学者であろうと学生であろうと専門だけに閉じこもるべからず?常に他領域に関心を? (加藤秀俊)
こんにちは。
文系の大学というのは、法学部とか経済学部とか文学部とかに分かれています。
それぞれの学部に試験で合格した人は入学して、自身の学部で学問を学びます。
しかし不思議だったのは、法学部だったら法や法律に関する事だけを学ぶはずなのに一年次では、一般教養として、文学だの倫理学だの経済学だの歴史学を学ぶわけです。
なんで分野の違うものを学ぶ必要があるのだろうかと不思議でした。
しかし、いろんな講義を受けていくうちに、本をいろいろ読んでいくうちに、そのわけがわかりました。
例えば倫理学と経済学は、いっけん全然関連がなさそうに見えますが、それぞれを学ぶことによって、互いのヒントになるわけです。
より広い視点が持てるというのでしょうか。
経済学を専攻する人が倫理学を学ぶことで、良き公正な取引きに関するモラルを学べるわけです。
公正な取引は健全な経済を運営する上で非常に大事なことです。
単なるお金を動かす行為が経済ではないのです。
経済を動かすのは人間です。
その際に必要なのは倫理的に素晴らしい心です。
やはり二束不離なわけです。
いな、別に必要なことはもっとあるでしょう。
そういう心に留保をつけていくことで、いろんな好奇心が芽生えて、その他の分野について学んでいけば、経済を専攻する人でも、その他いろんな重要事項が学べるのです。
そのいろんな領域への闊歩こそが大事なのです。
ゆえに、いろんなことをまずもって学んでいかなくてはならないのです。
それを発見することが出来た次第なので、一年次にいきなり専門分野だけを学ばない理由がわかりました。
私は法学部生でしたが、一年次は憲法、民法総則、基礎法学の3つだけが法学に関する科目でした。
二年次からは、ほとんど法学や政治学の科目になりました。
その他、一般教養は裁量でいくつか履修していいことになりました。
法学を専攻する学生も同様に、いろんな学問、例えば文学、歴史学、社会学といった学問を学んでいけば、自身の法学の理論を形成し構築する上で、ヒントになる、あるいはものすごく重要になることを学べるのです。
そういういきなりの出くわしこそが学問の楽しさではないでしょうか?
こういうことを一年次の最初の講演で教授は言うべきなのでしょうか。
私の場合は言われてなかったですし、そういったことは自分で気づいた方が面白くなるからこそ言わないべきなのかわかりませんでしたが、そういうことを認識するのは大事なことですよね。
やはり最初に見た認識で、法学部生は法学だけ、経済学部生は経済学だけ学んでいればいいというような風潮が日本を覆っていた時期が60年代から70年代にあったようで、それを批判したのがほかならぬ丸山眞男(下写真)だったのです。
それぞれの学部の教授が自分の専門だけに閉じこもり、他の領域との交流が全く途絶えている、まさに「タコつぼ」という状態になっているということです。
それは眞男氏の『日本の思想』(岩波新書)に書いてあります。
その『日本の思想』では、「哲学はあらゆる科学を基礎づけるものです。しかし、どの学部生も哲学を学んでいない。哲学に関する学部生だけが学んでいる」ということです。
確かに、自身の属する学部に関する学問だけ学んでいては、視野狭窄になり、幅広い視点を持つこともできないし、理論づけにも乏しいものしかできません。
ゆえに、自分の専門だけに拘らずに、いろんな学問を常に学び続ける姿勢が大切なのは言うまでもありません。
教授であろうと学生であろうと。
しかし、そういったことを指摘したのは、丸山だけではなく、私が敬愛していたし今もしている桜井邦朋や故.加藤秀俊(下写真)もしていたことなのです。
いや当時20歳前後だった私ですら、発見できたことなので、そんなにセンセーショナルな議論なのかなあという疑問が頭をもたげました。
この丸山の議論が出た当時の1961年には、センセーションを巻き起こしたようです。
当時私は生まれていなかったので、そのほどはわかりませんが。
一学生ですら分かったことを学者がわかったからといって…と疑問に思いました(笑)
丸山真男はつとにカリスマ性を内包した学者だったようで、本を出しただけで常に注目を浴びやすい人だったようです。
しかし、丸山だけでなく桜井邦朋や加藤秀俊やその他の複数の学者たちも指摘していたことなのに、ことさら丸山を…といつも私は否定的にならざるを得ないんですね(笑)
やはり学者としての立ち位置や出身大学の故もあって、その注目度は違ってくるのは言うまでもないようです。
しかし、どちらが先かといった議論ではなく、大事なのは、どの程度学問に打ち込むか、どの程度学問を楽しんでやるか、といったモラルで取り組むのがいいのではないでしょうか?
いかに注目されるかで、取り組んでいては学問がつまらなくなること必至です。
以上、参考にしてくださいませ。
今回考えたことは以上です。
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学問において当為を語るべきか、語らないべきか?加藤秀俊と梅棹忠夫を比べて論じる! (加藤秀俊)
こんにちは。
大学で講義されている学問というものは、どんな姿勢で臨めば一番モチベーションが上がるかということを考えると、やはり、自身が生きている社会の中で、それをどう生かすか、を考えながら聞いたり、読んだりすることではないか、と思われてならないですね。
そういうスタンスで臨めば、聞いたり、読んだりしているときにふと重要なことに出くわして、それをチェックしていけば、自身の生活や人生でいかせることが出来るのではないか、と思われてならないのですね。
逆に、そういうスタンスがなければ、聞いたり読んだりしている時に、重要と思われるものに出くわしても、通り過ぎてしまう性質をはらんでいることに間違いはないでしょう。
人間社会というものは、一度何かを築いてしまえば、永久的にその状態を維持できる、というものはないようです。
やはり一難去ってまた一難…これが永遠に繰り返されるのでしょう。
その状態にあえいだのがかの有名なアレクシス.トックビル(下写真)でした。
その一難去って、また一難というのが繰り返されるのですから、やはり人間たるもの、創造力を磨かなくてはならないでしょう。
創造力とは、常に発生する問題点に対峙して、それを良きものに改善していくことです。
まあ、人によってその定義には若干違いがあるようですが、たいてい誰にでも納得できるニュアンスはこれであるのではないでしょうか。
それは学問のアプローチングと軌を一にするのが見てわかります。
しかし、一難去ってまた一難という状態に嘆いたとはいえ、学者として生涯を全うしたのですトックビルは。
学問と社会生活でも、そこは軌を一にするのがわかるのであれば、やはり学問こそ誰もが真剣に取り組まなくてはいけないでしょう。
そういうモラルであったがゆえに、故.加藤秀俊氏(下写真)は、その著『独学のすすめ』において、「問題つくりができない学生が大勢いる。」ということを嘆いていたのです。
問題点は社会生活において常に隆起するものです。
それを人から指摘されるのではなく,自分で見つけなくてはいけないのは言うまでもあり子供ではなく大人なのだから。
それが出来ないことを嘆いていたのです。
ゆえに、同著内で「毎年同じノートを読んでいるだけの教授の講義はばかばかしくて出られなかった。」とまで書いているのです。
しかし加藤氏の盟友であった故.梅棹忠夫氏は、学問に対してそういうスタンスはほとんどなかったように感じました。
梅棹氏は、「知の巨星」とまで言われ、民族学博物館の館長を務めたこともあり、加藤氏とは対談集も出し、共著も出していたまさに盟友だったのです。
梅棹氏は、いろんな知の領域に関心を寄せて、それを分析力でもって論じることでいい、としていたのです。
勿論、知識.情報の単なる寄せ集めではなく、巷にはないもの見かた、考え方、分析眼でもって論文を提示するだけでいいとしていたのです。
勿論、その場合に当為(〜をすべき、〜とすべきという論)を提示する必要はないということです。
そういう当為を語らうために『文明の生態史観』を書いたのではないとしているのです。
梅棹忠夫(下写真)の『文明の生態史観』は、人類の文明史を語るうえでかなりセンセーションを巻き起こした本で、1957年という昔に発表された本であるにも関わらず、今も版を重ねて売られているのです。
「そんな版を重ねられた本を出した人が当為を語る必要はないというのだったら、語る必要はないかな…」と思い勝ちになりますがちょっと保留しておきたい事態です。
加藤秀俊氏は、そういうスタンスにちょっと違和感があった気がします。
その著、『社会学』(中公新書)において、社会科学なるものは科学ではない。
人間社会には法則なるものは成立しない。
万有引力の法則は、いつの世でも、どこでやっても、同じ法則になっていて不変である。
しかし、人間社会には、必ずいつの世でも、どこでやっても必ず成立するような法則はないからだ、というのがその論拠のようでした。
しかし、そんな厳密には法則性はなくとも、ある程度はおなじような法則で動くのだから、科学ではない、ということはありえないだろうというのが私の立場なのです。
ゆえに法則性の硬さは自然科学よりも緩いのであれば、なおさら当為を語る必要があるでしょうということです。
それに、単なる知への周遊でいい、ということであれば読書をする際にも、惰性になってしまいますし、緊張感が緩んでしまうでしょう。
何か当為を語る部分はないか?と思いながら周遊していった方が、緊張感が高まるのは言うまでもありません。
確かに、『文明の生態史観』は壮大な気宇を擁した本であり、私も読んでかなり感銘を受けた本ではありますし、その他梅棹氏の本をいくつもコレクションの中に入れてあります。
しかし、完全には梅棹氏には与さないものです。
これは一立場として言っているわけで、これ以外は邪道といっているのでもありません(笑)
ましてや知の巨星とまで言われた梅棹氏より私の方が正しいなどといっても誰もついては来ないでしょう、私ごときには(笑)。
こういった論客の意見をいろいろ汲んだ上で、自分のスタンスを脳内で考えて決める。
これも学問における守破離として非常に大事なことなのです。
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大学で学んだ知識は知恵に変えれば忘れない? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学で講義される学問は、やはり社会をよくするために存在しているのです。
ゆえに単なる知識を得るのみならず、学んだ人間の考えが投射されなくてはいけないでしょう。
ゆえに、年末の論述の試験においては、祖述だけしているのではなく、自分の考えや主張を書かないことには、及第点をくれない教授もいるから注意が必要です。
しかし、学問が何のためにあるのかがわかっていない教授も少なからずいて、そういう教授の科目の試験では、単なる知識を書けば及第点をくれる場合もあるから、そこは断定できませんね(笑)
そういうことを踏まえると、大学での勉強こそ力を入れて取り組まなくてはいけない性質のものだという気がします。
それは、故.加藤秀俊氏(下写真)も同じ立場だった気がします。
加藤氏が、本の内で「大学での勉強こそ力を入れて取り組まなくてはいけない」などと書いていたわけではないですが、いろんな本の中で、そういうニュアンスの事を書いていたことは間違いありません。
年末試験の論述では、講義で習った理論的な知識が現代社会では、今どうなっているか?
かされているか?
問題点はあるか?
これからの課題は?
そして私たちがなすべきことはあるか?
あるとしたらどのようなことをしていけばいいか?
そういったことを論じていかなくては意味がないのです。
単なる祖述の論文ではNGです。
こういったことが書けるためには、ぶっつけ本番ではかなわないでしょう。
すぐかけるためには、事前に新書の類を読んでチェックしておかなくてはならないのです。
論述せよと問題に書かれてペンが止まっている学生は、そういったことを事前に準備していないからペンが止まってしまうのです。
ことは高校までの数学の問題でも一緒なのです。
解法をあらかじめ脳内にいくつも入れておかなくてはいけない性質を持っているのです。
数学は暗記科目だ、といっていた教師が高校時代にいましたが、その通りなのです。
ぶっつけ本番で解こうと思っても数学もむりなのです。
ことは大学の論述試験でも一緒だから軌を一にしているのです。
私が大学在学中のゼミの先生が曰く「大学で学んだことは考えることによって忘れない」といっていましたが、その通りです。
それでも、時間が経過してしまうと、その考えたことすらも忘れてしまいますから、その考えたことは、紙に書いたり、ワードに書いたりして保存して、それを定期的に見返せば、また思い出すことでしょう。
また、考えたことを、行動に移すことが一番重要であるとしか思えないですね。
文化人類学の講義での教授が、「生ごみは水分を含んでいて燃えづらく、燃料を必要とする。それよりも、土に埋めることで、土中のバクテリアが分解してくれて養分を含んだいい土になる!」という非常に至高の教えを諭してくれたので、在学中からも今までも、生ごみは全部土に埋めることにしています。
生ごみは、ごみ収集日に袋に入れて出すと、そのにおいに引かれてカラスが突っついて食べにきてしまうので、道路がそのごみで散乱してしまう光景は、日常茶飯のことです。
そうならないためにも、地球環境のためにも土中に埋めるのがいいのです。
それに、埋めずに、台所に可燃ごみの日までおいていたら、臭いが立ちこめてしまい風水的にも悪いのです(笑)
やはり土中に埋めてしまうのがいいのです。
行動に移して得た知識を知恵というのですが、知恵は忘れにくい性質をもっているのは断言できます。
知恵が多ければ多いほど社会はよくなるのです。
そういう社会を学問は目指しているということを忘れないでほしいものです。
そんな意義について興味を持った人は、故.加藤秀俊氏の歴史や偉業について興味が出ることは間違いないです。
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文字嫌いでも著作家は務まる?例外的ですが務まります。しかし、大学教授とフリーランス著作家は性質が違うから注意です! (加藤秀俊)
こんにちは。
大学教授や著作家という人たちは、毎日文字に接していなくてはつとまらないから文字好き、という風に考えられがちですが、実際はどうなのでしょうか?
それはケースバイケ−スということでしょう。
著作家として大成するには、いろんな本を随時出していくこと。
その内容も毎回成長していくこと。
同じ内容で満足していないこと。
こういう要素がないことには大成することは出来ないでしょう。
そういう要素があるのであれば、文字嫌いでも務まるでしょう。
私が敬愛しているロバート.キヨサキ(下写真)は『金持ち父さん』シリーズで何作も本を出していますが本人に言わせると、本人は文字嫌いで、中学校時代に国語の単位を2回落としていたというのです。
それでも、毎日、読書を課し、世界中でロバートの本がベストセラーになっているというから驚きです。
また、同じく敬愛する佐伯啓思氏(下写真)は、ありとあらゆる社会科学に精通している学者で、これまでに50冊以上もの単著を出しているのです。
そんな幅広い造詣があって、ぐいぐい引き込む文の魅力があって、それだけの冊数を出しているとなれば、かなりの本好きであろうと察しがちですが、実際はそうではなく、かなりの文字嫌いだったようで、国語が大の苦手だったようです。
しかし、文字嫌いでも著作家や大学教授も務まるのか、ということで大学教授や著作家を目指すのはよくないでしょう。
先の、いろんな本を随時出していくこと。その内容も毎回成長していくこと。同じ内容で満足していないこと。の3つを満たしていれば、それでいいでしょう。
しかし、大学教授は事情が違うのです。
というのも、大学生はほとんどが文字嫌いで、単位が簡単に取れる教授の講義に履修が殺到するのです。
ゆえに、毎回毎回同じようなことをしゃべっているだけの教授の方が受けはいいのです。
ゆえに、多くの人がそういう講義を履修して、それゆえに大きな額の給料がもらえる。
それで満足して、本を出さない、出しても冊数は限りなく少ない。
内容も最初から最後まで同じような内容で学ぶものが少ない、という結果になるのです。
それでもその教授は満悦でしょう。
高い給料がもらえるのですから。
それに満足して、学生時代に抱いていた憧れていた学者像は、いつの間にやら完全に脳内から消えているのです。
しかし、大学に属さずに完全に著作物だけで生計を立てようとしている人は、そんな悠長なことはしていられません。
本や講演が基本ですから、それらからお金がもらえないとなると生計がたてられなくなりますから、日々奮闘するわけです。
その結果、いろんな本を随時出していくこと。
その内容も毎回成長していくこと。
同じ内容で満足していないこと。
といった要素を擁した本を書き、講演をすることで生計が建てられるのです。
そういう著作家をこそ私は尊敬するのです。
しかし、著作家は読書嫌いは務まらない?と思われがちでしたが、実際、あれほどの偉業を成し遂げたロバート.キヨサキや佐伯啓思はそうではなかったという事実を知って私は驚いたのです。
しかし、あれほどの数の本を出しておいて、そして売れていて…(笑)
しかし、私の在学時代に受講した政治学の教授は、いま70歳を超えました。
卒業後、その教授がどれだけの業績を上げたのかを大学のホームページで見て、驚きました。
なんと本を1冊しか出してないのです。
その教授は大学生時代に、マックス.ウェーバー(下写真)の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで、感動し涙した。
「大学の教授になれば、ウェーバーみたいになれるのかなと思って大学教授になったけれども、実際はなれないんですね!」とぼやいていたのを覚えています。
その教授の出した本を買って読みましたが、確かに勉強しているなという感触はありました。
しかし、そこに盛られている情報や数値がマニアックすぎて、大学院生やその手の専門家にした、意気が続いて読み切れない難しさがありました。
それゆえに、集中力が萎えてきて、途中で読むのをやめてしまったほどでした。
こういう本でありながら、400ページ弱で、値段は9000円以上…これでは売れないよと思われました。
それに萎えて、本を出すのを辞めようと意気消沈してしまったのでしょうか。
それ以降まったく本は出ていないのです。
それでも負けず魂で、また本を奮起して出すのが正常でしょう。
マックス.ウェーバーに質で負けるのであれば、せめて量で勝負すべきだったのではないか、と思われてならなかったのです。
量をこなせば、質も上がってくるのが必然なのです。
政治学概論、政治学原論といったあまりにありきたりな基礎理論本を出しても今時では売れないのは明白だったゆえに、研究していくうちに、自分で発見した、誰も取り上げていないけれども、大事と思われる事柄を扱った本を出せばよかったのに、とおもわざるを得ないですし、情報が無数にある現代においては、そういう事柄はいっぱいあると思われるのですがどうなのでしょうか?
大衆迎合は私自身好きではないです。
そういう姿勢の教授の本を読むよりも、自身で発見した誰も取り上げてはいないが重要な事柄を取り上げて論じる。
それで、その本を読んだ人が覚醒し、社会は良き方向へ動いていくのではないでしょうか?
それが教授や著作家としての役目の1つであると思われるのですし、事実、ロバート.キヨサキや佐伯啓思はそういうスタンスを貫いてきたのみならず、それらの本を読むと毎回、非常にセンセーショナルな理論にいつも驚かされるのです。
この両者に共通しているのは、読みやすい筆致で物を書いているということです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)も、読みやすい筆致でした。
そういう理論をワードでにも書き続けていれば、何かしらの成果を上げることは出来たと思うのですが、その教授は、大学で講義をしたりゼミをしたりすることで高い給料をもらえるので、学生時代に抱いていた高い志を失ってしまったのでしょう。
労せずして大金を得る…これこそが人間の精神を荒廃させる最もなものなのでしょうね。
ゆえに自身の精神を荒廃させたくないのであれば、大学教授にはならずに、自身はフリーランスで著作家を目指すべきでしょう。
しかし、どの教授も研究しないというわけではないのです。
研究する教授はとことんする。
しない教授はとことんしない。
これが事実なのです。
こと加藤秀俊氏は前者でした。
さぼろうと思えばいくらでもサボり、毎年毎年同じ講義ノートを読んで解説しているだけの授業をしていても高給取りになれたはずですが、あえてそうせずに、荊の道を選んで、逝去するまでに100冊以上の本を出し、著作集を12冊、社会学選集を2冊出したのです。
●そういう著作家としての鏡を体現してくれていた加藤秀俊に興味の出た方にお勧めの電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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丸山眞男に魅力はあるか? (加藤秀俊)
こんにちは。
読書の意義とはどういうものかを考えてみたいです。
読書をすることで、読んだ人の人生を煌びやかなものにする=希望が持てる、あるいは読んだ人が考えを良きように変える、そんな効用がないことには読む意味がないでしょう。
そういう場合、読みやすさがなくては意味がないのです。
あまりに難解な表現をしたり、他の本からの引用ばかりの本では読みづらくて、学べることも少ないまま終わってしまうでしょう。
そういう著者は古今東西必ずいるものです。
私も書籍を書きますが、その際に引用は極力少なめにすることを心掛けているのです。
あまりに引用ばかりの著者は、そういうことをすることで、学術的に思われるだろうと思ってのことなのでしょうか?
そんな錯覚に陥ることも私もあります。
しかし、そういう本を読んだ感想は、やはり読みづらい、の一言に尽きますから、そのことを心掛けていくべきでしょう。
一度でも、そういう著者の本を読んでみるのがいいでしょう。
読みづらいので、読者がそういう思いにならないように引用は少なめにしなくては…という覚醒をしてくれればいいのですが…。
そこで思い浮かぶのが、丸山真男(下写真)です。
文系の大学に行った人ならば、1度はかならず聞く名前でしょう。
私の在学時代に、政治学史の教授はこの人を「政治学の神様」とまで評していました。
しかし、私がこの丸山の本を読んだ時の感想は、難解で読みづらいの1言につきました。
明治以降、日本は西洋列強に学ぶべく、いろんな書物を輸入して、それを翻訳していく努力をこなしてきました。
その際に、ドイツ語やフランス語の文献を翻訳していたが、そこでは日本語に訳しきれない単語を、面白難しく書いていた観も無きにしも非ずだった気がします。
日本は、とくに第二次世界大戦の敗戦国ゆえに、これ以降は後ろめたさを感じ、そういった先進国の学問から得た難解語を交えて表現するのが科学の本質という誤った知的土台があったのではないか、と思われてならないのです。
ゆえに当時の社会科学の本は、読みにくいものが多かった気がします。
特に西洋がらみの本に関しては。
私が買って読んだ丸山の『日本政治思想史研究』においても、『現代政治の思想と行動』においても、江戸時代の文献の長々とした引用がなされて、読みにくいことこの上なく、読み終わった後の感想は、何も残らなかったというのが正直なところです。
印象が何も残らなかったがゆえに、惜しげもなく古本屋に売ったのですが、それでも後悔は全くなかったです。
儒教等が、当時の日本人の内面を形成し、政治的な行動に結びつけられたことは間違いないことです。
しかし、丸山はそれを自分の言葉で表現することをせずに、その時代の文献からの引用ばかりで、しかも多くの難解な語で表現していたのは、いただけなかったのです。
そして、江戸時代の古語ばかりの文献の引用ばかりだったから更にわかりにくかったです。
自分の意見や主張は、他の本からの引用ではなく、その本を書いた人のものを読者は読みたいのです。
他の本からの引用で済ます著者の本はよくありますが、それでは説得力がまるでなかったのです。
そういう本を書くのがまさに丸山眞男だったのです。
私は在学時代、政治学のゼミに入っていました。
そのゼミの先生は、丸山真男の信奉者だったのです。
その先生曰く、「私は学生時代に丸山真男の本を読んで感動したよ。「頭がいいっていうのはこういうことかなっ!」と思った。学生時代から今まで丸山真男の本を何度読んだかわからない。もうボロボロだもの。」と感情をこめていっていたのです。
その先生は私と違って古文の勉強がもてはやされていた時代に生まれ、実際に多くの古文を読まされた教育を受けたがゆえに、古文の教養はたくさんあったのは確かでしょう。
ゆえに、丸山の本が偉大なる本に映ったのでしょうか?
私が古典が大好きで、受験が終了してしまった後にその知識が脳内から雲散霧消せず、古文の教養が脳内にたくさん残っていたのであれば、丸山への認識は違ったものになっていたのだろうか?
そんなことはないだろうと思います。
元々、引用が多い文章は読みづらい性質を孕んでいるし、支離滅裂な文章にもなり、自身の意見がほとんど書かれていないがゆえに、非常につまらなくなるのです。
こういう引用ばかりの本の著者は、ワードのNGリストに入れて2度とその著者の本は買わないことにしているのです。
残念ながら丸山眞男はNGリストに入っています。
話題になったりしている著者の本が出版されて、それを読もうと思ったときに、その膨大なNGリストを見て、そこにその著者がリストアップされていたら、私は買わないことにしています。
そうすることで、無駄な時間やお金を使わなくてよくなるので。
以前に、引用ばかりの本を書いている人は、やはり次の本も、また次の本も引用ばかりの本を書いているのが通常なのです。
例外はありません。
それを覆してくれる例を知っているならば、是非とも教えてほしいものである。
しかし、考えたのは「難解さ」が、丸山の魅力の1つになるのだろうか?ということです。
確かに簡潔すぎる表現や単語の使用は考え物です。
「犬が東を向いたら尻尾は西を向くのである」などという解説などいらなくてもわかる文章を読んだって面白くないです(笑)
そういう簡易的すぎる文章よりも、若干難解な語を使うことで、読み手に思考の契機を与えてくれるもので、覚醒作用があることは確かでしょう。
しかし、あまりに難解すぎて、読む気が失せるほどのモノであっては、意味がないでしょう。
私にとってはまさに丸山が好例なのです。過ぎたるは及ばざるがごとしとはよく言ったものです。
加えて現代人にとっては難解な古文の引用が多いのも問題だったです。
それゆえに、丸山よりも、自分の言葉でわかりやすく論述している著作家の方が好感が持てたのは間違いないです。
故.加藤秀俊氏(下写真)はまさにわかりやすい文章を書いていくことを地でおこなっていたのです。
読んでいて精神を覚醒させられる、新たなものの考え方が生まれる、世界観や自分の可能性が広がる…そんな魅力を備えていた学者でした。
社会学者という名目でも、好奇心の赴くまま色んな分野にまで触手を伸ばし、いろんな分野の本を書いていたのです。
いろんな知識を吸収していた知識人だったのです。
専門家ではなく知識人だったのです。
そういう人の本を読むとどんな効果、もちろん良い効果が表れるか?
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大学での学問を学ぶ意義は?そのアプローチはどうすればいい? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学の勉強は、何かと賛否両論も巻き起こる性質のものであることが実感しています。
高校までの勉強にはない理論を、そこでは学ぶわけですが、その理論はどうすれば忘れないか?
どうして学ぶ必要があるか?
といった疑問がわくでしょう。
例えば、経営史という科目は経営学部にはあるでしょう。
しかし、それはどうして学ぶ必要があるのでしょうか?
経営史はそれを学ぶことで、現代の経営に生かすことできるからなのですね。
過去、人類が経てきた経営における失敗や成功理論、それを現代の経営に参考になるように存立しているのです。
こういう経営をしていたら成功した、あるいは逆に失敗した。
それを踏まえていれば、これからの経営を行うに際して、指針が得れるわけです。
そんなことは経営者にならない人は学ぶ価値はないんじゃないか?
そんなことはないのです。
これから誰もが社会に出て、企業に入るわけですから、自分が平社員であろうが管理職であろうが、そこで学んだことは生かせるはずです。
企業全体のマネージメントに、意見をするに際して、経営史で学んだことを参考に、その是非を問うことをなしなくてはならないでしょう。
こういうことをしたらいいんじゃないか?
ああいうことをしたらいいんじゃないか?
といったことが心にいっぱい芽生えてきたら、自身で経営をしていくのがいいのではないか、と思われてならないですね。
そう、起業するのです。
逆にそういう思いが芽生えてこないのであれば、そのままその会社に留まるのがいいでしょう。
しかし、これは起業がよくて、雇われるのがいけないといっているのではないのです。
どちらも神の前では一緒です。平等です。
起業家を目指そうと、雇われ人を選ぼうが、学問にはなにがしかの役立つ理論が学べるのです。
元より、経営者を目指そうとしている人には、かなり参考になることでしょう経営史は。
そこにおいて改善をしていくうえで、自身の意見なりを上奏するに際して、大事なのは、その理論を覚えておくことでしょう。
しかし、それを忘れてしまうパターンは誰にだってあります。
そうならないように、大学で使ったノートなり、レポート用紙なりは保存しておくのが必須になります。
それを時折見なおすなりすれば、また思い出すことでしょう。
また、その経営史についてですが、年末の試験において、理論を論述しますが、その際に、経営の歴史について論述するだけでは、及第点をくれない場合があります。
それは先に書いた通り、現代の経営を良き方向へ生かすために経営史はあるのですから、現代の経営についても勉強しておくことが必須になります。
それはどのように学ぶか?
現代の経営について書かれた新書の類いを1冊は最低読んでおくべきでしょう。
その2つを兼ね合わせて論じていくが大事なのです。
現代の他の分野についても精通していなくてはならないのです。
社会学とか経済学とか、法学とか、歴史学とかいろいろです。
精通とは大仰なと苦笑を誘いそうですが…(笑)
でも、それぞれの学について新書1冊読めばいいでしょうし、足りない人は、もっと読めばいいでしょう。
もっと読みたい、1冊では物足りない、という人はどんどん読んでいくのがいいでしょう。
お金のない学生であれば、中古本屋の100円コーナーで売っているものでもかなり参考になるでしょう。
それらの本で学んだ内容も忘れないためには、ノートに書いておくなり、ワードに書いておくことが重要でしょう。
このようにすくなくとも2面において学んでおかなくてはならない性質のものなのです、学問というものは。
ゆえに、どの科目もそういう性質なのであれば、シーズンオフから、その準備をしておくのが正当なのです。
大学の科目は1つの科目で4単位とされています。
それは1回の講義につき、4時間の予習をしておくことが必要だからです。
そんな勉強している人がどれだけいるか疑問ですが…(笑)。
これだけするのは、やはり大学院生でしょう。
学部生ではちょっと無理かなという気もしますが、それだけ準備が必要ということです。
そういうことが苦でないという人は、学問に向いていることでしょう。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、それを地でおこなっていたようです学部生時代も。
1日に1冊本を読むということも課していたといいます。
その積み重ねが、100冊以上もの本の出版、12冊の著作集発刊、2冊の社会学選集発行にまで至ったのです。
こういう過去からの積み重ねが大事なのです著作物の発行には。
●そんな人生をかいまみて、どのように周囲に影響を与えることが出来るかを知りたい人には以下の電子書籍,ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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最終学歴が終わったら誰しも人生の経営者になる。その準備をしておくべき? (加藤秀俊)
こんにちは。
最終学歴、それは人によって高校だったり、専門学校だったり、大学だったりといろいろでしょう。
それを卒業したら、誰の助けをもらうことなく舵取りをしていかなくてはいけないのです。
まあ、精神がアマちゃんで親のすねかじりをし続ける人もいますが(笑)
しかし、大半の人は自立していくわけで、そこからは、自分でお金を稼ぎ、それを管理して、子供が出来たら、その子たちも養い、その養育費も払い、出費が多くなったら節約し、ことによったら増やさなくてはいけないのです。
こういった一連の事柄は誰が考えて行動していくのか?
勿論、自分1人です。
企業に入って、そこで働いてお金を得る…それだけではいけないでしょう。

いろんな困難が待ち構えているのですから。
その際に、一番良いのは人から知恵を借りることでしょう。
しかし、その人、ですが、隣人や友人がその道のエキスパートである確率は、まちまちでしょう。
それならばエキスパートに相談するのがいいですが、逐一聞いていられませんね?
ならどうするか?
本を読むことです。
本には、その人の書いた知恵が詰まっているわけですから、それを借りない手はないのです。
勿論、その人だけでの意見だけでは多面性を有しているとは限りませんから、複数の人の知恵を借りるのがいいでしょう。
要するに、複数冊読むのがいいということです。

その内容は、読んだ後に忘れてしまいますから、そうならないように、大事と思われた箇所は、ノートに書いておくか、パソコンのワード等にデータベース化しておくのがいいでしょう。
こういう作業は、最終学歴の学校時からしておいた方がいいでしょう。
それが重なり、社会において実行しておけば、かなりの知恵になることは間違いないでしょう。
店長と経営者、どちらも同じように見えますが、決定的に違う点は、経営者は、全部自分で管理するということです。
飲食店に例えるならば、メニュー開発、集客、従業員の教育、金銭管理、財務管理、…Etcすべて自分でこなすということです。
大手飲食チェーンの店長しかしてこなかった人が独立して、これらすべてをこなすとなると、何もできなくなり、短期間でその立ち上げたお店が閉店、という憂き目にあうのです。
そもそも、こういう違いすら把握してこなかったのでしょう。
それでは勉強不足です。
これと同じように、最終学歴が終わったら、人は誰も人生の経営者になるのです。
経営者なんて、大袈裟なと思われる向きもあるでしょうが、大袈裟でもなんでもないのです。

自分の家族だけでなく、人との関係、地域社会との関係、自分の健康(飲食物、エクササイズetc)、老後の仕事や資金管理、こういったものを、多面的に探り、勉強して、そしてそこで学んだことを実際の社会で行動していくのです。
それは自分の生活もよくなることを目指すのも当然ながら、自身の身の回りの地域やひいては国際社会もよくなることをも探り、勉強して考えて行動に移すことが大事なのです。
これら多岐にわたることを全部こなすことは難しいですが、できる範囲でしていくことが大事でしょう。
そういう市民が大勢出てきてくれることを、学問は目指しているのです。
それは何も大学だけで学べるものではないのです。
誰でも、学問を学びたいならば、本を買って読めばいいのです。
高〜い大学の学費を払って学ぶことなどする必要はないでしょう(笑)
文系の大学の1コマ1時間半の授業料は今や3000円になってしまっているのです。
もっと高い大学は4000円もするのです。
そんな価値があるのか?
全くないと断言します。
そんな高い授業料を払うならば、学問の本を買って読んで勉強するほうがいいでしょう。
その方が全然、経済的です。
しかも古本ならばもっと安く買えます。
なら、もっと経済的でしょう!
参考にしてくださいませ。
●こんなスタンスに共鳴できる人には、以下の電子書籍.ペーパーバックを読むのがいいでしょう!(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
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最終学歴、それは人によって高校だったり、専門学校だったり、大学だったりといろいろでしょう。
それを卒業したら、誰の助けをもらうことなく舵取りをしていかなくてはいけないのです。
まあ、精神がアマちゃんで親のすねかじりをし続ける人もいますが(笑)
しかし、大半の人は自立していくわけで、そこからは、自分でお金を稼ぎ、それを管理して、子供が出来たら、その子たちも養い、その養育費も払い、出費が多くなったら節約し、ことによったら増やさなくてはいけないのです。
こういった一連の事柄は誰が考えて行動していくのか?
勿論、自分1人です。
企業に入って、そこで働いてお金を得る…それだけではいけないでしょう。
いろんな困難が待ち構えているのですから。
その際に、一番良いのは人から知恵を借りることでしょう。
しかし、その人、ですが、隣人や友人がその道のエキスパートである確率は、まちまちでしょう。
それならばエキスパートに相談するのがいいですが、逐一聞いていられませんね?
ならどうするか?
本を読むことです。
本には、その人の書いた知恵が詰まっているわけですから、それを借りない手はないのです。
勿論、その人だけでの意見だけでは多面性を有しているとは限りませんから、複数の人の知恵を借りるのがいいでしょう。
要するに、複数冊読むのがいいということです。
その内容は、読んだ後に忘れてしまいますから、そうならないように、大事と思われた箇所は、ノートに書いておくか、パソコンのワード等にデータベース化しておくのがいいでしょう。
こういう作業は、最終学歴の学校時からしておいた方がいいでしょう。
それが重なり、社会において実行しておけば、かなりの知恵になることは間違いないでしょう。
店長と経営者、どちらも同じように見えますが、決定的に違う点は、経営者は、全部自分で管理するということです。
飲食店に例えるならば、メニュー開発、集客、従業員の教育、金銭管理、財務管理、…Etcすべて自分でこなすということです。
大手飲食チェーンの店長しかしてこなかった人が独立して、これらすべてをこなすとなると、何もできなくなり、短期間でその立ち上げたお店が閉店、という憂き目にあうのです。
そもそも、こういう違いすら把握してこなかったのでしょう。
それでは勉強不足です。
これと同じように、最終学歴が終わったら、人は誰も人生の経営者になるのです。
経営者なんて、大袈裟なと思われる向きもあるでしょうが、大袈裟でもなんでもないのです。
自分の家族だけでなく、人との関係、地域社会との関係、自分の健康(飲食物、エクササイズetc)、老後の仕事や資金管理、こういったものを、多面的に探り、勉強して、そしてそこで学んだことを実際の社会で行動していくのです。
それは自分の生活もよくなることを目指すのも当然ながら、自身の身の回りの地域やひいては国際社会もよくなることをも探り、勉強して考えて行動に移すことが大事なのです。
これら多岐にわたることを全部こなすことは難しいですが、できる範囲でしていくことが大事でしょう。
そういう市民が大勢出てきてくれることを、学問は目指しているのです。
それは何も大学だけで学べるものではないのです。
誰でも、学問を学びたいならば、本を買って読めばいいのです。
高〜い大学の学費を払って学ぶことなどする必要はないでしょう(笑)
文系の大学の1コマ1時間半の授業料は今や3000円になってしまっているのです。
もっと高い大学は4000円もするのです。
そんな価値があるのか?
全くないと断言します。
そんな高い授業料を払うならば、学問の本を買って読んで勉強するほうがいいでしょう。
その方が全然、経済的です。
しかも古本ならばもっと安く買えます。
なら、もっと経済的でしょう!
参考にしてくださいませ。
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高校までの勉強と大学のそれはどう違うかを歴史を例にして詳説する?(加藤秀俊)
こんにちは。
高校までの勉強と、大学での勉強の一番の違いは、やはり「理論」の論述であるというところでしょう。
高校まではほぼ、知識を詰め込めばよろしかったのです。
それで知識を問われれば、それを書くだけで良かったのです。
しかし、大学では理論を書くわけです。
論述ですから、文章を書くことが基本になります。
そして自身の脳内で考えたことも書く必要があります。
高校までは単語を覚えるだけで良かったのですから、その問われる単語に赤ペンでマークをして、それに色付きの下敷きで隠して、そのマークを脳内で当てる。

そういうことでしたが、論述の内容を覚えなくてはいけないのですが、そんなペンでの暗記などあまり役立つとは言えないです、理論は長いですから。
ゆえに、大学での勉強の方が難易度は高い、という人がいてもおかしくはないでしょう。
しかし、それではその内容を覚えているためにはどうすればいいか?という疑問がわきますね。
それは、やはり、主体的にその学問に関する新書の類いを多く読んでいくことでしょう。
例えば「経済学概論」という科目を履修しているとするならば、経済学に関する新書の類いをむさぼるように読むのです、シーズンオフの時期から。
これこれこうでこうなる、といった理論を覚えていくためにはそれしかないでしょう。
その理論ですが、教科書などに書かれている文章をそっくりそのまま覚えている必要はないのです。
自分の言葉で変化させてもいいでしょう、文意が変わらなければ。
その理論ですが、年末の試験の前に、ほぼ一夜漬けで覚えようとしても、無理な話しでしょう。
少なくとも私にとってはそうでした。
でも、それをやってのけている人が大勢いましたから驚きでした(笑)
しかし、そのようにして暗記した内容はすぐに忘れてしまう性質をもっているのですから注意が必要です。
もとより、学問は社会にある問題点を見つけて、それを構造的に明らかにして、それを改善していくためにはどうすればいいか、を考えて行動することを学んだ人に期待しているわけですから、それは日々取り組まなくてはいけないことでしょう。
試験時だけすればいいということではないと思います。
高校までの勉強で、こと歴史を学ぶのは、年表と出来事を暗記するだけで良かったのです。
しかし、これを学んで何になるのかという素朴な疑問がわいた人が多いでしょう。
端的に書きましょう。
歴史を学ぶ意義は、過去の出来事を現代に生かすためにあるのです。
人間の思考や行動は古今東西そんなに変わるものではないですし、ゆえに歴史から学ぶ事項を探さなければなりません。
過去こういうことがあった。
現代でも同じようなことが起きた。
それは何故か?
ではそれを繰り返さないためにはどうすればいいか?
そんなことを探るためにあるのです。
現代に生かすために歴史は存在するのです。
経済史や経営史といった学問は大学にありますが、これらは現代の経済や経営に生かすためにあるのです。
ゆえに、それらの歴史についての論述だけ書いても、高得点は得られないでしょう年末試験で。
やはり現代の経済や経営までも勉強して、それを現代にどのように生かすかを論述しなくては及第点ギリギリか、教授によっては落第点をくれる場合もあるから注意が必要です。
しかし、学問は現代に生かすためにあるということを認識できていない教授も中にはいますから、そういう作業をしなくても高得点をくれる場合もありますから断定は難しいところです(笑)。
フランシス.フクヤマというアメリカ人の有名な歴史家がいますが、その人は『歴史の終わり』という本で有名です。
その人の歴史分析によれば、
人間が奴隷に甘んじたり服属することは、人間の尊厳を傷つけることであり、それから脱するための革命が起こるのは当然であり歴史の必然である。
そのために命落としても名誉ある死を遂げることであり何ら恥じることではない、としていた時代があった、ということです。
確かにそうですね。
自由の獲得や安寧のための闘争を舞台にした歴史ドラマを見ると、そんなかっこいい武将や武士はもちろん、家臣たちが大勢出てきますね。
このように、自由を求める闘争が、人間の歴史を作り出してきた、ということです。
休むことなく次々と大きな力求め、征服による名声得たいという意欲も出現してきたのです。
こういう人物は現代では全然見られませんが、歴史を紐解くとそういう人物は確かに現れていますね。
そういうことを考慮するに、やはり環境によって人間の精神を形作る、ということは間違いないですね。
古代の徳という市民的伝統を放棄し、それを生命延長といった近代は権利へと転化する。
これを承認求める闘争、自由求める闘争とヘーゲルは規定しましたが、フランシス氏(下写真)はヘーゲルの歴史観に多分に影響を受けているんがわかります。
現代においては、生存を確保する合理的な論理が自由を得る闘争の歴史に勝利したということです。そして、近代が動き出し、人類の闘争のために歴史が終わる、ということですね。
承認欲求や優越願望は人間にとっては根源的なものであり、その闘争の歴史が終わってもマイノリティ差別、人種差別、女性差別は永遠に終わらない。根絶は無理ということですフランシス氏にとっては。
それなりに批判はあるものの大筋では説得することが出来るので、かなりセンセーションを巻き起こした本ではあります『歴史の終わり』は。
社会の様相が当時とはかなり違うがゆえに、当時の人間の精神を理解することは難しい作業でありはしますが、いくばくかでも知るには当時のことが書いてある本を読んでどの程度かを知る必要があるし、そのまま「知りえない」というスタンスで固定的では意味がないです。
そのことを理解するために学問は存立しているのです。
その意義ですが、どの程度かは自身で主体的に研究して見極めなくてはならないのは言うまでもないことです。
第二次大戦後には、国民の大半以上が利害が一致して誰もかれもが国の立て直しに率先して働きづめになっていったのです。
ゆえに、大半の団塊の世代といわれる人たちには、現代特徴的なフリーランスな働き方には、理解できないでしょう。
やはり世相が変われば、人心も変化していくのです。
やはりそのことを心の片隅に留保しておいてほしいものです。
そんな世相に生まれ育った私の世代も団塊の世代の心情は理解できず、という感じです…って別にけんかを売るわけではないです(笑)
批判するわけでもないのです。
変化は必然という人類普遍の事象を確認しておきたいことである、ということだけです。
現代に特有の?なのかを吟味してほしいものです。
当時の経済状況、会社のシステム、機器類の違い、こういったものをくまなく調べるか、研究していった結果、このような状態に落ち着いたということを認識できれば、今の世代の働き方についての理解が出来るようになるでしょう。
自分の時代とは違うという単なる理由だけで批判するのは間違いというものです。
そして、団塊の世代の心情を理解するためには、やはり当時の人たちの事柄を書いた本を多少なりとも読むことが大事でしょう。
しかし、フランシス氏の指摘もさることながら、現代人がハングリー精神の欠如をきたしている、ということは瞠目すべき事項でしょう。
その他、武道家や歴史家といった人たちにも指摘されていたことで、いろんな本でそう書かれているのを読み、ドキッとしたものです。
そういうものの欠如は精神上よくないですし、人生を生きる上での心情上でも経済上でもよくないことは間違いないでしょう。
ゆえに、こういうものが必要と思われた人は、自身の子供や周りの人間がそういうものを持ってほしいという気概を持ったのであれば、それを模索して、答えやそれらしきものを見つけたら、実生活で実行していくことが大事でしょう。
それを学ぶには、何も大学に行かずとも、いろんな本を濫読することで限りなく探ることが出来るのです。
学問を学んでいると、そういうことをつい考えてしまうのです。
●そういう知的作業の好きな人、そんなスタンスに共鳴できる人は、以下の電子書籍.ペーパーバックはお勧めです!(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
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失礼いたします。

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なぜ、大学の勉強こそが大事か?を構造的に明らかにする。 (加藤秀俊)
こんにちは。
私が敬愛している故.加藤秀俊氏は、愛媛県の市民会館で開かれたシンポジウムの講演を頼まれて、それをおこなった内容が『文化講演会 2』という編著本になっているのです。
そこでおこなわれた内容を要約すると以下のようになります。
上杉鷹山のいた米沢藩(山形)は絹織物を開発をして大いに栄えた。 そして、米沢繊維高等学校を作った。
富山の前田侯は本草学で有名だが、長崎で留学をした立派な医者を何人もスカウトして越中富山の薬売りになって栄えた。
広島の呉は、船大工が作った船が有名で、遣唐使で空海が使った船が有名であるが、それが近代の造船技術と結びついて瀬戸内海における極めて重要な造船業に発展した。
こういった歴史的事象からわかることは、経営の才能のあった大名がいたことろが栄えた、ということです。
そして、地域社会は、よそ者を入れることで活性化する。
土地の人間だけが集まってやあやあと肩をたたきあっているだけでは、新たな方向性が見えてこないということです。
京大はノーベル賞受賞者が多いが、東大は少ない。
京大は広く全国から人材を集めたということです。

こういったことから加藤氏が結論付けたのは、以下です。
「過去を一方で振り返りながら、他方で未来から現在を逆算する方法というモノをそれぞれの地域社会は持つべきだ。
こうなってほしいという理想像を作り上げたうえで逆に現在というものの自らの使命をそこから計算してほしいのだ。」ということです。
そういう実学的な情報を学び、それで何を抽出し、そこで何をすべきか、を考え、実社会で行動に移す。
そういう人が多ければ多いほど、社会はよくなるのです。
何も、サラリーマン人生を送るだけが人生ではないでしょう、ということは私が言いたかったことでもあります。
そういう社会にある問題点を構造的に明らかにして、そこで何をすべきかを考え行動する。
これこそが、学問の存立意義であると思うので、それを学ぶためにも、どの大学生も必死になって大学での勉強をこそしなくてはいけない、という風に私は思ってました。
それと軌を一にしているのです加藤秀俊氏とは。
それは市民精神というものでしょう。
その市民の日本での不在を嘆いたのが33万部の売り上げを達した『人間を幸福にしない日本というシステム』を書いたカレル.ヴァン.ウォルフレン(下写真)です。

この人の著作には、かなり共鳴する部分があるので、この人の著作はすべて買って読みました。
元に戻って、加藤氏の本の話しになりますが、その講演で、こう加藤氏は言っているのです。
「いまの大学生のすべてが立派に勉強しているなどということは、私全然、夢にも思ったことありません。大体8割くらいは大学に籍を置いているだけで、マージャンをしているというのが主流でありますから、、それほどいまの若き学生に期待するところはないのであります。」(文化講演会2.39頁)
ここで言われている加藤秀俊氏(下写真)の理論的な言葉である「経営の才能のあった大名がいたことろが栄えた。」とか、「地域社会は、よそ者を入れることで活性化する。」とか「過去を一方で振り返りながら、他方で未来から現在を逆算する方法というモノをそれぞれの地域社会は持つべきだ」といったことは、資格試験に出るわけでもないし、そのことを知っていただけで金銭を得れるわけでもないのです。

しかし、そういう知識を得ることで、人生を良き方向へ舵取る指針を得れるはずです。
人生といっても社会を含めたものですが。
そして、行動することで、ひいては自分の周りの社会をも変えれるはずです、しかもいい方向に。
そういう社会にある問題点を拾い上げて、そこで何をするか?
知識を得ているだけでは何もならない。
行動しなくては。
やはり、良き方向へかじ取りする人材を輩出することを科学は目指しているのです。

それが一番大きいのではないか、と私は大学在学中に思ったが、それは今も変わりはないです。
「青年よ大志を抱け」とは、札幌農学校の初代教頭だったウィリアム.クラークの言葉ですが、そういう社会を、ひいては世界を良き方向へ変えることを科学は目指しているし、そういう人が多く輩出することを望んでいるのです。
そういう知識を行動に移して、結果が出る。
その結果得た内容が知恵ということになるのです。
そういう知恵をどんどん脳内に蓄積していってほしいものです。
再度確認ですが、確かに、そういう知識や知恵を得たところで、資格試験に出るわけでもないし、栄誉が付くわけでもないのです。
でも、自分が住んでいる社会において、生活しているのであれば、それに問題点が浮上すれば、それを改善していこうと思ってほしいものです。
自分の部屋がきたなかったら、掃除するでしょう。
それと同じ理屈なのです。
●そんなスタンスに共鳴できる人であれば、以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めしたいです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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私が敬愛している故.加藤秀俊氏は、愛媛県の市民会館で開かれたシンポジウムの講演を頼まれて、それをおこなった内容が『文化講演会 2』という編著本になっているのです。
そこでおこなわれた内容を要約すると以下のようになります。
上杉鷹山のいた米沢藩(山形)は絹織物を開発をして大いに栄えた。 そして、米沢繊維高等学校を作った。
富山の前田侯は本草学で有名だが、長崎で留学をした立派な医者を何人もスカウトして越中富山の薬売りになって栄えた。
広島の呉は、船大工が作った船が有名で、遣唐使で空海が使った船が有名であるが、それが近代の造船技術と結びついて瀬戸内海における極めて重要な造船業に発展した。
こういった歴史的事象からわかることは、経営の才能のあった大名がいたことろが栄えた、ということです。
そして、地域社会は、よそ者を入れることで活性化する。
土地の人間だけが集まってやあやあと肩をたたきあっているだけでは、新たな方向性が見えてこないということです。
京大はノーベル賞受賞者が多いが、東大は少ない。
京大は広く全国から人材を集めたということです。

こういったことから加藤氏が結論付けたのは、以下です。
「過去を一方で振り返りながら、他方で未来から現在を逆算する方法というモノをそれぞれの地域社会は持つべきだ。
こうなってほしいという理想像を作り上げたうえで逆に現在というものの自らの使命をそこから計算してほしいのだ。」ということです。
そういう実学的な情報を学び、それで何を抽出し、そこで何をすべきか、を考え、実社会で行動に移す。
そういう人が多ければ多いほど、社会はよくなるのです。
何も、サラリーマン人生を送るだけが人生ではないでしょう、ということは私が言いたかったことでもあります。
そういう社会にある問題点を構造的に明らかにして、そこで何をすべきかを考え行動する。
これこそが、学問の存立意義であると思うので、それを学ぶためにも、どの大学生も必死になって大学での勉強をこそしなくてはいけない、という風に私は思ってました。
それと軌を一にしているのです加藤秀俊氏とは。
それは市民精神というものでしょう。
その市民の日本での不在を嘆いたのが33万部の売り上げを達した『人間を幸福にしない日本というシステム』を書いたカレル.ヴァン.ウォルフレン(下写真)です。
この人の著作には、かなり共鳴する部分があるので、この人の著作はすべて買って読みました。
元に戻って、加藤氏の本の話しになりますが、その講演で、こう加藤氏は言っているのです。
「いまの大学生のすべてが立派に勉強しているなどということは、私全然、夢にも思ったことありません。大体8割くらいは大学に籍を置いているだけで、マージャンをしているというのが主流でありますから、、それほどいまの若き学生に期待するところはないのであります。」(文化講演会2.39頁)
ここで言われている加藤秀俊氏(下写真)の理論的な言葉である「経営の才能のあった大名がいたことろが栄えた。」とか、「地域社会は、よそ者を入れることで活性化する。」とか「過去を一方で振り返りながら、他方で未来から現在を逆算する方法というモノをそれぞれの地域社会は持つべきだ」といったことは、資格試験に出るわけでもないし、そのことを知っていただけで金銭を得れるわけでもないのです。
しかし、そういう知識を得ることで、人生を良き方向へ舵取る指針を得れるはずです。
人生といっても社会を含めたものですが。
そして、行動することで、ひいては自分の周りの社会をも変えれるはずです、しかもいい方向に。
そういう社会にある問題点を拾い上げて、そこで何をするか?
知識を得ているだけでは何もならない。
行動しなくては。
やはり、良き方向へかじ取りする人材を輩出することを科学は目指しているのです。
それが一番大きいのではないか、と私は大学在学中に思ったが、それは今も変わりはないです。
「青年よ大志を抱け」とは、札幌農学校の初代教頭だったウィリアム.クラークの言葉ですが、そういう社会を、ひいては世界を良き方向へ変えることを科学は目指しているし、そういう人が多く輩出することを望んでいるのです。
そういう知識を行動に移して、結果が出る。
その結果得た内容が知恵ということになるのです。
そういう知恵をどんどん脳内に蓄積していってほしいものです。
再度確認ですが、確かに、そういう知識や知恵を得たところで、資格試験に出るわけでもないし、栄誉が付くわけでもないのです。
でも、自分が住んでいる社会において、生活しているのであれば、それに問題点が浮上すれば、それを改善していこうと思ってほしいものです。
自分の部屋がきたなかったら、掃除するでしょう。
それと同じ理屈なのです。
●そんなスタンスに共鳴できる人であれば、以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めしたいです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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瞠目すべき学者の数はかなり少数派?そのわけと特徴は? (加藤秀俊)
こんにちは。
学者たるもの好奇心の有無は非常に大事でしょう。
これがあることによって、学習領域は広くなり、本や資料をいっぱいあさるように読むことで、いろんな情報を得れて、ものの考え方も得れて、非常に説得力を得た理論を形成することが出来るようになるからです。
逆に、好奇心のない人は学者として成功することはおぼつかないでしょう。
狭い領域だけに関心があって、その中だけで情報を得て、ものの考え方を形成しようにも、説得力を得た理論を得ることは出来ません。
私が大学に在学中に、大学の廊下にあった学論集なるものがあって、そこにはその大学の教授たちが書いた論文が掲載されていたのですが、いずれもいろんな知的好奇心があって、その多岐にわたる好奇心からの研究結果から得た多面的な論文を書いている例は少なかったです。

やはり自分の属する学部会の領域だけにほぼ狭まった関心からできた論文しかできていなかったのです。
多分野にわかる研究結果から書いた論文を書いていた例は少なったです。
これは、そういう者であるという固定観念から来て、周りの教授たちもそういうスタンスで論文を書いているから、自分もそうであったいいのだろうという思い込みが外せていなかったのでしょう。
そういう思い込みを外せば、壮大な気宇を擁した論文が書けると思うのでしょうがどうでしょうか?
そういう狭い領域から抜け出せない学者は、そもそも学術的な論文を書けないという能力的な制約があるのでしょうか?
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏が書いたある編著本の中で「他の学者の書いた本からの引用ばかりで継ぎ接ぎした論文を大抵の学生は書く。教授といわれる人たちもそういう論文を書いて生計を立てているのが多いのが日本である」ということを書いてありました。
その、いろんな学論集をいっぱい持ち帰りました私は。
タダだし、高い学費の元を取ってやろうというモチベーションで(笑)。

その全部を見渡すも、やはり好奇心の狭い、引用ばかりの論文を書く教授が多かった、というのが正直なところです。
好奇心が多岐にわたり、引用の極力少ない学術性の高い教授の論文が掲載されている学論集は今でも保存していますが、それ以外のものに関しては、資源ごみ回収の日に出してしまいました(笑)。
前出の加藤秀俊氏(下写真)は、そういう他の教授の批判をしながらも、自身はそれに反する如く、地で行動に移していったのです。

社会学者という肩書でありながら、その関心領域は半端ない広がりを有していたのです。
彼の『人生のくくり方』という本は、主に教育の歴史が取り上げられていましたが、その内容たるや教育史の専門家か、と思われるほどの壮大さを備えているのです。
教育史という科目は、いろんな大学にあるでしょう。
しかし、それでもその教授でも太刀打ちできるのか?と思われるほどの知識の量と自身で形成した理論の高尚さには圧倒させるばかりです。
教育史ではペスタロッチという人が有名ですが、加藤氏は「ペスタロッチを読みたい」「他の教育史を読みたい」というように芋づる式に関心が芽生えていって、書き進めていきたい衝動に駆られて、それについて調べ、その概要を書き、自分の見解を書き、そして意義も書き、それらの作業から分岐していった関心事や他の物事との結びつけを施しながら論文を書いていったのでしょう。
そのことで、『人生のくくり方』という独自の教育史の観を呈した本を上梓することになったのです。
狭い領域だけで論文や本を上梓しようとすれば、その領域からの理論のなぞりや、引用ばかりになってしまい、その領域の専門家たちと似たような論文や本しか書けなくなり、独創性を持つこともできなくなってしまうのは必然です。
そうなりたくないのであれば、自然と好奇心が出てしまう学問の本を自然と読む習慣を身に着けることが必須でしょう。
私が属した大学で講義を受けた教授や助教授や講師といった人たちの今の業績をいまホームページで確認することが出来ますが、本を出している例は限りなく少ないですね。
大学から課された論文の数はそれなりにあるようですが…。

逆に、何冊か本を出している教授の例はありますが、限りなく少ないですね。
私は、模範としてほしい例は、いうまでもなく後者ですね。
後者の例の方が、読んでいて感銘を受けて、人生が明るくなり、人生の指針を得ることが出来るからですね。
学問とはもとよりそういう性質をもっているものなのですね。
●そんな内容に関心のある人にお勧めしたい電子書籍.パーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
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学者たるもの好奇心の有無は非常に大事でしょう。
これがあることによって、学習領域は広くなり、本や資料をいっぱいあさるように読むことで、いろんな情報を得れて、ものの考え方も得れて、非常に説得力を得た理論を形成することが出来るようになるからです。
逆に、好奇心のない人は学者として成功することはおぼつかないでしょう。
狭い領域だけに関心があって、その中だけで情報を得て、ものの考え方を形成しようにも、説得力を得た理論を得ることは出来ません。
私が大学に在学中に、大学の廊下にあった学論集なるものがあって、そこにはその大学の教授たちが書いた論文が掲載されていたのですが、いずれもいろんな知的好奇心があって、その多岐にわたる好奇心からの研究結果から得た多面的な論文を書いている例は少なかったです。
やはり自分の属する学部会の領域だけにほぼ狭まった関心からできた論文しかできていなかったのです。
多分野にわかる研究結果から書いた論文を書いていた例は少なったです。
これは、そういう者であるという固定観念から来て、周りの教授たちもそういうスタンスで論文を書いているから、自分もそうであったいいのだろうという思い込みが外せていなかったのでしょう。
そういう思い込みを外せば、壮大な気宇を擁した論文が書けると思うのでしょうがどうでしょうか?
そういう狭い領域から抜け出せない学者は、そもそも学術的な論文を書けないという能力的な制約があるのでしょうか?
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏が書いたある編著本の中で「他の学者の書いた本からの引用ばかりで継ぎ接ぎした論文を大抵の学生は書く。教授といわれる人たちもそういう論文を書いて生計を立てているのが多いのが日本である」ということを書いてありました。
その、いろんな学論集をいっぱい持ち帰りました私は。
タダだし、高い学費の元を取ってやろうというモチベーションで(笑)。
その全部を見渡すも、やはり好奇心の狭い、引用ばかりの論文を書く教授が多かった、というのが正直なところです。
好奇心が多岐にわたり、引用の極力少ない学術性の高い教授の論文が掲載されている学論集は今でも保存していますが、それ以外のものに関しては、資源ごみ回収の日に出してしまいました(笑)。
前出の加藤秀俊氏(下写真)は、そういう他の教授の批判をしながらも、自身はそれに反する如く、地で行動に移していったのです。
社会学者という肩書でありながら、その関心領域は半端ない広がりを有していたのです。
彼の『人生のくくり方』という本は、主に教育の歴史が取り上げられていましたが、その内容たるや教育史の専門家か、と思われるほどの壮大さを備えているのです。
教育史という科目は、いろんな大学にあるでしょう。
しかし、それでもその教授でも太刀打ちできるのか?と思われるほどの知識の量と自身で形成した理論の高尚さには圧倒させるばかりです。
教育史ではペスタロッチという人が有名ですが、加藤氏は「ペスタロッチを読みたい」「他の教育史を読みたい」というように芋づる式に関心が芽生えていって、書き進めていきたい衝動に駆られて、それについて調べ、その概要を書き、自分の見解を書き、そして意義も書き、それらの作業から分岐していった関心事や他の物事との結びつけを施しながら論文を書いていったのでしょう。
そのことで、『人生のくくり方』という独自の教育史の観を呈した本を上梓することになったのです。
狭い領域だけで論文や本を上梓しようとすれば、その領域からの理論のなぞりや、引用ばかりになってしまい、その領域の専門家たちと似たような論文や本しか書けなくなり、独創性を持つこともできなくなってしまうのは必然です。
そうなりたくないのであれば、自然と好奇心が出てしまう学問の本を自然と読む習慣を身に着けることが必須でしょう。
私が属した大学で講義を受けた教授や助教授や講師といった人たちの今の業績をいまホームページで確認することが出来ますが、本を出している例は限りなく少ないですね。
大学から課された論文の数はそれなりにあるようですが…。
逆に、何冊か本を出している教授の例はありますが、限りなく少ないですね。
私は、模範としてほしい例は、いうまでもなく後者ですね。
後者の例の方が、読んでいて感銘を受けて、人生が明るくなり、人生の指針を得ることが出来るからですね。
学問とはもとよりそういう性質をもっているものなのですね。
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⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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