加藤秀俊とサンドウィッチマンの共通点とは?学者と芸人の適正は同じ? (加藤秀俊)
こんにちは。
本をむさぼるように読む人というのは、好奇心が旺盛だからですね。
本を読むのは、教養として当然といって高校時代に、月に1冊以上本を読んでいた人も、大学に入ると全然読まなくなるパターンは往往にしてあります。
この理由は、その人たちは、大学受験のプラス要素になるから読んでいただけのことであって、受験が済んでしまえば、もう読書など用なしということだったようです。

どんな人生を歩もうがその人の自由ですが、私はちょっと哀しい思いです、読書好きなだけに…。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、好奇心が旺盛だった人のようで、大学生時代には本を1日に1冊読むことを自分に課していたようです。
それを大学院生時代以降も、ずっと維持していたようで、その継続によって得た懐の深さは、氏の本をランダムに読んでもわかります。
そういう人の本はいろんな知識が含有されていることもさることながら、それらの膨大な知識から醸造された理論が得られることが大いにありますから、いつまでも本棚にしまっていつでも読めるように私はしているのです。
そういう人が人生で1人でもいれば、その人は幸せになれるのではないか、とそんな気がしてならないのですね。
いろんな知識があったのは、やはり常日頃から本を読んでいたからであり、そしてあくなき好奇心があったからでしょう。
本を読んでいると、必ず未知の事柄に出くわします。
その名はどんな由来か?
それはどういう意味か?
こういったことを探索していくと、他の思いがけない事柄と関連があったりするのです。
それを論文として書き連ねていくのです。
その発見の面白さを体感すると、やはり学問の面白さにはまり、その道に人生をかけたくなるのです。
ゆえに、加藤氏(下写真)は、興味のある事柄をとことんまで、調べ、その内情を明らかにし、身近な問題として明らかにし、その内容を一般人に切実な問題として問いかけていたのです。
学問と聞くと、何やら難しい問題を取り扱ったもので、一般人には近づきがたい印象を与え勝ちですが、そんなことはないのです。
誰でも扱えることだし、学ぶのは可能なことなのです。
そのスタンスはお笑いコントのコンビであるサンドウィッチマンと共通するものを感じたものです。
『パソコン教室』という表題のコントが動画としてアップされていますが、それは、まず体験入学に来た客役の伊達氏が来客した場面から始まります。
ここでそのパソコン教室の名前からして笑ってしまいます。
「パソコン教室アービバ.ビバ」となっています。
パソコン教室といえばアビバが有名ですが、それを借用したのでしょう。
しかし、「アービバビバ」とは、かつてドリフターズの深夜番組だった『8時だよ、全員集合!』のエンディングテーマの歌で「アービバビバ」というフレーズがあったのです。
それを結びつけるところがセンスがいいともわざるを得ないのです。
そして向かいいれた講師役の富沢氏が、伊達氏を机に座らせてパソコンを指導します。
そこでクリックを教えます。
そこで言うのは「1回でワンクリック、2回でダブルクリック、3回でハットトリックとなります」という言葉に、会場はどよめきます。
ハットトリックとはサッカーの試合で、1人で3点ゴールを入れることをいうことですが、それを使用したのでしょう。
「クリック」という言葉に似たようなトリックという言葉が重なったのでしょう。
それで、このようなギャグを盛りいれたのでしょう。
そしてメールで気を付けることを講師役の富沢氏が「メールの際に気を付けてほしいのが、知らないアドレスから来たメールが来たら無暗に開かないようにしてほしいんですね。ものによってはパソコンが止まってしまったり、壊れてしまう可能性があるんですね。これをブルースウィルスというんですね!」というとまたざわめきが起こります。
コンピューターウィルスが通常ですが、ブルース.ウィルスとはアメリカの俳優の名です。
それにかけたのでしょう。
こういうモジリがサンドウィッチマン(下写真)の面白さの基本になりますが、その他の面白さの性質について興味がある人はユーチューブで確認するのがいいでしょう。
巷に転がっている何気ない言葉を人を面白がらせるようにお笑いに結びつけてコントにする。
こういう思考がサンドウィッチマンのコントの面白さの基本になっているのです。
これは、学者といわれる人が机に座っていきなり論じる情報や、思考を得て、そこから一気に論文や本を書いてしまおう!と意気込んでみても可能なことではないのと一緒なのです。
常日ごろから、読書していたり、新聞や資料を読んでいる時に、自分が書こうと思っている論文や本の題材に使えそうな情報がいきなり出くわしてきたりする際に、すぐさまチェックを入れておいて、のちにそれを整理しておくことで可能になるのです。
外山滋比古氏の書いた『知的創造のヒント』という本を読むと、氏はいつもノートとペンを携えていて、道を歩いている時などに、情報にでくわしたり、思考が浮かんだりしたときに、すぐさま書き取ってしまう、ということでした。
こういう作業は後になってやろうと思っても、やはり忘れやすい性質をもっているのです。
私は、本を読んでいる時に、いい情報に出くわしても「次の論文に使えそうだな、参考になりそうだな、しかし読後にチェックすればいいでしょう」とたかをくくって読むことだけに集中して、後になってその箇所を探しても、まるで行方不明になり、もう一度その本を読みなおす羽目になったことが何度もあったがゆえに、この外山氏(下写真)の意見には賛同するものです。
そういった知的な積み重ねが論文になり本になるのです。
他の本からの引用と味気ないコメントだけを書けばいいとしている他の人たちとは違うのです。
こういう引用ばかりの本を読んでも、非常につまらないですし、知的生産とは程遠いですし、読んだ人に感銘を与えることは出来た話しではないのです。
ロックを含めた音楽家にも同じことがわかります。
知り合いのミュージシャンに「作曲はどうやってしているのですか?」と質問したところ、「思い浮かんだフレーズや歌詞が浮かんだら、すぐさま家の電話にかけて、留守電メッセージにそれを録音してしまう」ということでした。
それを聞いて、学者も音楽家も、すべきことは一緒だな、と思ったものです。
音楽雑誌を読むと大抵、どのミュージシャンも何も書かれていない生の楽譜を携えていて、フレーズやリフや歌詞を思いついたらすぐさまそこに書いてしまう、ということが話されています。
やはり、後で書こうと思っても、その時浮かんだものは忘れてしまう、ということでした。
これは普通の企業務めの人とは精神内容も、仕事内容も大きく異なるということがわかります。
企業務めの人は、業務に必要のことをすぐさま覚えて業務を遂行する。
自分で考えたり、思ったことをほとんどかそっくりそのまま使うことによってネタになり、それが収入につながるということはまずないのです。
しかし、学者や音楽家は、そういって日ごろから積み重ねたものが収入につながるということです。
その愉しみを体感したからこそ、音楽家や学者を志したのでしょう、それらの道を目指した人は。
それは芸人にも言えることでしょう。
ゆえに、その面白さを味わったサンドウィッチマンの2人は芸人を志したのです。
ゆえに、富沢氏は「自分はサラリーマンは務まらない。サラリーマンにはなりたくない」として芸人を目指したのだといいます。
コントネタのほとんどは富沢氏のペンになります。
やはり、一般企業に勤める人は、そういうものに意義をあまり見いだせないのでしょう。
だから企業務めを選択したのでしょう。
しかし、企業務めの人は、それについては全然誇りにすべきでしょう。
学者や音楽家や芸人は全体から見てかなり少数派ですが、それは脳内思考の違いでしょう。
しかし誰もが永続的に稼げるわけでもなく、一時的に受けて大金が入ってきても、ネタが途絶えてしまえば、たちまち収入の道はゼロになります。
しかし、途絶えなければいいというのであれば、普段から使えそうなものをピックアップしていかなくてはならない、ということです。
いつも神経を尖らせて、使えそうなネタがあったらすぐさまピックアップしていけばいいだけのことでしょう。
しかし、それが可能な人とそうでない人はやはりいるものです。
後者の方だと思った人は企業務めを選択すればいいでしょう。
こういった内情を見て、どういった道を志すべきなのかを大学生は就職先を吟味していくべきでしょう。
一般企業に勤めるべきなのか、学者を目指すべきなのか、芸人や音楽家を目指すべきなのか、その他の道を選択すべきなのか、をじっくり吟味することをお勧めします。
やはり職業については、向き不向きがあるので、単に目指そうと思っても適正のない人は務まらないことは、この文章で分かると思います。
●今回の内容について興味の沸いた人は以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
目的意識を持って生活していかないと、重要な情報や発想は逃げてしまう?それでも大学教授は態度を改めない!(笑) (加藤秀俊)
こんにちは。
大学は、何かと賛否両論の出る場所です。
かなりいい加減な学生や、教授が多いということです。
そのことは、何となく気付いていましたが、私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)も本の中で書いてあるのを見て、確信に変わりました。
やはりかなりいい加減な場所なんだなということです。
日本中に名をはせている教授もいるのに反し、授業もいい加減で、研究らしい研究をしないで35年間の教授生活を全うするだけで終わってしまう例もあります。
いな、後者の方が圧倒的に多いのではないでしょうか?
教授の人は1週間で5つくらいでしょうか、受け持つ授業は?
その間に、何をしようが自由なわけです。
その空いた時間で何をしようとするかは、完全に裁量に任せられているのです。
研究に没頭するもよし、ボケっとしているのもよし(笑)、ぼ〜っとしているのもよし(笑)、旅行に行くのもよし(笑)、と何かと自由なのです。
もしも、高校の先生や予備校の先生が、こんな態度であったら、即座にクビでしょう。
しかし、そんな教授の生活態度を審査することなく、学生の親御さんたちは、卒業させたいがゆえに、大金を払って大学に行かせるのです。
ゆえに、研究らしい研究もせずに、毎年毎年、同じ講義ノートを読んでいるだけというパターンも多く散見するのです。
まさに大学教授のいる大学は職業天国なのです。
そんないい加減な態度に多くの学生が怒って、大学を辞めれば事態は変わるのが必至ですが、実際は審査することなく、いい加減な態度でも、何とか卒業しようとするのです。
ゆえに、いくら大学改革が叫ばれても、事態は一向に改善しないのです。
大学教授になった人たちは、若いころ誰もが有名な学者に憧れを抱いていたはずです。
ウェーバー、ヤスパース、ヴェブレン、スミス、ユング、我妻栄、大塚久雄、中山伊知郎…Etc
こういった後世に名を遺す学者たちですね。
しかし、さしたる研究もすることなく、漫然と講義をおこなっていれば、大金がもらえるわけですから、研究をしようなどというインセンティブが働くわけはないのです。
すると怠惰になる。
研究らしい研究もせず、論文も大学から課された論文しか書かない、本も出さないという悪循環に陥ってしまうのです。
確かに、こういった例だけではありません。
研究する教授は研究しまくって、論文はもちろん、本も多く出します。
知的生産の方法論で有名な渡部昇一にしろ、外山滋比古(下写真)にしろかなりの数の本をだしているのです。
前者は213冊、後者は140冊も出しているのです。
共著や対談集を含めたら、両者ともかなりの数にのぼるのです。
まさしく、研究するために世に生を受けたような人たちですね。
それは、論文や本を書こうと思っても、常日頃から、どんな場面でもアンテナを張っていないといけない性質のようですね。
自分の専門分野以外の学びの場面でも、外に出ている時も、娯楽をしている時も自然とアンテナが張れている人でなければ難しいでしょうか?
論文や本を書こうという意思がなければ、何となく他の専門の本を読んでいても、漫然と通り過ぎてしまうのです。
時間が無駄になって終わりです。
どんな場面でも、鉛筆なり、ペンなりをもって、小さなノートも提携していないと、みすみす逃してしまうことになるのは必至です。
外山滋比古氏は、いつもポケットにノートとペンを携えていたようです。
散歩している時にもいきなり発想が湧いて出てきたり、論文や本を書くのに必要な情報が得られたりするのですから、こういう習慣づけが大事なようです。
その積み重ねが、のちの偉業につながったのでしょう。
論文や本を書こうという目的意識を持っていれば、毎日が真剣になるはずです。
緊張感が途絶えないままなのです。
目的意識をもっていれば普通に生活している時にも、他の専門に関する本を読んでいる時も、情報がやってきたり、発想が出てきたりするものです。
昨今のビニールのごみ袋は2020年の7月から有料化されましたが、私はそれから一度も有料のレジ袋を買ったことはないです。
それ以前もそうでしたが(笑)
無料で済ませられるのに、わざわざお金を払うのはばかばかしいと思ってしまう体質なので、何とか無料ですまそうとして、野外に出ている時に、誰かが落とした新しいレジ袋が落ちていた時に、すぐさま拾って家に置いておきます。
それごみ袋にしてしまうのです(笑)
スーパーやコンビニで買物をするときも、大きなカバンを携えていくのです。
買い物をした時に、それに入れてくればいいのです。
そうすれば、余計なことにお金を使わずに済むのです。
それと一緒でしょう。
情報や発想が大事な学者は、いつも目的意識を持っているので、いろんなところでペンを携えて、良き情報が飛び込んできたら書き、発想を思いついたら書いておくのです。
そういうことは非常に楽しいものであるはずですが、いつしかそういう楽しさが味わえないまま終わってしまうのです。
自分の専門だけに閉じこもり、その中だけで事を逢着させて終わり。
そんなアティチュードでも、大金がもらえるから、それを改めようともしない…哀しいですね。
しかし、そういう人をよそに、研究しまくる人は研究しまくるのです。
そういう相反する人を生みだしてしまうのが大学なのです(笑)
エジプト考古学者の吉村作治氏は『それでも大学に行くのか?』という表題の本をかなり前に出しました。
これはいかに日本の大学生の質が低いかをあげつらって書いた本ですが、私は、こういう教授たちの惨状を嘆いて、同じように言葉を投げかけたいです。
「それでも大学に行くのか?」と(笑)。
●今回の内容に興味を持った人におすすめなのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
日本の入試問題の英語の文章は難しくてアメリカ人もわからない? (加藤秀俊)
こんにちは。
日本は非常に高学歴でインテレクチュアルな社会でもあります。
高校生の卒業生のうち、半分が短大含めた大学に進学するのは、世界でもまれです。
国内全体で、学問に勤しむことが何かステイタスのあるような雰囲気を醸し出されているし、その雰囲気に対して何の批判を加えないでいる社会なのです。
それで誰もが無批判になって中学校時代あたりからクラス全体が勉学に勤しむようになるのです。
高校になると、その状態に拍車がかかるのです。
そうなれば、誰もが大学受験に勤しむようになり、大学進学へのハードルが必然的に上がるのです。
すると、英語の長い文章も必然的に難解になるのも必然的です。
しかし、その文章を本家アメリカ人やイギリス人に読ませると、非常に難解でわからないということです。
そんな文章が大学入試問題に使われている、ということです。
それについて、批判するか妥当といって通り過ぎるかは、その人次第です。
必然だから、致し方ないでしょう、というのが私の意見です。
「私の胃はボクサーのように小さい」という文章を英語文に直せ、という問題があるとしましょう。
入試では、My stomach is small like that of boxer.
と書くのが通常でしょう。
しかし、知り合いのアメリカ人に訊くとそんな言い回しは不自然だ。my stomach is like boxer.でいいというのです。
この他、違和感のある入試の英語の文章や構文などの言い回しはたくさんあるでしょう。
しかし、その理由の大部分は入試の激化であって、日本の英語教師が、自分は優れているということを見せびらかすためのものではないことは確かでしょう。
たしかに、そういう教師もいることはいるでしょう。
しかし、そんな教師ばかりによって、こうなってしまったというのは言いすぎでしょう。
しかし、思うのは、そんな激化した入試を勝ち抜いて大学に入ったにもかかわらず、肝心の大学での勉強を疎かにしてしまう学生が半数以上いることです。
大学での教員を30年以上務めた故.加藤秀俊氏(下写真)が曰く「大学生できちんと勉強しているのは全体の2割くらい。その他の人たちは麻雀に明け暮れている」ということです。
麻雀とは古めかしい娯楽で、苦笑を禁じ得なかったですが、その数に今も昔もそんな変動があるとは思えないです。
大学での勉強こそ、誰もが一番真剣に打ち込んでいかなくてはいけない性質のものだと思うのです私は。
大学で学ぶ学問は社会にある問題点をよき方向に向かわせるようにするためにあるのであって、市民がそれらを学び、日々行動することによって、良き社会を目指せるものであって、そういう人間が多ければ多いほどいいのは言うまでもないことです。
それを理解するための基礎的な知識として必須なのが、大学受験で培って脳内に入れてきた知識であり、その学問を理解するために読む本の読解のために現代文であり、その学問の英語版を理解するための英文読解なのです。
ゆえにそれらが入試で課されるのです。
その基礎の段階で満足して、入学と同時に遊んでしまう。
非常にもったいないことであるのですが、学問だけが世の中に大事なことではないので、そこは譲歩しなければいけないとは思うのですが…なんか空しいですね(笑)
確かに産業社会の要請で、いろんな物事や事物を即座に暗記していく、ということが何よりも求められるわけで今もそのことに違いはないでしょう。
しかし、問題点をよきものに変えていくことの重要性も、今でも重要なのは間違いないでしょう。
それへのバイアスを掛けるようになって欲しい、という思いから私は、そこを強調したいのです。
その良きものへ変えていくこと=創造力ということですが、それへのバイアスをもっとかけてほしいということです。
大学での勉強がどのように大事かはいずれ本に書いて上梓したいとは思いますが、ここでは触りだけにしておきましょう。
確かに大学受験で培った能力=速く物事を暗記し、筆記していく能力だけでいいということもあるでしょう。
そういう人たちによって、今の産業社会において自分が生活していけるのであって、しかも自分はできないことだらけで、それを敢然とこなしていく人たちがいることは確かです。
しかし、大学での学費は高いですし、文系大学の1時間半の1コマの講義はいまや3000円以上するのです。
その元を取ろうという気概が欲しいのも確かですし(笑)、良き社会を目指すには一人や二人だけでは足りないからということもあるのです。
その構造を捉えて、自分が何をしていくべきか?
大学で何を学び、それをどう生かすかを考えるきっかけになってくれればとは思いが募るばかりです。
アメリカ人も読んで意味不明な入試の英語問題を勝ち抜いてきたのだから、その能力を生かすこともしてみればどうか?
そんなことを考えてしまうのです。
●今回の内容について興味の出た方には、以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします!(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
大学において知的習得の方法論について講義すべし? (加藤秀俊)
こんにちは。
文系の大学では、理論を書くのがメインですから、それを記憶しておく、あるいは自身の理論を構築する、自身の主張や主義や考えを纏めておく…こういう一連の作業は、高校までのほぼ暗記だけの学習とは違いますから、その違いはもちろん、学習方法も違いますから、それについての講義をすべきではないか?
そんなことを考えてしまうものです。
いくつかの選択肢から選ぶ、あるいは単語を書く、ちょっとした文章を記述する、という高校までの学習とは違います。

それについては、やはり濫読をするのがいいと思います。
法学部の人は法学だけを、経済学部の人は経済だけを、史学部の人は歴史だけ学んでいけばいいというわけではないのですから、いろんな学問を学んでおくべきでしょう。
情報を得るにも、本をたくさん読んでおけば、ヒントになる情報、あるいは自身の専門に役立つ情報が他の学問から得れることが往々にしてありますから、その都度チェックをシャーペンなどでチェックを入れておくべきでしょう。
そして、読了後、それをノーとなり、ワードなりに書く込んでおくのがいいでしょう。
こういう一連の作業は一朝一夕には行きませんから、シーズンオフからしていおくべきでしょう。
それが年末の試験には役立つのみならず、自身の人生の糧になることに繋がるのですから、この時期からしておくのがいいでしょう。
そういうことを講義したシステムがない、あるいは学生自身が知ろうとしないことに違和感を覚えて、故.加藤秀俊氏(下写真)は『整理学』という本を上梓したのだそうです。
整理学とは妙なタイトルであると思いましたが、言わんとしていることは大学生や学者にとって有意義なことがたくさん書いてあるのがわかります。
しかし、高校までの学習とは違う、ということを知って、その具体的な方法論をいきなり分かれと言われても難しいのですから、やはり先人たちの経験論や方法論が詰まった本を読むことは必須でしょう。
そこで、勧めたいのはやはり渡部昇一の『知的生活の方法』、外山滋比古の『思考の整理学』ですね。
これらのような具体的な知的生産法を講義してくれたらいいのにと思わざるを得なかった、というのが正直なところでした。
これらは私の知的生活における古典的な良作です。
良作といえるのは、渡部、外山両氏とも、非常な佳作を生み出してきていたからですね。
そういった良作を生み出すためにはどうしたらいいのだろうかと思っている人には、それを真似したくなるのです。
その方法論を学べば、自分も良き本や論文を書ける、と意気込めるからですね。
私は、しょうもない論文を書いている人、抜き書きばかりで紙面を埋めている人、祖述だけで紙面を埋めている人の論文や本は興味がわかないので、読まないことにしているのです、そういうものを読んでいても得るものがなく時間がもったいないので。
しかし、渡部、外山両氏は佳作が多く学ぶものも多いので、やはりその知的生活には興味がわき、その知的生活を送る方法論は必然的に読みたくなるのです。
逆に、しょうもない論文を書いている人、抜き書きばかりで紙面を埋めている人、祖述だけで紙面を埋めている人が書いた知的生活の方法論など読んでも参考にならないのは必至です。
いや、そういう人の書いた知的生活の方法論の本などそもそもないでしょう。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏もついつい読み進めてしま本を量産してきましたから、その知的生活の方法を書いた本が読みたくなるのは必然でしょう。
そのたぐいの本を2〜3冊くらい出していましたが、いずれもモラル形成にまで及び非常に参考になるものでした。
その偉業はいつまでも讃えられる性質を持っていると思います。
参考までにどうぞ!
●今回の内容について興味を持った人で、加藤氏の知的生活の内容についても言及しているので、以下の電子書籍.ペーパーバックはおすすめです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
リソースフルな人間、好奇心旺盛な人間になるためにはどうすればいい? (加藤秀俊)
こんにちは。
いろんな論文集や本を無数に出し続けるにはどうすればいいか?を今回は考えたいと思います。
それは、論理的に考えればすぐにわかることでしょう。
リソースを豊富にすることです。
リソースとは脳内の資源ということです。
そのためには、常日頃からいろんな本を読み、冊子やその他情報に接していけば、おのずとリソースは豊富になるのは必然です。
大学の教授たるもの、いろんな学者に憧れて、教授を目指したのだと思います。
デカルト、カント、ウェーバー、ヤスパース、ショーペンハウアー、マルクス、ケインズ、アルチュセール、スミス…こういった学者に憧れて、その道を志したのだと思います。
しかし、どういうわけか、その情熱を失ってしまい、リソースを豊富にする作業を怠ってしまうようになるのです。
ちょっと脳内にリソースがあれば、ちょっとした情報を入れるだけで、脳内にスイッチが入り、情報と情報が結びあわされて、論理が多岐化して、いくらでも論文や本が書けると思うのですが、そうならない教授が多かった気がします、私の大学でも他の大学でも。
私が敬愛していた文学研究者であった故.外山滋比古氏は逝去されるまでに、160冊以上もの本を上梓しましたが、逆に、30年以上の教授生活で、本を1冊とかあるいは0冊のままで終わってしまう例もあるから驚きを隠せなかったのです。
教授たるもの、日々、研究をしているはずなのですから、その集大成として本を出すのは必然です。
もちろん売れなければ、また発行してもらえませんから、売れるようにすればいいのです。
そう、自身の講義の教科書に指定してしまえばいいのです(笑)
姑息であるとは思いますが、それでも出さないよりはいいでしょう。
年間に数百人もの大学生が、その講義を受講するということであれば、出版社も当然OKするでしょう。
それに、その教科書に指定することで、大学生からの意見もフィードバックできるのですし、それによって自身の論文のレベルアップにもつながるのです。
その回数を多くすれば多いほど、自分のレベルがさらに上がるのは必至です。
それと、リソースを多くするのは、生まれもっての資質にあるのでしょうか?
好奇心があるかないか…それに尽きるような気がします。
自分の専門には興味があるけれども、一歩違う領域に出ると、とたんに興味がなくなる…そういう人が少なからずいるのです。
でも、自分の専門以外にも興味がいくつも出れば、また、本を出せる回数も増えていくのは必至です。
私は、いろんな関心が多岐化し、いろんなことに精通している学者には魅力を感じます。
私は、これまでに1000冊は本を読んできたでしょうか?
「本を読もう!」と意気込んで読んできたのではなく、読書をすることで興味の範囲が多岐化していっただけのことです。
試しに知らない著作家の本を1冊読んでみる。すると面白い。そして、その人の他の本で読んでみたいのを、背表紙を見てリストアップして、ワードに書き溜めておく。
機会があったら本屋やネットで注文。
そして、その人と共著として出している人の本をもリストアップして本屋やネットで注文。
それらの本の出版会社の総合目録をその出版社に取り寄せ願いのハガキを書いて投函する。
その総合目録が家に到着したら、そこにリストされている本をくまなくリストアップして機が熟したら注文し、来たら読むのです。
私が、一時期入会していた創価学会でしたが、これは富士門流といわれる宗派の1つでした。
富士門流とは日蓮正宗とその団体を指す単語でした。
創価学会、顕正会、正信会がその信徒団体でした。
その富士門流で唱えられている自我偈という経文は、天台宗由来なのが後になって分かったのです。
日蓮正宗の創始者であった日蓮が生前に、天台宗の園城寺に行って天台宗を学び、そこで自我偈の必要性を認識し、自分の宗教を立宗するときに、それを取り入れたのです。
そして、曹洞宗の開祖である道元も、園城寺で天台宗を学び、そこで自我偈を気に入り、立宗の際に自我偈を取り入れた。
今、富士門流の中でも、そして日本の宗教の中でも傑出して信者数が多いのが創価学会です。
だが、その日蓮が必要性を唱えた自我偈は天台宗由来であることに驚きを隠せないでしょう。
私も驚いた。
親戚がなくなったときに、天台宗のお寺で葬式が行われて、その時に僧侶が経を読んでいた時、まん中の地点で、いきなり自我偈を唱え始めたのだから驚きを隠せなかったのです。
これはなぜなのかを知りたくて、色々調べていくうちに、この事実がわかったのだったのです。
信じれない人は、天台宗、日蓮正宗、曹洞宗の経本を取り寄せて見ているのがいいでしょう。
どの経本にも自我偈が入っているのです。

この事実を知った時に、私が興味関心がわいたのは、日蓮ではなく、日蓮が取り入れる気にさせた天台宗の偉大さであり、その教祖である最澄であった。
そして、同時代に活躍した真言宗の教祖である空海にもである。
そして、鎌倉時代以降、日蓮正宗および日蓮宗は、隆盛を極めたが、その後、それらの宗教組織の退廃はまぬかれなかったのは、その手の歴史書を読めばわかる。
その時に反旗を翻して、日蓮の教えを道徳心をもって再興しようとしたのが本門仏立宗でした。
この本門仏立宗にも興味があって調べたくなって、その内実を知るためにそれについて書いてある本も読みたくなる。
同じような、道筋をたどってきたのは浄土真宗も一緒なのです。
それをただ単に批判するのではなく、その内実を探求しながら、自分の人生に生かすために、その再興劇を知るのに最高なのは、やはり浄土真宗再興の父とうたわれた蓮如でしょう。
その蓮如についてもその半生を知りたくなり、それについて書いてある本も読みたくなる。
そして、浄土真宗の宗祖である親鸞(下写真)を深く調べていくと、キリスト教からの影響があるという興味深い事実をある時知った。
その内実を知りたくなって、それについて書いてある本を取り寄せて読みました。
そして、聖徳太子の伝記を読むと、太子の死後3日経った後に蘇ったということが書いてある。
この内容を読むとキリストの復活劇と同じなのがわかる。
やはり、キリスト教からの影響が、聖徳太子が存命中だった当時の飛鳥時代にも存在していたのがわかり興味深くなる。
飛鳥時代といわれると、どうもアジア的な色彩の強い風景が浮かび上がってくるが、どうもそれは日本の教育によって違うイメージになってしまったのだ。
当時から西洋的なものはそこかしこに反映されていたのがわかる。
その内実について探求していきたくなり、その手の本を10冊くらい読みたくなり、目録やネットで検索をかけてリストアップしていくのだ。
このように、好奇心だけは芋づる式に分派していくようだ私の場合。
このような好奇心が次から次に分派していく私は、やはりこういう内容の本を書きたくなって仕方なくなる。
私が大学時代に、受講した国際政治学の教授は、その論文や本が中国でも中国語訳に翻訳されて売りに出されていることを知って驚いた。
その教授曰く、自分は生涯現役でいる、ということでした。
その教授が日課にしていたのは、毎日、新聞を5種類読んで、重要と思われる記事は箇所は、切って、大型の封筒に入れて、後になって整理し、纏めて論文や本を書くときに応用する、ということでした。
仕事は、それだけではないがゆえに、整理が滞ると、封筒がパンパンになっていった、ということでした。
こういう好奇心が永続的にあると断言できる人がいたら、その人は学者として大成するでしょう。
しかし、ない人は大成することはなく終わってしまうこと必至です、きついものいいですが…。
●今回書いた内容について興味が出た人におすすめなのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
お笑い芸人と著作家と経営者には資質において共通点がある? (加藤秀俊)
こんにちは。
これまで取り上げてきた故.加藤秀俊氏ですが、この人は好奇心旺盛で、社会学者でありながら、社会学のみならず、いろんな単語の語源に興味が出たら、それを逐一調べていくスタンスがありました。
加藤氏の本を読んで知ったのですが、東京にある八重洲という町は、日本史に出てくるヤン.ヨーステンという人名からとったのだそうです。
また、芝居という単語ですが、これはああいった劇を芝のあったところで観ていたからこういう名がついたのだそうです。
だからどうしたの?と好奇心のない人はお思いになるでしょうが、そういう逐一興味の赴くまま調べていくと、思わぬところで、自分の専門分野に関係する事柄や理論が発見できたりするのです。
そういうことを自身で発見できた人は、その道で生きていくことを決意するのではないでしょうか?
やはり、自身で何気なく逍遥している時に、そういう発見ができることは非常に楽しいことです。
以前に、メンタリストのDAIGOという人が、自身の動画で、「リーキーアテンションが豊富な人は起業に向いている」ということを話していたことを紹介しました。
1つの事をしている間に、それだけでなく、常に違うことを考えている人をリーキーアテンションがある、ということです。
これは一見、集中力がないように見受けられて、いい加減な人間に見られそうですが、実際は逆で、非常に起業に向いているということです。
起業とは、自身でメニューも、値段も、立地も、支出も、何もかも設定していかなくてはいけないものです。
人に頼ることは、相談するときだけですが、毎日毎日相談しているようでは、起業家は務まりません。
自身で常にアンテナを張って、情報を得ていくスタンスが必須なのです。
それがない人は起業家に向いていないでしょう。
またお笑い芸人も一緒でしょう。
常にネタを作成していかなくてはいけないのですし、そのためには毎回毎回、「ネタを考えよう」などというスタンスでは芸人など務まりません。
よしんば務まっても、一発屋で終わってしまうでしょう。
実際、一度ウケたネタがあっても、それだけで永遠に受けるはずはないのです。
いつまでも同じネタでは観ている方は飽きてしまいます。
ゆえにいつまでも、ネタは豊富になくてはいけないものですが、普段、何げなく生活している時、常にアンテナが伸びている人こそお笑い芸人に向いているのでしょう。
宮城出身のお笑いコンビのサンドウィッチマン(下写真)のコントを観ていると、実にリーキーアテンションが豊富!と感じざるを得ないのです。
コンビの1人である富沢たけし氏(右写真)は、「サラリーマンにはなりたくない!」ということで芸人を目指し、M1グランプリに出場し、優勝し、それから活動を継続し続けて今の地位を得たのです。
このような言葉を実際の生活で使ったら面白いなという言葉をコントに使っているのです。
ビジネスホテルに泊まりに来たお客さんと、ホテルのフロントの人間とのやり取りのコントの場面がありましたが、そこでフロント役の富沢氏が、「朝食は何か」というお客役の伊達氏に向かって「シリアル食べ放題となっておりまして…」といい、その時間が7時から7時2分までということを説明してましたが、こんなホテルがあったら面白いですね。
また、ファーストフード店では、お客さんが1万円を出した時に、レジの人間は「1万円はいりまーす!」と他の店員たちに聞こえるように掛け声をかけます。
1万円は大金ですから、それを店員が着服しないように、掛け声をかけることでそれを防ごうとしているのです。
それをもじって、サンドイッチマンのコントにおいて、7000円いくばくかの会計をするお客さん役の伊達氏が8000円を出した時に、レジ役の富沢氏が「8000円入りまーす!」などと掛け声をかけるシーンを設定していたので笑ってしまいました。
こういうことを実際の社会で言ったら面白いなと思われるものですが、そういうことを実際に言うことはありませんし、言ったら変人と思われるでしょう。
しかし、ことコントで使えば、笑いを誘いますし、そのコントを観に来てくれるお客が大勢いれば、興行収入になりますし、その劇をDVDにして売れば、それもまたお金になるでしょう。
そういうことが永続して出来るし、そういうものの方がサラリーマン生活よりも面白いし、実際に生きがいだと感じたのでしょう。ゆえに、富沢氏は芸人を目指したのでしょう。
30代前半までサラリーマンにはならずに芸人を目指して、ついに優勝し、今のスターダムを歩いているのです。
普段、何げなく生活している時にヒントや情報が目前に現れて、それを自分の生業で使うことに愉しみを覚えている。
そういうのがまさに、自分でネタを作らなくてはいけない芸人であるのです。
こういう性質をもつ人は経営者にも向いているといえるでしょう。
経営者は使命感が自分の精神の全面に出ているのです。
「自分はこういうことをしなければならない」というような気質ですね。
それに、既存の常識に捉われない自由な発想が武器になっているのです。
巷に何気なく転がっている事物や言葉からヒントを得る。
主体的に吸収する能力。
こういうことが敢然と何気なくできる人は経営者に向いているでしょうし、芸人にも向いているでしょう。
それがちょっとしたヒントだけで見切り発車してしまう人は、よしんば経営者になったり、芸人になったりしても、一発屋で終わってしまうでしょう。
こういった要素があると自信のある人は、経営者や芸人を目指すのがいいのではないか、と思われてならないですね。
しかし、常識ないのではだめです。
いらっしゃいませ、ありがとうございました、すみませんでした。
こういう基本ができていないのであれば、経営者や芸人になっても、常識がないのならば務まることはないのです。
反常識的でありながら、変えてはいけない常識は変えてはならないのです。
料理人もそうです。
基本がだめなら料理人として無理です。
反常識でありながら、常識=基本をアレンジしてしまうのはダメなのです。
反常識的でありながら、常識は固守して、常に脳内にアンテナを張って、いろんな人が喜ぶことを探し続けて、それを自分の経営に盛り込むのです。
それが永続していけるというのであれば、経営者やお笑い芸人は務まるでしょう。
また、著作家も同じことが言えるでしょう。
日本が誇る元経済産業省長官だった故.堺屋太一氏(下写真)は、その職務だけでなくいろんな著作を無数に出していましたが、単純な事務仕事が苦手だった、ということです。
いつも、いろんな情報に目が行っているので、常識的なことを不得手だったのでしょう。
しかし、普通のサラリーマンを見下しているわけではないのです。
こういう著作家や経営者、芸人にないものをもっているわけですし、社会の要因として、いつも敢然と仕事をこなしてくれているからこそ、市民が生活していけるのです。
しかし、著作家や経営者、芸人に必須の要素があるのならば、それらを目指すべきでしょうし、ないならばやめた方がいいというだけのことです。
そんなことを考えてしまいました。
●今回の内容に興味を持った人に読んでもらいたい電子書籍.ペーパーバックは以下です(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
1つのものに縋るのではなく多岐にわたってアンテナを広げれば解決策は向こうからやってくる?! (加藤秀俊)
こんにちは。
学者、なかでも好奇心豊かで、いろんな分野のものをむさぼり読んでいる学者は、いろんなものを相対的にみる脳があるようです。
ゆえに、相対する考えの人がいても、その両方の言い分をまんべんなく読むなり、聞くなりしていくゆえに、どちらの味方にもならないのが普通であるようです。
故.加藤秀俊氏は、社会学者という肩書ながら、宗教や言語や教育などに幅広くものを修めてきたがゆえに、氏の書いた本をランダムにピックアップして読んでも、必ずヒントに繋がる見解の深さを感じたものです。
そういう本でこそ、いつまでも棚にストックしておきたくなりますよね?
そういう気宇のふくよかさはなかなか他の学者にはないものです。
こと宗教についても、氏は言及していましたが、特に特定の宗教には与していなかったようです。
いろんな仏教の分派が鎌倉時代にできましたが、それぞれの分派の立場について書いた本を加藤氏(下写真)は読んできたのでしょう。
それゆえに、与しなかったのでしょう。
ある分派は自力本願、ある分派は他力本願、ある分派は釈迦の立場を取り戻すために、ある分派はもっと庶民寄り目指して自分の派を設立したのです。
それぞれ、自分の価値観を全面に出して設立したがゆえに、ある人がその価値観に同情が寄せれなかったらその分派には入信しないでしょう。
その宗派に同情しなくても、それはそれで仕方ないのです、その人とは価値観が違うし、好みも違うのだから。
また、その宗祖の書いた書物を読んで共感が寄せれなかったら、この場合も入信できないでしょう。
私も、いろんな宗教やいろんな仏教について書いた本を読んできましたが、どの宗教にも自主的に「入信したい!」と持ったことはなかったです。
一度、日蓮正宗の信徒団体だった創価学会に、知り合いから「この宗教こそ世界最高峰の宗教だ!」といわれたから入会したものの、講演や新聞で言われていることは毎回毎回同じ言葉の繰り返しなので、学ぶものがないと断定して、会合にもいかず、新聞の購読もやめにしました。

後悔はまったくないです。
それよりも、他のいろんな宗教について書いた本をいろいろ読んでいる方が全然有意義な時間が過ごせると思っていますし、この言葉に偽りはないです。
いろんな宗教について書かれた本をくまなくよんできましたが、やはりどの宗教も一長一短、それぞれにないものを持ち合わせているのです。
そして、それぞれ欠点を持ち合わせているのです。
ゆえに、「この宗教に入れば必ず幸せになれる!」などといって、入信を勧めるわけにはいかないのです(笑)
入会させて経文などを読ませ続けた。
それで何か月も経ったけれども、「全然精神的に幸せじゃないよ!」と言われたらどう対処すればいいのでしょうか?
それは信心が足りない、と言ってその人を責めるのでしょうか?
そんなことはできた話しではないのです。
精神的に幸せになれないのであれば、自身でいろんな本(宗教を含めた)を読むことで、打開策を見つけることができるのです。
精神的に悩んでいるのであれば、主に心理学などの科学の本を読んでみることで見つかることが多いのです。
しかし、他の宗教の本を読んで、それで見つけれたら、それはそれでよかったですね!といって万般の拍手を贈りたいです。
悩みの根源はどの人も千差万別、なのにこの宗教に入れば…などという万能薬など存在しないのは明白です。
そのように鎌倉時代の宗祖が言ったのは、当時は科学など発達していなかったがゆえに、また本などほとんどなかったがゆえに、そういう大言壮語を言うほかなかったし、自身の言葉の検証などする方法がなかったのです。
その時代背景を考えずに、「この宗教に入って祈りさえすれば…」などというのは、堕落の道への一直線です。
一切、辞めなくてはならないでしょう。
私は音楽を聴くのが好きですが、大好きなアーティストでも、全アルバムのどれもが傑作ということはないのです。
やはりどのアーティストでも、スランプは経験するわけですし、永年にわたってヒット続きなどということはあり得ないのです。
いくらファンでも全部のアルバムを傑作視しないのです。
そういう謹厳な思考でいるので、私はどの宗教にも与しないのです。
そういう1つの事柄にだけ依存するのではなく、いろんなものを多岐にわたって学び、それらから解決策を見つけることの方がいいのではないか?
1つのものだけに縋って方策が見つからなかったらどうすればいいのでしょうか?
ふたたびその宗教内で課されている経文を唱えたり、信者を獲得することによって幸せになるのでしょうか?
そんなことはないのです。
いろんなことをくまなく探し、試行錯誤して見つけようと努力して行動する。
それによって、神や仏といった人智を超えた存在が、その人の味方をして、ヒントになる情報をもたらしたり、奇跡を起こしてくれたりするのです。
私は宗教とはそういうものであると認識しているのです。
●そういった内容に興味を持った人には以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします!(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
科学の存立理由は何か?その際に当為あり、当為なしのどちらが妥当か? (加藤秀俊)
こんにちは。
私は大学に入って、いろんな講義を受けた時に、「大学の勉強こそ誰もが力を入れて取り組まなくてはいけないものだ!」と思ったものです。
それは、大学で学ぶ科学というものは、社会にある問題点をあぶり出して、それをよき方向へ舵取るものだからです。
それゆえに、その問題点をどうしたらいいか?
どのようなことを一般市民はしていくべきか?
という主張をしなくてはいけないでしょうが、そこで学んだ人間の意見が出るためにどのような考え由来なのかを説明しなくてはいけないものです。
そのような思考の内容というものは、なかなか忘れがたいものです。
ただ単に暗記したものに比して。
そういう過程を経た人間を産出することを科学は目指しているのです。
そういう人間が多ければ多いほど社会にとってはいいのです。
私は大学時代に加藤秀俊氏の本を読んで一気に嵌ってしまったのです。
近くにあった中古本屋に行っては、大学の購買会に赴いては、加藤氏の本を探して見つけたら、すぐさま買って読んでしまったのです。
こういう人は稀です。
この人のすごいところは、好奇心が旺盛でありかつ、問題点を探しあてたら、それについて色々調べては、考えを書いて、本に出していたのです。
表向きは社会学者ということになっていますが、それ以外にもいろんな領域に飛び込んでいたので、いろんな分野に長けたマルチな人でした。
1つの業種だけでなく、いろんなことを遂げる多能工的な人でした。
加藤氏(下写真)は好奇心旺盛だったがゆえに、また世間で言われている常識だけに従わないで、とにかくその道については本を1冊読んで、事の真偽を確かめて結論を出す人でした。
世間では、これとこれを食べていることで健康になる、といわれているものだけを食べているだけでなく、自身で調べて、健康にいいこと、いい食べ物やいい飲み物を調べて、実際に食べてのみしていったのだろうことは容易に想像できます。
また巷で健康にいいと言われていものが、本当に健康にいいかどうかも調べて、自身で良いと思われなかったものは摂りいれなかっただろうことは確かでしょう。
ゆえに92歳という高齢まで生きたに違いないのです。
やはり、物事を構造的に明らかにするのが科学の役目であるとするならば、自身の考えを脳内で構築するなりして、外部に出す必要があるでしょう。
やはり考えは必須なのです。
当為も当然語られなくてはいけないでしょう。
しかし、「知の巨星」といわれて、加藤氏と対談集や編著本を何冊も出した盟友であった梅棹忠夫氏は、当為(sollen) は不要であるとしていたのです。
学問はいろんな知識を集めて、自身で分析するなり新しい概念を見つけるなり、自身の脳内で枠組みを作ればいいのであって、ことさら当為を語るべきではない、というのです。
梅棹氏(下写真)の代表作の1つである『文明の生態史観』は当為を語るために書いたのではない、ということです。
その『文明の生態史観』に、私はかなり感銘を受けたものでした。
しかし私は、その意見に全面賛成することはできなかったです。
確かに、そういった作業だけで終了する場合も当然ありますし、所詮、当為を語る必要のない場面も往々にして出くわすこともしばしばります。
しかし、それは極めて少数の場合だけであって、実際は、当為を語らなくてはいけない場面の方が多いでしょう。
ゆえに、当為は基本的には出すべきでしょう。
加藤秀俊氏は、問題点をあぶりだし、それを良きものに変えていくというスタンスでした。
そうすることで、本を読むに際しても、資料を読むにしても、緊張感が途絶えることなく、真摯さが継続していくことでしょう。
しかし、単なる情報集めというのでは緊張感が途絶えて惰性になる…とまではいかずとも、真摯さが薄れていくことは間違いないでしょう。
ゆえに、やはり心持ちとしては当為を探そうという気持ちでいたほうがいいのではないか、と思われてならないのです私は。
確かに闇雲に当為を語ろうと思わず、単なる知的遊戯を脳内で楽しむ、というスタンスも当然あるでしょう。
知的消費ですね。
知的消費で終わらせることでもいいのは言うまでもありません。
思想信条の自由です。
誰もが当為を語らなくてはいけないというのでは、学問自体が詰まらなくなる可能性もあります。
私もそういう当為を語らない本を優雅にコ−ヒーでも飲みながら愉しむことをしています。
しかし、基本は当為を探す、当為を語る、というスタンスがよろしいのではないでしょうか?
当為あり、当為なし、両方のスタンスで愉しめるのですし、その両方の愉しみを感得した人は、やはりどちらにすべきという丁半ではなく、両方を並列にする、というスタンスになってしまうのでしょう。
それでもやはり、メリットが大きいのは、当為あり、というスタンスではないかと思われてならないのです。
どういうスタンスにするか?
当為あり、当為なし、両方を取り入れる、両方を取り入れてもどの配合にするかはその人次第です。
そんなことを考えてしまっているのです私は!
●今回の内容について興味の出た人におすすめの電子書籍.ペーパーバックは以下です!(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
研究者たるもの周囲の理解が必要。それなくんば大成せず? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学というのは、とにかく物議をかもす場所です。
研究する教授は研究する。
研究しない教授は研究しないで、講義で毎年毎年、同じ講義ノートを読んでいるだけ、という例がわんさかあります。
そういういい加減な教授の講義が行われていれば不満になって、多くの学生が辞めていけば、そういう教授も必死になって研究するようになるのですが、辞めずにそのまま通い続けて高い学費を払っていく人が大半なので、研究しない教授はしないままなのです。
私が敬愛していた文学研究者だった外山滋比古氏(下写真)は、96歳まで長生きし、それまでに160冊以上も本を出してきたのです。
こういう教授であるならば、尊敬に値するのですが、そうでない教授の方が多かったというのが私の素朴な感想でした。
本を出すのは、研究者たるもの必至な事態のはずなのに、30年以上の教員生活の中で1冊しか出さなかったり、あるいは0という例も珍しくはないのです。
たしかに、研究者たるもの孤独な作業に直面しなくてはならないことなのです。
学者や著作家も同様に、格闘家、その他稽古事などその道を極める人に関しても共通することです。
机やパソコンに対峙して、1人でいる時間が長いのですので、それにめげて、怠惰になったり、遊びに逃げるなんていうのはもってのほかなのです。
そういう研究者の友人や恋人も、それに対して理解を見せなくてはいけないでしょう。

自分に構ってくれなくて寂しいからといって、その人の孤独な作業からつまみ出そう、とするのは、その人は恋人や妻や友人としてふさわしくないでしょう。
長い孤独に向き合わなくてはいけない…そういう時間があるのを理解して自身も打ち込むものを見つけ出せてたら幸いですね。
否、そういう理解力のある恋人や妻、友人がいてくれるからこそ、自分は頑張れると思うのです。
そういう人がいることで、互いがその孤独な作業に勤しむことができるのです。
これは何も、恋人や妻、友人をおろそかにして、その作業に取り組め、と言っているのではないです。
そういった人たちの心を汲むのを忘れずに、そういう作業に打ち込むべし、ということを言いたいのです。
恋人や妻には2日や3日に1回は必ず会う。
毎日会えるならば会うべきでしょう。
友人などとも連絡をメールやlineでやり取りを毎週あるいは毎月必ずする、ということです。

それならば、人間関係に差支えはないはずです。
それでも差支えがあるというのならば、その恋人や妻は、その人にふさわしくないということです。
研究は孤独を伴うのが当たり前、そうでなければ大成しないというのが自明であるのならば、周囲の理解が不可欠なのです。
そのことを理解すべきでしょう。
また、その孤独状態が耐えられないというのならば、その人は研究者にふさわしくないのです。
それでも大学教授は、それに耐えられなくても務まるのです。
毎年、同じ講義ノートを読んでいるだけでも、高い給料が入ってくるからです。
そして自由な時間がわんさかある。
その自由時間で、研究しまくる人もいれば、寝ている人、テレビ見ている人、本を読んでいる人、遊んでいる人、旅行に行っている人(笑)…色々いるわけです。
研究しまくって本を無数に出す人もいれば、1冊あるいは0冊の人もいる…何とも物議をかもす場所なのです、大学というところは。
研究らしい研究もせずに年収2000万円ももらっている例はいっぱいあります。
それをのさばらせないためにも、大学を辞めていく学生が多ければ多いほど研究する教授は必然的に多くなるのです。
資本主義の原理を働かせることが大事なのです。
考えたことは以上です。
●このページに書いてあることに共感してもらえたかたにおすすめなのは以下の電子書籍.ペーパーバックです(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
大学教授は資本主義の法則を免れている?そんな理不尽な話しはなしです(笑)! (加藤秀俊)
こんにちは。
故.加藤秀俊氏が、大学において学業を修めてきて、そしていろんな場所へ赴いて結論づけたのは「世界中で一番拘束が緩い組織は大学だ」ということです。
教授会というものはあるけれども、それ以外の時間で教授という人たちは何をしているかわからない。
寝ているか、研究しているか、遊んでいるか、旅行しているか、まるで予想がつかない、ということです。
そして曰く「私含めて大学教授という人はかなりいい加減だ。」ということです。
それは謙遜でしょうと思いました。
他の教授でいい加減な例は多くても、加藤秀俊に関してはそんなことはないでしょうと反論したくなりました。
実際、加藤秀俊氏(下写真)は、退官までに100冊以上の本を刊行してきたのですから。
いい加減は人間が、そんな大量の本を出せるわけはないですからね。
しかし、いい加減な教授が多いことは確かです。
毎年毎年同じ講義用のノートを読んで説明しているだけの教授、講義用の教科書を読んで解説しているだけの教授、講義はしているけれども論文などほとんど書かない教授、何十分も遅れて講義に来る教授、講義中小さな声で何を言っているかわからない教授、いろいろありました。
それが矯正される例はまずなかったです。
何を言っているかわからない教授の場合は、教務課に行ってその講義の受講を取り消して他の講義に変えてもらえればよかったです。
しかし、そういう教授の講義が必修科目であれば受講しつづけざるを得なかったのです。
それで仕方なく、教室の前の方に行って何とか聞き耳を立てて聴くことで何とかノートすることが出来ました。
しかし、それでもかなわない場合は、その声を届かせるように学生の声を受け取るコーナーなるものが設置されていればいいのですが、全大学にそういうものがあるのかどうかが疑問です。
そういういい加減な教員は高校あるいは予備校にいたでしょうか?
皆無だった気がします。
しかし、こと大学にはいると、そういういい加減な教授の講義であっても、不満を漏らすことなく、訴えることもなく、ましてや大学を辞めることなく、大半の学生が通学し続けるがゆえに、その状態が悪いまま維持されてしまうのです。
しかも、授業料はかなり高い。
私の在学時代は、1時間半の講義料はだいたい2500円くらいでした。
しかし昨今は3000円くらいします。
高い大学では4000円!…そんな価値はないのです大学の講義に!
そんな理不尽な内容であっても、そのまま通い続けてしまうのが日本の学生なのです。
まずいものを出す飲食店、あるいは接客態度の悪い飲食店であれば、誰もが不満に思ってその店にはいかなくなります。
そして、それが維持されれば閉店を迎えるわけです。
しかし、そんな料金に見合わない講義でも、いい加減な講義でも不満を表出せずに通い続ける。
ゆえにいい加減な教授が、態度を改めないのです。
確かに、そんないい加減な講義に耐えられずに、辞めてしまう学生もいますが、そういう例は稀有です。
これもゆえに、いい加減な教授が態度を改めないのです。
飲食店の例とはまるで違う完全なダブルスタンダードが存在しているのです。
日本人とはとかく、学問や宗教に対して不問にしておいてしまうパターンが往々にしてあるのです。
文系の大学に4年間通い続けるだけで学費が400万円から500万円かかる計算になるのですが、その値段と内容が見合っているかどうかを吟味することなく払い続けて不問にして通り過ぎるのです。
また、葬式の際に、お経を僧侶に唱えてもらうだけで100万円から300万円も平然と払ってしまい、その内容に見合っているかどうかも吟味しないまま通り過ぎてしまうのです。
毎年の講義内容を解説されたシラバスが年度の最初の集会で配られますが、その内容を見て、あまりに教授たちが本を出さないのに驚きました。
教授たるもの毎日の研究結果の表出として、本をいくらでも出すのが普通ではないか?そう思われてならなかったのです。
しかし、本を出している教授は10冊以上も出しているけれども、出さない教授は1冊だけ。
しかも、その1冊も編著本だったり、その教授の講義のために学生に買ってもらうためのものだったりで、まるで研究の成果が表れているとは思えない代物でした。
教授を目指したということは、研究に没頭して、いろんな知識を得て、理論を脳内で長年かけて練り上げて、より良き社会のため、人のため、ひいては世界のために読んだ人の精神を覚醒させて行動に向かわせるためにあるのではないのか、と思わざるを得なかったですね。
でも、きちんとした研究をして、はきはきとした口調で講義していた教授もいたことはいましたが、それでも書くのは大学から課された論文だけで、本は一向に出していない教授も今見るとほとんどなのが残念でした。
やはり、日本人は大学や学問の世界には無批判になって、大学卒業の肩書ほしさや、キャンパスライフの楽しみたさから大学を変革しようとしなくなるので、そのまま高い学費を払って通学し続けてしまう。
ゆえに、大学の教員になると、普通に講義をしているだけで高い給料がもらえるがために、論文を書こう、本を出そうという気概もうせて、20代の若いころに抱いていた憧れの学者像を脳内から消失してしまったのでしょう。
故.加藤秀俊氏のほかに、私が敬愛している桜井邦朋(下写真)という学者の書いた本の中に「大学には研究らしい研究もしないでいるクズ教授が山ほどいる」という文章が書かれていたのを思い出します。
その通りでしょうね。
そのクズ教授を、のさばらせているのはほかならぬ学生や日本の学歴至上主義的な雰囲気なのは間違いないでしょう。
そういう教授の講義はボイコッとせよと言いたくなります。
そして、あまりにも資本主義の法則を免れている大学を変革したいのであれば、大学を大勢の人が辞めることでしょう。
そうすれば、危機感をどの教授も持って研究に励むことになるでしょう。
資本主義の法則とは、その価値に見合っていないものはお金が入らなくなって淘汰される、という法則のことです。
90年代の後半から日本のサラリーマンの平均年収は減っているのです。
そんな中でも、大学の学費は上がっているのです。
私に時代は、初年度の納入金は100万円ジャストくらいだったです。
しかし、今は130万円以上します。
凄いところでは150万円もします。
文系の大学でこれです。
その結果、大学生の55%は奨学金を借りているのです。
私の時代は20%以下だったにもかかわらず。
それに見合った研究をどの教授もして、講義にもつなげているのであればそれでもいいでしょう。
しかし、そういうことをしている教授はほんの一握りなのです。
毎年、同じ講義ノートを読んでいるだけで年収2000万円…そんな理不尽なことはないです。
やはりここを変革するには、せっぱ詰まった状態である今から起こることを私は期待しているのです。
●今回のこの内容に共感された方にお勧めなのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2