単なる学者と知識人との違いとは? (加藤秀俊)
こんにちは。
私の手元には、『文化講演会2』という本があります。
これは愛媛県の公民館で行われた講演を収録したもので、その講演の1つに加藤秀俊氏のものが収められているのです。
加藤氏は、ラジオのNHKのラジオパーソナリティとして呼ばれたこともあり、その講義内容が本になったこともあります。
そして、海外の大学での講演にも呼ばれたこともあります。
また書下ろし本を出版社から依頼されて本を出したこともあります。
こういうことを頻繁に依頼される大学教授がどれだけいるでしょうか?
大学教授時代は主に京都に居を固定していたようで、そこから愛媛は結構遠いです。
よくここまで講演に呼ばれたなと思うのです。
しかも、海外からも呼ばれるとはと、感嘆するばかりで、こういうことが可能な人がどれだけいるだろうか?と訝し気に思うのですね。
いろんな学問、社会学、経済学、文学、経営学といったように修めているのみならず、それぞれの分野でそれなりの一家言がある人にこそ、講演を依頼する側からすれば、選択肢は増えるわけで、加藤氏は、選択肢が多いのみならず、それなりの一家言がそれぞれの分野にあったのが明白でした。
加藤氏の本を1冊でも読めば、それはわかります。
巷では、学者と知識人は、同じようなニュアンスで使われがちですが、加藤氏(下写真)からすれば違うのです。

学者と知識人の違いとは。
それは学者とは、自分の専門にだけ関心があり、その領域についてはいっぱい物事を知っているが、ひとたび他の領域について聞かれるとすぐさま黙ってしまう。
それのみか、まるで関心を持とうとせずに、つまらなそうな顔をしている。
しかし、知識人とは、いろんな領域について広い関心があり、常にいろんな領域について本を読み調べて広い知識の中にいることに幸せを感じている人のこと、と定義しているのです。
やはりそういうモラルでいると、その同じモラルでいる人が類友よろしく同じ対談に参加したり、共著本を出したりと積極的に知的活動に邁進するのでしょう。
そういう本を含めて、加藤氏は27歳のデビュー作から逝去するまで実に100冊以上もの本を出しているのです。
その対談集や共著本を出した盟友たちも、同じように多数の本を出していたのです。
共著本の相手が1冊とか2冊くらいというのはあり得ないです(笑)
学者に求める姿勢とは、どういうものかを考えると、常日頃からいろんな領域に関心を寄せて知的行動に毎日邁進するということですね。
そういう活動の中で、自分の専門の事柄について高尚なものに昇華させる結果になる理論や知識が発見できるものなのです。

逆に、自分の領域以外に関心を寄せないでいると、新しい発見もなければ、自分の領域を高次にならせることも出来ないことは明白です。
大学教授を目指した人ならば、当初は、いろんな領域に通じた学者に憧れていたのでしょうが、いつしかその憧れの心を失ってしまったのでしょう。
大学者たるもの何十冊も、これまで本を出してきたのですから、それに倣うように、本を出すぞと意気込んで研究に邁進するのだろうと思うのですが実際は、その意気を失っているのです。
確かに、大学での講義やゼミ、大学から課される研究課題論文、教授会への出席等いろんな義務はあるでしょう。
しかし、それ以外にも時間はいっぱいあるはずです。
1日に8時間の労働が一般人には課されているのです。
それと同等の時間を日々の研究に課し、その他自分の中で問題意識があるのであれば、それ以上を課すようでなければ学者として並かそれ以下で終わってしまうでしょう。
しかし残念ながら、大学教授で、そういう学生時代に抱いていた大学者へのあこがれはいつしか消沈しているのです。
やはり誰も自分を律してくれないまま、あるいは毎年同じ講義ノートを読んで、説明しているだけで、高い給料をもらえるからですね。
私の大学時代のゼミの教授は、いま推定2000万円くらいもらっているでしょう年間で。
それで今、自分を鼓舞して本を出せ、といわれても出す気は起きないでしょう。
それまでにその教授が出した本はたったの1冊でした…マックス.ウェーバー(下写真)に憧れていたんじゃないの?と訝し気に思いました(苦笑)。

その教授は大学生時代にマックス.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで感動し、ウェーバーに憧れて大学の教授を目指した、と語っていたのですが、この冊数とは…と落胆してしまいました。
その教授はいま齢70。
この年で本を出すのは不可能でしょう。
こういう状態−大学者に憧れて学業を志すもいつしかその情熱を失ってしまう、という状態の打破は、単なる学者ではなく知識人を目指す、その本質をもう一回回顧することにもあると思います。
その他、打破の方法はいくらでもありますが、
そういった学業に対する情熱を、享年まで維持し続けた加藤秀俊はまごうことなく知識人でした。
その偉業はいつまでも語り継がれる必要があるのでしょう。
●そんな加藤氏に興味のわいた人におすすめなのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
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私の手元には、『文化講演会2』という本があります。
これは愛媛県の公民館で行われた講演を収録したもので、その講演の1つに加藤秀俊氏のものが収められているのです。
加藤氏は、ラジオのNHKのラジオパーソナリティとして呼ばれたこともあり、その講義内容が本になったこともあります。
そして、海外の大学での講演にも呼ばれたこともあります。
また書下ろし本を出版社から依頼されて本を出したこともあります。
こういうことを頻繁に依頼される大学教授がどれだけいるでしょうか?
大学教授時代は主に京都に居を固定していたようで、そこから愛媛は結構遠いです。
よくここまで講演に呼ばれたなと思うのです。
しかも、海外からも呼ばれるとはと、感嘆するばかりで、こういうことが可能な人がどれだけいるだろうか?と訝し気に思うのですね。
いろんな学問、社会学、経済学、文学、経営学といったように修めているのみならず、それぞれの分野でそれなりの一家言がある人にこそ、講演を依頼する側からすれば、選択肢は増えるわけで、加藤氏は、選択肢が多いのみならず、それなりの一家言がそれぞれの分野にあったのが明白でした。
加藤氏の本を1冊でも読めば、それはわかります。
巷では、学者と知識人は、同じようなニュアンスで使われがちですが、加藤氏(下写真)からすれば違うのです。
学者と知識人の違いとは。
それは学者とは、自分の専門にだけ関心があり、その領域についてはいっぱい物事を知っているが、ひとたび他の領域について聞かれるとすぐさま黙ってしまう。
それのみか、まるで関心を持とうとせずに、つまらなそうな顔をしている。
しかし、知識人とは、いろんな領域について広い関心があり、常にいろんな領域について本を読み調べて広い知識の中にいることに幸せを感じている人のこと、と定義しているのです。
やはりそういうモラルでいると、その同じモラルでいる人が類友よろしく同じ対談に参加したり、共著本を出したりと積極的に知的活動に邁進するのでしょう。
そういう本を含めて、加藤氏は27歳のデビュー作から逝去するまで実に100冊以上もの本を出しているのです。
その対談集や共著本を出した盟友たちも、同じように多数の本を出していたのです。
共著本の相手が1冊とか2冊くらいというのはあり得ないです(笑)
学者に求める姿勢とは、どういうものかを考えると、常日頃からいろんな領域に関心を寄せて知的行動に毎日邁進するということですね。
そういう活動の中で、自分の専門の事柄について高尚なものに昇華させる結果になる理論や知識が発見できるものなのです。
逆に、自分の領域以外に関心を寄せないでいると、新しい発見もなければ、自分の領域を高次にならせることも出来ないことは明白です。
大学教授を目指した人ならば、当初は、いろんな領域に通じた学者に憧れていたのでしょうが、いつしかその憧れの心を失ってしまったのでしょう。
大学者たるもの何十冊も、これまで本を出してきたのですから、それに倣うように、本を出すぞと意気込んで研究に邁進するのだろうと思うのですが実際は、その意気を失っているのです。
確かに、大学での講義やゼミ、大学から課される研究課題論文、教授会への出席等いろんな義務はあるでしょう。
しかし、それ以外にも時間はいっぱいあるはずです。
1日に8時間の労働が一般人には課されているのです。
それと同等の時間を日々の研究に課し、その他自分の中で問題意識があるのであれば、それ以上を課すようでなければ学者として並かそれ以下で終わってしまうでしょう。
しかし残念ながら、大学教授で、そういう学生時代に抱いていた大学者へのあこがれはいつしか消沈しているのです。
やはり誰も自分を律してくれないまま、あるいは毎年同じ講義ノートを読んで、説明しているだけで、高い給料をもらえるからですね。
私の大学時代のゼミの教授は、いま推定2000万円くらいもらっているでしょう年間で。
それで今、自分を鼓舞して本を出せ、といわれても出す気は起きないでしょう。
それまでにその教授が出した本はたったの1冊でした…マックス.ウェーバー(下写真)に憧れていたんじゃないの?と訝し気に思いました(苦笑)。
その教授は大学生時代にマックス.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで感動し、ウェーバーに憧れて大学の教授を目指した、と語っていたのですが、この冊数とは…と落胆してしまいました。
その教授はいま齢70。
この年で本を出すのは不可能でしょう。
こういう状態−大学者に憧れて学業を志すもいつしかその情熱を失ってしまう、という状態の打破は、単なる学者ではなく知識人を目指す、その本質をもう一回回顧することにもあると思います。
その他、打破の方法はいくらでもありますが、
そういった学業に対する情熱を、享年まで維持し続けた加藤秀俊はまごうことなく知識人でした。
その偉業はいつまでも語り継がれる必要があるのでしょう。
●そんな加藤氏に興味のわいた人におすすめなのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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ありがとうございました。
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教授や著作家に求める著作の内容の2つの条件とは? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学教授や、著作家に求める書物の質というものはどういうものかを考えました。
私が、第一に求めてしまうのは、幅広く物事を学ぶ姿勢をもっているかどうかですね。
大学では、経済学部とか経営学部とか文学部とか法学部とか、学部がわかれています。
これは、現代の情報が無数にある科学を、学びやすくするために、専門を狭めているからこそ、こういう区分けをしているだけであって、経済学部なら経済学だけを、法学部なら法学だけを修めていればそれでいいというものではありません。
専門を持ちながらも他の科学について、いろいろ修めていて、いることで説得力のある文が書けるのであって、専門だけに閉じこもっているだけの専門家の文章には魅力を感じません。
そういう専門家を批判する論争が1960年代や70年代になされたようで、その反省からそういう専門に閉じこもることから遠ざかろうという動きが日本の学界では起きたようですが、やはり、そういう論争が終わってもそういう専門家は出てきてしまうのが世の常のようです。

「これは私の専門内容ではないから」という理由で、他の分野について語ろうとしない。
論じようとしない。
そういう人に対して信頼がおけますでしょうか?
こういう対応をされて、また質問しに行こうと思うでしょうか?
思わないですよね?
ことのつまり、専門に閉じこもって、ことを論じようとしない人は、知的対象が狭い、ということのみならず、知的なことに興味がないということが言えるでしょう。
先に書いたように、専門の事だけで論じようとする人は説得的な文章を書くことができない。
こういう人は学界での評価も低いです。
知的な関心がない、興味がなく楽しんでいない、ということでも人としての魅力が乏しい、ということにも繋がります。
そういう人は、学界で成功することにはつながらないのです。
やはり「好きこそものの上手なれ」ということわざ通り、楽しくて楽しくてしょうがない、というモラルでいないことには、どの分野でも成功することはないでしょう。

そして、「大学教授や、著作家に求める書物の質」のもう1つとして、文章を他の書物から引用ばかりしない、ということを挙げたい共います。
他の書物からの引用はどの著者もすることです。
いな、他の書物をむさぼるように読んで、その内容を脳内で発酵させて、理論を構築して文章を書く、ということに繋がるわけです。
ですから引用と、このような発酵は紙一重といっていいくらい繋がっています。
しかし、そっくりそのままの引用ばかりでは、読んでいる方は、読みにくいことこの上ないのです。
集中力が読んでいて萎えてくるのです。
読者は、その人の構築した理論を読みたいのではないでしょうか?
少なくとも私はそうです。
引用を極力少なくして、自身の理論がほとんどである人の文章こそ読みたくなるのです。
その理論がオリジナリティあふれるものであるならばいいのですが、そんな卓越したオリジナリティあふれる著作家などそれほどいないわけで、そんな高いものを求めることなど私はしないのです。
そんな卓越したオリジナリティはそれほどなくても、きちんと自分自身で構築した理論を持っている人の本であるならば、他に出した本があったら、それを買って読みたいと思い、その著作家の本をワードの「読みたい著作家リスト」に書いておいて次の著作を買うつもりでいます。

しかし、引用ばかりの文章を書く人は自分の理論に自信を感じていないのでしょう。
私が先に書いたように卓越したオリジナリティなど万人に求めることなどしないです。
他の人と同じような理論であっても、きちんと自身で構築したものであるならば、それでいいとしているのです。
しかし、引用ばかりで収着させてしまう人は、自信がないからそういうことになってしまうのでしょうか。
それで引用ばかりになってしまうのでは本末転倒です。
読んでいて、こちらは集中力が萎えてしまうのですし、そういう人は忌避されてしまいます。
そうなると更に自信がなくなって、ひいては論文を書くという教授や著作家としての基本的な行為がおろそかになってしまいますから、かなり注意が必要です。
自分の理論に自信がないからこそ、他の有名な著作家の本を引用して、見栄を張るというのではこれまた本末転倒です。
もっと知的に頭を使って、自身の理論構築をしていくべきだ、と思います。
そして、その知的作業に愉しみを感じていない、ということが言えるでしょう。
最初の幅広くことを修めていない人の内情の1つである「幅広く物事を学ぶ姿勢をもっていない」ということとも通じるものがあります。

そういう人は、まず引用する事ばかりを辞めて、自身の脳内で構築した理論を出すことに務める。
それが面白いと思えるようになったのであれば、そういう著作活動を続けていくことをお勧めしたいです。
それでも、面白くないのであれば、その職業は辞めるべきではないでしょうか?
つまらなそうな顔でそういう活動をしている姿は、はたから見ていてつらいことこの上ないですし、人に悪影響を与えるものです。
逆に面白い、それゆえに楽しくて仕方ないという姿で活動している人ならば、他の人たちの見本になるものです。
誰でも得手不得手はあるのです。
こと著作も得手不得手はあるのです。
幅広く学び、引用はせずに自身での理論構築に生きがいを持てる人であるならば、そういう職業に向いているでしょう。

しかし、そういう人にも欠点があるのです。
それは、自身の家などで1人で著作活動をしている時に、集中力が萎えてしまい、他の事に意識が行って著作に手がつかなくなる、ということです。
あれこれと、知的な関心が分散してしまうので、著作をしている時に、他の本から参考に調べ物をしようとすると、調べている時にほかにいろんな関心が出てきてしまって、他の事柄について調べたり読んだりしているうちに肝心の著作がおろそかになってしまう、ということです。
こういう意識が分散してしまう人はリーキーアテンションということです。
メンタリストのDAIGOという人の動画を観て、その人が言うに、起業家に向いている人は、こういう関心の分散が起きてしまう。
こういう人こそが、起業家に向いているということです。
起業家は自分1人で情報を摂取していかなくてはならない性質のものです。
そのためには、いろんな領域に関心が自然と向いていかなくてはならないでしょう。
人に強制されるまでもなく。
そうならないためにも生まれつき集中力がありながら、意識が分散してしまっている人こそが起業家として向いているというわけです。
そのDAIGOさんの言うことには説得力がありました。
そのDAIGOさんはたぐいまれなる読書家で、いろんな研究結果の本を読んで起業やメンタルヘルスに関心のある人に情報を動画で発信しているのです。

受け売りといえばそうですが、非常に観ていて関心のそそられる思いがするものです。
その意識が分散してしてしまう、というのは著作家でも必須の事でしょう。
自分の専門にだけ閉じこもっていては話しにならないのですから。
人に言われるまでもなく、他の領域に関心を向けてしまい、それに就いて自ら調べ、その内容についての本すらも出してしまう。
こういう人は、意識が分散してしまうので1人住まいの人は、集中力が萎えてきて自分のしたい他の事にいつしか没頭して肝心の仕事ができなくなってしまうようです。
だから、そういう人は公民の図書館や、喫茶店、ファミレスなどで仕事をした方がいいということです。
こう書くと結局、いろんなことに意識が行って書きものなんかできないじゃないか、と反論されそうですがそうではないのです。
喫茶店などで〇〇について調べる、と紙に書いておいて、帰宅したらその〇〇についてだけ調べると決心するのです。
そして、そのことについては断行するのです。
そして、家に1人だけでいると集中力が萎えるので、人に自分含めて複数人いる場合ならば、集中できるのですから、そういう人は複数人でこそ集中して仕事が出きるということです。

受験生時代は、誰もが図書館などで勉強してましたが、それは単に集中力が低い人の最高のやり方なのです。
逆に、人が何人もいる家でこそ集中できる人こそがリーキーアテンションの高い人なのです。
だから一律に、こういうやり方がいい、という狭い了見で物事を断定するのではなく、その人に合った方法で物事をすることが大事なのです。
リーキーアテンションは一見、欠点にみられがちですが、そうではなく、大きな特長なのであるということを意識すべきでしょう。
自文化中心主義と、多文化中心主義の違いといいますか、大学では後者の方がいいとされるのは当然ですが、本を読むことや講義を受け続けることでじわりじわりとそれが可能となっていくのです。
●そんなスタンスに興味のある人、このぺージに興味が持てた方にお勧めの電子書籍.ペーパーバックは以下です。
著作家として、いろんなものを修める気概がかなりあり、社会学者という肩書ながらいろんな分野に食指を伸ばし、逝去されるまで100冊以上の本を上梓した加藤秀俊を大幅に取り上げたのですから。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
以下よりどうぞ!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
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大学教授や、著作家に求める書物の質というものはどういうものかを考えました。
私が、第一に求めてしまうのは、幅広く物事を学ぶ姿勢をもっているかどうかですね。
大学では、経済学部とか経営学部とか文学部とか法学部とか、学部がわかれています。
これは、現代の情報が無数にある科学を、学びやすくするために、専門を狭めているからこそ、こういう区分けをしているだけであって、経済学部なら経済学だけを、法学部なら法学だけを修めていればそれでいいというものではありません。
専門を持ちながらも他の科学について、いろいろ修めていて、いることで説得力のある文が書けるのであって、専門だけに閉じこもっているだけの専門家の文章には魅力を感じません。
そういう専門家を批判する論争が1960年代や70年代になされたようで、その反省からそういう専門に閉じこもることから遠ざかろうという動きが日本の学界では起きたようですが、やはり、そういう論争が終わってもそういう専門家は出てきてしまうのが世の常のようです。
「これは私の専門内容ではないから」という理由で、他の分野について語ろうとしない。
論じようとしない。
そういう人に対して信頼がおけますでしょうか?
こういう対応をされて、また質問しに行こうと思うでしょうか?
思わないですよね?
ことのつまり、専門に閉じこもって、ことを論じようとしない人は、知的対象が狭い、ということのみならず、知的なことに興味がないということが言えるでしょう。
先に書いたように、専門の事だけで論じようとする人は説得的な文章を書くことができない。
こういう人は学界での評価も低いです。
知的な関心がない、興味がなく楽しんでいない、ということでも人としての魅力が乏しい、ということにも繋がります。
そういう人は、学界で成功することにはつながらないのです。
やはり「好きこそものの上手なれ」ということわざ通り、楽しくて楽しくてしょうがない、というモラルでいないことには、どの分野でも成功することはないでしょう。
そして、「大学教授や、著作家に求める書物の質」のもう1つとして、文章を他の書物から引用ばかりしない、ということを挙げたい共います。
他の書物からの引用はどの著者もすることです。
いな、他の書物をむさぼるように読んで、その内容を脳内で発酵させて、理論を構築して文章を書く、ということに繋がるわけです。
ですから引用と、このような発酵は紙一重といっていいくらい繋がっています。
しかし、そっくりそのままの引用ばかりでは、読んでいる方は、読みにくいことこの上ないのです。
集中力が読んでいて萎えてくるのです。
読者は、その人の構築した理論を読みたいのではないでしょうか?
少なくとも私はそうです。
引用を極力少なくして、自身の理論がほとんどである人の文章こそ読みたくなるのです。
その理論がオリジナリティあふれるものであるならばいいのですが、そんな卓越したオリジナリティあふれる著作家などそれほどいないわけで、そんな高いものを求めることなど私はしないのです。
そんな卓越したオリジナリティはそれほどなくても、きちんと自分自身で構築した理論を持っている人の本であるならば、他に出した本があったら、それを買って読みたいと思い、その著作家の本をワードの「読みたい著作家リスト」に書いておいて次の著作を買うつもりでいます。
しかし、引用ばかりの文章を書く人は自分の理論に自信を感じていないのでしょう。
私が先に書いたように卓越したオリジナリティなど万人に求めることなどしないです。
他の人と同じような理論であっても、きちんと自身で構築したものであるならば、それでいいとしているのです。
しかし、引用ばかりで収着させてしまう人は、自信がないからそういうことになってしまうのでしょうか。
それで引用ばかりになってしまうのでは本末転倒です。
読んでいて、こちらは集中力が萎えてしまうのですし、そういう人は忌避されてしまいます。
そうなると更に自信がなくなって、ひいては論文を書くという教授や著作家としての基本的な行為がおろそかになってしまいますから、かなり注意が必要です。
自分の理論に自信がないからこそ、他の有名な著作家の本を引用して、見栄を張るというのではこれまた本末転倒です。
もっと知的に頭を使って、自身の理論構築をしていくべきだ、と思います。
そして、その知的作業に愉しみを感じていない、ということが言えるでしょう。
最初の幅広くことを修めていない人の内情の1つである「幅広く物事を学ぶ姿勢をもっていない」ということとも通じるものがあります。
そういう人は、まず引用する事ばかりを辞めて、自身の脳内で構築した理論を出すことに務める。
それが面白いと思えるようになったのであれば、そういう著作活動を続けていくことをお勧めしたいです。
それでも、面白くないのであれば、その職業は辞めるべきではないでしょうか?
つまらなそうな顔でそういう活動をしている姿は、はたから見ていてつらいことこの上ないですし、人に悪影響を与えるものです。
逆に面白い、それゆえに楽しくて仕方ないという姿で活動している人ならば、他の人たちの見本になるものです。
誰でも得手不得手はあるのです。
こと著作も得手不得手はあるのです。
幅広く学び、引用はせずに自身での理論構築に生きがいを持てる人であるならば、そういう職業に向いているでしょう。
しかし、そういう人にも欠点があるのです。
それは、自身の家などで1人で著作活動をしている時に、集中力が萎えてしまい、他の事に意識が行って著作に手がつかなくなる、ということです。
あれこれと、知的な関心が分散してしまうので、著作をしている時に、他の本から参考に調べ物をしようとすると、調べている時にほかにいろんな関心が出てきてしまって、他の事柄について調べたり読んだりしているうちに肝心の著作がおろそかになってしまう、ということです。
こういう意識が分散してしまう人はリーキーアテンションということです。
メンタリストのDAIGOという人の動画を観て、その人が言うに、起業家に向いている人は、こういう関心の分散が起きてしまう。
こういう人こそが、起業家に向いているということです。
起業家は自分1人で情報を摂取していかなくてはならない性質のものです。
そのためには、いろんな領域に関心が自然と向いていかなくてはならないでしょう。
人に強制されるまでもなく。
そうならないためにも生まれつき集中力がありながら、意識が分散してしまっている人こそが起業家として向いているというわけです。
そのDAIGOさんの言うことには説得力がありました。
そのDAIGOさんはたぐいまれなる読書家で、いろんな研究結果の本を読んで起業やメンタルヘルスに関心のある人に情報を動画で発信しているのです。
受け売りといえばそうですが、非常に観ていて関心のそそられる思いがするものです。
その意識が分散してしてしまう、というのは著作家でも必須の事でしょう。
自分の専門にだけ閉じこもっていては話しにならないのですから。
人に言われるまでもなく、他の領域に関心を向けてしまい、それに就いて自ら調べ、その内容についての本すらも出してしまう。
こういう人は、意識が分散してしまうので1人住まいの人は、集中力が萎えてきて自分のしたい他の事にいつしか没頭して肝心の仕事ができなくなってしまうようです。
だから、そういう人は公民の図書館や、喫茶店、ファミレスなどで仕事をした方がいいということです。
こう書くと結局、いろんなことに意識が行って書きものなんかできないじゃないか、と反論されそうですがそうではないのです。
喫茶店などで〇〇について調べる、と紙に書いておいて、帰宅したらその〇〇についてだけ調べると決心するのです。
そして、そのことについては断行するのです。
そして、家に1人だけでいると集中力が萎えるので、人に自分含めて複数人いる場合ならば、集中できるのですから、そういう人は複数人でこそ集中して仕事が出きるということです。
受験生時代は、誰もが図書館などで勉強してましたが、それは単に集中力が低い人の最高のやり方なのです。
逆に、人が何人もいる家でこそ集中できる人こそがリーキーアテンションの高い人なのです。
だから一律に、こういうやり方がいい、という狭い了見で物事を断定するのではなく、その人に合った方法で物事をすることが大事なのです。
リーキーアテンションは一見、欠点にみられがちですが、そうではなく、大きな特長なのであるということを意識すべきでしょう。
自文化中心主義と、多文化中心主義の違いといいますか、大学では後者の方がいいとされるのは当然ですが、本を読むことや講義を受け続けることでじわりじわりとそれが可能となっていくのです。
●そんなスタンスに興味のある人、このぺージに興味が持てた方にお勧めの電子書籍.ペーパーバックは以下です。
著作家として、いろんなものを修める気概がかなりあり、社会学者という肩書ながらいろんな分野に食指を伸ばし、逝去されるまで100冊以上の本を上梓した加藤秀俊を大幅に取り上げたのですから。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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ありがとうございました。
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大学には素晴らしい教授はいます。その人の学業に触れたいならばその講義を受けること…違います! (加藤秀俊)
こんにちは。
私はかねてから大学への進学、および通学には否定的な立場を決めていました。
昨今は、平均的サラリーマンの平均年収が下がっているにもかかわらず、大学の学費は上がっているからです。

その莫大な額を払ってででも4年間いくメリットがあるならばともかく、メリットなどないのが明白だからです。
大学で学ぶ学問は、今や大学に行かなくても学べる性質のものです。
明治期には、学問に関する本など巷になかったがために、大学に進学した人は、貴重な本を学んできた教授の言っていることをノートに必死になって書き写したもののようです。
ゆえに当時の大学での学問は=写経だったのです。
そういう姿勢で学んだ人の行く末は、国の主要ポスト=高収入の道だったのです。
ゆえに、そういう道がどうしても必須だったならば、無理してでも行くべきでしょう。
しかし、今や大学進学=高収入への道ではないのです。
他にいくらでもあるのです。
自分で起業するなり、ネットで起業するなり、トレードで稼ぐなりといろいろあるのです。
日本人は何かと学問への畏敬の念を持つ習慣があるようで、それに対して無批判なのです。
大学に行くことが何かステータスであるかのように無意識に思ってしまうようです。

しかし、実際に大学に進学してからは、ほとんど学ばずに、学ぶのは年末試験前だけに勤しんでいるのです。
大学在学時には、学費の計算などしたことがないですが、卒業後にしてみました。
年間の授業料を、受ける授業の数×年間の講義回数で割るのです。
すると、1コマ2500円くらいという結果が出ました。
しかし、今や3000円とか、高いところでは4000円もするのです。
これには驚きました。
これだけ払っても、行かせるメリットがあると感じていたのでしょうか当時の親御さんたちは?
あるいは、学問に対する無批判での畏敬の念が作用していたのでしょうか。
そんな綿密な計算などしていなかったのでしょう。
莫大な額に変貌してしまったのならば、やはりそこは計算しなくてはならないでしょう。
そして実際、その価値があるかどうかを考えましょう。
結論。
そんな価値はないです!(笑)

1コマの授業をノートに書き、その授業に類似する内容の本を1冊買って読めばいいです。
その本1冊の方が内容でも、量でも勝っているでしょう。
新本ではなく、中古本でならばもっと安く買えるので、そのメリットは大きいでしょうね。
ゆえに、本を買って読めばいいのです。
わざわざそれほど意味のない講義に出席していく必要はないのです。
そういう日本人の無批判体制をいいことに、研究らしい研究をしている教授はほとんどいないのではないでしょうか?
いや、研究に研究を重ねていた教授はいたことはいましたが少数派でした。
しかし、その教授の講義が良かったのであれば、その教授の書いた本を読んで読めばいいでしょう。
その素晴らしい教授の書いた本が5冊としましょう。
それが1冊2500円としてそれを5つ揃えたら12500円です。
中古本で入手したらもっと安く買えるのです。
講義は年間でだいたい30回。
それを今の授業料ですと、1コマ3000円としますと90000円という計算です。

ならば本を5冊買った方が断然お得です。
学問の理論を勉強するのは、大学受験で培ったノウハウがあれば充分です。
そのことを認識しましょう。
ゆえに大学に、見合ってないばか高な学費を払って4年間も通い続けることがいかに不条理かを早く発見した方がいいです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊は、「主体的に学びたいのであれば、大学に行く必要はない。本を買って読めばよろしい!」と自身の本『独学のすすめ』の中で書いているのです。
私もそれに賛同する立場です。
もちろん、これは文系の大学に限っての話しです。
医者になるなど医療関係の人で、大学卒業の証明がなければ就けない職業に進むと決めている人ならば、私のこういった意見は不問にしていいでしょう。
大学に誰もが行こうとするのは、明治期の名残なのです。
それをも早く気付き、意識から外すべきだろうと思われてならないです。
社会に出て成功したい。
これは大金を稼ぎたいということでしょうか?
ビートたけしほか大学を中退した芸能人たちのほか、いろんな中退したが成功している人の例はあります。
サラリーマンの平均年収は下がっている。
にもかかわらず大学の学費は上がっている。
その学費に見合う内容が大学では講義されていない。
大学卒業の肩書きがなくても大金は稼げる。
こういうことを総合的に考えると、大学は中退すべきか、それでも行きたいならば学費の安い通信制にすべき、ということは言えると思います。

戦後直後に生まれた世代の人たちは戦後復興の経済的な成長のおかげで、同じ会社に30年以上務めれば誰でも年収1000万円稼げるという時代だったのです。
しかし、今やそんな時代ではないのです。
学費払いに辟易している学生な人に言いたいのは、あなたの父や母が昔の世代に比べて能力がないではない、ということです。
昔と違って、アジア、アフリカ、南米、などいろんな中進国が勃興していっている時代だし、戦後直後の時代とは違って、国民全体がほしいモノがない時代なのですし、ほしいものはほぼすべて買いそろえてしまっている時代ゆえに。
困窮しているのであれば、大学に無理矢理行く必要はなく、なりたい道‐公務員、司法書士、司法関係、会計士などは誰でも高卒の資格があれば受けれるのです。
それらの試験のための勉強にお金や時間を使った方が賢明でしょう。
それの方が親御さんたちは喜ぶのではないでしょうか?
●そんな意見に与ししたい人におすすめの電子書籍.ペーパーバックは以下です(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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私はかねてから大学への進学、および通学には否定的な立場を決めていました。
昨今は、平均的サラリーマンの平均年収が下がっているにもかかわらず、大学の学費は上がっているからです。
その莫大な額を払ってででも4年間いくメリットがあるならばともかく、メリットなどないのが明白だからです。
大学で学ぶ学問は、今や大学に行かなくても学べる性質のものです。
明治期には、学問に関する本など巷になかったがために、大学に進学した人は、貴重な本を学んできた教授の言っていることをノートに必死になって書き写したもののようです。
ゆえに当時の大学での学問は=写経だったのです。
そういう姿勢で学んだ人の行く末は、国の主要ポスト=高収入の道だったのです。
ゆえに、そういう道がどうしても必須だったならば、無理してでも行くべきでしょう。
しかし、今や大学進学=高収入への道ではないのです。
他にいくらでもあるのです。
自分で起業するなり、ネットで起業するなり、トレードで稼ぐなりといろいろあるのです。
日本人は何かと学問への畏敬の念を持つ習慣があるようで、それに対して無批判なのです。
大学に行くことが何かステータスであるかのように無意識に思ってしまうようです。
しかし、実際に大学に進学してからは、ほとんど学ばずに、学ぶのは年末試験前だけに勤しんでいるのです。
大学在学時には、学費の計算などしたことがないですが、卒業後にしてみました。
年間の授業料を、受ける授業の数×年間の講義回数で割るのです。
すると、1コマ2500円くらいという結果が出ました。
しかし、今や3000円とか、高いところでは4000円もするのです。
これには驚きました。
これだけ払っても、行かせるメリットがあると感じていたのでしょうか当時の親御さんたちは?
あるいは、学問に対する無批判での畏敬の念が作用していたのでしょうか。
そんな綿密な計算などしていなかったのでしょう。
莫大な額に変貌してしまったのならば、やはりそこは計算しなくてはならないでしょう。
そして実際、その価値があるかどうかを考えましょう。
結論。
そんな価値はないです!(笑)
1コマの授業をノートに書き、その授業に類似する内容の本を1冊買って読めばいいです。
その本1冊の方が内容でも、量でも勝っているでしょう。
新本ではなく、中古本でならばもっと安く買えるので、そのメリットは大きいでしょうね。
ゆえに、本を買って読めばいいのです。
わざわざそれほど意味のない講義に出席していく必要はないのです。
そういう日本人の無批判体制をいいことに、研究らしい研究をしている教授はほとんどいないのではないでしょうか?
いや、研究に研究を重ねていた教授はいたことはいましたが少数派でした。
しかし、その教授の講義が良かったのであれば、その教授の書いた本を読んで読めばいいでしょう。
その素晴らしい教授の書いた本が5冊としましょう。
それが1冊2500円としてそれを5つ揃えたら12500円です。
中古本で入手したらもっと安く買えるのです。
講義は年間でだいたい30回。
それを今の授業料ですと、1コマ3000円としますと90000円という計算です。
ならば本を5冊買った方が断然お得です。
学問の理論を勉強するのは、大学受験で培ったノウハウがあれば充分です。
そのことを認識しましょう。
ゆえに大学に、見合ってないばか高な学費を払って4年間も通い続けることがいかに不条理かを早く発見した方がいいです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊は、「主体的に学びたいのであれば、大学に行く必要はない。本を買って読めばよろしい!」と自身の本『独学のすすめ』の中で書いているのです。
私もそれに賛同する立場です。
もちろん、これは文系の大学に限っての話しです。
医者になるなど医療関係の人で、大学卒業の証明がなければ就けない職業に進むと決めている人ならば、私のこういった意見は不問にしていいでしょう。
大学に誰もが行こうとするのは、明治期の名残なのです。
それをも早く気付き、意識から外すべきだろうと思われてならないです。
社会に出て成功したい。
これは大金を稼ぎたいということでしょうか?
ビートたけしほか大学を中退した芸能人たちのほか、いろんな中退したが成功している人の例はあります。
サラリーマンの平均年収は下がっている。
にもかかわらず大学の学費は上がっている。
その学費に見合う内容が大学では講義されていない。
大学卒業の肩書きがなくても大金は稼げる。
こういうことを総合的に考えると、大学は中退すべきか、それでも行きたいならば学費の安い通信制にすべき、ということは言えると思います。
戦後直後に生まれた世代の人たちは戦後復興の経済的な成長のおかげで、同じ会社に30年以上務めれば誰でも年収1000万円稼げるという時代だったのです。
しかし、今やそんな時代ではないのです。
学費払いに辟易している学生な人に言いたいのは、あなたの父や母が昔の世代に比べて能力がないではない、ということです。
昔と違って、アジア、アフリカ、南米、などいろんな中進国が勃興していっている時代だし、戦後直後の時代とは違って、国民全体がほしいモノがない時代なのですし、ほしいものはほぼすべて買いそろえてしまっている時代ゆえに。
困窮しているのであれば、大学に無理矢理行く必要はなく、なりたい道‐公務員、司法書士、司法関係、会計士などは誰でも高卒の資格があれば受けれるのです。
それらの試験のための勉強にお金や時間を使った方が賢明でしょう。
それの方が親御さんたちは喜ぶのではないでしょうか?
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学問はしっかり懇切に学びましょう!自身の健康のためでもあるのですから! (加藤秀俊)
こんにちは。
私は、学問を真摯に学び続けることを推奨してきました、このブログで。
それは、社会には問題点があり、その内情を構造的に知って、そこで何をすべきかを理解し、そこから行動することによって、問題点が改善するからです。
ことは、社会にもありますし、自身の健康にも関することにも大いにあるからです。
それを何も考えずに、漫然として通り過ぎて行っては、不健康になりますし、病気にもなります。
これは脅しではないのです(笑)。
例えば、ダイエットコーラは、カロリーがゼロですが、人工甘味料の「アステルパーム」が入っているので、普通のコーラ以上に太りやすいのです。
あるいは、清涼飲料水に入っていることが多い、「果糖(かとう)ぶどう糖液糖(とうえきとう)」という「液体の砂糖」をあなたはご存知ですか?
これは、砂糖よりもカロリーが低いですが、砂糖よりもはるかに太りやすいです。

カロリーを減らすために、砂糖を避けて、これらのものを口にしてしまったが最後、ブクブク豚のように太っていきます。
しっかりと、原材料名を見ましょう。
また例えば、ポテトフライや唐揚げなどのジャンクフードや、ハムやベーコンやウィンナーといった超加工食品はガンを引き起こすという研究結果が出ているのです。
健康のためにも、こういったものを一切飲むな、食べるなということは言いません。
出来るならば、週1回、月1回に減らしていくことをお勧めしたいです。
かつて沖縄は、長寿県として有名でしたが、今は米軍基地があるということで、アメリカからジャンクフードや糖分たっぷりのドリンクが大量に入ってきて、それを食す人が大勢出てきてしまい、それゆえに長寿県ではなくなってしまいました。

ここで反論が出るのです。
政府が何も言わないし指摘しないのだから大丈夫でしょう、学校で教えられていないから大丈夫でしょう、などということです。
しかし、それは絶対にないのです。
政府や学校は万能役ではないですし、重要事項は全部が全部教えてくれるだろうと期待するのは筋違いというものです。
私が敬愛した故.加藤秀俊(下写真)は好奇心旺盛でかつ、常識だけに従わないで自身の目で読んで内情を確認し、自身で調べて、健康にいいこと、いい食べ物やいい飲み物を調べて、実際に食べて飲んでという行動をしていったのだろうということが多いに想像できます。

ゆえに93歳という高齢まで生きたに違いないのです。
いい意味で、巷の常識には従わなかったのです。
大学の学問では、「常識を疑え」ということがよく言われるのです。
しかし、それは全部非常識にしろということではないのです。
「おはようございます」「さようなら」「ありがとうございました」「申し訳ありませんでした」といった挨拶や、定刻内に出席するといったことは変えてはならない常識なのです。
これまで変えてしまっては社会はカオス状態になるのです(笑)。
そういった学問は大学で講義されるのですが、何もここでだけ学べるという特権的なものではなく、誰でも学べるのです。
どうやって学ぶか?
本を買って読んで、必要な部分はノートに書いて何度も見なおすのです。
そういう主体的な学びの姿勢があり、それを継続していければ、誰だってその道のプロかそれに近い存在になれるのです。
その本だって、新本であれば3,000円くらい。
中古本であれば300円とか100円が買えるのです。

そんな安価で買えて学べるのに、大学の1コマの講義料はだいたい3000円くらい。
高い大学では4000円くらいします。
そんな高い講義料でも、本1冊の内容と量では完全に負けているのです。
試しに、大学での講義を1コマで講義された内容と、本1冊の内容と比べてみるのがいいと思います。
断然、後者の方が勝っているのです。
そんな差にもかかわらず、大学に入った人は無批判で、そのまま4年間大学に通い続けて、高い学費を払い続けるのです。
経済的に余裕があるのであればそれでもいいでしょう。
しかし、今の日本は格差社会。
子供を大学に満足に行かせることが難しい時代になってしまったのです。
満足にとは、学費と、交通費だけは毎月親御さんが全部払えて、その他足りない部分は子供にバイトさせて出してもらう、という状態を一応のレベルとしましょう。

しかし、それはだいたいの親は無理な状態になってしまい、今の大学生の55%が奨学金を借りているということです。
借りて、それだけで終わればいいです。
しかし、卒業したら、その借りたお金を何年もかかって返さなくてはいけないのです。
内容と代金がまるで見合ってないにもかかわらず、そんな不条理なツラいこと…と誰もが気付いてくれればいいのですが、日本人は学歴信仰という状態で、どの状態であれ学問や勉強というものに関して無批判でいる場合が無数にあるのです。
そんな状態から抜け出すためにも、通信制に切り替えるなどの処置をした方がいいと思うのですが、どうでしょうか?
そんなヒントを得れたのは、ひとえに故.加藤秀俊の「主体的に学ぶ気があるのならば学校に行く必要はない。本を読めばよろしい。」(『独学のすすめ』)という言葉を読んだからですね。
大学教授の不条理さは目に余るものがあると感じるのは私だけではないでしょう。
もちろん、どの教授もいい加減であるなどとは申しません。
毎回毎回、研究結果をものしたノートを作成して講義に臨んでいた教授も多数いたことは間違いないです。
その逆に、毎回毎回同じノートを読んで解説しているだけの教授も多数いたことは間違いないです。
そんな教授に多額の献金をするために、奨学金を借りて、それを卒業後、返していくのですか?と強烈なことを問いたいです。
●このような状態に疑問を同じように持っている人には、以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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私は、学問を真摯に学び続けることを推奨してきました、このブログで。
それは、社会には問題点があり、その内情を構造的に知って、そこで何をすべきかを理解し、そこから行動することによって、問題点が改善するからです。
ことは、社会にもありますし、自身の健康にも関することにも大いにあるからです。
それを何も考えずに、漫然として通り過ぎて行っては、不健康になりますし、病気にもなります。
これは脅しではないのです(笑)。
例えば、ダイエットコーラは、カロリーがゼロですが、人工甘味料の「アステルパーム」が入っているので、普通のコーラ以上に太りやすいのです。
あるいは、清涼飲料水に入っていることが多い、「果糖(かとう)ぶどう糖液糖(とうえきとう)」という「液体の砂糖」をあなたはご存知ですか?
これは、砂糖よりもカロリーが低いですが、砂糖よりもはるかに太りやすいです。

カロリーを減らすために、砂糖を避けて、これらのものを口にしてしまったが最後、ブクブク豚のように太っていきます。
しっかりと、原材料名を見ましょう。
また例えば、ポテトフライや唐揚げなどのジャンクフードや、ハムやベーコンやウィンナーといった超加工食品はガンを引き起こすという研究結果が出ているのです。
健康のためにも、こういったものを一切飲むな、食べるなということは言いません。
出来るならば、週1回、月1回に減らしていくことをお勧めしたいです。
かつて沖縄は、長寿県として有名でしたが、今は米軍基地があるということで、アメリカからジャンクフードや糖分たっぷりのドリンクが大量に入ってきて、それを食す人が大勢出てきてしまい、それゆえに長寿県ではなくなってしまいました。

ここで反論が出るのです。
政府が何も言わないし指摘しないのだから大丈夫でしょう、学校で教えられていないから大丈夫でしょう、などということです。
しかし、それは絶対にないのです。
政府や学校は万能役ではないですし、重要事項は全部が全部教えてくれるだろうと期待するのは筋違いというものです。
私が敬愛した故.加藤秀俊(下写真)は好奇心旺盛でかつ、常識だけに従わないで自身の目で読んで内情を確認し、自身で調べて、健康にいいこと、いい食べ物やいい飲み物を調べて、実際に食べて飲んでという行動をしていったのだろうということが多いに想像できます。
ゆえに93歳という高齢まで生きたに違いないのです。
いい意味で、巷の常識には従わなかったのです。
大学の学問では、「常識を疑え」ということがよく言われるのです。
しかし、それは全部非常識にしろということではないのです。
「おはようございます」「さようなら」「ありがとうございました」「申し訳ありませんでした」といった挨拶や、定刻内に出席するといったことは変えてはならない常識なのです。
これまで変えてしまっては社会はカオス状態になるのです(笑)。
そういった学問は大学で講義されるのですが、何もここでだけ学べるという特権的なものではなく、誰でも学べるのです。
どうやって学ぶか?
本を買って読んで、必要な部分はノートに書いて何度も見なおすのです。
そういう主体的な学びの姿勢があり、それを継続していければ、誰だってその道のプロかそれに近い存在になれるのです。
その本だって、新本であれば3,000円くらい。
中古本であれば300円とか100円が買えるのです。
そんな安価で買えて学べるのに、大学の1コマの講義料はだいたい3000円くらい。
高い大学では4000円くらいします。
そんな高い講義料でも、本1冊の内容と量では完全に負けているのです。
試しに、大学での講義を1コマで講義された内容と、本1冊の内容と比べてみるのがいいと思います。
断然、後者の方が勝っているのです。
そんな差にもかかわらず、大学に入った人は無批判で、そのまま4年間大学に通い続けて、高い学費を払い続けるのです。
経済的に余裕があるのであればそれでもいいでしょう。
しかし、今の日本は格差社会。
子供を大学に満足に行かせることが難しい時代になってしまったのです。
満足にとは、学費と、交通費だけは毎月親御さんが全部払えて、その他足りない部分は子供にバイトさせて出してもらう、という状態を一応のレベルとしましょう。
しかし、それはだいたいの親は無理な状態になってしまい、今の大学生の55%が奨学金を借りているということです。
借りて、それだけで終わればいいです。
しかし、卒業したら、その借りたお金を何年もかかって返さなくてはいけないのです。
内容と代金がまるで見合ってないにもかかわらず、そんな不条理なツラいこと…と誰もが気付いてくれればいいのですが、日本人は学歴信仰という状態で、どの状態であれ学問や勉強というものに関して無批判でいる場合が無数にあるのです。
そんな状態から抜け出すためにも、通信制に切り替えるなどの処置をした方がいいと思うのですが、どうでしょうか?
そんなヒントを得れたのは、ひとえに故.加藤秀俊の「主体的に学ぶ気があるのならば学校に行く必要はない。本を読めばよろしい。」(『独学のすすめ』)という言葉を読んだからですね。
大学教授の不条理さは目に余るものがあると感じるのは私だけではないでしょう。
もちろん、どの教授もいい加減であるなどとは申しません。
毎回毎回、研究結果をものしたノートを作成して講義に臨んでいた教授も多数いたことは間違いないです。
その逆に、毎回毎回同じノートを読んで解説しているだけの教授も多数いたことは間違いないです。
そんな教授に多額の献金をするために、奨学金を借りて、それを卒業後、返していくのですか?と強烈なことを問いたいです。
●このような状態に疑問を同じように持っている人には、以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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学問全般は生きる場の哲学。それを学ぶには大学だけで…違います! (加藤秀俊)
こんにちは。
私は、大学時代にいろんな講義に出席して、ノートをとっていたときに、「大学での勉強こそ誰もが力を最大限入れて臨まなくてはいけない。」と思ったものです。

なぜならば、大学で学ぶ学問というものは、実社会において頭に入れておいておくべき理論が学べるのです。
それを実社会において行動に移すことで、よき結果を期待できるものなのです。
環境問題を例に出せばそれはよくわかるのではないでしょうか?
いうなれば、多くの人が学んで行動する、そういう人が多ければ多いほど社会はよくなるということです 。ただ、そういう理論的知識を学んだところで、次なる受験があって、その試験に出るわけではないので、誰もが気が抜けて大学では学んでいる人は少ないのです。
でも理念的には、そういうことを期待して学問は存立しているのであって、試験がないから仕方がない…とあきらめるのは敗北主義でしかないのです。
とにかく講義には全部出席して、そこではくまなくノートして、それを半永久的に保管しておく。
そして、社会でに出てから、いな在学中でもいいですが、それをもう一度見て、今の自分に必要なことはないかどうか吟味してみる。
すると、役立つ知識がいっぱいあることに気が付くでしょう。
法学、経済学、経営学、環境学、人文学、文化人類学…こういった名を見せつけられると、どうも一般の人には関係なさそうな印象を受けますが、そんなことは一切なく、非常に役立つ情報が盛り込まれているのです。

こういった学問を自分の学部に囚われることなく万般に学ぶことが大事なのです。
どれもが社会で役立つことばかりなのですから。
『生きる場の哲学』という表題の本がありましたが、哲学に限らず、まさに科学全般がそういう性質を持っていることは間違いないです。
しかし、昨今では、サラリーマンの平均年収がさがっているにもかかわらず、大学の学費の値段は上がっているのです。
ゆえに、奨学金を借りる学生は全体の55%に上るようです。
不条理も甚だしいですね?
ならば、大学に行けない人はどうすればいいか。
簡単です。
本を買って読めばいいのです。
昨今は、そこで法学だとか、経済学だとか名した本がいっぱいありますから、そこで買って読んで学べばいいのです。
いろんな中古本屋がありますし、そこではもっと安く買って学べるのです。
そこでは100円などで売っているパターンもあります。
新書の類いは一番おすすめですね。

そうして主体的に学べば、すぐさまいろんな教養は身につくことは間違いないです。
本を買って学べばいいのです。
何も大学に行って高い学費を払って学ぶ必要はない気がします。
私の在学時代は、講義の1コマの値段は2500円でしたが、同じ大学で今は3000円くらいします。
他の大学で、東海大学や東京国際大学など高い例では4000円くらいします。
1コマ4000円…そんな価値はないです。
そう断言します(笑)
私は大学在学中に全部の講義に出て、全部くまなくノートしました。
それをずっと保管しておいて、今ひも解いて、本で学んだ内容と比べて、評価しているのです。
古本屋で1冊100円で買った本の内容も量も、大学の講義1コマは負けているのです。
それは間違いないです。
やはりそんな価値のないモノからは撤退するべきなのです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、その著『独学のすすめ』の中で、「大学で学ぶ必要はない。本を買って読めばよろしい」と書いていますし、実際そう思います。

主体的に学ぶ意気があれのならばの話しですが。
ただ、大学中退と大学卒業では、イメージが後者の方がいいがゆえに、誰もが後者になるように務めるのです。
しかし、値段に見合わないものにしがみついて、社会に出てからの返済に追われて経済的な困窮になるような生活を選択する必要はないと思われるのです。
私の父親たちの世代は、団塊の世代といわれて、戦後復興からの急激な経済的成長の恩恵を受けれたことで、一億総中流国家といわれた日本国で過ごせたわけです。
30年間以上勤めれば誰もが年収1000万円が得れた時代だったのです。
そんな時代であれば、ちょっと金銭的に無理をしてでも子供を大学に行かせたいというインセンティブが働いたのは容易に察せられますが、そんな悠長な時代ではないからこそ進学は慎重にしていかなくてはならないのです。
授業料に内容と量が見合ってない。
本を買って読んで学べば事足りる。
それでも1コマ3000〜4000円の大学に奨学金を借りてまで行く必要があるか?
ないです!(笑)
それに疑問を持った人がいるならば、講義でノートした内容と、新書を買って読んでノートした内容を見比べてみればいいです。
本の内容の方が量も質も上であることがわかるはずです。
以上です。
●今回のページに興味を持ったかたには以下の電子書籍.ペーパーバックはおすすめです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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私は、大学時代にいろんな講義に出席して、ノートをとっていたときに、「大学での勉強こそ誰もが力を最大限入れて臨まなくてはいけない。」と思ったものです。
なぜならば、大学で学ぶ学問というものは、実社会において頭に入れておいておくべき理論が学べるのです。
それを実社会において行動に移すことで、よき結果を期待できるものなのです。
環境問題を例に出せばそれはよくわかるのではないでしょうか?
いうなれば、多くの人が学んで行動する、そういう人が多ければ多いほど社会はよくなるということです 。ただ、そういう理論的知識を学んだところで、次なる受験があって、その試験に出るわけではないので、誰もが気が抜けて大学では学んでいる人は少ないのです。
でも理念的には、そういうことを期待して学問は存立しているのであって、試験がないから仕方がない…とあきらめるのは敗北主義でしかないのです。
とにかく講義には全部出席して、そこではくまなくノートして、それを半永久的に保管しておく。
そして、社会でに出てから、いな在学中でもいいですが、それをもう一度見て、今の自分に必要なことはないかどうか吟味してみる。
すると、役立つ知識がいっぱいあることに気が付くでしょう。
法学、経済学、経営学、環境学、人文学、文化人類学…こういった名を見せつけられると、どうも一般の人には関係なさそうな印象を受けますが、そんなことは一切なく、非常に役立つ情報が盛り込まれているのです。
こういった学問を自分の学部に囚われることなく万般に学ぶことが大事なのです。
どれもが社会で役立つことばかりなのですから。
『生きる場の哲学』という表題の本がありましたが、哲学に限らず、まさに科学全般がそういう性質を持っていることは間違いないです。
しかし、昨今では、サラリーマンの平均年収がさがっているにもかかわらず、大学の学費の値段は上がっているのです。
ゆえに、奨学金を借りる学生は全体の55%に上るようです。
不条理も甚だしいですね?
ならば、大学に行けない人はどうすればいいか。
簡単です。
本を買って読めばいいのです。
昨今は、そこで法学だとか、経済学だとか名した本がいっぱいありますから、そこで買って読んで学べばいいのです。
いろんな中古本屋がありますし、そこではもっと安く買って学べるのです。
そこでは100円などで売っているパターンもあります。
新書の類いは一番おすすめですね。
そうして主体的に学べば、すぐさまいろんな教養は身につくことは間違いないです。
本を買って学べばいいのです。
何も大学に行って高い学費を払って学ぶ必要はない気がします。
私の在学時代は、講義の1コマの値段は2500円でしたが、同じ大学で今は3000円くらいします。
他の大学で、東海大学や東京国際大学など高い例では4000円くらいします。
1コマ4000円…そんな価値はないです。
そう断言します(笑)
私は大学在学中に全部の講義に出て、全部くまなくノートしました。
それをずっと保管しておいて、今ひも解いて、本で学んだ内容と比べて、評価しているのです。
古本屋で1冊100円で買った本の内容も量も、大学の講義1コマは負けているのです。
それは間違いないです。
やはりそんな価値のないモノからは撤退するべきなのです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、その著『独学のすすめ』の中で、「大学で学ぶ必要はない。本を買って読めばよろしい」と書いていますし、実際そう思います。
主体的に学ぶ意気があれのならばの話しですが。
ただ、大学中退と大学卒業では、イメージが後者の方がいいがゆえに、誰もが後者になるように務めるのです。
しかし、値段に見合わないものにしがみついて、社会に出てからの返済に追われて経済的な困窮になるような生活を選択する必要はないと思われるのです。
私の父親たちの世代は、団塊の世代といわれて、戦後復興からの急激な経済的成長の恩恵を受けれたことで、一億総中流国家といわれた日本国で過ごせたわけです。
30年間以上勤めれば誰もが年収1000万円が得れた時代だったのです。
そんな時代であれば、ちょっと金銭的に無理をしてでも子供を大学に行かせたいというインセンティブが働いたのは容易に察せられますが、そんな悠長な時代ではないからこそ進学は慎重にしていかなくてはならないのです。
授業料に内容と量が見合ってない。
本を買って読んで学べば事足りる。
それでも1コマ3000〜4000円の大学に奨学金を借りてまで行く必要があるか?
ないです!(笑)
それに疑問を持った人がいるならば、講義でノートした内容と、新書を買って読んでノートした内容を見比べてみればいいです。
本の内容の方が量も質も上であることがわかるはずです。
以上です。
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孤独な作業であることを理解できる伴侶や友人がいるからこそ、その人は学者として成功できる? (加藤秀俊)
私が大学時代から敬愛していた学者である桜井邦朋氏は、学者というのは孤独な作業を伴う職業である、と本の中で書いていたのを思い出します。
その通りだと思いました。
私の浪人時代にも、その苦痛のある異次元の世界に飛び込まされた観があり、精神的に参ってしまった時もありました。
それまでは、毎日学校へ行って、同じクラスの人たちとしゃべり、行動を共にしてきたのに、いきなりそういうことが全くなくなる時期に突入したのですから。
誰とも話さない時期がありノイローゼになりかけた時もありました(笑)。
しかし、それも慣れてくればどうってことないことになってくるのです。
それを一時の精神的な苦痛で、諦めてしまうのでは何事も成し遂げることはできないでしょう。

学者も、机に向かって何時間も坐っていなくてはならない、そして誰とも話さない時間が長く続くときがあるのです。
それが嫌と言っているようでは学者失格です。
学者のみならず、格闘家、その他稽古ことなどその道を極めるに関しても共通することです。
また試験のために真剣に取り組んでいる人も同様です。
自分とだけ向き合ってどうしたらいいか模索し、本などを読んで探り当ている。
そして、それを実際の場で行動していく。
そういうことができないならば、その道で物事を成し遂げることは無理でしょう。
伴侶や恋人がいる人、あるいは友人がいる人は、やはり、そういった人たちと交流するのは必須です。
いくら孤独な時間が必須とは言っても、まったく交流しなくていいわけではないのです。
大いにすべきでしょう。
しかし、相手が構ってくれなくて寂しいからといって、その人の孤独な作業からつまみ出そう、とするのは、その人の恋人や妻や友人としてふさわしくないです。

そういう時間が必須であるのを理解して、そういう時間を割くことを了承してあげるのが筋というものです。
否、そういう理解力のある恋人や妻、友人がいてくれるからこそ、自分は頑張れると思うのです。
それでこそ、その孤独な作業に勤しむことができる。
これは何も、恋人や妻、友人をおろそかにして、その作業に取り組め、と言っているのではないのです。
そういった人たちの心を汲むのを忘れずに、そういう作業に打ち込むべし、ということを言いたいのです。
恋人や妻や友人には2日や3日に1回は必ず会う。
毎日会えるならば会うべきでしょう。
連絡をメールやlineでやり取りを毎週あるいは毎月必ずする、ということだだいじです。
それならば、人間関係に差支えはないはずです。
私が大学時代に知って、今も敬愛している故.加藤秀俊氏(下写真)は、そういう互いに理解して切磋琢磨していける友人と伴侶がいたからこそ、学者としても名を揚げて、が国内外からも講演に依頼が来て、ラジオパーソナリティにも呼ばれて、対談集の1人としても呼ばれて、本でいくつかの賞を取ってこれたのでしょう。

そういう姿勢が、氏の本からひしひしと感じとることができます。
今日も、加藤氏の本を喫茶店で読んで、そのことを実感しました。
●そういう本物の学者の意義について読みたい方は、以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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その通りだと思いました。
私の浪人時代にも、その苦痛のある異次元の世界に飛び込まされた観があり、精神的に参ってしまった時もありました。
それまでは、毎日学校へ行って、同じクラスの人たちとしゃべり、行動を共にしてきたのに、いきなりそういうことが全くなくなる時期に突入したのですから。
誰とも話さない時期がありノイローゼになりかけた時もありました(笑)。
しかし、それも慣れてくればどうってことないことになってくるのです。
それを一時の精神的な苦痛で、諦めてしまうのでは何事も成し遂げることはできないでしょう。
学者も、机に向かって何時間も坐っていなくてはならない、そして誰とも話さない時間が長く続くときがあるのです。
それが嫌と言っているようでは学者失格です。
学者のみならず、格闘家、その他稽古ことなどその道を極めるに関しても共通することです。
また試験のために真剣に取り組んでいる人も同様です。
自分とだけ向き合ってどうしたらいいか模索し、本などを読んで探り当ている。
そして、それを実際の場で行動していく。
そういうことができないならば、その道で物事を成し遂げることは無理でしょう。
伴侶や恋人がいる人、あるいは友人がいる人は、やはり、そういった人たちと交流するのは必須です。
いくら孤独な時間が必須とは言っても、まったく交流しなくていいわけではないのです。
大いにすべきでしょう。
しかし、相手が構ってくれなくて寂しいからといって、その人の孤独な作業からつまみ出そう、とするのは、その人の恋人や妻や友人としてふさわしくないです。

そういう時間が必須であるのを理解して、そういう時間を割くことを了承してあげるのが筋というものです。
否、そういう理解力のある恋人や妻、友人がいてくれるからこそ、自分は頑張れると思うのです。
それでこそ、その孤独な作業に勤しむことができる。
これは何も、恋人や妻、友人をおろそかにして、その作業に取り組め、と言っているのではないのです。
そういった人たちの心を汲むのを忘れずに、そういう作業に打ち込むべし、ということを言いたいのです。
恋人や妻や友人には2日や3日に1回は必ず会う。
毎日会えるならば会うべきでしょう。
連絡をメールやlineでやり取りを毎週あるいは毎月必ずする、ということだだいじです。
それならば、人間関係に差支えはないはずです。
私が大学時代に知って、今も敬愛している故.加藤秀俊氏(下写真)は、そういう互いに理解して切磋琢磨していける友人と伴侶がいたからこそ、学者としても名を揚げて、が国内外からも講演に依頼が来て、ラジオパーソナリティにも呼ばれて、対談集の1人としても呼ばれて、本でいくつかの賞を取ってこれたのでしょう。
そういう姿勢が、氏の本からひしひしと感じとることができます。
今日も、加藤氏の本を喫茶店で読んで、そのことを実感しました。
●そういう本物の学者の意義について読みたい方は、以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
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大学生や教授はシーズンオフから知的生産に取り組むべし?その方法は? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学生や大学の教授、そして著作家は、日々過ごす際に、知的な生産が不可欠です。
知的生産とは、いろんな媒体から得られる情報を自身の論文にいかに巧みに盛りこむかを問う作業といっていいでしょう。
本や雑誌、冊子、ラジオ、テレビ、ビデオ、DVD、その他もろもろから情報が出てくるわけです。
それをいかに自身の書く論文に巧みに取り入れて、読んだ人を魅了するものを書くか、という試みをしていくのが日常であるはずです。
大学に在学中に、そのことをよく私はしていました。
その際、感銘を受けた参考図書は、渡部昇一の『知的生産の生活』と外山滋比古の『知的創造のヒント』という本です。
この2冊は非常にわかりやすく、自身の励みになりましたし、シンプルだったのですぐに生活上に取り入れることができました。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)はこの2人とも交流があり、共著も出していました。

そして加藤氏も『整理学』という奇妙な題の本を出していましたが、その要旨は、前2者のような具体的な知的生産の方法を他にも出してくれたらいいのに、ということで出したようです。
いくら感銘を受けた本でも、読んだ後に全部を覚えていくことはできた話しではないので、必ずチェックを入れたり、感想を書いたり、自分が書く論文に使えそうな箇所があったらカードに書いて整理しておく、一気に書こうとせずに時間をある程度置くことでいい論文が書ける、ということでは、どの本も一致していました。
しかし、若干、違いはありましたが、それはそれでよしとしましょう。
そのどの部分を取り入れて、どの部分を取り入れないかは個人の自由であり、その過程で出来上がった論文の質は全部、書いた本人の責任に帰す、ということです。
やはり、そういう情報の取り入れによって人格を形成するのであって、どの情報を得るかで、その人の人生は変わるわけであって、どの宗教に入るかではない、というのがわかりますでしょうか?(笑)
その宗教にどっぷりと浸かってしまった人は、その宗教に入っていない人に向かって、「この宗教に入っていないからだ!」などということを言ってくるから信じれないのです。

そういう部分は皆無とは申しません。
であるならば、その宗教の基本的なスタンスを書いた本なり冊子なりを読んでみればいいのです。
それで入っていきたい、と思えれば入ればいいし、入りたくないと思ったら入らなければいいだけの事でしょう。
こちらが文盲で文字が読めないならば、話しは別ですが、文盲ではなく、きちんとその宗教についての本を読んで、それで自分には不要としているのですから、それでいいではないか?と思われてならないのです。
ちょっとそれましたが、良い論文を書くには、やはり日頃から知的生産をしていくことで成るわけです。
やはりシーズンオフからです。
一般的な大学生は1年間で10数個講義を取るようですが、それらすべてを年度最初から知的生産をおこなっていくべきではあると思いますが、そのためにはやはり長い時間をかけて理論を熟成させて、それで年末の試験に臨む、のが理想ですが、それがなかなか難しいですね(笑)。

遊びもしたいし、デートもしたい、バイトもしなくてはならない、サークルにも参加しなくてはならない…難しい(笑)
でも理想は日々情報に接して知的生産をしていくのが学生の務めであり、教授の務めでもあるはずです。
こういう生活に苦痛を感じない、感じないどころか、それが楽しくて楽しくて仕方ない、という人であれば学者や著作家として向いていると思います。
●その他、知的生産の資質について書かれてことについて知りたいなと思った人は、以下の電子書籍.ペーパーバックはおすすめです
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
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大学生や大学の教授、そして著作家は、日々過ごす際に、知的な生産が不可欠です。
知的生産とは、いろんな媒体から得られる情報を自身の論文にいかに巧みに盛りこむかを問う作業といっていいでしょう。
本や雑誌、冊子、ラジオ、テレビ、ビデオ、DVD、その他もろもろから情報が出てくるわけです。
それをいかに自身の書く論文に巧みに取り入れて、読んだ人を魅了するものを書くか、という試みをしていくのが日常であるはずです。
大学に在学中に、そのことをよく私はしていました。
その際、感銘を受けた参考図書は、渡部昇一の『知的生産の生活』と外山滋比古の『知的創造のヒント』という本です。
この2冊は非常にわかりやすく、自身の励みになりましたし、シンプルだったのですぐに生活上に取り入れることができました。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)はこの2人とも交流があり、共著も出していました。
そして加藤氏も『整理学』という奇妙な題の本を出していましたが、その要旨は、前2者のような具体的な知的生産の方法を他にも出してくれたらいいのに、ということで出したようです。
いくら感銘を受けた本でも、読んだ後に全部を覚えていくことはできた話しではないので、必ずチェックを入れたり、感想を書いたり、自分が書く論文に使えそうな箇所があったらカードに書いて整理しておく、一気に書こうとせずに時間をある程度置くことでいい論文が書ける、ということでは、どの本も一致していました。
しかし、若干、違いはありましたが、それはそれでよしとしましょう。
そのどの部分を取り入れて、どの部分を取り入れないかは個人の自由であり、その過程で出来上がった論文の質は全部、書いた本人の責任に帰す、ということです。
やはり、そういう情報の取り入れによって人格を形成するのであって、どの情報を得るかで、その人の人生は変わるわけであって、どの宗教に入るかではない、というのがわかりますでしょうか?(笑)
その宗教にどっぷりと浸かってしまった人は、その宗教に入っていない人に向かって、「この宗教に入っていないからだ!」などということを言ってくるから信じれないのです。
そういう部分は皆無とは申しません。
であるならば、その宗教の基本的なスタンスを書いた本なり冊子なりを読んでみればいいのです。
それで入っていきたい、と思えれば入ればいいし、入りたくないと思ったら入らなければいいだけの事でしょう。
こちらが文盲で文字が読めないならば、話しは別ですが、文盲ではなく、きちんとその宗教についての本を読んで、それで自分には不要としているのですから、それでいいではないか?と思われてならないのです。
ちょっとそれましたが、良い論文を書くには、やはり日頃から知的生産をしていくことで成るわけです。
やはりシーズンオフからです。
一般的な大学生は1年間で10数個講義を取るようですが、それらすべてを年度最初から知的生産をおこなっていくべきではあると思いますが、そのためにはやはり長い時間をかけて理論を熟成させて、それで年末の試験に臨む、のが理想ですが、それがなかなか難しいですね(笑)。
遊びもしたいし、デートもしたい、バイトもしなくてはならない、サークルにも参加しなくてはならない…難しい(笑)
でも理想は日々情報に接して知的生産をしていくのが学生の務めであり、教授の務めでもあるはずです。
こういう生活に苦痛を感じない、感じないどころか、それが楽しくて楽しくて仕方ない、という人であれば学者や著作家として向いていると思います。
●その他、知的生産の資質について書かれてことについて知りたいなと思った人は、以下の電子書籍.ペーパーバックはおすすめです
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知的好奇心が次々に分派していく人こそが学問に向いている? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学教授や著作家で、よくあるいけない例ということで、祖述だけの文章や引用ばかりの文章を書く人の例をあげました。
こういう人は、学問の何たるかがわかっていないのでしょう。
確かに情報収集はしているのでしょうが、それだけでなく、読んだ人の立場になって書けば、そういう論文は面白みがなく、読みづらくなってしまう、ということを理解できていないのでしょう。
読者の立場に立つ…やはり経験してくのが大事、ということです。
一度でもそういう文章に出くわしたら、そういう文章は自分は書くまい、と思うのが必然な気がするのですが。

そして今回は、自分の専門に閉じこもってしまうという例を挙げましょう。
専門に閉じこもる、ということは自分の専門にだけ夢中になってしまい、さらなる背景や理論についてのあくなき好奇心が欠けているということです。
私としては、1つの学問の本を読んだら、好奇心は多岐化していくのですが、他の人たちはそうなっていなかったですね。
そのことを学生時代に経験しました。
試しに知らない著作家の本を1冊読んでみる。すると面白い。そして、その著者の他の本で読んでみたいのを、背表紙を見てリストアップして、ワードに書き溜めておきます。
学生時代、私はパソコン音痴だったのでひたすら紙に書いていましたが(笑)。
そして、いまはそのリストを機会があったら本屋やネットで注文して買って読みます。
そして、その人と共著として出している人の本をもリストアップして本屋やネットで注文して買って読む。
それらの本の出版会社の総合目録をその出版社に取り寄せ願いのハガキを書いて投函します。
その総合目録が家に到着したら、そこにリストされている本をくまなくリストアップして機が熟したら注文し、来たら読む。
このように多岐化してしまいます。
宗教においても同じです。
富士門流(日蓮正宗、創価学会、顕正会)で唱えられている自我偈は、天台宗由来なのをある時、発見しました。

それは日蓮が生前に、天台宗の園城寺に行って天台宗を学び、そこで自我偈の必要性を認識し、自分の宗教を立宗するときに、それを取り入れたからです。
そして、曹洞宗の開祖である道元も、園城寺で天台宗を学び、そこで自我偈を気に入り、立宗の際に自我偈を取り入れました。
今、富士門流の中でも、そして日本の宗教の中でも傑出して信者数が多いのが創価学会です。
だが、その日蓮が必要性を唱えた自我偈は天台宗由来であることに驚きを隠せないでしょう。
私も驚きました。
親戚がなくなったときに、天台宗のお寺で葬式が行われて、その時に僧侶が経を読んでいた時、まん中の地点で、いきなり自我偈を唱え始めたのだから驚きを隠せなかったのです。
これはなぜなのかを知りたくて、色々調べていくうちに、この事実がわかったのでした。
信じれない人は、天台宗、日蓮正宗、曹洞宗の経本を取り寄せて見ているのがいいでしょう。
どの経本にも自我偈が入っているのです。

この事実を知った時に、興味関心がわいたのは、日蓮ではなく、日蓮が取り入れる気にさせた天台宗の偉大さであり、その教祖である最澄でした。
そして、同時代に活躍した真言宗の教祖である空海にもです。
そして、鎌倉時代以降、日蓮正宗および日蓮宗は、隆盛を極めましたが、その後、それらの宗教組織の退廃はまぬかれなかったのは、その手の歴史書を読めばわかります。
その時に反旗を翻して、日蓮の教えを道徳心をもって再興しようとしたのが本門仏立宗です。
この本門仏立宗にも興味があって調べたくなって、その内実を知るためにそれについて書いてある本も読みたくなる。
同じような、道筋をたどってきたのは浄土真宗も一緒なのです。
それをただ単に批判するのではなく、その内実を探求しながら、自分の人生に生かすために、その再興劇を知るのに最高なのは、やはり浄土真宗再興の父とうたわれた蓮如について書かれた本でしょう。
その蓮如についてもその半生を知りたくなり、それについて書いてある別の本も読みたくなります。
そして、親鸞を深く調べていくと、キリスト教からの影響があるという興味深い事実をある時知りました。
その内実を知りたくなって、それについて書いてある本を取り寄せて読むのです。
そして、聖徳太子の伝記を読むと、太子の死後3日経った後に蘇ったということが書いてある。

この内容を読むとキリストの復活劇と同じなのがわかる。
やはり、キリスト教からの影響が、聖徳太子が存命中だった当時の飛鳥時代にも存在していたのがわかり興味深くなるのです。
飛鳥時代といわれると、どうもアジア的な色彩の強い風景が浮かび上がってきますが、どうもそれは日本の教育によって違うイメージになってしまったのです。
当時から西洋的なものはそこかしこに反映されていたのがわかる。
その内実について探求していきたくなり、その手の本を10冊くらい読みたくなり、目録やネットで検索をかけてリストアップしていくのです。
このように、好奇心だけは芋づる式に分派していくようです私の場合。
こういうように好奇心が芋づる式に分派していく人は、学問を修めていて幸せでしょう。
そういう人は、次々に書きたい意識が出てきて、どんどん本を書いて出すのです。
そういう人は、決して宗教で言われていることだけに固執するわけではないので、決して1つの宗教に拘ることもないでしょう。

いろんな媒体から必須の事柄や情報を得て、それを自分の糧にしていけるので、宗教だけに救いを求めることはないのです。
そういう人も確かにある宗教に入っている場合がありますが、それでも急進的にはならないのが常です。
私は、これまでいろんな宗教の講義に参加したり、その本を読ませてもらいましたが、「この宗教に入りたい!」「この宗教の素晴らしさを人に伝えたい!」と思ったことは一度もないですね(笑)。
これから先も、そういう気概になることはないでしょう。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)もそういうスタンスでした。

その宗教の良さや意義は認めるけれども、それにだけにはこだわらない、ということです。
本やその他の媒体によって意義が習得できるのですから。
宗教ではその教祖の偉大さが喧伝されます。
創価学会ならば日蓮、曹洞宗なら道元、浄土真宗ならば親鸞といった具合に。
しかし、創価学会や曹洞宗…これらの宗教を生むきっかけになった天台宗やその宗祖がいたからこそ、それらの宗教の現在があるわけです。
そして、浄土真宗なら、その宗教の興隆の礎を築いたのちの世代の長=蓮如にも依っているのです。
そして、こういった仏教全般を創始したのは釈迦ですから、その偉大さにも注目しないわけにはいかないでしょう。
こういうモラルゆえに、私はどうしても1人の宗祖にだけ依拠することはできないわけです。
こういう脳内の意識の分派が自然とできていく人は学業を修めるうえで幸せでしょう。
そのことは、自分自身、非常に楽しいからこそ言っているのです。
そういう気分になれない人は、おそらく学問を修めてもつまらないでしょうし、学問を教授する立場になるべきではないでしょう。
そういう人はどうするべきかを認識して、行動に移すべきでしょう。
●そんなスタンスに興味ある人におすすめなのは以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
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ありがとうございました。
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大学教授や著作家で、よくあるいけない例ということで、祖述だけの文章や引用ばかりの文章を書く人の例をあげました。
こういう人は、学問の何たるかがわかっていないのでしょう。
確かに情報収集はしているのでしょうが、それだけでなく、読んだ人の立場になって書けば、そういう論文は面白みがなく、読みづらくなってしまう、ということを理解できていないのでしょう。
読者の立場に立つ…やはり経験してくのが大事、ということです。
一度でもそういう文章に出くわしたら、そういう文章は自分は書くまい、と思うのが必然な気がするのですが。
そして今回は、自分の専門に閉じこもってしまうという例を挙げましょう。
専門に閉じこもる、ということは自分の専門にだけ夢中になってしまい、さらなる背景や理論についてのあくなき好奇心が欠けているということです。
私としては、1つの学問の本を読んだら、好奇心は多岐化していくのですが、他の人たちはそうなっていなかったですね。
そのことを学生時代に経験しました。
試しに知らない著作家の本を1冊読んでみる。すると面白い。そして、その著者の他の本で読んでみたいのを、背表紙を見てリストアップして、ワードに書き溜めておきます。
学生時代、私はパソコン音痴だったのでひたすら紙に書いていましたが(笑)。
そして、いまはそのリストを機会があったら本屋やネットで注文して買って読みます。
そして、その人と共著として出している人の本をもリストアップして本屋やネットで注文して買って読む。
それらの本の出版会社の総合目録をその出版社に取り寄せ願いのハガキを書いて投函します。
その総合目録が家に到着したら、そこにリストされている本をくまなくリストアップして機が熟したら注文し、来たら読む。
このように多岐化してしまいます。
宗教においても同じです。
富士門流(日蓮正宗、創価学会、顕正会)で唱えられている自我偈は、天台宗由来なのをある時、発見しました。

それは日蓮が生前に、天台宗の園城寺に行って天台宗を学び、そこで自我偈の必要性を認識し、自分の宗教を立宗するときに、それを取り入れたからです。
そして、曹洞宗の開祖である道元も、園城寺で天台宗を学び、そこで自我偈を気に入り、立宗の際に自我偈を取り入れました。
今、富士門流の中でも、そして日本の宗教の中でも傑出して信者数が多いのが創価学会です。
だが、その日蓮が必要性を唱えた自我偈は天台宗由来であることに驚きを隠せないでしょう。
私も驚きました。
親戚がなくなったときに、天台宗のお寺で葬式が行われて、その時に僧侶が経を読んでいた時、まん中の地点で、いきなり自我偈を唱え始めたのだから驚きを隠せなかったのです。
これはなぜなのかを知りたくて、色々調べていくうちに、この事実がわかったのでした。
信じれない人は、天台宗、日蓮正宗、曹洞宗の経本を取り寄せて見ているのがいいでしょう。
どの経本にも自我偈が入っているのです。

この事実を知った時に、興味関心がわいたのは、日蓮ではなく、日蓮が取り入れる気にさせた天台宗の偉大さであり、その教祖である最澄でした。
そして、同時代に活躍した真言宗の教祖である空海にもです。
そして、鎌倉時代以降、日蓮正宗および日蓮宗は、隆盛を極めましたが、その後、それらの宗教組織の退廃はまぬかれなかったのは、その手の歴史書を読めばわかります。
その時に反旗を翻して、日蓮の教えを道徳心をもって再興しようとしたのが本門仏立宗です。
この本門仏立宗にも興味があって調べたくなって、その内実を知るためにそれについて書いてある本も読みたくなる。
同じような、道筋をたどってきたのは浄土真宗も一緒なのです。
それをただ単に批判するのではなく、その内実を探求しながら、自分の人生に生かすために、その再興劇を知るのに最高なのは、やはり浄土真宗再興の父とうたわれた蓮如について書かれた本でしょう。
その蓮如についてもその半生を知りたくなり、それについて書いてある別の本も読みたくなります。
そして、親鸞を深く調べていくと、キリスト教からの影響があるという興味深い事実をある時知りました。
その内実を知りたくなって、それについて書いてある本を取り寄せて読むのです。
そして、聖徳太子の伝記を読むと、太子の死後3日経った後に蘇ったということが書いてある。

この内容を読むとキリストの復活劇と同じなのがわかる。
やはり、キリスト教からの影響が、聖徳太子が存命中だった当時の飛鳥時代にも存在していたのがわかり興味深くなるのです。
飛鳥時代といわれると、どうもアジア的な色彩の強い風景が浮かび上がってきますが、どうもそれは日本の教育によって違うイメージになってしまったのです。
当時から西洋的なものはそこかしこに反映されていたのがわかる。
その内実について探求していきたくなり、その手の本を10冊くらい読みたくなり、目録やネットで検索をかけてリストアップしていくのです。
このように、好奇心だけは芋づる式に分派していくようです私の場合。
こういうように好奇心が芋づる式に分派していく人は、学問を修めていて幸せでしょう。
そういう人は、次々に書きたい意識が出てきて、どんどん本を書いて出すのです。
そういう人は、決して宗教で言われていることだけに固執するわけではないので、決して1つの宗教に拘ることもないでしょう。

いろんな媒体から必須の事柄や情報を得て、それを自分の糧にしていけるので、宗教だけに救いを求めることはないのです。
そういう人も確かにある宗教に入っている場合がありますが、それでも急進的にはならないのが常です。
私は、これまでいろんな宗教の講義に参加したり、その本を読ませてもらいましたが、「この宗教に入りたい!」「この宗教の素晴らしさを人に伝えたい!」と思ったことは一度もないですね(笑)。
これから先も、そういう気概になることはないでしょう。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)もそういうスタンスでした。
その宗教の良さや意義は認めるけれども、それにだけにはこだわらない、ということです。
本やその他の媒体によって意義が習得できるのですから。
宗教ではその教祖の偉大さが喧伝されます。
創価学会ならば日蓮、曹洞宗なら道元、浄土真宗ならば親鸞といった具合に。
しかし、創価学会や曹洞宗…これらの宗教を生むきっかけになった天台宗やその宗祖がいたからこそ、それらの宗教の現在があるわけです。
そして、浄土真宗なら、その宗教の興隆の礎を築いたのちの世代の長=蓮如にも依っているのです。
そして、こういった仏教全般を創始したのは釈迦ですから、その偉大さにも注目しないわけにはいかないでしょう。
こういうモラルゆえに、私はどうしても1人の宗祖にだけ依拠することはできないわけです。
こういう脳内の意識の分派が自然とできていく人は学業を修めるうえで幸せでしょう。
そのことは、自分自身、非常に楽しいからこそ言っているのです。
そういう気分になれない人は、おそらく学問を修めてもつまらないでしょうし、学問を教授する立場になるべきではないでしょう。
そういう人はどうするべきかを認識して、行動に移すべきでしょう。
●そんなスタンスに興味ある人におすすめなのは以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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今回はこれにて終わります。
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祖述だけ、引用ばかりの文章からは忌避せよ? (加藤秀俊)
こんにちは。
今回も、大学教授や著作家に求める人間像について書きたいと思います。
学問は理論を文章で書くことです。
その理論が書かれた本なり冊子なりを読んで、読者が感銘を受けて、その人の人生がいい意味で変わる。
そしてあわよくば、行動に駆り立てられることを目的にしているのです。
それゆえに、単なる理論の祖述だけであったり、他の本からの引用ばかりでは読んでいる人に感銘を与えることはできないのです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、そういう文ばかりを書く学生は多いし、大学教授といわれる人でも、そういうことをして生計を立てているパターンが多い、ということを氏の著作物で書いていました。

私も、そういう指摘に同意します。
私が属した大学には廊下に、学論集なるものが置いてありました。
それは教授たちの書いた論文を集めてペーパーバック状にして発行していたもので、それを学生は自由にもらっていってよかったですが、その内容を見ると、やはりそういう祖述だけ、引用ばかりの文章の方が多かったです。
祖述だけならまだしも、引用ばかりの文章では、読んでいるこちらは集中力が萎えるのです。
しかも、そういう文章を書く人は概して自分の主張なり考えなりを書かないのがほとんど、いや全部といってでしょう。
「この場合は〇〇(著作家の名)の以下の文章を読んでいただきたい。」と前置きして、その〇〇の他の本からの文を引用で逢着させるのです。
それでその教授の考えはなし…これでは味気ないことこの上ないのです。
そういう文章を書く人の本なり編著本は、本屋で見かけても買いたい気が起きないですね。
引用をするなといっているのではないのです。
所によっては、引用を書かなくてはならない場面もあることは確かです。
しかし、章の最初から最後までほとんど引用ばかりでは、学ぶところがないと自然にその人に烙印を押してしまうのが必然です。

私も文章を書いたり、書籍を書いたりしますが、その際に引用をする段になって、その時に思ったのは「この人の文章を引用すれば学術的な感じを読者に与えるだろう!」と、一瞬思うのですが、そういう引用ばかりの本を読んだ感想から「ちょっと待って。引用が多いと、読者は読みにくいし、集中力が萎える」と思い直して、引用ではなく、そこからかみ砕いて、自分の言葉に変えて、自分の色を添えて、なるべく引用しないでおこうと思いなおして文章にします。
そしてできた文章を読むと、全然読みやすいようになっていました。
引用ばかりの文章を書く人は、やはり読者の立ち場になっていないのです。
一度でいいから、そういう文章を読んで、自分の文章の矯正をしていくほうが賢明です。
読者に気遣いをしたらどうですかと言いたくなるのです。
引用ばかりでは読みにくいし、集中力が萎えてくるのに加えて、自分が意見をするなり、自分の立場を明確にすることにためらいをその著者は感じているのか、学をひらかしているのだろうか?
これだけのものを読んだんだぞ、ということを言いたいのだろうか?
あるいは自分に自信がないから、他の引用でごまかしているのだろうか?
といろいろ検索してしまうのですね。
いずれにせよ、引用ばかり、そして祖述だけの文章では読者な萎えてしまうし、読むのに一苦労です、ということを言いたいのです。
こういう文章を書く人からはほとんど、あるいは全然学ぶものがないですから注意が必要です。

私は、祖述だけ、あるいは引用ばかりの文章は読みたくなくなる。
これは、他人のふり見てわがふり直せ、ということわざ通りです。
私も完璧ではないですから、私の悪いところを見ながら、自分のモラルや人生を矯正してきた人もいるでしょう。
それを思ったら…いや実に恥ずかしい限りです(笑)
祖述だけ、引用ばかり…そんなスタンスとは逆に、加藤秀俊氏の本は、それとは一線を画し、壮大な気宇を有していました。
喫茶店に籠って、2時間3時間読んでしまう魅力に溢れていました。
●そんな加藤秀俊氏に興味わいた人に読んでほしい電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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今回も、大学教授や著作家に求める人間像について書きたいと思います。
学問は理論を文章で書くことです。
その理論が書かれた本なり冊子なりを読んで、読者が感銘を受けて、その人の人生がいい意味で変わる。
そしてあわよくば、行動に駆り立てられることを目的にしているのです。
それゆえに、単なる理論の祖述だけであったり、他の本からの引用ばかりでは読んでいる人に感銘を与えることはできないのです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、そういう文ばかりを書く学生は多いし、大学教授といわれる人でも、そういうことをして生計を立てているパターンが多い、ということを氏の著作物で書いていました。
私も、そういう指摘に同意します。
私が属した大学には廊下に、学論集なるものが置いてありました。
それは教授たちの書いた論文を集めてペーパーバック状にして発行していたもので、それを学生は自由にもらっていってよかったですが、その内容を見ると、やはりそういう祖述だけ、引用ばかりの文章の方が多かったです。
祖述だけならまだしも、引用ばかりの文章では、読んでいるこちらは集中力が萎えるのです。
しかも、そういう文章を書く人は概して自分の主張なり考えなりを書かないのがほとんど、いや全部といってでしょう。
「この場合は〇〇(著作家の名)の以下の文章を読んでいただきたい。」と前置きして、その〇〇の他の本からの文を引用で逢着させるのです。
それでその教授の考えはなし…これでは味気ないことこの上ないのです。
そういう文章を書く人の本なり編著本は、本屋で見かけても買いたい気が起きないですね。
引用をするなといっているのではないのです。
所によっては、引用を書かなくてはならない場面もあることは確かです。
しかし、章の最初から最後までほとんど引用ばかりでは、学ぶところがないと自然にその人に烙印を押してしまうのが必然です。
私も文章を書いたり、書籍を書いたりしますが、その際に引用をする段になって、その時に思ったのは「この人の文章を引用すれば学術的な感じを読者に与えるだろう!」と、一瞬思うのですが、そういう引用ばかりの本を読んだ感想から「ちょっと待って。引用が多いと、読者は読みにくいし、集中力が萎える」と思い直して、引用ではなく、そこからかみ砕いて、自分の言葉に変えて、自分の色を添えて、なるべく引用しないでおこうと思いなおして文章にします。
そしてできた文章を読むと、全然読みやすいようになっていました。
引用ばかりの文章を書く人は、やはり読者の立ち場になっていないのです。
一度でいいから、そういう文章を読んで、自分の文章の矯正をしていくほうが賢明です。
読者に気遣いをしたらどうですかと言いたくなるのです。
引用ばかりでは読みにくいし、集中力が萎えてくるのに加えて、自分が意見をするなり、自分の立場を明確にすることにためらいをその著者は感じているのか、学をひらかしているのだろうか?
これだけのものを読んだんだぞ、ということを言いたいのだろうか?
あるいは自分に自信がないから、他の引用でごまかしているのだろうか?
といろいろ検索してしまうのですね。
いずれにせよ、引用ばかり、そして祖述だけの文章では読者な萎えてしまうし、読むのに一苦労です、ということを言いたいのです。
こういう文章を書く人からはほとんど、あるいは全然学ぶものがないですから注意が必要です。
私は、祖述だけ、あるいは引用ばかりの文章は読みたくなくなる。
これは、他人のふり見てわがふり直せ、ということわざ通りです。
私も完璧ではないですから、私の悪いところを見ながら、自分のモラルや人生を矯正してきた人もいるでしょう。
それを思ったら…いや実に恥ずかしい限りです(笑)
祖述だけ、引用ばかり…そんなスタンスとは逆に、加藤秀俊氏の本は、それとは一線を画し、壮大な気宇を有していました。
喫茶店に籠って、2時間3時間読んでしまう魅力に溢れていました。
●そんな加藤秀俊氏に興味わいた人に読んでほしい電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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教授として目指すべきは、憧れの感情を維持している人ともう1つは…? (加藤秀俊)
こんにちは。
今回は大学教授や著作家に求める文に関する内容を書いていきたいです。
こういった人たちは、絶えず情報収集をしているのが日課になっているのです。
新聞、ラジオ、ネット、本、雑誌、ジュリスト、冊子…その他、諸々です。
自分の専門の科学、例えば経済学の教授であれば、その手の情報を摂取するわけですが、その他の科学、例えば社会学、人類学、法学、文学、宗教学といった他の学問についての本などを読んでいる例は稀なのでしょうか?
経済学とは関係なさそうな分野でも、その手の本を読んでいることで、自身の専門に役立つ情報が得れたりするのです。
それは私が大学時代に経験しました。
ですから、こういった本も主体的に読んでいくことで、楽しい情報収集になるのである、ということが敢然と言えるでしょう。
そういう意思で本を読むことで、良い情報が得れる。
しかし、他の領域からは学ぶものがないと頭から決めつけながら、他の領域の本を読んでいると、よき情報は素通りして終わってしまうのです。
これではもったいないな、と感じる次第です。
他の領域からも自分の専門を高次に肉付けできる、という意思で読書なり情報収集していると、良いものがたくさん得れるのです。
いろんなテーマで本を書こうと思っている人ならば、いろいろな本を読み、いろんな情報を得ることで、それぞれの書きたい本のテーマに使える情報がいろいろ出てくるわけです。
私の場合、いろんな本が読みたいわけで、いろんなモノを濫読しまくっているのですが、その過程において、「これは〇〇に使えそうだ!」という例がいくつも出てきます。
それを逐一、脳内にインプットして、暗記し続けるのは不可能…少なくとも私はそうです(笑)
なので、良い情報に出くわしたら、その書きたい本のテーマ別にチェックしておくのです。
例えば、Aという表題の本を書こうと思っていて、それにふさわしい情報が得れたら、その文章に線なりを引いて、Aと書いておくのです。
そして、それを帰宅後、ワードに書いておくのです。
それは、本の題名とそれがあったページをメモしておくのか、その文章をそっくりそのままワードに書いておくのかはケースバイケースです。
こういう方法について詳しく知りたい人は、渡部昇一著の『知的生産の生活』を読んでみるのがいいでしょう。
問題意識があって本を書くという意思があるかないかで、読書や情報収集において集中力違ってくるのです。
別に本など書く気はない。
ただ講義をしているだけでいい、という教授があまりにも多かったと私は自分の大学時代に思いました。
あるいは、大学の教員を目指したのは、世界的に有名な学者に憧れていたがためなのにも関わらず、普通に講義をしているだけで大金が入ってくるようになると、いつしかその憧れの気持ちを忘れてしまい、本など出さないまま、出しても35年間の中で1冊くらいしか書かないで終わってしまうパターンは散見されます。
そうなると、情熱も低くなっていますから、本を読んでもこういった知的生産などしないまま過ごしてしまうのではないでしょうか?
それでもその教授はいいんです。
大金が入ってくるんですから。
文系の大学に入るためには、初年度で1300万円前後、次年度からは100万円を3年間で計430万円程度がかかるのです。
大学の講義の1コマは3000円程度する計算になります。
高いところは、4000円くらいします。
断言します。
大学の講義に、そんな価値はないと(笑)。
100人の受講者がいる講義は、3000円×100人で300000円になりますが、そっくりそのまま300000円が教授に入るわけではないですが、かなり高額の給料をもらっているのは間違いないでしょう。
全然苦労しないのに大金が入ってくるのだから、講義もいい加減で、毎年毎年同じ講義ノートを読んでいるだけで終わり、というパターンも往々にしてあるでしょうし、いっぱい見てきました。
時間もお金もたくさん入る…そして学問にあこがれを抱いて教員を目指した。
ならばどの教授も、研究しまくりの本出しまくり…そうはならないですね(笑)
研究しまくる教授は本当に研究しまくって、35年間で本を100冊くらい出したりします。
桑原武夫、吉本隆明、堺屋太一、外山滋比古、渡部昇一等々、こういう人物に大学教授の誰しもなるかといえばそうはならないようですね(笑)
哀しいながら…。
やはり、大学の教員は研究しまくりになる人と、怠惰なまま終わってしまうパターンと両方あり、片方だけ(研究しまくりになる人)になるようにはならないですね。
それはその人の意思だけではなく、人生観に依っている気がします。
専門分野だけに拘らずに、いろんな分野から学ぼうという謙虚な姿勢を持っている人ですね。
こういう人こそが、学者として成功しているのは目に見えているでしょう。
どうか怠惰な教員の真似はせずに、研究しまくりの教員を目標にして学業を誰しも修めていってほしいものです。
そんな研究しまくりの好例として社会学者の加藤秀俊氏(故人、下写真)を紹介しておきたいと思います。
この人も、自分の専門だけに拘らずにいろんな分野に食指を伸ばしていったのです。
そして書いた文章の壮大さには目を見張るものがあったことは確かです。
●そんな加藤秀俊に興味がわいた人に読んでもらいたい電子書籍.ペーパーバックは以下です。
読者に気遣いをしろと言いたくなる。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
今回は大学教授や著作家に求める文に関する内容を書いていきたいです。
こういった人たちは、絶えず情報収集をしているのが日課になっているのです。
新聞、ラジオ、ネット、本、雑誌、ジュリスト、冊子…その他、諸々です。
自分の専門の科学、例えば経済学の教授であれば、その手の情報を摂取するわけですが、その他の科学、例えば社会学、人類学、法学、文学、宗教学といった他の学問についての本などを読んでいる例は稀なのでしょうか?
経済学とは関係なさそうな分野でも、その手の本を読んでいることで、自身の専門に役立つ情報が得れたりするのです。
それは私が大学時代に経験しました。
ですから、こういった本も主体的に読んでいくことで、楽しい情報収集になるのである、ということが敢然と言えるでしょう。
そういう意思で本を読むことで、良い情報が得れる。
しかし、他の領域からは学ぶものがないと頭から決めつけながら、他の領域の本を読んでいると、よき情報は素通りして終わってしまうのです。
これではもったいないな、と感じる次第です。
他の領域からも自分の専門を高次に肉付けできる、という意思で読書なり情報収集していると、良いものがたくさん得れるのです。
いろんなテーマで本を書こうと思っている人ならば、いろいろな本を読み、いろんな情報を得ることで、それぞれの書きたい本のテーマに使える情報がいろいろ出てくるわけです。
私の場合、いろんな本が読みたいわけで、いろんなモノを濫読しまくっているのですが、その過程において、「これは〇〇に使えそうだ!」という例がいくつも出てきます。
それを逐一、脳内にインプットして、暗記し続けるのは不可能…少なくとも私はそうです(笑)
なので、良い情報に出くわしたら、その書きたい本のテーマ別にチェックしておくのです。
例えば、Aという表題の本を書こうと思っていて、それにふさわしい情報が得れたら、その文章に線なりを引いて、Aと書いておくのです。
そして、それを帰宅後、ワードに書いておくのです。
それは、本の題名とそれがあったページをメモしておくのか、その文章をそっくりそのままワードに書いておくのかはケースバイケースです。
こういう方法について詳しく知りたい人は、渡部昇一著の『知的生産の生活』を読んでみるのがいいでしょう。
問題意識があって本を書くという意思があるかないかで、読書や情報収集において集中力違ってくるのです。
別に本など書く気はない。
ただ講義をしているだけでいい、という教授があまりにも多かったと私は自分の大学時代に思いました。
あるいは、大学の教員を目指したのは、世界的に有名な学者に憧れていたがためなのにも関わらず、普通に講義をしているだけで大金が入ってくるようになると、いつしかその憧れの気持ちを忘れてしまい、本など出さないまま、出しても35年間の中で1冊くらいしか書かないで終わってしまうパターンは散見されます。
そうなると、情熱も低くなっていますから、本を読んでもこういった知的生産などしないまま過ごしてしまうのではないでしょうか?
それでもその教授はいいんです。
大金が入ってくるんですから。
文系の大学に入るためには、初年度で1300万円前後、次年度からは100万円を3年間で計430万円程度がかかるのです。
大学の講義の1コマは3000円程度する計算になります。
高いところは、4000円くらいします。
断言します。
大学の講義に、そんな価値はないと(笑)。
100人の受講者がいる講義は、3000円×100人で300000円になりますが、そっくりそのまま300000円が教授に入るわけではないですが、かなり高額の給料をもらっているのは間違いないでしょう。
全然苦労しないのに大金が入ってくるのだから、講義もいい加減で、毎年毎年同じ講義ノートを読んでいるだけで終わり、というパターンも往々にしてあるでしょうし、いっぱい見てきました。
時間もお金もたくさん入る…そして学問にあこがれを抱いて教員を目指した。
ならばどの教授も、研究しまくりの本出しまくり…そうはならないですね(笑)
研究しまくる教授は本当に研究しまくって、35年間で本を100冊くらい出したりします。
桑原武夫、吉本隆明、堺屋太一、外山滋比古、渡部昇一等々、こういう人物に大学教授の誰しもなるかといえばそうはならないようですね(笑)
哀しいながら…。
やはり、大学の教員は研究しまくりになる人と、怠惰なまま終わってしまうパターンと両方あり、片方だけ(研究しまくりになる人)になるようにはならないですね。
それはその人の意思だけではなく、人生観に依っている気がします。
専門分野だけに拘らずに、いろんな分野から学ぼうという謙虚な姿勢を持っている人ですね。
こういう人こそが、学者として成功しているのは目に見えているでしょう。
どうか怠惰な教員の真似はせずに、研究しまくりの教員を目標にして学業を誰しも修めていってほしいものです。
そんな研究しまくりの好例として社会学者の加藤秀俊氏(故人、下写真)を紹介しておきたいと思います。
この人も、自分の専門だけに拘らずにいろんな分野に食指を伸ばしていったのです。
そして書いた文章の壮大さには目を見張るものがあったことは確かです。
●そんな加藤秀俊に興味がわいた人に読んでもらいたい電子書籍.ペーパーバックは以下です。
読者に気遣いをしろと言いたくなる。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム