大塚久雄 『社会科学の方法』
大塚久雄という人は、文系大学にいった人にとっては必ず聞く名前ではないでしょうか?
この人のマルクス研究やウェーバー研究には奥深いものがあり、それでいて非常にわかりやすく述べられていて、簡潔に社会科学の理念を確認できると同時に、社会科学をもっと深く学んでみたい、という気にさせるに十分なオーラを感じざるをなかったですし、今もこの人の著作を時間が許す限り読んでみたいと思い、この人の買いたい著作のリストが、どのショップにも往々にしてたくさんあります。
正直、マルクス(下写真)やウェーバーの著作は翻訳でも、結構難しい言葉で書いてあるので、理解ができない箇所がたくさんあります。
しかし、大塚久雄氏がそれらの本を読んで理解して、それを提示した本のほうがかなり読みやすく、興味を深く掻き立てられる気がするのは私だけでしょうか?
事実、大学時代に大塚久雄氏の『社会科学の方法』を読んで、「社会科学ってこんなに楽しいものなの!」と思い、この人の著作はもちろん、その他いろんな社会科学に関する本を多数読んでいったのを覚えています。
経済学や経営学といった文字を読むと何やら無機質な、金だけが全面に出てくる感じがしました、大学に入った当初は。
しかし、この大塚久雄氏の『社会科学の方法』という本を読んでそうではないことがわかりましたし、社会科学の主体は人間の心であり、その行動様式を探求することであることがわかって安堵の気持ちになったのでした。
どういうことをすればお客は喜ばれるか?
どういう場所に店を構えればお客さんがきてくれるか?
お客さんが飽きてしまったらどうしたらいいか? お客さんが来なくなったらどうすればいいか?
こういったことを把握するのが経営学ですが、それはやはり人間の心を把握しないことにはできた話しではないのです。
経営学…こういった堅苦しい文字を読んで忌避するのではなく、まずは経営の現場に出て、その様相を観察することがいいでしょう。 もしくはテレビ番組を見るのでもいいでしょう。
昔、『マネーの虎』という、5人の社長の前で起業希望の人がプレゼンをして投資をしてもらうという番組で、そこに出ていた社長の投資したい人のモラルとして、「正義感と社会貢献という2つのキーワードを持っている人」というパターンもあれば、「信念とフロンティアスピリッツを持っている人」というパターンがありましたし、投資希望者の心を問うときに、まず最初に儲かることを前面に出している人はくぎを刺されていたし、癒しの雰囲気を持っている人に投資したいという気持ちが往々と漂っていた感じがしました。
また、「貧乏脱出大作戦」という貧乏になってしまった飲食の自営業者が、売れている飲食店の店長の下で修業して、立て直すという趣旨の番組で、某日本料理屋のオーナー社長が修行希望者に向かって「僕は儲けようと思って経営していないから。」と言っていたのを思い出します。 もちろん、利益を上げないことには店も経営できないし、自分も生活できない。
しかし、最初に儲けようと思って始めるとうまくいかない。
お客さんに喜んでもらおうという気概が先にありきでないことには失敗する、ということでしょう。
これは起業に関するモチベーションの議論を醸し出しますし、これから起業することを考えている人にはそのヒントや、脳内に入れておいたほうがいい面を含んでいるように思います。
しかし、そういった精神を今のアメリカ人のほとんどが忘れられているような感じがするのでしょうか。 そんな議論が、持ち上がる機運を感じざるを得ないですね。
仕事に必死になって打ち込むというプロテスタンティズムの禁欲主義が資本主義のエートスであると、マックス.ウェーバーは喝破したのです。
そのことを書いた本が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』になります。
その議論が注目を浴び、世界中でこの本は読まれているのですし、私の文系大学での4年間において、毎年必ずいずれかの教授がウェーバー(下写真)を引き合いに出していたのです。
しかし、その精神がアメリカでは失われてしまい、その精神の行きつく先が、モノづくりだったはずですが、その製品は粗悪で、どの国のものにもアメリカは負けているのです。
それのみか、アメリカは、持てる者と持たざる者の収入の差が、世界で一番小さいレベルだった第二次世界大戦後、その差は拡大していく一方で、金融工学を駆使して売り抜けて巨万の富を築いた人が勝ち、という社会に変貌してしまったのです。
日本も同じように格差は拡大し、一億総中流国家といわれた面影はもうないです。
それをいいことか悪い事かは、各人で考えて結論を出してもらいましょう。
しかし、アメリカと違って日本はモノづくりにおいては、いまだに世界を牽引しているのです。 ゆえに、輸出立国である事実は依然としているのです。
そういう様相を呈して変貌した現代社会において、どのような社会を目指すべきなのか?
そんな中で自分はどうすればいいのか?
こういった抽象的ですが、根源的な問題について深く考察するには、凄く大量の本を読み、資料を読み研究を重ねていかなくてはならないでしょう。
しかし、最も基本的な理論を学んで先に進まなければ土台の薄れた支離滅裂な議論に逢着してしまいます。
そうならないためには、瞠目すべき古典的な名著の理論を学んでから先に進む必要があるでしょう。
その際にお勧めできるのは、この大塚久雄の『社会科学の方法』になります。
●非常にお勧めです!
| 社会科学の方法 ヴェーバーとマルクス (岩波新書) [ 大塚 久雄 ] | ||||
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親鸞はすでに古代において日本に伝わっていた基督の教えを学んで悪人正機説を創設した? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
自分だけが周りの人間と違うことをするのは、古今東西、難事であることは共通のようです。
周りの人間と違うことをするだけで、変人のような、屁理屈じみた人間というレッテルが張られて、精神的に苦労してしまう…。
しかし、それを継続していくうちに、その行為が波風たてないで民衆に認知されると、その行為が実は素晴らしい行為だったと認められていくのです。
親鸞は隠遁生活を送るのではなく、民衆の中に入って布教していったのです。
それが端緒になって、親鸞の教えを受持する団体が真宗王国とまで言われるようになったのはもとより、今、浄土真宗の信徒は日本で一番多い宗教信徒なのです。
鎌倉時代の仏教界では、鎮護国家のためにお祈りをして、死者を弔えば、それだけで僧侶は生活していけたのです。
しかし、当時は、戦乱の世でもありましたし、それまでの人間の観念だけでは到底、収支のつかない時代の変遷の真っただ中だったのです。

人を殺してはならない、生物を殺してはならない…これは古代仏教からの教えだったのです。
しかし、ひとたび魚が食べれるという概念が人類に流布されてしまえば、それを食しないわけにはいかなかったでしょう。
しかも、戦乱の世で、民衆は相手を殺さなくてはならない、そうでなければ生活していけない事態になってしまったのでした。
古代仏教では禁忌とされていた行為をしなくては、生活していけない。
そこで、親鸞は、こういう行為を行わなければいけない民衆のために、阿弥陀仏に縋れば救われる、という浄土の法を説いたのです。
生物を殺さなくてはいけない悪人、人間を殺さなくてはいけない悪人…親鸞はそういうように民衆を認識したのです。
でもこういった人たちでも救われると説いたのです。
これが親鸞の説いた悪人正機説の主だった認識だったのです。
誰もがはじめはこれを聞けば「悪人でも救われる…何たる怪しからん法だ!」と憤っただろうと思います。
こういう誤解を招くがゆえに、信徒たちには、悪人正機説を説くなと親鸞(下写真)はいったのだそうです。

しかし、自分の法を学びたい人には進んで説いたということです。
また親鸞は、他の宗教の媒体からも人を得て、この悪人正機説を展開したのです。
「誰もが罪を犯している」「義人はこの世にひとりもいない」…何となく聴いたことはないでしょうか?
そうです、キリストの聖書です。
それはすでに、6世紀の昔に日本に渡ってきていたのです。
それを親鸞も読んでいたのが明らかになっているのです。
それは西本願寺に今も眠る『世尊布施論』(下写真)という名の聖書が親鸞が読んだとして保管されているのです。

それが、元になったのは言うまでもないのです。
日本史の教科書では1495年のスペイン、イエズス会の宣教師.フランシスコ.ザビエルが日本に来たのがキリスト伝来の始まり、ということになっていますが実際はこれは誤りなのです。
しかし、古代においてキリスト教が日本に伝わり、それが仏教の開祖の支柱になっていた、というのは驚きですね。
いま、そのキリストの教えを元にして、新たな宗派を作ろうと努力しても無理でしょう。
巷には、いろんな本がありますし、いろんな人がいろんな宗教に帰依している。
やはり、宗教の広まりは陣取り合戦の様相を呈しており、早ければ早いほどその教えが入り込む余地が大きいということです。
こういった事象は、歴史を垣間見ると面白いですね!
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本尊に縋ることで救済された。しかし、その本尊は完璧?そんなことはないです。 (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
人間の言論にはいつの時代でも、考えさせられる内容を含んでいて、それについてついつい思考を巡らせて、その言論に対して自分の意見はどうだということを考えてしまいます。
本を読んでいて、以下のような文章に会いました。
「近代以降、ヨーロッパでは、知は力なりという、知が社会を変えられるという認識がある。
本当にそうだろうかという問いが起り、その際、親鸞の他力本願に沿うと全身から救われた。」
という文章がありました。
これは著作家の田口ランディ氏の言葉ですが、それはなるほどと思いました。
人間の中にある可能性を広げる思想が、いわゆる中世ヨーロッパの啓蒙思想だったわけです。
それが根幹にあってこそ科学が発達して、そして人間は精神的にも物質的も豊かになることができたことは間違いないです。
しかし、ここまで来た研究結果により、「人間ならば何でもできる」という思想には限界があった、ということですね。
それは認識すべき議論であることは間違いないです。
どんなに科学が発達しても、人間が地球を創ることなどできた話しではないですし、地震を止めることも出来ないです。
その他不可能なことは挙げればいくらでもできるでしょう。
やはり、人間には深い可能性があって、頑張れば何でも出来る、という思想自体が間違っていた、ということでしょうし、その通りでしょう。
その何でもできる、という思想が吟味されることなく、とにかく猪突猛進になって行動することだけがよしとする思想文化にあきれ果てた人が、こういう社会思想に疑問を抱き、そして批判を表明する、ということでしょう。
やはり何事も、わき目もふらずに行動し続けることは良きことでも、し過ぎはよくないですし、それについて吟味は必須です。
その際に、思想を矯正するいろんな解決策を求めるのも、また人間の普遍的な原理という気がします。
先の思いを表明した田口ランディ氏は、浄土真宗の阿弥陀仏に縋ることで、その気持ちが晴れたということです。

私としては「そういう手段もあるんだ…」ということでしたが、何はともあれ、そういう精神の回復がなされた事には万般の拍手を贈りたいというのが正直なところです。
人間は、人智を超えた存在に縋ることで救いを得ることができるのは、古今東西変わらぬ事実のようです。
その救われた経験から、身の回りにいる人に、その対象を教えて、その人にも縋ろうと勧める。
それによって、精神が救われた気になり、風光明媚で明鏡止水な気分になる。
これ以上の至福な気分はないということでしょうか。
「自分の力でいつでも善をなしうると思っている人は一心に本願をたのむこころが欠けているのだから、阿弥陀の本願に沿うものではない。
しかし、そのような善人も自力の心を妄念であると気づいて本願力にすべてを任せることが出来るならば、阿弥陀如来の真実の世界へ生まれることが出来るのである。」
こうしたためたのは親鸞(下写真)ですが、この人は、仏道に入ったきっかけが天台宗の延暦寺だったのですが、その内容について主に教団のシステムに対して疑問を抱き、その天台宗の崇めの対象であった釈迦如来ではなく、阿弥陀仏に縋ることで精機を見いだしたのだといます。
こうなると、やはりこれこそが信仰の対象と思い、とにかく猪突猛進になって、その教えを衆生におしえたくなり、いや教えなくてはならないという気持ちになり、誰が頼んだわけでもなく、当時の政府だった朝廷からいわれることもなく自主的に布教に励んでいったのです。
まさしく使命感というものの強さには敬服せざるを得ないものです。
このように、先に挙げた田口ランディの言葉にせよ、親鸞の生涯にしろ、興味があったら覗いてみてはどうかという気にはなります。
しかし、啓蒙思想が全て誤りだったわけでもありません。
啓蒙思想によって人類が救われた部分も多かったし、今の人たちもそうです。
親鸞の思想が今になってその良さが認識されたとは言っても、万能の宗教など、この世に存在しないということは自明の理です。
あまりに猪突猛進すぎると、その良さばかり議論の俎上に上り、欠点に関してはおざなりのままで終わってしまう可能性が大いにありますから注意が必要です。
そのことを認識した上で、宗教に入り、そのことを頭の片隅に置いたまま吟味しながら接していくことが現代人には求められるのではないでしょうか?
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鎌倉時代に形成された親鸞の思想は現代では必要ない?いな、凄く必要である! (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
人の思想というのは、自分の経験から導き出されるものであることは間違いないです。
やはり、自分が経験してきたこれまでの人生において、非常につらいことが多かった人は、それを克服するための方策や、思想を心の中で形作るのです。
同じような経験があった人には、そういうようにしてできた思想というのは、非常に共感が寄せれるものであることはいうを待たないのです。
どの文系大学でも神のように崇められていたドイツの総合社会科学者だったマックス.ウェーバー(下写真)の遺した言葉で、「不幸とは、未来の価値が逆転すること」であるとしたのです。
ここの箇所を引用する学者も多い事でしょう。
やはり、そういう経験を、第二次大戦時にしてきて実感できた人が多いからこそ、共感できるのでしょう。
マックス.ウェーバーはまさにその時代を生きた大学者だったのです。
その大戦後に、西田哲学なる派閥も出来たほど有名な西田幾多郎は京大で講座を持っていて、その西田哲学を学びたいからといって、京大を受験しに行った人も多かったようです。
こんにちほど医療やエアコンの技術が発達していなかった当時、肉親の多数の死を目にしてきたからこそ悲哀に満ちた経験をしてきたからこそ、そういう感情が土台になった西田哲学が多数の人間に共感をもって向かいいれられたのは間違いありません。
また、そういう悲哀の感情が土台になっているのは仏教の始祖である釈迦も一緒なのです。
また、鎌倉時代の仏教の弘教者であった親鸞も西田幾多郎や釈迦と一緒だったのです。
親鸞の肉親が戦災で死に、子供が病気で死ぬ。飢餓で死ぬのです。
そんな経験を悲哀で迎えて親鸞は、どうしたらそれらを味わっている衆生の精神を救うことが出来るか?を念には念を入れて試行錯誤して形作っていったのでした。
その結果できた哲学が、のちに浄土真宗といわれる仏教派閥を形成されることになる思想の形成につながったのでした。
それが、真宗王国とまで言われる大きな一帯にまで広がり、ひいては今では信者が一番多い宗教団体にまでなったのでした。
私は、いま日本で一番大きい宗教団体は創価学会だとばかり思っていたのですが実際は浄土真宗だったのを知って驚きでした。
今は、医療も発達して、食料も有り余っている。
そして、普通に働けば普通にエアコンなど買える時代です。
ゆえに、そんな時代に親鸞が形成した哲学の集大成である浄土の思想など受けいれられる余地は少ない、と思われがちですが、そういった一面だけでは語りつくせないほど奥の深い魅力が、親鸞及び浄土真宗にあるからこそ、このような事態になっているのでしょう。
また、哲学者といわれるニーチェは、現代の神なき時代において、宗教なしで生きれるのは超人だけであるとしたようです。
それほど、人間というものはいくら便利な時代にあっても、宗教心が必須であることを示唆してくれているのです。
そういった浄土の思想だけでなく、日々の心の糧になる気宇の増大した思想でした親鸞の思想は。
今読んでも参考になるものです。
それはどんな思想か?
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悪人正機説は親鸞だからこそ弘まった? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
カリスマ的な人というのは、その人の発した言葉を聞いた大勢の人が、「この人の言ったことはどんな意味があったのだろう?どういう意図で言ったのだろう?」という疑問をいだかせて、それを自身だけや周りの人間たちに考えさせてしまう力を持った人の事をいうのでしょう。
鎌倉時代にいろんな仏教が派生しましたが、その中でひときわ目立っていたのが親鸞です。
この人は「悪人でさえも救われる」といったのですから。
普通の認識であれば、悪人も救われるなどと言おうものならば、「何たるけしからぬことか?」と異端に思われるのが普通です。
しかし、そうにはならずに、今も親鸞の宗教である浄土真宗は日本各地に広まり、日本で最高の人数の信者を有する団体になっているのですから。
私はてっきり創価学会が一番多いのかと思っていました。
でも実際はそうではないのです。
しかし、悪人正機説…これはどんな意義があるのでしょうか?
古代仏教では、人や動物を殺すことは厳に戒められていたことなのです。
しかし、親鸞(下写真)の生きた鎌倉時代には戦は頻繁に起こり、しかも、魚や生物を殺して食べるのがまかり通っていた時代に変貌してしまっていたのです。
それならば、それは致し方ない事として、恩赦を受けるべきという思想が出てもおかしくはないでしょう。
そこで、そういう古代仏教で戒められていた殺しを容認する必要があったのです。
人の見えていないところで、こういう殺しをしても、阿弥陀仏はみていらっしゃる。
それで当時の時代を生きる民衆をすべて悪人と規定したのです。
それゆえに、悪人正機説という言葉が生まれたのです。
私のようなカリスマのない人間が「悪人でも成仏できる!」などと言おうものならば、「何を言っているんだこの人は…」といった感じで、誰からも鼻で笑われて終わりだったでしょう(笑)
しかし、こと親鸞に至ってはそんなことなく、いろんな人が親鸞の言葉の研究に勤しんでいったのです。
しかも、親鸞の遺した言葉は難解なものが多かったのです。
それは、こんにちのように東京弁が日本の標準語と規定されていなかった時代で、今よりも多くの地方弁があったがゆえに、という理由ももちろんあります。
しかし、それにもめげずに、いろんな人が親鸞の遺した書物を解き明かす努力を重ねていったのです。

しかも、親鸞の書物用の辞典まで発行されて今も販売されているというから驚きです。
やはりカリスマ性を秘めた人の言葉には、大勢の人にそんな努力までさせてしまう威力を秘めているのがわかります。
親鸞曰く、「他人のことではなく、あくまで自分が悪人なのだ、その自覚こそが仏性の顕現。」ということです。
当時の仏教界では間違いなく前衛でした。
親鸞は新しい言葉は使わず師である法然からもらった言葉に新しい意味を吹き込んで、阿弥陀仏の教えを革新的に展開させていった、というのが通常言われる内容ですが、やはりそっくりそのまま伝えるのではなく、自分の言葉で伝えるということは不可避だったのでしょう。
そっくりそのまま浄土宗のような感じにはならなかったようです。
ゆえに、明治期に宗教法人登録の際に浄土宗ではなく「浄土真宗」という名称になったのでしょう。
これまであった既存のものに自分で得た概念を取り込んで、さらに昇華させる…これは自身の宗教を興した開祖といわれる人たちの共通点なのです。
道元であろうと、栄西であろうと、日蓮であろうと一緒なのだ。
ゆえに、こうして哲学を形成してきた開祖に倣うように、いろんな本が安手で入手できる現代ゆえに、いろんな本を濫読していけばいいではないか、といったことを宗教にドはまりしている知人に言うのですがなかなかわかってくれません(笑)。
いろんなものを万般に学んで自身の哲学を形成するということは、鎌倉時代にはできた話しではなかったのです。
紙自体がかなり貴重なもので一般民衆にはできた話しではなかったのです。
ゆえに、日蓮は「私の言ったことだけを実践すればいい」と弟子や信徒たちに言ったのでしょう。
そういう時代背景を考慮に入れずに、ひたすら開祖の言ったことだけを学び、そして日々実行していくだけでは人生が晴れることはないでしょう。
鎌倉時代には存在しなかった概念や観念が山ほど発生しているのですし、それらに開祖の言ったことだけに依拠していけば必ず晴れるといったようなことは考えにくいからです。
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現代社会は現代の利器と宗教の両方を使うことで現状を打破できる? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
どうも現代人にとって宗教というものは疎遠になりがちです。
それは仕方ないという面も多分に含んでいることは否めません。
宗教的なことに縋らなくても、普通に暮らせて行けるからでしょう。
しかし、私は物事がうまくいかない場合に、宗教面を無視した方策を探すのではなく、もっとマクロな視点で、方策を探す方がメリットはあるのではないだろうか、という気がしてならないのです。
事業が上手くいっている場合、その会社のオフィスには神棚がある、ということがよくあります。
また、人間関係もビジネスもうまくいっている人は、やはり墓参りを欠かせていない、ということも指摘しておくべきでしょう。
やはり、人智を超えた存在に対して畏敬の念を持つ、あるいはそういったものに対してまで、大事にするという姿勢が重要であるということでしょう。

やはり物事は、いろんなものが連なって、出来ているのですから、その構成するもの全部を大事にすることは当然でしょう。
そういう姿勢がない人は、やはり忌避したくなるでしょう。
ある仲間とはフレンドリーに接するけれども、そうでない人にはまるでぞんざいに扱うシーンをみたら、その人の店で物を買いたい、と思うでしょうか?
思わないですよね。
それと一緒で、過去世といったものまで、視野に入れて人生を生きていく姿勢は必須ではないでしょうか?
誰でも。
そうでなくては、これから先の人生を暗澹としたものに変わる可能性も否定できないでしょう。
浄土真宗の親鸞(下写真)が言った言葉に、「兎や羊の毛の先にある塵のような小さい罪を犯すのも、すべて思いを超えた無限の因縁が背景にあると感知すべきである。」 というものがあります。
これは宗教を忌避している現代人には新たな視点が得れるような目の覚めるようなものではないでしょうか?
見えるか見えないかの小さな罪ですら、宿世からの因縁であり、現世での報いとしてこうむる。
ある仏教の説話では、「僧侶が小石投げて誤って鳥にあたって死んだ。その死んだ鳥が猪に生まれ変わった。その猪が石をかき分けて食べ物をあさっていると、石が転がり落ちてその僧侶に当たって死んでしまった」という因果応報の話がある。
やはり、いま品方公正に生きていても、なにか不幸が訪れてしまう。
それを改善しようと努めるも務めるも一向に埒があいてくれない。
それで、その過去世の因縁を解除するために仏に祈る、あるいは墓参りを欠かさずするようになった、あるいは神に祈るようになった。
すると次から次に幸運が訪れるようになった。

こんな経験談もあるのです。
やはり、視野が狭窄になると、どうしても現代にある方法だけで対処しようとしてしまう。
それではあまり解決には程遠くなることがあるので注意が必須です。
こういった話しは親鸞の経典の中にもあるのです。
「見えるか見えないかの小さな罪ですら、宿世からの因縁であり、現世での報いとしてこうむる。」と親鸞はいうのです。
両手両足切断の旅芸人の中村久子は、こういう親鸞の教えに出会い、自らの生涯を受け入れ、明るく生きることで周囲の人々を照らしだしたというのです。
たとえ、自分に重い背景があったとしても、それは自分を成り立たせている大事な背景なのだと理解できれば、重い過去が大事な過去になり、喜んで引き受けて立ち上がっていけるというふうに変わって行くのでは?と思われてならないのです。
確かに現代社会においては、システムや機器などの便利なものがあり、それに縋ることで現状打破をかなえることは出来るのですが、それだけでなく宗教的なものにもすがることで打破できることが出来るということです。
現代の利器に縋ることはいいことでしょうが、それだけでなく宗教的な面も見過ごしてはならないし、それに縋ることで打破できるのであるから、その両方に縋るべきである、ということです。
その割合は、自身のこれまでの経験値から割り出して日々行動してもらうほかないです。
そこは自身で決めてもらうほかないのです。
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今回はこれにて終了します。
ここまでの精読に感謝いたします!

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法華経を読んで、日蓮と親鸞の共通点を垣間見る! (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というものは、非常に難しいもので、自分が良かれと思って人に勧めても、相手は全然素晴らしいと思われない場合もあるから、勧誘の成功率は自分がやったらかなり低いのではないかと思われてならないのです。
古代ならいざ知らず、今のようにいろんな選択肢がある世の中においては、こと宗教だけにとどまらずに、自身の頭で考えて感性で持って選らんだらどうかと思わざるを得ないのですね。
ゆえに、宗教的な功徳や救済理論には与するものの、1つの宗教には縋らないというのが私の立場です。
もうかなり昔になりますが、創価学会に入会することを勧められて入るものの、毎回毎回新聞や会合で話される内容は一緒なので、辟易して新聞の購読も停止し、会合も行かないことにしました。
それでも悔いは全くないです。
その創価学会は、日蓮正宗の信徒団体でありましたが、その日蓮正宗と決別して1つの宗教団体になったのです。
そこで講義された内容は、「『法華経』は釈迦の言わんとしたことを忠実にあらわした内容である。その『法華経』には釈迦の死後2000年後に日本に、民衆を救済する僧侶が現れる。それがまさに日蓮大聖人である。その日蓮の宗教を具現しているのが創価学会なのだ」ということです。

そう講義された私は「へえ、そうなんだ」というくらいにしか思わなかったものです。
その『法華経』は、1世紀ごろに書かれた経典ですが、どこで最初発行されたのかはわからないままなのですが、ユーラシア大陸のどこかだということだけです。
それが6世紀に日本に渡ってきた、ということです。
こういうことが判明すれば、ことは明らかでしょう。
果たして本当に釈迦の言ったことだけを、忠実にあらわしたものなのかどうか、ということが?
1世紀に書かれたものが、日蓮が13世紀に拝読するまでに、いろんな変遷を経て、脚色、削除、付けたしといったことを往々にしてなされたのは言うまでもありません。
その『法華経』には、その衆生を救う僧侶は迫害にあうということまでも書かれているということです。
なるほど、これも人類の歴史をみれば明らかなように、新宗教はどの国のでも迫害にあってきたのです。
しかし、その内容を読んで、日蓮(下写真)はまさに自分だと悟ったようです。

その迫害にあったのは、熱原の法難、松葉が谷の法難といわれるものです。
こういう思いになることを、日本人のように謙譲の美徳を持っている人が聞いたら「自惚れだ」といったようなことを思いがちですが、これは何も日蓮だけでなく、こと空海やジョセフ.スミス(モルモン教)、文鮮明(統一教会)、大川隆法(幸福の科学)といった人たちも、そういう悟りに至っているのです。
ゆえに、それがいいか悪いかは読んだ人の判断に任せるとしか言いようがないのです。
しかし、「釈迦の予言したことがまさに日蓮に起きたのだから、まさに日蓮こそ信心するに値することだ」という思いに至る心情はわからなくはないです。
しかし、それだけで信心するに値するかは早計ではないか、と思われてならないのです。
そんな素晴らしい内容を秘めているのであれば、その日蓮が書いた本を読んでみたいと思い、私は日蓮著の『報恩抄』という本を買って読みました。
しかし、これは他の仏教宗派との比較を難しい言葉で論じているだけで、ちっとも興味の出ない代物でした。
間をおいて、その『報恩抄』を再度よみましたが、やはり面白くもなんともなかったでした。
これでは、信心するに値しないと思ったのです。
それでヤフオクに出して売れました(笑)
確かに、『報恩抄』のほか、日蓮の書き残した書物は多数あります。
そのほかのものも読んだらいいじゃないか、という反論が出そうですが、1冊読んで興味が出なかったら、その著者の本はどれを読んでも興味が出ないという法則を私は発見したものです。
ゆえに信仰するには及ばない。

そのことを、創価学会と同じく日蓮正宗の信徒団体だった顕正会の会員の人に語ったら、「それは日蓮宗の訳出した本だろう!そんな本が真っ当に訳出されているはずはないだろう!」と激高されてしまったのです(笑)
直訳したものですが、その直訳でも人によっては意味が違ってくるのは必然だから、日蓮宗の僧が訳出した本など読むに値しない、ということを言いたかったのでしょう。
しかし直訳にそんな大差が出るはずもないのです。
ならば顕正会の人が訳出した本を読ませてくれと言いたいですが、そんなことが出来るようなアウターディシプリナリーな団体ではないのです顕正会は。
ゆえに、創価学会か日蓮正宗が訳出した御書といわれる日蓮の書物を集大成したものによるしかないようです。
しかし、釈迦の死の2000年後に衆生を救う僧侶が現れる、という法華経の内容ですが、親鸞が念仏を布教していった時期と日蓮が生きた時代はほぼ一緒なのです。
その親鸞が念仏を布教することで、迫害が起きたのです。
日蓮と一緒ではないですか?
それで親鸞は地方に流されたのです。
法難というような名はなかったですが。
そして、1211年の放免の勅令が下されたのですが、その理由はわからず。
放免されて後も親鸞(下写真)は越後にとどまり、現地で教化を維持したのです。
1212年に京都市山科区に興正寺のルーツの1寺を建立し、そして東国へ行きました。
開拓の地は関東になったのです。
興福寺や延暦寺などの権門寺院は遠かったがゆえにかどうかはわかりません。
六角堂で受けた聖徳太子からの夢告では、東国での布教が予辞されていたのです。
こうなると、日蓮だけが法華経に書かれている衆生を救う僧侶には当たらない、ということが言えるのではないでしょうか?
おそらく親鸞も『法華経』は読んでいたでしょうが、それだけでなく、いろんな経典を読んでいたのです。
それが親鸞の哲学形成に役立ち、衆生に布教するという使命感を植え付けたのでしょう。
そして、夢告というものは、誰もが受けれるものではなく、その道に一生懸命にひたむきに取り組んでいる人に現れるものなのです。
全然努力をしないのに、夢告が来てくれというのは虫が良すぎるというものでしょう。
その宗教で、講義されている内容だけ読んで「これこそ本物の宗教だ。信仰するに値する!」と思ってしまう気持ちはわからなくはないです。
しかし、いまは本が豊富にある時代です。
それらを利用して、その宗教で言われている内容について吟味していくことで、その宗教だけにこだわる必要はないと思うのですがどうでしょうか?
あるいは、その宗教に縋る気持ちになってもいいですが、それ以外に、いろんな方法や手段を得ていくことで盤石な自身の哲学を形成していくことが出来る、ということを理解した方がいいのではないか、と思われてならないです。
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ここまでの精読に感謝いたします!

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アダム.グラント 『GIVE & TAKE』
アダム.グラントはこの本である『GIVE AND TAKE』において興味深い研究をおこなっています。
アダムは人を3分類に分けているのです。
それはテイカー、ギバー、マッチャーの3つです。
ギバーとテイカーという概念を対比の構造で捉えたものです。
ギバーは、人に与えることで人生に愉しみを見いだしている人であるとしているのです。
世間を見渡すとそういう人には出会うことはあります。
そういう人は、お人好しで他人にいいように使われる人?というように考えがちですが、そういう部分も当然ありますが、そういうギバーとしての性質を持っていると、人生で得をするという結果が出ているから面白いですね。
ギバーの成功者には、コンサルタント、弁護士、エンジニア、販売員、脚本家、起業家、会計士、教師、ファイナンシャルアドバイザー、スポーツチーム上級管理職が入るようです。
しかし、ギバーの中には、成功できないエンジニアや販売員もいるようです。
そして、人に利用されうだつの上がらない人もいるようです。
ギバーが成功するのは、ギバー特有の現象が起こるようです。
しかし、ギバーの中では、仕上げた仕事、報告書、製図の数、ミス、締め切りの遵守、経費のむだ使いの点で最低点という人も少なからずいるようです。
ギバーの精神よろしく、ほかの人の仕事を手伝っているせいで自分の仕事を終えられないようです。
この本の冒頭で、リンカーン(下写真)を引き合いに出しているのですが、リンカーンは利己的でなく、自己中心的でなく、うぬぼれ屋でもなかったようです。
リンカーンは人を信用して人の利益を一番に考えて行動した点で、上位ランクで3位以内に入るようです。
彼は、国家の利益を優先したようです。
「閣僚はすべてリンカーンよりも知名度も高く、公職の経験も豊富だった。閣内での彼らの存在は、スプリングフィールドからやってきた無名の弁護士の影を薄くしかねなかった。
閣僚には、自分に敵意を持つライバルを選んだ。閣僚には、党内で最も有力な人間が必要だからだ。」
ということです。
自分と利害や価値観が一緒の人間を、こういった地位にはつけるのが普通ですが、リンカーンは国家の利害を最優先にしていた結果、こういうことにしたのですから驚きです。
大事なのは自分ではなく、広く国家のため、ということを最優先にした、ということです。
こういう思想を共和主義というのですが、そのアメリカの形骸化してきている理念の発端は、もしかしたらリンカーンが端緒だったのかもしれないですね。
東京世田谷に出して、最高で年間120億円をたたき出した豚骨ラーメンの「なんでんかんでん」の社長だった川原ひろし氏は、開店当初、値引きセールが終わったら、自腹でビールをお客さんにおごって、話しかけて友人になり、その友人がまた友人を連れてきて、ということを繰り返した結果、そういう偉業に繋がったようです。
また、ロバート.キヨサキの『金持ち父さん、貧乏父さん』で有名な、その金持ち父さんと呼ぶ、友人マイクの父は、大きく儲けたらふり幅が大きく逆に振れないように教会等に多額の寄付をしていて、ロバートにもそれを真似するように教え諭していたようです。
逆に、テイカーは自分のことで頭がいっぱいなので、「私たち」よりも、私を使うことの方が多いということです。
テイカーは、自分の取り分を最大限にすることに生きがいを感じているので、友人よりもお金を優先するようです。
そして、表面上は気に入られる技術を最大限心得ているので、笑顔を作るのが上手く、自分に金銭をもたらしたり、将来自分を地位的にも金銭的にも、金や物をもたらしてくれる人には優しくするが、そうでない人には冷たいか、通りすぎるということです。
組織をギーバーが多くしたい人にはどのようなことをすればいいかを示唆してくれているのですね。
それは、グループに一貫したギバーが1人いるとほかのメンバーはより与えるようになる。
与えることをごく当たり前にするには、たった1人ギバーがいるだけで十分だということです。
また興味深いことに、天才を育てる人はギバーになる傾向があるということです。
彼らは、自分の知力を使って、ほかの人々の知性や能力を増幅して、ひらめきを引き起こし、アイデアを生み出し、問題を解決させるということです。
自分の知力にだけ頼って一見個人の力が大きい仕事でも、成功するかどうかは自分理解している以上にほかの人々の協力にかかっているのだそうです。
非常に才能のある人は他人に嫉妬されやすく嫌われたり、恨まれたり、仲間外れにされたり、陰で中傷されたりする。
ただし、これがギバーであればの話しで、むしろギバーは感謝される。
ギバーとして信用されると、ちょっと大胆で挑戦的なアイディアを出しても、周りに特別に認められてしまう。
これはみんなの協力によって生まれた成果なのです、ということが実感としてわかっているようですね。
人の哲学形成も、宗教の思想形成も同様に!
また興味深い研究があるのですが、成績のよくない生徒や、差別を受けているマイノリティグループの生徒の成績と知能検査のスコアを向上させるには教師が生徒に対して期待を抱くことが大事ということです。
でたらめに能力が高いと分類した訓練兵の方がそうでない訓練兵よりも、専門知識テストと武器操作の評価でかなり成績が上がったようです。
逆に、テイカーは同僚や部下の可能性に期待をかけることはまずない。そして相手を警戒しているのです。
そういう態度は、悪循環を生み、同僚や部下のやる気と成長を妨げます。

ギバーは可能性の片鱗が見え隠れするまで待ったりはしない。
すべての人の中に可能性を見いだそうとする。
人が才能を伸ばすきっかけになるのはやる気であることであり、生まれもっての才能ではないということです。
これには驚きました。
私がこれまでの人生を回想して、思い出深く想起しやすいのは、思いやりのある親切で寛容な先生だった、ということです。
ただ厳しいだけで生まれもって才能ある人間だけを寵愛していたような先生は誰だって虫が好かないでしょう。
それに、生まれもっての才能があるだけで寵愛されても、その才能が高くとも、本人がそれを好まないのであれば、いくらトレーニングを課しても、テンションが下がり、やる気など失せてしまうのは必至です。
また、ギバーは全体を見てほかの人々にとって一番大事なことを優先させるということです。
長い目でみてより良い選択をするためならば、さしあたって自分のプライドや評判が打撃を受けても構わない。
へこたれずに練習し、ギバーとしてプレーする選手を見つけるとその選手をダイアモンドの原石として扱った。
これが一番いい。

テイカーが何でも自分できめたがるが、ギバーは他人の意見にも耳を傾ける。
バスケットで有名な、マイケル.ジョーダンは、選手時代から自分の利益しか考えない利己的な振る舞いになっていたようです。
これもまた意外なことで驚きました。
「成功するには自分本位にならなければならない」
これがマイケル.ジョーダンの残した言葉だそうです。
テイカーは、ほとんどだれにも感謝の言葉をかけない傾向があるようです。
ギバーは、相手にものを尋ねてその人とよく知り合うことでギバーは信頼関係を築き上げ、ニーズを知ろうとする。
これを日々繰り返すうちにどんどんセールスが上手くなっていくのだ。
テイカーが本当に有能だと確信するようにはなるが、このことが情報の共有やメンバー同士の良いアイデアをやり取りするのを妨げる。
売り手が買い手にアドバイスを求めると42%が合意に達する。
また、成功しているギバーは、普通よりも他者重視だけでなく利己的でもあるようです。
自己犠牲ギバーは病的なまでに他人につくすあまり自分自身のニーズを損ねる。
ギバーは、人のためになっていることで生きがいを感じるがゆえに、自分の仕事がどんなふうに人の役に立っているのかを綴った手紙を読んだだけでギバーはテイカーと同じレベルの生産性を達成したのだということです。

そして、オペレーターは通話時間が2倍になったのです。
ギバーは他人のことも思いやりながら、他人のことも思いやりながら他者志向的に与えれば心身の健康を犠牲にすることはなくなる。
そして、疲れたときに他者と結びつきたい欲求が高まる。
つかれ果てると、同僚を助けることに注ぎ、人と関係強化、自分への支持を確立することになるのです。
寄付するからこそ、もっと懸命に働いてもっと稼ごうという気になる。
お金や時間を他人の人に使ったひとは幸福度が上がったようです。
愛想のいい人はギバーで、無愛想な人はテイカーと思ってしまう傾向は誰にでもあるのはわかりますね?
しかし実際は逆なのです。
その内実を見極めるには、古いようですが様々な機会を得てテイカーかどうかを見極めよ、ということです。
他人への利益を強調しても、テイカーは興味を示さない。
特別プロジェクトに対するの責任を持たせて、90日ごとに進捗状況を報告させる。
こういった事実を見せられると、社員のやる気を起こすためには、こういった行為をすればいいということがわかりますね。
ここまで読んでピンときた上役、経営者は、すぐさま行動に移すことを勧めたいのです。
まず、このアダム.グラントの『GIVE & TAKE』を読むのが先決ですが(笑)
しかし、ここまで書くとテイカーは悪の面がかなり多いですが、そのまま駆逐されるのを待つべきなのでしょうか?
そこは長い年月を経た考察が必要な気がします。
この本には、テイカーと付き合うためには、マッチャーとしてふるまえばいいのだ、ということを書かれているのです。
やはりギバーは、精神生活では、取り分を控えめに要求してしまうので、普段から主張をしようということがわかる。
他人のために自分に見合う請求をしなくてはいけません。家族のために、パートナーのために。
対人関係においては、自分との類似性は何かにひきつけられる際に、ちょっとした潤滑油の役割を果たすらしい、ということが分かったのです。
誰かに出会った時に、その人に自分を連想させるものがあると、ひとはすこしだけ熱心になり友好的になり、こころを開くようになるのだ、という示唆的な事実がある。
それゆえに、同じ信者によって、同じ宗教間の結婚はやはり多い。
また、卒業後に初めて2人が出会った時に、同じ大学出身であることを知ることによって、人はその人に親近感が増すということです。
ゆえに、多くの学部を擁した総合大学が就職に優位になるということは間違いないでしょう。
こういった心理学的な事実を知っているか知っていないかで、人生は大きく変わることは間違いないでしょう。
そんな内容について興味を持った人には、このアダム.グラントの『GIVE & TAKE』はおすすめです。
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素晴らしい革新にみちた開祖の宗教ゆえに入信する。それは素晴らしいですが慢心すべからず? (親鸞とユダヤ.キリスト)

こんにちは。
私は、日本で一番信者が多い宗教は、創価学会だとばかり思ってました。
しかし、実際は浄土真宗だということを知って驚きました。
それゆえに、その浄土真宗の宗祖である親鸞に興味関心が行くのが自然でしょう。
その親鸞について書いてある本を読むと、人類共通する事項がありました。
やはり既存の宗教への反発ですね。
やはり、親鸞(下写真)も既存の仏教の信徒だったのです。
それは天台宗ですね。
親鸞の歴史を振り返ると、まず、1181年に養父の日野範綱に連れられて、天台宗の慈円の坊舎にいき、出家して名を範宴としました。
当時の、仏教界が官僧に国家が期待したのは玉体安穏、鎮護国家、五穀豊穣など国家的な祈祷をおこなうことだったのです。
多くの官僧を輩出して擁する延暦寺は国家権力と不可分の関係を持っていて、天台座主の任命権は朝廷が握っていたのです。
それが長年続いたがゆえに、院政期以降の大寺院は有力貴族の次男三男が僧侶として出世して高い官位を得るための就職先という面ももつようになり、そこでは王朝貴族社会という1つの世俗社会が形成されてしまったのだった。
10世紀ごろから、律令制が形骸化して官僧制度も形骸化し、比叡山延暦寺ふくむ大寺院が、荘園などの形で広大な寺領を所有することになり、経済が潤沢になったこととも深く連動しています。
当時の仏教は多岐していて、念仏もその概念に入っていたのですね。
その念仏を指揮する勢力の1つとして源信が居ました。
『往生要集』で有名な源信ですね、高校の歴史の教科書にも書いてありましたね?
また、その源信とはべつに、念仏を重視する動きがあったのです。
それが、最澄の弟子であった円仁が念仏を取り込んだ修行の実践ということです。
そんな中、1201年に当時29歳の親鸞は、天台に満足することなく、比叡山を降りることになったのです。
形骸化、世俗化した比叡山の延暦寺の仏法では人々を救うことはできないと悟ったのだった、ということです。
それ以降は、以下の電子書籍.ペーパーバックに書いてありますので、興味ある方は読んでみてくださいませ(笑)
このように開祖になった人は、革新的な精神を持っていることが人類の歴史に通底する事項です。
ゆえに、その宗教は聞いてみる価値あると思う人も多いでしょうし、実際その部分で入信する人も多いでしょう。
その革新性に惚れて入信したがゆえに、この宗教に入ることで、幸福になれるという思いが強くなるのでしょう。
しかし、それだけで満足していてはよくないのではないか、と思われてならないのではないか、と私は余計なことを考えてしまうのです(笑)。
その立派な開祖の開始した宗教ゆえに、万年にわたって安泰であろう、誰もが幸福になれるだろうと思うのは早計でしょう。
やはり、人類の観念は時代とともに増大していくのであって、それに付随して宗教だけの対処では済まないことに陥るのは目に見えていますし、必然でしょう。
それゆえに、宗教にだけに縋るのは間違いでしょう。
確かに宗教によって得れることや、救済の加護はあることは確かです。
しかし、それだけで済ませるものではないことは確かです。
●そんな内容について共感できるかたは、以下の電子書籍.ペーパーバックはお勧めです!(ペーパーバックとは注文が入り次第、印刷をして注文者の住所に届ける製本システムの事です!)
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思想や宗教は、半開の状態や文盲率が高い時こそ爆発的に広がる? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
これまでの人類の歴史を垣間見ると、宗教はいろんな思想や他の宗教にふれることで、それらの一部を取り入れることで生き残ってきた、ということがわかりました。
いきなり無から生まれでて、それだけで純粋培養された宗教など1つもないということがわかります。
人類が文字というものを創始し、それが爆発的な広がりを見せるには、そこが未開、あるいは未開に近い状態の場合に効果的になるのが歴史をみればわかります。
こと宗教も一緒です。
人類が宗教を創始して、それが広がりを一気に広がりを見せるには、そこにほとんど他の宗教がない状態のときに有効なのです。
こと日本においても、社会を超越する思想や宗教も、そういう半開の状態において一気に広がったのがわかります。
古代日本の仏教も一緒です。
また、第二次世界大戦後に、世界を席巻した社会主義も一緒なのがわかります。
この思想は、その政権樹立にまで成功したのは、文盲率の高い国でこそ有効だったのです。
その社会主義という思想は、私有財産を認めず、働いていれば、誰もかれもが食料や消費財をもらえて、普通に生活していけるという思想のことです。
そのためには国家が、金銭や事物を一切管理しておくのが前提になっていたのです。
これは、一見ユートピアのような素晴らしい理想をもった思想に見えますが、実際はそうではなかったのです。
その内容についてはここでは不問にしておきましょう。
しかし、その思想を元にした政権を樹立出来たのは、いずれも文盲率の高い国ばかりだったのです。
逆に文盲率が低ければ、教育が施される。
教育が施されれば、多くの思想が生まれ、反論の余地が大きくなる。
それで、反対意見が噴出して実行に移せないままに終わってしまった。
その例として日本も挙げれるのです。
戦後の2大政党は、自民党と社会党だったのです。
しかし、91年に社会主義国の代表国家であったソ連が、経済的に立ち行かなくなり崩壊し、それを端緒に世界で一気に社会主義政権が崩壊していったのを機に、社会党も大幅に支持を失っていったのです。
60年代や70年代に色んな国で、社会主義思想が蔓延し、「我が国は社会主義に移行すべきだ」といった論調の本が頻出しましたし、その論調で今見て興味深いのは、「いまや社会主義国は世界の半分近くにまで登っている。これから先も社会主義国はどんどん増えていくだろう」というものです。
しかし実際にそうはならなかったのは、社会主義思想は、ある程度まで妥当するが、それ以降は立ち行かないということだったのです。
その内容についてはここでは不問にしておきましょう。
こと、話しを宗教に戻すと、やはり、文盲が多いときに広がりが早い、ということがわかると思います。
日本の古代宗教に最大限寄与したのは、ユダヤ教だったのです。
それは最近もそうですが、もう80年代頃から、そのことは指摘されているのですが、ユダヤ人でしかも、景教に改宗していた秦河
勝(下写真)という人物が、すでに7世紀に日本にやってきて、その宗教を全国に弘めていったのです。

その土台が、今でも生きているのです。
それのみならず、いろんな仏教にも影響をおよぼしていたのです。
その影響を受けた仏教の開祖の1人が親鸞だったのです。
興味深いでしょう?
それがどのようなものかに興味関心ある人にお勧めしたいのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります。
このブログページで、「その内容についてはここでは不問にしておきましょう。」と書いたことについても、その内容も明らかにしていますので、それも知りたい人にはお勧めです。
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