自分のモラルと相いれない部分は、どの宗教にも必ず存在する。ゆえに1つの宗教にこだわるべからず? (幸福の科学)
こんにちは。
読書というのは、私にとって必須の行為です。
この行為によって、非常に楽しい時間が過ごせますし、ブログを書くための情報を得るためにも必須ですし、困難に出会ったときに打開策を得ることができるのですから。
非常に大事なことは、読書をするということで誰しも自分の可能性を広げてくれるのです。
困ったときや、相談したいときに誰かを頼るわけです。
その相手が、ポジティブなことを言ってくれる人ならいいですが、逆に、ネガティブなことしか言わない人であったり、貶すことしか知らない人であれば、げんなりしてしまうのです。

ポジティブな人に出会えればいいですが、それだけでも足りない気がします。
この世の中について何でも知っている人などいないですから。
また、ことが高尚なことだったり、壮大だったりしたら、無闇に相談などできようはずがないのですから。
そういった壮大なことを探求するためには、やはり読書は欠かせないものなのです。
いろんな分野にわたって、いろんな本が出ているわけですから、困難にぶつかったときに、その分野について複数の本をいろいろよんで行くことで、解決の道が見えてくるわけです。
その際に、ただ宗教に縋って解決していこうという気にはなれないのです私は。
非常に読書というのは重要なことなのです。
解決の道が見えてくるだけでなく、可能性の開けてくるからです。
文系の大学に行ったことのある人ならば誰しもドイツの社会科学者であったマックス.ウェーバー(下写真)の名は知っているでしょう。

ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』は、文系学生ならば誰しも読んでなくてはならない、とすら言う教授もいました。
プロテスタンティズムの精神が資本主義の元になっているということを発見したのです。
その理論が非常に明晰で、誰もが納得しうるものだったゆえに、この著が世界的に有名になったのでしょう。
その理論を抽出するまでに、どれだけの勉学を重ねたか、想像を絶するものがあるのは言うまでもないです。
科学を修めるのに基本的な行為は、無数の本の多読、濫読なのはいうまでもないです。
そして、自身の理論を検証するために関連する資料を、探索していかなくてはならないでしょうし、理論の妥当性を確証にするためには月日を重ねて熟成も行わなくてはならないでしょう。
日々論文を書いていかなくてはならないのも基本的な行為です。
ウェーバーは、かなりの勉強家だったようで、奥さんから「なんで貴方はそんなに勉強するの?」と問われて、「自分が何者かをしりたいんだ!」と返答したようです。
やはり世界的に有名な学者のいうことは、他の人とは違いますね。
この世に生まれた使命感のようなものも研究を重ねることで、勘づいた可能性が大きいです。
その過程で他の多くの人とは違う世界観を身に着けていったのでしょう。
やはり他の人とは違う能力を持っていたがゆえに…。
ことは、幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏(下写真)も感じたのではないでしょうか?

彼も読書に次ぐ読書を重ねたのです。
その数、逝去されるまで10万冊読んだいうことです。
彼も、他の人と違う能力や経験を通して、自らの使命感が何か、自分が生まれ出た理由といったものを探索したい衝動にかられたのでしょう。
大学時代に、自動書記が現れて、「イイシラセ」という文字が勝手に自身の指を動かして書かせ、その後、エルカンターレが自身の前に現れて使命を託された。
これが、幸福の科学の存立理由になってるのです。
ただこれだけで、確証は持てなかったのでしょう総裁は。
その後、いろんな本の多読濫読を重ねていったことで、それまでのいろんな宗教の開宗者のエピソードなどを中心に読んでいったのでしょう。
真言宗の開祖である空海(下写真)の伝記を読むことで、また文鮮明やジョセフ.スミスなど自分の前にキリストや天使が現れて開宗者としての使命を託したことや、作家時代に霊に乗り移られて自動書記で小説を書くようになった三島由紀夫の伝記を読んだりして、自分との共通点を見出し、開宗の資質を自身に見出したのでしょう。

これは決して自惚れではなく、確証でしょう。
開宗者のその内容はかなり詳細になりますが、それと一致するのですから。
これをどう評価するかは、その人次第です。
評価する前に、それらの開宗者たちについて書かれた本をそれぞれ読んでみるのがいいでしょう。
大川隆法総裁が、この宗教を開始した時に、大きく空海のした道を踏襲したことは、この宗教の歴史を見れば明白です。
空海は、西暦800年前後に生きた人で、中国にわたり仏教を学んできたのですが、かなり教義も複雑多岐になっていて、一般人では到底学びつくせるものではなくなっていたのです。
ゆえに、かなり習得能力の高い人でなければ仏教を学ぶ資格が与えられなかったものに変貌を遂げていたのです。
その当時、空海が学んだ密教においては、灌頂ということが重要視されていたのです。
灌頂とは単なる儀式ではなく、言葉を超えた悟りの境地を直接、師から弟子へと伝えるもので、受け継ぐためには、それにふさわしい器量や師との深い縁を必要としたのは言うまでもないです。
この歴史的な事実を見つめて、やはり、宗教を真に修めるためには、やる気とそれにふさわしい能力が必須と判断したのでしょう総裁は。

当初、幸福の科学に入信するためには、入信のテストが行われていたようです。
しかし、時代の要請からか、それはいまではなくなっているようです。
その入信テストが取りやめになった理由は、部外者である私にはわかりかねます。
その入信テストの存立理由から学ぶのは、その入ろうとする宗教に対する真摯な態度や勉学の姿勢でしょう。
それなくして、朧気でいい加減な姿勢では、人に語ることはできないですし、そんな姿勢では神や仏に対して失礼というそしりをまぬかれないでしょう。
やはり、真に学ぼうという姿勢を日々維持していかなくてはならないでしょう。
そして大川総裁は、あの世にも行けて、霊視もできるとしていたのです自身で。
それは、本物か、あるいは世にある無数の本によって脳内を矯正していたのかは私にはわかりません。
そして、総裁曰く、転生輪廻はあり得るということです。
人は死んで、あの世へ帰り、また来世に生まれ変わるとしているのです。
ただし、人が死んで来世また人間になる、ということではないようです。
動物に生まれかわることもある、ということです。
この輪廻転生は、これまでいろんな宗教の開祖や哲学者によっても唱えられていたことなのです。
ゆえに、釈迦は魚を取ったり、獣を取って生計を立てていた人を仏教に入信させなかったのでしょうか?

ゆえに中世の仏教では獣や魚を食べることを禁止したのでしょうか?
また『日本霊異記』において以下の寓話があります。
「僧侶が小石を投げて誤って鳥にあたって死んだ。その鳥が猪に生まれ変わった。その猪が石をかき分けて食べ物をあさっていると、石が転がり落ちて僧侶に当たって死んでしまった。」
これを真摯に受け止めると、動物を殺したり、それを食べることへの禁忌を示しているのでしょうか。
そんな気がします。
この因果応報の話しや類する話しを多く読むと、やはり動物をころして食べることを多くの仏教の宗派では禁忌にしていたのもわかります。
しかし、このことを知り、輪廻転生は厳然と存在するということを前提にすると、今、肉を食べている人は、因果応報で自分も辛い目に、あるいは悲惨な目に逢うという言うことでしょう。
また、そうでなくても、前世に自分とゆかりのあった人の生まれかわりを食べることになる、ということでしょう。
それならば、当然、肉食を禁忌にしなければならないのですが、現代の多くの仏教宗派や幸福の科学ではそうはなっていないのです。

やはりこれも時代の要請でしょうか?
「肉食を厳禁にする!」と宗規に盛ると、怪しげな宗教と思われてしまう、あるいは多くの信者が離れてしまう、と判断したのでしょうか。
やはりどの宗教でも、時代や社会との調和を考慮に入れなくてはいけないのは言うまでもないです。
それゆえに、本来、しなくてはいけないことをしなくてもいいということにしなくてはいかない。
そして、禁止すべきことを禁止できないという結果になってしまうわけです。
完璧な宗教などあるはずはないので、それを見つけたら、自身で適うように工夫するべきなのです。
それゆえに、私はベジタリアンやビーガンを目指さなくてはならないと日々、動物の肉は食べないように極力努力しているのです。
しかし、飲み会などで、自分1人だけ「これは注文しなくていい」あるいは「これは食べれないから残す」といって肉を忌避していては、その場の調和を乱すことになりますから、無言で受け入れるわけです。
しかし、普段の日常では動物の肉は一切食べないことにしているのです。
これは先の日本霊異記や幸福の科学の本を読む前に、ユーチューブで草食動物が肉食動物に捉えられて食べられるシーンを幾度となく見て、「こんな残酷なことなんだ動物の肉を食べることは!私たち人間はもっと残酷なことをして動物を殺して食べているんだ」という意識に変わり、その日から食べないようにしてきたのです。
THE BEATLESのメンバーだったポール.マッカートニー(下写真)は厳然たるベジタリアンなのです。

ロック音楽好きな私ゆえに、そのことにも感化されたのです。
このように、厳然たる理論的な根拠があるにもかかわらず、宗規にはそれが盛られていなし、自身のモラルとは反する。
しかし、その宗教の宗規とは違うことをしなくてはならない。
これが私が1つの宗教だけに入って、その宗教を極めたいと思わない理由なのです(笑)
しかし、こと幸福の科学については、非常に多面性を有しているがゆえに、支持したい団体ではあるのです。
しかし、完璧な宗教はありませんから、足りない部分については、自身で主体的に補っていく、そんな姿勢が求められるのではないでしょうか?
そんなスタンスに共鳴できる人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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読書というのは、私にとって必須の行為です。
この行為によって、非常に楽しい時間が過ごせますし、ブログを書くための情報を得るためにも必須ですし、困難に出会ったときに打開策を得ることができるのですから。
非常に大事なことは、読書をするということで誰しも自分の可能性を広げてくれるのです。
困ったときや、相談したいときに誰かを頼るわけです。
その相手が、ポジティブなことを言ってくれる人ならいいですが、逆に、ネガティブなことしか言わない人であったり、貶すことしか知らない人であれば、げんなりしてしまうのです。

ポジティブな人に出会えればいいですが、それだけでも足りない気がします。
この世の中について何でも知っている人などいないですから。
また、ことが高尚なことだったり、壮大だったりしたら、無闇に相談などできようはずがないのですから。
そういった壮大なことを探求するためには、やはり読書は欠かせないものなのです。
いろんな分野にわたって、いろんな本が出ているわけですから、困難にぶつかったときに、その分野について複数の本をいろいろよんで行くことで、解決の道が見えてくるわけです。
その際に、ただ宗教に縋って解決していこうという気にはなれないのです私は。
非常に読書というのは重要なことなのです。
解決の道が見えてくるだけでなく、可能性の開けてくるからです。
文系の大学に行ったことのある人ならば誰しもドイツの社会科学者であったマックス.ウェーバー(下写真)の名は知っているでしょう。
ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』は、文系学生ならば誰しも読んでなくてはならない、とすら言う教授もいました。
プロテスタンティズムの精神が資本主義の元になっているということを発見したのです。
その理論が非常に明晰で、誰もが納得しうるものだったゆえに、この著が世界的に有名になったのでしょう。
その理論を抽出するまでに、どれだけの勉学を重ねたか、想像を絶するものがあるのは言うまでもないです。
科学を修めるのに基本的な行為は、無数の本の多読、濫読なのはいうまでもないです。
そして、自身の理論を検証するために関連する資料を、探索していかなくてはならないでしょうし、理論の妥当性を確証にするためには月日を重ねて熟成も行わなくてはならないでしょう。
日々論文を書いていかなくてはならないのも基本的な行為です。
ウェーバーは、かなりの勉強家だったようで、奥さんから「なんで貴方はそんなに勉強するの?」と問われて、「自分が何者かをしりたいんだ!」と返答したようです。
やはり世界的に有名な学者のいうことは、他の人とは違いますね。
この世に生まれた使命感のようなものも研究を重ねることで、勘づいた可能性が大きいです。
その過程で他の多くの人とは違う世界観を身に着けていったのでしょう。
やはり他の人とは違う能力を持っていたがゆえに…。
ことは、幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏(下写真)も感じたのではないでしょうか?
彼も読書に次ぐ読書を重ねたのです。
その数、逝去されるまで10万冊読んだいうことです。
彼も、他の人と違う能力や経験を通して、自らの使命感が何か、自分が生まれ出た理由といったものを探索したい衝動にかられたのでしょう。
大学時代に、自動書記が現れて、「イイシラセ」という文字が勝手に自身の指を動かして書かせ、その後、エルカンターレが自身の前に現れて使命を託された。
これが、幸福の科学の存立理由になってるのです。
ただこれだけで、確証は持てなかったのでしょう総裁は。
その後、いろんな本の多読濫読を重ねていったことで、それまでのいろんな宗教の開宗者のエピソードなどを中心に読んでいったのでしょう。
真言宗の開祖である空海(下写真)の伝記を読むことで、また文鮮明やジョセフ.スミスなど自分の前にキリストや天使が現れて開宗者としての使命を託したことや、作家時代に霊に乗り移られて自動書記で小説を書くようになった三島由紀夫の伝記を読んだりして、自分との共通点を見出し、開宗の資質を自身に見出したのでしょう。

これは決して自惚れではなく、確証でしょう。
開宗者のその内容はかなり詳細になりますが、それと一致するのですから。
これをどう評価するかは、その人次第です。
評価する前に、それらの開宗者たちについて書かれた本をそれぞれ読んでみるのがいいでしょう。
大川隆法総裁が、この宗教を開始した時に、大きく空海のした道を踏襲したことは、この宗教の歴史を見れば明白です。
空海は、西暦800年前後に生きた人で、中国にわたり仏教を学んできたのですが、かなり教義も複雑多岐になっていて、一般人では到底学びつくせるものではなくなっていたのです。
ゆえに、かなり習得能力の高い人でなければ仏教を学ぶ資格が与えられなかったものに変貌を遂げていたのです。
その当時、空海が学んだ密教においては、灌頂ということが重要視されていたのです。
灌頂とは単なる儀式ではなく、言葉を超えた悟りの境地を直接、師から弟子へと伝えるもので、受け継ぐためには、それにふさわしい器量や師との深い縁を必要としたのは言うまでもないです。
この歴史的な事実を見つめて、やはり、宗教を真に修めるためには、やる気とそれにふさわしい能力が必須と判断したのでしょう総裁は。

当初、幸福の科学に入信するためには、入信のテストが行われていたようです。
しかし、時代の要請からか、それはいまではなくなっているようです。
その入信テストが取りやめになった理由は、部外者である私にはわかりかねます。
その入信テストの存立理由から学ぶのは、その入ろうとする宗教に対する真摯な態度や勉学の姿勢でしょう。
それなくして、朧気でいい加減な姿勢では、人に語ることはできないですし、そんな姿勢では神や仏に対して失礼というそしりをまぬかれないでしょう。
やはり、真に学ぼうという姿勢を日々維持していかなくてはならないでしょう。
そして大川総裁は、あの世にも行けて、霊視もできるとしていたのです自身で。
それは、本物か、あるいは世にある無数の本によって脳内を矯正していたのかは私にはわかりません。
そして、総裁曰く、転生輪廻はあり得るということです。
人は死んで、あの世へ帰り、また来世に生まれ変わるとしているのです。
ただし、人が死んで来世また人間になる、ということではないようです。
動物に生まれかわることもある、ということです。
この輪廻転生は、これまでいろんな宗教の開祖や哲学者によっても唱えられていたことなのです。
ゆえに、釈迦は魚を取ったり、獣を取って生計を立てていた人を仏教に入信させなかったのでしょうか?

ゆえに中世の仏教では獣や魚を食べることを禁止したのでしょうか?
また『日本霊異記』において以下の寓話があります。
「僧侶が小石を投げて誤って鳥にあたって死んだ。その鳥が猪に生まれ変わった。その猪が石をかき分けて食べ物をあさっていると、石が転がり落ちて僧侶に当たって死んでしまった。」
これを真摯に受け止めると、動物を殺したり、それを食べることへの禁忌を示しているのでしょうか。
そんな気がします。
この因果応報の話しや類する話しを多く読むと、やはり動物をころして食べることを多くの仏教の宗派では禁忌にしていたのもわかります。
しかし、このことを知り、輪廻転生は厳然と存在するということを前提にすると、今、肉を食べている人は、因果応報で自分も辛い目に、あるいは悲惨な目に逢うという言うことでしょう。
また、そうでなくても、前世に自分とゆかりのあった人の生まれかわりを食べることになる、ということでしょう。
それならば、当然、肉食を禁忌にしなければならないのですが、現代の多くの仏教宗派や幸福の科学ではそうはなっていないのです。

やはりこれも時代の要請でしょうか?
「肉食を厳禁にする!」と宗規に盛ると、怪しげな宗教と思われてしまう、あるいは多くの信者が離れてしまう、と判断したのでしょうか。
やはりどの宗教でも、時代や社会との調和を考慮に入れなくてはいけないのは言うまでもないです。
それゆえに、本来、しなくてはいけないことをしなくてもいいということにしなくてはいかない。
そして、禁止すべきことを禁止できないという結果になってしまうわけです。
完璧な宗教などあるはずはないので、それを見つけたら、自身で適うように工夫するべきなのです。
それゆえに、私はベジタリアンやビーガンを目指さなくてはならないと日々、動物の肉は食べないように極力努力しているのです。
しかし、飲み会などで、自分1人だけ「これは注文しなくていい」あるいは「これは食べれないから残す」といって肉を忌避していては、その場の調和を乱すことになりますから、無言で受け入れるわけです。
しかし、普段の日常では動物の肉は一切食べないことにしているのです。
これは先の日本霊異記や幸福の科学の本を読む前に、ユーチューブで草食動物が肉食動物に捉えられて食べられるシーンを幾度となく見て、「こんな残酷なことなんだ動物の肉を食べることは!私たち人間はもっと残酷なことをして動物を殺して食べているんだ」という意識に変わり、その日から食べないようにしてきたのです。
THE BEATLESのメンバーだったポール.マッカートニー(下写真)は厳然たるベジタリアンなのです。

ロック音楽好きな私ゆえに、そのことにも感化されたのです。
このように、厳然たる理論的な根拠があるにもかかわらず、宗規にはそれが盛られていなし、自身のモラルとは反する。
しかし、その宗教の宗規とは違うことをしなくてはならない。
これが私が1つの宗教だけに入って、その宗教を極めたいと思わない理由なのです(笑)
しかし、こと幸福の科学については、非常に多面性を有しているがゆえに、支持したい団体ではあるのです。
しかし、完璧な宗教はありませんから、足りない部分については、自身で主体的に補っていく、そんな姿勢が求められるのではないでしょうか?
そんなスタンスに共鳴できる人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
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ありがとうございました!

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宗教は人間に必要。しかし、それに多面性がなければ真の解決にはつながらず?!(幸福の科学)
こんにちは。
これまでもこのブログに書いてきたように、私は幸福の科学には信頼を寄せているのです。

なぜならば、この世のでの倫理だけ、あるいは倫理を中心に神仏についての講義をするだけの宗教がほとんどの現代社会において、この宗教では、あの世の内容や、死後の世界、霊的な事柄についても、つまびらかに講義しているからです。
倫理のみならず、こういった事柄も総合して論じるのが宗教と思っている私にとっては、やはり幸福の科学には信頼を寄せざるを得ないのです。
やはり物事は総合的に観ていって、多角的な視点でことを論じていかない事には、真の打開にはならないからです。
英国数で受験するとして、いくら英語の点数がよくても、あとの国数の点数もよくなくては合格しないのと一緒です。
やはり多角的に、総合していかなくてはいけないのは言うまでもないことです。
宗教の力は偉大なのは事実です。
しかし、その宗教で言われていることだけを覚えて、そして信じて行動するだけでいいんだ、というような錯覚をさせてしまうことがどの宗教団体にもあるのは問題です。
ましてや壮大な建築物を擁する宗教の場合、そういう傾向がありますね。
その大きさや壮大な威厳に圧倒されて、「ここで言われていることだけを学んで実践していけばいいんだ」というような錯覚に陥ってしまう気持ちはわかりますが、それには警鐘を鳴らしたいです。
その講義が終わってから、今一度、客観的になって傍らから傍観するなり、他の本なりを読んでみるのがいいでしょう。
そうすると、その宗教で言われていることだけでない重要事項があることに気が付くでしょう。
やはり、その宗教だけにこだわっていては危険なのです。
やはり宗教だけに依拠していくのではなく、科学的な情報の重要性にも目がいかなくてはならないでしょう。
そういう立場をす推奨しているのです私は。
しかし、努力すればだれでも行けるような、到達できるような、例えば私のような意見だけに依拠するのも危険です(笑)。
やはり人智を超えた人物の意見を真摯に傾けなくてはならないでしょう。
幸福の科学の総裁であった故.大川隆法氏(下写真)はそういう人智を超えた人物だったのでしょうか?

この団体の機関冊子に、以下、信者談がありましたので、それを紹介しましょう。
「2013年東日本大震災から2年後、宮城の石巻支部の僧房で寝ていた。
玄関のドアをこんこんノックする音が聞こえた。
出てみると誰もいない。
玄関から廊下の方へ水でぬれた足跡がついていて、砂利まみれだった。
これを総裁に霊視してもらったところ、総裁は手をかざしながら、霊視した。
すると、津波で亡くなった人、震災の犠牲者だったということがわかった。」
総裁は、このような霊視もできたということです。
また、開宗から逝去されるまで実に3100冊以上もの本を出してきたのです。
そのいずれもが、200ページ以上もある代物でした。
それだけでも人智を超えた存在だったのがわかるでしょう。
そして、総裁は、あの世にも行けたし、霊も見えて、その描写を具体的におこなってきたのです。
それらのいずれもが、真に迫る具体性を備えていたのです。
それが本物かどうかは、その本のどれでもいいから読んで自身で判断してくださいとしかいいようがないです。
霊視を総裁にしてもらって、それで打開策を伝えてもらいその通りにしたら、人生がそれまでの地獄のようだった生活がまるで正反対になったという経験談も多数あるくらいゆえに、この人の力は本物だったのかなとつい思ってしまうのです。

その他、霊的な体験を機にあの世の存在を実感して、幸福の科学に入信されたり、その信仰に目覚める人がたくさんいるのです。
やはり宗教の開祖たるもの、あの世までも行けたり、霊視ができたりといった人智を超えた能力がなければ務まらない、ということがわかります。
私は、かつて知人から誘われて創価学会に入りましたが、そこではこの世での倫理しか説いていないのですね。
この団体はかつて「日蓮正宗 創価学会」という名称だったのです。
しかし、のちに日蓮正宗から破門処分になってしまい、単名に「創価学会」としたのです。
日蓮正宗の教えを基本にする団体ですから当然、日蓮(下写真)という鎌倉時代の僧侶の教えを中心に学んでいる団体なのです。

その僧侶の遺した『御書』を引き合いに出して、新聞や講演では講義がなされるのですが、そこにはあの世だの霊だのといったことは一切触れません。
故に、いぶかし気に思っていたのです私は。
「宗教というからには、そういったものまでも視野に入れて講義されなくてはいけないだろうに…」という風に思わざるを得なかったのです。
「又、後生には霊山浄土にまいり、あひまいらせん」
これは日蓮が尼御前にあてた手紙の一部ですが、こういう些細な部分しか触れていないのです。
これは、日蓮は執筆の能力は高かったけれども、あの世にも行けなかったし、霊視もできなかったのだろうと判断せざるを得ないですね。
もしかしたら、創価学会の幹部たちの思惑で、現代においてそういう部分について書くと、いぶかし気に思われると危惧したがゆえに、日蓮が多くの部分を割いて、あの世の描写をしているのかもしれないです。
そうかもしれないですし、そうでないかもしれないです。

その是非は『御書』を読まなくては判断のしようがないのです。
それを読んでいる時間がないのです私は。
他にいっぱい読みたい本がありますし、今は日蓮について研究をしている時間がない、というのが正直なところなのです。
某哲学者によると、世の中は、1つの価値に収斂するという人と、多面的な価値に分散する、という2つの立場に分かれるようです。
ゆえに前者の人は宗教に入ってそこで講義されるものを極度に依拠してしまうのです。
ゆえに、その宗教で言われていることを鵜呑みにしてしまうのです。
これでは、先に書いたように、総合性がない理論では、躓いた時の打開にはつながらないから注意が必要です。
そういう立場に賛同して、なおかつ自身で世の中について勉強していきたい、と思ってしまう人におすすめなのが、以下の電子書籍になります。
●以下よりどうぞ!
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♯幸福の科学
♯富士門流
これまでもこのブログに書いてきたように、私は幸福の科学には信頼を寄せているのです。
なぜならば、この世のでの倫理だけ、あるいは倫理を中心に神仏についての講義をするだけの宗教がほとんどの現代社会において、この宗教では、あの世の内容や、死後の世界、霊的な事柄についても、つまびらかに講義しているからです。
倫理のみならず、こういった事柄も総合して論じるのが宗教と思っている私にとっては、やはり幸福の科学には信頼を寄せざるを得ないのです。
やはり物事は総合的に観ていって、多角的な視点でことを論じていかない事には、真の打開にはならないからです。
英国数で受験するとして、いくら英語の点数がよくても、あとの国数の点数もよくなくては合格しないのと一緒です。
やはり多角的に、総合していかなくてはいけないのは言うまでもないことです。
宗教の力は偉大なのは事実です。
しかし、その宗教で言われていることだけを覚えて、そして信じて行動するだけでいいんだ、というような錯覚をさせてしまうことがどの宗教団体にもあるのは問題です。
ましてや壮大な建築物を擁する宗教の場合、そういう傾向がありますね。
その大きさや壮大な威厳に圧倒されて、「ここで言われていることだけを学んで実践していけばいいんだ」というような錯覚に陥ってしまう気持ちはわかりますが、それには警鐘を鳴らしたいです。
その講義が終わってから、今一度、客観的になって傍らから傍観するなり、他の本なりを読んでみるのがいいでしょう。
そうすると、その宗教で言われていることだけでない重要事項があることに気が付くでしょう。
やはり、その宗教だけにこだわっていては危険なのです。
やはり宗教だけに依拠していくのではなく、科学的な情報の重要性にも目がいかなくてはならないでしょう。
そういう立場をす推奨しているのです私は。
しかし、努力すればだれでも行けるような、到達できるような、例えば私のような意見だけに依拠するのも危険です(笑)。
やはり人智を超えた人物の意見を真摯に傾けなくてはならないでしょう。
幸福の科学の総裁であった故.大川隆法氏(下写真)はそういう人智を超えた人物だったのでしょうか?
この団体の機関冊子に、以下、信者談がありましたので、それを紹介しましょう。
「2013年東日本大震災から2年後、宮城の石巻支部の僧房で寝ていた。
玄関のドアをこんこんノックする音が聞こえた。
出てみると誰もいない。
玄関から廊下の方へ水でぬれた足跡がついていて、砂利まみれだった。
これを総裁に霊視してもらったところ、総裁は手をかざしながら、霊視した。
すると、津波で亡くなった人、震災の犠牲者だったということがわかった。」
総裁は、このような霊視もできたということです。
また、開宗から逝去されるまで実に3100冊以上もの本を出してきたのです。
そのいずれもが、200ページ以上もある代物でした。
それだけでも人智を超えた存在だったのがわかるでしょう。
そして、総裁は、あの世にも行けたし、霊も見えて、その描写を具体的におこなってきたのです。
それらのいずれもが、真に迫る具体性を備えていたのです。
それが本物かどうかは、その本のどれでもいいから読んで自身で判断してくださいとしかいいようがないです。
霊視を総裁にしてもらって、それで打開策を伝えてもらいその通りにしたら、人生がそれまでの地獄のようだった生活がまるで正反対になったという経験談も多数あるくらいゆえに、この人の力は本物だったのかなとつい思ってしまうのです。

その他、霊的な体験を機にあの世の存在を実感して、幸福の科学に入信されたり、その信仰に目覚める人がたくさんいるのです。
やはり宗教の開祖たるもの、あの世までも行けたり、霊視ができたりといった人智を超えた能力がなければ務まらない、ということがわかります。
私は、かつて知人から誘われて創価学会に入りましたが、そこではこの世での倫理しか説いていないのですね。
この団体はかつて「日蓮正宗 創価学会」という名称だったのです。
しかし、のちに日蓮正宗から破門処分になってしまい、単名に「創価学会」としたのです。
日蓮正宗の教えを基本にする団体ですから当然、日蓮(下写真)という鎌倉時代の僧侶の教えを中心に学んでいる団体なのです。

その僧侶の遺した『御書』を引き合いに出して、新聞や講演では講義がなされるのですが、そこにはあの世だの霊だのといったことは一切触れません。
故に、いぶかし気に思っていたのです私は。
「宗教というからには、そういったものまでも視野に入れて講義されなくてはいけないだろうに…」という風に思わざるを得なかったのです。
「又、後生には霊山浄土にまいり、あひまいらせん」
これは日蓮が尼御前にあてた手紙の一部ですが、こういう些細な部分しか触れていないのです。
これは、日蓮は執筆の能力は高かったけれども、あの世にも行けなかったし、霊視もできなかったのだろうと判断せざるを得ないですね。
もしかしたら、創価学会の幹部たちの思惑で、現代においてそういう部分について書くと、いぶかし気に思われると危惧したがゆえに、日蓮が多くの部分を割いて、あの世の描写をしているのかもしれないです。
そうかもしれないですし、そうでないかもしれないです。

その是非は『御書』を読まなくては判断のしようがないのです。
それを読んでいる時間がないのです私は。
他にいっぱい読みたい本がありますし、今は日蓮について研究をしている時間がない、というのが正直なところなのです。
某哲学者によると、世の中は、1つの価値に収斂するという人と、多面的な価値に分散する、という2つの立場に分かれるようです。
ゆえに前者の人は宗教に入ってそこで講義されるものを極度に依拠してしまうのです。
ゆえに、その宗教で言われていることを鵜呑みにしてしまうのです。
これでは、先に書いたように、総合性がない理論では、躓いた時の打開にはつながらないから注意が必要です。
そういう立場に賛同して、なおかつ自身で世の中について勉強していきたい、と思ってしまう人におすすめなのが、以下の電子書籍になります。
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世間は文字嫌いが大半!?ゆえに創価学会は大きくなった? (幸福の科学)
アリストテレスは中学校の社会科の教科書に出てくる哲学者です。
しかも古代の人間ですね。
何故、そんな昔の人のことを学ぶ必要があるかといえば、そんな昔の人の言葉でも、今の人が読んでも人生の役に立つからですね。
役に立たなければ学ぶ必要はないのです。
国語でも、古典というものを学びます。
それは現代人でも学ぶべき点が多々あるからですね。
先のアリストテレスの言葉では以下のものがあります。
「人は正しい行為を行うことで正しい人間となり、節度ある行為を行うことで節度ある人間になり、勇敢な行為を行うことで勇敢な人間になれる。」
いかにも現代人にも学ぶべきものがありますね。
しかし、これを学んだ人がいつまでもそれを脳内に入れておくことは不可能でしょう。

仕事、趣味、人づきあいに忙しくて、いつしか脳内からフェイドアウトしてしまうのです。
ゆえに再度思い出すためには、本を読まななくてはならないのです。
簡単なことですね。
そういうことができない人は、自分が属す宗教の機関新聞を読むことで満足してしまうのです。
創価学会では、日刊の新聞である聖教新聞を信者のだれもがとっています。

そこには、故.池田大作会長が、学んだ内容が、講演内容として書かれています。
それを読んだ信者たちは、「学ぶものがある」あるいは「池田先生は事をよく学んでいる」として感心してしまうのです。
ちょっと待ってほしいのですが、他の著作家や哲学者の言ったことを引用する、あるいはそれを流用して講演内に組み込むことは誰でも可能なのです。
池田大作だけの特権ではないのです。
私から言わせれば、その機関新聞を読まなくても、自分から主体的にそういった本を読めばいいだけの話しです。
しかし、それが信者のだれもがわかっていない。
いやわかっているけれども行動に移せない。
なぜか?
世間の大半の人は文字嫌いだからです。
それはアメリカの哲学者のウィリアム.ジェイムズ(下写真)が明らかにしています。

哲学者が言ったからといって賛同しているのではなく、世間を見渡してみればいいでしょう。
最高学府である日本の大学で、授業をどれだけの人が全部出席しているか?
1割前後なのです。
全国でです。
それは調査結果で明らかなのです。
年末の試験前には、大学内はもちろん、近所のコンビ二では、友人知人にノートを借りてそれをコピーする人によって行列ができているのは自明のことです。
それに、創価学会はかつては国民の10人に1人が信者だった時代がありました。
何故、それが可能だったか?
教える内容が非常に分かりやすく、楽観的で、なんども同じことしか書かれていないからですね。
やはり文字嫌いな人は、毎回違う内容を教えられるよりも、同じようなことを教えられる方が精神的に楽だからですね。
私は逆に文字好きで、大学時代に300冊は本を読んだでしょうか?
いろんなことを学びたいと思っていたし、今もそうです。
ゆえに、創価学会に入会して創価の機関新聞を読むも、毎回毎回同じことしか書かれていないので辟易し、購読をやめましたし、会合にも全然参加しなくなりました。
しかし、周りの創価学会員は、毎回毎回同じようなことを言っている会合に喜んで参加し、新聞も購読し続けている。
創価学会員の人の家に上がるも、そこには創価学会関連の冊子や本しかないのが通常です。
他の分野に関するものなどほとんどないのです。
先のウィリアム.ジェイムズの言ったことと見事に符合するでしょう?
しかし、私と大勢の創価学会員とはスタンスが全然違うので、大宗教団体であっても賛同できないのです。
いうまでもなく、創価学会は日蓮正宗の信徒団体が発端なのです。
鎌倉時代に生まれた日蓮(下写真)という僧の言ったことだけを信じていけ、というのが趣旨なのですこの宗教は。

何故、そういうことを日蓮は言ったのか?
この僧は、いろんな仏教の宗派の内容を学ぶために、それらの寺院に赴いて勉学を重ね、それのみならず儒教や神道や歴史(おもに仏教と関連ある中国やインドなど)を万般にわたって学んできたのが、その遺した御書を読めばわかります。
よくここまで学んだなあ、よくあの紙のあまりない時代においてもたくさんの本を書いたなあと感心することしばしばでした。
しかし、一般の人たちは、紙が貴重だったがゆえに、そういった本を毎日読むことは出来ない。
ゆえに、博学の結果できた私の教えを学んでいくことだけにした方が、理解しやすくなるだろうと踏んだがゆえに、そう諭したのだろうと思います。
それに、自分の教えが後世においてどんな弊害を導き出すのかなということまで検証のしようがなかったのは言うまでもないです。
ゆえに、そのその場面について私は日蓮という僧を批判する気にはなれないです。
しかし、後世において弊害が発しているのであれば、やはりそれは矯正する必要があるでしょう。
やはりどんな偉大な開祖の言ったことであっても、無批判でいることはできない、というのが私のスタンスなのです。
日蓮が、「私が死んだ後にあたしのいったことで弊害が出たのならば、その改良も大事」と書けばよかったのですが、そんなことは御書には書いていないのです。
しかし、私は敢然と矯正はしていきたいし、していかなければ市民としてのの存在意義がないのです。
市民とは、自身の周りの社会を日々良きものにしていこうという気概を持った民のことです。
そういう姿勢を維持していきたいと思っているのです。
●そんなスタンスに共鳴できる人におすすめの本(電子書籍)が以下です。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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しかも古代の人間ですね。
何故、そんな昔の人のことを学ぶ必要があるかといえば、そんな昔の人の言葉でも、今の人が読んでも人生の役に立つからですね。
役に立たなければ学ぶ必要はないのです。
国語でも、古典というものを学びます。
それは現代人でも学ぶべき点が多々あるからですね。
先のアリストテレスの言葉では以下のものがあります。
「人は正しい行為を行うことで正しい人間となり、節度ある行為を行うことで節度ある人間になり、勇敢な行為を行うことで勇敢な人間になれる。」
いかにも現代人にも学ぶべきものがありますね。
しかし、これを学んだ人がいつまでもそれを脳内に入れておくことは不可能でしょう。
仕事、趣味、人づきあいに忙しくて、いつしか脳内からフェイドアウトしてしまうのです。
ゆえに再度思い出すためには、本を読まななくてはならないのです。
簡単なことですね。
そういうことができない人は、自分が属す宗教の機関新聞を読むことで満足してしまうのです。
創価学会では、日刊の新聞である聖教新聞を信者のだれもがとっています。

そこには、故.池田大作会長が、学んだ内容が、講演内容として書かれています。
それを読んだ信者たちは、「学ぶものがある」あるいは「池田先生は事をよく学んでいる」として感心してしまうのです。
ちょっと待ってほしいのですが、他の著作家や哲学者の言ったことを引用する、あるいはそれを流用して講演内に組み込むことは誰でも可能なのです。
池田大作だけの特権ではないのです。
私から言わせれば、その機関新聞を読まなくても、自分から主体的にそういった本を読めばいいだけの話しです。
しかし、それが信者のだれもがわかっていない。
いやわかっているけれども行動に移せない。
なぜか?
世間の大半の人は文字嫌いだからです。
それはアメリカの哲学者のウィリアム.ジェイムズ(下写真)が明らかにしています。
哲学者が言ったからといって賛同しているのではなく、世間を見渡してみればいいでしょう。
最高学府である日本の大学で、授業をどれだけの人が全部出席しているか?
1割前後なのです。
全国でです。
それは調査結果で明らかなのです。
年末の試験前には、大学内はもちろん、近所のコンビ二では、友人知人にノートを借りてそれをコピーする人によって行列ができているのは自明のことです。
それに、創価学会はかつては国民の10人に1人が信者だった時代がありました。
何故、それが可能だったか?
教える内容が非常に分かりやすく、楽観的で、なんども同じことしか書かれていないからですね。
やはり文字嫌いな人は、毎回違う内容を教えられるよりも、同じようなことを教えられる方が精神的に楽だからですね。
私は逆に文字好きで、大学時代に300冊は本を読んだでしょうか?
いろんなことを学びたいと思っていたし、今もそうです。
ゆえに、創価学会に入会して創価の機関新聞を読むも、毎回毎回同じことしか書かれていないので辟易し、購読をやめましたし、会合にも全然参加しなくなりました。
しかし、周りの創価学会員は、毎回毎回同じようなことを言っている会合に喜んで参加し、新聞も購読し続けている。
創価学会員の人の家に上がるも、そこには創価学会関連の冊子や本しかないのが通常です。
他の分野に関するものなどほとんどないのです。
先のウィリアム.ジェイムズの言ったことと見事に符合するでしょう?
しかし、私と大勢の創価学会員とはスタンスが全然違うので、大宗教団体であっても賛同できないのです。
いうまでもなく、創価学会は日蓮正宗の信徒団体が発端なのです。
鎌倉時代に生まれた日蓮(下写真)という僧の言ったことだけを信じていけ、というのが趣旨なのですこの宗教は。

何故、そういうことを日蓮は言ったのか?
この僧は、いろんな仏教の宗派の内容を学ぶために、それらの寺院に赴いて勉学を重ね、それのみならず儒教や神道や歴史(おもに仏教と関連ある中国やインドなど)を万般にわたって学んできたのが、その遺した御書を読めばわかります。
よくここまで学んだなあ、よくあの紙のあまりない時代においてもたくさんの本を書いたなあと感心することしばしばでした。
しかし、一般の人たちは、紙が貴重だったがゆえに、そういった本を毎日読むことは出来ない。
ゆえに、博学の結果できた私の教えを学んでいくことだけにした方が、理解しやすくなるだろうと踏んだがゆえに、そう諭したのだろうと思います。
それに、自分の教えが後世においてどんな弊害を導き出すのかなということまで検証のしようがなかったのは言うまでもないです。
ゆえに、そのその場面について私は日蓮という僧を批判する気にはなれないです。
しかし、後世において弊害が発しているのであれば、やはりそれは矯正する必要があるでしょう。
やはりどんな偉大な開祖の言ったことであっても、無批判でいることはできない、というのが私のスタンスなのです。
日蓮が、「私が死んだ後にあたしのいったことで弊害が出たのならば、その改良も大事」と書けばよかったのですが、そんなことは御書には書いていないのです。
しかし、私は敢然と矯正はしていきたいし、していかなければ市民としてのの存在意義がないのです。
市民とは、自身の周りの社会を日々良きものにしていこうという気概を持った民のことです。
そういう姿勢を維持していきたいと思っているのです。
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♯宗教
人間だれしも宗教心は必要ですか?…答え。必要です。何故? (幸福の科学)
こんにちは。
私は特定の宗教には入っていないですが、人間だれしも宗教的な精神というのは持つことが重要と思っています。
畏敬の念という言葉がありますが、これは畏れと敬意という相反する気持ちを包含した精神状態を言います。
そういうものでしょう誰しも宗教に入って、そこで言われていることを順守してしまう心理というものは?
私にもそういう一面がありますが、それだけでなく、一番大事なことは、身の回りにあるすべてのものを大事にしたいということです。
誰だって自分を蔑ろにして、気に入った人とだけ大事にしている人は忌避したくなりますよね?

所謂、内弁慶な人間っていうのは古今東西嫌われますよね。
そういうことをされたら、いやだから誰に対しても平等に接する、ということになるのでしょう。
いわば経験が大きくものをいうということです。
その経験なくして、人は優しくなれないのです。
ことは、どんな対人関係でもいっしょなのです。
今生きている人だけでなく、死んでしまった人、とくに自分の祖先に対しては、やはり感謝しなくてはならないでしょう。
祖先が生きていたからこそ、今の自分がある。
また死んでしまった親戚や祖父母といった人たちにも、やはり世話になった手前、やはり感謝の念を捧げたいという気持ちになるものです、私は。
やはり蔑ろにされるのが嫌なのがわかるから平等に接する。
それゆえに、生きている人だけでなく、死んでしまった人たちにも感謝をささげる。
やはり普段の精神を飛躍して物事を考えることって必要ではないでしょうか?
その手段の1つがやはり宗教的な行為なのです。

それゆえに、宗教的な行為や精神は大事なのです。
自分の周りのもの一切に感謝する。
そして、自分の専門だけで成り立っているのではないから、他の分野にも感謝する。
自分の学問だけでは成り立たないから、他分野にも触手を伸ばす必要があるから、他の分野の勉強する。
ゆえにいろんな分野の本を読んでいく。
そういうスタンスでいるのです私は。
多面性を有した学者がやはりいつの時代においても注目を浴びるのですし、いろんな支持者が出るのです。
逆に、1つの専門に閉じこもる学者は注目されることはないのですいつの時代でも。
それは、そういう学問のスタンスでは人を魅了することができないからです。
ゆえに多面性を有した方がいい。
いろんな面に秀でていることが大事であるということですから、科学のみならず、その他のあらゆる事象に目を向ければ、何も科学だけに拘泥する必要はないでしょう。
大学の教授が、宗教に関心を持っても何ら不思議ではないです。

しかし、そういう教授は少ないのが現状ではないでしょうか?
科学の理念は、自身の人生はもちろん、身の回りの広い意味での社会を好転させるためのものですから、研究途上で、宗教的なものを研究したっておかしくはないでしょう。
そのことで好転させることができる、と断言したいです。
ですから満遍なくいろんな分野を修めるのが重要ということです。
宗教的なことを重要視している私ですが、それだけに拘泥せよというつもりはないですし、逆に科学的なことだけに拘泥せよというつもりもないです。
やはり両方がバランスよく、脳内や精神にブレンドされていることが重要ということです。
以前、私は幸福の科学が大幅に信頼できる宗教であるといっていましたが、それは多面性を有している理論を持った宗教ゆえになのです。
そのうちで称賛したいのが幸福の原理(四正道)であるとして以下その理論を提示したのです。
愛(奪う愛をやめ、与える愛を心がける) 知(霊的人生観)を持ち、深い智慧を獲得する 反省(心を清めて本当の自分を取り戻す) 発展 (自も他も共に向上し、発展させていく)というものです。
最後の発展についてですが、これを見てハッとしたのです。
これは過去にカリスマ経営者として紹介した高橋がなりという人のモラルに共通していますし、実際このがなり氏の本にも書いてあることです。

高橋がなり
いろんな商売をしてきた関係上、「自も他も共に向上し、発展させていく」ということは非常に大事なことと認識するに至っています。
店とお客さん双方が得をする関係、お店と問屋が両方得する関係…こういう関係を築こうとする気概がなければ商売には向いていないでしょう。
その詳細を知りたい人は、カリスマ経営者といわれた人の書いた本や動画を拝見するのがいいでしょう。
ここでは詳しくは触れません。
こう言うカリスマ経営者の本を読まずに、最初にこの幸福の原理(四正道)を知って、そして実践した結果、好転したという経験を持つ人は、その宗教にぞっこんになるでしょう。
しかし、こういう理論は他の多くの本を乱読していけばたどり着く性格のものなのです。
ゆえに、宗教だけには拘泥しないという私のモラルになっているのです。
もしかしたら、高橋がなり氏は、幸福の原理(四正道)を何かの機会で読んだかもしれないですし、読んでいないかもしれないです。
その検証に時間をかけている暇はないのです(笑)
そういう時間をかけている暇があったら、1つでも本を多く読みたいというのが私のモラルです。
なので好奇心の赴くまま、いろんなことを修めていけばいい、ということが言えるのではないでしょうか?
もちろん科学だけなく、宗教についても両方をバランスよくです。
経営で成功している人の共通点は、店の事務所に神棚があるということです。

そして先祖供養を欠かさないということです。
本を読むことの重要性を指摘しましたが、それは故人の書いた本でもあることもありますし、健在の人であることもあるでしょう。
いろんな人がいることで自分は成り立っている。
だから故人、健在の人、両方に感謝すべし。
だから、宗教心は絶対に必要。
そうではないでしょうか?
ご意見聞きたいです。
●そんなスタンスに共鳴できる人にとってはお勧めの電子書籍が以下です。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
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♯幸福の科学
♯多面性
私は特定の宗教には入っていないですが、人間だれしも宗教的な精神というのは持つことが重要と思っています。
畏敬の念という言葉がありますが、これは畏れと敬意という相反する気持ちを包含した精神状態を言います。
そういうものでしょう誰しも宗教に入って、そこで言われていることを順守してしまう心理というものは?
私にもそういう一面がありますが、それだけでなく、一番大事なことは、身の回りにあるすべてのものを大事にしたいということです。
誰だって自分を蔑ろにして、気に入った人とだけ大事にしている人は忌避したくなりますよね?

所謂、内弁慶な人間っていうのは古今東西嫌われますよね。
そういうことをされたら、いやだから誰に対しても平等に接する、ということになるのでしょう。
いわば経験が大きくものをいうということです。
その経験なくして、人は優しくなれないのです。
ことは、どんな対人関係でもいっしょなのです。
今生きている人だけでなく、死んでしまった人、とくに自分の祖先に対しては、やはり感謝しなくてはならないでしょう。
祖先が生きていたからこそ、今の自分がある。
また死んでしまった親戚や祖父母といった人たちにも、やはり世話になった手前、やはり感謝の念を捧げたいという気持ちになるものです、私は。
やはり蔑ろにされるのが嫌なのがわかるから平等に接する。
それゆえに、生きている人だけでなく、死んでしまった人たちにも感謝をささげる。
やはり普段の精神を飛躍して物事を考えることって必要ではないでしょうか?
その手段の1つがやはり宗教的な行為なのです。

それゆえに、宗教的な行為や精神は大事なのです。
自分の周りのもの一切に感謝する。
そして、自分の専門だけで成り立っているのではないから、他の分野にも感謝する。
自分の学問だけでは成り立たないから、他分野にも触手を伸ばす必要があるから、他の分野の勉強する。
ゆえにいろんな分野の本を読んでいく。
そういうスタンスでいるのです私は。
多面性を有した学者がやはりいつの時代においても注目を浴びるのですし、いろんな支持者が出るのです。
逆に、1つの専門に閉じこもる学者は注目されることはないのですいつの時代でも。
それは、そういう学問のスタンスでは人を魅了することができないからです。
ゆえに多面性を有した方がいい。
いろんな面に秀でていることが大事であるということですから、科学のみならず、その他のあらゆる事象に目を向ければ、何も科学だけに拘泥する必要はないでしょう。
大学の教授が、宗教に関心を持っても何ら不思議ではないです。
しかし、そういう教授は少ないのが現状ではないでしょうか?
科学の理念は、自身の人生はもちろん、身の回りの広い意味での社会を好転させるためのものですから、研究途上で、宗教的なものを研究したっておかしくはないでしょう。
そのことで好転させることができる、と断言したいです。
ですから満遍なくいろんな分野を修めるのが重要ということです。
宗教的なことを重要視している私ですが、それだけに拘泥せよというつもりはないですし、逆に科学的なことだけに拘泥せよというつもりもないです。
やはり両方がバランスよく、脳内や精神にブレンドされていることが重要ということです。
以前、私は幸福の科学が大幅に信頼できる宗教であるといっていましたが、それは多面性を有している理論を持った宗教ゆえになのです。
そのうちで称賛したいのが幸福の原理(四正道)であるとして以下その理論を提示したのです。
愛(奪う愛をやめ、与える愛を心がける) 知(霊的人生観)を持ち、深い智慧を獲得する 反省(心を清めて本当の自分を取り戻す) 発展 (自も他も共に向上し、発展させていく)というものです。
最後の発展についてですが、これを見てハッとしたのです。
これは過去にカリスマ経営者として紹介した高橋がなりという人のモラルに共通していますし、実際このがなり氏の本にも書いてあることです。
高橋がなり
いろんな商売をしてきた関係上、「自も他も共に向上し、発展させていく」ということは非常に大事なことと認識するに至っています。
店とお客さん双方が得をする関係、お店と問屋が両方得する関係…こういう関係を築こうとする気概がなければ商売には向いていないでしょう。
その詳細を知りたい人は、カリスマ経営者といわれた人の書いた本や動画を拝見するのがいいでしょう。
ここでは詳しくは触れません。
こう言うカリスマ経営者の本を読まずに、最初にこの幸福の原理(四正道)を知って、そして実践した結果、好転したという経験を持つ人は、その宗教にぞっこんになるでしょう。
しかし、こういう理論は他の多くの本を乱読していけばたどり着く性格のものなのです。
ゆえに、宗教だけには拘泥しないという私のモラルになっているのです。
もしかしたら、高橋がなり氏は、幸福の原理(四正道)を何かの機会で読んだかもしれないですし、読んでいないかもしれないです。
その検証に時間をかけている暇はないのです(笑)
そういう時間をかけている暇があったら、1つでも本を多く読みたいというのが私のモラルです。
なので好奇心の赴くまま、いろんなことを修めていけばいい、ということが言えるのではないでしょうか?
もちろん科学だけなく、宗教についても両方をバランスよくです。
経営で成功している人の共通点は、店の事務所に神棚があるということです。
そして先祖供養を欠かさないということです。
本を読むことの重要性を指摘しましたが、それは故人の書いた本でもあることもありますし、健在の人であることもあるでしょう。
いろんな人がいることで自分は成り立っている。
だから故人、健在の人、両方に感謝すべし。
だから、宗教心は絶対に必要。
そうではないでしょうか?
ご意見聞きたいです。
●そんなスタンスに共鳴できる人にとってはお勧めの電子書籍が以下です。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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♯多面性
古今東西、多面性は社会に必須!それは宗教に拠ることだけでなく、どんな方法があるか? (幸福の科学)
こんにちは。
私は大幅に,幸福の科学や、その総裁であった大川隆法氏に賛同する立場です。
その理由は端的にいって多面的だからです。
物事は、一面においては正しいと思われても、実際に検証したらそうではないと思える場面が多々あるものです。
それゆえに、物事は多面的に論じていかななくてはいけないものなのです。
大川隆法総裁(下写真)は、生前本を10万冊も読んだということで、多面性を有した理論を展開していたのです。

地球神エルカンターレが彼に下生したというフィクションが、幸福の科学の宗教成立の主な前提になっているのですが、それゆえになのか、あるいはそういった総裁の多読によってなのかは、わかりかねますけれども、とにかく総裁が書いた本なり、しゃべった講演の内容は、多面性を有していたのです。
多読ゆえか、エルカンターレが下生したからか、そのどちらが理由か、あるいはその両方ゆえに多面性を有しているのかはこちらでは検証のしようがないのです。
いな誰も無理でしょうし、今たとえ総裁が生きておられても総裁自身でも判断は無理でしょう、どちらが故なのかは。
しかし、いずれにせよ、そういう多面性は大事なのです、ことを論じていくためには。
ただ巷の宗教のように教祖の言うことだけに従っていればいい、という理論には与することはできない、というのが私の立場なのです。
私が、幸福の科学で唱えられている理論で、称賛したいものの1つは、幸福の原理(四正道)です。
それは、以下の4つです。
愛(奪う愛をやめ、与える愛を心がける) 知(霊的人生観)を持ち、深い智慧を獲得する 反省(心を清めて本当の自分を取り戻す) 発展 (自も他も共に向上し、発展させていく)というものです。
これを見ると、キリスト教なのか、仏教なのか、どこの宗教ともわからない、何かいろんな宗教をごっちゃ混ぜにしたような感を与えるという論者もいるでしょうが、こんにちのように、いろんな本や雑誌、冊子などが存在している時代においては、雑種化は避けられないのです。
いな、日本の古代からして、文物や口承による手段ができてしまったがゆえに、雑種化は避けられない運命にあったのです。
さらに、紙が誰でも手にすることができる現代の時代においては、その雑種化の程度は上がるのです。
ゆえに、雑種化は避けられないと措定しながら、いかに人を説得できる理論を展開するかどうかが重要であると思っているのです私は。
純粋か雑種かではないのです。
いな、現代にある宗教の中で、雑種化によって成り立っているのがほとんど、いや全部でしょう。
こと仏教にしても、聖徳太子の前の時代に日本に伝わったのですが、その時において既にキリスト教の影響を受けてから入ってきたのです。
そんな…と思われるでしょうが、それは真実なのです。

太子以前に伝わった百済観音像にしても、日本に入ってきたときに、いかにもアジアっぽいいでたちをしているので、いかにも西洋のキリスト教の影響など受けているはずはない、と思われるでしょうが、それは土着の文化によって脚色が加えられているだけのはなしなのです。
それの詳しい理論については私が推す以下の書籍にも書いてあるので読むのがいいでしょう。
いろんな情報に接しながら、脳内で熟成させながら、いろんな面から検証し、大事と思われる面は取り入れ、不要と思われるものに関しては捨てる。
そうして出来上がった理論を信者に提示して、それを信者が順守する、というのが一般的な宗教の日常でしょう。
しかし、長年考えに考え熟成させた理論でも、どう考えても受け入れられない面が出てくるので、そこはいくら偉大なる教祖の出した理論であっても、すてなくてはならないでしょう。
まさに守破離が重要なのです。
それに加えて、偉大なる教祖の残した理論であっても、それによらず、他の本などに拠ったことで、解決できたという経験は誰しも持つでしょうし、まさに私もそうなのです。
そういう人生によって人生を切りぬけてきたがゆえに、いくら偉大なる大川総裁の宗教であっても、その信者にはなれない、としているのです私は。
●そういうスタンスに共鳴できる人や、そういう立場のメンタル部分について知りたい人にはうってつけの本(電子書籍)が以下になります。
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私は大幅に,幸福の科学や、その総裁であった大川隆法氏に賛同する立場です。
その理由は端的にいって多面的だからです。
物事は、一面においては正しいと思われても、実際に検証したらそうではないと思える場面が多々あるものです。
それゆえに、物事は多面的に論じていかななくてはいけないものなのです。
大川隆法総裁(下写真)は、生前本を10万冊も読んだということで、多面性を有した理論を展開していたのです。
地球神エルカンターレが彼に下生したというフィクションが、幸福の科学の宗教成立の主な前提になっているのですが、それゆえになのか、あるいはそういった総裁の多読によってなのかは、わかりかねますけれども、とにかく総裁が書いた本なり、しゃべった講演の内容は、多面性を有していたのです。
多読ゆえか、エルカンターレが下生したからか、そのどちらが理由か、あるいはその両方ゆえに多面性を有しているのかはこちらでは検証のしようがないのです。
いな誰も無理でしょうし、今たとえ総裁が生きておられても総裁自身でも判断は無理でしょう、どちらが故なのかは。
しかし、いずれにせよ、そういう多面性は大事なのです、ことを論じていくためには。
ただ巷の宗教のように教祖の言うことだけに従っていればいい、という理論には与することはできない、というのが私の立場なのです。
私が、幸福の科学で唱えられている理論で、称賛したいものの1つは、幸福の原理(四正道)です。
それは、以下の4つです。
愛(奪う愛をやめ、与える愛を心がける) 知(霊的人生観)を持ち、深い智慧を獲得する 反省(心を清めて本当の自分を取り戻す) 発展 (自も他も共に向上し、発展させていく)というものです。
これを見ると、キリスト教なのか、仏教なのか、どこの宗教ともわからない、何かいろんな宗教をごっちゃ混ぜにしたような感を与えるという論者もいるでしょうが、こんにちのように、いろんな本や雑誌、冊子などが存在している時代においては、雑種化は避けられないのです。
いな、日本の古代からして、文物や口承による手段ができてしまったがゆえに、雑種化は避けられない運命にあったのです。
さらに、紙が誰でも手にすることができる現代の時代においては、その雑種化の程度は上がるのです。
ゆえに、雑種化は避けられないと措定しながら、いかに人を説得できる理論を展開するかどうかが重要であると思っているのです私は。
純粋か雑種かではないのです。
いな、現代にある宗教の中で、雑種化によって成り立っているのがほとんど、いや全部でしょう。
こと仏教にしても、聖徳太子の前の時代に日本に伝わったのですが、その時において既にキリスト教の影響を受けてから入ってきたのです。
そんな…と思われるでしょうが、それは真実なのです。

太子以前に伝わった百済観音像にしても、日本に入ってきたときに、いかにもアジアっぽいいでたちをしているので、いかにも西洋のキリスト教の影響など受けているはずはない、と思われるでしょうが、それは土着の文化によって脚色が加えられているだけのはなしなのです。
それの詳しい理論については私が推す以下の書籍にも書いてあるので読むのがいいでしょう。
いろんな情報に接しながら、脳内で熟成させながら、いろんな面から検証し、大事と思われる面は取り入れ、不要と思われるものに関しては捨てる。
そうして出来上がった理論を信者に提示して、それを信者が順守する、というのが一般的な宗教の日常でしょう。
しかし、長年考えに考え熟成させた理論でも、どう考えても受け入れられない面が出てくるので、そこはいくら偉大なる教祖の出した理論であっても、すてなくてはならないでしょう。
まさに守破離が重要なのです。
それに加えて、偉大なる教祖の残した理論であっても、それによらず、他の本などに拠ったことで、解決できたという経験は誰しも持つでしょうし、まさに私もそうなのです。
そういう人生によって人生を切りぬけてきたがゆえに、いくら偉大なる大川総裁の宗教であっても、その信者にはなれない、としているのです私は。
●そういうスタンスに共鳴できる人や、そういう立場のメンタル部分について知りたい人にはうってつけの本(電子書籍)が以下になります。
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信頼できない著作家と大川隆法氏との違いとは? (幸福の科学)
こんにちは。
私は本を読むのが趣味ですが、読まないと決めている著者の本の特徴は、いろいろあります。
まず、ありきたりなことしか書いていない著者の本は興味がおきないからだめですね。
そして、幅広い知識がない人のもだめですね説得力がないですから。
そして、自分の意見が書いていないのも、学ぶものがないからだめですね。
そして、引用ばかりの本を書く人もだめですね。
引用ばかりの本は、結局上記の特徴をすべて内包していますね。
「」をつけて、他の本からの引用をしている本は、支離滅裂で、読んでいて集中力が萎えてくるのです。
自己主張がないことにも通じますし、自分の意見を構成するという日々の脳内の鍛錬が足りていないから、こういう文になってしまうのです。
こういう引用ばかりの本では、他の本を読んだだけという自己をさらけ出しているのに過ぎないのです。
また書くことがなくなってしまっているから、引用で時数稼ぎをして、本を書いているに過ぎない、ということにもなっているのです。
こういう本は読みづらいですから、読む人の立場になってもいないのです。
そういう著者には人間的な魅力もないのです。
以前に指摘した日本の、政治学の神様、などといわれていた丸山眞男(下写真)は、まさにそういう人でした。

古文漢文の引用が長々とされていて、しかも難解で読みづらいので、読むだけで精いっぱいでした。
そして読語の感想は「何が書いてあったかさっぱりわからない!」としか言えなかったです(笑)。
こういう本を書く人が、なぜ政治学の神様なのか、まったく理解できませんでした。
私が講義を受けた政治学の教授や、政治学史の教授、そして思想史の教授などもそろってこの丸山氏を褒めたたえていましたが、まったく理解できなかったです。
しかし、幸福の科学の故.大川隆法氏(下写真)はこうでなかったです。

10万冊もの本を読破し、それらによって配合、発酵、そして抽出された理論、そして経験から滲み出た理論、そして啓示も受けたであろう理論までも書いてあったので、その世界観に引き入られてすぐに読破してしまっていたのです私は。
引用ばかりの本ではこういうことにはなりえません。
そういう本とは一線を画していたのです。
こういった私の意見が、本気であるか否かは、この文章を読んでもらえればわかるでしょう。
嘘を書いているのであれば、やはり行間からそれが読み取られてしまうものです。
決して嘘ではないとわかるでしょう。
「」を多用して、引用ばかりしていては、絶対に3,100冊という冊数には到達しないのです。
総裁は生前にこれだけの冊数の本を出したのです。
こういう面も、やはりエルカンターレが、大川総裁に下生して、その能力を付与したということも頷ける要因になっているのです。

エルカンターレが大川氏に下生した、などということは幸福の科学信者でない人にとっては、信じれない事でしょう。
しかし、それが信用に値するものかどうかは、まず大川氏の本を読んでもらうほかないでしょう。
そして、自分で本を書いてみるのも有効でしょう。
本を1冊出すだけでどれだけたいへんな作業かがわかるでしょう。
しかし、そういう作業をしないでいて、幸福の科学が邪道であると決めつける輩がどれだけいるかわからないです。
そういう立場から私は一線を画しているのです。
しかし、私は、幸福の信者ではないですし、これからも信者になるつもりはないです。
なぜ?
ここまで称賛しているのに?
と思われるでしょうが、私は大川隆法氏の信憑性については信頼を置きますし、本物と思っていますが、彼以外の本でもいくらでも参考になる著者はいますし、他の人からも学ぶものがあるのは明白です。
大川隆法氏には大いに学ぶものがあれど、彼だけではないから、信者にならないのです。
でも信頼は置く…奇妙な立場だなと思われるでしょうが、それをやめるつもりはないのです(笑)
●こういう奇妙な立場でも理解ができるのであれば、以下の本(電子書籍)はお勧めです。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯大川隆法
♯信憑性
私は本を読むのが趣味ですが、読まないと決めている著者の本の特徴は、いろいろあります。
まず、ありきたりなことしか書いていない著者の本は興味がおきないからだめですね。
そして、幅広い知識がない人のもだめですね説得力がないですから。
そして、自分の意見が書いていないのも、学ぶものがないからだめですね。
そして、引用ばかりの本を書く人もだめですね。
引用ばかりの本は、結局上記の特徴をすべて内包していますね。
「」をつけて、他の本からの引用をしている本は、支離滅裂で、読んでいて集中力が萎えてくるのです。
自己主張がないことにも通じますし、自分の意見を構成するという日々の脳内の鍛錬が足りていないから、こういう文になってしまうのです。
こういう引用ばかりの本では、他の本を読んだだけという自己をさらけ出しているのに過ぎないのです。
また書くことがなくなってしまっているから、引用で時数稼ぎをして、本を書いているに過ぎない、ということにもなっているのです。
こういう本は読みづらいですから、読む人の立場になってもいないのです。
そういう著者には人間的な魅力もないのです。
以前に指摘した日本の、政治学の神様、などといわれていた丸山眞男(下写真)は、まさにそういう人でした。
古文漢文の引用が長々とされていて、しかも難解で読みづらいので、読むだけで精いっぱいでした。
そして読語の感想は「何が書いてあったかさっぱりわからない!」としか言えなかったです(笑)。
こういう本を書く人が、なぜ政治学の神様なのか、まったく理解できませんでした。
私が講義を受けた政治学の教授や、政治学史の教授、そして思想史の教授などもそろってこの丸山氏を褒めたたえていましたが、まったく理解できなかったです。
しかし、幸福の科学の故.大川隆法氏(下写真)はこうでなかったです。
10万冊もの本を読破し、それらによって配合、発酵、そして抽出された理論、そして経験から滲み出た理論、そして啓示も受けたであろう理論までも書いてあったので、その世界観に引き入られてすぐに読破してしまっていたのです私は。
引用ばかりの本ではこういうことにはなりえません。
そういう本とは一線を画していたのです。
こういった私の意見が、本気であるか否かは、この文章を読んでもらえればわかるでしょう。
嘘を書いているのであれば、やはり行間からそれが読み取られてしまうものです。
決して嘘ではないとわかるでしょう。
「」を多用して、引用ばかりしていては、絶対に3,100冊という冊数には到達しないのです。
総裁は生前にこれだけの冊数の本を出したのです。
こういう面も、やはりエルカンターレが、大川総裁に下生して、その能力を付与したということも頷ける要因になっているのです。
エルカンターレが大川氏に下生した、などということは幸福の科学信者でない人にとっては、信じれない事でしょう。
しかし、それが信用に値するものかどうかは、まず大川氏の本を読んでもらうほかないでしょう。
そして、自分で本を書いてみるのも有効でしょう。
本を1冊出すだけでどれだけたいへんな作業かがわかるでしょう。
しかし、そういう作業をしないでいて、幸福の科学が邪道であると決めつける輩がどれだけいるかわからないです。
そういう立場から私は一線を画しているのです。
しかし、私は、幸福の信者ではないですし、これからも信者になるつもりはないです。
なぜ?
ここまで称賛しているのに?
と思われるでしょうが、私は大川隆法氏の信憑性については信頼を置きますし、本物と思っていますが、彼以外の本でもいくらでも参考になる著者はいますし、他の人からも学ぶものがあるのは明白です。
大川隆法氏には大いに学ぶものがあれど、彼だけではないから、信者にならないのです。
でも信頼は置く…奇妙な立場だなと思われるでしょうが、それをやめるつもりはないのです(笑)
●こういう奇妙な立場でも理解ができるのであれば、以下の本(電子書籍)はお勧めです。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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♯大川隆法
♯信憑性
人間社会においては変化は必然!その時にどんな対応をするかが大事?(幸福の科学)
幸福の科学の総裁であった故.大川隆法氏が学生であった70年代は、学界では、1つの専門に閉じこもり、その他の専門には通じていない専門家がもてはやされた時代でした。
しかし、それでは、社会全体を俯瞰してことを論じることができないし、何よりもそういう専門家の書く論文には説得力がない、とうことで、専門をまたいでいろんなことが論じれる人の方が学界人としては妥当という認識になったのでした。
私もその方を支持します。
それは、何も学界だけでなく宗教界においても同様でしょう。

仏教の中でも、いろんな分派が分かれて、その派の中の長の価値観だけが全面に出て、本来の仏教のことを創始期からさかのぼって広く俯瞰して論じていくことができないでいるということになっていたのでしたし、それはいまだに継続しているといってもいいでしょう。
それは致し方ない面も含んでいます。
それぞれの仏教がいろんな宗派に分かれて勃興した鎌倉時代とは違って、今は紙が無限に手に入れることができる時代です。
そんな時代だからこそ、いろんな人がいろんな事を書いて、冊子にしたり本にしたりできる時代ゆえに、その宗派の中に関する情報を処理することだけに精一杯で、他の宗派について勉強することなどできないのですから。
ましてや、仏教の全体的な歴史など俯瞰してはいられないのですから。
しかし、それでいいかといえばそんなことはなくて、社会全体を俯瞰して、ことを論じ、人心や社会の救済をしていかなくてはいけないのが宗教の本質なのですから、自派の勉強だけでいいというのでは、妥当性がないでしょう。
例えば薬師如来という拝む対象が仏教にはありますが、これは名の通り、この仏像を拝むことによって、病気を治すことを祈願して祈たのでしょう。

そして、それを祈ったことで本当に治癒した、という人が続出したのであろうことが想像できます。
そのことによって、それを祀った寺院は、「この仏像に祈ることで病気が治癒しますよ。」という喧伝を盛んにするようになった。
それはそれでいいでしょう。
しかし、ことをそれだけで済ませるのではなく、人心の啓蒙、神仏に対する敬虔は心の養成、社会変革の方途の講義…こういったことについても幅広くしていかないことには、仏教として存立の意味がないでしょう。
その宗教のセールスポイントを切り取って、その1つの側面だけに焦点を当てて宣伝し喧伝する。
そのことで、本来の仏教の意義が見えなくなり、その信者に不信感を与えて、脱退者やたまにしか顔を出さない信者が出てくることにつながるのでしょう。
そういうマイナス面を見なくてはならないでしょう。
そういって疎遠になった信者も、そうなってしまった歴史的な背景を認識したうえで、自分から仏教全体を俯瞰して勉強していかなくてはならないでしょう。
そうすることで全体性がわかり、ひいては幸福、社会全体をよくしていくという意味での幸福につながるわけですから。
そういう事態が起きるのは人類の歴史を俯瞰して必然という認識を得れば別段、憤る必要もないでしょう。
自分から主体的に全体像を勉強すればいいのですから。
そういう自派だけに特化した宗派が存立してしまった後に、その反動から多面性を有した宗教が出てくるのも、また必然なのでしょか?
それが幸福の科学であり、生長の家なのでしょう。

そういう宗教が出てくるのはいいとは思います。
現代社会においては、誰もが仕事に忙しくて、そういうものを主体的に学ぶには限界がありますから。
しかし、それで終始万全かというとそうではないでしょう。
やはり、その宗教はいつでも変化しているわけで、それが傍らから見て万全のままでいる、ということはあり得ないわけです。
考えれるのは、そういった多面性を有した宗教にも反動が起こるのは必然ということでしょう。
学界を例にすれば、いろんな分野に精通していながらも、確固たる専門がなくあやふやな学者が出てきてしまうといった事態になってしまうのです。
やはり正当なのは、日々努力して専門性を確立しながらも多面性をも確立していくのが妥当ということではないでしょうか?
それが人さまから評価されるには、やはり外部からの意見を真摯に受けれる度量がないことには務まらないでしょう。
そんなことを考えてしまいました。
●そんなスタンスに共鳴できる方には以下の本(電子書籍)はお勧めです。
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♯幸福の科学
♯現代社会
しかし、それでは、社会全体を俯瞰してことを論じることができないし、何よりもそういう専門家の書く論文には説得力がない、とうことで、専門をまたいでいろんなことが論じれる人の方が学界人としては妥当という認識になったのでした。
私もその方を支持します。
それは、何も学界だけでなく宗教界においても同様でしょう。
仏教の中でも、いろんな分派が分かれて、その派の中の長の価値観だけが全面に出て、本来の仏教のことを創始期からさかのぼって広く俯瞰して論じていくことができないでいるということになっていたのでしたし、それはいまだに継続しているといってもいいでしょう。
それは致し方ない面も含んでいます。
それぞれの仏教がいろんな宗派に分かれて勃興した鎌倉時代とは違って、今は紙が無限に手に入れることができる時代です。
そんな時代だからこそ、いろんな人がいろんな事を書いて、冊子にしたり本にしたりできる時代ゆえに、その宗派の中に関する情報を処理することだけに精一杯で、他の宗派について勉強することなどできないのですから。
ましてや、仏教の全体的な歴史など俯瞰してはいられないのですから。
しかし、それでいいかといえばそんなことはなくて、社会全体を俯瞰して、ことを論じ、人心や社会の救済をしていかなくてはいけないのが宗教の本質なのですから、自派の勉強だけでいいというのでは、妥当性がないでしょう。
例えば薬師如来という拝む対象が仏教にはありますが、これは名の通り、この仏像を拝むことによって、病気を治すことを祈願して祈たのでしょう。

そして、それを祈ったことで本当に治癒した、という人が続出したのであろうことが想像できます。
そのことによって、それを祀った寺院は、「この仏像に祈ることで病気が治癒しますよ。」という喧伝を盛んにするようになった。
それはそれでいいでしょう。
しかし、ことをそれだけで済ませるのではなく、人心の啓蒙、神仏に対する敬虔は心の養成、社会変革の方途の講義…こういったことについても幅広くしていかないことには、仏教として存立の意味がないでしょう。
その宗教のセールスポイントを切り取って、その1つの側面だけに焦点を当てて宣伝し喧伝する。
そのことで、本来の仏教の意義が見えなくなり、その信者に不信感を与えて、脱退者やたまにしか顔を出さない信者が出てくることにつながるのでしょう。
そういうマイナス面を見なくてはならないでしょう。
そういって疎遠になった信者も、そうなってしまった歴史的な背景を認識したうえで、自分から仏教全体を俯瞰して勉強していかなくてはならないでしょう。
そうすることで全体性がわかり、ひいては幸福、社会全体をよくしていくという意味での幸福につながるわけですから。
そういう事態が起きるのは人類の歴史を俯瞰して必然という認識を得れば別段、憤る必要もないでしょう。
自分から主体的に全体像を勉強すればいいのですから。
そういう自派だけに特化した宗派が存立してしまった後に、その反動から多面性を有した宗教が出てくるのも、また必然なのでしょか?
それが幸福の科学であり、生長の家なのでしょう。
そういう宗教が出てくるのはいいとは思います。
現代社会においては、誰もが仕事に忙しくて、そういうものを主体的に学ぶには限界がありますから。
しかし、それで終始万全かというとそうではないでしょう。
やはり、その宗教はいつでも変化しているわけで、それが傍らから見て万全のままでいる、ということはあり得ないわけです。
考えれるのは、そういった多面性を有した宗教にも反動が起こるのは必然ということでしょう。
学界を例にすれば、いろんな分野に精通していながらも、確固たる専門がなくあやふやな学者が出てきてしまうといった事態になってしまうのです。
やはり正当なのは、日々努力して専門性を確立しながらも多面性をも確立していくのが妥当ということではないでしょうか?
それが人さまから評価されるには、やはり外部からの意見を真摯に受けれる度量がないことには務まらないでしょう。
そんなことを考えてしまいました。
●そんなスタンスに共鳴できる方には以下の本(電子書籍)はお勧めです。
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自分の宗教にない行為で、他の宗教で自分がいいと持ったことは生活に取り入れるべし?(幸福の科学)
幸福の科学の故.大川隆法総裁をいろいろ観察していくと、いろんな偉大なる足跡を残した宗教の開祖や、脳力の高かった人との共通点があるのに気が付きます。
その中の1人が真言宗の開祖であった空海(下写真)ですね。

空海は、動物的な欲望の心、人間的な道徳心、修行を積んだ高次元の心を経て、最後に神秘的な恍惚感の中で大日如来の合一体験によって仏になれると説いたのです。
そして空海は瞑想を通して仏(大日如来)になると説いたのです。
そういう共通する点が大川総裁にもあったがゆえに、総裁は自分にも資質を感じたのではないでしょうか?
実際それは間違っていなかったでしょう。
それに踏み切ったことで開宗から約2年で、家族で全フロアで600万円もするマンションを借りることができたほど実入りがはいるほどだったし、現在までに168か国にまで幸福の科学が広がる結果になったのですから、その踏切りは間違いなかったといえるでしょう。
こういう事象を見ると「情報は人を選ぶ」という言葉が現実味を帯びてきます。
人が情報を選ぶのではなく、情報が人を選ぶということですが、それほど単純なものではなく、当然、人が情報を選ぶ場面もあります。
しかし、前者の方が比重が大きいということでしょうか。
いろんな宗教家の本を読むことで、自分にもそういう宗教家としての資質を見つけることができて、そして実際に開祖しようという気持ちに火が付いたということも考えれるでしょう。
神や仏が、そういう文章を大川総裁(下写真)の目につくように仕向けた、ということでしょう。

そういうスピリチュアルなことに賛同の意を向けるのに、私はやぶさかではないですね。
スピリチュアルといえば、やはり瞑想の効用も見逃せません。
これによって、やはり神や仏の力を拝借することができる、というか、そのことによる効果も当然証明されているのです。
いま、日蓮正宗の信徒団体だった創価学会の信者数はかなりのもので、全盛期では日本人の10人につき1人が創価学会員になる事態にまで発展したのです。
その開祖の日蓮よりも先だって、曹洞宗の開祖の道元の教えで有名なのは、只管打坐ですね。
ただ、これによって仏教の崇めの対象であるものからの支持を得れるということです。
やはり、これは空海の瞑想と一緒でしょう。
その曹洞宗の座禅に影響を受けて、スティーヴ.ジョブス(下写真)はアメリカにおいて座禅を習慣化してビジネスで成功をおさめることができたのです。

こういうことによって宗教的な力を得れるということがわかります。
やはり明鏡止水の心を得れるのがわかります。
しかし、それはただ単におこなうということではなく、やはり神仏に向き合っているんだという真摯な、そして敬虔な気持ちで接することが大事でしょう。
神仏の加護が得れたいから漫然とするのではだめでしょう。
そして、いつも真摯に物事に取り組むことが大事でしょう。
普段、何気なく生活しているだけで、神仏の力を得たいからといって祈る、あるいは座禅や瞑想をおこなうというのでは、虫が良すぎるでしょう。

大川総裁は生前に、瞑想を信者に勧めていたのですが、やはりこういうバックグランドがなければ、宗教的な成就は難しいですし、生活もうまくいかないですし、成功もかなわないでしょう。
日蓮正宗の信徒団体だった創価学会にしろ、その本体の日蓮正宗にしろ、そのまた信徒団体だった顕正会にしろ、瞑想は宗教的な行為としてはおこなわれてはおりませんし教義にも入ってません。
しかし、これらの団体に属している人で、その効用について認識したり、本を読んだりしてやってみたいなと思ったら日々の行いのうちに入れるのがいいでしょう。
毎朝夕の勤行だけで物事や人生全般においてうまくいくのならば、そういうことをする必要はないでしょう。
しかし、うまくいかないならば取り入れたって全然かまわないと思います。
しかし、創価学会にしろ、正宗にしろ、顕正会にしろ、その団体にぞっこんになってしまっている人は、そういう柔軟性がないので、そういう工夫を加えることについて断固反対するのですね。
それでは、あまりに頭が固いといわざるを得ないです。
そういう石頭になりたくないので、私は創価学会に入ったことがあれども、この宗教を人に教えたことはないのです。

そして、いまだ疎遠なままです。
そういう工夫は自身の考えで、そして勉強でしていくことが大事と思います。
1つの宗教にこだわらずに。
私はこういうモラルゆえに、どの宗教にも与しないのです。
しかし、こと幸福の科学については、多面性を有しているので、私のスタンスにあっているのです。
しかし、この団体に入ったからといってそれだけで絶対にうまくいくことになる!といった断定はできないので、信者にはなりませんし、人に勧めたりはしないです。
入りたい人ははいればいいし、入りたくない人は入らなければいいでしょう。
しかし、もし入ったとしても、自分なりの工夫はすべきである、ということは断言したいです。
●そんなスタンスの共鳴してくれる人であれば、以下の本はお勧めです。
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♯瞑想
♯工夫
その中の1人が真言宗の開祖であった空海(下写真)ですね。

空海は、動物的な欲望の心、人間的な道徳心、修行を積んだ高次元の心を経て、最後に神秘的な恍惚感の中で大日如来の合一体験によって仏になれると説いたのです。
そして空海は瞑想を通して仏(大日如来)になると説いたのです。
そういう共通する点が大川総裁にもあったがゆえに、総裁は自分にも資質を感じたのではないでしょうか?
実際それは間違っていなかったでしょう。
それに踏み切ったことで開宗から約2年で、家族で全フロアで600万円もするマンションを借りることができたほど実入りがはいるほどだったし、現在までに168か国にまで幸福の科学が広がる結果になったのですから、その踏切りは間違いなかったといえるでしょう。
こういう事象を見ると「情報は人を選ぶ」という言葉が現実味を帯びてきます。
人が情報を選ぶのではなく、情報が人を選ぶということですが、それほど単純なものではなく、当然、人が情報を選ぶ場面もあります。
しかし、前者の方が比重が大きいということでしょうか。
いろんな宗教家の本を読むことで、自分にもそういう宗教家としての資質を見つけることができて、そして実際に開祖しようという気持ちに火が付いたということも考えれるでしょう。
神や仏が、そういう文章を大川総裁(下写真)の目につくように仕向けた、ということでしょう。
そういうスピリチュアルなことに賛同の意を向けるのに、私はやぶさかではないですね。
スピリチュアルといえば、やはり瞑想の効用も見逃せません。
これによって、やはり神や仏の力を拝借することができる、というか、そのことによる効果も当然証明されているのです。
いま、日蓮正宗の信徒団体だった創価学会の信者数はかなりのもので、全盛期では日本人の10人につき1人が創価学会員になる事態にまで発展したのです。
その開祖の日蓮よりも先だって、曹洞宗の開祖の道元の教えで有名なのは、只管打坐ですね。
ただ、これによって仏教の崇めの対象であるものからの支持を得れるということです。
やはり、これは空海の瞑想と一緒でしょう。
その曹洞宗の座禅に影響を受けて、スティーヴ.ジョブス(下写真)はアメリカにおいて座禅を習慣化してビジネスで成功をおさめることができたのです。

こういうことによって宗教的な力を得れるということがわかります。
やはり明鏡止水の心を得れるのがわかります。
しかし、それはただ単におこなうということではなく、やはり神仏に向き合っているんだという真摯な、そして敬虔な気持ちで接することが大事でしょう。
神仏の加護が得れたいから漫然とするのではだめでしょう。
そして、いつも真摯に物事に取り組むことが大事でしょう。
普段、何気なく生活しているだけで、神仏の力を得たいからといって祈る、あるいは座禅や瞑想をおこなうというのでは、虫が良すぎるでしょう。

大川総裁は生前に、瞑想を信者に勧めていたのですが、やはりこういうバックグランドがなければ、宗教的な成就は難しいですし、生活もうまくいかないですし、成功もかなわないでしょう。
日蓮正宗の信徒団体だった創価学会にしろ、その本体の日蓮正宗にしろ、そのまた信徒団体だった顕正会にしろ、瞑想は宗教的な行為としてはおこなわれてはおりませんし教義にも入ってません。
しかし、これらの団体に属している人で、その効用について認識したり、本を読んだりしてやってみたいなと思ったら日々の行いのうちに入れるのがいいでしょう。
毎朝夕の勤行だけで物事や人生全般においてうまくいくのならば、そういうことをする必要はないでしょう。
しかし、うまくいかないならば取り入れたって全然かまわないと思います。
しかし、創価学会にしろ、正宗にしろ、顕正会にしろ、その団体にぞっこんになってしまっている人は、そういう柔軟性がないので、そういう工夫を加えることについて断固反対するのですね。
それでは、あまりに頭が固いといわざるを得ないです。
そういう石頭になりたくないので、私は創価学会に入ったことがあれども、この宗教を人に教えたことはないのです。

そして、いまだ疎遠なままです。
そういう工夫は自身の考えで、そして勉強でしていくことが大事と思います。
1つの宗教にこだわらずに。
私はこういうモラルゆえに、どの宗教にも与しないのです。
しかし、こと幸福の科学については、多面性を有しているので、私のスタンスにあっているのです。
しかし、この団体に入ったからといってそれだけで絶対にうまくいくことになる!といった断定はできないので、信者にはなりませんし、人に勧めたりはしないです。
入りたい人ははいればいいし、入りたくない人は入らなければいいでしょう。
しかし、もし入ったとしても、自分なりの工夫はすべきである、ということは断言したいです。
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莫大な科学的な蓄積のあった大川総裁でも教育において誤った?(幸福の科学)
幸福の科学の総裁であった故大川隆法総裁(下写真)がなくなって、あと1か月で2年がたとうとしている。
いきなりの出来事で、私は当惑したのを覚えている。
私の人生の指針を強烈に与えてくれた人だからだ。

その人がなくなるのは、かなりの程度ショックだったのだ。
他に求めるべき指針があるのかどうか?
もし、それが探せれなかったらどうするか?
そうしたら自分の人生はどうなるか?
こんなことを考えてしまったのだった。
こういう思いにさせてくれる人は人生の中でどれだけいるだろうか?
ほとんどの人が5人以下ではないだろうか?
しかし、それから、これまで自分が読んだ大川総裁の本を見なおしていくうちに、「これらを指針に頑張っていこう!」と思ったのだった。
実に簡単なことだったが、やはり大きく人生を変えてくれた人の死去は、そんな思いになってしまうものなのだ。
その時、考えたのは、「幸福の科学は分裂せずに済むか?」ということだった。
周知のようにそのようにならなくてすんでいる。
後継者は作らず、これまでの総裁の過去の講演を機関誌で掲載しなおし、会合では、過去の総裁の講演を流す、という方式にしているからだ。

これは賢明な施策だ。
後継者を決めると、その人が、創始者と見劣りがしたりして、その組織は必ず分裂してしまうからだ。
そして一度分裂したら、絶対に1つには纏めれないのは、過去の人類の歴史を垣間見れば瞭然だからだ。
宗教かどうかにかかわらず、いろんな団体がそのような軌跡をたどっている。
それは、「キリストの幕屋」という宗教団体を見ればわかる。
名称からわかるように、これはクリスチャンの団体だ。
この団体の長は手島郁郎(下写真)という人だったが、この人なき後、後継者を指定せず、機関誌では、この手島氏の過去の講演を引き合いに出して掲載しているだけだ。

そのことで分裂しないので40年ももっている。
それでいいのだろう。
しかし気になるのは、総裁の子供たちの動向だ。
その長男だった宏洋氏は、総裁に自分の後継者になれるように期待をされていたが、実際はそうはならなかった。
当初、宏洋氏(下写真)は、その期待に応えるべく、講演で檀上に立って父親を尊崇しているという風な発言をして、涙を流していたこともあった。

それのみか、幸福の科学の映画にも出演していた。
それがいきなり反旗を翻えして、決別という形になったのだった。
そのような状態にいきなりなってしまったので、私も当惑したのだ。
それのみならず、本を出して幸福の科学を批判し、またかなりの数の反.幸福の科学の趣旨の動画を出すようになってしまったのだった。
その本を私も買い、その内容を見ると、当初は「総裁の身近にいた人の言葉だからこの本に書いてることは本当なのだろうか?」と思ったのだった。
理想の像とはまるで反対なのだ宏洋氏の書く総裁像は。
だとしたら虚像を書いていたということになる総裁は。
宏洋氏の書いてあることが本当ならば、これから先、自分は総裁の本を読むのをやめて、幸福の科学の会合にも参加しないようにしようか、などと思ったのだった。
しかし、ちょっと時間と距離を置いて、「待てよ。本当の姿と思っていた総裁の像が偽りならば、これまで感動してきた総裁の本は嘘だったことになるが、そんなフリをすることが長年できたことだろうか?」といぶかしげに思ったものだ。
よくよく考えて、やはりそんなフリをすることはできないだろうと、過去に読んだ本を読み返して、結論に至ったのだった。
しかし、そういう知的作業を苦手とする人は、そのまま吟味せず、宏洋氏の言うことだけを信じて、幸福の科学や総裁をこき下ろして終わりということになったのだろう。
しかし、そういう早とちりは嫌いなのだ私は。
しかし、そういった知的作業をしておいてよかったと思ったのだ。
宏洋氏の書いた本の内容と、彼が出した動画の内容が、真実と違うとして、幸福の科学は7度、訴えていずれも宏洋氏は敗訴しているのだ。

なぜ宏洋氏が、これほどまでに父やその団体を忌み嫌うようになってしまったのか?
これはだれしも興味深いことでしょう。
それは家庭心理学、家族心理学といった分野のモノを読むと分かるのですが、教育を間違うと、宏洋氏のように、父親の長所を長所として見れず、欠陥のあるものを見ると、それを何倍にも拡大して批判してしまうようになるのです。
人事の異動に関しては、総裁の気分次第でころころ変わるとして宏洋氏は批判していたのです。
ここを読むと、スティーヴ.ジョブスの評伝の本にあったように、「冷徹なまでの会社内人事を何度も断行、辛らつな言葉を吐いてきた。目的達成のために。」という言葉が思い起こされます。
やはり、組織が緊張感を途絶えさせないように、組織の長たるものは、そういうイニシアティヴが大事なのは私のこれまでの経験からわかります。

しかし、大川総裁がそのような人だったか、それがどの程度だったのかは、当事者ではない私にはわかりかねます。
ゆえに、どのようにすべきであったかなどということは言えますまい。
しかし、いえることは、人間社会においては、これまでの科学の蓄積があっても、過ちを犯すということです。
大川総裁は、死ぬまでに10万冊の本を読んできました。
それゆえに、かなりの知的な蓄積があったのです。
しかし、子供の教育においては、やはり誤ってしまったということが言えると思います。
それを「それ見たことか!」などといって非難する気にはなれないです。
だれしも誤りは犯すがゆえに。
そして大事なのは、宏洋氏のような、無闇に親やその創始した団体を批判するような人間を作らないためにはどのような教育を施すべきか、ということを学ばなくてはならないということでしょう。
その教育というのはそんなに難しいものではないのです。
その総裁の誤ってしまった教育とはどんなものか?
●興味ある人は以下の本を読んでみることをお勧めします。
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♯宏洋
いきなりの出来事で、私は当惑したのを覚えている。
私の人生の指針を強烈に与えてくれた人だからだ。
その人がなくなるのは、かなりの程度ショックだったのだ。
他に求めるべき指針があるのかどうか?
もし、それが探せれなかったらどうするか?
そうしたら自分の人生はどうなるか?
こんなことを考えてしまったのだった。
こういう思いにさせてくれる人は人生の中でどれだけいるだろうか?
ほとんどの人が5人以下ではないだろうか?
しかし、それから、これまで自分が読んだ大川総裁の本を見なおしていくうちに、「これらを指針に頑張っていこう!」と思ったのだった。
実に簡単なことだったが、やはり大きく人生を変えてくれた人の死去は、そんな思いになってしまうものなのだ。
その時、考えたのは、「幸福の科学は分裂せずに済むか?」ということだった。
周知のようにそのようにならなくてすんでいる。
後継者は作らず、これまでの総裁の過去の講演を機関誌で掲載しなおし、会合では、過去の総裁の講演を流す、という方式にしているからだ。

これは賢明な施策だ。
後継者を決めると、その人が、創始者と見劣りがしたりして、その組織は必ず分裂してしまうからだ。
そして一度分裂したら、絶対に1つには纏めれないのは、過去の人類の歴史を垣間見れば瞭然だからだ。
宗教かどうかにかかわらず、いろんな団体がそのような軌跡をたどっている。
それは、「キリストの幕屋」という宗教団体を見ればわかる。
名称からわかるように、これはクリスチャンの団体だ。
この団体の長は手島郁郎(下写真)という人だったが、この人なき後、後継者を指定せず、機関誌では、この手島氏の過去の講演を引き合いに出して掲載しているだけだ。

そのことで分裂しないので40年ももっている。
それでいいのだろう。
しかし気になるのは、総裁の子供たちの動向だ。
その長男だった宏洋氏は、総裁に自分の後継者になれるように期待をされていたが、実際はそうはならなかった。
当初、宏洋氏(下写真)は、その期待に応えるべく、講演で檀上に立って父親を尊崇しているという風な発言をして、涙を流していたこともあった。

それのみか、幸福の科学の映画にも出演していた。
それがいきなり反旗を翻えして、決別という形になったのだった。
そのような状態にいきなりなってしまったので、私も当惑したのだ。
それのみならず、本を出して幸福の科学を批判し、またかなりの数の反.幸福の科学の趣旨の動画を出すようになってしまったのだった。
その本を私も買い、その内容を見ると、当初は「総裁の身近にいた人の言葉だからこの本に書いてることは本当なのだろうか?」と思ったのだった。
理想の像とはまるで反対なのだ宏洋氏の書く総裁像は。
だとしたら虚像を書いていたということになる総裁は。
宏洋氏の書いてあることが本当ならば、これから先、自分は総裁の本を読むのをやめて、幸福の科学の会合にも参加しないようにしようか、などと思ったのだった。
しかし、ちょっと時間と距離を置いて、「待てよ。本当の姿と思っていた総裁の像が偽りならば、これまで感動してきた総裁の本は嘘だったことになるが、そんなフリをすることが長年できたことだろうか?」といぶかしげに思ったものだ。
よくよく考えて、やはりそんなフリをすることはできないだろうと、過去に読んだ本を読み返して、結論に至ったのだった。
しかし、そういう知的作業を苦手とする人は、そのまま吟味せず、宏洋氏の言うことだけを信じて、幸福の科学や総裁をこき下ろして終わりということになったのだろう。
しかし、そういう早とちりは嫌いなのだ私は。
しかし、そういった知的作業をしておいてよかったと思ったのだ。
宏洋氏の書いた本の内容と、彼が出した動画の内容が、真実と違うとして、幸福の科学は7度、訴えていずれも宏洋氏は敗訴しているのだ。

なぜ宏洋氏が、これほどまでに父やその団体を忌み嫌うようになってしまったのか?
これはだれしも興味深いことでしょう。
それは家庭心理学、家族心理学といった分野のモノを読むと分かるのですが、教育を間違うと、宏洋氏のように、父親の長所を長所として見れず、欠陥のあるものを見ると、それを何倍にも拡大して批判してしまうようになるのです。
人事の異動に関しては、総裁の気分次第でころころ変わるとして宏洋氏は批判していたのです。
ここを読むと、スティーヴ.ジョブスの評伝の本にあったように、「冷徹なまでの会社内人事を何度も断行、辛らつな言葉を吐いてきた。目的達成のために。」という言葉が思い起こされます。
やはり、組織が緊張感を途絶えさせないように、組織の長たるものは、そういうイニシアティヴが大事なのは私のこれまでの経験からわかります。

しかし、大川総裁がそのような人だったか、それがどの程度だったのかは、当事者ではない私にはわかりかねます。
ゆえに、どのようにすべきであったかなどということは言えますまい。
しかし、いえることは、人間社会においては、これまでの科学の蓄積があっても、過ちを犯すということです。
大川総裁は、死ぬまでに10万冊の本を読んできました。
それゆえに、かなりの知的な蓄積があったのです。
しかし、子供の教育においては、やはり誤ってしまったということが言えると思います。
それを「それ見たことか!」などといって非難する気にはなれないです。
だれしも誤りは犯すがゆえに。
そして大事なのは、宏洋氏のような、無闇に親やその創始した団体を批判するような人間を作らないためにはどのような教育を施すべきか、ということを学ばなくてはならないということでしょう。
その教育というのはそんなに難しいものではないのです。
その総裁の誤ってしまった教育とはどんなものか?
●興味ある人は以下の本を読んでみることをお勧めします。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯大川隆法
♯宏洋
神仏に使命を委託された人物は、当時の社会背景も考慮に入れさせる?(幸福の科学)
神や仏が人間の体に降臨して、その人物に行動を託すといったことは人間の歴史をみれば散見されます。
しかし、それは、どの人物にも起こりうることではないのがわかります。
脳力の著しく高い人物や、宗教的な知識のものすごい多い人などに神や仏が自分たちの使命を託す、という気がします。
普通のボンクラな人物にそんな委託はしないようです。

地球神エル.カンターレが故.大川隆法氏に降臨して、その使命を委託した、というノンフィクションがもとで、幸福の科学は成り立っているのです。
しかし、その委託された人物の価値観も同時にその宗教に反映されるのも事実のようです。
また、その人物の生きた社会背景も反映されるでしょう。
故.大川隆法氏(下写真)が学生の頃に、自動書記がなされ、それが前述のエルカンターレのお告げであるとしたうえで、更にいろんな書物を作ることにつながったようです。
幸福の科学が発足してからたった2年くらいで、大川総裁の出した本は80冊以上にもなっていたのですから驚きです。

とても人間業とは思えない偉業ですね。
こういった面も、やはり私は神がかりだなと思わざるを得ないものです。
ただ単に本を大量に出したというのならば話しは別ですが、その内容もかなり濃い内容ですから、嘘と思う人は総裁の本を実際に読んでみるのがいいでしょう。
しかし、降臨してから後は、神や仏の使命だけでなく、やはりそ神や仏の降臨した人物の価値観も当然出るわけですし、その当時の社会への反旗の思いも当然反映されるのでしょう。
大川隆法氏の大学時代の1970年代において学界では、専門バカといわれる人たちがもてはやされていて、学者は1つの専門領域にだけ籠り、他の分野については何も知らない、というスタンスでいる人こそが本物と流布されていたのです。
それに待ったを掛けたのが、文系大学に行った人ならば必ず耳にする丸山眞男(下写真)という学者で、この人がそれを「蛸壷化」として批判したのです。

しかし、この人は、私は評価しないのですが、どうもこの人のウケはいいのが不思議ですが、その詳細についてはここでは触れないで後に託しましょう。
ただ言っておきたいことは、それを指摘できた人は大勢いたし、その過度な専門化を指摘することは当時学生だった私にも発見できたことなのです。
そんな専門バカの時代を生きた総裁は、やはり反旗して、いろんなことを修める姿勢を貫いたようです。
そうでなくては、社会を俯瞰することも、哲学者としての人格を磨くこともできないと悟ったのでしょう。
そのスタンスに私は共鳴します。
そんな時代においては、やはり宗教界も専門バカがもてはやされていたのでしょうか?
仏教においても、神道やキリスト教においてもいろんな分派が派生し、それぞれが交流することもなく、それぞれが自分の派の勉強に勤しんでいて、それでその状態を見直すことがなかったのでした。
そこでも、大川総裁は待ったをかけたのでした。
その細かく分派された宗教の派内でいわれていることだけを知っているだけで、人類を大きく見据えた教えを見出すことなどできた話しではないのです。
しかし、実際はそういった話しが不問にされていて、自分の宗教だけを見ればいい。
他のことには目もくれなくていい、とした宗教の方がウケはよかったのでしょう。
他宗教を否定の際たるものが日蓮正宗でした。

日蓮は6人の弟子がいたのですが、その弟子たちに「私の教えだけを世間に伝えよ」としたのです。
しかし、その教えを全うしたのが日興上人という人のみで、他の弟子たちは日蓮の教えのほかに、神道や儒教の教えを盛り込んで流布したのです。
それがいいか悪いかはその人の判断に任せましょう。
日興上人の流れを汲むのが日蓮正宗で、その信徒団体だった創価学会は戦後ものすごい勢いを増したのでした!
その勢いは、国民10人につき1人が創価学会員になるまでになったのでした。
その会員だったのが私の母で、そのつてで私もこの会員になったことがありましたが、やはり私とは相いれなかったのです。
日蓮の教えだけに帰依すればいいとしているのですが、それでうまくいけばいいです。
しかし、それでは人生上手くいくはずはないし、私は他の手段も使うことで人生を切り抜けてきたのです。
ゆえに、日蓮(下写真)だけに帰依すればいい、という教えには与することができず、だんだん会合にも遠ざかり、機関紙の購読もストップし、この団体に入ろうと人に諭して、会員にさせるという折伏ということも一切せずにここまできました。

それがいいか悪いかはその人の判断に任せます。
私は日蓮の教えだけに帰依すればいいというスタンスにはならなかったので、こういう結果に落ち着きました。
また、神や仏に委託された人物の動向は、その人の生きてきた価値観に依拠することもありうるという話しをしたいですが、前述のエルカンターレが大川総裁に下生した、と幸福の科学では説明がなされますが、この下生という言葉は、真言宗と重なるのです。
真言宗由来なのです。
真言宗の開祖である空海に大日如来が下生したというノンフィクションによって、真言宗は成り立っているのです。
また、作家の故.三島由紀夫(下写真)は、デビュー時と途中から作風が変わったことで有名です。

それはある時から、三島が、自分の意志とは無関係にペンが走って作品を書きだしたということを霊能者に相談しに行ったことが歴史として残されているのです。
そう、人智を超えた存在が彼に乗り移ったのです。
こういった非科学的な事象は世界の至ることで説明されているのです。
そういう分野にも興味のあった大川総裁は、そういう事象について書いてあった本を多く読んできたがゆえに、自分にも降り立ったということを裏付ける勇気が加わったのだということが言えるのではないでしょうか?
先に、丸山眞男の批判をしましたが、学生当時の私には丸山を崇めることはできなかったです。
それは、ゼミの先生も丸山を絶賛していたし、社会思想の講師も、政治史の教授も丸山を神のように崇めていたのです。

そんな状態では、批判をしようにも批判などできた状態ではなかったのです。
私が思ったのは、丸山の書く本は非常に難解で、古文漢文の引用が多くて、読みづらく、読むのに疲れて、本を読破した後に、「どんなことが書かれていたか」と聞かれても、まったくわからないと答えるほかない代物だったのです。
そんな人がなぜ、政治学の神様なのか、といぶかし気に思っていたのです。
しかし、加地伸行という思想研究者の書いた丸山批判の文には、「非常に難解で読みづらい」としていたのを発見した時には、「自分と同じ意見の人がいたんだ」と思ったし、私が真に敬愛する佐伯啓思という著作家は丸山に対し「興味ない」と敢然と言ってのけた本があり(その詳細について知りたい人は佐伯氏の『西田幾多郎』という本がおすすめです)、それを読んで安堵の思いになったのでした。
自分の行方を占ううえで、それを裏付けることにいくつも出あうことで自信が得れて、更に前に進むことができる、ということがわかります。
故.大川総裁は本を10万冊以上も読んできたということですが、その読書によって自分の行くべき道と重なることを経験してきた歴史上の人物を知ることで、勇気づけられ行動に結びついた可能性が大です。
そういう経験を積み重ねることで、敢然と行動につながるということがわかると思います。
●こういう道の詳細についても興味のある人は、以下の本(電子書籍)はお勧めです。
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普通のボンクラな人物にそんな委託はしないようです。
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そこでも、大川総裁は待ったをかけたのでした。
その細かく分派された宗教の派内でいわれていることだけを知っているだけで、人類を大きく見据えた教えを見出すことなどできた話しではないのです。
しかし、実際はそういった話しが不問にされていて、自分の宗教だけを見ればいい。
他のことには目もくれなくていい、とした宗教の方がウケはよかったのでしょう。
他宗教を否定の際たるものが日蓮正宗でした。

日蓮は6人の弟子がいたのですが、その弟子たちに「私の教えだけを世間に伝えよ」としたのです。
しかし、その教えを全うしたのが日興上人という人のみで、他の弟子たちは日蓮の教えのほかに、神道や儒教の教えを盛り込んで流布したのです。
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真言宗由来なのです。
真言宗の開祖である空海に大日如来が下生したというノンフィクションによって、真言宗は成り立っているのです。
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それはある時から、三島が、自分の意志とは無関係にペンが走って作品を書きだしたということを霊能者に相談しに行ったことが歴史として残されているのです。
そう、人智を超えた存在が彼に乗り移ったのです。
こういった非科学的な事象は世界の至ることで説明されているのです。
そういう分野にも興味のあった大川総裁は、そういう事象について書いてあった本を多く読んできたがゆえに、自分にも降り立ったということを裏付ける勇気が加わったのだということが言えるのではないでしょうか?
先に、丸山眞男の批判をしましたが、学生当時の私には丸山を崇めることはできなかったです。
それは、ゼミの先生も丸山を絶賛していたし、社会思想の講師も、政治史の教授も丸山を神のように崇めていたのです。
そんな状態では、批判をしようにも批判などできた状態ではなかったのです。
私が思ったのは、丸山の書く本は非常に難解で、古文漢文の引用が多くて、読みづらく、読むのに疲れて、本を読破した後に、「どんなことが書かれていたか」と聞かれても、まったくわからないと答えるほかない代物だったのです。
そんな人がなぜ、政治学の神様なのか、といぶかし気に思っていたのです。
しかし、加地伸行という思想研究者の書いた丸山批判の文には、「非常に難解で読みづらい」としていたのを発見した時には、「自分と同じ意見の人がいたんだ」と思ったし、私が真に敬愛する佐伯啓思という著作家は丸山に対し「興味ない」と敢然と言ってのけた本があり(その詳細について知りたい人は佐伯氏の『西田幾多郎』という本がおすすめです)、それを読んで安堵の思いになったのでした。
自分の行方を占ううえで、それを裏付けることにいくつも出あうことで自信が得れて、更に前に進むことができる、ということがわかります。
故.大川総裁は本を10万冊以上も読んできたということですが、その読書によって自分の行くべき道と重なることを経験してきた歴史上の人物を知ることで、勇気づけられ行動に結びついた可能性が大です。
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