宗教団体は、その開祖の遺した教義を正確には伝えられない弊が存在している。ならどうすればいい?
こんにちは。
これまで顕正会の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)の、日蓮の書物だけに依拠して、それに無批判でいて、それを信者に勧める態度を評してきました。

それはさながら日蓮原理主義とでも言いたくなるなるものでした。
日蓮のみが至高の存在であり、それに従えば必ず幸せになれるんだ、といったニュアンスの発言には辟易していました私は。
確かに、鎌倉時代の僧侶がいったことでも現代においても見倣い、学べるところがあるのは否定はしないです。
しかし、科学が発達して、その言葉よりも有効と思われる事項ができたのであるならば、そちらを優先すべきであるとしか私には言いようがないのです。
絶え間なく仏法の実践…これで本当に人生が好転するのならば、その方法に縋るのがいいでしょう。
しかし、それでは好転しないからこそ、科学的な方法や他の宗教や教えを学んで実践していくという方途を取る人が出てくるのでしょう。
その一人が私です。
依拠するのが日蓮大聖人だけでいいとしたのが直弟子だった日興上人(下写真)で、その流れをくむのが日蓮正宗でありかつ、その信徒団体だった創価学会であり、顕正会であるのです。

その顕正会の会長だった浅井昭衛氏は、学生時代に日蓮の『立正安国論』を読み、それに感化を受けて、かなりぞっこんになったのがわかります。
それ以降、日蓮の書物をたくさん読み、この教えを世に広めなければ、という思いになったのでしょう。
その書物は、かなり多くありますから、それを全部読み通し、修めるだけでもかなりの労力がかかりますし、その労力をかければかけるほど、それしか見えなくなり、それこそが至高であるという思いになったのはわかります。
わき目も振らずに集中する。
そういう猪突猛進ぶりは、若いころには陥りがちですし、見た目にもオーラが出ていてかっこいいのは認めますが、それから精神的に成長したのならば、もっと脇目を振ることも大事だろうと思うのです。
そう、他の分野にも目を向けて、「日蓮大聖人以外でも学べるものがあるんではないか?」という思いに駆られなかったのかなあといぶかし気に思います。
他のいろんな本や人からも多くのことを学べるのですし、正直、日蓮の書いた本だけでは物足りない、と思ったのです、私が創価学会にいた時に。
しかも、学会で講演する人たち、ほとんどは幹部たちですが、その人たちは、自分が大事と思った部分を中心に講義をするのです。
講演内容は各自の自由ですから、やはり裁量に任せられる。
すると毎回毎回同じような講義内容になってしまうという悪弊が存在してしまうのです。
それも咎めだてされることもない。

すると私にとっては非常に味気ないものになっていたのです。
それもまた、私が創価学会の講演に行かなくなってしまった理由の1つでもあるのです。
自分が疑問に思っていた「こういうことは日蓮は言っていなかったのか?」「この分野については言ってなかったのか?」という疑問は当然わいてくるものですが、信者の中からそういうことを聞いたことがないのですね。
そういう疑問がわいてきたら、やはり日蓮の遺した代表的な書物である『御書』をくまなく全部読むのがいいと思います。
それによって、その疑問が晴れると思います。
やはりその開祖の思想の勉強をくまなくするのであれば、やはり全部を網羅して読むことが大事でしょう。
創価学会から顕正会に移籍して幸福になった人の『顕正新聞』での講演では「創価学会時代には、日蓮大聖人の三大秘宝抄について講義されることはなかったですが、顕正会にきて、それを聞いて、それから私の人生は好転しました」という経験談がありました。
もちろん、そのことで創価学会を責める気はないです。
どんな団体でもそういう悪弊は存在するのですから。
その開祖の遺した教義をすべてくまなく講義できるはずはありませんから、どうしても講演者の好みに合った部分だけを講義してしまうということになるのです。
その人は幸運にも三大秘宝抄を学べることができたけれども、創価学会においても顕正会で話されていないことを聞いて人生を好転させたという例も当然あるでしょう。
そこでも、顕正会を責める気はないです。
ゆえに、その開祖にぞっこんになったのであれば、やはりその開祖の遺した書物をくまなく読むことが大事でしょう。

日蓮
顕正会では月に1度、創価学会はほぼ日刊で新聞が届きますが、それだけで満足せずに、主体的に学んでいくことが大事でしょう。
しかし、私は日蓮の言ったことだけが人生のすべてに通じるといった短絡的な考えにはならないので、どちらの新聞も読みませんし、日蓮の遺した書物もこれからほとんど読まないでしょう(笑)。
日蓮の言ったことだけで世の中に通用するはずもないですし、まだまだ学ばなくてはならないことが大いにあることは間違いないのです。
以下、ふたたび浅井昭衛氏の書物からの引用をしましょう。
「崩れぬ幸福をもたらす福運、果報等は仏法の実践のみによってその人の身にあらわれるのである」
ということです。
ここを読んでそんなことはないだろうとすぐさま思ったのです。
日々の生活で人の苦労、痛みを身をもって体感していくことも大事なのは言うまでもないです。
やはり外に出て、冷たい思いをする、暑い思いをする、また転んだり、滑ったりして痛みを知る。
またけんかなどもして痛みを知る。
そして人と言い合い等もして、どういうことを言ったら人が喜び、どういうことを言ったら人が悲しむか、といったことも体感して行くことも大事でしょう。
日蓮の仏法の実践だけで事足りる…妄想もはなはだしいです(笑)
確かに仏法の教えを学んだり、それを実践することによって人生が好転することもあるわけではあるゆえに仏法も大事だが、それが最優先ではだめだということを私は言いたいのです。
仏法を学ぶことで人の痛みがわかるようになるんですか、と非常に疑問なのです。
世の中を簡単に考えて生きていきたい気持ちはわかりますが、実際はそうではないということを悟ってほしいものです。
そういう簡単に生きていきたい気持ちは、小学生くらいで卒業していってほしいものです。

浅井城衛
息子である浅井城衛氏は、父上の跡を継いで、いま顕正会の会長になられましたが、こういった父上の日蓮原理主義を受けて、どのように展開していくのかが見ものなのです。
顕正会の幹部会のビデオを動画で見ることがありますのでその様子が見れるのです。
父上の思想を踏襲していくのか、あるいは改良していくのか、あるいは第三の道にいくのか、希望をもって見守っていきたいと思います。
この人はかなり毅然として、日蓮の、そして父上の言葉に非常に感銘を受けて、両者を心から尊敬し、そして毅然とした話し方をしているので、私が顕正会の会員だったら、かなり憧れの対象になっただろうことは間違いないです。
しかし、私はあくまでも多元的に物事を考えていくたちなので、顕正会には入らないだろうことは確定的ですので残念ながら…ですね(笑)。
ここまで書いてきたことについてピンときた人や、賛同した人には以下の本(電子書籍)を推奨したいです!
●以下よりどうぞ。
→楽天Kobo
→Amazon Kindle

今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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これまで顕正会の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)の、日蓮の書物だけに依拠して、それに無批判でいて、それを信者に勧める態度を評してきました。

それはさながら日蓮原理主義とでも言いたくなるなるものでした。
日蓮のみが至高の存在であり、それに従えば必ず幸せになれるんだ、といったニュアンスの発言には辟易していました私は。
確かに、鎌倉時代の僧侶がいったことでも現代においても見倣い、学べるところがあるのは否定はしないです。
しかし、科学が発達して、その言葉よりも有効と思われる事項ができたのであるならば、そちらを優先すべきであるとしか私には言いようがないのです。
絶え間なく仏法の実践…これで本当に人生が好転するのならば、その方法に縋るのがいいでしょう。
しかし、それでは好転しないからこそ、科学的な方法や他の宗教や教えを学んで実践していくという方途を取る人が出てくるのでしょう。
その一人が私です。
依拠するのが日蓮大聖人だけでいいとしたのが直弟子だった日興上人(下写真)で、その流れをくむのが日蓮正宗でありかつ、その信徒団体だった創価学会であり、顕正会であるのです。

その顕正会の会長だった浅井昭衛氏は、学生時代に日蓮の『立正安国論』を読み、それに感化を受けて、かなりぞっこんになったのがわかります。
それ以降、日蓮の書物をたくさん読み、この教えを世に広めなければ、という思いになったのでしょう。
その書物は、かなり多くありますから、それを全部読み通し、修めるだけでもかなりの労力がかかりますし、その労力をかければかけるほど、それしか見えなくなり、それこそが至高であるという思いになったのはわかります。
わき目も振らずに集中する。
そういう猪突猛進ぶりは、若いころには陥りがちですし、見た目にもオーラが出ていてかっこいいのは認めますが、それから精神的に成長したのならば、もっと脇目を振ることも大事だろうと思うのです。
そう、他の分野にも目を向けて、「日蓮大聖人以外でも学べるものがあるんではないか?」という思いに駆られなかったのかなあといぶかし気に思います。
他のいろんな本や人からも多くのことを学べるのですし、正直、日蓮の書いた本だけでは物足りない、と思ったのです、私が創価学会にいた時に。
しかも、学会で講演する人たち、ほとんどは幹部たちですが、その人たちは、自分が大事と思った部分を中心に講義をするのです。
講演内容は各自の自由ですから、やはり裁量に任せられる。
すると毎回毎回同じような講義内容になってしまうという悪弊が存在してしまうのです。
それも咎めだてされることもない。

すると私にとっては非常に味気ないものになっていたのです。
それもまた、私が創価学会の講演に行かなくなってしまった理由の1つでもあるのです。
自分が疑問に思っていた「こういうことは日蓮は言っていなかったのか?」「この分野については言ってなかったのか?」という疑問は当然わいてくるものですが、信者の中からそういうことを聞いたことがないのですね。
そういう疑問がわいてきたら、やはり日蓮の遺した代表的な書物である『御書』をくまなく全部読むのがいいと思います。
それによって、その疑問が晴れると思います。
やはりその開祖の思想の勉強をくまなくするのであれば、やはり全部を網羅して読むことが大事でしょう。
創価学会から顕正会に移籍して幸福になった人の『顕正新聞』での講演では「創価学会時代には、日蓮大聖人の三大秘宝抄について講義されることはなかったですが、顕正会にきて、それを聞いて、それから私の人生は好転しました」という経験談がありました。
もちろん、そのことで創価学会を責める気はないです。
どんな団体でもそういう悪弊は存在するのですから。
その開祖の遺した教義をすべてくまなく講義できるはずはありませんから、どうしても講演者の好みに合った部分だけを講義してしまうということになるのです。
その人は幸運にも三大秘宝抄を学べることができたけれども、創価学会においても顕正会で話されていないことを聞いて人生を好転させたという例も当然あるでしょう。
そこでも、顕正会を責める気はないです。
ゆえに、その開祖にぞっこんになったのであれば、やはりその開祖の遺した書物をくまなく読むことが大事でしょう。

日蓮
顕正会では月に1度、創価学会はほぼ日刊で新聞が届きますが、それだけで満足せずに、主体的に学んでいくことが大事でしょう。
しかし、私は日蓮の言ったことだけが人生のすべてに通じるといった短絡的な考えにはならないので、どちらの新聞も読みませんし、日蓮の遺した書物もこれからほとんど読まないでしょう(笑)。
日蓮の言ったことだけで世の中に通用するはずもないですし、まだまだ学ばなくてはならないことが大いにあることは間違いないのです。
以下、ふたたび浅井昭衛氏の書物からの引用をしましょう。
「崩れぬ幸福をもたらす福運、果報等は仏法の実践のみによってその人の身にあらわれるのである」
ということです。
ここを読んでそんなことはないだろうとすぐさま思ったのです。
日々の生活で人の苦労、痛みを身をもって体感していくことも大事なのは言うまでもないです。
やはり外に出て、冷たい思いをする、暑い思いをする、また転んだり、滑ったりして痛みを知る。
またけんかなどもして痛みを知る。
そして人と言い合い等もして、どういうことを言ったら人が喜び、どういうことを言ったら人が悲しむか、といったことも体感して行くことも大事でしょう。
日蓮の仏法の実践だけで事足りる…妄想もはなはだしいです(笑)
確かに仏法の教えを学んだり、それを実践することによって人生が好転することもあるわけではあるゆえに仏法も大事だが、それが最優先ではだめだということを私は言いたいのです。
仏法を学ぶことで人の痛みがわかるようになるんですか、と非常に疑問なのです。
世の中を簡単に考えて生きていきたい気持ちはわかりますが、実際はそうではないということを悟ってほしいものです。
そういう簡単に生きていきたい気持ちは、小学生くらいで卒業していってほしいものです。

浅井城衛
息子である浅井城衛氏は、父上の跡を継いで、いま顕正会の会長になられましたが、こういった父上の日蓮原理主義を受けて、どのように展開していくのかが見ものなのです。
顕正会の幹部会のビデオを動画で見ることがありますのでその様子が見れるのです。
父上の思想を踏襲していくのか、あるいは改良していくのか、あるいは第三の道にいくのか、希望をもって見守っていきたいと思います。
この人はかなり毅然として、日蓮の、そして父上の言葉に非常に感銘を受けて、両者を心から尊敬し、そして毅然とした話し方をしているので、私が顕正会の会員だったら、かなり憧れの対象になっただろうことは間違いないです。
しかし、私はあくまでも多元的に物事を考えていくたちなので、顕正会には入らないだろうことは確定的ですので残念ながら…ですね(笑)。
ここまで書いてきたことについてピンときた人や、賛同した人には以下の本(電子書籍)を推奨したいです!
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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宗教の評価は一元か多元かで違ってくる。どちらが自分に合っているかを判断してからどの宗教を決めるべし!


こんにちは。
人の判断というものはどうしても完璧には客観視できないものです。
2人の幼児がいて、片方はかわいいと思えるけれども、もう片方はそう思えない。
そして全者を可愛がり、後者は蔑ろにする。
そういったことはどこの世界にでもあるものです。
しかし、多くの人と良好な関係を築きたいのであれば、そういう思いは極力かなぐり捨てなければならないのは言うまでもないです。
しかし、こと宗教になると、そうはいかないという風になってしまうのでしょうか?
自分が「これだ!」と思った宗教を第一にして、それ以外の存在は求めるけれども、そんなに重宝しないというかほとんど放置してしまう。
最悪の場合、その宗教を排除してしまうまでに至る。
その態度は、傍から見ていると滑稽にしか思えないパターンも往々にしてあります。
「単なる価値観や好みを押し付けているだけじゃないか?」とすぐさま思ってしまうけれども、本人は大まじめでその持論を展開している。
これまで、顕正会の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)は、日蓮を大いに讃嘆するけれども、その論拠が実にあいまいで、まるで説得力に欠けるということを指摘してきました。

以下、再びその昭衛氏の『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』から引用します。
「日本国は全人類をお救いくださるご本仏日蓮大聖人がご出現あそばされた本国であり、本門の三大秘宝広宣流布の根本の妙国である。天照太神.八幡大菩薩等は御本仏日蓮大聖人を守護し奉る神々なのである。
仏は主君、神は主従を取り違え、御本仏日蓮大聖人を無視.軽蔑するならば、それが謗法になり、その人は亡び、国も必ず傾く」
この根拠は?とすぐさま思うのは私だけではないでしょう。
天照太神.八幡大菩薩等が日蓮を守護すべく理由がまるで書いていないし、価値観の押し付けであるとしか思えないのですね。

また私が思うのは、天照太神.八幡大菩薩等が日蓮大聖人を守護し奉ってくれるならば、それらの神を大切にしてもしかるべきではないか?
その神々たちについての勉強もしていいはずではないか?あまりにもないがしろにしすぎではないか?との誹りを免れないです。
朝夕の勤行の中の観念文の中で「諸天善神の〜」という文言は出てきます。
そこで思ったのは、「そう!この世は仏だけではないし、神もいる。ならばもっと神にも登場してくれてもいいんじゃないの?仏を最優先にしないといけない理由はなに?」とかつて創価学会に属していた時に思ったものです。
その明確な答えは今も見つからずじまいです。
創価学会は、日興上人の流れをくむ宗教団体なのです。
日蓮の弟子は6人いて、そのうちの5人は、日蓮の死後、日蓮以外の教えや神道なども取り入れて、宗教を展開したのです。
しかし、日興上人だけは日蓮の教えだけを忠実に教えていったのです。
それが日蓮正宗です。

他の5人の教えは日蓮宗というのだそうです。
それで、どちらを支持するかは、その人にお任せするしかないようです。
日興門流がとにかく素晴らしいんだ、というのであればそこを支持すればいいし、日蓮宗がいいと思うのであれば、そちらを支持すればいいでしょう。
私はどちらの味方をするわけでもなければ、どこを推めるかといえば「自身で選んでください」としか言いようがないです。
しかし、スタンス的には日蓮宗に近いです。
私が自分の家から行ける日蓮宗の寺院では、池上本門寺(下写真)がそばにありますが、そこには寺社以外にも神の祠もあったりして、神仏習合の観が強いですが、一番の芯は日蓮大聖人といういで立ちにしているのです。

まず、最初に日本には神がいて、その後、大陸から仏教が入ってきたのです。
その歴史を鑑みれば、後参入の宗教だったというわけです仏教は。
後参入が大きな顔してくれるな、と言いたい向きもあるでしょう。
そこは、本人の価値観ゆえにであり、自分が正しいと思われるものを選択していけないいいだけの話しです。
ただ、日蓮の宗教だけで事がすべてうまくいくのであれば、それでいいでしょう。
しかし、どう考えてもそれだけではうまく事が運ばないし、神道や儒教などの教えから人生が好転したという経験のある人ならば、その教えもまた、その人の哲学を形作るモラルになったのであれば、当然それを取り入れるのは必然でしょうし、それが普通でしょう。
日蓮だけでいいという一元論ではなく、他のいろんな宗教や教えをも柔軟に取り入れる多元主義のどちらがいいかと言われれば、私は後者を選びます。
宗教的なことのみならず、これまでの人生でそういうやり方で切り抜けてきたからにほかなりません。
しかし、日興門流では日蓮のみでよいとする考えを固辞しているわけです。
それが日蓮正宗であり、その信徒団体であった創価学会であり、顕正会であるのです。

私は、後者の日興門流に与することはできないのです。
あまりに狭窄すぎるし説得力がないからです。
しかし、世間一般では、日興門流のほうがウケがよく、信者数が多いのが実情です。
創価学会にしろ顕正会にしろ、信者数では国内で間違いなくベスト10に入る勢いを見せているのが実情です。
何故か?
それは人間の精神の古今東西変わらぬ精神性にまで突き詰めて考えるとわかることなのです。
これほど信者が多いのは「その教えが素晴らしいから」…ではないのです。
いくら、その社会が高学歴化しても、学問を自ら学び続けたいと思える人の割合は古今東西変わらないのです。
教育を施すことによって、その割合は若干は変わるでしょうが、それほど大きな変化はないのです。
大きな割合の人が受け入れるような教義を持った宗教団体こそが大きくなれる、ということです。

その大きな割合の人が受け入れるような教義は、私には受け入れられなかった、ということです。
モラルがまるで逆なのです。
大学で、毎回毎回同じような講義をしている教授の授業のほうが受講生は多い、という事実と関係しているのです。
それは何も大学だけでなく、宗教でも一緒なのです。
大きな割合を占める人たちに受け入れられるような教義にしていくことが大宗教になるには大事ということです。
「宇宙的スケールの力用を持つ諸天善神が日蓮大聖人を常に守護し、そのご化導を助け参らせているからに他ならない。」
これも故.浅井氏の言葉ですが、その根拠は?とまた問いたくなります。
浅井氏は釈尊とは違って、あの世とか異次元世界に行ける能力を持っていたのでしょうか?
おそらくなかったに違いないのです。
行けるのであれば、その描写をその著書の中で何度もしていたはずですが、それがまるでなかったのですから、やはりなかったと言わざるを得ないのです。
整序立った論文を何度も書けば、やはり威厳を感じますが、それに押されるのではなく、ちょっと間をおいて、距離を置いて冷静にまた読みこなすことが大事でしょう。
「諸天善神が日蓮大聖人を常に守護し〜」などというのは思い付きで書いているだけのことではないでしょうか?
やはり、日蓮(下写真)という偉大な開祖だけの言葉だけでなく、いろんな宗教家や学者の言葉を真摯に読みこなす。

それによって心理に近づくことができるのです。
1人の宗教家の言葉だけでは言い尽くせないことが往々にしてあるのですから、私は1つのことだけに拘泥はしないものです。
ゆえに、そういった宗教の講義は時間の無駄ですし、創価学会にいた当時もほとんど聞きにいかなかったです。
それよりも他の本を読んでいたほうが有意義な時間が過ごせていたことは間違いないのです。
こういった私のスタンスに共鳴できる方に読んでもらいたいのが以下の私の本(電子書籍)になります。
また、そういった一元的な宗教にちょっとでも疑問を感じている人であるならば、どんどん読み進めてしまうことも間違いないでしょう。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
→楽天Kobo
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。



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宗教にハマる人は猪突猛進で回りが見えなくなっている。その自己矛盾に気づくべし?
こんにちは。
これまで、顕正会の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)の日蓮に対する誇大な信仰について語ってきました。

日蓮こそが宇宙一だとか、この人をおいて至高の存在はいないといったことを氏の本の中でたくさん書いていたし、講演でもそういうことを語っていたのです。
しかし、その信仰をたもてば必ずそういう結論に誰もがなるかといえばそんなことはなく、疑問に思うことは多々ありました。
その結果、私は「日蓮仏法は学ぶことろはあるけれども全部を受け入れるわけにはいかない」という結論に達しました。
例えば、仲の悪い兄弟がいたとしましょう。
それはどうすれば克服できるか?
日蓮正宗系の人ならば、「題目を唱えればか必ず仲は良くなる」といいたいのでしょうが、そんな単純な結論には達しないです。
日頃、その兄弟がどんな態度で接しているのか、その親はどんな教育を施しているのか、その家族の他の人間関係などをつぶさに聞いて、そこでどういうことをすればいいかを提案します。
要するに科学的な方法論の提示ですね。
そんな科学的な方法は日蓮(下写真)の生きた鎌倉時代においてはなかったがゆえに、日蓮は「南無妙法蓮華経と唱えるべし!」と説いていたに違いないのです。

当時はそんな方法がなかったからそういうほかなかったのだから、ことさら日蓮を批判する気はさらさらないです。
しかし、経文を唱えることではなく、確実に克服できる方法が現代になって見つかったのであれば、その方法に縋るほうがいいに決まっています。
そうではなく、宗教にハマってしまった人は、その宗教しか見えないゆえに、そういう経文を唱える方法しか思いつかないのですね。
それでは、いつまでたっても克服できずに終わってしまうのです。
そうなれば、ストレスも増すだろうし、兄弟仲はサラに悪くなっていき、最悪の場合殺人にまで行ってしまうことは間違いないです。
いや、冗談ではなく。
浅井氏が、その本である『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅ぶ』の中で以下のように書いています。
「日蓮大聖人の御魂たる大御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱え奉ればいかに欲と瞋りとおろかにまみれたものでも、その心に大聖人様が宿ってくださる。」
これはどう考えても誤りでしょう。
確かに、日蓮正宗系の宗教内には心優しい人間が多い、いやほとんどであることは間違いないです。
それは、日蓮正宗系でなくとも他の仏教にしても、キリスト教を信仰するひとでも、イスラム教を信じる人でも一緒なのです。
宗教に入ったから、心優しくなったではないのです。
心優しい人が宗教に入るのです。

それはいろんな宗教の会合に出席して、いろんな人を見てきたからそう断言できるのです。
その事実を見ずに、
「この団体にいるからそういう人が多い。ゆえに、この信仰を保てば誰もが心優しくなる」
という結論に浅井氏は達してしまっていたのでしょう。
しかも、科学的な論考も足りない気がします。
サイコパスといわれる人がいます。
そういう分類にされる人は、
自分の意見しか聞けない。
人を使役して快感を得る。
自分の誤りを絶対に認めない。人を学歴や肩書だけで判定する。
こういう精神的な特徴を備えているのです。
この世に犯罪がなくならないのは、必ずサイコパスといわれる人が存在するからです。
毎日必ずスマホに届く詐欺メールは、サイコパスといわれる人たちによって運営されているのです。
気をつけましょう。
こういう人たちが改心するように「南無妙法蓮華経」と唱えれば、そういう悪さをしなくなるのでしょうか?
そんなことは絶対にないです。
この世に日蓮系の人間は世界で億単位でいるのです。
その億単位の人が毎日唱えているのに、なくならないは、その経文にそんな威力がないからです。

もちろん、科学的な教育をいくら施しても効果はなしなのです。
ゆえに、そういった詐欺に巻き込まれてはならないように知的武装をしていくことこそが王道なのです。
経文をとなえることが最優先であってはならないのです。
顕正会は日蓮正宗系の団体ですが、同じ系の団体であった創価学会の信者たちも同じような思考回路であることは間違いないです。
そこの人たちも、哀しいかな「これさえあれば、必ず世界を幸せにできる!」という世界観なのですね。
そんな単純なものではなく、やはり物事を多面的に考えて、克服への王道の方途を見つけ、それにかなった行動をしていくべきなのです。
私の母が創価学会員だったので、そのつてでこの団体に入りました。
その会員たちは、その信仰に熱心で、いろんな人にその信仰の素晴らしさを説いていました。
しかも創価学会をバックに構成された公明党支持にいそしんでいました。
選挙の時は、いろんな友人や知人に公明党議員に入れてくれるように電話をして頼んでいました。
自分もいずれこうなるのかなと思ったけれども、そんなことはないです。
まず第一に、教義そのものが受け入れられないし、どの政策が妥当と思うかは人によって違うのです。
自分が妥当と思われる政策を掲げている立候補者に票を入れて、それを実行してもらう、これが間接民主主義の理念であるはずです。
その妥当と思われる政策かどうかは、その人の価値観や主義や得てきた情報によって異なってくるのは言うまでもないです。
ゆえに人よって違うものを無理やり人に強制するものではないのも言うまでもないことです。
ゆえに、いろんな候補者の声明が掲げられている紙が選挙前に必ずどの家庭にも配達されるので、その紙をくまなく読んで、妥当と思われる候補者に票を入れるのが自然でしょうし、望ましいかたちであることはいうまでもないです。
それを無視して、いろんな人に電話して「公明党議員に入れてくれ!」では民主主義に反するのは言うまでもないです。

もちろん、その紙を読んで、「この候補者に入れたい」という思いが公明党議員にわいたのであるならば、その人に入れるべきでしょうが、そんな思いにならずに他の議員にそういう思いを抱いたのであるならば、その人に入れるのがいいでしょう。
それが選挙の基本のはずですが、創価学会員は猪突猛進に電話をかけまくっている…信じれないです(笑)。
「公明党議員に入れれば必ず政治は良くなる」と思って疑わないのですから、あまりに情報弱者の観は否めないです。
その宗教にぞっこんになる人は、他の領域にとびこまずに、それまでの既存の領域だけで対処して、それで満足してしまっているのです。
もっと大きく俯瞰して物事を見ることをお勧めしたいです。
選挙にしろ、自分の属する宗教にしろ。
そんな私の意見に与したいという人にはお勧めの本(電子書籍)が以下です。
●興味ある人は読んでくださいませ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
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日蓮こそが宇宙一だとか、この人をおいて至高の存在はいないといったことを氏の本の中でたくさん書いていたし、講演でもそういうことを語っていたのです。
しかし、その信仰をたもてば必ずそういう結論に誰もがなるかといえばそんなことはなく、疑問に思うことは多々ありました。
その結果、私は「日蓮仏法は学ぶことろはあるけれども全部を受け入れるわけにはいかない」という結論に達しました。
例えば、仲の悪い兄弟がいたとしましょう。
それはどうすれば克服できるか?
日蓮正宗系の人ならば、「題目を唱えればか必ず仲は良くなる」といいたいのでしょうが、そんな単純な結論には達しないです。
日頃、その兄弟がどんな態度で接しているのか、その親はどんな教育を施しているのか、その家族の他の人間関係などをつぶさに聞いて、そこでどういうことをすればいいかを提案します。
要するに科学的な方法論の提示ですね。
そんな科学的な方法は日蓮(下写真)の生きた鎌倉時代においてはなかったがゆえに、日蓮は「南無妙法蓮華経と唱えるべし!」と説いていたに違いないのです。

当時はそんな方法がなかったからそういうほかなかったのだから、ことさら日蓮を批判する気はさらさらないです。
しかし、経文を唱えることではなく、確実に克服できる方法が現代になって見つかったのであれば、その方法に縋るほうがいいに決まっています。
そうではなく、宗教にハマってしまった人は、その宗教しか見えないゆえに、そういう経文を唱える方法しか思いつかないのですね。
それでは、いつまでたっても克服できずに終わってしまうのです。
そうなれば、ストレスも増すだろうし、兄弟仲はサラに悪くなっていき、最悪の場合殺人にまで行ってしまうことは間違いないです。
いや、冗談ではなく。
浅井氏が、その本である『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅ぶ』の中で以下のように書いています。
「日蓮大聖人の御魂たる大御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱え奉ればいかに欲と瞋りとおろかにまみれたものでも、その心に大聖人様が宿ってくださる。」
これはどう考えても誤りでしょう。
確かに、日蓮正宗系の宗教内には心優しい人間が多い、いやほとんどであることは間違いないです。
それは、日蓮正宗系でなくとも他の仏教にしても、キリスト教を信仰するひとでも、イスラム教を信じる人でも一緒なのです。
宗教に入ったから、心優しくなったではないのです。
心優しい人が宗教に入るのです。

それはいろんな宗教の会合に出席して、いろんな人を見てきたからそう断言できるのです。
その事実を見ずに、
「この団体にいるからそういう人が多い。ゆえに、この信仰を保てば誰もが心優しくなる」
という結論に浅井氏は達してしまっていたのでしょう。
しかも、科学的な論考も足りない気がします。
サイコパスといわれる人がいます。
そういう分類にされる人は、
自分の意見しか聞けない。
人を使役して快感を得る。
自分の誤りを絶対に認めない。人を学歴や肩書だけで判定する。
こういう精神的な特徴を備えているのです。
この世に犯罪がなくならないのは、必ずサイコパスといわれる人が存在するからです。
毎日必ずスマホに届く詐欺メールは、サイコパスといわれる人たちによって運営されているのです。
気をつけましょう。
こういう人たちが改心するように「南無妙法蓮華経」と唱えれば、そういう悪さをしなくなるのでしょうか?
そんなことは絶対にないです。
この世に日蓮系の人間は世界で億単位でいるのです。
その億単位の人が毎日唱えているのに、なくならないは、その経文にそんな威力がないからです。

もちろん、科学的な教育をいくら施しても効果はなしなのです。
ゆえに、そういった詐欺に巻き込まれてはならないように知的武装をしていくことこそが王道なのです。
経文をとなえることが最優先であってはならないのです。
顕正会は日蓮正宗系の団体ですが、同じ系の団体であった創価学会の信者たちも同じような思考回路であることは間違いないです。
そこの人たちも、哀しいかな「これさえあれば、必ず世界を幸せにできる!」という世界観なのですね。
そんな単純なものではなく、やはり物事を多面的に考えて、克服への王道の方途を見つけ、それにかなった行動をしていくべきなのです。
私の母が創価学会員だったので、そのつてでこの団体に入りました。
その会員たちは、その信仰に熱心で、いろんな人にその信仰の素晴らしさを説いていました。
しかも創価学会をバックに構成された公明党支持にいそしんでいました。
選挙の時は、いろんな友人や知人に公明党議員に入れてくれるように電話をして頼んでいました。
自分もいずれこうなるのかなと思ったけれども、そんなことはないです。
まず第一に、教義そのものが受け入れられないし、どの政策が妥当と思うかは人によって違うのです。
自分が妥当と思われる政策を掲げている立候補者に票を入れて、それを実行してもらう、これが間接民主主義の理念であるはずです。
その妥当と思われる政策かどうかは、その人の価値観や主義や得てきた情報によって異なってくるのは言うまでもないです。
ゆえに人よって違うものを無理やり人に強制するものではないのも言うまでもないことです。
ゆえに、いろんな候補者の声明が掲げられている紙が選挙前に必ずどの家庭にも配達されるので、その紙をくまなく読んで、妥当と思われる候補者に票を入れるのが自然でしょうし、望ましいかたちであることはいうまでもないです。
それを無視して、いろんな人に電話して「公明党議員に入れてくれ!」では民主主義に反するのは言うまでもないです。

もちろん、その紙を読んで、「この候補者に入れたい」という思いが公明党議員にわいたのであるならば、その人に入れるべきでしょうが、そんな思いにならずに他の議員にそういう思いを抱いたのであるならば、その人に入れるのがいいでしょう。
それが選挙の基本のはずですが、創価学会員は猪突猛進に電話をかけまくっている…信じれないです(笑)。
「公明党議員に入れれば必ず政治は良くなる」と思って疑わないのですから、あまりに情報弱者の観は否めないです。
その宗教にぞっこんになる人は、他の領域にとびこまずに、それまでの既存の領域だけで対処して、それで満足してしまっているのです。
もっと大きく俯瞰して物事を見ることをお勧めしたいです。
選挙にしろ、自分の属する宗教にしろ。
そんな私の意見に与したいという人にはお勧めの本(電子書籍)が以下です。
●興味ある人は読んでくださいませ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
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宗教へのスタンスは生まれ落ちた時に決まっている。その内容は?
鎌倉時代に勃興した仏教で日蓮の宗教は大いに注目を集めて、この人の教えこそが最高と思ってしまう人を大量に出した例はなかなかないでしょう。
私も教えとしては、注目に値すると感じることはありますし、人生の糧としたい部分があることは認めます。
あの世で浄土を築こうとするな、今世で浄土を築けとした日蓮の思考は見習いたいと思います。
ポジティブ思考でありますし、こういう思想こそが人を生き生きとさせるものであることは間違いないでしょう。
そのプラスの面は正当に評価する1人です私は。

しかし、その人の思想が自分にとって素晴らしいものであることによって、必ずしも他の人をも包み込むことができるとは限らないですし、他の宗教家の思想もまた人を魅了する威力を秘めているという事実もあることを理解しないといけないでしょう。
あまりにその宗教家にぞっこんになったがゆえに、その人の思想に感化されると、非常に猪突猛進になり、その思想しか見えなくなり、そればかり勉強し、ひいては妄想に変わるから注意が必要です。
日蓮の死後、その弟子たちがその教えをひろめようと、寺を建築してその教えを広めようとしましたが、大きく派が2つに分かれてしまいました。
大きく日蓮宗と日蓮正宗と分かれたのです。
日蓮正宗系の宗教としていまも、隆盛を誇っているのが顕正会です。
いまや300万世帯にまで広がっているようです。
この会長であった故.浅井昭衛氏(下写真)は、その妄想を吐いていた1人でした。

この人の出した本の1つである『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』という本を買って読んでみました。
この表題からして妄想の観がたっぷりありますね(笑)。
その本の中に、「日本及び全世界の一切衆生をお救い下さるのは、日蓮大聖人ただ一人である」と書いてあります。
こう書くのはいいですが、その根拠が全く書いてないのですね。
その根拠が、その本の全部を見渡すも全然見つからないのですね。
また浅井氏は 「正系門家がもし仏法を曲げれば、日本は必ず傾いていく」とも書いているのです。
正系門家というのは日蓮正宗系という意味だそうです。
顕正会は、日蓮正宗の信徒団体でしたが、その日蓮正宗から破門にされているがゆえに、こういう名称にしたのでしょう。
「日蓮正宗系」ではあたかも日蓮正宗とつながりのある団体と思われてしまいかねないと懸念したのでしょう。

しかし、この文言にも根拠が書いてないのですね。
日蓮の遺した御書を読めば、「日蓮の教えを保たねば日本は滅びる」といったことを書いたのは発見できました。
それをそのまま無批判でいたのでしょう浅井氏は。
しかし、他の思想や宗教とは関係のない本などを読めば、別に日蓮の宗教に依らなくても日本は保っていけるということはわかるはずです。
いくら日蓮仏法にぞっこんになったからとはいえ、日蓮のいったことをそのまま鵜吞みになるのは考え物です。
日蓮がその文言をどのような意図で書いたのかも探らなくてはならないでしょう。
それに、いろんな文物に接して、真理を探るのが賢明でしょうと言いたくなるのですね私は。
過度な依存ですが、浅井氏でなくても、他の宗教においても、その思想ばかりにぞっこんになるケースは多々あります。

またその浅井氏の本には 「全日本人は日蓮大聖人の大恩徳を教え、「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」の重大御誠意を…」と書き始めて、こんこんとその素晴らしさを述べていますが、そこでも根拠が書いてないのですね(笑)
あまりにカリスマ的な指導者になると、たとえ誤っていても、またあまりに根拠薄弱でも、その人の言ったことをそのまま妄信してしまうケースは多々あるのです。
顕正会の知り合いは、こういう穴だらけの浅井氏に無批判になっているのがわかりました。
わき目もふらずに猪突猛進することで人生が充実したものになることは間違いないですが、そこで誤りが発覚したのならば、そこは修正しなくてはならないのは言うまでもないことです。
そうでなければ、人を説得することはできないのは言うまでもないことです。
その姿勢がないからということも、私は顕正会を支持しない理由となっているのです。
その思想にぞっこんになってしまったがゆえに、「この宗教こそが人民を救う!」といった妄想に変わり、ひいては「この宗教を信じなないならば人は地獄に行ってしまう!」という思いに変わり、度を越えた勧誘が社会問題になり、勧誘した人でその宗教に入らないと言った場合、その人を監禁までしてしまう例があるのは、どの宗教にもあります。
当然、顕正会のそういったことも社会問題になりました。
そうなってしまう気持ちはわからなくはないですが、自分を一度現状から突き放して、可能な限り客観視することが大事ですね。
やはり他の本を読んでみるのがいいのです。
そういう態度によって、私は日蓮上人(下写真)の言ったことのみが真理ではない、ということがわかりました。

学ぶべきことはあるにしても、その人だけではないという意見に達したので、日蓮上人の教えを人に語ろうと思ったこともないですし、折伏といって他の人をその信者にする行為もしないまま現在に至ります。
そう、私は日蓮正宗の信徒団体だったが日蓮正宗から破門にされた創価学会の会員だったのです。
母が創価学会員なのでそのつてでこの団体に入りました。
その団体の人に「この宗教こそが世界最高峰の宗教だ!」と説得されて入り、その機関紙である聖教新聞を何度も読むも、感動を呼びおこさなかったので一切の活動はしていないです。
この宗教は、日本国内でベスト3には必ず入る大宗教団体であることは間違いないですが、大宗教団体だからと言って必ずしも自分にあう宗教とは限らないのです。
逆に思想のスタンスが違えば相容れるわけはないのです。
その思想のスタンスこそ人の人生を決定するものなのです。
それは生まれ落ちた時から決定しているものなのです。
そのスタンスは大きく2つに分かれるのです。
1つはどっちつかず。
もう一方は一途。
言葉の印象や響きからすれば、後者のほうがいいように思えるのが一般的ですが、それは変えようのないものですし、それぞれ特長がありますから、そこは前者の人は誇りに思っていいでしょう。
そのスタンスは人類普遍的であり、不変なのです。
その内容について知りたい人は、私の書いた本(電子書籍)を読むことをお勧めします。
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私も教えとしては、注目に値すると感じることはありますし、人生の糧としたい部分があることは認めます。
あの世で浄土を築こうとするな、今世で浄土を築けとした日蓮の思考は見習いたいと思います。
ポジティブ思考でありますし、こういう思想こそが人を生き生きとさせるものであることは間違いないでしょう。
そのプラスの面は正当に評価する1人です私は。

しかし、その人の思想が自分にとって素晴らしいものであることによって、必ずしも他の人をも包み込むことができるとは限らないですし、他の宗教家の思想もまた人を魅了する威力を秘めているという事実もあることを理解しないといけないでしょう。
あまりにその宗教家にぞっこんになったがゆえに、その人の思想に感化されると、非常に猪突猛進になり、その思想しか見えなくなり、そればかり勉強し、ひいては妄想に変わるから注意が必要です。
日蓮の死後、その弟子たちがその教えをひろめようと、寺を建築してその教えを広めようとしましたが、大きく派が2つに分かれてしまいました。
大きく日蓮宗と日蓮正宗と分かれたのです。
日蓮正宗系の宗教としていまも、隆盛を誇っているのが顕正会です。
いまや300万世帯にまで広がっているようです。
この会長であった故.浅井昭衛氏(下写真)は、その妄想を吐いていた1人でした。

この人の出した本の1つである『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』という本を買って読んでみました。
この表題からして妄想の観がたっぷりありますね(笑)。
その本の中に、「日本及び全世界の一切衆生をお救い下さるのは、日蓮大聖人ただ一人である」と書いてあります。
こう書くのはいいですが、その根拠が全く書いてないのですね。
その根拠が、その本の全部を見渡すも全然見つからないのですね。
また浅井氏は 「正系門家がもし仏法を曲げれば、日本は必ず傾いていく」とも書いているのです。
正系門家というのは日蓮正宗系という意味だそうです。
顕正会は、日蓮正宗の信徒団体でしたが、その日蓮正宗から破門にされているがゆえに、こういう名称にしたのでしょう。
「日蓮正宗系」ではあたかも日蓮正宗とつながりのある団体と思われてしまいかねないと懸念したのでしょう。

しかし、この文言にも根拠が書いてないのですね。
日蓮の遺した御書を読めば、「日蓮の教えを保たねば日本は滅びる」といったことを書いたのは発見できました。
それをそのまま無批判でいたのでしょう浅井氏は。
しかし、他の思想や宗教とは関係のない本などを読めば、別に日蓮の宗教に依らなくても日本は保っていけるということはわかるはずです。
いくら日蓮仏法にぞっこんになったからとはいえ、日蓮のいったことをそのまま鵜吞みになるのは考え物です。
日蓮がその文言をどのような意図で書いたのかも探らなくてはならないでしょう。
それに、いろんな文物に接して、真理を探るのが賢明でしょうと言いたくなるのですね私は。
過度な依存ですが、浅井氏でなくても、他の宗教においても、その思想ばかりにぞっこんになるケースは多々あります。

またその浅井氏の本には 「全日本人は日蓮大聖人の大恩徳を教え、「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」の重大御誠意を…」と書き始めて、こんこんとその素晴らしさを述べていますが、そこでも根拠が書いてないのですね(笑)
あまりにカリスマ的な指導者になると、たとえ誤っていても、またあまりに根拠薄弱でも、その人の言ったことをそのまま妄信してしまうケースは多々あるのです。
顕正会の知り合いは、こういう穴だらけの浅井氏に無批判になっているのがわかりました。
わき目もふらずに猪突猛進することで人生が充実したものになることは間違いないですが、そこで誤りが発覚したのならば、そこは修正しなくてはならないのは言うまでもないことです。
そうでなければ、人を説得することはできないのは言うまでもないことです。
その姿勢がないからということも、私は顕正会を支持しない理由となっているのです。
その思想にぞっこんになってしまったがゆえに、「この宗教こそが人民を救う!」といった妄想に変わり、ひいては「この宗教を信じなないならば人は地獄に行ってしまう!」という思いに変わり、度を越えた勧誘が社会問題になり、勧誘した人でその宗教に入らないと言った場合、その人を監禁までしてしまう例があるのは、どの宗教にもあります。
当然、顕正会のそういったことも社会問題になりました。
そうなってしまう気持ちはわからなくはないですが、自分を一度現状から突き放して、可能な限り客観視することが大事ですね。
やはり他の本を読んでみるのがいいのです。
そういう態度によって、私は日蓮上人(下写真)の言ったことのみが真理ではない、ということがわかりました。

学ぶべきことはあるにしても、その人だけではないという意見に達したので、日蓮上人の教えを人に語ろうと思ったこともないですし、折伏といって他の人をその信者にする行為もしないまま現在に至ります。
そう、私は日蓮正宗の信徒団体だったが日蓮正宗から破門にされた創価学会の会員だったのです。
母が創価学会員なのでそのつてでこの団体に入りました。
その団体の人に「この宗教こそが世界最高峰の宗教だ!」と説得されて入り、その機関紙である聖教新聞を何度も読むも、感動を呼びおこさなかったので一切の活動はしていないです。
この宗教は、日本国内でベスト3には必ず入る大宗教団体であることは間違いないですが、大宗教団体だからと言って必ずしも自分にあう宗教とは限らないのです。
逆に思想のスタンスが違えば相容れるわけはないのです。
その思想のスタンスこそ人の人生を決定するものなのです。
それは生まれ落ちた時から決定しているものなのです。
そのスタンスは大きく2つに分かれるのです。
1つはどっちつかず。
もう一方は一途。
言葉の印象や響きからすれば、後者のほうがいいように思えるのが一般的ですが、それは変えようのないものですし、それぞれ特長がありますから、そこは前者の人は誇りに思っていいでしょう。
そのスタンスは人類普遍的であり、不変なのです。
その内容について知りたい人は、私の書いた本(電子書籍)を読むことをお勧めします。
●興味ある人は、以下よりどうぞ!
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「これ宗教こそが唯一の方法である!」…これこそが情報弱者なのです!
私の家に顕正会の人が来て、顕正会の機関紙である『顕正新聞』を私に手渡して、開祖と仰ぐ日蓮の偉大さについて語ったり、いろんな駅の前に顕正会の人たちがいて、その人たちに話しかけられて日蓮の仏法について話されたりしているうちに、日蓮の宗教についていろいろ調べてみることにしました。
「どんなに素晴らしいのだろうか、この宗教は?」という疑問がわいてきたのです。
その際に、顕正会の長であった故.浅井昭衛氏(下写真)の著作本を読むのが一番手っ取り早いことは間違いないと思い、その『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』という本を買い、それを読みました。

氏が学生の時代から日蓮の仏法に傾いて、かなりぞっこんになったのがわかりました。
誰もが若いころにハマったものにぞっこんになりやすいのはわかります。
ぞっこんになるとかなり猪突猛進になって、大した根拠もなく走り続けてしまうようです。
そういうがむしゃらさがあることで、人生が充実したものになることは間違いないでしょう。
しかし、その思想が支持を得るためには、絶対的な根拠がないことには不可能なのは言うまでもないでしょう。
その著の中で、現代になって人心が荒廃しているさまを書き連ねていました。
そして、「このような人心の荒廃は、政治でも教育でも解決できない。
三毒の心を根底から変えてくださるのは、日蓮大聖人の最大秘宝だけである。」
と結んでいるのです。
そこにはまるで根拠が書いてないのです。
日蓮の仏法に帰依したことで解決したという事例を最低でも5個は挙げてくれないことには、こちらは納得できないです。
確かに人心は荒廃していると思われる事象は多々あります。
それは単に日蓮の仏法に、日本人や他の国の人たちが入らないで信仰もしないからだというのではまるで説得力がないのです。
あたかも日蓮の仏法が、この世の万能薬であり、それ以外のものは何の効能もない、という議論は独りよがりの観が強すぎるのです。

人心の荒廃は千差万別です。
あまりに自由すぎる家庭、あまりに拘束しすぎる家庭、あまりにこどもを誉めない教育、親子関係、夫婦関係…こういったものが原因となって人心の荒廃が起きるのです。
決して現代人が日蓮の仏法に帰依しないからだということではないのです。
それを浅井氏は、日蓮に現代人が帰依しないからだ、という狭い結論に帰着してしまっている。
あまりに日蓮の仏法にばかり長年向き合ってきたがゆえに、「この仏法こそが万能薬だ!」と思ってしまう気持ちはわかります。
しかし、一歩外に踏み出して、他の宗教や他の分野の本についていろいろ読んでみるのがいいのです。
そうすることで、何も日蓮の仏法だけが好転させるための方途ではないんだ、ということがわかると思います。
やはり多面的になって物事を考えて、その問題点があったらそれが良くなるように、いろんなことを行動していくのがいいのです。
この場合は教育ですね。
それを日々の生活の中で実行していくのです。

そういう立場なのが私なのです。
浅井氏のみならず顕正会の会員たちは、その仏法だけにぞっこんになり、それこそが万能薬だ、という世界観に浸っている。
この仏法を携えていくことで幸福になれると信じて疑わない。
なぜ、そういうように1つの宗教にぞっこんになり、毎回その宗教の会合に足を運んでは、その長や幹部たちの言葉に真剣に耳を傾ける人がいるかと思いきや、逆に私のように「確かにその宗教のいわんとすることはわかるが、全部を受け入れるわけにはいかない。」という人がいるのか。
それは人間の類型に関わる問題なのです。
後者に人にいくらその宗教の素晴らしさを語っても、決してその宗教に入らないことは間違いないです。
こういう人間類型を理解したうえで、自分のスタンスを決めるのがいいのです。
しかし、その宗教にぞっこんになってしまう人を蔑む気は私にはなければ、卑下する気もないです。
その人がこれこそが最高の宗教だとするのも思想信条の自由です。
しかし、私はそうはならないで自分の決めた方法で行く、と決めているだけです。
●そんなスタンス論に興味がある人は私の本(電子書籍)を読んでいただければ嬉しいことこの上なく存じます(笑)
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「どんなに素晴らしいのだろうか、この宗教は?」という疑問がわいてきたのです。
その際に、顕正会の長であった故.浅井昭衛氏(下写真)の著作本を読むのが一番手っ取り早いことは間違いないと思い、その『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』という本を買い、それを読みました。

氏が学生の時代から日蓮の仏法に傾いて、かなりぞっこんになったのがわかりました。
誰もが若いころにハマったものにぞっこんになりやすいのはわかります。
ぞっこんになるとかなり猪突猛進になって、大した根拠もなく走り続けてしまうようです。
そういうがむしゃらさがあることで、人生が充実したものになることは間違いないでしょう。
しかし、その思想が支持を得るためには、絶対的な根拠がないことには不可能なのは言うまでもないでしょう。
その著の中で、現代になって人心が荒廃しているさまを書き連ねていました。
そして、「このような人心の荒廃は、政治でも教育でも解決できない。
三毒の心を根底から変えてくださるのは、日蓮大聖人の最大秘宝だけである。」
と結んでいるのです。
そこにはまるで根拠が書いてないのです。
日蓮の仏法に帰依したことで解決したという事例を最低でも5個は挙げてくれないことには、こちらは納得できないです。
確かに人心は荒廃していると思われる事象は多々あります。
それは単に日蓮の仏法に、日本人や他の国の人たちが入らないで信仰もしないからだというのではまるで説得力がないのです。
あたかも日蓮の仏法が、この世の万能薬であり、それ以外のものは何の効能もない、という議論は独りよがりの観が強すぎるのです。

人心の荒廃は千差万別です。
あまりに自由すぎる家庭、あまりに拘束しすぎる家庭、あまりにこどもを誉めない教育、親子関係、夫婦関係…こういったものが原因となって人心の荒廃が起きるのです。
決して現代人が日蓮の仏法に帰依しないからだということではないのです。
それを浅井氏は、日蓮に現代人が帰依しないからだ、という狭い結論に帰着してしまっている。
あまりに日蓮の仏法にばかり長年向き合ってきたがゆえに、「この仏法こそが万能薬だ!」と思ってしまう気持ちはわかります。
しかし、一歩外に踏み出して、他の宗教や他の分野の本についていろいろ読んでみるのがいいのです。
そうすることで、何も日蓮の仏法だけが好転させるための方途ではないんだ、ということがわかると思います。
やはり多面的になって物事を考えて、その問題点があったらそれが良くなるように、いろんなことを行動していくのがいいのです。
この場合は教育ですね。
それを日々の生活の中で実行していくのです。

そういう立場なのが私なのです。
浅井氏のみならず顕正会の会員たちは、その仏法だけにぞっこんになり、それこそが万能薬だ、という世界観に浸っている。
この仏法を携えていくことで幸福になれると信じて疑わない。
なぜ、そういうように1つの宗教にぞっこんになり、毎回その宗教の会合に足を運んでは、その長や幹部たちの言葉に真剣に耳を傾ける人がいるかと思いきや、逆に私のように「確かにその宗教のいわんとすることはわかるが、全部を受け入れるわけにはいかない。」という人がいるのか。
それは人間の類型に関わる問題なのです。
後者に人にいくらその宗教の素晴らしさを語っても、決してその宗教に入らないことは間違いないです。
こういう人間類型を理解したうえで、自分のスタンスを決めるのがいいのです。
しかし、その宗教にぞっこんになってしまう人を蔑む気は私にはなければ、卑下する気もないです。
その人がこれこそが最高の宗教だとするのも思想信条の自由です。
しかし、私はそうはならないで自分の決めた方法で行く、と決めているだけです。
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教条主義にみる故.浅井昭衛氏のカリスマ性。
宗教というのは思想です。
社会主義国の樹立は、識字率の低い国でこそ可能だったのです。
本の数が少ない、教育の行き届きが万全でない国であれば、そうそう反論は起きなかった。
本を読んだり、教育を施すと、やはり人間は脳を動かして考えてしまう。
そして反論が出やすくなる。
社会主義は一見すると妥当な思想の観を呈していますが、奥深く考察するといろいろと反論の余地が出てくる。
ゆえに多くの反対論が出てきて、それを施行することが難しくなる。
政治機構が整っている国であればなおさらです。
しかし、識字率が低く、教育の行き届きが万全でない国での国民であればそれほど反対論は出なくなる。
社会主義国の代表例の1つはロシアです。
ここでは当時の人間の9割が文盲だった。
それが社会主義国の樹立が可能だった大きな原因の1つだったのです。
しかも、ロシアではスターリン(下写真)が不満分子を虐殺し、焚書坑儒をおこなったのです。
これによって社会主義国家体制が可能になったのです。

ただし、その可能だった年数も数十年だけでした。
初めのころはアメリカと肩を並べるくらいの経済力をたっせいしましたが、その後、より良いものをより安く、という科学技術を施さずにいたがために、経済はどんどん後退していったのです。
それのみか、ソ連ロシア周辺の国が社会主義を採択せずに豊かな経済成長を達成しているという情報が、否応なく入ってきました。
それを国民の多くが耳にし、目で読むようになった。
すると、社会主義は虚構の体制であったことが認識されたのです。
そして、ソ連はのちになって解体し、ソ連を構成していた国々がほぼ資本主義を採択をすることになり現在に至るのです。
そこで思い起こすのは、顕正会の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)のことです。

日蓮は生前に、「広宣流布がなされた時に、天皇の許可を得て、富士山天生が原に戒壇を建てよ」としました。
広宣流布とは、非常にあいまいな単語で、具体的に国民の何割が信者になった時という明確な内容はいまだに不明なのです。
その単語を、故.浅井昭衛氏は、全国民が1人残らず日蓮の仏法に帰依したときと解釈したようです。
それがかなったら戒壇を建てようと解したようです。
そのことを考えれば、全国民を日蓮の仏法に帰依させようとすれば、かなりの多難が待っていることは間違いないです。
例えば、キリスト教に敬虔な信者がいたとしましょう。

その人にそのキリストの教えをやめさせて、日蓮仏法に帰依させようとするならば、その人の家にあるキリスト教関連の本、および他のあらゆる本を取り上げて廃棄させなくてはならない。
読めるのは日蓮関連の本や新聞だけにする。
しかも、ネットも一切見させないように回線をストップさせる。
そして、それから先、日蓮関連の本以外は触れさせないでいる。
他の本も買わせない、ネットも一切見させないでいる。
そうなれば可能性はあがっていくでしょう。
そのための監視が必要になるのは明白。
そんな状態をずっとしていくとなれば、そのキリスト信者を四六時中、監視していかなくてはならない。
そのためには、そのキリスト信者1人につき1人の監視員がいなくてはならない。

そんなことが可能だろうか?
不可能に決まっているでしょう。
そんな不可能なことを、可能と思って譲らないのだから故.浅井氏は脳の柔軟性が足りなかったと言わざるを得なかったです。
そんなこと不可なのでしょうかと、知り合いの顕正会の会員に話したら、「不可能と思わずに永続して目指し続けることが大事なんです」ということであった。
私が小学生だったら、可能と思って頑張るでしょうが、それは無理と悟るには中学生までで十分でしょう。
それを悟ったら、そんなこと無理としたうえで、心に遊びを持たせて、日々の生活に邁進するでしょう。
顕正会の新聞を読んだり、会合の動画を見たりする機会がありますが、そのいずれでも顕正会では「信者獲得300万世帯を達成」という文字が出てきます。
その数を達成したのはすごいことでしょう。
しかし、「300万世帯はいいけれど、全国民まではまだまだまだまだ先でしょうし、いつ達成するのですか?」と思うのは私だけでしょうか?(笑)
皮肉やからかいではなく、心底そう思います。
誤った思いを、おなじように持たせ続けるのだから、浅井氏は結構カリスマ性を持っていたということは認めなくてはならないでしょう。
しかし、私は模倣しないです、顕正会員だったとしても(笑)
不可能は不可能と割り切らないことには、展望が見えてきませんからね。
その浅井昭衛氏がなくなって、息子の城衛氏(下写真)がいまは会長を務めています。

その父のスタンスを踏襲するのかどうかは、城衛氏にかかっていることは間違いないです。
踏襲する部分はあれど、改良を加えていくのは人間社会の常道なのですし、そうなったことで、どのように顕正会が変容していくのかが興味深いところではあります。
どのようになるかをこれから見守っていきたいと思います。
以上です。
●上記の私の見解に賛同できる人は、以下、私の本(電子書籍)を読んでくださいませ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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今回はこれにて終了します。
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社会主義国の樹立は、識字率の低い国でこそ可能だったのです。
本の数が少ない、教育の行き届きが万全でない国であれば、そうそう反論は起きなかった。
本を読んだり、教育を施すと、やはり人間は脳を動かして考えてしまう。
そして反論が出やすくなる。
社会主義は一見すると妥当な思想の観を呈していますが、奥深く考察するといろいろと反論の余地が出てくる。
ゆえに多くの反対論が出てきて、それを施行することが難しくなる。
政治機構が整っている国であればなおさらです。
しかし、識字率が低く、教育の行き届きが万全でない国での国民であればそれほど反対論は出なくなる。
社会主義国の代表例の1つはロシアです。
ここでは当時の人間の9割が文盲だった。
それが社会主義国の樹立が可能だった大きな原因の1つだったのです。
しかも、ロシアではスターリン(下写真)が不満分子を虐殺し、焚書坑儒をおこなったのです。
これによって社会主義国家体制が可能になったのです。

ただし、その可能だった年数も数十年だけでした。
初めのころはアメリカと肩を並べるくらいの経済力をたっせいしましたが、その後、より良いものをより安く、という科学技術を施さずにいたがために、経済はどんどん後退していったのです。
それのみか、ソ連ロシア周辺の国が社会主義を採択せずに豊かな経済成長を達成しているという情報が、否応なく入ってきました。
それを国民の多くが耳にし、目で読むようになった。
すると、社会主義は虚構の体制であったことが認識されたのです。
そして、ソ連はのちになって解体し、ソ連を構成していた国々がほぼ資本主義を採択をすることになり現在に至るのです。
そこで思い起こすのは、顕正会の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)のことです。

日蓮は生前に、「広宣流布がなされた時に、天皇の許可を得て、富士山天生が原に戒壇を建てよ」としました。
広宣流布とは、非常にあいまいな単語で、具体的に国民の何割が信者になった時という明確な内容はいまだに不明なのです。
その単語を、故.浅井昭衛氏は、全国民が1人残らず日蓮の仏法に帰依したときと解釈したようです。
それがかなったら戒壇を建てようと解したようです。
そのことを考えれば、全国民を日蓮の仏法に帰依させようとすれば、かなりの多難が待っていることは間違いないです。
例えば、キリスト教に敬虔な信者がいたとしましょう。
その人にそのキリストの教えをやめさせて、日蓮仏法に帰依させようとするならば、その人の家にあるキリスト教関連の本、および他のあらゆる本を取り上げて廃棄させなくてはならない。
読めるのは日蓮関連の本や新聞だけにする。
しかも、ネットも一切見させないように回線をストップさせる。
そして、それから先、日蓮関連の本以外は触れさせないでいる。
他の本も買わせない、ネットも一切見させないでいる。
そうなれば可能性はあがっていくでしょう。
そのための監視が必要になるのは明白。
そんな状態をずっとしていくとなれば、そのキリスト信者を四六時中、監視していかなくてはならない。
そのためには、そのキリスト信者1人につき1人の監視員がいなくてはならない。
そんなことが可能だろうか?
不可能に決まっているでしょう。
そんな不可能なことを、可能と思って譲らないのだから故.浅井氏は脳の柔軟性が足りなかったと言わざるを得なかったです。
そんなこと不可なのでしょうかと、知り合いの顕正会の会員に話したら、「不可能と思わずに永続して目指し続けることが大事なんです」ということであった。
私が小学生だったら、可能と思って頑張るでしょうが、それは無理と悟るには中学生までで十分でしょう。
それを悟ったら、そんなこと無理としたうえで、心に遊びを持たせて、日々の生活に邁進するでしょう。
顕正会の新聞を読んだり、会合の動画を見たりする機会がありますが、そのいずれでも顕正会では「信者獲得300万世帯を達成」という文字が出てきます。
その数を達成したのはすごいことでしょう。
しかし、「300万世帯はいいけれど、全国民まではまだまだまだまだ先でしょうし、いつ達成するのですか?」と思うのは私だけでしょうか?(笑)
皮肉やからかいではなく、心底そう思います。
誤った思いを、おなじように持たせ続けるのだから、浅井氏は結構カリスマ性を持っていたということは認めなくてはならないでしょう。
しかし、私は模倣しないです、顕正会員だったとしても(笑)
不可能は不可能と割り切らないことには、展望が見えてきませんからね。
その浅井昭衛氏がなくなって、息子の城衛氏(下写真)がいまは会長を務めています。

その父のスタンスを踏襲するのかどうかは、城衛氏にかかっていることは間違いないです。
踏襲する部分はあれど、改良を加えていくのは人間社会の常道なのですし、そうなったことで、どのように顕正会が変容していくのかが興味深いところではあります。
どのようになるかをこれから見守っていきたいと思います。
以上です。
●上記の私の見解に賛同できる人は、以下、私の本(電子書籍)を読んでくださいませ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
→楽天Kobo
→Amazon Kindle

今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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「日蓮大聖人がそういう言葉を遺しているから」…これでは教条的すぎて、信用を得られません!
宗教における成員たちの離合や集散は、どの宗教にもあるもので、こと日蓮正宗も例外ではないようです。
日蓮正宗の信徒団体だった顕正会は、正宗から破門にされているようで自身たちで組織を立ち上げているようで、今や300万世帯にまで広がっているようです。

それはそれで素晴らしいことでしょう。
日蓮正宗の信徒だったけれども、そこに嫌気がさして顕正会に移った人と例もあるようです。
その人の体験談を以下にご紹介しましょう。
「聞けば、住職が自宅に勤行をしに来て、その時に供養金を渡さなければならないらしく、ある日、封筒に2千円をいれて渡すと、後日、寺から「供養金は1万円から」と催促の葉書が来た。
更に毎月「納骨代」を5千円、1本2000円の塔婆代も6000円を願ってきた。
また本尊を取り換えるための5万円が必要とか塔婆代を申し込むようにとの葉書が届いており…。」
これは顕正会の機関紙である顕正新聞からの抜擢です。
これは、宗教の哀しい場面を映し出している典型例だなと思いました。
その団体に維持のためには、信者からお金を寄進してもらわないことにはなりたたないのです。
その寄進のお金を日蓮正宗では供養金というのだそうです。
その供養金によって、僧侶たちは生活できるわけです。

供養というと今の仏教では、死んだ人やそのお墓などに拝んで、故人をしのぶというニュアンスで言われることがありますが、実際は信者からの寄進のお金であるそうです。
「この宗教に帰依しているから自分は幸せに生きていられるんだ!」という実感は私はわかないものですが、日蓮正宗の場合も例外ではなく、そういう思いを起こす信者がどの寺院にもいるようです。
しかも何人も。
それによって鎌倉時代から800年以上も、それだけで維持してこれたのですから、それは大したものだと正直思います。
しかし、長年そういう決まりでしてきたからといって、それが不変でいいはずはないでしょう。
やはり信者が減ってしまうことがあるのは必然ですし、その際にどのような施策を講ずべきか、といったことを考えて行動する必要があるでしょう。
また、日蓮(下写真)が「仏、法、僧を敬え」としたのは日蓮の書いた御書を読めば出てくる文言です。

だからと言って、信者に出費を強要するのがいいのか?
それは、日蓮大聖人がいったことだから変えなくていい。
いろんな議論が出てくるでしょう。
しかし、私が僧侶だった場合、出費額を上げてそれを強要することはしないでしょう。
「これまでの額でいいし、しかも信者が出してくれる回数も信者に任せる」といいます。
信者の生活や信仰生活の向上のために出家したのであって、出費額を無理やり上げるのは仏教本来の理念に反すると思うからですね。
「では信者からの出費額が少なくなって、自分の生活が危うくなったらどうする?」と聞かれたら、そこはバイトでもして賄うわ、といいます。
いや本気です!(笑)
現にそういう山のへき地に寺を構えて檀家の数が少なくなっている僧侶でそういうことをしている例も知っていますからね。

やはり「日蓮大聖人が遺した言葉だから」という理由で、理不尽な要求を通らすのは私のスタンスに合わないです。
そこは柔軟に考えて、妥当と思われる道を行くしかないでしょう。
このような僧と一般の人との考えの乖離が、日蓮正宗と創価学会が袂を分かつきっかけとして大きいと、これまでのそれ関連の本を多数読んで感じました。
どちらが正しいとか、どちらが誤っているかといったことは、人によって違ってくるし、、自分が正しいとしても、相手を絶対に言い負かして変えさせることなどできた話しではないのです。
しかし、宗教団体で決まったことは自分が理不尽と感じてもそれを貫き通さなくてはいけない。
それが私には考えれないスタンスなのですね。
ゆえに1つの宗教には入会も入信もしないのです。
しかし、入ることは否定しませんし、入りたい人がいたら引き留めることもしないです。
しかし、入っても理不尽なことが決定されることは当然あるわけです。
その際は、やはりその組織内を変革していこうという気概を持ち、それを維持し続けて良き方向へ舵を取ろうという姿勢を維持していってもらいたいものです。
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日蓮正宗の信徒団体だった顕正会は、正宗から破門にされているようで自身たちで組織を立ち上げているようで、今や300万世帯にまで広がっているようです。

それはそれで素晴らしいことでしょう。
日蓮正宗の信徒だったけれども、そこに嫌気がさして顕正会に移った人と例もあるようです。
その人の体験談を以下にご紹介しましょう。
「聞けば、住職が自宅に勤行をしに来て、その時に供養金を渡さなければならないらしく、ある日、封筒に2千円をいれて渡すと、後日、寺から「供養金は1万円から」と催促の葉書が来た。
更に毎月「納骨代」を5千円、1本2000円の塔婆代も6000円を願ってきた。
また本尊を取り換えるための5万円が必要とか塔婆代を申し込むようにとの葉書が届いており…。」
これは顕正会の機関紙である顕正新聞からの抜擢です。
これは、宗教の哀しい場面を映し出している典型例だなと思いました。
その団体に維持のためには、信者からお金を寄進してもらわないことにはなりたたないのです。
その寄進のお金を日蓮正宗では供養金というのだそうです。
その供養金によって、僧侶たちは生活できるわけです。

供養というと今の仏教では、死んだ人やそのお墓などに拝んで、故人をしのぶというニュアンスで言われることがありますが、実際は信者からの寄進のお金であるそうです。
「この宗教に帰依しているから自分は幸せに生きていられるんだ!」という実感は私はわかないものですが、日蓮正宗の場合も例外ではなく、そういう思いを起こす信者がどの寺院にもいるようです。
しかも何人も。
それによって鎌倉時代から800年以上も、それだけで維持してこれたのですから、それは大したものだと正直思います。
しかし、長年そういう決まりでしてきたからといって、それが不変でいいはずはないでしょう。
やはり信者が減ってしまうことがあるのは必然ですし、その際にどのような施策を講ずべきか、といったことを考えて行動する必要があるでしょう。
また、日蓮(下写真)が「仏、法、僧を敬え」としたのは日蓮の書いた御書を読めば出てくる文言です。

だからと言って、信者に出費を強要するのがいいのか?
それは、日蓮大聖人がいったことだから変えなくていい。
いろんな議論が出てくるでしょう。
しかし、私が僧侶だった場合、出費額を上げてそれを強要することはしないでしょう。
「これまでの額でいいし、しかも信者が出してくれる回数も信者に任せる」といいます。
信者の生活や信仰生活の向上のために出家したのであって、出費額を無理やり上げるのは仏教本来の理念に反すると思うからですね。
「では信者からの出費額が少なくなって、自分の生活が危うくなったらどうする?」と聞かれたら、そこはバイトでもして賄うわ、といいます。
いや本気です!(笑)
現にそういう山のへき地に寺を構えて檀家の数が少なくなっている僧侶でそういうことをしている例も知っていますからね。

やはり「日蓮大聖人が遺した言葉だから」という理由で、理不尽な要求を通らすのは私のスタンスに合わないです。
そこは柔軟に考えて、妥当と思われる道を行くしかないでしょう。
このような僧と一般の人との考えの乖離が、日蓮正宗と創価学会が袂を分かつきっかけとして大きいと、これまでのそれ関連の本を多数読んで感じました。
どちらが正しいとか、どちらが誤っているかといったことは、人によって違ってくるし、、自分が正しいとしても、相手を絶対に言い負かして変えさせることなどできた話しではないのです。
しかし、宗教団体で決まったことは自分が理不尽と感じてもそれを貫き通さなくてはいけない。
それが私には考えれないスタンスなのですね。
ゆえに1つの宗教には入会も入信もしないのです。
しかし、入ることは否定しませんし、入りたい人がいたら引き留めることもしないです。
しかし、入っても理不尽なことが決定されることは当然あるわけです。
その際は、やはりその組織内を変革していこうという気概を持ち、それを維持し続けて良き方向へ舵を取ろうという姿勢を維持していってもらいたいものです。
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宗教に入れば必ず楽園が築ける、は誤り。そんな宗教はあり得ない!
日蓮正宗からは、創価学会や顕正会といった信徒団体ができていました。
今、それらの信徒団体はいずれも正宗からは破門にされています。
そして別々の道をたどることになったのですが、そのなかで創価学会は最大の組織になり、全盛期には国民10人に1人が創価学会員になるまでになりました。
その創価学会から顕正会に移る人。
あるいは正宗から創価学会に移る人。
顕正会から創価学会に移る人。
いろいろあるようです。
その移る理由も千差万別のようです。
中でも多いのは、組織の人員、中でもその長の人間性に疑問を持ち、それが長年我慢していたのを我慢できなくなって抜ける、ということがあるようです。
創価学会から顕正会へ移った人の体験談を以下にあげましょう。
「千葉文化会館で池田大作と同じテーブルについた。
池田の横柄な態度や、学会幹部の理不尽さに嫌気がさし、学会活動へのやる気が失せて「総ブロック長」「教学部教授」という肩書を持ちながら、徐々に学会の組織から離れていきました。」
そして結局、学会から抜けたようです。

池田大作
宗教に入信あるいは入会する人は概して優しい人が多いようです。
礼儀正しくて、人の心を重んじて接してくれる。
そんな人が多いようです。
心優しい人は、そういう人たちを見て、そこに入会していくようです。
しかし、例外的にこういうことも出くわしてしまうのです。
この人の体験談だけでなく、他の創価学会について書いた本を紐解くと、やはり池田大作の人間性について嫌気が際して辞めていく人の例は多いようです。
そういう体験談を読むと、創価の機関紙である『聖教新聞』だけしか読んでこなかった人は、それはその人の偏見だ、出鱈目だ、インチキを書いているんだ、といったことを口走るのです。
聖教新聞においては、池田大作の批判など書くはずがないのです。
それらを書いたら、団体としての結束が緩くなりますから。
だから批判的な意見を聞くと、信じれなくなってしまうのです。
しかし、そういう批判があったら、謙虚にその人の意見を聞くべきなのです。
その人の意見が書いた本を謙虚に読んでみるべきなのです。
そしてその人の意見と、創価当局の意見を比較考慮していく姿勢を持つべきでしょう。

創価学会の意見だけ読んでいては、全貌は明らかにはなりませんし、創価の意見だけを聞いていて、批判する人の意見を聞かないで、その意見した人の意見を捨ててしまっては、何のための宗教かと疑問に思ってしまいます。
宗教のほうが大事で、その構成する人の意見は蔑ろにする。
これではまさに本末転倒です。
そうならずに、いろんな意見を取り込む必要があるのです。
私も創価学会に入っていた時期があるので、わかりますから池田大作無謬論などという姿勢にはならないのです。
いくら名誉会長であろうと、著作を多数出していてもです。
誰にだって完璧など目指すべくもできない芸当なのですから、そこは謙虚になるべきでしょう。
もちろん私だって完璧ではないです。
元々は池田大作氏も優しい人間だったのでしょう。
しかし、横柄になり、人を蔑ろにしてしまうように豹変してしまったのは、権力の魔性というべきものでしょうか?
世界で何億もの信者がいる組織の長ともなれば、自分に意見する人がいなくなる。
そして、ボトムアップで下の人の意見を汲まなくても組織は存続していける。
そうなれば、自分の姿勢を正す必要もない。
幼少のころ、青年だったころのように、𠮟責してもらいながらいろんなことを学び続けていた謙虚な心は雲散霧消してしまっている。
そうなれば、人が離れてしまうのは致し方ないでしょう。

創価学会に入るように私に勧めてくれた人は、「ここに入って祈れば必ず人生は好転する。」ということだったです。
問題点は必ず好転する、良き方向へ向かわせることができる、ということでしょう。
しかし、池田大作のこのような変貌ぶりを見たら、そんなことは到底信じれないでしょう。
ではどうすればいいか?
他の日蓮正宗系の団体に移籍すればいいか?
他の宗教にはいればいいか?
そういう議論ではないのです。
要は、その当人が良くなるように自身で目覚めるか、側近の人が諭し、当人が目覚めてその道を矯正できるかどうかなのです。
お経を唱えてどうにかなるものでもないのです。
そういう謙虚さを維持したいと思うからこそ、私は読書を通じて矯正を試みているのです。
大学を出たからもう学ぶものはない、ではないのです。
前代の法主であった阿部日顕が、創価学会員が350億円もの寄進をして作った正本堂を破壊することを決めた時に、正宗内部からも、当然創価学会からも、それを止めるべく署名を募り、そして多くの人がそれが止めるように「南無妙法蓮華経」と唱えたでしょう。
それでも結局、日顕(下写真)は破壊を決行したのでした。

やはり、良き方向へ導くのは、その人の心にかかっているということです。
宗教に入れば、経を唱えれば、という問題ではないのです。
死んだ日顕は、あの世で地獄に行っていることでしょう。
350億円もの寄進で建てたものを平然と壊すとは…私には信じれませんでした。
それ以外にも、日顕の悪行はいろんな本で明らかにされています。
そういった本からの借用をも含めて私は電子書籍を上梓しました。
それを読んだ某女性は、大幅に日顕の擁護をしているのです。
これまで日顕の悪行について読んだことがないのでしょう。
当たり前です。
正宗の発行する新聞で、日顕の悪行など書くはずはないのですから。
それで私の書籍を買って、その内容をいろいろ読んで、すべて「事実無根」などと書くのですから始末に困る情報弱者さんです(笑)
この宗教に入れば、誰もが全員天使のようになる、などということはあり得ません。
日蓮正宗系だろうが、他の仏教だろうが、他の宗教だろうが、それは普遍的な事象なのです。
それを認識しないで、宗教にすがり、現状打開を目指すなどというのは滑稽そのものなのです。
確かに神仏にすがることで、神仏が手を差し伸べてくれることもあるでしょう。
しかし、それによってすべてがすべて全面打開などできた話しではないのです。
ゆえに、池田大作および日顕が堕落した人物であるということを知っても別段驚きはしなかったし、両人を擁護する気にも、その批判した人を批判する気にもなれなかったのが正直なところです。
完璧な宗教などないと前提としながら、更にいろんなものを学び続けて謙虚になり、人や社会と調和し続けたいという、そういうスタンスがいいと思える人ならば私のだした電子書籍はお勧めです。
●以下よりご覧になってくださいませ!
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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今、それらの信徒団体はいずれも正宗からは破門にされています。
そして別々の道をたどることになったのですが、そのなかで創価学会は最大の組織になり、全盛期には国民10人に1人が創価学会員になるまでになりました。
その創価学会から顕正会に移る人。
あるいは正宗から創価学会に移る人。
顕正会から創価学会に移る人。
いろいろあるようです。
その移る理由も千差万別のようです。
中でも多いのは、組織の人員、中でもその長の人間性に疑問を持ち、それが長年我慢していたのを我慢できなくなって抜ける、ということがあるようです。
創価学会から顕正会へ移った人の体験談を以下にあげましょう。
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池田の横柄な態度や、学会幹部の理不尽さに嫌気がさし、学会活動へのやる気が失せて「総ブロック長」「教学部教授」という肩書を持ちながら、徐々に学会の組織から離れていきました。」
そして結局、学会から抜けたようです。

池田大作
宗教に入信あるいは入会する人は概して優しい人が多いようです。
礼儀正しくて、人の心を重んじて接してくれる。
そんな人が多いようです。
心優しい人は、そういう人たちを見て、そこに入会していくようです。
しかし、例外的にこういうことも出くわしてしまうのです。
この人の体験談だけでなく、他の創価学会について書いた本を紐解くと、やはり池田大作の人間性について嫌気が際して辞めていく人の例は多いようです。
そういう体験談を読むと、創価の機関紙である『聖教新聞』だけしか読んでこなかった人は、それはその人の偏見だ、出鱈目だ、インチキを書いているんだ、といったことを口走るのです。
聖教新聞においては、池田大作の批判など書くはずがないのです。
それらを書いたら、団体としての結束が緩くなりますから。
だから批判的な意見を聞くと、信じれなくなってしまうのです。
しかし、そういう批判があったら、謙虚にその人の意見を聞くべきなのです。
その人の意見が書いた本を謙虚に読んでみるべきなのです。
そしてその人の意見と、創価当局の意見を比較考慮していく姿勢を持つべきでしょう。

創価学会の意見だけ読んでいては、全貌は明らかにはなりませんし、創価の意見だけを聞いていて、批判する人の意見を聞かないで、その意見した人の意見を捨ててしまっては、何のための宗教かと疑問に思ってしまいます。
宗教のほうが大事で、その構成する人の意見は蔑ろにする。
これではまさに本末転倒です。
そうならずに、いろんな意見を取り込む必要があるのです。
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もちろん私だって完璧ではないです。
元々は池田大作氏も優しい人間だったのでしょう。
しかし、横柄になり、人を蔑ろにしてしまうように豹変してしまったのは、権力の魔性というべきものでしょうか?
世界で何億もの信者がいる組織の長ともなれば、自分に意見する人がいなくなる。
そして、ボトムアップで下の人の意見を汲まなくても組織は存続していける。
そうなれば、自分の姿勢を正す必要もない。
幼少のころ、青年だったころのように、𠮟責してもらいながらいろんなことを学び続けていた謙虚な心は雲散霧消してしまっている。
そうなれば、人が離れてしまうのは致し方ないでしょう。

創価学会に入るように私に勧めてくれた人は、「ここに入って祈れば必ず人生は好転する。」ということだったです。
問題点は必ず好転する、良き方向へ向かわせることができる、ということでしょう。
しかし、池田大作のこのような変貌ぶりを見たら、そんなことは到底信じれないでしょう。
ではどうすればいいか?
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他の宗教にはいればいいか?
そういう議論ではないのです。
要は、その当人が良くなるように自身で目覚めるか、側近の人が諭し、当人が目覚めてその道を矯正できるかどうかなのです。
お経を唱えてどうにかなるものでもないのです。
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大学を出たからもう学ぶものはない、ではないのです。
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それでも結局、日顕(下写真)は破壊を決行したのでした。

やはり、良き方向へ導くのは、その人の心にかかっているということです。
宗教に入れば、経を唱えれば、という問題ではないのです。
死んだ日顕は、あの世で地獄に行っていることでしょう。
350億円もの寄進で建てたものを平然と壊すとは…私には信じれませんでした。
それ以外にも、日顕の悪行はいろんな本で明らかにされています。
そういった本からの借用をも含めて私は電子書籍を上梓しました。
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これまで日顕の悪行について読んだことがないのでしょう。
当たり前です。
正宗の発行する新聞で、日顕の悪行など書くはずはないのですから。
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日蓮正宗系だろうが、他の仏教だろうが、他の宗教だろうが、それは普遍的な事象なのです。
それを認識しないで、宗教にすがり、現状打開を目指すなどというのは滑稽そのものなのです。
確かに神仏にすがることで、神仏が手を差し伸べてくれることもあるでしょう。
しかし、それによってすべてがすべて全面打開などできた話しではないのです。
ゆえに、池田大作および日顕が堕落した人物であるということを知っても別段驚きはしなかったし、両人を擁護する気にも、その批判した人を批判する気にもなれなかったのが正直なところです。
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個人的な「この宗教にはいって祈ったから私は幸せになれた!」という体験談が人を不幸に?
顕正会は当初、「日蓮正宗 顕正会」と名乗っていて、日蓮正宗の信徒団体だったのですね。
しかし、日蓮正宗との折り合いが悪くなり、日蓮正宗の法主だった細井日達によって破門にされてしまうのです。
正本堂(下写真)が同じく信徒団体だった創価学会による350億円もの大金によって寄進されて作ることになったようです。

それが、「日蓮大聖人の御遺命通りではないから」ということで、顕正会の会長だった浅井昭衛氏からの物言いがついていたのです。
日蓮大聖人は、広宣流布がかなったときに、天皇の許可を得て、富士山の天生が原に戒壇を建てよという遺言を遺している。
広宣流布とは浅井氏によれば、「日本人全国民が日蓮の教えに帰依したとき」だとしていますが、そんなことはどう考えても不可能です。
そして、戒壇は鎌倉時代においては建てるときに天皇の許可が必要だったのです。
ゆえに天皇の許可を得よとしたのです。
しかし、信教の自由な今の時代では、天皇の許可を得るなどということは不可能です。
そして、天生が原は水はけが悪く、戒壇を立てるなどというのは不可能で、よしんばできたとしても、すぐに倒れてしまうことは必至です。
それならば、日蓮正宗の本山である大石寺にその造るスペースもあり、資金も貯まり、開祖から700年の記念すべき時に戒壇を建てようという機運が揃ったのであれば、その時に建ててよいだろうとするのが普通でしょう。

浅井昭衛
しかし、あまりに教条主義というか石頭だった浅井昭衛氏は、「建てるべきではない!」といつまでも反対をしていたようです。
それが主因となって顕正会は破門になったようです。
それまで日蓮正宗の信徒は法主からご本尊を書いてもらって受持されていたのが、破門にされたことで、顕正会の信者は本尊を受持されなくなってしまったということです。
そこで顕正会員はどうしたか?
富士大石寺にある日蓮が鎌倉時代に書いたという第ご本尊がある方角に向かって勤行をすることにしたようです。
これを遥拝勤行というのだそうです。
それまでにも、遠くに住んでいてご本尊を法主から書いてもらえなかった日蓮正宗信徒は、仕方なく遥拝勤行で我慢していたようですが、破門された以降の顕正会は、これしか方法がなくなってしまったのです。
顕正会の勤行に参加させてもらったことが私はあります。
また、創価学会にいたこともあったので、創価学会の勤行にも参加したこともあります。
それらの勤行の違いは、創価学会のほうは唱えるスピードが速いということ。
そして顕正会のはゆっくりしていて、全部終わるのに時間がかかるということですね。
同じ日蓮正宗系の宗教団体ではありますが、創価学会に嫌気がさして顕正会に移籍する人もかなりいるのが、顕正会の新聞である『顕正新聞』に書いてあります。
また日蓮正宗から抜けて顕正会に来る人もいるようです。

その人の体験談が以下です。
「ゆっくり丁寧な遥拝勤行で怖い夢見ていたのが見なくなった」ということです。
日蓮正宗の団体でもいくつか分かれているようで、その1つが法華講というわけです。
その法華講には、人情のない先輩や僧侶はいるもので、その嫌な経験から悪夢を見るまでになったようで、そこから抜け出したということだったようです。
この人の体験談を読むと、いかにも顕正会が由緒正しい日蓮の団体ゆえに、その正道である勤行をしているからこそ、こうなったというように考えられがちですが、実際はそうではないと思います。
短絡的というか、無邪気というか、勤行や唱題を重ねることで大病が治ったとか、営業成績が上がったとかいう経験談がその機関新聞では載っていますが、それがそのまま日蓮に正当に帰依したからだというように信者が思うパターンが少なからずあるようですが、そんな短絡的には考えたくないのですね私は。
その経験者は、ただ単にその法華講の怖い先輩から離れたからゆえではないか?それが最大の理由ではないか?と思われてならないのですね、私は。
遥拝勤行ゆえにとか、顕正会が素晴らしい団体だから、ということではないでしょう。

そういう宗教的な力を得て物事が好転するということは当然あるでしょう。
それを否定はしないです。
しかし、それだけではないでしょう?ということを私は言いたいのです。
やはり大病が治ったのは、医学の発展やそれに携わった医師や看護師たちのおかげが最大に大きいのではないか、ということを言いたいのです。
そういう視点を持つことで、さらに感謝の念は増幅することは間違いないでしょう。
そういう短絡的な思考法は避けたいというのが私の理念なのですね。
この団体で帰依したからだ、という短絡的な思考では、その人は「この団体にいれば幸せになれる」といって、他の人に勧めたりするでしょう。
そんな単純なことでは幸せにはなれませんから、帰依したのに幸せにれないじゃないかと反論されても、「それは信心が足りないからだ」という屁理屈で答えることになってしまい、いつまでたっても幸せににれないまま終わってしまうのは必至です。
もちろん、神や仏のご加護や創造されたものの恩恵は当然あると思うので、私はその面には感謝はありますが、好転したのがすべてがすべて日蓮大聖人様のおかげというようには与さないというのが私のモラルなのです。
●そんな立場に与してくれる人がいましたら読んでほしいのが私の本です。
また、そんな立場に興味ある人にも読んでもらいたいです。
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ここまで読んでいただき感謝します!
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しかし、日蓮正宗との折り合いが悪くなり、日蓮正宗の法主だった細井日達によって破門にされてしまうのです。
正本堂(下写真)が同じく信徒団体だった創価学会による350億円もの大金によって寄進されて作ることになったようです。

それが、「日蓮大聖人の御遺命通りではないから」ということで、顕正会の会長だった浅井昭衛氏からの物言いがついていたのです。
日蓮大聖人は、広宣流布がかなったときに、天皇の許可を得て、富士山の天生が原に戒壇を建てよという遺言を遺している。
広宣流布とは浅井氏によれば、「日本人全国民が日蓮の教えに帰依したとき」だとしていますが、そんなことはどう考えても不可能です。
そして、戒壇は鎌倉時代においては建てるときに天皇の許可が必要だったのです。
ゆえに天皇の許可を得よとしたのです。
しかし、信教の自由な今の時代では、天皇の許可を得るなどということは不可能です。
そして、天生が原は水はけが悪く、戒壇を立てるなどというのは不可能で、よしんばできたとしても、すぐに倒れてしまうことは必至です。
それならば、日蓮正宗の本山である大石寺にその造るスペースもあり、資金も貯まり、開祖から700年の記念すべき時に戒壇を建てようという機運が揃ったのであれば、その時に建ててよいだろうとするのが普通でしょう。

浅井昭衛
しかし、あまりに教条主義というか石頭だった浅井昭衛氏は、「建てるべきではない!」といつまでも反対をしていたようです。
それが主因となって顕正会は破門になったようです。
それまで日蓮正宗の信徒は法主からご本尊を書いてもらって受持されていたのが、破門にされたことで、顕正会の信者は本尊を受持されなくなってしまったということです。
そこで顕正会員はどうしたか?
富士大石寺にある日蓮が鎌倉時代に書いたという第ご本尊がある方角に向かって勤行をすることにしたようです。
これを遥拝勤行というのだそうです。
それまでにも、遠くに住んでいてご本尊を法主から書いてもらえなかった日蓮正宗信徒は、仕方なく遥拝勤行で我慢していたようですが、破門された以降の顕正会は、これしか方法がなくなってしまったのです。
顕正会の勤行に参加させてもらったことが私はあります。
また、創価学会にいたこともあったので、創価学会の勤行にも参加したこともあります。
それらの勤行の違いは、創価学会のほうは唱えるスピードが速いということ。
そして顕正会のはゆっくりしていて、全部終わるのに時間がかかるということですね。
同じ日蓮正宗系の宗教団体ではありますが、創価学会に嫌気がさして顕正会に移籍する人もかなりいるのが、顕正会の新聞である『顕正新聞』に書いてあります。
また日蓮正宗から抜けて顕正会に来る人もいるようです。

その人の体験談が以下です。
「ゆっくり丁寧な遥拝勤行で怖い夢見ていたのが見なくなった」ということです。
日蓮正宗の団体でもいくつか分かれているようで、その1つが法華講というわけです。
その法華講には、人情のない先輩や僧侶はいるもので、その嫌な経験から悪夢を見るまでになったようで、そこから抜け出したということだったようです。
この人の体験談を読むと、いかにも顕正会が由緒正しい日蓮の団体ゆえに、その正道である勤行をしているからこそ、こうなったというように考えられがちですが、実際はそうではないと思います。
短絡的というか、無邪気というか、勤行や唱題を重ねることで大病が治ったとか、営業成績が上がったとかいう経験談がその機関新聞では載っていますが、それがそのまま日蓮に正当に帰依したからだというように信者が思うパターンが少なからずあるようですが、そんな短絡的には考えたくないのですね私は。
その経験者は、ただ単にその法華講の怖い先輩から離れたからゆえではないか?それが最大の理由ではないか?と思われてならないのですね、私は。
遥拝勤行ゆえにとか、顕正会が素晴らしい団体だから、ということではないでしょう。

そういう宗教的な力を得て物事が好転するということは当然あるでしょう。
それを否定はしないです。
しかし、それだけではないでしょう?ということを私は言いたいのです。
やはり大病が治ったのは、医学の発展やそれに携わった医師や看護師たちのおかげが最大に大きいのではないか、ということを言いたいのです。
そういう視点を持つことで、さらに感謝の念は増幅することは間違いないでしょう。
そういう短絡的な思考法は避けたいというのが私の理念なのですね。
この団体で帰依したからだ、という短絡的な思考では、その人は「この団体にいれば幸せになれる」といって、他の人に勧めたりするでしょう。
そんな単純なことでは幸せにはなれませんから、帰依したのに幸せにれないじゃないかと反論されても、「それは信心が足りないからだ」という屁理屈で答えることになってしまい、いつまでたっても幸せににれないまま終わってしまうのは必至です。
もちろん、神や仏のご加護や創造されたものの恩恵は当然あると思うので、私はその面には感謝はありますが、好転したのがすべてがすべて日蓮大聖人様のおかげというようには与さないというのが私のモラルなのです。
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佐伯啓思 『神なき時代の終末論』


佐伯啓思氏の本は、相も変わらず身近なものに対して奥深く考えさせてくれる威力も持っていて、読み始めるといつしか時間がたつのを忘れてしまうものです。
何気なく当たり前に持っている思想の根源を今回の『神なき時代の終末論』は考えさせてくれました。
そして毎日聞かないことはない経済についてもです。
この世界にくらしていて、当然の権利になっているものに関して考えさせてもらいました。
『歴史の終焉』で有名なフランシス.フクヤマですが、この人はヘーゲルに影響を受けたのは明白で、ヘーゲルが言う「人間は称賛得たいという意欲が原動力になって歴史を動かしてきた」という文言をあまり変形や加味をしないで受けているようです。
そしてそれを自身の本の中で展開しているのです。

フランシス.フクヤマ
それが、ヘーゲルの時代において、それなりの支持を受けてきたということは、共感する人が多かったということでしょう。
しかし、今の私たちには、少なくとも私にはパッとしない理論ではあります。
そういった称賛を得ようという意欲がわいてこないからですね。
それは倫理学が発展して、人を貶すよりも褒めるほうが人間関係にはよろしいということが広く認識されるようなったからでしょうか?
であるとすれば、ヘーゲルが生きた時代よりも人心が高次にになったということでしょうか?
そして、それを公然と多く私にして来てくれた周りの人間たちに感謝しなくてはならないことだろうということでしょう。
また同時に倫理学の発達にもです。

そして、フクヤマは「この欲求は、しばしば自分が他人よりも優れているという優越願望に転嫁する。」としているのです。
そういう優越願望も不問にされてしまう現代においては、やはりさらに人心が高次なものになったということでしょう。
この言説は、ホッブズも唱えていたことからかなり普遍性を持ち、多くの人に支持されていたということでしょう。
そして、日本の福沢諭吉は、奴隷に甘んじ、服属することは、人間の尊厳を傷つけるとして、その状態が維持されれば革命が起こるのは当然だとしているのです。
これを覆すならば、命落としても名誉ある死を選ぶのが人間としての尊厳だとしているのです。
この「自由を求める闘争」が、歴史を作り出してきたのです。
西欧だけが歴史を先導してきたという自負があり、フランス革命が切り開いた近代市民社会にはもはや主人も奴隷もないとすれば、自由をめぐる闘争もない。
命をとしてまで戦う価値はない。
そこに情熱など生まれようはずはないのです。
「豊かな時代に英雄はいない」という言葉を某本で読んだことがあるのです。

そういう言説を読んでも、もはや異世界のことのように感じるのであれば、やはり私たちが豊かすぎる世の中に暮らしているゆえなのでしょう。
ここで何を考えて行動するか、ですね。
生存を確保する合理的な論理が自由を得る闘争の歴史に勝利する。
そこで近代が動き出し、そして「歴史が終わる」ということです。
実に現代人に頂門になりえる本だということがわかりました。
この本を読むだけでなく、こういう豊かすぎる社会に暮らして来たらどういう人間に育ってしまうか、という弊害について書いた本をも読むべきでしょう。
そういう積み重ねによって、自分の市民としてのすべきことが明らかになっていくのです。
ただ漫然と1つの本だけを読むのであれば、あまり意味は薄弱と言わざるを得ないでしょう。
かの有名なニーチェは、これらの思想家たちの言説から影響を受けたのか、以下のような言説を引き出しているのです。
「支配者からの支配権を奪い取るという 劣等感と嫉妬心と屈辱感がないまぜになった反感が、鬱積していく。
その負の感情がルサンチマンになり自らが、支配者になりたいという欲望をたきつけ、近代革命を起こした。
批判主義もこの近代革命の延長線上にある。
キリスト教道徳こそは、神という絶対の主人に服従する奴隷としての人間が、自己満足的に生み出した奴隷道徳だった!」
佐伯氏は過去の思想家や哲学者の言説を拾い上げて、巧みにつなぎ合わせて論じる能力があるようです。
巧みに溶け込んでいるのです。
「」をつけて引用して、他愛もないコメントをしているだけの似非学者とは違うようです。
その他、佐伯氏は、ユダヤ賤民資本主義、現在の主にアメリカの新自由主義の弊、現代経済学の世界全般での弊といった通底する問題群についてわかりやすい事例を引き合いに出しながら論じているのです。
そういう問題点を交えて言説は論じていかなくては本は出す意味がないのです。
出す意味が非常に高かったと思わざるを得ないこの本は非常にお勧めです。
●以下よりどうぞ。




♯佐伯啓思
♯文明