宗教においては決別は必然。宗教幹部たちだけでなく末端信者においてもいざこざがあった?



日蓮正宗の信徒団体だった創価学会は、1991年にその正宗から破門にされたのは周知の事実です。
それは、あまりに両者の言い分が食い違ってきていたのがものすごく顕在化して、ついにはたがい違いになってしまったのが原因のようです。
日蓮正宗にいた人たちの僧侶の集団で憂宗同盟というものがあって、そのひとたちによって書かれた『偽法主.日顕』という本を読むと、非常にわかりやすく、その経緯を知ることができました。
生前に開祖.日蓮が、「仏法僧を敬え」としたにもかかわらず、創価学会は、その姿勢を見せないのみならず、「学会葬」として自分たちだけで葬式をあげてしまい僧侶を呼んでいない。
日蓮の言ったことには、僧が世俗よりも先に立てられなければならないにもかかわらず、学会ではその立場が転倒している。
これが、当時の法主であった日顕(下写真)の言い分でありました。

学会としては、その「仏法僧を敬え」とした言葉を盾に、堕落した坊主たちの怠慢ぶりや寺院の杜撰な経営ぶりに反旗を翻したということで、学会の幹部たちによる正宗への申し立てを幾分かしていたようです。
こういった相容れない両者を引き裂くべく、日蓮正宗ではいろんな策略がこなされていたのが、その本で分かります。
以下、日顕が施した内容を見てみましょう。
明治33年~平成17年の間で、宗門宗規は33回変わりましたが、うち20回が日顕が替えた。
学会員を締め出すために、以下のような料金設定にしたようです。
90年に施された内容は以下です。
御本尊下付 2000円から3000円
塔婆 1000円から2000円
永代供養料 100000円から200000円
大過去帳記入代金 5万から10万
また、91年に施された内容は以下です。
内拝券冥加料 1600円から2300円
食事代 1100円から1500円
学会に供養収奪してるのがわかります。
しかし、日蓮正宗は、創価学会を切ったことで、大幅に信者数の激減の憂き目にあっているのです。

信者数は、1945年の時点から数えて、現在ではその2%にまで激減しているようです。
それは、その『偽法主.日顕』によって知ることができますし、創価の機関紙である『聖教新聞』にも書いてあったことなので、間違いはないでしょう。
日顕は収入が激減する中、戒壇の大御本尊を営利の具として、付け願いまで許して御開扉料稼ぎに狂奔しているのです。
日顕は、「大石寺に参詣しないと功徳はない」「御本尊を拝さなければ功徳はない」という発言をしていたそうですが、これらは誤りです。
大石寺参詣は宗門本来の教義にはないし、創価学会2代会長の戸田氏が大石寺復興のために戦後において始めただけです。
昔は各家庭に本尊はなく、遥拝勤行があたりまえだったのです。
こういう事実を本で読むと、日顕が悪者のような感じがします。
ただ、私は対立している両者のうち、片方だけの言い分を聞いて物事を判断するのは妥当ではない、という立場ゆえに、両者の言い分を本なりを読んで論じるのが公平と思うのです。
日顕の立場も当然理解していかなくてはいけないし、その著である『池田大作、創価学会に騙されるな』という本も読みました。

そこでは、創価学会をやめていった人の体験談も読むことができました。
海外でのその様子も知ることができました。
その体験談では、「創価学会の人たちは、私を貧乏人といってバカにするのです」とか「学会の幹部の人たちは、私たちには横柄な態度で接するのに池田大作氏が来たとたん急に池田氏にこびへつらうのです」とか「創価の絵画展のチケットを無理やり売らせようとしていたのです」といった、実に目を覆いたくなる事実が隠されていたようです。
こういう実態を目にしていた人たちが、日蓮正宗と創価学会とが決別する際に、当然日蓮正宗に行ったのは間違いないでしょう。
これを見ると、やはりそれぞれの組織、日蓮正宗と創価学会の長たちの意見の食い違いだけでなく、信者たちにおいてもいざこざが絶えなかったのがわかります。
それを鑑みると、どんな宗教においても人間性の低いままでいる人は必ず存在する、ということがわかります。
しかし、概して宗教に入る人は人の心を重んじる人が多いです。
しかし、創価学会の人で、貧乏人といってバカにしたり、人によって態度をころっと変える人がいるとは驚きでした。
そういう体験談を読むと「宗教にはいっても人を蔑ろにする人はいるんだ!」と驚愕な思いになったのでした。

そういう人を蔑ろにする人たちと一緒にいつまでも一緒にいたいと思うはずもなく、正宗と創価学会が決別する際に創価学会を辞めたのはうなづけるでしょう。
そういう例はどんな宗教にもあるものです。
ゆえに、「人を蔑ろにする人がいない宗教は?」と聞かれても、「そんな宗教はない」と答えるしかないでしょう(笑)
ゆえに、いい人ばかりの宗教に巡り合えるかどうかは運と、自分の対人の姿勢にあるとしか言いようがないのです。
こういう経験談を読むと、宗教によって人を根本から変えることはできないんだなあということわかりました。
ならどうするか?
宗教以外に解決法を求めるしかないでしょう。
それはどんな方法かを知ることができるのは以下の電子書籍です。
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万人に「この宗教は絶対に幸せになれる」と断言できるといえる例はあるか?ないに決まっている。ではどう選ぶべきか?


日蓮正宗系の信徒団体は、いくつかあって、創価学会、顕正会、正信会の3つが有名でしょう。
その中でも、創価学会の躍進ぶりはかなりのものだったですね。

その勢いがすさまじかったのは、第二次世界大戦後ですね。
最高時には、国民の10人に1人が創価学会員だった時期もあるくらいです。
その理由は何か?
やはり簡易さと、普通の服装、いでたちというところにあるでしょう。
従来の日蓮正宗の建物の敷居の高い威厳高さや袈裟がけが、やはり人々を遠ざけていったのは容易に想像できます。
しかし、日蓮正宗の開祖である日蓮(下写真)の教えは、楽観主義にあったのです。

人生は自分で切り開いていける。
そのためには、この信心を維持することで未来は開ける、という趣旨の言葉はだれしも魅力的に映るのは間違いないです。
「この世での自分の役割は決まっているのであって、努力しても報われることはない」という趣旨の教えや宗教よりも何倍も魅力的に映ることは間違いないです。
それによって、創価学会は、大きく信者を獲得し、それまで週一だった機関紙の新聞配布が3日に1度になり、いくらか経って今度は日刊ということにまでなるのでした。
新聞や機関紙の配布の回数や、会合の数も多くなっていったことが可能になったのです。
その新聞や機関誌を目にする回数が多ければ多いほど会員とその宗教との心理的な距離は近くなるのは間違いないのです。
そして、創価の機関紙である聖教新聞は、非常に安易は言葉で書かれているのでわかりやすいのです。
決してハイデガーやアルチュセールといった哲学者といわれる難易度のものすごく高い人のような文章は一切のっていないのです。
しかも、顕正会にしろ、日蓮正宗本体にしろ、新聞の配布は月に一度だけです。

そうなれば人心は離れていくことも懸念されねばなりません。
そういう面においても心理的な距離を狭め、そして半永久的に人心を創価学会につなぐことに成功したのです。
創価学会が他の2者を引き離していったのは、こういう面にもよっているのは間違いないです。
その新聞でも、やはり平易な文章で書かれていることも、また距離を縮めることに成功するのは目に見えています。
私も、創価学会員だった時期があり、それで月に1回から2回ある講堂での会合には少なくとも100人以上は来ていました。
多い時は200人以上も来ていました。
しかし、日蓮正宗本体はどうなのかというと、かなり減少しているのです。

創価学会の新聞では「宗門はかつての2%にまで信者が減少」ということが書かれていたのですが、これは本当なのだろうか?
敵対関係になってしまった相手のことだから誇張していっているだけではないのか?
そんなふうに思っていましたが、実際はその通りだったのです。
日蓮正宗の寺院の前で掲載されていた新聞を立ち読みしていたところ、信者の方が「これから会合があるので参加しませんか?」といわれ、時間があったので参加することにしました。
そこで集まったのは、10人超くらいの人数でした。
私が住む世田谷には、創価学会の講堂は3か所あります。
しかし日蓮正宗の寺院は2か所しかないです。
どちらもどの会合場所はおなじような規模であることは断っておきましょう。
それでこの人数ですから、その「かつての2%にまで減少」という文言がひしひしと迫ってきたのです。
宗門の建物の敷居の高い威厳高さや袈裟のみならず、新聞の発行も月1回しかない、というところにもおっているでしょう。
こういう状態では、やはり人心が離れていくのは否めないです。
しかし、宗門からこれほどにも人が離れていってしまったのは、やはり日顕(下写真)の誤った執政にもあるでしょう。

創価学会のおかげで大きくなったにもかかわらず、創価学会を切り、月1回の信者の登山へもなくなってしまったことで、にぎやかさもまったくなくなり、その登山の際に、登山しに来た人のための民宿や食事の施設、お土産を売る場所や、そこまでのバスやタクシーを使う人のための従業員が一気に職を失ったのです。
こんなふうになってしまった原因を作った人に、たとえ法主であってもついていく人は稀だったのでしょう。
こういうことを鑑みると、やはり、開祖の日蓮が生前に「仏法僧を敬え!」と言っていたからといって法主に無批判でいいとはいえないでしょう。
日蓮正宗の信徒を続けようとせずに、辞めていった人は賢明です。
拍手をしたいですね、その人たちに。
顕正会や創価学会のほかに、日蓮正宗の信徒団体として、正信会というのもあるのです。

やはり、この団体も今では正宗とは決別しているようです。
その経緯は以下です。
1980年、7.4 宗門と学会の僧俗和合路線に水差していた活動家僧侶たちが正信会を結成。
82年1月11日 140名の僧の連署を集結
1月21日 職務執行停止仮処分の申請受理。
職務を辞めるように日顕に問いただし、それが引き金になって日顕は正信会の登山を禁止した。
そして、正信会も破門、ということになったようです。
この団体の一番の反抗理由は、「創価学会が、開祖.日蓮大聖人を拝せず、会長の池田大作を崇めるようになり本末転倒の信心になった」ということのようです。
その批判の是非はこの際、個人の脳内で考えてもらうとして、やはり日蓮正宗のみならず、どの宗教団体においても、離反していく団体は必ずいる、ということでしょう。
その宗教団体が正しいと思ってやっていることが、傍らから見ているといつしか誤った方向に行ってしまいそれを正すべく声明を出すも受け入れられない。
あるいは、組織が大きくなり、その運営で手一杯になってしまい、それを是正している暇がない。
あるいは、不満があれど、面倒になってそれを是正すべく声明を出すということをせず、ただ離反していく。
というようにいろんな理由があって、その団体から離反者が出て、いつしか分裂してしまうのです。
そういう離反や分裂は必然ゆえに私は、そういうことが起こった宗教団体を批判しようとは思わないのです。
しかし、批判すべくは、その宗教団体が非人間的な失政を行うようなってしまった場合には、やはり批判していくというスタンスでいるのです。
しかるに日顕はそういう批判の対象になっているのです。

その内容については、以下に掲げた本を読んでいただくのがいいでしょう。
間違った方向への指摘について、その内容が受け入れられなかったこともあり、また正宗側も忙しくてそれを是正していく時間もなかったということも考えれますし、そういった様々な理由によって両者が反目する場面が多々出てしまっていたようです。
やはり多くの信者を擁する団体になると、それを逐一吟味して、最大多数の信者を説得することはできなくなるのは必然です。
少人数であれば、民主主義的な失政はできる度合は大きいですが、多くなればなるほどできなくなっていくのは、どの団体でも一緒なのです。
日蓮正宗と正信会が離反していってしまったのは、そういう面もあるのです。
意見が2つの団体で異なってしまうのは致し方ないのです。
それを批判しようとも思わないですね。
本山のある日蓮正宗の言うことをきいていればいいのだ、という論理にもくみしないですね私は。
必ずしも正宗の法主が正しいことを言っているかどうかの判断は人によって場合によって違ってくるのです。
ゆえに、吟味をしたうえで、妥当と思われる方をそれぞれの人が選べばいいのです。
以下の写真は、正信会の聖道寺という寺院にある仏壇だそうですが、これは日蓮正宗系からは批判の的になりそうです。
日蓮は生前に偶像崇拝を禁止していたからです。

日蓮正宗は、他の仏教系の宗教とは違って、神道や儒教といった他の宗教の教えを取り入れずに、日蓮だけの教えに帰依していたのです。
しかし、日蓮宗という宗派の場合、日蓮の教えを基調としながらも、他の宗教の教えまでもとり入れて宗教を展開していったのです。
これは邪道だ、と日蓮正宗の人たちは思うでしょうが、私はそうは思わないですね。
なぜなら日蓮の教えだけが至高のものであり、他の事柄は一切邪道、などという考えには至らないからですね。
1つの教えを基調としながらも、いろんなものを取り入れて、自身で工夫していくことで人生を切り開いてきた、という経験が私には多々あるからですね。
1つの教えだけでうまくいくはずはないのです。
正信会は、そんな日蓮正宗系の団体であるにもかかわらず、釈迦などの像も祀るなんて邪道だ、という意見もあるでしょうが、私はどんな工夫をしようがその人の自由、というスタンスなのです。
日蓮正宗系の教えだけでうまくいく、だからその他の事柄は入れるな、などということは神仏でない私は言えないし、保証のしようもないのです。
正宗の教えだけでうまくいく、という人がいるならばその通りにすればいい。
正宗だけの教えでうまくいくわけはないから、他の事柄も取り入れるという人がいるならばその通りにすればいい。
どちらを選ぼうとも自由です。
どちらを選ぼうと、その後やってみてうまく事が運んだら、それはそれでその人に心底エールを送りたいです。
いろんな選択肢が世にはあります。
どれが絶対などということは言えないわけです。
いろんなものを取捨選択して、自身で吟味して、行動していく。
その過程は、その人に任せるほかないのです。
こんなスタンスですから、私は特定の宗教には入らないですし、どの宗教も勧めないのです。
自身でやってください、としか言いようがないのです。
そんなスタンスに興味のある人や、そんなスタンスがどんなものかを真摯に知りたいという人には以下の電子書籍をお勧めします。
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開祖の言ったことをそのまま引き合いに出しても説得力はない。現代なら、そこに科学的なアプローチを加えなくては説得力がない?!
人間というのは得てして、宗教に入っていると、その宗教で言われていることには無批判になってしまう嫌いがあります。
人智を超えた神仏の言ったことは絶対なのであり、それに批判を加えることなど人間には恐れ多くも不要なのだというスタンスになってしまうのですね。
そして、その神仏を批判することなどは、罰当たりになってしまうのだから、恐れ多くもそんなことはできない、ということでもあるようです。
そういう思想に染まってしまうのは、やはり危険でしょう。
その宗教当局のすることに無批判になってしまえば、その当局の悪事にし放題という状態を引き起こすことは間違いないからです。
そして物事を成就するにあたっては、宗教だけに縋っていればいいかというとそんなことは絶対にないからですね。
青年期に日蓮の思想にぞっこんになってしまった故人の浅井昭衛氏(下写真)は、かなりの日蓮へのほれ込みようだったようで、日蓮の言ったことに関しては微に入り細にわたって知っている人でした。

「ここまでよくも勉強したな!」と感心するに十分でした。
しかし、今も、そして日蓮の存命中だった鎌倉時代においても、日蓮の言ったことすべてが無謬であったとは思えないです。
浅井氏は、完全に日蓮にぞっこんになっていたようでした。
それは氏の出した本を読めば一目瞭然です。
身延相承書、池上相承書によって日蓮から日興に法が付託された、ということも浅井氏の本で知りました。
それゆえに、その日興の流れを汲む日蓮正宗(下写真)の門流こそが最高の団体なのだということです。

日興の門流は、他の日蓮系とは違って、その教えに神道や儒教といったものを取り入れていない団体なのです。
日蓮一筋で一切のものを入れない純血主義なのでした。
それを信奉することで万事がうまくいくならば問題視する必要はないでしょう。
しかし、それではうまくいかないからこそ、日蓮の思想以外にも拠り所を探して、見つかったらそれに縋って行動していくことが必要なのだ、というのが私の立場なのです。
現に私はそういうスタンスです。
ゆえに日興門流よりも日蓮宗系にスタンスは近いです。
また、浅井氏の本から、釈尊が言ったこととして、「法華経を信じずに謗るならば、その人は臨終ののち、無間地獄に堕ちると喝破した。」ということも脳裏に残っています。
この言葉も浅井氏の本から知ることができたのですが、その釈尊の言ったことも、釈尊の死後かなりの年月が経ってしまっているがゆえに、その内容が無批判でいいのかどうかもかなり疑問視されていることなのです。

当時は、パソコンがあるこんにちとは違って、言った言葉はすべて紙に書かれたのです。
その際に、まったく誤りなく書き写されていたかというと、かなり疑問でしょう。
そして、書いた人の価値観によって変化して書かれたり、脚色して書かれた可能性も大いにあるのです。
いな、そうなるのが必然なのです。
法華経に思いを抱いていた人が多くの人にそれを取り入れてほしいという思いまら、過大に脚色して書いたりしてしまった可能性も大きいのです。
こうした人類の普遍的な現象を抜きにして、宗教で言われていることをそっくりそのまま信じることはできない、というのが私の立場なのです。
また、浅井氏は「いま第六天の大魔王の障礙により、正系門家が敵対関係になってしまった。」ということも氏の本の中で書いているのです。
第六天の魔王とは日蓮の御書にたびたび出てくる言葉ですが、災いをもたらす悪神といった概念でしょうか。
そして正系門家というのは、日蓮正宗系の団体という言葉です。
その第六天魔王も、のちの研究によってそういうものは存在しうるのかどうか疑問視されているものです。
先代の法主だった日顕(下写真)について、浅井氏もかなり批判しているのです。

また、日蓮正宗にいた人達が書いた本で、その実態を暴露した例がかなりあるのです。
法主としてあるまじき横柄な態度や、信者たちの供養金を使って豪華なマンションを買ったり、宴会をしたりといった奢侈の消費といった面について本が多く出されているのです。
それを浅井氏は「第六天魔王が降り立ったからだ」と、氏の本の中で書いているのですが、そうではないのです。
その理由を以下の本の中で心理学的に明らかにされているのですが、その方が説得力があるのです。
どういう家庭に生まれ、どのような教育を施されると、日顕のような人間が育ってしまうのかをつまびらかにしているのです。
その内情を知らずして「南無妙法蓮華経と唱えれば、何もかもうまく解決する」などという日興門流の人たちの言葉など信用できないでしょう。
あの日顕の性格を直そうと多くの人が唱えたでしょう。
しかし、結局あの性格は死ぬまで治らなかった。
それを見てもやはり、「南無妙法蓮華経と唱えれば…」といった言葉はまるで説得力がないのは明白です。

やはり宗教だけですべて解決するというのは、現代では間違いで、やはり科学的なアプローチが必須なのです。
宗教にゾっこんになってしまう人は、宗教だけで解決することしか頭が回らず、科学的なアプローチがまるで足りない。
足りないから説得力がないのです。
開祖.日蓮も同様なのです。
やはり科学的なアプローチが足りないのは御書をよめばわかります。
しかし、それを批判する気にはなれないです。
なぜなら、日蓮のいた鎌倉時代には、心理学などの科学なかったのですから、それを批判しても仕方がないのです。
しかし、その日蓮の言ったことだけで解決できないのであれば、やはり科学的なアプローチが不可欠なのは言うまでもないのです。
そんなスタンスに興味のある人は以下の本をお勧めしたいです。
なぜ、日顕のような人格の人間ができてしまったのか?
そしてそういう人間が出てこないようにするためにはどうすればいいかをつまびらかにしているのです。
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ここまで読んでいただき感謝します。
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人智を超えた神仏の言ったことは絶対なのであり、それに批判を加えることなど人間には恐れ多くも不要なのだというスタンスになってしまうのですね。
そして、その神仏を批判することなどは、罰当たりになってしまうのだから、恐れ多くもそんなことはできない、ということでもあるようです。
そういう思想に染まってしまうのは、やはり危険でしょう。
その宗教当局のすることに無批判になってしまえば、その当局の悪事にし放題という状態を引き起こすことは間違いないからです。
そして物事を成就するにあたっては、宗教だけに縋っていればいいかというとそんなことは絶対にないからですね。
青年期に日蓮の思想にぞっこんになってしまった故人の浅井昭衛氏(下写真)は、かなりの日蓮へのほれ込みようだったようで、日蓮の言ったことに関しては微に入り細にわたって知っている人でした。

「ここまでよくも勉強したな!」と感心するに十分でした。
しかし、今も、そして日蓮の存命中だった鎌倉時代においても、日蓮の言ったことすべてが無謬であったとは思えないです。
浅井氏は、完全に日蓮にぞっこんになっていたようでした。
それは氏の出した本を読めば一目瞭然です。
身延相承書、池上相承書によって日蓮から日興に法が付託された、ということも浅井氏の本で知りました。
それゆえに、その日興の流れを汲む日蓮正宗(下写真)の門流こそが最高の団体なのだということです。

日興の門流は、他の日蓮系とは違って、その教えに神道や儒教といったものを取り入れていない団体なのです。
日蓮一筋で一切のものを入れない純血主義なのでした。
それを信奉することで万事がうまくいくならば問題視する必要はないでしょう。
しかし、それではうまくいかないからこそ、日蓮の思想以外にも拠り所を探して、見つかったらそれに縋って行動していくことが必要なのだ、というのが私の立場なのです。
現に私はそういうスタンスです。
ゆえに日興門流よりも日蓮宗系にスタンスは近いです。
また、浅井氏の本から、釈尊が言ったこととして、「法華経を信じずに謗るならば、その人は臨終ののち、無間地獄に堕ちると喝破した。」ということも脳裏に残っています。
この言葉も浅井氏の本から知ることができたのですが、その釈尊の言ったことも、釈尊の死後かなりの年月が経ってしまっているがゆえに、その内容が無批判でいいのかどうかもかなり疑問視されていることなのです。
当時は、パソコンがあるこんにちとは違って、言った言葉はすべて紙に書かれたのです。
その際に、まったく誤りなく書き写されていたかというと、かなり疑問でしょう。
そして、書いた人の価値観によって変化して書かれたり、脚色して書かれた可能性も大いにあるのです。
いな、そうなるのが必然なのです。
法華経に思いを抱いていた人が多くの人にそれを取り入れてほしいという思いまら、過大に脚色して書いたりしてしまった可能性も大きいのです。
こうした人類の普遍的な現象を抜きにして、宗教で言われていることをそっくりそのまま信じることはできない、というのが私の立場なのです。
また、浅井氏は「いま第六天の大魔王の障礙により、正系門家が敵対関係になってしまった。」ということも氏の本の中で書いているのです。
第六天の魔王とは日蓮の御書にたびたび出てくる言葉ですが、災いをもたらす悪神といった概念でしょうか。
そして正系門家というのは、日蓮正宗系の団体という言葉です。
その第六天魔王も、のちの研究によってそういうものは存在しうるのかどうか疑問視されているものです。
先代の法主だった日顕(下写真)について、浅井氏もかなり批判しているのです。

また、日蓮正宗にいた人達が書いた本で、その実態を暴露した例がかなりあるのです。
法主としてあるまじき横柄な態度や、信者たちの供養金を使って豪華なマンションを買ったり、宴会をしたりといった奢侈の消費といった面について本が多く出されているのです。
それを浅井氏は「第六天魔王が降り立ったからだ」と、氏の本の中で書いているのですが、そうではないのです。
その理由を以下の本の中で心理学的に明らかにされているのですが、その方が説得力があるのです。
どういう家庭に生まれ、どのような教育を施されると、日顕のような人間が育ってしまうのかをつまびらかにしているのです。
その内情を知らずして「南無妙法蓮華経と唱えれば、何もかもうまく解決する」などという日興門流の人たちの言葉など信用できないでしょう。
あの日顕の性格を直そうと多くの人が唱えたでしょう。
しかし、結局あの性格は死ぬまで治らなかった。
それを見てもやはり、「南無妙法蓮華経と唱えれば…」といった言葉はまるで説得力がないのは明白です。

やはり宗教だけですべて解決するというのは、現代では間違いで、やはり科学的なアプローチが必須なのです。
宗教にゾっこんになってしまう人は、宗教だけで解決することしか頭が回らず、科学的なアプローチがまるで足りない。
足りないから説得力がないのです。
開祖.日蓮も同様なのです。
やはり科学的なアプローチが足りないのは御書をよめばわかります。
しかし、それを批判する気にはなれないです。
なぜなら、日蓮のいた鎌倉時代には、心理学などの科学なかったのですから、それを批判しても仕方がないのです。
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事の是非を論じる場合や、事の成就を願うならば万般にわたる情報を得てすべし?!宗教だけに縋るべからず!。


日蓮正宗の信徒団体だった創価学会ですが、日蓮正宗から破門処分にされてしまうのです。
それが91年です。

その内容については、ここでは詳説はできないです、かなりの長い文章になってしまうので。
ただ、こういう場合、それぞれの言い分があるわけで、それぞれの立場の声明文を同じ文量で読んで、どちらが正しいのかを判定するべきでしょう。
しかし、日蓮正宗の信者は正宗の発行する新聞や雑誌だけを読み、創価学会員は創価学会の発行する新聞や雑誌だけを読む。
そうなれば日蓮正宗の信者は日蓮正宗寄り、創価学会は創価学会寄りになるのは必然でしょう。
それぞれの言い分を、両者とも同じ量読むことで、はじめて中立的になるのは言うまでもないのですが、それぞれの立場の人間がそういうスタンスでいる人はどれだけいるのか、非常に疑わしいのです。
そういうことを全員に望むのは不可能に近いでしょう。
しかし、そのままでいいとも思えないのです。
92年に日蓮正宗の法主だった阿部日顕によって発行された本があるのです。
それが『創価学会、池田大作に騙されるな』という本です。
これには日顕(下写真)の書いた文章だけでなく、日蓮正宗信徒による経験談も収められているのです。

「学会を辞めてよかった編」として以下の興味深い文章が収められていました。
「仏罰と思われる現証が…母娘関係の険悪化から女子部の幹部である娘が、自宅に火を放ったり、本部長をはじめとして50歳代で急死する学会員が後を絶たないのです。
また会社を倒産させたり、店を閉めざるを得なくなった学会員も続出しています。」
これは国内の信徒ですが、以下フランスの元創価学会員で正宗に移った人の意見も載っていました。
「SG(創価学会)の教学に対する不満が募っていきました。会合で教える幹部の御書に対する理解が大変浅く、講義する能力がなかった。ご法主上人に対する退座要求書に署名求めるのが信じれなかった。」
これ以外にも、いろんな体験談が載っていました。
学会か正宗か、どちらに行くべきか悩み、学会からの情報をうのみにした人が学会にとどまり、学会に疑問を抱き解消されなかった人が学会を脱会したということでしょう。
日蓮正宗と創価学会、私はどちらの味方でもないのです。
「仏罰と思われる現証」とは書いてありますが、それが本当に仏罰なのか、たまたまそういうことが起きただけかもしれないですので、その是非を確認するすべは私にはないです。
それに急死といっても、創価学会にいたからだ、などということも言えないのです。
本当に仏罰なのか、もともと病気持ちゆえなのか不摂生が原因なのかも判定のしようがないのです。
しかし、思わないでしょうか?
同じ南無妙法蓮華経と唱える団体であるにも関わらず、団体が違うからというだけで、急死してしまうというのは?

そんな薄氷を踏みわたるのがこの宗教の本質であるならば、そんな宗教団体自体辞めるべきではないのかと。
日蓮正宗にしろ、創価学会にしろ、顕正会にしろ、入るべきではないのではないでしょうか?
「会合で教える幹部の御書に対する理解が大変浅く、講義する能力がなかった。」ということですが、これも幹部に講義能力がないならば自身で勉強すればいいことでしょう。
そして、創価学会側が法主だった日顕に退座要求をしたことが信じれなかったということですが、創価学会と宗門のすれ違いの経緯をつまびらかに勉強すれば当然の結果だったと思いますが、その経緯を知ろうとしなかったこの婦人に非がある気がします。
私はそういう立場ですが、その経緯のすべてを知ることは、仕事や家事に忙しい婦人には難しいのはわかりますが、そのままでは真実は見えてこないのは言うまでもないことです。
そして、宗教の長に対しては全くの無批判でいていいという気になれない私には、そういう婦人の気持ちを理解できないのです。
その是非を論じるには、その長のことについてつぶさに述べられた文を読むことが必須なのですが、そういう作業も欠けているのです。
また、他の創価学会に疑問を抱き、正宗にとどまった人の経験談は以下です。
「池田先生は、日蓮大聖人の生まれ変わりだというようになった。日蓮正宗の正しい信仰から離れていく創価学会のいく末を憂いてしました。ことあるごとにその疑問を幹部に直接質問してみましたが、受け入れられないばかりか、危険人物としてみなされるようになったのです。」(P.69)
これも、創価学会の批判ですが、創価学会員は創価学会員で池田大作に対して無批判でいる例が、この人以外にも私の周りでも大勢います。
本来、日蓮正宗信徒であるならば、日蓮を崇め奉るのが本道ですが、正宗の信徒団体であった創価学会が別途、活動していくと、その長である池田大作(下写真)を崇め始めてしまったのでしょう。

これでは明らかに本道から外れていることは間違いないです。
外れた道を矯正するのは必須でしょうし、それに気づいたこの人は立派でしょう。
しかし、正宗、創価学会、顕正会、どの団体にも与しない私は、どの団体の味方もしないので、それほど重要視はしないのです(笑)。
予定調和説とはキリスト教の概念ですが、これは神に祈った後に起こったことは結果がどうなれ、それには感謝しなくてはならないという立場です。
これは、日蓮正宗系でなくとも、いろんな仏教の団体でも陥ってしまう弊があるでしょう。
祈った後に起きた結果は望みどおりでなくても、キリスト教徒が「これは神様がお計らいになったことなんだ」といって満足してしまうのと同じように「これは仏様がお計らいになったことなんだ」と言って満足してしまうのです。
それならば、祈る意味がないのです。
結果が欲しいならば、それがかなうように何を自分がすべきか、を分析して、それにかなうように日々行動を重ねる。
それで望んだ結果が得られなかったら、これから何をすべきかを再び考えて行動するのが王道でしょう。
そのためには縋るのは宗教ではないのです。
その結果が欲しいために何をすべきか示唆してくれる内容を持った本なのです。
それを得ずして、いくらその仏教の本尊に対して祈っても結果は得られないのです。
確かに、神や仏に祈って結果を得た人の例は無数にあります。
ただし、それはその結果を得るために王道の行動をし続けたうえで、祈った人のパターンなのです。
神や仏にただ祈るだけで結果を得たい…これは王道ではなく邪道なのです。
こういう立場に与することができる人や、神や仏についての王道のスタンスを自分で構築したい人には以下の電子書籍はお勧めです。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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宗教の役割や位置づけは時代によって大幅に変わってくる。それを踏まえて自分が宗教に関わるスタンスを決めるべし?


日本の歴史を垣間見ると面白いのですが、日本は聖徳太子の時代までは、誰もが神を奉る国だったのです。

それが、中国から仏教が渡り、その素晴らしさに政治を執る人たちの多くが目覚めて、それを政治に取り入れることにしたのです。
その際に、人間たるもの保守的なもので、それまで神を信奉していた人たちの反乱があり、その結果戦争が起きたのです。
その後、推古天皇が即位し摂政になった聖徳太子が、冠位十二階(推古天皇11年(603年))・十七条憲法(推古天皇12年(604年))を制定し、仏教を中心として国家事業が着直と勧められたのです。
その後、いろんな僧たちが中国にわたり仏教を学び、それを日本に取り入れたのみならず、国教にまでした時代があったのです。
それが桓武天皇の時代の真言宗です。
その後、紆余曲折を経て、またいろんな仏教が勃興します。
そして、当然ながら神の信仰も生きていて、それだけで単体で存続してたパターンもあれば、仏信仰とも交じり合って神仏習合という形に変形したりと、様々なパターンがあったのは、これまでの歴史を見れば瞭然です。
しかし、江戸時代の末期において、西洋列強の侵略めいた出来事が起き、その結果、幕府の政権が危うくなり、その政権が終わりになるのです。
その後、明治時代になり、岩倉遣欧使節を代表する西欧を視察させた政府の決断は、神を中心にした国に国民全部をまとめ上げていって、西洋のように富国産業を興さなくては、日本は西洋列強の植民地にされてしまう!ということだったようです。
その手段として、天皇を神に祀り上げていく、という手段を採択したのです。
そして1868年の明治維新より、実に1200年以上ぶりに神を中心にした宗教に鞍替えされたのです。
その富国産業政策は功を奏し、日本は列強の仲間入りを果たすことに成功したのです。
いろんな戦争に参戦し、いずれも勝利。
しかし、第二次大戦での敗北を経て、1945年には天皇の人間宣言。
その後、日本は信教の自由をようやく認めることができたのです。
このように、宗教はその時々の政治によって利用されたり、その土地柄に合わせて人々の欲求を満たすために、いろんな解釈がなされて変形されてきたことが一目瞭然なのです。
宗教とは多元的な知識を多くの民衆に教えて、その信仰によって民衆を救わなくてはならないという使命を負っているわけで、教える側(主に僧)が、その際に必要なことをたくさん覚えなくてはならなかったのです。
しかも正確に。
しかもこんにちのように紙などほとんどない時代においては特に大きな使命を負っていたのは言うまでもないことです。
それゆえにエリート=多くの観念を素早く脳内に叩き込める人の養成が不可欠だったのです。
それで選ばれた人のみを選別して、エリート教育を施す。
真言宗は、エリート主義だったように見えたのは仕方がなかったのでしょう。
それが批判の理由になった。
しかも、空海が中国に渡った時の寺院のそばにはゾロアスター教の寺院もあったがゆえに、それを取り込んでの護摩炊き、加持祈祷をしていた姿もまた、異様に映ったのでしょう。
それゆえに日蓮は真言を邪教と断定したと思えるのです。
その他にも、日蓮の信条と相いれない部分もあったがゆえに。
そういう時代背景があったので、それを深く考慮すれば、民衆をないがしろにするように映ってしまったことについて、わざわざ批判すべき筋合いのものではないと思うのです。
それを次の代になって改善すればいいだけの話しですので。
しかも、1つの宗教だけを信奉していれば、そこで展開されている宗旨も、宗教的な事情や時代的な要請上、変形されざるを得ないもので、やはり前の時代と言っていることが違うとして、非難の対象にされざるを得ないのです。
しかし、それもわざわざ取り上げたくはないけれども、やはり引っかかるものはあるのです。
それは創価学会についてです。

例えば、日蓮は聖徳太子にならって「仏法僧を敬え」と言っていたのです。
仏=開祖、法=その開祖の教え、そして僧はそのまま僧です。
それは、創価学会が日蓮正宗の信徒団体であった時代では維持できていましたが、日蓮正宗の信徒として認められなくなったとき、すなわち日蓮正宗から破門にされて以降はできなくなってしまったのです。
それで、創価学会が新たな信者になった人に、その日蓮の「仏法僧を敬え」という言葉を教えるときに、僧=学会員としたのです。
これはあまりにこじつけで笑いそうになってしまったのです。
これをあなたは嗤いますか?
しかし、これは、やはり破門処分によってそうなってしまったがゆえに仕方ないのです。
また、鎌倉時代に、雨が降らない期間が長く続き、飢饉が懸念されたのです。
そこで極楽寺の念仏宗の良観(下写真)なる人物が、念仏を唱えて、雨を降らせる祈念を100日にわたって行ったのです。

そこで日蓮は「念仏によって雨が降ったら念仏宗の信徒に私がなろう!」と宣言したのです。
しかし、結局雨は降らなかったのです。
そこで、良観は日蓮を逆恨みし、日蓮を殺す計画を立てたようです。
それは結局失敗に終わったのですが。
そこで疑問に思わなかったでしょうか?
なら日蓮が題目を上げればどうなっていたか?
降ったのか降らなかったのか?
ということですよね。
そこで、題目を唱えて雨が降ったのであれば、信心する期になったかもしれないですが、それがないならばやはり片手落ちという気がするのです。
これは700年以上も前ということもあって、真実なのかどうかがわからないのです。
たとえ、それが本当のことであると判明されたとしても、それだけで日蓮正宗系信徒にはならないですね、私は。

日蓮
それだけでは、人生をよりよく生きるためにはコンテンツが不十分でしょう?
それは、いろんな本を濫読していくことで見つけることができてここまで生きてきた、という結果が備わっているからですね。
紙のほとんどない時代において、いろんな観念を持っていた仏教界においては、やはり僧侶は尊崇の相手ではあったけれども、いつでもだれでもいろんなことが学べる時代においては、尊崇の対象ではなくなることは必然です。
「僧を敬え」と日蓮が言ったとしても、それに甘んじて僧侶が堕落してしまったり、敬うに値する人格でないならば、それに従うことはできないはずです。
やはり、世界中に広まった宗教であっても、そのまま受け入れるわけにもいかないですし、いろんな人からいろんな用途として使われてきた、という経緯も、このページに書いた通りです。
ゆえに、各宗教の学べるところは学びながら、排除するべきところは排除しなければならないのは言うまでもないことなのです。
そういうことを多面的に考えていけば、やはり1つの宗教に一途にはなれない、というのが正直なところです。
そんな私のスタンスに興味ある人は以下の電子書籍がおススメです。
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父上の原理主義をいかに脱していくか…それが浅井城衛氏の課題?


日蓮正宗にはいくつか信徒団体がありました。
創価学会や顕正会がそれでした。
それぞれはともに今は正宗から破門にされています。
時の法主と敵対関係になってしまったので。
その敵対関係の内容について、ここでは詳述はしないです、ものすごく長くなってしまうので(笑)。
その破門になってからの創価学会に、私は入ったことがありましたが、あまりに同じことばかり新聞で書かれているのと、信心をすることで人生が開けるとは全く思わなかくなったので、新聞の購読を停止し、講演等にもいかなくなっていました。
それでも後悔は全くしていないです。
そしてそれから何年かして、うちに顕正会の人が来て、日蓮の講義をしました。
それで話しを聞きましたが、まるで感銘を受けることはなかったです。
そして無料でいいというので、その機関紙である『顕正新聞』を読んでくれと言われたので読んでみると、そこには日蓮正宗と創価学会(下写真)の非難が毎回なされているのです。

創価学会は日蓮正宗の批判だけをしていましたが、ここでは違うのですね。
違うがゆえに、ここで聞いていれば、創価学会時代に開けなかった目が開けるかもしれないと思い、新聞を読むのみならず、講演を聴いたりしてみるも、やはり結果は一緒でした。
「やはり自分には必要がない。あっても少ししかない。」
この程度でした。
また、当時の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)の本を読んでみるも結果は一緒でした。

その本である『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』には以下のように書かれていました。
「学会、宗門ともに何たる無道心、何たる師敵対か。
所詮かれらには、戒壇の大御本尊に対し奉る信心が全くないのである。
だからこのような師敵対を平然となしうるのである。」
人間である以上、このような意見の相違が生じてしまうのは致し方ないでしょう。
その敵対関係の程については、会長という立場で実際にその場にいたこともあって臨場感をもって語られているのがわかります。
開祖.日蓮を鎌倉時代にまでさかのぼってタイムマシーンで連れてきて、議題に上がった内容について裁断してもらえれば、一発で決着がつくのは言うまでもないですが、それが不可能ゆえに、収拾がつかないまま決裂してしまうのは、日蓮正宗系でなくても、いろんな宗教でも同様ですね。
日蓮(下写真)が生前に遺した「戒壇を作れ」としたことについても、やはり意見が分かれてしまっていたのですね。

日蓮は、「広宣流布した暁に、天皇の許可を得て、富士山天生が原に戒壇を作れ」としたのですが、これだけでも不満分子がいたのです。
浅井氏ですね。
広宣流布は達成していないし、天皇の許可をえていないし、富士山天生が原ではなく大石寺の境内に建てようとしている、ということで反対したのです。
広宣流布という語は非常に抽象的で、日蓮は国民の何割が帰依したらという明確な数字は書いていなかったのですね。
しかし、浅井氏は日本人全員が、というように解釈していたようですが、そんなことは不可能に決まっているのは小学生でもわかります。
鎌倉時代においては、戒壇を建立するには天皇の許可必要だったのです。
しかし、今の政教分離の時代において天皇に許可を得るなどということ自体が不可能なことなのです。
それを浅井氏は無理強いさせようとしていたのです。
単なる駄々っ子ですね(笑)
そして富士山天生が原というのは、非常に水はけが悪く、非常に辺鄙で、人が行き来するには不向きということで大石寺内に建てようとしたのです。
その事実を踏まえずして、天生が原ではない、として反対するのも、また現実を無視して、開祖の言うことだけを最優先にしているのです。
こんなでは先に進めないと日蓮正宗側は判断したのでしょう。
その他、浅井氏とは考え方が基本的に乖離すること何度もあったのでしょう。
時の法主、細井日達上人(下写真)によって顕正会は破門にされてしまうのです。

学会、正宗、顕正会と、当時いちばん信者が多く、金もあった学会と、それらに劣る顕正会では、やはり発言権に差が出たのは致し方ないです。
その面だけで裁断するのは慎まなくてはならないのは言うまでもないですが、それを差し引いても、浅井氏はあまりに現実を見なさすぎだったのは否めないです。
大石寺建立から700年のちょうどいい時期に、しかも戒壇を建てるに充分な資金が集まったのであれば、全国民が帰依しなくても、天皇の許可を得なくても、天生が原でなくても、そこでいいじゃないか、と誰しも思ったでしょう。
それに浅井氏が意見すれどもやはり切り捨てて行動しなくてはならないのがしかたなかったでしょう。
それについて、浅井氏は戒壇=正本堂の設立について、「池田の御遺命破壊」として批判したのです。
池田大作氏(下写真)は、創価学会の会長でした。

「池田は政治的野心のために御遺命の国立戒壇を否定し、偽戒壇.正本堂を建てて、それを御遺命の戒壇と偽った。」と昭衛氏は批判していたのです。
しかし、私は必ずしも政治的野心ではなく、資金的にもタイミング的にもちょうどいい節目だったからという気がしてならないのです。
そして、池田大作氏は、創価学会までも破門処分になった後に、それまでに法主に書いてもらっていた会員たちの本尊を捨てさせたということです。
日蓮大聖人は、「本尊は法主が書くべし」としていたのです。
日蓮正宗においては、入信した人には、法主が本尊(下写真)を書いてそれを受持していたのです。
しかし、日蓮正宗から破門にされてしまっていたので、それ以降は受持されることができなくなってしまったのです。

そして、それからは、それまで受持されていた人の本尊を印刷工場でコピーして、それを受持させていくことにしたのです。
それまでの本尊を捨てさせたことによって、浅井氏は憤りを見せたようです。
日蓮が言った、本尊は法主が書くべし、としていたからなのでしょう。
しかし、浅井氏のいう「戒壇の大御本尊を捨てさせた」というのは表現は間違いでしょう。
大御本尊というのは、大石寺にある、日蓮が遺したものに他ならないです。
ここまで俯瞰して、やはり浅井氏は現実をあまりにみなさすぎていたという観は拭えなかったです。
しかし、彼のカリスマ性に惹かれて、信者になった人は大勢いましたし、今その数は300万世帯にまで上がったそうです。
これは瞠目すべきでしょう。

しかし、私は日蓮の言ったことこそが至上であるとは、何度も日蓮の書物を読んで思えなかったので、顕正会には入らないですし、その素晴らしさについて誰かに語り、入会を勧めることもないです。
そして、浅井氏は2023年に死を迎えました。
私はこれまで組織論を研究してきてわかったのは、団体の長の死後、分裂してしまうのは、その長の跡を継いだ人のワンマンな指揮というのが最大のようです。
しかし、ワンマンでなくてもやはり分裂は避けられないようです。
今は、昭衛氏の子供である城衛氏(下写真)が会長を務めているのです。

親族が後を継ぐということでは、、分裂は起こりにくいのです。
それまでの長とは血縁のない人が長になるよりかは断然に。
城衛氏は、氏の講演を聴く限り非常に謙虚な印象を得ますし、それゆえに、ワンマンな決定はしないだろうことについては安心はしているのです。
それでも分裂になってしまうかどうかは保証のしようがないです。
浅井昭衛氏の後を継いでも、分裂しないかはわからないです。
私の関心は、そこにはあまりなくて、やはり昭衛氏がしていたあまりに原理主義的な思想をいかに拭っていくかだと思います。
あまりに現代社会との兼ね合いを考慮せずに、日蓮の言ったことだけに依拠して事を進めていくのは正直いただけなかったです。
それが城衛氏がどのように変化させていくか、に興味がわいているのです。
こんな私の立場にどれだけの共鳴がされるでしょうか?
共鳴できた人にお勧めなのが以下の電子書籍です。
単に開祖が言ったことだけに依拠するのではなく、いろんな情報を摂取して最良と思われるものを採択して、行動していく。
もちろん神仏の存在は信じながらも、コンテンツを拡大させていくのが王道、というモラルがいいということですね。
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自分の哲学は誰でも雑種。世界最高峰の宗教を創立した開祖でも例外ではなし!
日蓮正宗では、寺に住職なる人がいて、信者は月に1回寺に行き、その人を中心に勤行をして講話をしてもらうのです。
その結果、自分たちは幸福な生活を送れているんだという気持ちで、信者たちは供養金をその寺に渡すのだそうです。
その額が、僧侶たちが生活できるレベルのまで達していない事には、その宗教自体が存続できないわけです。
日蓮(下写真)は、鎌倉時代を生きた僧侶でしたが、そういう形式で今まで存続してきたのですから、その恩恵はあるのでしょう。

その供養金の額は、人によってまちまちで、1万円という人もいれば10万円、あるいは100万円以上出す人もいるというから驚きです。
また、信者がなくなり、その人の葬式においても、お経を唱えれば、またお金がもらえるのです。
だいたい日本人ならば誰もが仏教形式で葬式をするのが一般的でしょう。
その時にお坊さんにだいたい100万円以上は出すのが相場になっています。
それでまた僧侶が儲かることになるのです。
日蓮正宗でも同様なのです。

こういう供養金や弔い金というのは、どこから由来するのでしょうか?
日蓮正宗では、当然日蓮の遺した以下の言葉です。
「僧の恩をいはば仏法、法宝は必ず僧によりて住す。譬えば薪なければ火無く、大地なければ草木生ずべからず。
仏法ありといえども、僧ありて、習い伝えずんば、伝わるべからず。乃至、然れば、僧の恩を報じ難し。
されば、三宝の恩を報じ給うべし」
これにより、僧侶たちは尊崇の対象になったのです。
そして、この言葉は無から有というかたちで日蓮が考えたわけではないのです。
それは、何か?
聖徳太子の制定した憲法十七条なのです。
その2条に、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏、法、僧なり。」とあるのです。
これを日蓮は借用し、装飾を施しているのです。
聖徳太子創建の日本最古の官寺である天王寺でも学んだ日蓮ゆえに、こういうことになるのです。
しかし、日々仏教に関する勉強もおろそかにして、親身になって相談に乗ってくれなくても、僧侶たちが生活できる、ということであれば当然、僧侶の堕落はまぬかれないでしょう。

ただし、僧侶なら必ず堕落するとは限らないもので、そうなるかどうかは僧侶次第ということになります。
しかし、どうしてもそういう生活になると堕落してしまう僧がすくなからず出てしまうことがあるのがわかりました。
日蓮正宗の信徒団体だった顕正会の会員だった人の体験談を、その機関紙である『顕正新聞』で知ることができました。
長野県諏訪町にある正宗の威徳寺において、住職は寺そっちのけでゴルフや旅行などの贅沢三昧になり、その素行の悪さが話題になり、岩手県の末寺に飛ばされたということです。
こういう僧侶にあきれをきたして、正宗から顕正会に移籍してしていった人がいたということです。
顕正新聞においては、そういう経験談をたくさん読むことができるので興味深いです。
しかし、その「仏法僧を敬え」という日蓮の言葉は開祖であるだけに、なかなか捨て去ってしまうことができず、そういう堕落坊主で出てもうやむやのまま、ということになってしまう例が多数あるのです。
日蓮正宗は、91年に創価学会を破門処分にしてから、どんどん信徒が減っていき、91年から数えていまに至っては2%にまで減ってしまったというから驚きです。
その情報は池袋にある正宗の寺院である法道院という寺の前に通りかかったことがあり、その前にある仏壇屋に50過ぎの女性がいました。
そこで仏壇屋の店員をしているということは、日蓮正宗信徒であるのは間違いないです。
その女性に聞いてみました。
「日蓮正宗の信者がかつての2%まで減ってしまったというのは本当なのですか?」と。
するとその女性曰く、「うん、そうみたいね」とあっけらかんと言っていたから驚きました(笑)
普通、自分の属する宗教団体の信者がそんな減ったら、哀しんだりするだろう、ということですね。
しかし、その女性は何とも思っていない。
やはり、その宗教の長がしていることによって、そういう結果になってしまったということに考慮がいかなくなってしまっているパターンというのは往々にしてあるようです。
創価学会と日蓮正宗が一体だった時に、創価学会員が350億円も出して作った正本堂を、前代の法主であった日顕は、10億円もかけて破壊したようです。

創価学会の人はかなりの無念だったのは間違いないです。
そんな大金をかけて作ったにもかかわらず無為に壊して更地にする。
こんな輩は、死後、当然地獄に落ちているのは間違いないです。
日顕が、死後、今では地獄の中を彷徨っていることは間違いないでしょう。
そんな法主だったにもかかわらず、日顕に依然として従い続けていた人がたとえかつての2%といえども、いたのが私には信じれませんでした。
そのことを私が出した電子書籍で批判しました。
それを買って読んだ某女性が、「日顕上人が嫉妬や見栄えで行動する人とは到底思えません」だの「事実無根の情報が多すぎ」などと言って批判しているのです。

日顕
自分の属する団体の出す機関雑誌や機関新聞だけを拠り所にして、それまで知らなかったことに関してはデマだなどというニュアンスの言葉を吐いて信じない…古今東西こういう人は少なからずいるもので、それに逐一落胆している暇はないですが…でも、事実無根ではないので、こういう言葉は書かないでほしいですね(苦笑)
こういう法主はもちろん、住職も、日蓮正宗という「高尚な」宗教を信奉していても出てきてしまうのですから、敢然と批判をしていかなくてはならないのは言うまでないことです。
無批判でいていいわけはないのです。
それで変わらないのであるならば、その寺院の信徒は辞めるべきなのです。
そうでなければ、その堕落した坊主に賛同していることになるのですから。
それがたとえ日蓮大聖人が言ったことに反することになってもです。
先に、私は日蓮が聖徳太子の言葉を拝借し、それを装飾して御書に言葉をしたためたことを指摘しました。
また天台宗の総本山である延暦寺においても遊学したがゆえに、日蓮正宗系の人たちが毎日唱えている方便自我偈はそっくりそのまま天台宗から借用したのです日蓮は。
嘘と思うのならば、天台宗の経本を買って確認してみるのがいいでしょう。
その他、日蓮は様々な宗教を遊学していって、その中で自分には必要と思われる部分は取り入れて、そうでないものは捨てて自分の宗教体系を作り上げたのです。

まさに、守破離なのです。
その守破離を一般人もしていったらいいだろうというのが私の意見です。
なぜ日蓮のセンスと自分のは違うのに、そのまましたがわなくてはいけないのでしょうか?
従わなくてはならない絶対的な理由を言ってもらいたいものです。
それで私が屈服したら、日蓮正宗系の信者になろうではないですか!(笑)
ただし、自分で行った守破離については、自分で責任は取る所存なのは言うまでもないです。
物事が上手くいかなかった…これは日蓮に帰依しなかったからだ、などという風には考えないです私は。
何もかも日蓮に縋っていれば上手くいくし、最善の方法に巡り合えるなどというのは幻想にしか過ぎないのです。
そんな幻想に従うことはできた話ではないのです、私は(笑)
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その結果、自分たちは幸福な生活を送れているんだという気持ちで、信者たちは供養金をその寺に渡すのだそうです。
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されば、三宝の恩を報じ給うべし」
これにより、僧侶たちは尊崇の対象になったのです。
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それは、何か?
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それがたとえ日蓮大聖人が言ったことに反することになってもです。
先に、私は日蓮が聖徳太子の言葉を拝借し、それを装飾して御書に言葉をしたためたことを指摘しました。
また天台宗の総本山である延暦寺においても遊学したがゆえに、日蓮正宗系の人たちが毎日唱えている方便自我偈はそっくりそのまま天台宗から借用したのです日蓮は。
嘘と思うのならば、天台宗の経本を買って確認してみるのがいいでしょう。
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まさに、守破離なのです。
その守破離を一般人もしていったらいいだろうというのが私の意見です。
なぜ日蓮のセンスと自分のは違うのに、そのまましたがわなくてはいけないのでしょうか?
従わなくてはならない絶対的な理由を言ってもらいたいものです。
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日蓮正宗系の団体に入って、題目を上げて勤行していれば万事うまく行く…ありえないです。ではどうすればいい?


日蓮正宗の信徒団体だった創価学会は、91年にその正宗から破門処分にされてしまいます。
それから10年後に、私は創価学会に知人を通して入ることにしました。
「この団体こそが世界最高峰の宗教団体だ!」と信者の人たちが言うものですから。
しかし、入ってからその機関紙である聖教新聞を読み続け、講演に話しを聞きに行くも、毎回毎回同じようなことを言っているだけで、特に学ぶものがないと感じたので、新聞の購読も停止し、講演にも全くいかなくなりました。

その新聞や講演で言われていることは、とにかく題目を上げて、学会活動を重ねることで人は幸せになれるんだ、ということでした。
しかし、日蓮正宗の開祖である日蓮が、そういうことを言ったのかどうかを、日蓮の遺した『御書』を紐解いて読んで、その真偽を確かめることをすべきでしょうが、私にはそういうモチベーションも上がらないし、特に興味はないのです(笑)。
大学に入って科学というモノに目覚めた私は、いろんな分野の本を乱読することで、いろんなものが学べる、ということを知ったので、1つの教祖の言ったことをとにかく深く勉強していくという気にはなれないのですね。
そうではなく、いろんな分野の本をとにかく沢山よむ、それで解決の糸口を見つけることができ、それに沿った方法を実践していくことで、その打開を図ることができるのです。
ゆえに、1つの宗教にだけぞっこんにはなれない、というのが正直なところです。
もしかしたら、日蓮は生前に『御書』において「ただ題目を上げていけば、それで問題はすべて解決する」と書いたかもしれないですし、書いていないかもしれないです。
その是非を探していく、という気にはなれないのです。
ただ私のこれまでの人生からして、そういった「ただ題目を上げていけば、それで問題はすべて解決する」という暴論は全然信じれないですし、勧めたくはないのが正直なところです。
例えば、大学受験を考えてみましょう。
夏休みの少し前に大学受験勉強を始め、それで学習院大学に現役合格した女性の体験談が、その赤本に載っていましたが、私のような底辺高校出身の受験生には考えれなかった事態です。
この女性の高校は、まさに進学校で高校の1年から大学受験に向けたカリキュラムも組まれて、それむけの教科書を使い、小刻みに小テストを行っていたのだだそうです。

ゆえに、高校3年の夏休み前から受験勉強を始めても現役合格することが可能だったのです。
しかし、私の所属した高校は大学への進学は卒業生の1割にも満たなかったほどの底辺高校だったがゆえに、大学受験へのカリキュラムなど一切なかったし、教科書もごく基礎的なことしか書いていないモノを使用していたのです。
そのような高校の人が、進学校の人と同じことをしていては合格などおぼつかなかったのは言うまでもなかったです。
やはり、出発点がちがうのです。
そういう奥深い考察が必要なのです。
その出発点が違うのに、題目をあげて勤行をしていれば幸せになれると吹聴すること自体が誤りなのは言うまでもないでしょう。
自分や他人の人生を向上させたいと願うならば、多岐にわたる自己分析をしていきながら、それにかなった方法を実践していくことが最優先になるです。
私のような底辺高校の人が、漫然と受験勉強をして、題目を上げて、勤行をしていけば大学に現役合格したのでしょうか?
そんなことは絶対にないですよね?
でも、多くの創価学会員は、それが可能と信じて疑わない(笑)。
ちょっと理解できないですよね?
また、先祖供養は日蓮正宗系の団体がしている勤行の中の祈念文の中でも重要な位置を占めています。
しかし、本尊を飾った厨子の前に座って、それを拝みながら、勤行や題目上げをしていればいいのでしょうか?
そんなことはないのです。

線香は貧乏神を退散させる働きがある。
しかも、鈴の音も貧乏神を退散させる働きがあるのです。
ろうそくに火をともすことで、先祖供養に役立つのです。
しかし、信心こそが大事とばかりに、こういったことを排除して、厨子と本尊だけ安置して、題目と勤行をおこなっても何もいいことは起こらないし、霊の悪い働きに悩まされたりするのは言うまでもないです。
こういう勤行をしている人は要注意です!
学会に入って信心しているにもかかわらず、好転しない人は、こういったことを一度見直してしかるべきなのです。
家庭は、借金苦、ギャンブル狂いの人がいる、リストラされた人がいる、家に幽霊がいる…そんなパターンばかりです、という経験談がYouTube動画をみたことがありますが、そういうことに思い当たる人は、こういった点を見直す必要があるのです。

大事なのは、個別にその人の状態を分析し、打開するための大事な行動を日々することでしょう?
偏差値60台の大学に現役で合格した人の体験談では夏休みちょっと前からの勉強でかなった。
私の高校でこんなでは絶対にかなわなかったのです(笑)。
進学校では1年時から大学受験向けの教科書を使い、英単語や熟語を覚えさせたり、国語では古文の助動詞や古語を暗記させたりしていると聞きました。
それゆえに、この時期からの勉強で現役合格がかなった。
例えば、夫婦2人とも創価学会に入っていて、自分を誇りに思えて人を貶すことがばかばかしいという世界観で生きていて互いに励ましあい、褒めあって仲がいいという例があるとしましょう。
その人たちはなぜ、仲良くしていられるのでしょうか?

その逆に、互いに自分を誇りに思えずに、貶しあいながら生活している夫婦があるとしましょう。
なぜこうなってしまうのでしょう?
それを解明していくには、この夫婦の精神分析からしていく必要があるのです。
その人たちの幼少からの家族関係までをも分析して、打開の方法を考えて行動していくのが大事なのです。
前者の夫婦を見習って学会に入り必死に勤行だけ…これでは叶うはずはないのです!
そもそもの出発点が違うのですから。
また創価学会ではなく、日蓮正宗に行くことでも、顕正会に行くことでもないのです。
そういった右往左往していくだけの方法にはうんざりしているのです私は(笑)。
その分析の内容は?
興味ある人は、以下の本を読んでくださいませ。
きっと目の覚める方法論が書いてあると断言します。
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『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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現代は宗教を雑種的に学べる。その雑種性こそが、盤石な自分の哲学を構築することができる?


仏教は、いろんな宗派があり、それぞれ違う死生観や宗教観を持っているので、どれが本物なのかはわかりかねるという問題がありますね。
「死んでもまた生まれながら、肉体は変わっても霊魂そのものは、どこまでも生き続ける。
しかし、その中でこの現世に生きている間の行状の良し悪しによって、業というものが作られる。
そうした業によって人間がこの次に現世に生まれてきた時の運命、幸不幸があらかじめ定められる。
そうした因果関係が働く。」
仏教というのは主にこんな感じの宗教観ですね。
あの世も措定して、今の人間の生活を見直し新たに規定して人生を送ることでいい人生が送れるということであれば、やはり宗教について学ぶのは有益なことでしょう。

そういうあの世といったものに関して、私が一時期入っていた創価学会では全く講議されることがなかったので拍子抜けしたのです。
創価学会は日蓮系の団体です。
講演においても、新聞においても書かれていなかったのです。
それは私がとっていた聖教新聞をくまなく読んでいたので間違いはないです。
宗教というからには、あの世のことも列挙して、自分が何をしなければならないかをも提示しなければならない。
それが宗教の役目であることと思っていたのです。
そうなってしまったのには2つの理由が考えられます。
1つは、今の社会であの世とかいったものに関して講義するといぶかし気に思われて信者に聞いてもらえないから、あえて講義しない。
もう1つは、開祖.日蓮大聖人(下写真)が、あの世といった世界に行く能力がなかったから日蓮の遺した御書にも書かれていない。ゆえに講義しようにも講議できない。

もしかしたら、開祖.日蓮大聖人は、あの世へも行けて、そのことについて書いているのかもしれないですね。
それは日蓮の遺した『御書』を全部読んだわけではないので確認はできていないです。
ならば買って読めばいいじゃないか、と反論されそうですが、その検証をしている時間もお金も私にはないのです。
たくさんの読みたい本のリストがありますし、あの世というものについて書かれた本が日蓮関係でなくとも学べますから。
このように人のよって立つ情報というものは、中途半端で雑種になってしまうのは致し方ないでしょう。
私がどうしても日蓮以外に拠りたい教祖はいない、という衝動にかられたのであれば、一途になっていくでしょうが、これまで何百と創価学会の新聞や講演を聞いてきてもそういう衝動にかられたことはなかったのですから。
同じく日蓮系である顕正会の新聞も読んで、その講演も聞いてきても同様の結果でした。
でも、あの世とかいったものに関しては知って、そしてそれに適当に順道する今現在での生活態度を規定していかなくてはならないと心底思うのですね。
なら、他のあの世について書かれた本として適度なものと思われる例を探して、それを読むほかないでしょう。
「この現世は、いつか必ず改造される。
その時に神の国の民たるにふさわしい人間。そうした神の国の民たるにふさわしい人間と認められることがなによりも救いの第一歩。
輪廻の無常から脱却して安らぎを得る。」
これは、空海(下写真)の世界観を書いたものですが、日蓮とは違って仏教だけでなく、神のことも考慮に入れているのですね。

現世での人間の行いがあの世での生き方を規定する、ということでしょう。
ゆえに地獄に行きたくなかったら、今の世で品方公正に生きていかなくてはならないでしょう。
こういう面でも、あの世について学ぶ必要性があるのがわかるでしょう?
「先業の重き今生に尽きずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候えば、地獄の苦しみぱっと消えて」…これは日蓮の言葉ですが、前世での業がこの世で受ける。
それを受けないように南無妙法蓮華経と唱える必要がある。
そうすれば、前世の業を消滅させることができるとしたのです。
あの世や前世といったものに関して日蓮が言及した数少ない箇所の1つですね。
この例では、空海や日蓮という2人の上人によって、多面的にあの世そして現世での生き方を学ぶことができましたが、果たして日蓮だけの教えを学ぶだけで正確に学ぶことができるのだろうか、という疑問がわくのです。
好奇心旺盛な人であれば、1人の開祖の本だけでなくいろんな開祖の本を読む。
そのことで、雑種ではあるけれど多面的に学んでいき盤石性を築くことができるのです。

日蓮は6人の弟子をもち、そのうちの日興上人だけが、日蓮の言ったことだけを忠実に信徒たちに教えて広宣流布を展開していったのです。
それが日蓮正宗ですが、他の5人は日蓮の言ったことだけでなく、神道や儒教といったものもどん欲に取り入れて布教を展開していったのです。
それが日蓮宗という団体になります。
日蓮正宗系の団体は、こういう日蓮宗の行きたかたを非難しているのです。
私は、日蓮の言ったことだけを拠り所にしていけば万全というのであれば、それでもいいとは思いますが、それを確かめるべく日蓮の遺した書物をすべて読破していくことはできないのです。
他にも読みたい本が何百とありますから。
ゆえに、知りたい部分に関しては他の本などを調べたりすることで、確認するということになってしまうのです。
いわゆる雑種という状態になってしまうのですね。
しかし、それでいいのではないかと思われてならないのですね。
人の脳内の情報はどれも雑種だし、「この開祖の教えだけで絶対に大丈夫だ」という絶対的な根拠があればそれに従いますが、それが今のところ確認できないのだから、今のままでいいとは思うのです。

創価学会の新聞である聖教新聞に書いてあった一節を以下、紹介します。
「汝、すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を祈るべきかな」
これは「あなたは、一身の安泰を願うなら、まず世の静穏、平和を願うべきである」という意味です。
一見難しそうな文言ですが、この程度のことは!(笑)と笑いがこみあげてきます。
大事なこととは思いますが、他の本でわかるし、知れることなのです。
この程度のことをわざわざ引用して説明することで、世のなかは安逸に暮らせるという印象を持たせることが創価学会の目的なのでしょうか?
実際はそうではないですし、心をイージーモードにすることが目的と思われてならないです。
確かに、人が落ち込んでいるときに励ますことは大事でしょう。
しかし、きちんと内容を分析して、その具体的な克服法を析出することのほうがもっと大事なのです。
いたずらに楽観的な気分にさせることだけが目的であってはならないでしょう。
日蓮の生きた鎌倉時代に言われていたことすべてが今通用するわけではないですし、捨てるべき面はやはり捨てないといけないですし、物事を科学的、理論的な方法で分析して、物事の克服をめざすことが一番理にかなっているのです。

確かに神や仏は存在するが、しかしそれらだけに依拠するのは危険ということです。
そんな私のスタンスに共鳴できる人にお勧めなのが以下の本です。
興味ある方は読むのがいいでしょう!
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文字嫌いが社会の大半を占める、それに着目した宗教が大宗教になった?


現代においては思想信条は、本人の自由とされています。
憲法で保証されているのです。
ゆえに、公共の福祉に反しなければ、どのような考えを持とうが自由なのです。
自分の意思で自由を謳歌していくのが筋ということでしょうし、どのような思想や信条を形成していくかは本人に任せていくべきなのです。
しかし、事、宗教内においては、それが保てなくなる場所になっていく危険性があるのです。
いや最終的に、思想を形成していくのは本人なのですから、こういういい方は若干誤りかとは思います。
そのことを譲歩して論を進めていきたいと思います。
自分の思想信条を形作っていく材料になるのは、やはり文字を媒体とした本が一番有効でしょう。

その他、新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、インターネットなど、いろんな媒体に接することで、それを取り入れて自分の思想を形作るものなのです。
わたしは、大学に入った時に、好奇心旺盛でいろんな論文の本を読むようになりました。
それまでは小説の類のものばかりでしたが、ある時論文の本を読み、明快に主張が書かれていることに潔さを感じて、それにひかれていろんなジャンルの本を読むようになりました。
そういう似たような過程を通じて、誰もが自分のモラルは形成されていくのです。
人によって、接して、そして取り入れてきた情報は千差万別…ゆえに、人の思想信条は人によって違ったものに変わってくるのが必然です。
しかし、宗教内において言われていることを信者は、全部鵜呑みにして、それを自己のモラルにしてしまうことが往々にしてあるのが不思議でした。
私は母親が創価学会員だったことで、周りの学会員から話されて、創価学会に入らないかと持ちかけられて、「創価学会こそが世界最高峰の宗教だ!」といわれていたので、入ることにしました。
しかし、新聞や講演で言われていることは毎回毎回一緒で、味気ないと感じた私は学会からは遠ざかり疎遠になりました。

世界最高峰の宗教が聞いてあきれました(笑)
その入った時に思ったのは「なんで学会員たちは、新聞や講演で話されていることを吟味せずに肯定してしまうのだろう?」とか「自分で吟味して立候補者を選ぶべきなのに、なぜ誰もが公明党議員に入れるのだろう?」といったことですね。
そして何度も学会員に接していくことで分かったのは、ここにいる人たちは、文字嫌いだということですね。
文字嫌いゆえに、創価の新聞や冊子しか読まない。
そして、そこらで書かれていることしか信じない、ということですね。
立場の異なる人の意見を取り入れて、自身の脳で考えて自分のモラルにする、という市民ならだれでもすべき作業を怠っているのですね。

ゆえに、学会で素晴らしいと言われている公明党議員に投票する。
これでは真の市民社会を築くことはできないでしょう。
ことは大きな宗教ならば、どこでも同じような事態なのでしょうということが、観て取れます。
日蓮正宗の信徒団体だった創価学会は、その正宗から破門にされ、同じく信徒団体だった顕正会も破門にされているのです。
その顕正会の知り合いでも、やはり日蓮に関する本や冊子しか読んでいない。
ゆえに、日蓮だけにぞっこんになる。
確かに日蓮の遺した書物は膨大なものであり、それを読破するだけで大変な作業であることは認めます。
しかし、それだけでは真実は見えてこないです。
他の仏教宗派のことも勉強していかなければ、真実は見えてこないでしょう。
その宗教が一番素晴らしいというのならば、その他の宗派との多くの比較の上で論じなければ、誰も説得できないでしょうし、現に私がそうでした。
その宗教だけ見ていれば、それが最高と思えるようになるのは必然です。
しかし、一歩そこからはみ出て、いろんな宗教について知ることが大事です。
すると、その宗教だけが素晴らしいことを言っていたり、素晴らしい思想を掲げているるのではないことが一目瞭然で分かるはずです。
しかし、そういう作業をしている創価学会員、顕正会員を見たことがないいのですね。
選挙でもそうです。
公明党議員も確かに素晴らしいと思われる公約を掲げているのは確かです。
しかし、他の政党の議員も同じように素晴らしいことを、いな、それ以上に素晴らしいことを言っていることは確かなのです。
それなのに、その議員に入れずに公明党議員だけに入れる。
これでは民主主義の意味がないのです。
直接国民が全員集まって、議論を重ねて法案を出し可決するなどということは現代社会では無理です。
いろんな理由で。
それゆえに、自分がいいと思う、自分の思いを託せると思った議員に投票して、その思いを実現してもらう。
これが間接民主主義の理念であるはずが、創価学会をぼたいにしてできた公明党の議員だけにしか学会員は投票しないというのであれば、間接民主主義の理念が形骸化しているのは言うまでもないことです。

たしかに、その公明党議員に投票するのは強制ではないし、強制されたわけでもないです。
ただし、学会員によって電話が来たり、学会員が私の家まで来て「投票しに行こう!」などといわれたこともありました。
それでも私は公明党議員に入れたことはほとんどありませんでした(笑)
立候補者全員の声明文が書かれた紙をくまなく読んで、自分の思いと一致する人を選んできました。
それが基本と思うからですね。
しかし創価学会員は、そういう知的な作業を怠っているのです。
それはなぜか?
先に指摘したように文字嫌いだからですね。
だから学会について書いた文物しか読まないで、これが真実と思ってしまう。
これは明らかに私のモラルと反するので、人には勧めないですし、私自身そうしようとも思いません。
しかし、これの理由というか原因はいろんな本を読んでいけば出くわして納得できる論にいきつくかもしれないです。

それは19世紀に生きた某哲学者の言葉ですね。
その人の言ったことは古今東西、変わらぬ事実なのです。
要約すれば、世の中は文字嫌いが大半を占めている、ということですね。
それはいまも昔も未来もそうということです。
それゆえに、世の中の多数派である文字嫌いが納得できる宗教の講義にすることが功を奏して、創価学会がこのような大きな団体になったのだということが納得できるわけです。
これだけ信じていればいいという宗教のほうが、あれもこれも学んでいくべきだとする宗教よりもウケがいいのは明白です。
私は、アレもこれも学んで行きたい、というモラルゆえに、そういうスタンスには与することができないのですね。
創価学会を世界最高峰の宗教と私にいった人は、単にその信者の多さを逆手に取っていただけのことだったのがわかりました。
自分には非常に味気ない宗教でした創価学会は(笑)
もちろん、顕正会もです。
同じ日蓮正宗系の団体ですが、新聞や講演で言われていることは、やはり毎回毎回同じ内容。

ゆえに、聞いていて5分か10分で席を立ちたくなるのです。
しかし、この団体は国内で300万世帯にまで広がっているようです。
それは、毎回違うことを言われるよりも、毎回同じことを言っているほうがウケがいいからでしょう。
それのほうが大衆受けして信者獲得に有利なのです。
その結果、やはり自分の意見を持つ人が少ないし、新聞や講演で言われていることが真実と断定して、それに反論することがまずないのです。
しかし、どんなに創価学会や顕正会が大きな団体になっても、私はこれらの団体に与することはしないでしょう。
いろんな本を読み、いろんな情報に接していくことのほうが断然有意義ですし、愉しい時間が過ごせるからですね。
「日蓮諸宗派が釈尊を本仏とし、大聖人は釈尊の弟子、上行菩薩の再誕に過ぎないとみるのは謗法であり…」というのは、顕正会の講演で話した信者の言葉です。
顕正会では、日蓮こそが至高の存在であり、これ以外を奉ることはけしからんとしていた故.

他のいろんな情報を取り入れたうえで、脳内で自分で思考錯誤しないままに。
私は、釈迦がいなければ仏教も生まれなかったし、当然、日蓮が自身の宗教を開始することもできなかった話しです。
ゆえに、釈迦を上位においているのです。

日蓮正宗ならぬ日蓮宗では、宗派によっては釈迦のほうを上位においているパターンも当然あります。
しかし、顕正会員は逆においているのです。
それは、やはり顕正会員は日蓮の言ったことだけを勉強しているから、必然ですが、それではあまりに視野狭窄の観は否めないです。
それは、その人の選んだ道ですから、私がどうこう言うわけではないですが、私はそういう気にはなれないというだけでのことです。
そんなスタンスに共鳴できる人にお勧めなのが、以下の電子書籍になります。
1つのことだけに拘泥しないで、いろんなものをどん欲に追及していくことに幸せを感じるのならば、それを読むことで心晴れやかになることは間違いないでしょう。
真理なるものは誰にも到達できるものではないです。
しかし、いろんな視覚から、そして深く追及いていくことで、それに近づくことができるのは明白です。
そういう道を目指したい人は是非とも勧めたいです。
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宗教においては決別は必然。宗教幹部たちだけでなく末端信者においてもいざこざがあった?



日蓮正宗の信徒団体だった創価学会は、1991年にその正宗から破門にされたのは周知の事実です。
それは、あまりに両者の言い分が食い違ってきていたのがものすごく顕在化して、ついにはたがい違いになってしまったのが原因のようです。
日蓮正宗にいた人たちの僧侶の集団で憂宗同盟というものがあって、そのひとたちによって書かれた『偽法主.日顕』という本を読むと、非常にわかりやすく、その経緯を知ることができました。
生前に開祖.日蓮が、「仏法僧を敬え」としたにもかかわらず、創価学会は、その姿勢を見せないのみならず、「学会葬」として自分たちだけで葬式をあげてしまい僧侶を呼んでいない。
日蓮の言ったことには、僧が世俗よりも先に立てられなければならないにもかかわらず、学会ではその立場が転倒している。
これが、当時の法主であった日顕(下写真)の言い分でありました。

学会としては、その「仏法僧を敬え」とした言葉を盾に、堕落した坊主たちの怠慢ぶりや寺院の杜撰な経営ぶりに反旗を翻したということで、学会の幹部たちによる正宗への申し立てを幾分かしていたようです。
こういった相容れない両者を引き裂くべく、日蓮正宗ではいろんな策略がこなされていたのが、その本で分かります。
以下、日顕が施した内容を見てみましょう。
明治33年~平成17年の間で、宗門宗規は33回変わりましたが、うち20回が日顕が替えた。
学会員を締め出すために、以下のような料金設定にしたようです。
90年に施された内容は以下です。
御本尊下付 2000円から3000円
塔婆 1000円から2000円
永代供養料 100000円から200000円
大過去帳記入代金 5万から10万
また、91年に施された内容は以下です。
内拝券冥加料 1600円から2300円
食事代 1100円から1500円
学会に供養収奪してるのがわかります。
しかし、日蓮正宗は、創価学会を切ったことで、大幅に信者数の激減の憂き目にあっているのです。

信者数は、1945年の時点から数えて、現在ではその2%にまで激減しているようです。
それは、その『偽法主.日顕』によって知ることができますし、創価の機関紙である『聖教新聞』にも書いてあったことなので、間違いはないでしょう。
日顕は収入が激減する中、戒壇の大御本尊を営利の具として、付け願いまで許して御開扉料稼ぎに狂奔しているのです。
日顕は、「大石寺に参詣しないと功徳はない」「御本尊を拝さなければ功徳はない」という発言をしていたそうですが、これらは誤りです。
大石寺参詣は宗門本来の教義にはないし、創価学会2代会長の戸田氏が大石寺復興のために戦後において始めただけです。
昔は各家庭に本尊はなく、遥拝勤行があたりまえだったのです。
こういう事実を本で読むと、日顕が悪者のような感じがします。
ただ、私は対立している両者のうち、片方だけの言い分を聞いて物事を判断するのは妥当ではない、という立場ゆえに、両者の言い分を本なりを読んで論じるのが公平と思うのです。
日顕の立場も当然理解していかなくてはいけないし、その著である『池田大作、創価学会に騙されるな』という本も読みました。

そこでは、創価学会をやめていった人の体験談も読むことができました。
海外でのその様子も知ることができました。
その体験談では、「創価学会の人たちは、私を貧乏人といってバカにするのです」とか「学会の幹部の人たちは、私たちには横柄な態度で接するのに池田大作氏が来たとたん急に池田氏にこびへつらうのです」とか「創価の絵画展のチケットを無理やり売らせようとしていたのです」といった、実に目を覆いたくなる事実が隠されていたようです。
こういう実態を目にしていた人たちが、日蓮正宗と創価学会とが決別する際に、当然日蓮正宗に行ったのは間違いないでしょう。
これを見ると、やはりそれぞれの組織、日蓮正宗と創価学会の長たちの意見の食い違いだけでなく、信者たちにおいてもいざこざが絶えなかったのがわかります。
それを鑑みると、どんな宗教においても人間性の低いままでいる人は必ず存在する、ということがわかります。
しかし、概して宗教に入る人は人の心を重んじる人が多いです。
しかし、創価学会の人で、貧乏人といってバカにしたり、人によって態度をころっと変える人がいるとは驚きでした。
そういう体験談を読むと「宗教にはいっても人を蔑ろにする人はいるんだ!」と驚愕な思いになったのでした。

そういう人を蔑ろにする人たちと一緒にいつまでも一緒にいたいと思うはずもなく、正宗と創価学会が決別する際に創価学会を辞めたのはうなづけるでしょう。
そういう例はどんな宗教にもあるものです。
ゆえに、「人を蔑ろにする人がいない宗教は?」と聞かれても、「そんな宗教はない」と答えるしかないでしょう(笑)
ゆえに、いい人ばかりの宗教に巡り合えるかどうかは運と、自分の対人の姿勢にあるとしか言いようがないのです。
こういう経験談を読むと、宗教によって人を根本から変えることはできないんだなあということわかりました。
ならどうするか?
宗教以外に解決法を求めるしかないでしょう。
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