最高の宗教に縋ることで永遠に万全、ということはあり得るか?…あり得ないです(笑)
こんにちは。
私が最近通った場所の近くに、本門仏立宗なる仏教系の寺院がありました。
その宗教に興味を持って、調べてみるとそこは日蓮関連の宗教だそうです。
その本門仏立宗は、江戸時代に堕落した日蓮系の団体を立て直すという気概で再興を図って始められた宗教なのだそうです。
そういうことを幅広く鑑みると、そういう再興劇はどの宗教にでもあることがわかります。
そういう組織の堕落→それを立て直してその宗教を一新する、という動きの歴史は世界のどの宗教でも起こっているのです。
いやことは会社でも、自営業の世界でも、学校や政府など、その他どの組織にでもあるのです。
ゆえに、「この宗教こそが完璧であり、この宗教に入ってれば何も心配することはない」という決めつけは厳に戒めなくてはならないでしょう。

そういうことを前提にしたうえで、自分の組織が堕落の道へ進んでいないかチェックし続け、堕落の道へ進んでしまった場合、再興を図るべく行動を採らなくてははならない、ということです。
日蓮大聖人の遺した宗教だから万全、という事も絶対にないということを戒めなくてはならないでしょう。
その組織の堕落の最たる例は日蓮正宗の前代の法主だった日顕(下写真)でしょう。

この人は、信者からの供養金で奢侈贅沢の極みを尽くし、芸者、花魁、キャバクラ、麻雀、そして超高級マンションの購入などをしてきたのです。
その他、この本山である大石寺のなかにある絢爛たる大客殿や正本堂といった建物を壊し、100本以上の木を伐り倒してきたのです。
自分の名誉のために。
これをみて、日蓮大聖人が遺した宗教だから信心していれば万全、という屁理屈は成り立たないことがわかるでしょう?
日蓮正宗系の信者たちは、何百万という数の人が題目を挙げて祈ったことでしょう。
しかし、日顕がまっとうな人間になることはなかったのです、彼が死ぬまで。
何故、このような人間が出てきてしまうのでしょうか?
それは、彼の育った家庭環境に主な原因があるのです。
彼は、日開上人の子供ということになっていますが、実際は日顕の母(下写真)と某、日蓮正宗寺院の住職との不倫化関係でできた子だったのです。

しかし、日開上人は無精子症だったがゆえに子供ができない体だった。
それで断腸の思いで日顕を自分の子として認知したというのです。
そんな自分の子供でない人間に愛情を捧げれるわけはなく、日開からの無償の愛など捧げられることなどなかった…これも精神異常な子供ができる原因になってしまうのです。
その他、その母親からの「必ず法主になれ」というわがままな要求と、それに関する褒めなかった教育などいろいろあるわけです。
日蓮正宗の信徒団体だった顕正会は、のちに日蓮正宗から解散処分に処せられてしまい、別途、違う団体になったのでした。
当初は「日蓮正宗 顕正会」としていたのを、シンプルに「顕正会」と命名したようです。
その初代会長だった浅井昭衛氏(下写真)は、日顕がこうなったのは「第六天魔王が日顕の身に入ったがゆえに…」と語ってましたが、実際はそうではないのです。

日顕の育った環境ゆえなのです。
そういう多面的なアプローチによって問題点のあぶり出しが可能になるのです。
決して、最高といわれている宗教に入ればいい、というわけではなく、問題点が浮上したら、その問題点が起きた物事を構造的に明らかにしていった上で、その妥当と思われた解決策を実行していくのが王道なのです。
決して、その宗教団体で唱えられている経文を唱えてそれでOKではなく(笑)
そんな行動だけで解決するのであれば、私だってその方法に縋りたいです(笑)
しかし、それでは解決できないと断定しているがゆえに、多角的に物事を探る、というスタンスを決めているし、勧めているのです。
そんなスタンスに興味のある人にお勧めなのが以下の電子書籍です。
●以下よりどうぞ!
→楽天Kobo
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。

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私が最近通った場所の近くに、本門仏立宗なる仏教系の寺院がありました。
その宗教に興味を持って、調べてみるとそこは日蓮関連の宗教だそうです。
その本門仏立宗は、江戸時代に堕落した日蓮系の団体を立て直すという気概で再興を図って始められた宗教なのだそうです。
そういうことを幅広く鑑みると、そういう再興劇はどの宗教にでもあることがわかります。
そういう組織の堕落→それを立て直してその宗教を一新する、という動きの歴史は世界のどの宗教でも起こっているのです。
いやことは会社でも、自営業の世界でも、学校や政府など、その他どの組織にでもあるのです。
ゆえに、「この宗教こそが完璧であり、この宗教に入ってれば何も心配することはない」という決めつけは厳に戒めなくてはならないでしょう。

そういうことを前提にしたうえで、自分の組織が堕落の道へ進んでいないかチェックし続け、堕落の道へ進んでしまった場合、再興を図るべく行動を採らなくてははならない、ということです。
日蓮大聖人の遺した宗教だから万全、という事も絶対にないということを戒めなくてはならないでしょう。
その組織の堕落の最たる例は日蓮正宗の前代の法主だった日顕(下写真)でしょう。

この人は、信者からの供養金で奢侈贅沢の極みを尽くし、芸者、花魁、キャバクラ、麻雀、そして超高級マンションの購入などをしてきたのです。
その他、この本山である大石寺のなかにある絢爛たる大客殿や正本堂といった建物を壊し、100本以上の木を伐り倒してきたのです。
自分の名誉のために。
これをみて、日蓮大聖人が遺した宗教だから信心していれば万全、という屁理屈は成り立たないことがわかるでしょう?
日蓮正宗系の信者たちは、何百万という数の人が題目を挙げて祈ったことでしょう。
しかし、日顕がまっとうな人間になることはなかったのです、彼が死ぬまで。
何故、このような人間が出てきてしまうのでしょうか?
それは、彼の育った家庭環境に主な原因があるのです。
彼は、日開上人の子供ということになっていますが、実際は日顕の母(下写真)と某、日蓮正宗寺院の住職との不倫化関係でできた子だったのです。

しかし、日開上人は無精子症だったがゆえに子供ができない体だった。
それで断腸の思いで日顕を自分の子として認知したというのです。
そんな自分の子供でない人間に愛情を捧げれるわけはなく、日開からの無償の愛など捧げられることなどなかった…これも精神異常な子供ができる原因になってしまうのです。
その他、その母親からの「必ず法主になれ」というわがままな要求と、それに関する褒めなかった教育などいろいろあるわけです。
日蓮正宗の信徒団体だった顕正会は、のちに日蓮正宗から解散処分に処せられてしまい、別途、違う団体になったのでした。
当初は「日蓮正宗 顕正会」としていたのを、シンプルに「顕正会」と命名したようです。
その初代会長だった浅井昭衛氏(下写真)は、日顕がこうなったのは「第六天魔王が日顕の身に入ったがゆえに…」と語ってましたが、実際はそうではないのです。

日顕の育った環境ゆえなのです。
そういう多面的なアプローチによって問題点のあぶり出しが可能になるのです。
決して、最高といわれている宗教に入ればいい、というわけではなく、問題点が浮上したら、その問題点が起きた物事を構造的に明らかにしていった上で、その妥当と思われた解決策を実行していくのが王道なのです。
決して、その宗教団体で唱えられている経文を唱えてそれでOKではなく(笑)
そんな行動だけで解決するのであれば、私だってその方法に縋りたいです(笑)
しかし、それでは解決できないと断定しているがゆえに、多角的に物事を探る、というスタンスを決めているし、勧めているのです。
そんなスタンスに興味のある人にお勧めなのが以下の電子書籍です。
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ありがとうございました。

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開祖の時代と現代では世相が違う。その違いを理解した上で、自分のスタンスを決めるべし!
こんにちは。
仏教というと、日本人ならば寺院にいる袈裟を着た僧侶を思い浮かべて、そこにある本尊に対して祈りご加護を得る、あるいは先祖を供養するというイメージが強いでしょう。

その雰囲気は、どことなく東洋系の色彩が強いです。
ゆえに、東洋由来のものであると思う人が多いと思います。
しかし、その由来を日本に仏教が渡ってきたころにまでさかのぼると、西洋由来の文化も取り入れた代物であることがわかるのです。
今は、東洋由来のものに感じてしまうが、それはその地域に根差した文化と調和をさせてしまおうという気概が、土着の人間に生じてしまう性ゆえなのです。
何?日本にある仏教は純粋な仏教ではなかったのか?と思って純粋なる仏教を想像して、しまいますが実際は違うのです。
聖徳太子の時代に仏教が入ってきたことは日本の歴史を紐解けば明らかです。
新羅から来た弥勒像(下写真)は3つの指で三角形を作っています。

これはキリスト教の三位一体から由来しているのです。
その弥勒の像は何となく、キリスト教やユダヤ教の趣きを感じないでしょうか?
無理もないです。
キリストの使途トマスがインドに伝道した際に、仏教に取り込まれたのですから。
やはり文化とは、雑種化の宿命を負っているのです。
それを嫌って純粋な仏教を求めてしまう気持ちはわからなくはないです。
その仏教を信仰しようとして、その創始者である釈迦をさかのぼると意外なことがわかります。
釈迦の生きていた時代の仏教は、山で鳥獣を捕って生計を立てていた猟師、海や川で魚を捕る漁師は穢れた職業となっていて、信者になることはもちろん出家も許されなかったのです。

もちろん、これらを食べることも許されなかったのです。
今、そんな生活をしたいと思うでしょうか?
物心ついたときから、動物の肉や魚の肉を食べていた人たちが、釈迦を信仰の対象にしたいがために、そんな生活に戻ることは可能だろうか、という疑問がわきます。
できる人はできるでしょう。
しかし、できない人の方が多数派でしょう。
そのことを非難しようとは思わないです。
大事なことは、今あるところで最も近いものを選び、そこで言われていることを実践しながら、その宗教の中で不満があったら、自ら改良を加えていくしかないのではないでしょうか?

やはり、そういう取捨選択をしていったら、自分のモラルと何から何まで一緒という宗教などないでしょう。
しかし、それがどうしても受けいられなくて、この宗教団体を辞めてしまいたい、と思えるまでになってしまう人はかなり少数派でしょう。
それでも、辞めてしまいたい気持ちの方が、現状を維持する気持ちよりも大きいのであれば辞めるのがいいでしょう。
辞めてしまいたい気持ちの方が、現状を維持する気持ちよりも小さいのであれば、そこにとどまればいいのです。
宗教で言われていることの大半は、中世やその前後の時代の開祖によって語られた内容なのです。
それがそっくりそのまま現代でも通用するとは私としては、思われないのです。
ゆえに、これまでに自分が取り入れてきた情報も加えてモラルとするほかないでしょう。
先に書いたように、文化というものは雑種になる宿命を負っているのです。
ことは人間の思考も必然的に雑種になっていくのです。
宗教で言われている内容には学ぶところはあれど、全部は受け入れられない。
だから、宗教で言われている内容にくわえて、その他、本や雑誌、そして人との会話で知った内容、ネットでの情報などを主体的に摂取して、混ぜて、自分の解釈を加えて熟成させてモラルを形成していくのが王道であると思っているのです私は。
そのように形成したモラルは、雑学と呼ばれそうでが、そうではないのです。
哲学というのです。
そういう哲学を形成するに際し、中世から近世までは宗教が主たる主体だったのです。
日本ではその多くが仏教だったのです。

無理もないです。
こんにちのように紙などほとんどなかったのですし、ましてやネット情報などなかったのですから。
その紙によって作られた本が入手できたのは、僧侶たちの特権階級だけだったのです。
しかし、現代は紙はふんだんにあり、それによって本や冊子などは無限にあるのです。
ゆえに国民の誰もがたやすく入手できるものになったのです。
ですから、それらで学べるものはどんどん学べば盤石になる。
ゆえに、宗教だけに頼るのはナンセンスと思わないでしょうか?
「そんなことはない!宗教で教えられる内容は非常に有意義でこれに勝る有効な情報はない。」という人にお目にかかることはよくありますが、そういう人はその宗教で発行されている新聞や冊子、あるいはそこで催される会合に参加することくらいしかしていないのです。
他の宗教について自分で主体的に学んでいるか、と問われればほとんどか全然学んでいないのです。
なぜ、こういう日常から抜け出せないか?
文字嫌いだからです。
文字嫌いゆえに、他のことについて学ぼうという気になれないのです。
これでは非常に狭窄な理論しか築けないでしょう。
それでも思想信条の自由ですから、咎めだてはしないです。
しかし、私はそういうモラルにはなれない、というだけのことです。
そういう違いについて学びたいという人には、以下の電子書籍は非常にお勧めです。
●以下よりどうぞ。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯釈迦
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仏教というと、日本人ならば寺院にいる袈裟を着た僧侶を思い浮かべて、そこにある本尊に対して祈りご加護を得る、あるいは先祖を供養するというイメージが強いでしょう。

その雰囲気は、どことなく東洋系の色彩が強いです。
ゆえに、東洋由来のものであると思う人が多いと思います。
しかし、その由来を日本に仏教が渡ってきたころにまでさかのぼると、西洋由来の文化も取り入れた代物であることがわかるのです。
今は、東洋由来のものに感じてしまうが、それはその地域に根差した文化と調和をさせてしまおうという気概が、土着の人間に生じてしまう性ゆえなのです。
何?日本にある仏教は純粋な仏教ではなかったのか?と思って純粋なる仏教を想像して、しまいますが実際は違うのです。
聖徳太子の時代に仏教が入ってきたことは日本の歴史を紐解けば明らかです。
新羅から来た弥勒像(下写真)は3つの指で三角形を作っています。

これはキリスト教の三位一体から由来しているのです。
その弥勒の像は何となく、キリスト教やユダヤ教の趣きを感じないでしょうか?
無理もないです。
キリストの使途トマスがインドに伝道した際に、仏教に取り込まれたのですから。
やはり文化とは、雑種化の宿命を負っているのです。
それを嫌って純粋な仏教を求めてしまう気持ちはわからなくはないです。
その仏教を信仰しようとして、その創始者である釈迦をさかのぼると意外なことがわかります。
釈迦の生きていた時代の仏教は、山で鳥獣を捕って生計を立てていた猟師、海や川で魚を捕る漁師は穢れた職業となっていて、信者になることはもちろん出家も許されなかったのです。

もちろん、これらを食べることも許されなかったのです。
今、そんな生活をしたいと思うでしょうか?
物心ついたときから、動物の肉や魚の肉を食べていた人たちが、釈迦を信仰の対象にしたいがために、そんな生活に戻ることは可能だろうか、という疑問がわきます。
できる人はできるでしょう。
しかし、できない人の方が多数派でしょう。
そのことを非難しようとは思わないです。
大事なことは、今あるところで最も近いものを選び、そこで言われていることを実践しながら、その宗教の中で不満があったら、自ら改良を加えていくしかないのではないでしょうか?

やはり、そういう取捨選択をしていったら、自分のモラルと何から何まで一緒という宗教などないでしょう。
しかし、それがどうしても受けいられなくて、この宗教団体を辞めてしまいたい、と思えるまでになってしまう人はかなり少数派でしょう。
それでも、辞めてしまいたい気持ちの方が、現状を維持する気持ちよりも大きいのであれば辞めるのがいいでしょう。
辞めてしまいたい気持ちの方が、現状を維持する気持ちよりも小さいのであれば、そこにとどまればいいのです。
宗教で言われていることの大半は、中世やその前後の時代の開祖によって語られた内容なのです。
それがそっくりそのまま現代でも通用するとは私としては、思われないのです。
ゆえに、これまでに自分が取り入れてきた情報も加えてモラルとするほかないでしょう。
先に書いたように、文化というものは雑種になる宿命を負っているのです。
ことは人間の思考も必然的に雑種になっていくのです。
宗教で言われている内容には学ぶところはあれど、全部は受け入れられない。
だから、宗教で言われている内容にくわえて、その他、本や雑誌、そして人との会話で知った内容、ネットでの情報などを主体的に摂取して、混ぜて、自分の解釈を加えて熟成させてモラルを形成していくのが王道であると思っているのです私は。
そのように形成したモラルは、雑学と呼ばれそうでが、そうではないのです。
哲学というのです。
そういう哲学を形成するに際し、中世から近世までは宗教が主たる主体だったのです。
日本ではその多くが仏教だったのです。

無理もないです。
こんにちのように紙などほとんどなかったのですし、ましてやネット情報などなかったのですから。
その紙によって作られた本が入手できたのは、僧侶たちの特権階級だけだったのです。
しかし、現代は紙はふんだんにあり、それによって本や冊子などは無限にあるのです。
ゆえに国民の誰もがたやすく入手できるものになったのです。
ですから、それらで学べるものはどんどん学べば盤石になる。
ゆえに、宗教だけに頼るのはナンセンスと思わないでしょうか?
「そんなことはない!宗教で教えられる内容は非常に有意義でこれに勝る有効な情報はない。」という人にお目にかかることはよくありますが、そういう人はその宗教で発行されている新聞や冊子、あるいはそこで催される会合に参加することくらいしかしていないのです。
他の宗教について自分で主体的に学んでいるか、と問われればほとんどか全然学んでいないのです。
なぜ、こういう日常から抜け出せないか?
文字嫌いだからです。
文字嫌いゆえに、他のことについて学ぼうという気になれないのです。
これでは非常に狭窄な理論しか築けないでしょう。
それでも思想信条の自由ですから、咎めだてはしないです。
しかし、私はそういうモラルにはなれない、というだけのことです。
そういう違いについて学びたいという人には、以下の電子書籍は非常にお勧めです。
●以下よりどうぞ。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
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♯現代
宗教で学ぶ理論は大事。しかし、それ以外にも自身で有効な理論を探していくべし? (幸福の科学)
人間だれしも悩むのが対人関係でしょう。
これによって、自分の人生が輝くものに変わるか、そうでないかに変わってくるのです。
対人関係において、いやな経験をすると、嫌なことを思い出しそこばかりが脳内を蔽ってしまい、憎しみだけが残るのです。
幸福の科学の故.大川総裁(下写真)は、波長同通の法則として、同じ波長の人間に霊が憑りつきその人の人生を左右することを説いているのです。

心に憎しみを抱えていると、その人に災いをもたらす霊がとりついて悪さをする、ということです。
これは、誰しも納得のいくものでしょう。
心に憎しみを抱えている人はえてして運が悪いですし、そうでない人はやはり運に恵まれているのです。
ゆえに大川総裁は、憎しみを抱えないようにすることの大事さを講演等で語っていたのです。
その具体的な方法として、良かったこと、されてよかったところを思い出し、そして書き上げる、ということをすすめていたのです。
これで回復した経験者の多いことに驚かざるをえないのです!
日蓮正宗の信徒団体であった創価学会に属していたことがある私ですが、そこで言われていたのは、対人間でのトラブルに見舞われたら、とにかく南無妙法蓮華経という題目を唱えていればいいということです。
しかし、そういう経文を声を出して唱えることで、心が躍り、強くなった気になるのは間違いないです。
しかし、そういう気分になるのは、唱えた直後だけであって、いつまでもその気分が持続するわけはないですし、解決にはつながらないのは言うまでもないのです。

どうすればいいかは先に書いた通りです。
イスラム教団の30代の女性が大川隆法総裁の本を読んで、その方法を実践したことやその後の経緯を話しているのが、幸福の科学の機関誌に掲載されていました。
それは以下です。
「反省が深まるうち、育ての親がわが子のように愛情深く育ててくれたことが思い起こされ、両親を憎んでいたことへの後悔の念が湧き、涙が止まりませんでした。
更に、教典の一言一言に根源なる神の光を感じ、人間業で到底書けるものではないと思い、主エルカンターレが神であることを感じました。」

ここを読むと、幸福の科学という名のように、科学的だし効果的だなあと感じざるを得ないのです。
南無妙法蓮華経という題目を唱えていればいいのとは違うなということです。
これは創価学会を批判すべきなのかどうか迷うところですが…。
これまでの歴史を垣間見ると、人類の好奇心には感服せざるを得ないですし、それにより物事の解決法が深化し、そして進化していき、その恩恵を自分は受けているというのがわかります。
科学が発達していなかった時代においては、何か障害に出くわしたら時には、日蓮正宗系の団体では、南無妙法蓮華経と唱えることでいい、とされていたのでしょう。
他の宗教団体では、その教団の唱える経文を唱えればいい、とされてきたのでしょう。
しかし、それでは根本解決にはならないです。
では、どうすればいいかと人類は探索していったのでしょう。
例えば、人の成功を自然と称えることができない場合、やはり南無妙法蓮華経と唱えたり、経文を唱えることでは解決しないのです。

それは、心理学の本で学ぶことができるのです。
某心理学の本では、「人と比べてではなく、することで心底楽しくなることを率先してしていく」ということが書いてあったのです。
それを実践することで、私は人の成功をすぐさま喜べるようになったのは言うまでもないのです。
他の人だって同然でしょう。
経文を唱えることで、こうなるとは到底思えないです。
このように根本解決につながるための方法論に出会えることができるかどうかは、自身の本や文字への絶え間ないアクセスが必須なのです。
それがないのであれば、やはり見つけにくいですし、見つからないままに終わってしまうことだってあり得るのです。
そういう気概のない人は、宗教の経文を唱えることで解決をしてくれるのを待つことにつながってしまうのでしょうが、それではダメなのは先に書いた通りです。
根本解決法を見つけれるかどうかは、その宗教が世界〇か国に広がったとか、〇百年以上も存続しているといったことも、やはり関係ないということです。
多くの信者を抱えた宗教団体だからといって、そういった方法が見つけれるかどうかは保証できないですし、自身が主体的に見つけようと努力するかどうかといわざるを得ないのです。
巷には多くの情報があふれています。
それを使わない手はないです。

宗教だけに縋って、根本解決を探索することはナンセンスといわざるを得ないのです。
このように人類は科学的な思考法によって、目の前にある障害を乗り越えてきたのです。
ゆえに、古代や中世、またはそれ以降の過去の時代において、有効とされてきたけれども、実際はそうでなかった事柄について、無批判になっているのではなく、物事を構造的に明らかにしたうえで、何をするのが有効かを見極めて、行動に移すのが重要ということです。
確かに、宗教で言われたことを実行にしたら、打開がかなったということは当然あるでしょう。
しかし、それがその人の場合は有効だったのであって、何ぴとにも有効とは言えないでしょうし、経文をあげることではもっと的外れなことで終わってしまうことは容易に想像できます。
こういう場合どうすればいいか、を大川総裁が逐一科学的な本からや、あるいは人生の経験から抽出した理論や他人の経験から学んで、それを吟味して話に盛り込んで講演等で話したり、本に書いて出したりしてきたがゆえに、幸福の科学に関しては信頼を置いているのです私は。
決していにしえの宗教で言われていたことに全くの無批判のまま、その開祖の言った言葉を引き合いに出して説明しているだけで逢着させている宗教団体には、信頼を置けません。
開祖の言ったことだけでなく、いろんなジャンルの本から学んで盛り込む、という姿勢が誰にも期待しているのです私は。
いにしえの宗教の言ったことだけでことがうまくいくはずはないですし、いにしえの時代で言われていたことが現代社会ですべて有効とも思えないからです。

また幸福の科学において言われていることが、そっくりそのまま万人に有効かといわれれば、それも保証できるかどうかは心もとない、というのが正直なところです。
やはりいくら大川総裁がカリスマ的であっても、万般にわたる経験をしてきたわけではないので、盤石な有効性があるということは言えないからです。
そこは、自身で経験して誰にも誇れるという理論を抽出できたのであれば、それはこれから先誇っていっていいということを言いたいのです私は。
誰にとっても、世界中に広まった宗教でも得れない経験理論があるのは事実なのです。
それにも期待しているのです私は。
宗教で言われていることも大事ゆえに、それを学びつつも、自身で「それ以外にもいいことはないか」と探索しながら、いろんな事柄を主体的に学び実行していくのが王道と思っているのです。
そんな立場に共鳴できる人にとってお勧めできるのが以下の電子書籍です。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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♯日蓮正宗系
これによって、自分の人生が輝くものに変わるか、そうでないかに変わってくるのです。
対人関係において、いやな経験をすると、嫌なことを思い出しそこばかりが脳内を蔽ってしまい、憎しみだけが残るのです。
幸福の科学の故.大川総裁(下写真)は、波長同通の法則として、同じ波長の人間に霊が憑りつきその人の人生を左右することを説いているのです。
心に憎しみを抱えていると、その人に災いをもたらす霊がとりついて悪さをする、ということです。
これは、誰しも納得のいくものでしょう。
心に憎しみを抱えている人はえてして運が悪いですし、そうでない人はやはり運に恵まれているのです。
ゆえに大川総裁は、憎しみを抱えないようにすることの大事さを講演等で語っていたのです。
その具体的な方法として、良かったこと、されてよかったところを思い出し、そして書き上げる、ということをすすめていたのです。
これで回復した経験者の多いことに驚かざるをえないのです!
日蓮正宗の信徒団体であった創価学会に属していたことがある私ですが、そこで言われていたのは、対人間でのトラブルに見舞われたら、とにかく南無妙法蓮華経という題目を唱えていればいいということです。
しかし、そういう経文を声を出して唱えることで、心が躍り、強くなった気になるのは間違いないです。
しかし、そういう気分になるのは、唱えた直後だけであって、いつまでもその気分が持続するわけはないですし、解決にはつながらないのは言うまでもないのです。

どうすればいいかは先に書いた通りです。
イスラム教団の30代の女性が大川隆法総裁の本を読んで、その方法を実践したことやその後の経緯を話しているのが、幸福の科学の機関誌に掲載されていました。
それは以下です。
「反省が深まるうち、育ての親がわが子のように愛情深く育ててくれたことが思い起こされ、両親を憎んでいたことへの後悔の念が湧き、涙が止まりませんでした。
更に、教典の一言一言に根源なる神の光を感じ、人間業で到底書けるものではないと思い、主エルカンターレが神であることを感じました。」
ここを読むと、幸福の科学という名のように、科学的だし効果的だなあと感じざるを得ないのです。
南無妙法蓮華経という題目を唱えていればいいのとは違うなということです。
これは創価学会を批判すべきなのかどうか迷うところですが…。
これまでの歴史を垣間見ると、人類の好奇心には感服せざるを得ないですし、それにより物事の解決法が深化し、そして進化していき、その恩恵を自分は受けているというのがわかります。
科学が発達していなかった時代においては、何か障害に出くわしたら時には、日蓮正宗系の団体では、南無妙法蓮華経と唱えることでいい、とされていたのでしょう。
他の宗教団体では、その教団の唱える経文を唱えればいい、とされてきたのでしょう。
しかし、それでは根本解決にはならないです。
では、どうすればいいかと人類は探索していったのでしょう。
例えば、人の成功を自然と称えることができない場合、やはり南無妙法蓮華経と唱えたり、経文を唱えることでは解決しないのです。

それは、心理学の本で学ぶことができるのです。
某心理学の本では、「人と比べてではなく、することで心底楽しくなることを率先してしていく」ということが書いてあったのです。
それを実践することで、私は人の成功をすぐさま喜べるようになったのは言うまでもないのです。
他の人だって同然でしょう。
経文を唱えることで、こうなるとは到底思えないです。
このように根本解決につながるための方法論に出会えることができるかどうかは、自身の本や文字への絶え間ないアクセスが必須なのです。
それがないのであれば、やはり見つけにくいですし、見つからないままに終わってしまうことだってあり得るのです。
そういう気概のない人は、宗教の経文を唱えることで解決をしてくれるのを待つことにつながってしまうのでしょうが、それではダメなのは先に書いた通りです。
根本解決法を見つけれるかどうかは、その宗教が世界〇か国に広がったとか、〇百年以上も存続しているといったことも、やはり関係ないということです。
多くの信者を抱えた宗教団体だからといって、そういった方法が見つけれるかどうかは保証できないですし、自身が主体的に見つけようと努力するかどうかといわざるを得ないのです。
巷には多くの情報があふれています。
それを使わない手はないです。
宗教だけに縋って、根本解決を探索することはナンセンスといわざるを得ないのです。
このように人類は科学的な思考法によって、目の前にある障害を乗り越えてきたのです。
ゆえに、古代や中世、またはそれ以降の過去の時代において、有効とされてきたけれども、実際はそうでなかった事柄について、無批判になっているのではなく、物事を構造的に明らかにしたうえで、何をするのが有効かを見極めて、行動に移すのが重要ということです。
確かに、宗教で言われたことを実行にしたら、打開がかなったということは当然あるでしょう。
しかし、それがその人の場合は有効だったのであって、何ぴとにも有効とは言えないでしょうし、経文をあげることではもっと的外れなことで終わってしまうことは容易に想像できます。
こういう場合どうすればいいか、を大川総裁が逐一科学的な本からや、あるいは人生の経験から抽出した理論や他人の経験から学んで、それを吟味して話に盛り込んで講演等で話したり、本に書いて出したりしてきたがゆえに、幸福の科学に関しては信頼を置いているのです私は。
決していにしえの宗教で言われていたことに全くの無批判のまま、その開祖の言った言葉を引き合いに出して説明しているだけで逢着させている宗教団体には、信頼を置けません。
開祖の言ったことだけでなく、いろんなジャンルの本から学んで盛り込む、という姿勢が誰にも期待しているのです私は。
いにしえの宗教の言ったことだけでことがうまくいくはずはないですし、いにしえの時代で言われていたことが現代社会ですべて有効とも思えないからです。

また幸福の科学において言われていることが、そっくりそのまま万人に有効かといわれれば、それも保証できるかどうかは心もとない、というのが正直なところです。
やはりいくら大川総裁がカリスマ的であっても、万般にわたる経験をしてきたわけではないので、盤石な有効性があるということは言えないからです。
そこは、自身で経験して誰にも誇れるという理論を抽出できたのであれば、それはこれから先誇っていっていいということを言いたいのです私は。
誰にとっても、世界中に広まった宗教でも得れない経験理論があるのは事実なのです。
それにも期待しているのです私は。
宗教で言われていることも大事ゆえに、それを学びつつも、自身で「それ以外にもいいことはないか」と探索しながら、いろんな事柄を主体的に学び実行していくのが王道と思っているのです。
そんな立場に共鳴できる人にとってお勧めできるのが以下の電子書籍です。
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♯幸福の科学
♯日蓮正宗系
宗祖は博学であり、神仏からその能力を付与された。ゆえに無批判でいいか? (幸福の科学)
宗教の開宗は人間の歴史を見れば、多く存在します。
そのいずれの場合でも宗祖の資質を分析すると、多くの分野に長けているということが挙げれると思います。
宗教だけの知識だけでなく、いろんな隣接する宗教に関する幾多の知識はもちろん、科目や分野に関する知識をふんだんに持ち合わせている、ということが挙げれるでしょう。
そして、本を書く能力があり、一気に幾冊も書いてしまう能力があるということでしょう。
こういうことに興味が持てた私は、聖徳太子や空海、日蓮といった僧侶を垣間見ると、これらの人たちは、いろんな知識に博学であり、開宗当時の時代のような紙がものすごく希少だったにもかかわらず、分厚い本を何冊も書いてしまっていたのです。

誰もが中学生や高校時代において、いらない紙に何度も書いて知識を詰め込んだり、マーカーで線を引いて、そこを下敷きなどで隠してそのマークした部分を当てる、という勉強をしていたとは思いますが、開祖たちは、そんなことをせずとも、本を読んだり、人から伝えられただけで内容をすぐに脳内に叩き入れることができたがゆえに、当時の時代においても幾冊もの本を書き、それを現代でも遺していることができたのです。
まさに神懸かり状態だったのです。
そういう能力を神や仏といった人智を超えた存在が、開祖たちに能力を見出して、開宗のための悟りを開かせたのではないか、開宗のための能力を付与したのではないかと思わざるを得ないのですね私は。
真似をしようにもできないのです凡人には。
そんな神懸かりの資質を幸福の科学の故.大川隆法総裁(下写真)にも見出さざるを得ないのですね。

かなりの博学、そして本を書きあげてしまう能力ですね。
これまでに書いて出した本の数は3100冊以上です。
計算すれば、約10日に1冊のペースで出してきたのです。
これほどのものは、到底凡人にはたどり着けない能力でしょう。
その神懸かりの能力の体感は、総裁の書いた本を読むことでも感じるでしょう。
興味のある人は、総裁の書いた本を1冊でも良いから読むことをすべきと思います。
大川総裁の書いた『智慧の法』には以下のように書いてあります。
「七十億人になりなんとする、この世界人口のなかで、間違った独裁者や専制者のような人が出てきて、多くの人々を間違った方向に導いていかないようにすることなのです。」(P,43)
先程、宗祖はいろんな分野の知識にも通じていなければいけない、ということを書きましたが、その一端をこの文章からも見いだせるでしょう。
これまでの人類の歴史から抽出した理論を構築したのが歴史学なのです。
それにも通じているのがわかります。

ただ単に宗教についての知識が豊富にあるだけでは、多面的に人を惹きつけることにはつながらないのです。
こういう歴史学に通じることによっても、人を啓蒙することができるのです。
ただ単に宗教に入って経文を唱える…これだけで人類の先行きを打開できるはずもないのです。
これまでの歴史から学ぶメリットは、「歴史は繰り返す」というテーゼを前提にしながら、人に警告の念を思い起させたり、心に留めておくべき事実を提示するのです。
こういうことも、宗祖には求められる姿ではないでしょうか?
また総裁は、専門以外を学ぶメリット、外国語を学ぶメリット、歴史を学ぶメリットを同じく『智慧の法』で書いているのです。
人類の歴史を垣間見るとわかるように、人類には最初に哲学があり、そこから情報爆発が起こり、学びやすくするために、専門分化が起こり、経済学や法学や心理学といった諸々の科学が派生したのです。
学びやすくするために分化が進んだのであって、1つの専門に閉じこもるのはナンセンスでしょう。
1つのものだけを学んでいては、他の科学では学べない視点や考え方や知識を得ることができないがゆえに、出来る限り総合的に学ばなくてはならないのは言うまでもないのです。
そういう姿勢を大川総裁は逝去するまで貫いたのです。
こういう姿勢には瞠目すべき点として称賛したいと思います。
先に「そういう能力を神や仏といった人智を超えた存在が、開祖たちに能力を見出して、開宗のための悟りを開かせたのではないか、と思わざるを得ないのですね私は。」と書きましたが、だからといって、そういった古代や中世やそれ以降の時代などに宗祖となった人たちの出した理論を、そっくりそのまま無批判に受け入れていいとは思わないのです。
例えば、日蓮は生前に「仏法僧を敬え」としていたのですが、その言葉を引き合いに出して日蓮正宗の法主や住職といった人たちが、堕落に向かっていったのは周知の通りですし、その実態は、それまでの歴史について書かれた本やエピソードを読めばわかります。
自分は敬われる存在なんだ、という思いからか、供養金をもらうことだけに意識のバイアスがかかってしまう僧が出てきたり、横柄な僧が出てきたりするのは幾十もの例を読ませてもらいました。
こういう僧が出てくることを日蓮は、歴史的経緯を見ることができなかったがゆえに、わからなかったのは言うまでもないのです。

ゆえに日蓮を批判しようとは思いませんが、だからといって無批判で良いわけはないのです。
そこは批判的になって、僧侶を正していかなくてはならないでしょう。
もちろん、日蓮正宗の僧侶のだれもが必ず堕落する、あるいは堕落していくなどという極論は当てはまらないです。
誠心誠意、民衆の立場になって対応している誠実な日蓮正宗の僧侶と会い、話しをしたことも私はあります。
しかし、日蓮の遺した言葉を依拠して、堕落してしまう僧が出てきてしまうことも事実ゆえに、無批判でいることの危険性を指摘しているのです。
また時代にそぐわない宗祖の言葉も出現してしまう、ということもあり得るのです。
それも、また現実社会との照合を通じて見極めていくことが大事でしょう。
また、こと幸福の科学についても、後世になって時代との照合の結果そぐわない、ということも当然起きるでしょう。
そこは信者の人たちが自身の脳で考えて、取捨選択をしてそして吟味していくことが大事でしょう。
私が言いたいのはそういうことです。
そういう理論に共鳴できる人にとってお勧めしたいのが以下の本です。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
●以下よりどうぞ!
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯宗祖の素質♯幸福の科学
そのいずれの場合でも宗祖の資質を分析すると、多くの分野に長けているということが挙げれると思います。
宗教だけの知識だけでなく、いろんな隣接する宗教に関する幾多の知識はもちろん、科目や分野に関する知識をふんだんに持ち合わせている、ということが挙げれるでしょう。
そして、本を書く能力があり、一気に幾冊も書いてしまう能力があるということでしょう。
こういうことに興味が持てた私は、聖徳太子や空海、日蓮といった僧侶を垣間見ると、これらの人たちは、いろんな知識に博学であり、開宗当時の時代のような紙がものすごく希少だったにもかかわらず、分厚い本を何冊も書いてしまっていたのです。

誰もが中学生や高校時代において、いらない紙に何度も書いて知識を詰め込んだり、マーカーで線を引いて、そこを下敷きなどで隠してそのマークした部分を当てる、という勉強をしていたとは思いますが、開祖たちは、そんなことをせずとも、本を読んだり、人から伝えられただけで内容をすぐに脳内に叩き入れることができたがゆえに、当時の時代においても幾冊もの本を書き、それを現代でも遺していることができたのです。
まさに神懸かり状態だったのです。
そういう能力を神や仏といった人智を超えた存在が、開祖たちに能力を見出して、開宗のための悟りを開かせたのではないか、開宗のための能力を付与したのではないかと思わざるを得ないのですね私は。
真似をしようにもできないのです凡人には。
そんな神懸かりの資質を幸福の科学の故.大川隆法総裁(下写真)にも見出さざるを得ないのですね。
かなりの博学、そして本を書きあげてしまう能力ですね。
これまでに書いて出した本の数は3100冊以上です。
計算すれば、約10日に1冊のペースで出してきたのです。
これほどのものは、到底凡人にはたどり着けない能力でしょう。
その神懸かりの能力の体感は、総裁の書いた本を読むことでも感じるでしょう。
興味のある人は、総裁の書いた本を1冊でも良いから読むことをすべきと思います。
大川総裁の書いた『智慧の法』には以下のように書いてあります。
「七十億人になりなんとする、この世界人口のなかで、間違った独裁者や専制者のような人が出てきて、多くの人々を間違った方向に導いていかないようにすることなのです。」(P,43)
先程、宗祖はいろんな分野の知識にも通じていなければいけない、ということを書きましたが、その一端をこの文章からも見いだせるでしょう。
これまでの人類の歴史から抽出した理論を構築したのが歴史学なのです。
それにも通じているのがわかります。
ただ単に宗教についての知識が豊富にあるだけでは、多面的に人を惹きつけることにはつながらないのです。
こういう歴史学に通じることによっても、人を啓蒙することができるのです。
ただ単に宗教に入って経文を唱える…これだけで人類の先行きを打開できるはずもないのです。
これまでの歴史から学ぶメリットは、「歴史は繰り返す」というテーゼを前提にしながら、人に警告の念を思い起させたり、心に留めておくべき事実を提示するのです。
こういうことも、宗祖には求められる姿ではないでしょうか?
また総裁は、専門以外を学ぶメリット、外国語を学ぶメリット、歴史を学ぶメリットを同じく『智慧の法』で書いているのです。
人類の歴史を垣間見るとわかるように、人類には最初に哲学があり、そこから情報爆発が起こり、学びやすくするために、専門分化が起こり、経済学や法学や心理学といった諸々の科学が派生したのです。
学びやすくするために分化が進んだのであって、1つの専門に閉じこもるのはナンセンスでしょう。
1つのものだけを学んでいては、他の科学では学べない視点や考え方や知識を得ることができないがゆえに、出来る限り総合的に学ばなくてはならないのは言うまでもないのです。
そういう姿勢を大川総裁は逝去するまで貫いたのです。
こういう姿勢には瞠目すべき点として称賛したいと思います。
先に「そういう能力を神や仏といった人智を超えた存在が、開祖たちに能力を見出して、開宗のための悟りを開かせたのではないか、と思わざるを得ないのですね私は。」と書きましたが、だからといって、そういった古代や中世やそれ以降の時代などに宗祖となった人たちの出した理論を、そっくりそのまま無批判に受け入れていいとは思わないのです。
例えば、日蓮は生前に「仏法僧を敬え」としていたのですが、その言葉を引き合いに出して日蓮正宗の法主や住職といった人たちが、堕落に向かっていったのは周知の通りですし、その実態は、それまでの歴史について書かれた本やエピソードを読めばわかります。
自分は敬われる存在なんだ、という思いからか、供養金をもらうことだけに意識のバイアスがかかってしまう僧が出てきたり、横柄な僧が出てきたりするのは幾十もの例を読ませてもらいました。
こういう僧が出てくることを日蓮は、歴史的経緯を見ることができなかったがゆえに、わからなかったのは言うまでもないのです。
ゆえに日蓮を批判しようとは思いませんが、だからといって無批判で良いわけはないのです。
そこは批判的になって、僧侶を正していかなくてはならないでしょう。
もちろん、日蓮正宗の僧侶のだれもが必ず堕落する、あるいは堕落していくなどという極論は当てはまらないです。
誠心誠意、民衆の立場になって対応している誠実な日蓮正宗の僧侶と会い、話しをしたことも私はあります。
しかし、日蓮の遺した言葉を依拠して、堕落してしまう僧が出てきてしまうことも事実ゆえに、無批判でいることの危険性を指摘しているのです。
また時代にそぐわない宗祖の言葉も出現してしまう、ということもあり得るのです。
それも、また現実社会との照合を通じて見極めていくことが大事でしょう。
また、こと幸福の科学についても、後世になって時代との照合の結果そぐわない、ということも当然起きるでしょう。
そこは信者の人たちが自身の脳で考えて、取捨選択をしてそして吟味していくことが大事でしょう。
私が言いたいのはそういうことです。
そういう理論に共鳴できる人にとってお勧めしたいのが以下の本です。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
●以下よりどうぞ!
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♯宗祖の素質♯幸福の科学
あの世はあるかないか?あると規定する方がよろしい? (幸福の科学)
こんにちは。
いろんな宗教の本を読んでいると、やはり人間だれしも宗教的な知識を学ぶ必要はある気がしてくるものですね。
この世での倫理しか説かない宗教はよくありますが、それは、その宗教の長が、あの世に行けなかったり、霊視ができなかったりといった理由があるがために、それでは信者に話しても信用してもらえないからそういうことになっているのかなと思います。
であるならば、そういう芸当ができた人の話しを引き合いに出して説けばいいのではないかと思われてならないのです。
あの世のことについて学ぶことによって、この世での自分の行動を律することができるのは言うまでもないです。
また神様が、いま自分を見て評価してくれている、という気分になればおのずから、品方公正な人物になっていくでしょう。
それをいきなり信じろ、といわれても難しい話しです。
ゆえに、宗教団体の媒体紙などを使って、公開していく必要があるのではないでしょうか。
幸福の科学の総裁であった故.大川隆法氏(下写真)は、いろんな宗教的なことを知り尽くしたまさに神懸かりな人物であったことは間違ないでしょう。

その博学さを知れる当会の冊子を読んで知ったことは以下です。
イエスが教えを説いた時間が短く、3年程度しかなかった、ということです。
そして、キリスト教においては、地獄には堕ちたらもう上がってこれない。
永遠の業火で焼かれて続けていくということです。

命の門はキリスト教を信じて入ることというふうな感じということです。
さらに伝道のためなのか、キリスト教以外では救われないということです。
なるほど、昔の人は宗教ん縋る人が、今とは比べ物にならないほど多かったのです。
ゆえに、キリスト教徒は、世界中を植民地にしたのみならず、伝道のためと称し、当地の人たちをキリスト教に改宗させたのです。
それで従わないならば、その人たちを殺してきたのです。
人類の歴史で一番人を殺してきた宗教はキリスト教であるのは間違いないです。

しかし、キリスト教では、異教徒、邪教徒でも反省して、キリスト教にすがるようになって帰依したら天国に入れる、上がれるというようなワンクッションを考えたのです。
イスラム教においては、総裁に言わせれば、霊界描写が少し甘いということです。
それは、ムハンマドの霊体験が浅いからだということになっています。
悪霊としてのジンというのがあることになっている。
イスラムの開祖.ムハンマドはキリスト教も勉強しているんですがこういうことになっているのです。
ことはキリスト教であろうが、イスラム教であろうが、仏教であろうが、死んだら地獄か天国に行くということは一致しているようです。
その描写に関しては各宗教によって、風景やそこに登場する人物名に違いはあるものの、その死んで上がってきた人を判断していくということでは一致しているのです。
ゆえに、宗教は根は一つ、という命題が出てきてもおかしくはないですね。
ゆえに、当会の本尊であるエルカンターレが、仏教の開祖であるゴータマ.シッダールタやキリスト教の開祖であるイエス.キリストに本体を遣わしたという命題も成り立つでしょう。
ただ、受け入れられないのは、キリスト教では、この宗教の信者にならないと、死んだら地獄に落ちるという教えですね(笑)

そういうことは、植民地化を正当化するために、当時のキリスト教の長が歪曲したのか、さては本当なのかはわかりかねます。
ただ、そんな教えでないならば、すぐに改定してほしいものですし、もし本当ならば、そんな恐ろしい宗教ならば、ない方がましでしょう。
私はキリスト教徒にはなりたくないです。
それは、伝道師がいなくては意味がちんぷんかんぷんなので学べないというのが最大の理由です。
しかし、いつか死んで、あの世に行って審判者から「お前は、キリスト教徒でなかったからお前は地獄行きだ」といわれたら、それは甘んじるほかないでしょう。
しかし、それでも、私は世のため、人のために、人が見ていなくても、自ら毎日実行していますから、それに関しては誇りに思っています。
それでキリスト教徒でなかったから、という理由で地獄行きになったら、その時は首をくくるしかないでしょう。
私にはあの世に行けたり、霊視する能力がないので、今それを判断することはできませんので、こういうスタンスになってしまいます。
そんなスタンスに共鳴してくれる人には以下の電子書籍はお勧めです!
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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♯幸福の科学
♯地獄
♯キリスト教
いろんな宗教の本を読んでいると、やはり人間だれしも宗教的な知識を学ぶ必要はある気がしてくるものですね。
この世での倫理しか説かない宗教はよくありますが、それは、その宗教の長が、あの世に行けなかったり、霊視ができなかったりといった理由があるがために、それでは信者に話しても信用してもらえないからそういうことになっているのかなと思います。
であるならば、そういう芸当ができた人の話しを引き合いに出して説けばいいのではないかと思われてならないのです。
あの世のことについて学ぶことによって、この世での自分の行動を律することができるのは言うまでもないです。
また神様が、いま自分を見て評価してくれている、という気分になればおのずから、品方公正な人物になっていくでしょう。
それをいきなり信じろ、といわれても難しい話しです。
ゆえに、宗教団体の媒体紙などを使って、公開していく必要があるのではないでしょうか。
幸福の科学の総裁であった故.大川隆法氏(下写真)は、いろんな宗教的なことを知り尽くしたまさに神懸かりな人物であったことは間違ないでしょう。

その博学さを知れる当会の冊子を読んで知ったことは以下です。
イエスが教えを説いた時間が短く、3年程度しかなかった、ということです。
そして、キリスト教においては、地獄には堕ちたらもう上がってこれない。
永遠の業火で焼かれて続けていくということです。

命の門はキリスト教を信じて入ることというふうな感じということです。
さらに伝道のためなのか、キリスト教以外では救われないということです。
なるほど、昔の人は宗教ん縋る人が、今とは比べ物にならないほど多かったのです。
ゆえに、キリスト教徒は、世界中を植民地にしたのみならず、伝道のためと称し、当地の人たちをキリスト教に改宗させたのです。
それで従わないならば、その人たちを殺してきたのです。
人類の歴史で一番人を殺してきた宗教はキリスト教であるのは間違いないです。

しかし、キリスト教では、異教徒、邪教徒でも反省して、キリスト教にすがるようになって帰依したら天国に入れる、上がれるというようなワンクッションを考えたのです。
イスラム教においては、総裁に言わせれば、霊界描写が少し甘いということです。
それは、ムハンマドの霊体験が浅いからだということになっています。
悪霊としてのジンというのがあることになっている。
イスラムの開祖.ムハンマドはキリスト教も勉強しているんですがこういうことになっているのです。
ことはキリスト教であろうが、イスラム教であろうが、仏教であろうが、死んだら地獄か天国に行くということは一致しているようです。
その描写に関しては各宗教によって、風景やそこに登場する人物名に違いはあるものの、その死んで上がってきた人を判断していくということでは一致しているのです。
ゆえに、宗教は根は一つ、という命題が出てきてもおかしくはないですね。
ゆえに、当会の本尊であるエルカンターレが、仏教の開祖であるゴータマ.シッダールタやキリスト教の開祖であるイエス.キリストに本体を遣わしたという命題も成り立つでしょう。
ただ、受け入れられないのは、キリスト教では、この宗教の信者にならないと、死んだら地獄に落ちるという教えですね(笑)
そういうことは、植民地化を正当化するために、当時のキリスト教の長が歪曲したのか、さては本当なのかはわかりかねます。
ただ、そんな教えでないならば、すぐに改定してほしいものですし、もし本当ならば、そんな恐ろしい宗教ならば、ない方がましでしょう。
私はキリスト教徒にはなりたくないです。
それは、伝道師がいなくては意味がちんぷんかんぷんなので学べないというのが最大の理由です。
しかし、いつか死んで、あの世に行って審判者から「お前は、キリスト教徒でなかったからお前は地獄行きだ」といわれたら、それは甘んじるほかないでしょう。
しかし、それでも、私は世のため、人のために、人が見ていなくても、自ら毎日実行していますから、それに関しては誇りに思っています。
それでキリスト教徒でなかったから、という理由で地獄行きになったら、その時は首をくくるしかないでしょう。
私にはあの世に行けたり、霊視する能力がないので、今それを判断することはできませんので、こういうスタンスになってしまいます。
そんなスタンスに共鳴してくれる人には以下の電子書籍はお勧めです!
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『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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♯幸福の科学
♯地獄
♯キリスト教
その宗教を信じるか信じないかは、その団体発行の書物をじっくりよんでから決めるべし?!(幸福の科学)
こんにちは。
私は幸福の科学については大幅に信頼を託している立場です。
この世での倫理を説くだけで逢着してしまっている宗教も多い現今の世の中において、あの世や霊界といったことにまで言及し、それから学んで、自分やその周りの人々や社会をよくしていくことを考えて行動させる動機につながるものではないと宗教とは言えないというモラルをこれまでの勉強で形成してきたからです。
その教えを広め、そのモラルを実現するには、やはり政界進出も視野に入れなければならないのは言うまでもないことです。
しかし、この団体が幸福実現党を結党し、候補者を推すもののこれまで国会議員として当選させたことは一度もないのです。
これは悲しい限りです。
宗教をバックに国会議員を当選させるまでに30年を要した公明党のようにじわりじわりと歳月をかけるべきだったのでしょうが、故.大川隆法総裁は、それまで待てなかったのでしょう。
自分が死ぬまでに、何とか候補者を当選させたいという思いがあり、お金を使って突貫していったのです。
しかし現実は…。
それに使った額は90億円だそうです。
それに懲りたのか、あるいは総裁がなくなってしまったのかわかりかねますが、地道に地方からの選挙にゆだねることにしたようです。
その結果、2023年4月、統一地方選挙で22人の公認候補が当選し、48人の地方議員が活動しているのだそうです。
これまでは延93人が当選ということです。
その、国会議員擁立からはすべきでなかったという故.総裁の不肖の息子である宏洋氏(下写真)の言葉にはピンとくるものがありました。

しかし、彼に賛同するのはそこだけでした。
私は、宏洋氏の動画を見て、そして彼の書いた総裁批判の本を読んだりした時に、「この内容は一番近くにいた人の書いた内容だから本物なのだろう!」と思ったのですが、「ちょっとまった」と立ち止まり(笑)、もう一度、総裁の本や体験者の内容を読んだりして、両方を中立の立場で吟味したところ、宏洋氏の方が誤っているのではないか?と思うようになりました。
総裁は信者のことを見下していて金づるにしか思っていない、とか、総裁にエルカンターレが下生したというのはフィクションだ、とか言った言葉に気がかりになりましたが、偽物ならば、信者を卑下するような人が、あんなにたくさんの励ましの言葉を本にかけれるか、あるいは使命感なくしてあんなたくさんの本(3100冊以上)が書けるか、と不信に思うようになりました。
両方を均等に俯瞰したところ、やはり宏洋氏の方が嘘なのではないか、と思うようになったのです。
そしてその後、幸福の科学から、動画や本の内容が嘘であるとして訴えられて、7度の敗訴をしているのです。
やはり私の俯瞰した結果と一緒だったのです。
あのように宏洋氏が父親及び教団に対して反旗を翻してしまったのは、やはり親子関係がよくなかったのです。
単なる不仲ではなく、父親の生活態度が、子供の心身ともの発育に悪影響を及ぼしていた、ということがわかりました。
故.総裁が横柄な態度だったということではないのです。
ではどんな内容かは、以下に掲げる電子書籍を参考にしてほしいです。
故.総裁(下写真)は、小説や論文の本を大量に書いたりするだけでなく、悟りに伴う高度な霊能力により、未知なる世界の真相を伝えていたのです。

例えば、心霊現象や天変地異の原因や、過去の出来事、未来社会の姿、遥かかなたの惑星の様子等を透視したり、人間の臓器の意識と対話して、病気の原因と対処法を示したりということです。
そういった能力によって、人を覚醒させ、行動に結びつかせて、幸福に導いていったのです。
その内容は、幸福の科学が発行している冊子に、実体験談が書いてあるので、それを読んでほしいです。
それを数冊読んで、それでも信じれないというのならば信じる必要はないでしょう。
信仰とは強制させるものではないのですから。
選ぶ、あるいは選ばなかったことによって、どうなるかは私にはわからないですし、いずれの道を選んで行動したことによって、得た結果は全部自身の責任であるということです。
私はどの宗教団体にもくみしない立場です。
しかし、この世とあの世、過去、霊といったものを総合的に論じるような幅広い視点を踏まえたいと思っている人にはお勧めですし、見てみたら、という立場なのです。
それでも信じる信じないはその人本人に任せるほかないのです。
この世に絶対なるものはないのです。
それを前提としながら、補正していくのがいいというのが私の立場です。
●そんな立場の本を読みたい人は以下をどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle

今回はこれにて終了します。
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♯幸福の科学
♯幸福実現党
私は幸福の科学については大幅に信頼を託している立場です。
この世での倫理を説くだけで逢着してしまっている宗教も多い現今の世の中において、あの世や霊界といったことにまで言及し、それから学んで、自分やその周りの人々や社会をよくしていくことを考えて行動させる動機につながるものではないと宗教とは言えないというモラルをこれまでの勉強で形成してきたからです。
その教えを広め、そのモラルを実現するには、やはり政界進出も視野に入れなければならないのは言うまでもないことです。
しかし、この団体が幸福実現党を結党し、候補者を推すもののこれまで国会議員として当選させたことは一度もないのです。
これは悲しい限りです。
宗教をバックに国会議員を当選させるまでに30年を要した公明党のようにじわりじわりと歳月をかけるべきだったのでしょうが、故.大川隆法総裁は、それまで待てなかったのでしょう。
自分が死ぬまでに、何とか候補者を当選させたいという思いがあり、お金を使って突貫していったのです。
しかし現実は…。
それに使った額は90億円だそうです。
それに懲りたのか、あるいは総裁がなくなってしまったのかわかりかねますが、地道に地方からの選挙にゆだねることにしたようです。
その結果、2023年4月、統一地方選挙で22人の公認候補が当選し、48人の地方議員が活動しているのだそうです。
これまでは延93人が当選ということです。
その、国会議員擁立からはすべきでなかったという故.総裁の不肖の息子である宏洋氏(下写真)の言葉にはピンとくるものがありました。

しかし、彼に賛同するのはそこだけでした。
私は、宏洋氏の動画を見て、そして彼の書いた総裁批判の本を読んだりした時に、「この内容は一番近くにいた人の書いた内容だから本物なのだろう!」と思ったのですが、「ちょっとまった」と立ち止まり(笑)、もう一度、総裁の本や体験者の内容を読んだりして、両方を中立の立場で吟味したところ、宏洋氏の方が誤っているのではないか?と思うようになりました。
総裁は信者のことを見下していて金づるにしか思っていない、とか、総裁にエルカンターレが下生したというのはフィクションだ、とか言った言葉に気がかりになりましたが、偽物ならば、信者を卑下するような人が、あんなにたくさんの励ましの言葉を本にかけれるか、あるいは使命感なくしてあんなたくさんの本(3100冊以上)が書けるか、と不信に思うようになりました。
両方を均等に俯瞰したところ、やはり宏洋氏の方が嘘なのではないか、と思うようになったのです。
そしてその後、幸福の科学から、動画や本の内容が嘘であるとして訴えられて、7度の敗訴をしているのです。
やはり私の俯瞰した結果と一緒だったのです。
あのように宏洋氏が父親及び教団に対して反旗を翻してしまったのは、やはり親子関係がよくなかったのです。
単なる不仲ではなく、父親の生活態度が、子供の心身ともの発育に悪影響を及ぼしていた、ということがわかりました。
故.総裁が横柄な態度だったということではないのです。
ではどんな内容かは、以下に掲げる電子書籍を参考にしてほしいです。
故.総裁(下写真)は、小説や論文の本を大量に書いたりするだけでなく、悟りに伴う高度な霊能力により、未知なる世界の真相を伝えていたのです。

例えば、心霊現象や天変地異の原因や、過去の出来事、未来社会の姿、遥かかなたの惑星の様子等を透視したり、人間の臓器の意識と対話して、病気の原因と対処法を示したりということです。
そういった能力によって、人を覚醒させ、行動に結びつかせて、幸福に導いていったのです。
その内容は、幸福の科学が発行している冊子に、実体験談が書いてあるので、それを読んでほしいです。
それを数冊読んで、それでも信じれないというのならば信じる必要はないでしょう。
信仰とは強制させるものではないのですから。
選ぶ、あるいは選ばなかったことによって、どうなるかは私にはわからないですし、いずれの道を選んで行動したことによって、得た結果は全部自身の責任であるということです。
私はどの宗教団体にもくみしない立場です。
しかし、この世とあの世、過去、霊といったものを総合的に論じるような幅広い視点を踏まえたいと思っている人にはお勧めですし、見てみたら、という立場なのです。
それでも信じる信じないはその人本人に任せるほかないのです。
この世に絶対なるものはないのです。
それを前提としながら、補正していくのがいいというのが私の立場です。
●そんな立場の本を読みたい人は以下をどうぞ!
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ちょっとしたことで人の人生観は変わる!宏洋氏を変えた人生観は何か?(幸福の科学)
こんにちは。
前回、大学時代において小さい声で話していたがゆえに、友人が全然いなくて、暗黒な気分になっていたけれども、ある人から大きい声で話すことを諭されて、そういうようにしたら友人が大勢できるようになって、それからはまるで違う世界観になったことを話しました。
そんな大学時代においても受けいれてくれた優しい人がいて、その人だけには好意、その人以外には敵対心を持って生活していたように思います。
しかし、それでは社会生活はいけませんね。
どんな人とでも平等に接しなくてはいけないのです。

自分を受け入れてくれる人とだけ接していては、他の人に良い感じを与えるはずもなく、いずれ孤立することになるでしょう。
それと宗教生活は一緒でしょう。
自分を受け入れてくれる信者には好意を持って接して、そうでない人には敵対心を持って生活していては、何のための宗教かわかりません。
私に「もっと元気よく喋りなさい」と言ってくれた先輩がいたおかげではありますが、その一言がなかったら違う世界観を持って生きていた可能性大です。
私は、変な宗教の教祖になっていた可能性もあります(笑)
「この世は、冷たい人の集まりだ。集え、現代社会にいる冷たい人たちに冷遇されてきた人たちよ。皆で慰め合おうではないかないか!」
などと呼び掛けて、信者を集う変な宗教団体の長になっていたかもしれないです(笑)
しかし、ほんのちょっと声のトーンをかえるだけで世界観が変わるから、世の中は面白いな、と思った次第です。

このホンのちょっとしたことが、その人の世界観を変えるのです。
周りの私とあなたたちとは違うみたいな世界観で生きていたのですが、これが晴れて友好的な世界観にかわったのですから、面白いです。
これまで幸福の科学に関しては、私は信者にはならないけれども多面性を有した宗教団体として評価はしてきました。
しかし、この団体の総裁であった故.大川隆法総裁の不肖の息子である宏洋氏は、父親やこの団体に反旗を翻し、父親や団体に対して、批判を動画や本で繰り返し、その内容が真実とは違うとして、裁判を提起されて7度敗訴しているのです。
何故、このような不肖の子供ができてしまうのか?
いろいろ家族心理学や家庭心理学といったたぐいの本を読んで、研究してきました。
その結果、ちょっとしたことが原因だったのがわかりました。
宏洋氏(下写真)の本を読んで、「宏洋氏は、大川隆法のそばにいつもいた人だ。
それゆえに、この人の書いてあることだから、間違いはないだろうと思って、宏洋氏の書いてあることは全部真実だ」と思ってしまう危険性は大いにあるでしょう。

しかし、それは7度の敗訴からわかるように誤りですし、正当か虚偽かは、宏洋氏と総裁の本の両方を読んで判断すべきでしょう。
偏った情報だけで判断するのは誤りでしょう。
そんな気がするのですね。
そんな立場に与することができる人には以下の本がおすすめです。
●以下よりどうぞ。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯宗教
♯宏洋
前回、大学時代において小さい声で話していたがゆえに、友人が全然いなくて、暗黒な気分になっていたけれども、ある人から大きい声で話すことを諭されて、そういうようにしたら友人が大勢できるようになって、それからはまるで違う世界観になったことを話しました。
そんな大学時代においても受けいれてくれた優しい人がいて、その人だけには好意、その人以外には敵対心を持って生活していたように思います。
しかし、それでは社会生活はいけませんね。
どんな人とでも平等に接しなくてはいけないのです。

自分を受け入れてくれる人とだけ接していては、他の人に良い感じを与えるはずもなく、いずれ孤立することになるでしょう。
それと宗教生活は一緒でしょう。
自分を受け入れてくれる信者には好意を持って接して、そうでない人には敵対心を持って生活していては、何のための宗教かわかりません。
私に「もっと元気よく喋りなさい」と言ってくれた先輩がいたおかげではありますが、その一言がなかったら違う世界観を持って生きていた可能性大です。
私は、変な宗教の教祖になっていた可能性もあります(笑)
「この世は、冷たい人の集まりだ。集え、現代社会にいる冷たい人たちに冷遇されてきた人たちよ。皆で慰め合おうではないかないか!」
などと呼び掛けて、信者を集う変な宗教団体の長になっていたかもしれないです(笑)
しかし、ほんのちょっと声のトーンをかえるだけで世界観が変わるから、世の中は面白いな、と思った次第です。
このホンのちょっとしたことが、その人の世界観を変えるのです。
周りの私とあなたたちとは違うみたいな世界観で生きていたのですが、これが晴れて友好的な世界観にかわったのですから、面白いです。
これまで幸福の科学に関しては、私は信者にはならないけれども多面性を有した宗教団体として評価はしてきました。
しかし、この団体の総裁であった故.大川隆法総裁の不肖の息子である宏洋氏は、父親やこの団体に反旗を翻し、父親や団体に対して、批判を動画や本で繰り返し、その内容が真実とは違うとして、裁判を提起されて7度敗訴しているのです。
何故、このような不肖の子供ができてしまうのか?
いろいろ家族心理学や家庭心理学といったたぐいの本を読んで、研究してきました。
その結果、ちょっとしたことが原因だったのがわかりました。
宏洋氏(下写真)の本を読んで、「宏洋氏は、大川隆法のそばにいつもいた人だ。
それゆえに、この人の書いてあることだから、間違いはないだろうと思って、宏洋氏の書いてあることは全部真実だ」と思ってしまう危険性は大いにあるでしょう。

しかし、それは7度の敗訴からわかるように誤りですし、正当か虚偽かは、宏洋氏と総裁の本の両方を読んで判断すべきでしょう。
偏った情報だけで判断するのは誤りでしょう。
そんな気がするのですね。
そんな立場に与することができる人には以下の本がおすすめです。
●以下よりどうぞ。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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現代は科学と宗教の両方に縋るべし? (幸福の科学)
こんにちは。
人生をより良きものにするために向上させるには、どんな作業をするでしょうか?
うまくいかない…そこで、宗教団体に入り、宗教的な力を得て、向上させる。
それもいいでしょう。
人智を超えたものに縋ることで、それを叶えたいという気持ちはわからなくはないです。
そういう精神は、人間が古代より先に発生した時から存在していたのでしょうし今も存在するでしょう。

そういうものに縋るのはいいですが、その際に大事なのは、物事を構造的に明らかにすることです。
そう言う精神の元、科学が生まれたのです。
心理学とは、こういう事態になったらどういう気分に変化するか、ということを明らかにした学問です。
ゆえに、これまで生きてきた人生で、わかった場合、ある場面に出くわして、こういう対応をしたら喜ばれた、という経験があったら、喜ばれることを人に対してしてあげればいいのです。
この場合、何も心理学などまなばなくてもわかります。
しかし、自分が直面したことのない場面に出くわしたら、どうすればいいかを他人に相談するのがいいでしょう。
しかし、他人に聞いてもわからなかったら、心理学の本を学んで打開策を探すしなかいでしょう。
私は、大学生時代に声が小さかったので、訝しがられて特定の人しか私の相手をしてくれませんでした。

そして何年か後に、ある人からもう少し大きな声で話すことを提案されました。
すると、そうすることでいろんな人間と話せて、友人ができるようになりました。
多くの人に無視されていた人生から、ひとから受けいられ、人生観が大幅にかわったのです。
人のアドバイスって大事なんだと思った瞬間でした。
大学時代に友人ができなかったときに、何か幽霊の仕業か、怨念の仕業か、などと思ったものです。
しかしそうではなかった(笑)。
このように宗教に頼らずとも、打開策を出すことはできるのです。
科学は、これまでに先人たちが積み重ねてきた内奥を構造的に明らかにしたもので、自分の経験してこなかった部分についても知ることができるのです。
いくら経験豊富な人でも、人間のすべてを経験できるはずはないのですから、そこは謙虚に学ぶ必要があるでしょう。
いわば、科学の本を読むとは、他の人たちの経験を自分に取り入れることですから、これを利用しない手はないのです。
しかし、そういった科学だけでは打開策を練れない場合もあるのです。
霊にとりつかれる。
霊によって人生がおかしくなる。

こういう経験はこれまでの人間の経験上、多々あるものです、これまでの研究結果によって。
ゆえに、そういう霊についての勉強も欠かせないでしょう。
そのことによって、打開策が明らかになるのですから。
巷にある科学的な方法だけではわからないこともたくさんあるのです。
それは宗教的な分野に目を移して、勉強していくしかないわけですが、世間一般にはそういう霊やあの世について教えない宗派もあるから注意が必要です。
この世での倫理的なことしか教えない宗派がたくさんあるのです。
そういう場合は、速やかに主体的にそういうことを言及している本を読んでいくことをお勧めします。
ある海外の女優さんで、ホラー映画に出演することが決まり、その女優さんは憑依された人の役を演じるために、その憑りついた人の真似の練習をしていたら幻覚を見るようになった、という体験談がありました。
そういう同じ波動をした行動を場合、そういう悪霊や動物霊にとりつかれることが往々にしてあるようです。

これは大学などで習う心理学では言及されない事です。
ゆえに、そういう現象が起きたら、ひたすら心理学の本を紐解いて打開策を探そうとすることに陥ってしまいがちです、宗教を信じない人の場合は。
それで明快な答えが見つからないまま時間だけが過ぎてしまう…。
その科学万能主義になってしまう人の気持ちはわかります。
それまで科学的なことしか触れてこなかったわけですから。
しかし、そういう場合、虚心坦懐になって、そういうことを言及した宗教の本を読むことをお勧めします。
何も難しいことはないのですから。
それでその本をまるまる1冊読んで、なるほどと思ったら、そこから打開策を見つけ出し、実行するのがいいでしょう。
ただし、霊などの相手は人智を超えた相手なのですから、パソコンをいじったり、、無人清算機でお金を払うのとは違いますから、その手のことに精通して、対処の仕方を知っている霊能者や陰陽師や宗教者に謙虚に縋るのがいいでしょう。
決して私のように表面的に知っているだけの人にはアドバイスは求めないことです(笑)。

また幸福の科学は,そういう霊能関係ついても幅広い知恵を有した団体ですし、この団体の除霊によって打開した経験談も多数のりますで、参考にしていただければと思います。
そんな内容について知りたい人には、以下の電子書籍をお勧めします。
●以下よりどうぞ。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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人生をより良きものにするために向上させるには、どんな作業をするでしょうか?
うまくいかない…そこで、宗教団体に入り、宗教的な力を得て、向上させる。
それもいいでしょう。
人智を超えたものに縋ることで、それを叶えたいという気持ちはわからなくはないです。
そういう精神は、人間が古代より先に発生した時から存在していたのでしょうし今も存在するでしょう。

そういうものに縋るのはいいですが、その際に大事なのは、物事を構造的に明らかにすることです。
そう言う精神の元、科学が生まれたのです。
心理学とは、こういう事態になったらどういう気分に変化するか、ということを明らかにした学問です。
ゆえに、これまで生きてきた人生で、わかった場合、ある場面に出くわして、こういう対応をしたら喜ばれた、という経験があったら、喜ばれることを人に対してしてあげればいいのです。
この場合、何も心理学などまなばなくてもわかります。
しかし、自分が直面したことのない場面に出くわしたら、どうすればいいかを他人に相談するのがいいでしょう。
しかし、他人に聞いてもわからなかったら、心理学の本を学んで打開策を探すしなかいでしょう。
私は、大学生時代に声が小さかったので、訝しがられて特定の人しか私の相手をしてくれませんでした。

そして何年か後に、ある人からもう少し大きな声で話すことを提案されました。
すると、そうすることでいろんな人間と話せて、友人ができるようになりました。
多くの人に無視されていた人生から、ひとから受けいられ、人生観が大幅にかわったのです。
人のアドバイスって大事なんだと思った瞬間でした。
大学時代に友人ができなかったときに、何か幽霊の仕業か、怨念の仕業か、などと思ったものです。
しかしそうではなかった(笑)。
このように宗教に頼らずとも、打開策を出すことはできるのです。
科学は、これまでに先人たちが積み重ねてきた内奥を構造的に明らかにしたもので、自分の経験してこなかった部分についても知ることができるのです。
いくら経験豊富な人でも、人間のすべてを経験できるはずはないのですから、そこは謙虚に学ぶ必要があるでしょう。
いわば、科学の本を読むとは、他の人たちの経験を自分に取り入れることですから、これを利用しない手はないのです。
しかし、そういった科学だけでは打開策を練れない場合もあるのです。
霊にとりつかれる。
霊によって人生がおかしくなる。
こういう経験はこれまでの人間の経験上、多々あるものです、これまでの研究結果によって。
ゆえに、そういう霊についての勉強も欠かせないでしょう。
そのことによって、打開策が明らかになるのですから。
巷にある科学的な方法だけではわからないこともたくさんあるのです。
それは宗教的な分野に目を移して、勉強していくしかないわけですが、世間一般にはそういう霊やあの世について教えない宗派もあるから注意が必要です。
この世での倫理的なことしか教えない宗派がたくさんあるのです。
そういう場合は、速やかに主体的にそういうことを言及している本を読んでいくことをお勧めします。
ある海外の女優さんで、ホラー映画に出演することが決まり、その女優さんは憑依された人の役を演じるために、その憑りついた人の真似の練習をしていたら幻覚を見るようになった、という体験談がありました。
そういう同じ波動をした行動を場合、そういう悪霊や動物霊にとりつかれることが往々にしてあるようです。
これは大学などで習う心理学では言及されない事です。
ゆえに、そういう現象が起きたら、ひたすら心理学の本を紐解いて打開策を探そうとすることに陥ってしまいがちです、宗教を信じない人の場合は。
それで明快な答えが見つからないまま時間だけが過ぎてしまう…。
その科学万能主義になってしまう人の気持ちはわかります。
それまで科学的なことしか触れてこなかったわけですから。
しかし、そういう場合、虚心坦懐になって、そういうことを言及した宗教の本を読むことをお勧めします。
何も難しいことはないのですから。
それでその本をまるまる1冊読んで、なるほどと思ったら、そこから打開策を見つけ出し、実行するのがいいでしょう。
ただし、霊などの相手は人智を超えた相手なのですから、パソコンをいじったり、、無人清算機でお金を払うのとは違いますから、その手のことに精通して、対処の仕方を知っている霊能者や陰陽師や宗教者に謙虚に縋るのがいいでしょう。
決して私のように表面的に知っているだけの人にはアドバイスは求めないことです(笑)。

また幸福の科学は,そういう霊能関係ついても幅広い知恵を有した団体ですし、この団体の除霊によって打開した経験談も多数のりますで、参考にしていただければと思います。
そんな内容について知りたい人には、以下の電子書籍をお勧めします。
●以下よりどうぞ。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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いかなる宗教も万能薬にあらず。いわんや幸福の科学も?
こんにちは。
どうも宗教を研究していくと、その宗教に入信した人というのは、その宗教で言われていることには無批判になってしまい、その機関誌で書かれていない事に出くわすと、打開策をその宗教の経文を読んだり、お祈りすることで打開しようとする姿勢が見られます。

これはいいことなのか?
その答えは、その経文を唱えながら、並行して自身で打開策を見つけていくのがいいというのが結論です。
それまでの知識の蓄積がその宗教にはあるのですから、無闇に批判したりはしないです。
しかし、その方法がすべての人間に当てはまるのかといわれればそんなことはないですし、宗教に頼らずとも、自分が得てきた経験論があるのですから自信をもってその方法論を施行していくのがいいと思います。
それでうまくいかなかったら、違う方法なり、既存の方法にアレンジを加えるなどしていくのがいいと思っているのです私は。
決して宗教は万能薬ではないですから、そこを認識していかないことには、万全を期した解決法など見つかりませんから注意が必要です。
多くの本を読み、そこで得られた方法論を脳内で熟成させて信者に提示していた故.大川隆法総裁(下写真)には、私は一目を置いていたのです。

そういう姿勢こそ、解決策を見出す方法論として王道を行っているなと思っていたからです。
しかし、大川隆法総裁でも、経験したことのない挫折時において、他の人が出くわした困難において適切なアドバイスができるかといえばそうでもないとしか言いようがないです。
大幅な信頼は置くけれども、万能薬ではない、というのが私の意見です。
幸福の科学の機関雑誌は毎月いただいているのですが、そこには信者の体験談も当然載っているのです。
ある飲食店で働いていた時に、その店長がどうも人が良くない。
そこでその信者がしたことは、和顔愛語を心がけることだったといいます。
そして陰で、「店長腹たつわ〜!」と同僚と話すことでストレスを発散したということです。
私が思うのは、それでおいてが変わるとは思えない!ということです。
心理学を深く勉強すると、人間には2タイプがあって、1つは人の心に興味あるひと。
もう1つは、まるで人の心には興味のないひと。
この2つに分かれるということです。
後者のタイプの人には、いくらアプローチしようとも、いくら褒めても、こちらを気遣ってくれるようになることはないのですから、挨拶を交わすこともしなければ、愛想を振りまくこともしなくていいのです。
そういう努力をしたところで、それが実ることはないですから、注意が必要です。

いくら努力すれども、変わらない。
それがストレスになって、その人の陰口を言う。
そうなるとますますストレスになるスパイラルにはまるだけですから、そんな努力はする必要がないのです。
関心のない人には無視するのがいい。
それが結論です。
ストレスが、がんの最大の原因…こういったのは、『脳内革命』で有名な春山茂雄氏ですが、その本を読んだのか大川総裁も、そのようなことを機関誌や本で書いていたのです。
ならばノーストレスでいるためには、こういう人と関わらないのがいいのです。
実際私はそうしています。
3度もあちらをほめても、向こうがしてくれるのは私の上げ足とりですから、そういう人には挨拶も交わさないし、話しかける事もしないのです。
それでも向こうは落胆した様子は全くないのですから、安心すべきなのです。
また他の信者の体験談においては、ある企業に勤めていて、その会社は業績悪化のために、残業代が出ないことになったということです。

そこでその信者がしたことは植福(布施)をしたということです。
その人曰く、「植福(布施)したら言葉にできない幸福感があふれてきた」ということです。
これもまた、そんな方法で根本解決にはならないでしょう!ということです。
確かにその行為で気持ちの良くなることはあるでしょう。
しかしそれだけでは解決にならないのは明白です。
これもまた、宗教だけに解決法を見出そうとしたよくない例ですね。
しかし、そこですべきは、自身の収入を上げるべく何らかのアクションを起こすべきであるということです。
そういう植福という行為が何らかの働きをすることはままあるでしょう。
しかし、それだけでいいかということそんなことはないでしょうということです。
もっと巨視的に自身の宗教を眺めて、その他のことにも目が行くとようにすべきであるというのが私の立場なのです。

宗教的な行為やその宗教で言われていることだけに依拠しても、真の解決法を得ることはできないでしょうということです。
よしんば得れたとしても、どの人にも共通して解決になることはないでしょうと言いたいのです。
ゆえに宗教だけに頼るべからず、というのが私の立場なのです。
大川隆法および幸福の科学には大幅な信頼を置くけれども、それが万能薬ではない、ということです。
ゆえに私は信者にならない、ということです。
そんなスタンスに共鳴できる人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
非常にお勧めです。
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♯万能薬
どうも宗教を研究していくと、その宗教に入信した人というのは、その宗教で言われていることには無批判になってしまい、その機関誌で書かれていない事に出くわすと、打開策をその宗教の経文を読んだり、お祈りすることで打開しようとする姿勢が見られます。

これはいいことなのか?
その答えは、その経文を唱えながら、並行して自身で打開策を見つけていくのがいいというのが結論です。
それまでの知識の蓄積がその宗教にはあるのですから、無闇に批判したりはしないです。
しかし、その方法がすべての人間に当てはまるのかといわれればそんなことはないですし、宗教に頼らずとも、自分が得てきた経験論があるのですから自信をもってその方法論を施行していくのがいいと思います。
それでうまくいかなかったら、違う方法なり、既存の方法にアレンジを加えるなどしていくのがいいと思っているのです私は。
決して宗教は万能薬ではないですから、そこを認識していかないことには、万全を期した解決法など見つかりませんから注意が必要です。
多くの本を読み、そこで得られた方法論を脳内で熟成させて信者に提示していた故.大川隆法総裁(下写真)には、私は一目を置いていたのです。
そういう姿勢こそ、解決策を見出す方法論として王道を行っているなと思っていたからです。
しかし、大川隆法総裁でも、経験したことのない挫折時において、他の人が出くわした困難において適切なアドバイスができるかといえばそうでもないとしか言いようがないです。
大幅な信頼は置くけれども、万能薬ではない、というのが私の意見です。
幸福の科学の機関雑誌は毎月いただいているのですが、そこには信者の体験談も当然載っているのです。
ある飲食店で働いていた時に、その店長がどうも人が良くない。
そこでその信者がしたことは、和顔愛語を心がけることだったといいます。
そして陰で、「店長腹たつわ〜!」と同僚と話すことでストレスを発散したということです。
私が思うのは、それでおいてが変わるとは思えない!ということです。
心理学を深く勉強すると、人間には2タイプがあって、1つは人の心に興味あるひと。
もう1つは、まるで人の心には興味のないひと。
この2つに分かれるということです。
後者のタイプの人には、いくらアプローチしようとも、いくら褒めても、こちらを気遣ってくれるようになることはないのですから、挨拶を交わすこともしなければ、愛想を振りまくこともしなくていいのです。
そういう努力をしたところで、それが実ることはないですから、注意が必要です。

いくら努力すれども、変わらない。
それがストレスになって、その人の陰口を言う。
そうなるとますますストレスになるスパイラルにはまるだけですから、そんな努力はする必要がないのです。
関心のない人には無視するのがいい。
それが結論です。
ストレスが、がんの最大の原因…こういったのは、『脳内革命』で有名な春山茂雄氏ですが、その本を読んだのか大川総裁も、そのようなことを機関誌や本で書いていたのです。
ならばノーストレスでいるためには、こういう人と関わらないのがいいのです。
実際私はそうしています。
3度もあちらをほめても、向こうがしてくれるのは私の上げ足とりですから、そういう人には挨拶も交わさないし、話しかける事もしないのです。
それでも向こうは落胆した様子は全くないのですから、安心すべきなのです。
また他の信者の体験談においては、ある企業に勤めていて、その会社は業績悪化のために、残業代が出ないことになったということです。
そこでその信者がしたことは植福(布施)をしたということです。
その人曰く、「植福(布施)したら言葉にできない幸福感があふれてきた」ということです。
これもまた、そんな方法で根本解決にはならないでしょう!ということです。
確かにその行為で気持ちの良くなることはあるでしょう。
しかしそれだけでは解決にならないのは明白です。
これもまた、宗教だけに解決法を見出そうとしたよくない例ですね。
しかし、そこですべきは、自身の収入を上げるべく何らかのアクションを起こすべきであるということです。
そういう植福という行為が何らかの働きをすることはままあるでしょう。
しかし、それだけでいいかということそんなことはないでしょうということです。
もっと巨視的に自身の宗教を眺めて、その他のことにも目が行くとようにすべきであるというのが私の立場なのです。

宗教的な行為やその宗教で言われていることだけに依拠しても、真の解決法を得ることはできないでしょうということです。
よしんば得れたとしても、どの人にも共通して解決になることはないでしょうと言いたいのです。
ゆえに宗教だけに頼るべからず、というのが私の立場なのです。
大川隆法および幸福の科学には大幅な信頼を置くけれども、それが万能薬ではない、ということです。
ゆえに私は信者にならない、ということです。
そんなスタンスに共鳴できる人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
非常にお勧めです。
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♯万能薬
多元的がいいか、一元的がいいか?…どちらでもいいです。 (幸福の科学)
こんにちは。
私は、大学教授などの学者にしろ、宗教団体の長にしろ、いろんな物事を修めていないと務まらないなと感じている次第です。
常に、世の中は動いているわけですし、開祖の際に言われたことが、開祖の時代から今の時代までずっと継続しているだけでいいというわけはないですし、当時と今では常識も違いますし、新しいものが登場したら、その都度、それに関する吟味もしていかなければならないでしょう。
擁するに常に変革が求められているわけです。
その際に多角的に、物事を観ていくためには、博学さがなくてはいけませんし、常に新しい物事を探求していくという気概がなくてはいけないことは自明の理でしょう。
開祖のいったことをそのまま引用して、それに他愛もないコメントを加えているだけの団体の長の講演など聞いても意味がないですし、聞きに行く気にもならないのです私は。

しかし、その団体の信者になった人は、それを聞くのに夢中になっている…私には支持できないことです。
何故、そういう人が出てくるのか不思議でした。
それは、その信者は、普段の生活でほとんど本などを読まないから、そういう私にとっては意味のないことでも、新鮮な気分になれるのでしょう。
ではなぜ、普段から本などを読まないか?
それは文字が嫌いだからですね。
ゆえに主体的に本などは読まなくてはいけないと学校などで教えられても、なかなか実行に移せないのですね。
だからためになると思われる自分の属す宗教の講演には行って、真剣になって聞くのです。
しかし、私にとっては、そういったことは主体的に本などを読めばわかることなので、あえて聞きに行くまでもないと思っているのです。
これは、私にとっては信じれないことですが、文字好きよりも文字嫌いの方が世間では多いのです。
文字嫌いの人は、毎回毎回おなじようなことを言っている講演の方が心地よいのです。
逆に、毎回毎回違うことを言われるのは億劫なのです。
これはアメリカの哲学者であったウィリアム.ジェイムズ(下写真)が明らかにしたことなのです。

そういう世間に応じるために、大宗教団体である創価学会は、毎回毎回同じようなことを講演で言っているだけなのでしょうか?
この団体は、かつては日本国民10人に1人が信者になった時代もあったのです。
それが功を奏したというのならば、科学的に応じたすごい団体だなとは思います。
それくらい信者の多い団体なのですが、講演や新聞で言われていることは毎回毎回同じ言葉の繰り返しなのです。
それでは私は学ぶことはないと思い、ほとんど行かずじまいでした。
この団体の信者だった時もあったわたしでしたが…。
しかし、博学、多面的に物事を考えていくのが人生の王道、と私は思っているので、そういう団体にはくみしないのです。
ある機会があり、幸福の科学の支部に行くことがあり、その教義を聞くことがあり、その最初の時も、それから後にこの団体の機関雑誌を何回か読むことがあり、そのスタンスに共鳴したのです。
やはり物事を、宗教的な根拠だけでなく、科学的に、そして多角的に述べるスタンスに共鳴したのです。
それこそが、真の解決に向かわせることができるのだということが実感できたのです。
この団体の祖である大川隆法氏は、非常に博学で、これまでにいろんなジャンルの本を10万冊も読んできたということです。
博学ゆえにいろんなことを知り、自分が良かれと思ったものを取り入れて、要らないものは排除して、良かれと思うスタンスを信者に提示していたのです。
この団体の教義である、仏法僧の三宝を敬え、というのは聖徳太子の遺した言葉だし、この人に下生したというエルカンターレ像の後ろの祠形はキリスト教のマリア像(下写真)からインスパイヤされたものでしょう。

それを現代社会の文化に溶け込むように、大川氏がアレンジしたのでしょう。
北欧社会の至るところにあるスヌーズレンの施設は、リラクゼーションのためですが、それを幸福の科学の会館の様装に使っているのは明白です。
そのスヌーズレンの瞑想の効用は、あらゆる病気の癒しに有効であることが科学的に証明されているのです。
これは、博学だった大川氏は、かの有名な春山茂雄氏の『脳内革命』を読んで知ったのでしょう。
がんの原因の最大は、ストレスであるということを知って、それをいやすためにはリラクゼーションであり、瞑想であるということを。
そのためにリラクゼーションの効用を生かすために、そういう音楽がこの団体の施設にはいつも流れているのです。
こういう多角性が共鳴できることなのです。
こういう多角性であれば、日蓮正宗の信徒団体だった創価学会が開祖としている日蓮大聖人にもあった、と反論されるでしょう。
その通り、日蓮(下写真)は従来の仏教の真言宗や天台宗や禅宗や律宗、念仏宗などのほか、儒教や神道についても博学で勉強していたし、それがもとで自身の宗教を開祖したことは紛れもない事実です。

しかし、信者のほとんどは自身で他のことも学ぼうとはしないのです。
創価学会の信者の家に行っても、そこにあるのは、創価学会の機関誌である『大白蓮華』や前の長だった池田大作の自叙伝である『人間革命』があるだけでした。
自ら主体的にいろんな分野について学ぼうという気概を持った人はほとんどいなかったですし、今もそうでしょう。
このように、開祖は多元的で信者は一元的ということです。
それはこちらが咎める筋合いのものではないのです。
自身が行きたい方へ行けばいいだけのことです。
しかし、自分は多元的に生きたいということなのです。
幸福の科学では、全員がそうであるという断定はできないですが、そういうスタンスを持った人が多い気がします。
自分と一緒ゆえに、共感が得れるということです。
もちろん、多元的でなければ幸福の科学には入れないし、ついてもいけないということでもないのです。
一元的でもいいでしょうし、一元的にしか生きていない人とでも友人という例は多くあります。
しかし、興味ある人は覗いてみるのがいいでしょう、この団体を。
そんな団体に興味ある人におすすめの本(電子書籍)が以下です。
●以下よりどうぞ!
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♯幸福の科学♯多元的
私は、大学教授などの学者にしろ、宗教団体の長にしろ、いろんな物事を修めていないと務まらないなと感じている次第です。
常に、世の中は動いているわけですし、開祖の際に言われたことが、開祖の時代から今の時代までずっと継続しているだけでいいというわけはないですし、当時と今では常識も違いますし、新しいものが登場したら、その都度、それに関する吟味もしていかなければならないでしょう。
擁するに常に変革が求められているわけです。
その際に多角的に、物事を観ていくためには、博学さがなくてはいけませんし、常に新しい物事を探求していくという気概がなくてはいけないことは自明の理でしょう。
開祖のいったことをそのまま引用して、それに他愛もないコメントを加えているだけの団体の長の講演など聞いても意味がないですし、聞きに行く気にもならないのです私は。

しかし、その団体の信者になった人は、それを聞くのに夢中になっている…私には支持できないことです。
何故、そういう人が出てくるのか不思議でした。
それは、その信者は、普段の生活でほとんど本などを読まないから、そういう私にとっては意味のないことでも、新鮮な気分になれるのでしょう。
ではなぜ、普段から本などを読まないか?
それは文字が嫌いだからですね。
ゆえに主体的に本などは読まなくてはいけないと学校などで教えられても、なかなか実行に移せないのですね。
だからためになると思われる自分の属す宗教の講演には行って、真剣になって聞くのです。
しかし、私にとっては、そういったことは主体的に本などを読めばわかることなので、あえて聞きに行くまでもないと思っているのです。
これは、私にとっては信じれないことですが、文字好きよりも文字嫌いの方が世間では多いのです。
文字嫌いの人は、毎回毎回おなじようなことを言っている講演の方が心地よいのです。
逆に、毎回毎回違うことを言われるのは億劫なのです。
これはアメリカの哲学者であったウィリアム.ジェイムズ(下写真)が明らかにしたことなのです。
そういう世間に応じるために、大宗教団体である創価学会は、毎回毎回同じようなことを講演で言っているだけなのでしょうか?
この団体は、かつては日本国民10人に1人が信者になった時代もあったのです。
それが功を奏したというのならば、科学的に応じたすごい団体だなとは思います。
それくらい信者の多い団体なのですが、講演や新聞で言われていることは毎回毎回同じ言葉の繰り返しなのです。
それでは私は学ぶことはないと思い、ほとんど行かずじまいでした。
この団体の信者だった時もあったわたしでしたが…。
しかし、博学、多面的に物事を考えていくのが人生の王道、と私は思っているので、そういう団体にはくみしないのです。
ある機会があり、幸福の科学の支部に行くことがあり、その教義を聞くことがあり、その最初の時も、それから後にこの団体の機関雑誌を何回か読むことがあり、そのスタンスに共鳴したのです。
やはり物事を、宗教的な根拠だけでなく、科学的に、そして多角的に述べるスタンスに共鳴したのです。
それこそが、真の解決に向かわせることができるのだということが実感できたのです。
この団体の祖である大川隆法氏は、非常に博学で、これまでにいろんなジャンルの本を10万冊も読んできたということです。
博学ゆえにいろんなことを知り、自分が良かれと思ったものを取り入れて、要らないものは排除して、良かれと思うスタンスを信者に提示していたのです。
この団体の教義である、仏法僧の三宝を敬え、というのは聖徳太子の遺した言葉だし、この人に下生したというエルカンターレ像の後ろの祠形はキリスト教のマリア像(下写真)からインスパイヤされたものでしょう。

それを現代社会の文化に溶け込むように、大川氏がアレンジしたのでしょう。
北欧社会の至るところにあるスヌーズレンの施設は、リラクゼーションのためですが、それを幸福の科学の会館の様装に使っているのは明白です。
そのスヌーズレンの瞑想の効用は、あらゆる病気の癒しに有効であることが科学的に証明されているのです。
これは、博学だった大川氏は、かの有名な春山茂雄氏の『脳内革命』を読んで知ったのでしょう。
がんの原因の最大は、ストレスであるということを知って、それをいやすためにはリラクゼーションであり、瞑想であるということを。
そのためにリラクゼーションの効用を生かすために、そういう音楽がこの団体の施設にはいつも流れているのです。
こういう多角性が共鳴できることなのです。
こういう多角性であれば、日蓮正宗の信徒団体だった創価学会が開祖としている日蓮大聖人にもあった、と反論されるでしょう。
その通り、日蓮(下写真)は従来の仏教の真言宗や天台宗や禅宗や律宗、念仏宗などのほか、儒教や神道についても博学で勉強していたし、それがもとで自身の宗教を開祖したことは紛れもない事実です。

しかし、信者のほとんどは自身で他のことも学ぼうとはしないのです。
創価学会の信者の家に行っても、そこにあるのは、創価学会の機関誌である『大白蓮華』や前の長だった池田大作の自叙伝である『人間革命』があるだけでした。
自ら主体的にいろんな分野について学ぼうという気概を持った人はほとんどいなかったですし、今もそうでしょう。
このように、開祖は多元的で信者は一元的ということです。
それはこちらが咎める筋合いのものではないのです。
自身が行きたい方へ行けばいいだけのことです。
しかし、自分は多元的に生きたいということなのです。
幸福の科学では、全員がそうであるという断定はできないですが、そういうスタンスを持った人が多い気がします。
自分と一緒ゆえに、共感が得れるということです。
もちろん、多元的でなければ幸福の科学には入れないし、ついてもいけないということでもないのです。
一元的でもいいでしょうし、一元的にしか生きていない人とでも友人という例は多くあります。
しかし、興味ある人は覗いてみるのがいいでしょう、この団体を。
そんな団体に興味ある人におすすめの本(電子書籍)が以下です。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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