汗牛充棟.ブログ

人類が創造した本という素晴らしきもののうち、私が接したのは、その内の限りなく少ないものですが、その片鱗でも素晴らしさを伝えたいと思っております。どうぞお付き合い下さいませ。
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人類が創造した本という素晴らしきもののうち、私が接したのは、その内の限りなく少ないものですが、その片鱗でも素晴らしさを伝えたいと思っております。

どうぞお付き合い下さいませ。

宗教へのスタンスは生まれ落ちた時に決まっている。その内容は?

鎌倉時代に勃興した仏教で日蓮の宗教は大いに注目を集めて、この人の教えこそが最高と思ってしまう人を大量に出した例はなかなかないでしょう。

私も教えとしては、注目に値すると感じることはありますし、人生の糧としたい部分があることは認めます。

あの世で浄土を築こうとするな、今世で浄土を築けとした日蓮の思考は見習いたいと思います。

ポジティブ思考でありますし、こういう思想こそが人を生き生きとさせるものであることは間違いないでしょう。

そのプラスの面は正当に評価する1人です私は。






しかし、その人の思想が自分にとって素晴らしいものであることによって、必ずしも他の人をも包み込むことができるとは限らないですし、他の宗教家の思想もまた人を魅了する威力を秘めているという事実もあることを理解しないといけないでしょう。

あまりにその宗教家にぞっこんになったがゆえに、その人の思想に感化されると、非常に猪突猛進になり、その思想しか見えなくなり、そればかり勉強し、ひいては妄想に変わるから注意が必要です。

日蓮の死後、その弟子たちがその教えをひろめようと、寺を建築してその教えを広めようとしましたが、大きく派が2つに分かれてしまいました。

大きく日蓮宗日蓮正宗と分かれたのです。

日蓮正宗系の宗教としていまも、隆盛を誇っているのが顕正会です。

いまや300万世帯にまで広がっているようです。

この会長であった故.浅井昭衛氏(下写真)は、その妄想を吐いていた1人でした。





この人の出した本の1つである『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』という本を買って読んでみました。

この表題からして妄想の観がたっぷりありますね(笑)。
その本の中に、日本及び全世界の一切衆生をお救い下さるのは、日蓮大聖人ただ一人である」と書いてあります。

こう書くのはいいですが、その根拠が全く書いてないのですね。

その根拠が、その本の全部を見渡すも全然見つからないのですね。

また浅井氏は 正系門家がもし仏法を曲げれば、日本は必ず傾いていく」とも書いているのです。

正系門家というのは日蓮正宗系という意味だそうです。

顕正会は、日蓮正宗の信徒団体でしたが、その日蓮正宗から破門にされているがゆえに、こういう名称にしたのでしょう。

「日蓮正宗系」ではあたかも日蓮正宗とつながりのある団体と思われてしまいかねないと懸念したのでしょう。






しかし、この文言にも根拠が書いてないのですね。

日蓮の遺した御書を読めば、日蓮の教えを保たねば日本は滅びる」といったことを書いたのは発見できました。

それをそのまま無批判でいたのでしょう浅井氏は。

しかし、他の思想宗教とは関係のない本などを読めば、別に日蓮宗教に依らなくても日本は保っていけるということはわかるはずです。

いくら日蓮仏法にぞっこんになったからとはいえ、日蓮のいったことをそのまま鵜吞みになるのは考え物です。

日蓮がその文言をどのような意図で書いたのかも探らなくてはならないでしょう。

それに、いろんな文物に接して、真理を探るのが賢明でしょうと言いたくなるのですね私は。

過度な依存ですが、浅井氏でなくても、他の宗教においても、その思想ばかりにぞっこんになるケースは多々あります。






またその浅井氏の本には 全日本人日蓮大聖人の大恩徳を教え、「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」の重大御誠意を…」と書き始めて、こんこんとその素晴らしさを述べていますが、そこでも根拠が書いてないのですね(笑)

あまりにカリスマ的な指導者になると、たとえ誤っていても、またあまりに根拠薄弱でも、その人の言ったことをそのまま妄信してしまうケースは多々あるのです。

顕正会知り合いは、こういう穴だらけの浅井氏に無批判になっているのがわかりました。


わき目もふらずに猪突猛進することで人生が充実したものになることは間違いないですが、そこで誤りが発覚したのならば、そこは修正しなくてはならないのは言うまでもないことです。

そうでなければ、人を説得することはできないのは言うまでもないことです。

その姿勢がないからということも、私は顕正会を支持しない理由となっているのです。

その思想にぞっこんになってしまったがゆえに、「この宗教こそが人民を救う!」といった妄想に変わり、ひいては「この宗教を信じなないならば人は地獄に行ってしまう!」という思いに変わり、度を越えた勧誘が社会問題になり、勧誘した人でその宗教に入らないと言った場合、その人を監禁までしてしまう例があるのは、どの宗教にもあります。

当然、顕正会のそういったことも社会問題になりました。

そうなってしまう気持ちはわからなくはないですが、自分を一度現状から突き放して、可能な限り客観視することが大事ですね。

やはり他の本を読んでみるのがいいのです。

そういう態度によって、私は日蓮上人(下写真)の言ったことのみが真理ではない、ということがわかりました。






学ぶべきことはあるにしても、その人だけではないという意見に達したので、日蓮上人の教えを人に語ろうと思ったこともないですし、折伏といって他の人をその信者にする行為もしないまま現在に至ります。

そう、私は日蓮正宗の信徒団体だったが日蓮正宗から破門にされた創価学会の会員だったのです。

母が創価学会員なのでそのつてでこの団体に入りました。

その団体の人に「この宗教こそが世界最高峰の宗教だ!」と説得されて入り、その機関紙である聖教新聞を何度も読むも、感動を呼びおこさなかったので一切の活動はしていないです。

この宗教は、日本国内ベスト3には必ず入る大宗教団体であることは間違いないですが、大宗教団体だからと言って必ずしも自分にあう宗教とは限らないのです。

逆に思想のスタンスが違えば相容れるわけはないのです。

その思想のスタンスこそ人の人生を決定するものなのです。

それは生まれ落ちた時から決定しているものなのです。


そのスタンスは大きく2つに分かれるのです。

1つはどっちつかず。

もう一方は一途。

言葉の印象や響きからすれば、後者のほうがいいように思えるのが一般的ですが、それは変えようのないものですし、それぞれ特長がありますから、そこは前者の人は誇りに思っていいでしょう。

そのスタンスは人類普遍的であり、不変なのです。

その内容について知りたい人は、私の書いた(電子書籍)を読むことをお勧めします。


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「これ宗教こそが唯一の方法である!」…これこそが情報弱者なのです!

私の家に顕正会の人が来て、顕正会の機関紙である『顕正新聞』を私に手渡して、開祖と仰ぐ日蓮の偉大さについて語ったり、いろんな駅の前に顕正会の人たちがいて、その人たちに話しかけられて日蓮の仏法について話されたりしているうちに、日蓮の宗教についていろいろ調べてみることにしました。

「どんなに素晴らしいのだろうか、この宗教は?」という疑問がわいてきたのです。

その際に、顕正会であった故.浅井昭衛氏(下写真)の著作本を読むのが一番手っ取り早いことは間違いないと思い、その『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』という本を買い、それを読みました。



が学生の時代から日蓮仏法に傾いて、かなりぞっこんになったのがわかりました。

誰もが若いころにハマったものにぞっこんになりやすいのはわかります。

ぞっこんになるとかなり猪突猛進になって、大した根拠もなく走り続けてしまうようです。

そういうがむしゃらさがあることで、人生が充実したものになることは間違いないでしょう。

しかし、その思想が支持を得るためには、絶対的な根拠がないことには不可能なのは言うまでもないでしょう。

その著の中で、現代になって人心が荒廃しているさまを書き連ねていました。

そして、「このような人心の荒廃は、政治でも教育でも解決できない。

三毒の心を根底から変えてくださるのは、日蓮大聖人最大秘宝だけである。」


と結んでいるのです。

そこにはまるで根拠が書いてないのです。

日蓮仏法に帰依したことで解決したという事例を最低でも5個は挙げてくれないことには、こちらは納得できないです。

確かに人心は荒廃していると思われる事象は多々あります。

それは単に日蓮仏法に、日本人や他の国の人たちが入らないで信仰もしないからだというのではまるで説得力がないのです。

あたかも日蓮仏法が、この世の万能薬であり、それ以外のものは何の効能もない、という議論は独りよがりの観が強すぎるのです。






人心の荒廃は千差万別です。

あまりに自由すぎる家庭、あまりに拘束しすぎる家庭、あまりにこどもを誉めない教育、親子関係、夫婦関係…こういったものが原因となって人心の荒廃が起きるのです。

決して現代人日蓮仏法に帰依しないからだということではないのです。

それを浅井氏は、日蓮現代人が帰依しないからだ、という狭い結論に帰着してしまっている。

あまりに日蓮の仏法にばかり長年向き合ってきたがゆえに、「この仏法こそが万能薬だ!」と思ってしまう気持ちはわかります。

しかし、一歩外に踏み出して、他の宗教や他の分野のについていろいろ読んでみるのがいいのです。

そうすることで、何も日蓮仏法だけが好転させるための方途ではないんだ、ということがわかると思います。

やはり多面的になって物事を考えて、その問題点があったらそれが良くなるように、いろんなことを行動していくのがいいのです。

この場合は教育ですね。

それを日々の生活の中で実行していくのです。






そういう立場なのが私なのです。

浅井氏のみならず顕正会会員たちは、その仏法だけにぞっこんになり、それこそが万能薬だ、という世界観に浸っている。

この仏法を携えていくことで幸福になれると信じて疑わない。


なぜ、そういうように1つ宗教にぞっこんになり、毎回その宗教の会合に足を運んでは、そのや幹部たちの言葉に真剣に耳を傾ける人がいるかと思いきや、逆に私のように「確かにその宗教のいわんとすることはわかるが、全部を受け入れるわけにはいかない。」という人がいるのか。

それは人間の類型に関わる問題なのです。

後者に人にいくらその宗教の素晴らしさを語っても、決してその宗教に入らないことは間違いないです。

こういう人間類型を理解したうえで、自分のスタンスを決めるのがいいのです。

しかし、その宗教にぞっこんになってしまう人を蔑む気は私にはなければ、卑下する気もないです。

その人がこれこそが最高の宗教だとするのも思想信条の自由です。

しかし、私はそうはならないで自分の決めた方法で行く、と決めているだけです。



そんなスタンス論に興味がある人は私の(電子書籍)を読んでいただければ嬉しいことこの上なく存じます(笑)

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教条主義にみる故.浅井昭衛氏のカリスマ性。

宗教というのは思想です。

社会主義国の樹立は、識字率の低いでこそ可能だったのです。

本の数が少ない、教育の行き届きが万全でない国であれば、そうそう反論は起きなかった。

本を読んだり、教育を施すと、やはり人間は脳を動かして考えてしまう。

そして反論が出やすくなる。

社会主義は一見すると妥当な思想の観を呈していますが、奥深く考察するといろいろと反論の余地が出てくる。

ゆえに多くの反対論が出てきて、それを施行することが難しくなる。

政治機構が整っている国であればなおさらです。

しかし、識字率が低く、教育の行き届きが万全でない国での国民であればそれほど反対論は出なくなる。

社会主義国の代表例の1つはロシアです。

ここでは当時の人間の9割が文盲だった。

それが社会主義国の樹立が可能だった大きな原因の1つだったのです。

しかも、ロシアではスターリン(下写真)が不満分子を虐殺し、焚書坑儒をおこなったのです。

これによって社会主義国家体制が可能になったのです。


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ただし、その可能だった年数も数十年だけでした。

初めのころはアメリカと肩を並べるくらいの経済力をたっせいしましたが、その後、より良いものをより安く、という科学技術を施さずにいたがために、経済はどんどん後退していったのです。

それのみか、ソ連ロシア周辺の国が社会主義を採択せずに豊かな経済成長を達成しているという情報が、否応なく入ってきました。

それを国民の多くが耳にし、目で読むようになった。

すると、社会主義は虚構の体制であったことが認識されたのです。

そして、ソ連はのちになって解体し、ソ連を構成していた国々がほぼ資本主義を採択をすることになり現在に至るのです。

そこで思い起こすのは、顕正会会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)のことです。






日蓮は生前に、広宣流布がなされた時に、天皇の許可を得て、富士山天生が原戒壇を建てよ」としました。

広宣流布とは、非常にあいまいな単語で、具体的に国民の何割が信者になった時という明確な内容はいまだに不明なのです。

その単語を、故.浅井昭衛氏は、全国民が1人残らず日蓮の仏法に帰依したときと解釈したようです。

それがかなったら戒壇を建てようと解したようです。

そのことを考えれば、全国民日蓮の仏法に帰依させようとすれば、かなりの多難が待っていることは間違いないです。

例えば、キリスト教に敬虔な信者がいたとしましょう。


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その人にそのキリストの教えをやめさせて、日蓮仏法に帰依させようとするならば、その人の家にあるキリスト教関連の本および他のあらゆる本を取り上げて廃棄させなくてはならない。

読めるのは日蓮関連の本や新聞だけにする。

しかも、ネットも一切見させないように回線をストップさせる。

そして、それから先、日蓮関連の本以外は触れさせないでいる。

他の本も買わせない、ネットも一切見させないでいる。

そうなれば可能性はあがっていくでしょう。

そのための監視が必要になるのは明白。

そんな状態をずっとしていくとなれば、そのキリスト信者を四六時中、監視していかなくてはならない。

そのためには、そのキリスト信者1人につき1人監視員がいなくてはならない。

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そんなことが可能だろうか?

不可能に決まっているでしょう。

そんな不可能なことを、可能と思って譲らないのだから故.浅井氏は脳の柔軟性が足りなかったと言わざるを得なかったです。

そんなこと不可なのでしょうかと、知り合いの顕正会会員に話したら、「不可能と思わずに永続して目指し続けることが大事なんです」ということであった。

私が小学生だったら、可能と思って頑張るでしょうが、それは無理と悟るには中学生までで十分でしょう。

それを悟ったら、そんなこと無理としたうえで、心に遊びを持たせて、日々の生活に邁進するでしょう。

顕正会新聞を読んだり、会合の動画を見たりする機会がありますが、そのいずれでも顕正会では「信者獲得300万世帯を達成」という文字が出てきます。

その数を達成したのはすごいことでしょう。

しかし、300万世帯はいいけれど、全国民まではまだまだまだまだ先でしょうし、いつ達成するのですか?」と思うのは私だけでしょうか?(笑)

皮肉やからかいではなく、心底そう思います。

誤った思いを、おなじように持たせ続けるのだから、浅井氏は結構カリスマ性を持っていたということは認めなくてはならないでしょう。

しかし、私は模倣しないです、顕正会員だったとしても(笑)

不可能は不可能と割り切らないことには、展望が見えてきませんからね。

その浅井昭衛氏がなくなって、息子の城衛氏(下写真)がいまは会長を務めています。



その父のスタンスを踏襲するのかどうかは、城衛氏にかかっていることは間違いないです。

踏襲する部分はあれど、改良を加えていくのは人間社会の常道なのですし、そうなったことで、どのように顕正会が変容していくのかが興味深いところではあります。

どのようになるかをこれから見守っていきたいと思います。

以上です。


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「日蓮大聖人がそういう言葉を遺しているから」…これでは教条的すぎて、信用を得られません!

宗教における成員たちの離合や集散は、どの宗教にもあるもので、こと日蓮正宗も例外ではないようです。

日蓮正宗の信徒団体だった顕正会は、正宗から破門にされているようで自身たちで組織を立ち上げているようで、今や300万世帯にまで広がっているようです。



それはそれで素晴らしいことでしょう。

日蓮正宗の信徒だったけれども、そこに嫌気がさして顕正会に移った人と例もあるようです。

その人の体験談を以下にご紹介しましょう。

「聞けば、住職が自宅に勤行をしに来て、その時に供養金を渡さなければならないらしく、ある日、封筒に2千円をいれて渡すと、後日、から「供養金1万円から」と催促の葉書が来た。

更に毎月「納骨代」5千円、1本2000円の塔婆代も6000円を願ってきた。

また本尊を取り換えるための5万円が必要とか塔婆代を申し込むようにとの葉書が届いており…。」


これは顕正会の機関紙である顕正新聞からの抜擢です。

これは、宗教の哀しい場面を映し出している典型例だなと思いました。

その団体に維持のためには、信者からお金を寄進してもらわないことにはなりたたないのです。

その寄進のお金を日蓮正宗では供養金というのだそうです。

その供養金によって、僧侶たちは生活できるわけです。





供養というと今の仏教では、死んだ人やそのお墓などに拝んで、故人をしのぶというニュアンスで言われることがありますが、実際は信者からの寄進のお金であるそうです。

「この宗教に帰依しているから自分は幸せに生きていられるんだ!」という実感は私はわかないものですが、日蓮正宗の場合も例外ではなく、そういう思いを起こす信者がどの寺院にもいるようです。

しかも何人も。

それによって鎌倉時代から800年以上も、それだけで維持してこれたのですから、それは大したものだと正直思います。

しかし、長年そういう決まりでしてきたからといって、それが不変でいいはずはないでしょう。

やはり信者が減ってしまうことがあるのは必然ですし、その際にどのような施策を講ずべきか、といったことを考えて行動する必要があるでしょう。

また、日蓮(下写真)が「仏、法、僧を敬え」としたのは日蓮の書いた御書を読めば出てくる文言です。





だからと言って、信者に出費を強要するのがいいのか?

それは、日蓮大聖人がいったことだから変えなくていい。

いろんな議論が出てくるでしょう。

しかし、私が僧侶だった場合、出費額を上げてそれを強要することはしないでしょう。

「これまでの額でいいし、しかも信者が出してくれる回数も信者に任せる」といいます。

信者の生活や信仰生活の向上のために出家したのであって、出費額を無理やり上げるのは仏教本来の理念に反すると思うからですね。

「では信者からの出費額が少なくなって、自分の生活が危うくなったらどうする?」と聞かれたら、そこはバイトでもして賄うわ、といいます。

いや本気です!(笑)

現にそういう山のへき地にを構えて檀家の数が少なくなっている僧侶でそういうことをしている例も知っていますからね。






やはり日蓮大聖人が遺した言葉だから」という理由で、理不尽な要求を通らすのは私のスタンスに合わないです。

そこは柔軟に考えて、妥当と思われる道を行くしかないでしょう。

このような一般の人との考えの乖離が、日蓮正宗創価学会が袂を分かつきっかけとして大きいと、これまでのそれ関連の本を多数読んで感じました。

どちらが正しいとか、どちらが誤っているかといったことは、人によって違ってくるし、、自分が正しいとしても、相手を絶対に言い負かして変えさせることなどできた話しではないのです。

しかし、宗教団体で決まったことは自分が理不尽と感じてもそれを貫き通さなくてはいけない。

それが私には考えれないスタンスなのですね。

ゆえに1つの宗教には入会入信もしないのです。

しかし、入ることは否定しませんし、入りたい人がいたら引き留めることもしないです。

しかし、入っても理不尽なことが決定されることは当然あるわけです。

その際は、やはりその組織内を変革していこうという気概を持ち、それを維持し続けて良き方向へ舵を取ろうという姿勢を維持していってもらいたいものです。


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宗教に入れば必ず楽園が築ける、は誤り。そんな宗教はあり得ない!

日蓮正宗からは、創価学会顕正会といった信徒団体ができていました。

今、それらの信徒団体はいずれも正宗からは破門にされています。

そして別々の道をたどることになったのですが、そのなかで創価学会最大の組織になり、全盛期には国民10人1人創価学会員になるまでになりました。

その創価学会から顕正会に移る人。

あるいは正宗から創価学会に移る人。

顕正会から創価学会に移る人。

いろいろあるようです。

その移る理由も千差万別のようです。

中でも多いのは、組織の人員、中でもそのの人間性に疑問を持ち、それが長年我慢していたのを我慢できなくなって抜ける、ということがあるようです。

創価学会から顕正会へ移った人の体験談を以下にあげましょう。

千葉文化会館池田大作と同じテーブルについた。

池田の横柄な態度や、学会幹部の理不尽さに嫌気がさし、学会活動へのやる気が失せて「総ブロック長」「教学部教授」という肩書を持ちながら、徐々に学会の組織から離れていきました。」


そして結局、学会から抜けたようです。



    池田大作


宗教に入信あるいは入会する人は概して優しい人が多いようです。

礼儀正しくて、人の心を重んじて接してくれる。

そんな人が多いようです。

心優しい人は、そういう人たちを見て、そこに入会していくようです。

しかし、例外的にこういうことも出くわしてしまうのです。

この人の体験談だけでなく、他の創価学会について書いた本を紐解くと、やはり池田大作の人間性について嫌気が際して辞めていく人の例は多いようです。

そういう体験談を読むと、創価の機関紙である『聖教新聞』だけしか読んでこなかった人は、それはその人の偏見だ、出鱈目だ、インチキを書いているんだ、といったことを口走るのです。

聖教新聞においては、池田大作の批判など書くはずがないのです。

それらを書いたら、団体としての結束が緩くなりますから。

だから批判的な意見を聞くと、信じれなくなってしまうのです。

しかし、そういう批判があったら、謙虚にその人の意見を聞くべきなのです。

その人の意見が書いた本を謙虚に読んでみるべきなのです。

そしてその人の意見と、創価当局の意見を比較考慮していく姿勢を持つべきでしょう。





創価学会の意見だけ読んでいては、全貌は明らかにはなりませんし、創価の意見だけを聞いていて、批判する人の意見を聞かないで、その意見した人の意見を捨ててしまっては、何のための宗教かと疑問に思ってしまいます。

宗教のほうが大事で、その構成する人の意見は蔑ろにする。

これではまさに本末転倒です。

そうならずに、いろんな意見を取り込む必要があるのです。

私も創価学会に入っていた時期があるので、わかりますから池田大作無謬論などという姿勢にはならないのです。

いくら名誉会長であろうと、著作を多数出していてもです。

誰にだって完璧など目指すべくもできない芸当なのですから、そこは謙虚になるべきでしょう。

もちろん私だって完璧ではないです。

元々は池田大作氏も優しい人間だったのでしょう。

しかし、横柄になり、人を蔑ろにしてしまうように豹変してしまったのは、権力の魔性というべきものでしょうか?

世界で何億もの信者がいる組織のともなれば、自分に意見する人がいなくなる。

そして、ボトムアップで下の人の意見を汲まなくても組織は存続していける。

そうなれば、自分の姿勢を正す必要もない。

幼少のころ、青年だったころのように、𠮟責してもらいながらいろんなことを学び続けていた謙虚な心は雲散霧消してしまっている。


そうなれば、人が離れてしまうのは致し方ないでしょう。






創価学会に入るように私に勧めてくれた人は、「ここに入って祈れば必ず人生は好転する。」ということだったです。

問題点は必ず好転する、良き方向へ向かわせることができる、ということでしょう。

しかし、池田大作のこのような変貌ぶりを見たら、そんなことは到底信じれないでしょう。

ではどうすればいいか?

他の日蓮正宗系の団体に移籍すればいいか?

他の宗教にはいればいいか?

そういう議論ではないのです。

要は、その当人が良くなるように自身で目覚めるか、側近の人が諭し、当人が目覚めてその道を矯正できるかどうかなのです。

お経を唱えてどうにかなるものでもないのです。


そういう謙虚さを維持したいと思うからこそ、私は読書を通じて矯正を試みているのです。

大学を出たからもう学ぶものはない、ではないのです。

前代の法主であった阿部日顕が、創価学会員が350億円もの寄進をして作った正本堂を破壊することを決めた時に、正宗内部からも、当然創価学会からも、それを止めるべく署名を募り、そして多くの人がそれが止めるように「南無妙法蓮華経」と唱えたでしょう。

それでも結局、日顕(下写真)は破壊を決行したのでした。





やはり、良き方向へ導くのは、その人の心にかかっているということです。

宗教に入れば、経を唱えれば、という問題ではないのです。

死んだ日顕は、あの世で地獄に行っていることでしょう。

350億円もの寄進で建てたものを平然と壊すとは…私には信じれませんでした。

それ以外にも、日顕の悪行はいろんな本で明らかにされています。

そういった本からの借用をも含めて私は電子書籍を上梓しました。

それを読んだ某女性は、大幅に日顕の擁護をしているのです。

これまで日顕の悪行について読んだことがないのでしょう。

当たり前です。

正宗の発行する新聞で、日顕の悪行など書くはずはないのですから。

それで私の書籍を買って、その内容をいろいろ読んで、すべて「事実無根」などと書くのですから始末に困る情報弱者さんです(笑)

この宗教に入れば、誰もが全員天使のようになる、などということはあり得ません。

日蓮正宗系だろうが、他の仏教だろうが、他の宗教だろうが、それは普遍的な事象なのです。

それを認識しないで、宗教にすがり、現状打開を目指すなどというのは滑稽そのものなのです。

確かに神仏にすがることで、神仏が手を差し伸べてくれることもあるでしょう。

しかし、それによってすべてがすべて全面打開などできた話しではないのです。

ゆえに、池田大作および日顕が堕落した人物であるということを知っても別段驚きはしなかったし、両人を擁護する気にも、その批判した人を批判する気にもなれなかったのが正直なところです。

完璧な宗教などないと前提としながら、更にいろんなものを学び続けて謙虚になり、人や社会と調和し続けたいという、そういうスタンスがいいと思える人ならば私のだした電子書籍はお勧めです。


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個人的な「この宗教にはいって祈ったから私は幸せになれた!」という体験談が人を不幸に?

顕正会は当初、「日蓮正宗 顕正会」と名乗っていて、日蓮正宗の信徒団体だったのですね。

しかし、日蓮正宗との折り合いが悪くなり、日蓮正宗の法主だった細井日達によって破門にされてしまうのです。

正本堂(下写真)が同じく信徒団体だった創価学会による350億円もの大金によって寄進されて作ることになったようです。



それが、日蓮大聖人の御遺命通りではないから」ということで、顕正会の会長だった浅井昭衛氏からの物言いがついていたのです。

日蓮大聖人は、広宣流布がかなったときに、天皇の許可を得て、富士山の天生が原戒壇を建てよという遺言を遺している。

広宣流布とは浅井氏によれば、「日本人全国民が日蓮の教えに帰依したとき」だとしていますが、そんなことはどう考えても不可能です。

そして、戒壇は鎌倉時代においては建てるときに天皇の許可が必要だったのです。

ゆえに天皇の許可を得よとしたのです。

しかし、信教の自由な今の時代では、天皇の許可を得るなどということは不可能です。

そして、天生が原は水はけが悪く、戒壇を立てるなどというのは不可能で、よしんばできたとしても、すぐに倒れてしまうことは必至です。

それならば、日蓮正宗の本山である大石寺にその造るスペースもあり、資金も貯まり、開祖から700年の記念すべき時に戒壇を建てようという機運が揃ったのであれば、その時に建ててよいだろうとするのが普通でしょう。



            浅井昭衛


しかし、あまりに教条主義というか石頭だった浅井昭衛氏は、「建てるべきではない!」といつまでも反対をしていたようです。

それが主因となって顕正会破門になったようです。


それまで日蓮正宗の信徒法主からご本尊を書いてもらって受持されていたのが、破門にされたことで、顕正会信者は本尊を受持されなくなってしまったということです。

そこで顕正会員はどうしたか?

富士大石寺にある日蓮が鎌倉時代に書いたという第ご本尊がある方角に向かって勤行をすることにしたようです。

これを遥拝勤行というのだそうです。

それまでにも、遠くに住んでいてご本尊を法主から書いてもらえなかった日蓮正宗信徒は、仕方なく遥拝勤行で我慢していたようですが、破門された以降の顕正会は、これしか方法がなくなってしまったのです。

顕正会の勤行に参加させてもらったことが私はあります。

また、創価学会にいたこともあったので、創価学会の勤行にも参加したこともあります。

それらの勤行の違いは、創価学会のほうは唱えるスピードが速いということ。

そして顕正会のはゆっくりしていて、全部終わるのに時間がかかるということですね。

同じ日蓮正宗系の宗教団体ではありますが、創価学会に嫌気がさして顕正会に移籍する人もかなりいるのが、顕正会の新聞である『顕正新聞』に書いてあります。

また日蓮正宗から抜けて顕正会に来る人もいるようです。







その人の体験談が以下です。

「ゆっくり丁寧な遥拝勤行で怖い夢見ていたのが見なくなった」ということです。

日蓮正宗の団体でもいくつか分かれているようで、その1つが法華講というわけです。

その法華講には、人情のない先輩や僧侶はいるもので、その嫌な経験から悪夢を見るまでになったようで、そこから抜け出したということだったようです。

この人の体験談を読むと、いかにも顕正会が由緒正しい日蓮の団体ゆえに、その正道である勤行をしているからこそ、こうなったというように考えられがちですが、実際はそうではないと思います。

短絡的というか、無邪気というか、勤行や唱題を重ねることで大病が治ったとか、営業成績が上がったとかいう経験談がその機関新聞では載っていますが、それがそのまま日蓮に正当に帰依したからだというように信者が思うパターンが少なからずあるようですが、そんな短絡的には考えたくないのですね私は。

その経験者は、ただ単にその法華講の怖い先輩から離れたからゆえではないか?それが最大の理由ではないか?と思われてならないのですね、私は。

遥拝勤行ゆえにとか、顕正会が素晴らしい団体だから、ということではないでしょう。






そういう宗教的な力を得て物事が好転するということは当然あるでしょう。

それを否定はしないです。

しかし、それだけではないでしょう?ということを私は言いたいのです。

やはり大病が治ったのは、医学の発展やそれに携わった医師看護師たちのおかげが最大に大きいのではないか、ということを言いたいのです。

そういう視点を持つことで、さらに感謝の念は増幅することは間違いないでしょう。

そういう短絡的な思考法は避けたいというのが私の理念なのですね。

この団体で帰依したからだ、という短絡的な思考では、その人は「この団体にいれば幸せになれる」といって、他の人に勧めたりするでしょう。

そんな単純なことでは幸せにはなれませんから、帰依したのに幸せにれないじゃないかと反論されても、「それは信心が足りないからだ」という屁理屈で答えることになってしまい、いつまでたっても幸せににれないまま終わってしまうのは必至です。

もちろん、のご加護や創造されたものの恩恵は当然あると思うので、私はその面には感謝はありますが、好転したのがすべてがすべて日蓮大聖人様のおかげというようには与さないというのが私のモラルなのです。


●そんな立場に与してくれる人がいましたら読んでほしいのが私の本です。

また、そんな立場に興味ある人にも読んでもらいたいです。

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今回はこれにて終了します。
ここまで読んでいただき感謝します!



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佐伯啓思 『神なき時代の終末論』

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佐伯啓思氏の本は、相も変わらず身近なものに対して奥深く考えさせてくれる威力も持っていて、読み始めるといつしか時間がたつのを忘れてしまうものです。

何気なく当たり前に持っている思想の根源を今回の『神なき時代の終末論』は考えさせてくれました。

そして毎日聞かないことはない経済についてもです。

この世界にくらしていて、当然の権利になっているものに関して考えさせてもらいました。

『歴史の終焉』で有名なフランシス.フクヤマですが、この人はヘーゲルに影響を受けたのは明白で、ヘーゲルが言う「人間は称賛得たいという意欲が原動力になって歴史を動かしてきた」という文言をあまり変形や加味をしないで受けているようです。

そしてそれを自身の本の中で展開しているのです。


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 フランシス.フクヤマ


それが、ヘーゲルの時代において、それなりの支持を受けてきたということは、共感する人が多かったということでしょう。

しかし、今の私たちには、少なくとも私にはパッとしない理論ではあります。

そういった称賛を得ようという意欲がわいてこないからですね。

それは倫理学が発展して、人を貶すよりも褒めるほうが人間関係にはよろしいということが広く認識されるようなったからでしょうか?

であるとすれば、ヘーゲルが生きた時代よりも人心が高次にになったということでしょうか?

そして、それを公然と多く私にして来てくれた周りの人間たちに感謝しなくてはならないことだろうということでしょう。

また同時に倫理学の発達にもです。


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そして、フクヤマ「この欲求は、しばしば自分が他人よりも優れているという優越願望に転嫁する。」としているのです。

そういう優越願望も不問にされてしまう現代においては、やはりさらに人心が高次なものになったということでしょう。

この言説は、ホッブズも唱えていたことからかなり普遍性を持ち、多くの人に支持されていたということでしょう。

そして、日本の福沢諭吉は、奴隷に甘んじ、服属することは、人間の尊厳を傷つけるとして、その状態が維持されれば革命が起こるのは当然だとしているのです。

これを覆すならば、命落としても名誉ある死を選ぶのが人間としての尊厳だとしているのです。

この「自由を求める闘争」が、歴史を作り出してきたのです。

西欧だけが歴史を先導してきたという自負があり、フランス革命が切り開いた近代市民社会にはもはや主人も奴隷もないとすれば、自由をめぐる闘争もない。

命をとしてまで戦う価値はない。

そこに情熱など生まれようはずはないのです。

「豊かな時代に英雄はいない」という言葉を某本で読んだことがあるのです。

sankaku.jpg

そういう言説を読んでも、もはや異世界のことのように感じるのであれば、やはり私たちが豊かすぎる世の中に暮らしているゆえなのでしょう。

ここで何を考えて行動するか、ですね。

生存を確保する合理的な論理が自由を得る闘争の歴史に勝利する。
  
そこで近代が動き出し、そして「歴史が終わる」ということです。

実に現代人に頂門になりえる本だということがわかりました。

この本を読むだけでなく、こういう豊かすぎる社会に暮らして来たらどういう人間に育ってしまうか、という弊害について書いた本をも読むべきでしょう。

そういう積み重ねによって、自分の市民としてのすべきことが明らかになっていくのです。

ただ漫然と1つの本だけを読むのであれば、あまり意味は薄弱と言わざるを得ないでしょう。

かの有名なニーチェは、これらの思想家たちの言説から影響を受けたのか、以下のような言説を引き出しているのです。

支配者からの支配権を奪い取るという 劣等感と嫉妬心と屈辱感がないまぜになった反感が、鬱積していく。

その負の感情がルサンチマンになり自らが、支配者になりたいという欲望をたきつけ、近代革命を起こした。

批判主義もこの近代革命の延長線上にある。

キリスト教道徳こそは、という絶対の主人に服従する奴隷としての人間が、自己満足的に生み出した奴隷道徳だった!」


佐伯氏は過去の思想家や哲学者の言説を拾い上げて、巧みにつなぎ合わせて論じる能力があるようです。

巧みに溶け込んでいるのです。

「」をつけて引用して、他愛もないコメントをしているだけの似非学者とは違うようです。

その他、佐伯氏は、ユダヤ賤民資本主義、現在の主にアメリカの新自由主義の弊、現代経済学の世界全般での弊といった通底する問題群についてわかりやすい事例を引き合いに出しながら論じているのです。

そういう問題点を交えて言説は論じていかなくては本は出す意味がないのです。

出す意味が非常に高かったと思わざるを得ないこの本は非常にお勧めです。


●以下よりどうぞ。

神なき時代の「終末論」 現代文明の深層にあるもの/PHP研究所/佐伯啓思posted with カエレバ楽天市場で検索Amazonで検索Yahooショッピングで検索

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♯佐伯啓思
♯文明

梅棹忠夫 『文明の生態史観』

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今はなき日本が誇る知の巨星として謳われた梅棹忠夫氏の本、しかも代表作である『文明の生態史観』です。

これはもう20年以上も前に読んだ本でして、その読んだ際に、シャープペンで重要と思われる個所に印をつけて、その印を中心に要点をまとめて今回文章にしたのです。

しかし、これは60年代に書かれたにもかかわらず、非常な説得力をもって迫ってきます。


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   梅棹忠夫


私の大学時代に、政治学のゼミに所属していましたが、そのゼミの教員曰くに「私は丸山政男の本は大学時代から今まで何度読んだかわからない。もう丸山の本はボロボロだもの!」と言っていたのを思い出します (丸山政男は、今も政治学の神と崇められている学者です) 。

私も大学の教員や研究者だったら、梅棹氏の本はボロボロになるまで読んだであろうことは間違いないですね。

しかし、丸山氏の本は…まあわきに置いておきましょう。(笑)

梅棹忠夫氏は、私の大学時代に感銘を大いに受けた学者で、その氏の本は、いまだに本棚にしまっています。

また読むことがあると思っているので。

あまり感銘を受けなかった本はすぐに売ってしまいますが。

その氏の本は『日本とは何か?』という題でした。

これはなぜ、日本が戦後大きく経済発展できたのかを、社会を分析していき、説明した内容をフランスにおいて講演し、その内容を本にしたものです。

日本社会を教育、歴史、気候、風土、といった多分野にわたって分析していくことで、かなり明確に読者に迫る気がしました。

よくもこれほどの明確かつ分かりやすく分析したなと感心するとともに、「これほどの明確に説明できる経済学者がどれだけいるだろうか?」と瞬時に思ったものです。

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このような明確な分析ができる学者は古今東西要るもので、そういう人がいることで、これからの社会を占い、明確な指針ができて、それを参考に快適な生活できるということからです。

単なる知の寄せ集めではなく、そこからこれから人類は、自国の社会はどういう指針をもって活動を続けていくのか、ということを明確にする、これが学者の使命の1つであると思うのですがどうでしょうか?

物資が当然のように国民全般にいきわたるようになったときに、必要な分析理論は何か、ということを明確にしたのが、梅棹氏『情報の文明学』になります。

この本は、日本のみならず世界においても、この先どのような経済社会を築いていくかを占う指針として注目されたのです。

それに興味を持った人はそれを読んでみるのがいいでしょう。

今回紹介する『文明の生態史観』は、読むことでなぜ、経済的に発展できる国がある一方で、なかなかできない国があるのかといった素朴な疑問に明確な答えが見つかりました。

単なる政府の機構だけでなく、これまでのそれぞれの地域が経てきた歴史文化をも俯瞰することによって、明らかになったのです。

その地域の分けかたが梅棹氏、特有なのです。

それでいて非常に明確なのです。

地球の北東から西南に横切る線を引き、その線の乾燥地帯は、砂漠、オアシス、ステップがあり、ここに接して森林ステップ、サバンナが現れる。

このただなかか縁辺に沿うサバンナを本拠として成立した古代文明があり、その例としてナイル、メソポタミア、インダス、黄河があり、それらのいずれもその性格を抜け切ることはなかったのです。

この真ん中から現れてくる人間集団、恐ろしい破壊力、文明の世界を嵐のようにふき抜けて行ったというのです。

匈奴、モンゴル、ツングース、イスラム社会そのものが暴力の源泉だったというのです。

この特有の現象を見つけた梅棹氏は慧眼モノです。

梅棹氏は、地球を大きく第一地域第二地域に分けているのです。

第一地域は、日本とヨーロッパというおおざっぱな区切り方でいいのかという気がします。

高度資本主義体制は、革命によってブルジョアが実質的な実権を得たのです。

革命前は、封建体制であった。

動乱を経て、封建体制が成立。

それ以外を第二地域としたのです。

第二地域では、巨大な帝国ができては壊れの連続だったのです。

大きな帝国ができては壊れての連続で発展がなかったという中国の停滞史観という単語を聞いたことがあるでしょう。

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第二地域では、王朝はその暴力を有効に排除したときにうまく栄えたのですが、ゆえにいつも身構えなくてはならなかった。

ゆえに生産力の浪費だったのです。


近世にはいって、遊牧的暴力はほぼ鎮圧され、その結果、中国、インド、ロシア、トルコが成立したというのです。

すると今度は、第一地域からの侵略的勢力に立ち向かうことになるのです。

第一地域は中緯度温帯で、適度の雨量があり、高い土地の生産力を誇っていた。

しかし、第二地域は熱帯降雨林地帯でてごわい。

端っこだったゆえに、中央アジア的暴力がここまで及ぶことなかったゆえに、抵抗できるほどの実力の蓄積していったということです。

非常に明確かつ分かりやすい分析でしょう。

気候風土にまで突っ込んで分析しているのですから。


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こういう経済的に必要な要素が日本には、ヨーロッパ諸国と同じように持ち合わせていたからこそ、日本は戦後ももちろん明治維新時にも、西洋列強と肩を並べるほどの先進国になることができた、ということがわかるでしょう。

日本「東洋の国」とするのは、いかにも不十分だと梅棹氏はしているのです。

日本は、西洋伝来のものがおびただしく入ってきている。

高度の文明生活を享受し、巨大な工業力、交通通信網、行政組織、教育の普及、豊富な物資、生活水準の高さ、高い平均年齢、発達した学問、芸術が存在しているのです。

それを思い起すと、日本に生まれて自分は幸運だったなあと思います。

経済発展には、当然国民の教育や啓蒙が不可欠です。

その勉強をする際にも、気候が足枷になることが日々の生活からもわかります。

今このページを書いているのは、夏ですが、網戸にしてパンツ1枚にして書いてますが、それでも暑くて、しまいにはねむたくなり、そのまま寝てしまいます。

たとえ起きていれても、汗が出てタイピングがしずらくなるし、それをぬぐうストレスも加わってなかなか前に進めないです。

ゆえにエアコンを使わざるを得ないです。

すると仕事が一気にはかどることになります。

その最強の利器であるエアコン第三世界全体に敷くとなれば、かなりの労力と時間と費用が掛かるのは言うまでもないです。

暑いというのは教育にはかなり支障が生じることになります。


フィリピンエジプトに行ったことがある人に聞いたところ、現地の人達は、昼間はほとんどの人が寝ているのだそうです。

そうでしょう暑ければ、当然寝たくなりますもの。

そうなれば勉強はもちろん普通に働くことだって難しいことです。

ゆえに、経済発展も緩慢になります。

また第一地域第二地域の対比として、第一地域では、聖と俗の権力分離が早く起こったのに対し、第二地域では、精神界の支配者と俗界の支配者がずっと後世までくっついている、ということです。

これもまた、経済発展の際の作用を考えるに必須の事象でしょう。


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あまりに興味のわくわかりやすい本だったゆえに、この本もさきの『日本とは何か』と同じく、一気に読んでしまい、2日3日で読破してしまったものです。

こういうわかりやすく、明確ゆえに興奮して読んでしまった本の著者の本は、他の出した本にも興味がわき、それ以外の本も注文して読んでしまうものです。

そういう著作家の例は、そうそうあるものではないです。

5人以下ではないでしょうか?

確かに、多大なる感動を受けた著者のでも、あまり読む気になれないで終わってしまうパターンも大いにありますし、事実梅棹氏のもそういう例がありました。

しかし、それは5指に余る程度で、それほど卑下すべき筋合いのものではないでしょう。

好きな音楽アーティストでも、そのアーティストの出したアルバムすべてが傑作というわけではないでしょう?

やはり2枚以上全然聴けないアルバムというのは誰にでもあるものです。

この本『文明の生態史観』は、67年に初版が出されて以降、いまだに新本で入手が可能なのですから驚異的です。

そういう例は非常に珍しいです。

梅棹氏の専門は民俗学ですが、この本は専門にかまわず、大学の文系に属している人ならば、1度は読んでいてもいいでしょう。

社会科学全般を理解するに非常に愉しくわかりやすくする理論が、そこかしこにちりばめられている本ですから、一度読んでいれば社会の事象を理解するのに大いに手助けになる本だということが言えるからです。


●この本はお勧めです。


文明の生態史観 ほか/中央公論新社/梅棹忠夫posted with カエレバ楽天市場で検索Amazonで検索Yahooショッピングで検索

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♯梅棹忠夫
♯文明の生態史観

大川隆法 『人間完成への道』

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これは1989年におこなわれた、幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏による講演集です。

かねがね、私は哲学者とはどういう人物か、ということを考えていました。

いろんな定義がありますが、「人間社会を広く深く見れて、人を良き方向へ舵取りできるカリスマ性を秘めた人」ということもあるでしょう。

そのためには、いろんな学問を修めて、それを常に脳内で統合させながら、ものを書くなり、講演するなりして、その内容を表出しなければならないですね。

それを常に行っていたのが、大川隆法氏(下写真)だったのですね。


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普通に会社に通い、身をそこに捧げて給料をもらう、ということで生活できますが、あえてそういった多数派の生活には身を投じずに、自身のうちから湧き出る思いや思想を表出し続ける、というかなりの程度、少数派の生活を選んだ大川総裁をはじめ幾多の学者、思想家、そして哲学者といわれる人には敬服しないわけにはいかないです。

もちろん、その表出した内容が、漫然としたものであったり、だれでも言えるような内容であってみれば、何の印象にも残らずに、そのまま記憶の外に置かれる、ということになってしまいますが、こと大川総裁に関してはそういうことはなかったですね。

その表出した内容も、読むごとに心温まる思いになっていたというのが正直なところです。

やはりそういう少数派の仕事に身を置いたのみならず、その内容を世界170か国以上にその宗教を弘めさせたというからには、かなりの程度、の加護はあったのであり、それらを味方につけていたという気がします。

物事1つするにも、ただ頑張っているだけではそれには限界が来てしまいます。

やはり結果を出せている、というのは、そういった人間の能力を超越したものを見方につけていると言わざるを得ないというのが正直なところです。

裏心があったり、人に良く見られたいという心が全くなく、純真な心で必死に打ち込んでいる人に神仏が味方してくれる、あるいは超越した能力を授けてくれるということでしょうか?


そんな気がします。


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哲学者
の定義としては、先に書いた通りですが、それ以外にも、政治に関して目の覚めるような理論を構築できている、ということも、その定義づけとして含めないといけないのかもしれないです。

この本の中で、大川総裁は、政治においてエキスパートが必要」ということをこの講演内で言っているのです。

衆議院議員の600人のうち、200人政治エキスパートに仕立て上げる必要があるということです。

もちろん、専門知識を問う試験を通る必要もさることながら、心や精神の世界、真理観での合格者をそのエキスパートにさせなければならない、ということのようです。

国会議員は、議会の中で各委員会に属し、また党内で各部会に属しているうちにいわゆる族議員になっていく。

曰く“農林族”“商工族”“運輸族”など、この族議員がそれぞれに専門知識を発揮して、立法に当たれば国政は円滑に進む。

だが、とかく我田引水になり利権と結びつきやすい。

その長期間の族議員の政権就任によって、この講演が行われていた89年においてその弊が表出していたのは間違いないでしょう。

また、官僚出身議員は知識とモラルにおいてエリート教育を施される。

諸外国と比べて日本の世襲議員、二世議員は汚職が少ない。

ゆえに世襲議員、二世議員は必ずしも否ではないということは言えるでしょう。

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しかし、党人議員地方議会から階段を登ってくる。

その経緯で選挙に金をかけるから金に敏感になり、暴力団とのつながり、不正に手を染めやすいという弊があるようです。

その弊も当時、表出していたのも間違いないでしょう。

それゆえに、このような提言を大川総裁は表出していたのでしょう。

とにかく、そういった問題点を浮き彫りにさせるだけで終わっていてはいけないです。

学問は、問題点をあぶりだして、その内容を構造的に明らかにして、それを良き方向へいかせるには、自身が行動するためにあるのです。

行動しなければ意味がないのは言うまでもないです。

それが、大川総裁による2009年幸福実現党の結党でしょう。

しかし、それから10年以上も経ってはいるけれども、国選での当選者は幸福実現党からはいまだ1人もいないのは悲しいことです。

しかし、地方選ではちょくちょく幸福実現党から当選者が出ているようです。

やはり国選でのし上がるには、長い年月がかかるようです。

創価学会をバックにした公明党も国選で当選者が出るまでに30年がかかっているのですから、それを見習う必要があったのですが、やはり急ぎすぎた感があるのは否めないですね。

政治に関心がものすごくあった大川総裁、いろんな情報を得ることで新聞ではえれない税金の行方をも浮き彫りにしているのがわかります。

郵政省でも国民が税金を取られている。

そして、大蔵省でも国民が税金を取られている。

こういう2本立ては、経営倫理に反するということです。

また医療保険にも税金がとられているということです。

bansho.JPG

私が、大学時代にはほとんどの学生が奨学金など借りずに生活していましたが、今の大学生にきいてみると奨学金を借りないでいる人のほうが少ない、ということです。

30年間働き続ければ誰でも必ず年収1000万円という団塊の世代の時代は終わりを告げて、2極化の時代に入ってしまったのが、現代日本なのですね。

それを直視して、自分が生活上でどのような工夫をしていくかが問われる時代になったようです。

その奨学金もまた日本政府の重要な財源になっているのです。

大蔵省に守られて、戦後、銀行は発展して、経常利益は何千億円にもなっていたようです。

こうなれば金利は下げなくてはならないのです。


国民が商品を買っていくごとに、ものは安くなる。

こういう量産効果が働くのが資本主義の常識なのです。

金利を安くして、国民たちに安い金で活動できるようにしなければいけないでしょう。

しかし、銀行は大きな保護を受けていたし、今もそうでしょう。

この時期(89年)においては、まだバブルが弾けず、国民のほとんどが中流意識をもち、世界でまれにみる平等国家だったのです。

誰もが、その恩恵を受けていた時代だけに、そういった問題点があっても不問に付されていたのです。

しかし、バブルが弾けてしまったそれ以降の時代において、そのバブル経済の残滓の処理によって、その金利の恩恵を更に受けることができなくなってしまったのは明白です。

しかも、高齢化社会において、年金を受給する人の増大や、生活保護を申請する人の増大も相まっていれば、さらにその金利はさらに上がっていくでしょう。

そこで何を考えて、市民として何をしていくべきか?を考えて日々行動していかなくてはならないでしょう。

こんな時代だからこそ、のある人が求められる、ということでしょう。


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のある人とは、この本の冒頭で大川総裁は、「他の人の幸福を考えた時間が遥かに多い人」と定義しています。

会社の発展、繁栄はリーダーの心構えとして、最重要としているのです。

利益追求は会社の存続契機として持って当然としながら、ある人を求めているのです。

徳ある人は、自然自然と選ばれて行き、浮かび上がってくる、ということです。

この講演で総裁「私は、私的幸福公的幸福を両輪として理想的な世界を作る!」と言っているのです。

これには心温まる思いがしたものです。

若干30歳にしてかなりの慧眼モノの意見が言えているなと感じざるを得なかったですね。

これまでに、死去するまでに大川氏10万冊の本を読んでいたようです。

こういった努力の積み重ねが神仏の加護を得ていた、ということも言えたと思います。

そういう日々の積み重ねをしている人に、が運や使命を与える、ということでしょう。

「さしたる努力もせずに、神仏の加護を得ようとはちと虫が良すぎよう」ということを言った格闘家がいました。

大学で学ぶ学問の理念や存在意義、市民とは何か、どのような社会生活を送っていくべきか…こんなことを日々考え続けてきた自分には、かなり整合する理論と思ったからです。

それに共感する人には読んでほしい本だと思いました。

ここに書いてあるのは一部だけであり、全部を網羅していないです。

2章以降に、「人間完成への道」「人を愛し、人を生かし、人を許せ」「八正道の発見」「無限の愛とは何か」と5章立てで講演がなされているのです。

●この本はお勧めです。


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♯大川隆法
♯講演

大川隆法 『人生の再建』

幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏による講演集です。

90年代初頭に行われたものです。

従来から大川氏は、人間の生命はこの世だけのものであり、死んだら土にかえるという唯物論には異を唱えていたものです。

それは、来世の存在を肯定して、それに対する知識を備えていれば、おのずと人の人生が変わってくるから、それを期待していたからなのか、あるいは実際に大川氏があの世といった場所へ行ける能力があったがゆえに、その描写を正確にしていたのかはわかりかねる。

しかし、根拠がどちらにせよ、その知識は脳内にあったほうがいいのは言うまでもないです。

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そちらについて、大川氏「人間が自然にもつべき考えである」としていて、この本でも書いているのです。

遠い昔に生きた開祖の言葉だけを引き合いに出すことだけを中心に講義している仏教系の宗教よりも、大川氏のように長いスパンをも視野に入れて講義しているほうが、スタンスとしては共鳴できます。

その例証は、女性なるものの魂の本質はこの世界を、そして家庭を調和させていくものであり、ここから社会の調和が始まっていくとしているこの講演の箇所です。

女性が、この使命を捨て去っていったときに、その国は下り坂を下っていくというのです。

男性と競おうとして、その使命を捨て去ってしまったときに、進化は遅れるというのです。

張り合ってキャリアウーマンとしてだけ頑張るといった姿勢ですね。

人類が、これまで転生の過程において、女性なるものの優美さとその素晴らしさと、調和の心、安らぎの心、美しさを培ってきた故としているのです。

そして男性は、家庭内においては模範的でなければならないというのです。

外だけでなく内においてもです。

男女が信じあい、調和した家庭を作る中で、そこに大きな光が出てくる。

それが「光の出城」というのだそうです。

これを作るのが夫婦の使命なのだというのです。

調和し真理を学び続ける中で。

それこそが、神の光にかなった生き方になるのです。

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その他、リーダーにならんとする人に課せられた要素として、礼、智、信、義、勇の5つを挙げています。

その内容については、この本を読んでいただきましょう。

いきなり、その5つを併せ持つ人はあまりいないでしょうから、残りの部分はこれから先埋めていく所存を持たなくてはならないでしょう。

そして、この世で生きていくうえで、困難にぶつかり、その際に、憎しみや恨みの思いは幸福な方角には向いていかない、と総裁はしているのです。

そういう心を持っていると、悪霊や動物霊が反応して、その人を良からぬ方向へ導くということを、総裁は生前によく言われていましたが、この講演では構造的にいうにとどめています。

その経験を教訓にしろ、ということです。

その経験を土台にして、前に向いて行動せよということですね。

こういった言葉は、ややもすれば読者の胸に刺さらずに通り過ぎ去られてしまいがちですが、これまで3150冊もの本を出してきた大川隆法氏の言葉ゆえにか真剣になって読み、チェックを入れてしまうのです。

また、これまで大川氏の本を読んで、その書いてきた言葉から神々しさを感じてきたものゆえにか、という疑問もわきます。

また近視眼的な言葉としてもとられがちですが、これは人類史を長く俯瞰して、研究してきた大川氏の言葉ゆえにということもあります。

こういった読者をひきつけるためには、日々の弛まぬ研鑽と研究と実践内容によって信頼を受けるのだなあと思います。

単なる市井人よりも、そちらのほうが集中して聞いてしまうのは言うまでもないです。

おのずとそういう気にさせてしまう威力を秘めた人間になれるように自分も努力していきたいと思っています。



●この本はお勧めです。


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