏は亡くなってしまい残念ですが、死去するまでに100冊以上の本を発行したのです。
これは、彼の専門である社会学だけに拘らずに、いろんなものを好奇心の赴くまま修めていった結果でしょう。
知識人としての模範といってでしょう。
私は、大学卒業までに300冊は本を読んだでしょうか。
それゆえに、卒業時にゼミの後輩から色紙に寄せ書きを書いてプレゼントしてもらったのですが、その色紙に書いてあったのは「ゼミで話される内容が奥深く、普段から勉強していらっしゃるのがわかりました。」とか「理論が幅広くてびっくりしました。」とか嬉しいことがいろいろ書かれていました。
自分としては、意気込んで理論を暗記しようと思ったのではなく、いろんな本を読み、そこに書かれていたことを思い出して、引き合いに出していただけでした。
「こんなこと書いてあったなあ」ということを思い出して書いただけ、しゃべっただけです。
自身の理論構築の際には受験勉強のように教科書を片っ端から覚える必要なしなのです。
好奇心の赴くままいろんな本を読んでいけば、大抵思いだせるものです「こんなこと書いてあったなあ」ということは。
思い出せなかったら、再びその本を紐解けばいいのです。
また理論構築時に必要で忘れそうな場合は、紙に書いてそれを保管しておけばいいですし、それかパソコンのワードなどに書いておけばいいのです。
それが終了したら中古本屋に売るか、人にあげることをして手放せばいいすればいいのです。
読んだ本を全部保管して置いたらスペースが足りなくなってしまいますからね(笑)
そういう地道な作業が好きな人は学者として大成するのではないでしょうか?
そういう目的のない散歩.逍遥をせずに、自分の専門に閉じこもってだけ理論を構築しようとすれば、それは叶わないことですし、よしんば成ったとしても、非常につまらなくて、しかも説得力のない理論が出来るだけです。
やはり著作家として大成するには、
いろんな分野に好奇心を赴かせれられる。
自分から主体的に永久的に学ぶ意思がある。
引用ばかりでなく、自身の頭で考えて理論を構築できる。
この3つが必須です。
それを有していたからこそ加藤秀俊は大成し、100冊もの本を出し、著作集まで刊行できたのです。
そんな加藤秀俊に興味の沸いた人には、その意義について大々的に論じた以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
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明治時代と今を比較して大学の意義を見つめるべし!今、大学に行く意味はあるか? (加藤秀俊)
こんにちは。
私が高校生の頃に、いろんな大学のパンフレットをみたら、そこに授業に参加する大学生の顔が出ていましたが、ほんとやる気なさそうだったのを覚えています(笑)
それにきいていたのは「日本の大学生は遊んでばかりでほとんど授業に出ない」ということを聞いていました。
それは、私が大学に入学してから実感することが出来ましたし、その聞いていた内容とかわりませんでした。
中堅よりも上の大学でいた私がそう実感したのだから、全国ではもっと押して知るべしでしょう。
これにはどうしてかという疑問がわきました。
受験生時代、あんなに苦労を重ねて勉強してきたにもかかわらず、大学ではほとんど勉強せずに、年末試験前には友人知人にノートを借りて、それをコピーして、そのコピーで勉強して、ほぼ一夜漬けで臨み単位を取り卒業する。
それでは大学にきた意味はないでしょう?と突っ込みを入れたかったです。
それはアメリカの某哲学者が明らかにしているのです。
その要旨は「文字好きよりも文字嫌いの方が社会全体では多い」ということです。
だから、大学で真面目に学んでいる人の割合は1から2割ということです。
それは私が敬愛した故.加藤秀俊氏(下写真)も本の中で書いています「真面目に勉強している学生は全体の2割くらい」ということです。

35年以上も大学の教員をしてきた加藤氏が言っていたのですから間違いないでしょう。
しかし、その不真面目であまり大学での勉強に身が入らない、あるいは入らなかった人は卑下することはないなということが実感として思いました。
そういう学生でも、きちんと社会に出て業務をこなしていますし、私が全然できないことをそういった人たちがこなしてくれるからこそ自分は生活できているのです。
蔑むなんて言うことはできた話ではないのです。
しかし、今から30から40年前は、日本は世界的に見て稀に見る平等国家だったのです。
お金を持っている人と持っていない人の差が、世界で一番小さかったのです。
しかも経済的にも好調な成長率を誇っていたのです。
最高の時期では、世界2位にまで上り詰めたのです。

そんな世の中だったからこそ、親御さんたちは「ちょっとお金がかかっていたいけれど自分の子には大学に行かせてあげよう!」というように思い、実際に行かせたのでしょう。
毎年授業料、そして地方から上京してきた子には毎月の仕送りをしながらなんとか4年間。
総計で1000万円以上はかかったのです大学卒業まで。
しかし、それは高度に経済成長が出来ていた時代だからこそできたことであり、その成長が終わり低成長になった時代においては危険ですらあります。
年収1000万円は継続して30年以上働けば誰もが到達していたのですが、そんなに稼いでいる人は今や少数派になってしまったのです。
しかし、高度成長時代よりも昨今の大学の学費は上がっているのです。
ゆえに、今や奨学金を借りる学生の割合は全体の55%にまで及ぶということです。
そんなにまでして子供を大学に通わせる意味があるかどうか?
答えは、絶対にない!です(笑)

大学に行くのは明治時代では立身出世のためであり、巷には本がそんなになかった時代だからこそ、大学に行って学ぼうという気概が持てたのです。
しかし、今や大学に行ったからといって立身出世にはつながらないですし、巷には本があふれています。
古本屋で100円で売っている本を買って学べば、かなりいいことが学べる時代になったのです。
明治時代や昭和初期の学生をタイムマシンで連れてきて、現代の日本の状況を見せたらかなり驚くでしょう。
なんと安価に本が入手できる時代なのか!と羨むでしょう。
文系の大学では、入試で現代文を課されます。
それで培った能力によって本を買ってそれを読んで重要事項はノートして…ということを積み重ねれば、かなりの教養を得ることは必至です。
私の大学時代の学費を、1コマの授業料に換算すると2500円くらいだったでしょうか。
その1コマの講義の内容と、古本屋で買った100円の学問本と内容を俯瞰すれば、絶対に100円で買った本の方が有意義の場合が珍しくはないですしほとんどです。
それを早く気が付くべきではないでしょうか?
今や格差社会になってしまった日本ゆえに、奨学金だけでは足りずバイトまでしなくてはならない。
そのバイトだけでは十分ではないがゆえに、風俗嬢やキャバ嬢、ひいてはAV女優にまでなって稼ぐ女学生は珍しくはない時代に突入してしまいました。

そんなのまでして、払う価値が大学の講義にあるか?
絶対にないのです!笑
公務員試験にしろ、司法試験、公認会計士試験も大学卒業の肩書がなくても受けれるのです。
こういう事例を挙げていくと、大学を含めて日本のアカデミズムというものは、大衆的なものであることでいいのか、という疑問がわきます。
かつての一億総中流国家という時代は終わり、年収1000万円を手にする人は少数派になった格差社会の日本において、誰もが大学に行くべきなのかどうかが争点になった時がありました。
大学に行けば、必ず給料の高い企業に入れるかと言われればそうではない時代になったのです。
実力本意の社会になったのです。
また大学で学ぶ学問は、何も大学に行かなくても本で学べるのです。
いまの時代は大学での授業1コマにつき3000円はするでしょう。
そんな価値はあるのかどうか?
結論!
そんな価値は全くないです(笑)

信じれないという人は、授業に出てそこで言われたことや教授が板書してくれた内容と、新本屋やあるいは古本屋で売っている本を買って読んで比べてみればいいでしょう。
その本屋で買った内容の方が有意義と感じる感情の方が高いのは言うまでもないです。
中身が全然値段とみあってないのです大学の授業は。
それ以上のものを授業でしてくれる教授はいることはいますが、それは少数派であることは間違いないです。
ならば大学卒業に拘ることは必要ないと思われてならないですね。
主体性があれば、大学で学ぶ内容以上のものが得られることは間違いないです。
そのことの例を加藤氏は『独学のすすめ』という本の中で、偉大な歴史上の人物を例に挙げて論じています。
●そういった内容について知りたい人や、大学での勉学に疑問を持っている人には以下の電子書籍、ぺーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
私が高校生の頃に、いろんな大学のパンフレットをみたら、そこに授業に参加する大学生の顔が出ていましたが、ほんとやる気なさそうだったのを覚えています(笑)
それにきいていたのは「日本の大学生は遊んでばかりでほとんど授業に出ない」ということを聞いていました。
それは、私が大学に入学してから実感することが出来ましたし、その聞いていた内容とかわりませんでした。
中堅よりも上の大学でいた私がそう実感したのだから、全国ではもっと押して知るべしでしょう。
これにはどうしてかという疑問がわきました。
受験生時代、あんなに苦労を重ねて勉強してきたにもかかわらず、大学ではほとんど勉強せずに、年末試験前には友人知人にノートを借りて、それをコピーして、そのコピーで勉強して、ほぼ一夜漬けで臨み単位を取り卒業する。
それでは大学にきた意味はないでしょう?と突っ込みを入れたかったです。
それはアメリカの某哲学者が明らかにしているのです。
その要旨は「文字好きよりも文字嫌いの方が社会全体では多い」ということです。
だから、大学で真面目に学んでいる人の割合は1から2割ということです。
それは私が敬愛した故.加藤秀俊氏(下写真)も本の中で書いています「真面目に勉強している学生は全体の2割くらい」ということです。
35年以上も大学の教員をしてきた加藤氏が言っていたのですから間違いないでしょう。
しかし、その不真面目であまり大学での勉強に身が入らない、あるいは入らなかった人は卑下することはないなということが実感として思いました。
そういう学生でも、きちんと社会に出て業務をこなしていますし、私が全然できないことをそういった人たちがこなしてくれるからこそ自分は生活できているのです。
蔑むなんて言うことはできた話ではないのです。
しかし、今から30から40年前は、日本は世界的に見て稀に見る平等国家だったのです。
お金を持っている人と持っていない人の差が、世界で一番小さかったのです。
しかも経済的にも好調な成長率を誇っていたのです。
最高の時期では、世界2位にまで上り詰めたのです。
そんな世の中だったからこそ、親御さんたちは「ちょっとお金がかかっていたいけれど自分の子には大学に行かせてあげよう!」というように思い、実際に行かせたのでしょう。
毎年授業料、そして地方から上京してきた子には毎月の仕送りをしながらなんとか4年間。
総計で1000万円以上はかかったのです大学卒業まで。
しかし、それは高度に経済成長が出来ていた時代だからこそできたことであり、その成長が終わり低成長になった時代においては危険ですらあります。
年収1000万円は継続して30年以上働けば誰もが到達していたのですが、そんなに稼いでいる人は今や少数派になってしまったのです。
しかし、高度成長時代よりも昨今の大学の学費は上がっているのです。
ゆえに、今や奨学金を借りる学生の割合は全体の55%にまで及ぶということです。
そんなにまでして子供を大学に通わせる意味があるかどうか?
答えは、絶対にない!です(笑)
大学に行くのは明治時代では立身出世のためであり、巷には本がそんなになかった時代だからこそ、大学に行って学ぼうという気概が持てたのです。
しかし、今や大学に行ったからといって立身出世にはつながらないですし、巷には本があふれています。
古本屋で100円で売っている本を買って学べば、かなりいいことが学べる時代になったのです。
明治時代や昭和初期の学生をタイムマシンで連れてきて、現代の日本の状況を見せたらかなり驚くでしょう。
なんと安価に本が入手できる時代なのか!と羨むでしょう。
文系の大学では、入試で現代文を課されます。
それで培った能力によって本を買ってそれを読んで重要事項はノートして…ということを積み重ねれば、かなりの教養を得ることは必至です。
私の大学時代の学費を、1コマの授業料に換算すると2500円くらいだったでしょうか。
その1コマの講義の内容と、古本屋で買った100円の学問本と内容を俯瞰すれば、絶対に100円で買った本の方が有意義の場合が珍しくはないですしほとんどです。
それを早く気が付くべきではないでしょうか?
今や格差社会になってしまった日本ゆえに、奨学金だけでは足りずバイトまでしなくてはならない。
そのバイトだけでは十分ではないがゆえに、風俗嬢やキャバ嬢、ひいてはAV女優にまでなって稼ぐ女学生は珍しくはない時代に突入してしまいました。

そんなのまでして、払う価値が大学の講義にあるか?
絶対にないのです!笑
公務員試験にしろ、司法試験、公認会計士試験も大学卒業の肩書がなくても受けれるのです。
こういう事例を挙げていくと、大学を含めて日本のアカデミズムというものは、大衆的なものであることでいいのか、という疑問がわきます。
かつての一億総中流国家という時代は終わり、年収1000万円を手にする人は少数派になった格差社会の日本において、誰もが大学に行くべきなのかどうかが争点になった時がありました。
大学に行けば、必ず給料の高い企業に入れるかと言われればそうではない時代になったのです。
実力本意の社会になったのです。
また大学で学ぶ学問は、何も大学に行かなくても本で学べるのです。
いまの時代は大学での授業1コマにつき3000円はするでしょう。
そんな価値はあるのかどうか?
結論!
そんな価値は全くないです(笑)
信じれないという人は、授業に出てそこで言われたことや教授が板書してくれた内容と、新本屋やあるいは古本屋で売っている本を買って読んで比べてみればいいでしょう。
その本屋で買った内容の方が有意義と感じる感情の方が高いのは言うまでもないです。
中身が全然値段とみあってないのです大学の授業は。
それ以上のものを授業でしてくれる教授はいることはいますが、それは少数派であることは間違いないです。
ならば大学卒業に拘ることは必要ないと思われてならないですね。
主体性があれば、大学で学ぶ内容以上のものが得られることは間違いないです。
そのことの例を加藤氏は『独学のすすめ』という本の中で、偉大な歴史上の人物を例に挙げて論じています。
●そういった内容について知りたい人や、大学での勉学に疑問を持っている人には以下の電子書籍、ぺーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
情報爆発の時代において、魅力ある学者の姿勢を体現している人はどんな人? (加藤秀俊)
こんにちは。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、文章を書く際には化合物を作ることこそ王道としていたのです。

あるテーゼを決めたら、それを肉付けする知識なり、理論なりを読書などを通じて詮索していくことが大事ということです。
目的のない散歩が大事ということです。
その行為をすることで、ある時ふとそういうものに出くわすことが往々にしてあるということだし、実際自分もそういう経験を多くしてきました。
それによって説得的な文章が書けるのだと思います。
それが化合物を作ることであるということです。
そのためには、年末試験のために、シーズンオフから、そういう目的のない散歩が必要としているのです。
それにも同感です。

その対比として、混合物を作ることに異を唱えているのです。
混合物というのは、水と油のように交じり合うことなく、それぞれの物質が身を重ねているだけで、交じり合っていない状態のことを指しているのです。
すぐに元の状態に戻ってしまう状態なのです。
加藤氏曰く「多くの学生は化合物を書くのではなく混合物を書く人の方が多い」ということです。
そうですよね。
多くの学生は、一夜漬けで年末試験のための勉強をしているだけですから、知的な作業が望めるはずはありません。
しかも、加藤秀俊曰く「学生のみならず、教授といわれる人たちもそういうことをして生計を立てている人が多い」ということです。
それも同感です。
私が通っていた大学の廊下に学論集なるものがあって、それを学生は無料でもらっていいいということでたくさん取って家に持ち帰り、最近まで保管していました(笑)。
それを紐解いてみると、そういう混合物の論文を書いている例の方が多いですね。

いろんな本の端々を持ってきて「」をつけて引用し、そこに他愛もないコメントを書いて終わりなのです。
これでは読むもつまらない論文で終わってしまっています。
それは読むに値しないですし、そういう論文で構成された本の著者の場合、私はその著者名を「NG著作家」というフォルダーのワードに書いておき、二度とその著者の本は買わないことに決めているのです。
そういう論文の本を書いた人の論文は他の本でもそういう論文である可能性が非常に高いからです。
これはシーズンオフから研究しているかしていないか。
著作家として素質があるかどうか。
この2つの条件が合致している場合は書けるのです。
そうでない場合は書けないですから注意が必要です。
またこういう行為は、いろんな本を自ら主体的に読んでいけば、できる性質なのです。
ただし、私は畑正則(下写真.故人)のように頭よくないから、これは重要と思われた箇所については、ワードに書いて上書きしておく、という知的作業をしてきたから、このようにブログで書けるのです。

畑正則氏も故人ですが、この人はかなり頭がよくて、紙1枚渡されたら、その書かれた内容をすぐさま記憶してしまっていたようです。
そんな地頭がよかったゆえに東京大学に現役で合格したのです。
そして、そのワードに書いておくことで記憶には残りやすいですし、そのワードをもう一度見直すことでおもいだすことも可能なのです。
しかし、知的なものに怠惰になってしまうという弊害はどうして起こるのでしょうか?
メタ認知が出来る環境にないということがあげれるでしょう。
メタ認知とは、目前のことだけでなく、そのバックボーンについての背景理論や知識を探っていくことです。
それは当然の事象であるにもかかわらず、専門分化が著しい昨今においては、他の領域や隣接分野に意識が向かなくなってしまうのがしばしばあるでしょう。
60年代や70年代において、日本では他の領域について知らなことが美徳というような学界の風潮があったのは、当時の本を読めばわかります。

しかし、それは自身の専門を深く広く修める上でNG行為であったことは間違いないです。
こんにちのアメリカの学界でもそういう弊害が起きているのです。
それは『専門知は必要か?』(みすず書房)という本にも書いてあるので興味を持った人は読むのがいいでしょう。
いろんな分野において、情報が増大すればそれだけ多分野において処理をすることが難しくなるので専門分野を狭めるのが当然になり、専門に閉じこもる人が多く出てしまうのは必然です。
しかし、その情勢に指をくわえてみているだけでいいかといえばそんなことはなく、できる限り多分野にわたって勉学していくのが王道であるとしか思えないです私は。
学問は社会を良き方向へ導くためにあるのですから、視野狭窄であってはならないでしょう。
なるだけ多分野にわたる情報の処理をしていかなくてはならないのは言うまでもありません。
知的好奇心のある人であれば、専門に閉じこもるのが王道とされていた時代であっても、多分野において勉学を修める姿勢が維持されるでしょう。
そういう知的な態度が学問においては大事と思われてならないのです。
そういうアティチュードでいる人の文章こそ興味深く読み進めてしまいますし、逆に、専門に閉じこもった人の書いた本は非常につまらないのは言うまでもないことです。
私はそういう経験を往々にしてきました。
興味深く読んできた学者のうちの1人が故.加藤秀俊にほかなりません。
●そんな学者の意義について書いた内容について知りたい人は以下の電子書籍、ぺーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、文章を書く際には化合物を作ることこそ王道としていたのです。
あるテーゼを決めたら、それを肉付けする知識なり、理論なりを読書などを通じて詮索していくことが大事ということです。
目的のない散歩が大事ということです。
その行為をすることで、ある時ふとそういうものに出くわすことが往々にしてあるということだし、実際自分もそういう経験を多くしてきました。
それによって説得的な文章が書けるのだと思います。
それが化合物を作ることであるということです。
そのためには、年末試験のために、シーズンオフから、そういう目的のない散歩が必要としているのです。
それにも同感です。
その対比として、混合物を作ることに異を唱えているのです。
混合物というのは、水と油のように交じり合うことなく、それぞれの物質が身を重ねているだけで、交じり合っていない状態のことを指しているのです。
すぐに元の状態に戻ってしまう状態なのです。
加藤氏曰く「多くの学生は化合物を書くのではなく混合物を書く人の方が多い」ということです。
そうですよね。
多くの学生は、一夜漬けで年末試験のための勉強をしているだけですから、知的な作業が望めるはずはありません。
しかも、加藤秀俊曰く「学生のみならず、教授といわれる人たちもそういうことをして生計を立てている人が多い」ということです。
それも同感です。
私が通っていた大学の廊下に学論集なるものがあって、それを学生は無料でもらっていいいということでたくさん取って家に持ち帰り、最近まで保管していました(笑)。
それを紐解いてみると、そういう混合物の論文を書いている例の方が多いですね。
いろんな本の端々を持ってきて「」をつけて引用し、そこに他愛もないコメントを書いて終わりなのです。
これでは読むもつまらない論文で終わってしまっています。
それは読むに値しないですし、そういう論文で構成された本の著者の場合、私はその著者名を「NG著作家」というフォルダーのワードに書いておき、二度とその著者の本は買わないことに決めているのです。
そういう論文の本を書いた人の論文は他の本でもそういう論文である可能性が非常に高いからです。
これはシーズンオフから研究しているかしていないか。
著作家として素質があるかどうか。
この2つの条件が合致している場合は書けるのです。
そうでない場合は書けないですから注意が必要です。
またこういう行為は、いろんな本を自ら主体的に読んでいけば、できる性質なのです。
ただし、私は畑正則(下写真.故人)のように頭よくないから、これは重要と思われた箇所については、ワードに書いて上書きしておく、という知的作業をしてきたから、このようにブログで書けるのです。
畑正則氏も故人ですが、この人はかなり頭がよくて、紙1枚渡されたら、その書かれた内容をすぐさま記憶してしまっていたようです。
そんな地頭がよかったゆえに東京大学に現役で合格したのです。
そして、そのワードに書いておくことで記憶には残りやすいですし、そのワードをもう一度見直すことでおもいだすことも可能なのです。
しかし、知的なものに怠惰になってしまうという弊害はどうして起こるのでしょうか?
メタ認知が出来る環境にないということがあげれるでしょう。
メタ認知とは、目前のことだけでなく、そのバックボーンについての背景理論や知識を探っていくことです。
それは当然の事象であるにもかかわらず、専門分化が著しい昨今においては、他の領域や隣接分野に意識が向かなくなってしまうのがしばしばあるでしょう。
60年代や70年代において、日本では他の領域について知らなことが美徳というような学界の風潮があったのは、当時の本を読めばわかります。
しかし、それは自身の専門を深く広く修める上でNG行為であったことは間違いないです。
こんにちのアメリカの学界でもそういう弊害が起きているのです。
それは『専門知は必要か?』(みすず書房)という本にも書いてあるので興味を持った人は読むのがいいでしょう。
いろんな分野において、情報が増大すればそれだけ多分野において処理をすることが難しくなるので専門分野を狭めるのが当然になり、専門に閉じこもる人が多く出てしまうのは必然です。
しかし、その情勢に指をくわえてみているだけでいいかといえばそんなことはなく、できる限り多分野にわたって勉学していくのが王道であるとしか思えないです私は。
学問は社会を良き方向へ導くためにあるのですから、視野狭窄であってはならないでしょう。
なるだけ多分野にわたる情報の処理をしていかなくてはならないのは言うまでもありません。
知的好奇心のある人であれば、専門に閉じこもるのが王道とされていた時代であっても、多分野において勉学を修める姿勢が維持されるでしょう。
そういう知的な態度が学問においては大事と思われてならないのです。
そういうアティチュードでいる人の文章こそ興味深く読み進めてしまいますし、逆に、専門に閉じこもった人の書いた本は非常につまらないのは言うまでもないことです。
私はそういう経験を往々にしてきました。
興味深く読んできた学者のうちの1人が故.加藤秀俊にほかなりません。
●そんな学者の意義について書いた内容について知りたい人は以下の電子書籍、ぺーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
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今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
思想研究家の本は読むに値せず?思想家の本こそ読むべし! (加藤秀俊)
こんにちは。
大学での勉強や、それ以後の卒業後は自身のモラルを形成していかなくてはならないのです。
それには理論を自身の脳内で形成していく必要があるのです。
その手段として、本とくに論文のは多く読んでいく必要があるでしょう。

その時に、楽しいものではなくては読むのが億劫になってくるのは間違いないです。
どのような論文の本が楽しいのでしょうか?
やはり私は、その書いた著者の独自の主張が書いてあるものがいいですね。
難解な表現句法で読み手を煙に巻く本、他の本から引用した理論をそのまま祖述した本、他の本から借用した文章を「」をつけて引用してばかりの本、こういうのはつまらないですし、即座に読み辞めてしまいたくなりますし、自分を鼓舞して何とか最後まで読み終えたとしても、不満足感が脳内を覆い、古本屋に売ってしまいます。
私は読んだ本は、印象に残ったところがあったら、チェックしてパソコンや紙に書き留めておきますが、その際も振り返るのが苦痛になってしまいます、そういった本は。
ある思想研究家の本があって、その人の本を読むと本文中にもかなり引用があって、読みづらい印象を受けて読み進めたいという欲求がなかなか出なかったです。
最後のクライマックスの部分でも、「その場合読んでほしいのが以下の部分である」と前置きして、某有名な著作家の本から借用した文を「」をつけて引用してそれで終わりでした。
この時思ったのは、「他の著者の意見が読みたいのではなく、あなたの意見が聞きたいのですよ…」と思いちょっと落胆してしまうのですね(苦笑)
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、日本の学界についての批判をするときに、論文を書く際に化合物と混交物の2つを例にして論じていたのです『私の知的生産の技術』という編著本の中で。

化合物とは2つ以上の物質がまじりあって溶け合った状態のことです。
混交物とは、2つ以上の物質がまざっているけれども、いつでも元の状態に戻せる状態になっているのです。
例えば水と油のように。
加藤秀俊によれば多くの学生の書くのは混交物のほうだといいます。
「」をつけて有名な学者の言葉を引用して、〜と書いているとか、〜と述べているというようにつぎはぎされた論文を書くのが多い、ということです。
これでは知的生産ではない、ということです。
そして学生のみならず、教授といわれる人の書くのもそういう人が多い、ということです。
その化合物を作るには、あるテーゼが出来たら、それを例証するための実例を挙げなくてはならない。
そのためには、目的のない散歩、逍遥が必要である、ということです。
そのテーゼに関係する本も当然ながら、他の関係のなさそうな本をむさぼるように読んでいることによって、そういう例証できる事項が発見できることがあるということです。
それには大いに賛同し、そういう例を私自身いっぱい経験してきました。
その引用ばかりの思想研究家も、いろいろ散歩や逍遥もしているのでしょう。

ゆえに、そのテーゼに合致するような他の著者の文章を見つけてきたのでしょう。
文脈に合うようにピンポイントで引用が多くしていました。
ゆえに、これも化合物であるとする意見が出てもおかしくはないでしょう。
しかし、事例が出てきても、自身が脳内で練り上げて出した理論ではないし、借用だけで済ませているのでは読むメリットが感じれないのです。
他の著者との意見が同じになってもいい。
自身の脳内で練り上げたものであるならば、というのが私の意見です。
そんなものすごく独創的な理論などそうそうできるわけでもないですし、私にだって無理です。
自分に無理なものを他人に要求するなど、横暴もいいところです(笑)
しかし、そういう引用ばかり文章の著者の本は、一度読むともうこの人のは…と忌避したくなるのです。
そしてまたその著者の本を無理やり読んでみる。
やはり面白みが感じれずに終了。
そういうことを繰り返してきました。
なので著者の本を1冊よんで、よくなかったら次の本もその次の本もよくないことは間違いないです。引用ばかりの人は、他の本でも引用ばかりしているのが通常です。

しかし、そういう著者の本でも愛読者はいるから驚きです。
その著者の愛読者が書いたAmazonなどのレビューには、★を最高の5つまでつけて、賞賛のレビューを書いているのです。
そのレビューからは、本気度が伝わってきます。
やはり引用ばかりの本でもウケる場合もある、ということです。
その思想史研究者は東大卒の日本思想史の研究者である教授だったのです。
それでも、Amazonでの、その教授の本のレビューを見たら、「心が晴れました」といったニュアンスの言葉が書かれているのを見ると、私が評価したくない著作家でも、高評価する人は一定数必ずいるのだということがわかったのです。
ゆえに、自分の価値観を押し付けることなく、人は人、という敢然とした態度でいかなくてはならないなと思ったのです。
引用が多い人の本を「心が晴れました」とした人は、自分が論文を書く時や、本を書く時にも引用ばかり多用するのでしょう。
それでは私は評価したくはないです。
そして向こうも私を評価しない…人生は難しいものです(笑)。
引用ばかりでは意味がない…というか、読む意味が感じれないのです、単なる知識を読んでいるような気分になって。
ピンポイントで引用していた観があったのは正直認めるにやぶさかではないですが、こういう人は、巷にある思想を研究している思想研究家であって、「思想家」ではないのです。

思想家というのは、自身で情報を主体的に得て、それらを元に自身の脳で思想を練り上げて、その思想を読んだ人の多くが感動できる性質を持っている人のことであると私は思うのです。
そういう思想研究家の著者のでも、海外で翻訳されて本になっているということを知って驚きだったです。
自分が邪道と思っていても、人によっては王道として認識してしまっているのは多くあるのです。
そのことを踏まえつつ、自分の価値観を抑えつけないで、各自の自由に任せましょう、という意見に鞍替えしました。
しかし、読み手に感動をおぼえてもらったり、また再び読んでもらおうというならば、今のスタンスは変えないといけないでしょう。
学界では引用ばかりの文章を書いている人は相手にされないからだし、そんな文章の本を出しても、売れないことは間違いないでしょう。
そういう評価されない文書を書く教授とは違い、毅然として20代後半から今まで化合物の本を100冊以上出してきた加藤秀俊の生涯を論じた電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
●おすすめです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
大学での勉強や、それ以後の卒業後は自身のモラルを形成していかなくてはならないのです。
それには理論を自身の脳内で形成していく必要があるのです。
その手段として、本とくに論文のは多く読んでいく必要があるでしょう。
その時に、楽しいものではなくては読むのが億劫になってくるのは間違いないです。
どのような論文の本が楽しいのでしょうか?
やはり私は、その書いた著者の独自の主張が書いてあるものがいいですね。
難解な表現句法で読み手を煙に巻く本、他の本から引用した理論をそのまま祖述した本、他の本から借用した文章を「」をつけて引用してばかりの本、こういうのはつまらないですし、即座に読み辞めてしまいたくなりますし、自分を鼓舞して何とか最後まで読み終えたとしても、不満足感が脳内を覆い、古本屋に売ってしまいます。
私は読んだ本は、印象に残ったところがあったら、チェックしてパソコンや紙に書き留めておきますが、その際も振り返るのが苦痛になってしまいます、そういった本は。
ある思想研究家の本があって、その人の本を読むと本文中にもかなり引用があって、読みづらい印象を受けて読み進めたいという欲求がなかなか出なかったです。
最後のクライマックスの部分でも、「その場合読んでほしいのが以下の部分である」と前置きして、某有名な著作家の本から借用した文を「」をつけて引用してそれで終わりでした。
この時思ったのは、「他の著者の意見が読みたいのではなく、あなたの意見が聞きたいのですよ…」と思いちょっと落胆してしまうのですね(苦笑)
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、日本の学界についての批判をするときに、論文を書く際に化合物と混交物の2つを例にして論じていたのです『私の知的生産の技術』という編著本の中で。
化合物とは2つ以上の物質がまじりあって溶け合った状態のことです。
混交物とは、2つ以上の物質がまざっているけれども、いつでも元の状態に戻せる状態になっているのです。
例えば水と油のように。
加藤秀俊によれば多くの学生の書くのは混交物のほうだといいます。
「」をつけて有名な学者の言葉を引用して、〜と書いているとか、〜と述べているというようにつぎはぎされた論文を書くのが多い、ということです。
これでは知的生産ではない、ということです。
そして学生のみならず、教授といわれる人の書くのもそういう人が多い、ということです。
その化合物を作るには、あるテーゼが出来たら、それを例証するための実例を挙げなくてはならない。
そのためには、目的のない散歩、逍遥が必要である、ということです。
そのテーゼに関係する本も当然ながら、他の関係のなさそうな本をむさぼるように読んでいることによって、そういう例証できる事項が発見できることがあるということです。
それには大いに賛同し、そういう例を私自身いっぱい経験してきました。
その引用ばかりの思想研究家も、いろいろ散歩や逍遥もしているのでしょう。
ゆえに、そのテーゼに合致するような他の著者の文章を見つけてきたのでしょう。
文脈に合うようにピンポイントで引用が多くしていました。
ゆえに、これも化合物であるとする意見が出てもおかしくはないでしょう。
しかし、事例が出てきても、自身が脳内で練り上げて出した理論ではないし、借用だけで済ませているのでは読むメリットが感じれないのです。
他の著者との意見が同じになってもいい。
自身の脳内で練り上げたものであるならば、というのが私の意見です。
そんなものすごく独創的な理論などそうそうできるわけでもないですし、私にだって無理です。
自分に無理なものを他人に要求するなど、横暴もいいところです(笑)
しかし、そういう引用ばかり文章の著者の本は、一度読むともうこの人のは…と忌避したくなるのです。
そしてまたその著者の本を無理やり読んでみる。
やはり面白みが感じれずに終了。
そういうことを繰り返してきました。
なので著者の本を1冊よんで、よくなかったら次の本もその次の本もよくないことは間違いないです。引用ばかりの人は、他の本でも引用ばかりしているのが通常です。
しかし、そういう著者の本でも愛読者はいるから驚きです。
その著者の愛読者が書いたAmazonなどのレビューには、★を最高の5つまでつけて、賞賛のレビューを書いているのです。
そのレビューからは、本気度が伝わってきます。
やはり引用ばかりの本でもウケる場合もある、ということです。
その思想史研究者は東大卒の日本思想史の研究者である教授だったのです。
それでも、Amazonでの、その教授の本のレビューを見たら、「心が晴れました」といったニュアンスの言葉が書かれているのを見ると、私が評価したくない著作家でも、高評価する人は一定数必ずいるのだということがわかったのです。
ゆえに、自分の価値観を押し付けることなく、人は人、という敢然とした態度でいかなくてはならないなと思ったのです。
引用が多い人の本を「心が晴れました」とした人は、自分が論文を書く時や、本を書く時にも引用ばかり多用するのでしょう。
それでは私は評価したくはないです。
そして向こうも私を評価しない…人生は難しいものです(笑)。
引用ばかりでは意味がない…というか、読む意味が感じれないのです、単なる知識を読んでいるような気分になって。
ピンポイントで引用していた観があったのは正直認めるにやぶさかではないですが、こういう人は、巷にある思想を研究している思想研究家であって、「思想家」ではないのです。
思想家というのは、自身で情報を主体的に得て、それらを元に自身の脳で思想を練り上げて、その思想を読んだ人の多くが感動できる性質を持っている人のことであると私は思うのです。
そういう思想研究家の著者のでも、海外で翻訳されて本になっているということを知って驚きだったです。
自分が邪道と思っていても、人によっては王道として認識してしまっているのは多くあるのです。
そのことを踏まえつつ、自分の価値観を抑えつけないで、各自の自由に任せましょう、という意見に鞍替えしました。
しかし、読み手に感動をおぼえてもらったり、また再び読んでもらおうというならば、今のスタンスは変えないといけないでしょう。
学界では引用ばかりの文章を書いている人は相手にされないからだし、そんな文章の本を出しても、売れないことは間違いないでしょう。
そういう評価されない文書を書く教授とは違い、毅然として20代後半から今まで化合物の本を100冊以上出してきた加藤秀俊の生涯を論じた電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
●おすすめです。
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今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
明晰な脳で分析された事項を読んでどうになる?こんなメリットが…! (加藤秀俊)
こんにちは。
故.加藤秀俊(下写真)という社会学者は、非常に明晰な脳をお持ちで、その明晰さからついついその人の本を読んでは、2〜3時間は読んでしまう魅力にあふれていました。

大学時代、その人の書いた本である『日本人の周辺』という本を読んで虜になってしまい、この人の書いた本が中古本屋に安く売っていたら、すぐさま買って読んでしまいました。
こういう衝動に駆られてしまう著者は人生でどれだけいるでしょうか?
多分、誰も5指以下でしょう?
この人の本である『比較文化への視角』という本を大学の購買会で取り寄せて買い、読みました。
これには、『無目標社会の論理』という章がありました。
それによれば、先進国は工業化を達成したがゆえに、国家が国民全員が一丸となって1つの方向へ向かって行く目標がうせてしまったということです。
これは、フランシス.フクヤマ(下写真)の『歴史の終わり』にも通じるものがあると思いました。

豊かさを達成したがゆえに、次なる目標がない社会になってしまったがために、英雄を生み出す機運がなくなってしまったというのがこの本の要旨でした。
加藤秀俊氏は、現代の無目標社会においては、国民が一丸となって一方向へ行く時代でなくなってしまったがゆえに、国民がそれぞれ好きな方向へ行く時代になったということです。
要するにバラバラな時代になってしまったということです。
そういう社会においては、工業化達成の時代以前と、それ以降では、文学も漫画も娯楽も趣向も違ってくる、ということです。
これには、目の覚める思いがしたものです。
工業化達成以前の社会ではやっていた時代の文学や漫画にはウケるものが全く違います。
そういう工業化達成後にはやるものをみたら、それ以前の世代の人は憤りを覚えるでしょう。
こんな刹那的な文学や漫画がはやるのか!ということですね(笑)。
逆境に打ち負けない主人公が持てはやされていた時代を生きていた世代の人は、それ以降の時代の流行るものをみたらやはり…ですね!(笑)
その世相の違いが生じたことによって、その結果、どの分野においても自己目的化していっているという共通項が見つかったのだろうと思います。
普通の人が気が付かずに年月を通り過ぎるところを、加藤秀俊は、そういった世相の違いに気が付いて、その描写を紙や本に書き、それを発表したのです。
その違いを分析することは、加藤秀俊にとっては非常に楽しいことだったでしょうし、私もそういった知的作業は楽しい脳内仕事ではあります。
こういった知的脳内作業をすることは、次なる学歴を獲得するためにはならないから誰もがしないままでしょう。
高校時代であってみれば、受験のためにせっせと本を読みますが、大学に入ってしまえば次なる学歴獲得にはつながらないから、本など読まなくなってしまうのです誰もが。

その知的作業を続けるのは、かなりの少数派です。
しかし、そんな世相の違いを知ってどんないいことがあるか?
社会に出て役立つことがあるか?
そんな疑問がわくでしょう。
その違いを認識することで、対人の話しでウケるものも違ってきますし、経済的にもウケるものが違ってきます。
それで知的な作業が変わってくるのは言うまでもないことです。
ただし、そういう全体的な情勢になるということであって、社会の構成員のうち全員が全員、そういうものにウケるようになるというような暴論は言いますまい!(笑)

工業化が達成した後でもストイックな主人公を描いた漫画や小説が好きな人は当然、存在するでしょう。
しかし、そういう例は稀になっていくということですし、実際を眺めれば頷けるでしょう。
こうした加藤秀俊の分析した事項を脳内に入れていくかどうかで、社会が見やすくなる、理解しやすくなるということだけは言えるでしょう。
例えば、古文を読むためには助動詞を全部覚えてしまえば断然読みやすくするなる経験を誰もがしたでしょう。
それと一緒と思っていただければいいでしょう。
●そんな知的作業をたぐいまれな脳でおこなってきた加藤秀俊について論じた本に興味の沸いた人には、以下の電子書籍、ペーパーバックをお勧めしたいです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
故.加藤秀俊(下写真)という社会学者は、非常に明晰な脳をお持ちで、その明晰さからついついその人の本を読んでは、2〜3時間は読んでしまう魅力にあふれていました。
大学時代、その人の書いた本である『日本人の周辺』という本を読んで虜になってしまい、この人の書いた本が中古本屋に安く売っていたら、すぐさま買って読んでしまいました。
こういう衝動に駆られてしまう著者は人生でどれだけいるでしょうか?
多分、誰も5指以下でしょう?
この人の本である『比較文化への視角』という本を大学の購買会で取り寄せて買い、読みました。
これには、『無目標社会の論理』という章がありました。
それによれば、先進国は工業化を達成したがゆえに、国家が国民全員が一丸となって1つの方向へ向かって行く目標がうせてしまったということです。
これは、フランシス.フクヤマ(下写真)の『歴史の終わり』にも通じるものがあると思いました。
豊かさを達成したがゆえに、次なる目標がない社会になってしまったがために、英雄を生み出す機運がなくなってしまったというのがこの本の要旨でした。
加藤秀俊氏は、現代の無目標社会においては、国民が一丸となって一方向へ行く時代でなくなってしまったがゆえに、国民がそれぞれ好きな方向へ行く時代になったということです。
要するにバラバラな時代になってしまったということです。
そういう社会においては、工業化達成の時代以前と、それ以降では、文学も漫画も娯楽も趣向も違ってくる、ということです。
これには、目の覚める思いがしたものです。
工業化達成以前の社会ではやっていた時代の文学や漫画にはウケるものが全く違います。
そういう工業化達成後にはやるものをみたら、それ以前の世代の人は憤りを覚えるでしょう。
こんな刹那的な文学や漫画がはやるのか!ということですね(笑)。
逆境に打ち負けない主人公が持てはやされていた時代を生きていた世代の人は、それ以降の時代の流行るものをみたらやはり…ですね!(笑)
その世相の違いが生じたことによって、その結果、どの分野においても自己目的化していっているという共通項が見つかったのだろうと思います。
普通の人が気が付かずに年月を通り過ぎるところを、加藤秀俊は、そういった世相の違いに気が付いて、その描写を紙や本に書き、それを発表したのです。
その違いを分析することは、加藤秀俊にとっては非常に楽しいことだったでしょうし、私もそういった知的作業は楽しい脳内仕事ではあります。
こういった知的脳内作業をすることは、次なる学歴を獲得するためにはならないから誰もがしないままでしょう。
高校時代であってみれば、受験のためにせっせと本を読みますが、大学に入ってしまえば次なる学歴獲得にはつながらないから、本など読まなくなってしまうのです誰もが。

その知的作業を続けるのは、かなりの少数派です。
しかし、そんな世相の違いを知ってどんないいことがあるか?
社会に出て役立つことがあるか?
そんな疑問がわくでしょう。
その違いを認識することで、対人の話しでウケるものも違ってきますし、経済的にもウケるものが違ってきます。
それで知的な作業が変わってくるのは言うまでもないことです。
ただし、そういう全体的な情勢になるということであって、社会の構成員のうち全員が全員、そういうものにウケるようになるというような暴論は言いますまい!(笑)
工業化が達成した後でもストイックな主人公を描いた漫画や小説が好きな人は当然、存在するでしょう。
しかし、そういう例は稀になっていくということですし、実際を眺めれば頷けるでしょう。
こうした加藤秀俊の分析した事項を脳内に入れていくかどうかで、社会が見やすくなる、理解しやすくなるということだけは言えるでしょう。
例えば、古文を読むためには助動詞を全部覚えてしまえば断然読みやすくするなる経験を誰もがしたでしょう。
それと一緒と思っていただければいいでしょう。
●そんな知的作業をたぐいまれな脳でおこなってきた加藤秀俊について論じた本に興味の沸いた人には、以下の電子書籍、ペーパーバックをお勧めしたいです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
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今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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高校までの勉強と大学のそれとはどう違うか?大学の勉強だけが最重要ではないが…ではどうする? (加藤秀俊)
懐かしいですが、普通の私立の文系大学を受験する場合を想定しましょう。
だいたい3科目が普通ですが、どのような選択をしますでしょうか?
英語、国語、世界史…この3科目を選んで受験しようとした場合、かなり難しいのではないでしょうか?
私が一番得策と思うのは、英語、国語、日本史ではないでしょうか?
なぜならば、英語、国語、日本史の場合の方が時間節約できるし、日本史で知ったことが国語でも通用するからです。
国語には、国文学の歴史の問題も出てくるので別途勉強しなくてはいけないのです。

しかし、日本史を選択した場合は、国文学の歴史を含んでいるので、それを別途勉強する必要がないからです。
しかし、世界史を選択した場合、世界史は範囲が広いですし、その上別途、国文学の歴史も学ばなくてはならないから労力と時間が必要です。
そういうことは進学校の場合は、周りの人間が情報を把握しているので、そういうことを教えあうことが出来るのがメリットです。
しかし、私のような底辺高校の出身の場合は、そういう情報を自身で把握しなければならないので、時間がたって知ることになります。
進学校出身の人はうらやましいと思った次第です(笑)。
しかし、のちに知ったこととて、進学校出身の人は気にも留めなかった可能性が高いです。
なぜならば、進学校では定期試験が厳しいですし、それゆえに、学んだことも脳内に記憶もしていたがゆえに、別途国文学の歴史を学ぶこともなんともなかった可能性が高いです。

しかし、私のような底辺高校出身の人間はそういうことはまるで不可能でした(笑)。
定期試験はかなり緩かったですし、それゆえに試験後は学んだ内容は雲散霧消してしまいましたから…(笑)。
ゆえに大学受験での試験では、記憶する量が少なくするのが得策ということです。
しかし、大学やそれ以降からの勉強は、知識が多ければ多いほどいいのです。
まるで逆なのです。
大学の講義で指定される本をただ読んでいるだけでは、年末試験の論文ではいいものが書けないのです。
しかし、きついことですが、シーズンオフからいろんな他の学問の本を読み続けることで、その学問の試験で使える理論を学ぶことが出来るのです。
その理論を盛ることで、知的な論文が書けるのです。
その「他の学問」は、どの学問かと言われれば、それはケースバイケースなので、答えはないです。

なので、いろんな本を乱読してもらうほかないのです。
私の大学の理事長だった人の書いた文に「むさぼるように本を読む。それが将来の糧になる。何も難しい内容の本を読む必要はないのです。それが学生たちに贈るメッセージです!」というのがあったのを思い出します。
まさにその通りです。
ゆえに、1つの専門に閉じこもることなく、いろんな学問を学ぶのが得策、ということです。
好きな教科だけ出席するのではなく、他のも積極的に出席する。
気の赴くまま、いろんな学問の本を読むのがいいということです。
新本屋に売っているものでも、古本屋に売っているものでもなんでもいいのです。
読むことをお勧めします。
他の学問で知ったことが他の学問でも応用して使える。
その応用の過程を愉しめるゆえに、これまでの勉強よりも大学の勉強こそが一番楽しかったと正直に言えます。
大学時代、その楽しさを周りの人間に語り勉強に勤しむことを奨励しましたが、誰も応じてくれなかったです(笑)

それはどうしてそういう結果になってしまうのか?
悲嘆にくれましたが(笑)、それをことさら悲嘆する必要はないのもわかりました。
学業に勤しむことが出来ないから人間失格、学生失格…そんな風に思ってしまうむきもありますが、そんなことはないでしょう。
社会に出てもっと広く視野を広げてみれば、そういった学業をおろそかにしていても、社長として、家長として立派に営んでいる人もいっぱいいます。
大学を中退しても、名を遂げているひとや大きな利益を上げている社長になっている人もいます。
ならば大学における学問へのスタンスをどうすればいいか?
●そんなヒントを与えてくれる電子書籍、ペーパーバックは以下です。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
だいたい3科目が普通ですが、どのような選択をしますでしょうか?
英語、国語、世界史…この3科目を選んで受験しようとした場合、かなり難しいのではないでしょうか?
私が一番得策と思うのは、英語、国語、日本史ではないでしょうか?
なぜならば、英語、国語、日本史の場合の方が時間節約できるし、日本史で知ったことが国語でも通用するからです。
国語には、国文学の歴史の問題も出てくるので別途勉強しなくてはいけないのです。

しかし、日本史を選択した場合は、国文学の歴史を含んでいるので、それを別途勉強する必要がないからです。
しかし、世界史を選択した場合、世界史は範囲が広いですし、その上別途、国文学の歴史も学ばなくてはならないから労力と時間が必要です。
そういうことは進学校の場合は、周りの人間が情報を把握しているので、そういうことを教えあうことが出来るのがメリットです。
しかし、私のような底辺高校の出身の場合は、そういう情報を自身で把握しなければならないので、時間がたって知ることになります。
進学校出身の人はうらやましいと思った次第です(笑)。
しかし、のちに知ったこととて、進学校出身の人は気にも留めなかった可能性が高いです。
なぜならば、進学校では定期試験が厳しいですし、それゆえに、学んだことも脳内に記憶もしていたがゆえに、別途国文学の歴史を学ぶこともなんともなかった可能性が高いです。

しかし、私のような底辺高校出身の人間はそういうことはまるで不可能でした(笑)。
定期試験はかなり緩かったですし、それゆえに試験後は学んだ内容は雲散霧消してしまいましたから…(笑)。
ゆえに大学受験での試験では、記憶する量が少なくするのが得策ということです。
しかし、大学やそれ以降からの勉強は、知識が多ければ多いほどいいのです。
まるで逆なのです。
大学の講義で指定される本をただ読んでいるだけでは、年末試験の論文ではいいものが書けないのです。
しかし、きついことですが、シーズンオフからいろんな他の学問の本を読み続けることで、その学問の試験で使える理論を学ぶことが出来るのです。
その理論を盛ることで、知的な論文が書けるのです。
その「他の学問」は、どの学問かと言われれば、それはケースバイケースなので、答えはないです。
なので、いろんな本を乱読してもらうほかないのです。
私の大学の理事長だった人の書いた文に「むさぼるように本を読む。それが将来の糧になる。何も難しい内容の本を読む必要はないのです。それが学生たちに贈るメッセージです!」というのがあったのを思い出します。
まさにその通りです。
ゆえに、1つの専門に閉じこもることなく、いろんな学問を学ぶのが得策、ということです。
好きな教科だけ出席するのではなく、他のも積極的に出席する。
気の赴くまま、いろんな学問の本を読むのがいいということです。
新本屋に売っているものでも、古本屋に売っているものでもなんでもいいのです。
読むことをお勧めします。
他の学問で知ったことが他の学問でも応用して使える。
その応用の過程を愉しめるゆえに、これまでの勉強よりも大学の勉強こそが一番楽しかったと正直に言えます。
大学時代、その楽しさを周りの人間に語り勉強に勤しむことを奨励しましたが、誰も応じてくれなかったです(笑)
それはどうしてそういう結果になってしまうのか?
悲嘆にくれましたが(笑)、それをことさら悲嘆する必要はないのもわかりました。
学業に勤しむことが出来ないから人間失格、学生失格…そんな風に思ってしまうむきもありますが、そんなことはないでしょう。
社会に出てもっと広く視野を広げてみれば、そういった学業をおろそかにしていても、社長として、家長として立派に営んでいる人もいっぱいいます。
大学を中退しても、名を遂げているひとや大きな利益を上げている社長になっている人もいます。
ならば大学における学問へのスタンスをどうすればいいか?
●そんなヒントを与えてくれる電子書籍、ペーパーバックは以下です。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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