いつまでも蔵書にしまっておきたくなる学者の本はどういう性質か? (加藤秀俊)
こんにちは。
私は日々、いろんな本を読んで、いろんな事物に興味が向くまま、いろんなことを学んでいます。
そこで今、一番興味が向いているのは、宗教ですね。
大学に在学中に学んだのは、日本人は国民のうち85%が無宗教である、ということでしたが、それは無神論というわけではないようですね。
無神論とは神や仏の存在をも信じないという立場の人のことですね。
やはりそれなりに、日本人は神や仏の存在を信じているようですね。
そういう日本人の宗教ですが、いろんな宗教を学ぶうちに、それぞれの宗教はそれなりに学ぶところはあるのがわかりました。
やはり、どれも一長一短の気がします。
ゆえに、どの宗教にも与しない、=入信しないというのが私の立場ですね。

いろんな宗教の講演を聞きに行ったり、そこの冊子を読んだりしましたが、それなりにいい面はあるものの、それだけで人生を心豊かに暮らせるわけではない、というのが本音です。
やはり、その他の部分については、本を読んだり、他の宗教からも学ぶ必要があるということです。
これではどっちつかずの印象を与えるでしょうが、それが事実です。
自分の心を偽って、この宗教しかない、とは言えないのです。
いろんな宗教を見てきて、遺憾だったのは、どの宗教も補正しなくてはいけない部分があるにもかかわらず、それをしないままにしている。
当然でしょう。
宗教は古代から続くものが多いゆえに、その時代の宗祖の言ったことをそのまま順守してしまう傾向があるのですが、そのままでいいはずは、ないです。
それは、どの宗教も同じようです。

しかし、時代が降って、どの宗教においても、科学の発達によって、それに縋らなくても解決できる部分も多く出てきたわけなゆえに、そのままその宗祖の言ったことを順守する必要はないのです。
しかし、その宗教では、その文言を変えないでいるのです。
これでは市民生活に支障が出てしまいます。
そうならないように、自分の脳内で考えて、補正しなくてはならない部分については補正しなくてはいけないですし、付け加えなくてはいけない部分については、付け加えなくてはならないでしょう。
そうしてアレンジして、行動した結果、自分に来た結果については、自分で責任を持つ。
いいことが起きたら、そのまま自分を褒めたらいいでしょう。
私は、そういう知的な作業が好きなゆえに、私はどの宗教にも与しない、としているのです。
私は音楽を聴きますが、どんな好きなアーティストでも、どのアルバムも全部いいかというとそんなことはないのです。
いくらファンでも全部を傑作視しない。
それと一緒なのです。
ただし、神仏の存在は信じていますし、それによって得れている恩恵については感謝の気持ちを忘れないでいたいと思います。
どんな科学が発達しても、人間が地球を作ることも出きないですし、動物などの生物を作ることもかなわないのです。
地震も止めることも出きなければ、津波を止めることもできないのです。
私たちが生活できるのはひとえに、神や仏の存在故と信じているからです。

だから、エコ的な生活はいつも維持し、人との良きコミュニケートも忘れずにしています。
こういうスタンスゆえに、どの宗教にも一途にはならないのみならず、1人の学者だけにも縋らないということです。
やはり、ぞっこんになってしまう学者はいますが、他の学者の本も読みたいですし、他の学者から学ぶものも大いにあるからですね。
何人の学者の本を読んできたかは自分でもわかりませんが、やはりどの学者からも学ぶ箇所はあるのです。
それゆえに、この学者だけでいい、などという暴論は吐くことが出来ないのです。
ただし、そういう存在に限りなく近い人はいるものです。
その人の本が出版されたら、必ず買い、読了しても、売らずに保管してしまう。
中古本屋に売ってしまったパターンもあるけれども、限りなく0冊に近い。
ヒントに迷ったときには、その人の本を取り出して読んで、打開策を見つけようとしてしまう。
そういう人って、やはり、いろんな多分野にわたって学問を修めてきた来た人ですよね?
そういう人の本は、いつまでも読んでみたくなるわけですし、ヒントを得るために紐解いてしまいますよね?

そんな思いにさせてしまう人は、私にとっては加藤秀俊ですね。
この人は故人ですが、今も私の大事な蔵書の中にいろんなその人の本が幾冊も入っています。
こういう人は稀です。
●そんな加藤秀俊氏に興味が出た人におすすめなのは、以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
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私は日々、いろんな本を読んで、いろんな事物に興味が向くまま、いろんなことを学んでいます。
そこで今、一番興味が向いているのは、宗教ですね。
大学に在学中に学んだのは、日本人は国民のうち85%が無宗教である、ということでしたが、それは無神論というわけではないようですね。
無神論とは神や仏の存在をも信じないという立場の人のことですね。
やはりそれなりに、日本人は神や仏の存在を信じているようですね。
そういう日本人の宗教ですが、いろんな宗教を学ぶうちに、それぞれの宗教はそれなりに学ぶところはあるのがわかりました。
やはり、どれも一長一短の気がします。
ゆえに、どの宗教にも与しない、=入信しないというのが私の立場ですね。
いろんな宗教の講演を聞きに行ったり、そこの冊子を読んだりしましたが、それなりにいい面はあるものの、それだけで人生を心豊かに暮らせるわけではない、というのが本音です。
やはり、その他の部分については、本を読んだり、他の宗教からも学ぶ必要があるということです。
これではどっちつかずの印象を与えるでしょうが、それが事実です。
自分の心を偽って、この宗教しかない、とは言えないのです。
いろんな宗教を見てきて、遺憾だったのは、どの宗教も補正しなくてはいけない部分があるにもかかわらず、それをしないままにしている。
当然でしょう。
宗教は古代から続くものが多いゆえに、その時代の宗祖の言ったことをそのまま順守してしまう傾向があるのですが、そのままでいいはずは、ないです。
それは、どの宗教も同じようです。
しかし、時代が降って、どの宗教においても、科学の発達によって、それに縋らなくても解決できる部分も多く出てきたわけなゆえに、そのままその宗祖の言ったことを順守する必要はないのです。
しかし、その宗教では、その文言を変えないでいるのです。
これでは市民生活に支障が出てしまいます。
そうならないように、自分の脳内で考えて、補正しなくてはならない部分については補正しなくてはいけないですし、付け加えなくてはいけない部分については、付け加えなくてはならないでしょう。
そうしてアレンジして、行動した結果、自分に来た結果については、自分で責任を持つ。
いいことが起きたら、そのまま自分を褒めたらいいでしょう。
私は、そういう知的な作業が好きなゆえに、私はどの宗教にも与しない、としているのです。
私は音楽を聴きますが、どんな好きなアーティストでも、どのアルバムも全部いいかというとそんなことはないのです。
いくらファンでも全部を傑作視しない。
それと一緒なのです。
ただし、神仏の存在は信じていますし、それによって得れている恩恵については感謝の気持ちを忘れないでいたいと思います。
どんな科学が発達しても、人間が地球を作ることも出きないですし、動物などの生物を作ることもかなわないのです。
地震も止めることも出きなければ、津波を止めることもできないのです。
私たちが生活できるのはひとえに、神や仏の存在故と信じているからです。
だから、エコ的な生活はいつも維持し、人との良きコミュニケートも忘れずにしています。
こういうスタンスゆえに、どの宗教にも一途にはならないのみならず、1人の学者だけにも縋らないということです。
やはり、ぞっこんになってしまう学者はいますが、他の学者の本も読みたいですし、他の学者から学ぶものも大いにあるからですね。
何人の学者の本を読んできたかは自分でもわかりませんが、やはりどの学者からも学ぶ箇所はあるのです。
それゆえに、この学者だけでいい、などという暴論は吐くことが出来ないのです。
ただし、そういう存在に限りなく近い人はいるものです。
その人の本が出版されたら、必ず買い、読了しても、売らずに保管してしまう。
中古本屋に売ってしまったパターンもあるけれども、限りなく0冊に近い。
ヒントに迷ったときには、その人の本を取り出して読んで、打開策を見つけようとしてしまう。
そういう人って、やはり、いろんな多分野にわたって学問を修めてきた来た人ですよね?
そういう人の本は、いつまでも読んでみたくなるわけですし、ヒントを得るために紐解いてしまいますよね?
そんな思いにさせてしまう人は、私にとっては加藤秀俊ですね。
この人は故人ですが、今も私の大事な蔵書の中にいろんなその人の本が幾冊も入っています。
こういう人は稀です。
●そんな加藤秀俊氏に興味が出た人におすすめなのは、以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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大学教授は、誰しも、桜井邦朋、外山滋比古、加藤秀俊を模範とすべし? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学というところは、いつに時代にも物議を醸すところですね。
私も問題の多い場所であると在学時代に思いました。
その1つは、研究をしないでいる教授が多い、ということです。
毎年毎年、同じ講義のために作ったノートを読んで解説しているだけで、あまり研究している素振りが見えなかった教授があまりにも多い、ということを感じました。
そして、講義用の教科書に指定した本を読んで、それを解説しているだけの教授も多かった気がします。

こういった講義でも、何かしら学ぶ箇所はあるので、学ぶものがゼロだったなどといことは言いませんが、それでも授業料の割に空虚な感じがしたのは私だけではないでしょう。
在学中にしておけばよかったと思うことですが、1コマの講義がいくらするのかな、ということで計算してみることが大事でしょう。
1年間の授業料を自分が履修する講義の数×年間の授業数で割るのです。
すると1コマの講義は当時2500円していた計算になります。
しかし、昨今はもっと高くなっています。
1コマ3000円はするでしょう。
授業料が高い大学は4000円はするでしょう。
そんな価値は今思うとありえない、ということが断言できます(笑)
そんな高いお金を払っていたにもかかわらず、いい加減な講義しかしていなかった教授が多かったことには腹が立たざるを得ないですね。
講義ノートや教科書を読んで解説しているだけの教授には。
毎回研究結果をさらす如く、ぎっしり研究をしてきたノートで講義していた教授もいたことは確かです。

よしんば、そういう立派な教授の講義でも、そんなに高い授業料を払ってまで受ける必要はあるか、と問われればそんなことはないでしょう。
ではどうすれば?
その教授の出した本を買って読んで、勉強すればいいのです。
1コマが3000円でそれを年間30回受けるとしましても90000円の授業料がかかるのです。
しかし、そのりっぱな教授の出した本を5冊としますと、それを1冊3000円としても15000円で買って勉強すればいいのです。
どちらが合理的かは言うまでもないことです。
今思い起して腹が立つのは、毎月10万円もの研究費なるものをもらっていたということです、どの教授も。
それなのに、この講義の内容…まるで値段とみあってないと思います。
学生の親御さんたちが大学にお金を出してこどもを大学に行かせているのです。
それが大学運営の大きな基金になっているのは言うまでもないのです。
それならば、誠心誠意尽くして研究をすべきではないかと思われてならないですね。
私の敬愛している学者で桜井邦朋(下写真)という人がいます。

この人は、これまでに本を100冊くらい出しています。
その桜井氏は、その著書で「大学には研究らしい研究をしていないクズ教授がたくさんいる」ということを書いていました。
その通りですね。
しかし、そのクズ教授たちはなぜ、研究をしないのでしょうか?
それは、研究をしなくても高い給料がもらえるからです。
ゆえに研究をしない。
1コマの講義にいくらかかるかは先に書いた通りです。
それは文系の大学ですが、理系になったらもっと高いことは言うまでもないことです。
いい加減な講義に怒りを覚えたら、誰もが辞めてほかのことをすればいいのでし、実際そういう人はいます。
しかし、それはかなり少数派で、たいていの人は居残って大学に在学し続けるのです卒業まで。
何故か?
大学卒という肩書が欲しいからであり、キャンパスライフを愉しみたいからですね大抵の学生にとって。

それゆえに、多くの人が残り高い学費を払い続ける。
いい加減な講義しかしない教授であっても。
それゆえに、研究らしい研究をしない教授が日本にはあまりにも多いのです。
そんな教授をのさばらせているのは、学生に責任が帰すわけで、それや日本の学歴至上主義的な雰囲気が原因なのです。
こういう教授の講義はボイコットせよ、と言いたいです。
しかも投書が可能であれば、その教授のいい加減さを指摘し糾弾しなくてはならないでしょう。
その桜井氏は、学者の書く論文についても批判しているのですが、その論文に関しても、「祖述だけではつまらない。引用ばかりで自身の考えや主張がない論文は読むのもつまらない」ということです。
こういう論文だけ書いていれば教授が務まる日本の大学はやはり、他国に比べて大学進学を希望する人が多いからでしょう。
学問というものに関して畏敬の念を無条件に受け入れて、そこに進もうとする。
こういう現象は欧米では考えられず、大学に進学するのは少数派なのです。
だから教授になるのも厳しいのです。
良い論文を書くには、自分の専門だけにとどまらず、いろんなジャンルの本を常に読み続けながら、情報を収集していなくては格好の例示を探すことはできないし、自分の専門を確立するための考え方を学ぶことは出来ないのです。
また考えることや思索も常日頃から続けていなくて話しにならないのです。
知的生産で有名な外山滋比古氏(下写真.故人)は、外出しているときにアイデアや参照できる事物に出くわしたら忘れてはいけないので、すぐさまノートできるように手帳大のノートをいつも持ち歩いていたのだそうです。

そういった積み重ねが、学者としての偉業につながったのでしょう。
この人は161冊もの本を出したのです。
こういう姿勢はかなり手本になりますね。
手本になる人の例は故.加藤秀俊にもあるでしょう。
この人は、1つの専門に閉じこもることなく、いろんなジャンルに手を伸ばし、足を運んで情報を摂取して、日々、文章を書いてきたのです。
その数100冊以上。
それにプラスして著作集が12冊、選集を2冊出すまでにいたったのです。
桜井邦朋、外山滋比古、加藤秀俊の3人に共通しているのは、1つの専門に閉じこもることなくいろんなジャンルに食指を伸ばし、毎回研究結果を講義に盛り込んでいた、本を多数出していた、ということです。
こういう人が、大学の教授のどの人もなってくれてたらなあと思わざるを得ないですが、現実はなかなか難しいですね(笑)
●こんな内容に共鳴してくれる人がいるのならば、その人は以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めいたします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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ありがとうございました。
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大学というところは、いつに時代にも物議を醸すところですね。
私も問題の多い場所であると在学時代に思いました。
その1つは、研究をしないでいる教授が多い、ということです。
毎年毎年、同じ講義のために作ったノートを読んで解説しているだけで、あまり研究している素振りが見えなかった教授があまりにも多い、ということを感じました。
そして、講義用の教科書に指定した本を読んで、それを解説しているだけの教授も多かった気がします。
こういった講義でも、何かしら学ぶ箇所はあるので、学ぶものがゼロだったなどといことは言いませんが、それでも授業料の割に空虚な感じがしたのは私だけではないでしょう。
在学中にしておけばよかったと思うことですが、1コマの講義がいくらするのかな、ということで計算してみることが大事でしょう。
1年間の授業料を自分が履修する講義の数×年間の授業数で割るのです。
すると1コマの講義は当時2500円していた計算になります。
しかし、昨今はもっと高くなっています。
1コマ3000円はするでしょう。
授業料が高い大学は4000円はするでしょう。
そんな価値は今思うとありえない、ということが断言できます(笑)
そんな高いお金を払っていたにもかかわらず、いい加減な講義しかしていなかった教授が多かったことには腹が立たざるを得ないですね。
講義ノートや教科書を読んで解説しているだけの教授には。
毎回研究結果をさらす如く、ぎっしり研究をしてきたノートで講義していた教授もいたことは確かです。
よしんば、そういう立派な教授の講義でも、そんなに高い授業料を払ってまで受ける必要はあるか、と問われればそんなことはないでしょう。
ではどうすれば?
その教授の出した本を買って読んで、勉強すればいいのです。
1コマが3000円でそれを年間30回受けるとしましても90000円の授業料がかかるのです。
しかし、そのりっぱな教授の出した本を5冊としますと、それを1冊3000円としても15000円で買って勉強すればいいのです。
どちらが合理的かは言うまでもないことです。
今思い起して腹が立つのは、毎月10万円もの研究費なるものをもらっていたということです、どの教授も。
それなのに、この講義の内容…まるで値段とみあってないと思います。
学生の親御さんたちが大学にお金を出してこどもを大学に行かせているのです。
それが大学運営の大きな基金になっているのは言うまでもないのです。
それならば、誠心誠意尽くして研究をすべきではないかと思われてならないですね。
私の敬愛している学者で桜井邦朋(下写真)という人がいます。
この人は、これまでに本を100冊くらい出しています。
その桜井氏は、その著書で「大学には研究らしい研究をしていないクズ教授がたくさんいる」ということを書いていました。
その通りですね。
しかし、そのクズ教授たちはなぜ、研究をしないのでしょうか?
それは、研究をしなくても高い給料がもらえるからです。
ゆえに研究をしない。
1コマの講義にいくらかかるかは先に書いた通りです。
それは文系の大学ですが、理系になったらもっと高いことは言うまでもないことです。
いい加減な講義に怒りを覚えたら、誰もが辞めてほかのことをすればいいのでし、実際そういう人はいます。
しかし、それはかなり少数派で、たいていの人は居残って大学に在学し続けるのです卒業まで。
何故か?
大学卒という肩書が欲しいからであり、キャンパスライフを愉しみたいからですね大抵の学生にとって。
それゆえに、多くの人が残り高い学費を払い続ける。
いい加減な講義しかしない教授であっても。
それゆえに、研究らしい研究をしない教授が日本にはあまりにも多いのです。
そんな教授をのさばらせているのは、学生に責任が帰すわけで、それや日本の学歴至上主義的な雰囲気が原因なのです。
こういう教授の講義はボイコットせよ、と言いたいです。
しかも投書が可能であれば、その教授のいい加減さを指摘し糾弾しなくてはならないでしょう。
その桜井氏は、学者の書く論文についても批判しているのですが、その論文に関しても、「祖述だけではつまらない。引用ばかりで自身の考えや主張がない論文は読むのもつまらない」ということです。
こういう論文だけ書いていれば教授が務まる日本の大学はやはり、他国に比べて大学進学を希望する人が多いからでしょう。
学問というものに関して畏敬の念を無条件に受け入れて、そこに進もうとする。
こういう現象は欧米では考えられず、大学に進学するのは少数派なのです。
だから教授になるのも厳しいのです。
良い論文を書くには、自分の専門だけにとどまらず、いろんなジャンルの本を常に読み続けながら、情報を収集していなくては格好の例示を探すことはできないし、自分の専門を確立するための考え方を学ぶことは出来ないのです。
また考えることや思索も常日頃から続けていなくて話しにならないのです。
知的生産で有名な外山滋比古氏(下写真.故人)は、外出しているときにアイデアや参照できる事物に出くわしたら忘れてはいけないので、すぐさまノートできるように手帳大のノートをいつも持ち歩いていたのだそうです。
そういった積み重ねが、学者としての偉業につながったのでしょう。
この人は161冊もの本を出したのです。
こういう姿勢はかなり手本になりますね。
手本になる人の例は故.加藤秀俊にもあるでしょう。
この人は、1つの専門に閉じこもることなく、いろんなジャンルに手を伸ばし、足を運んで情報を摂取して、日々、文章を書いてきたのです。
その数100冊以上。
それにプラスして著作集が12冊、選集を2冊出すまでにいたったのです。
桜井邦朋、外山滋比古、加藤秀俊の3人に共通しているのは、1つの専門に閉じこもることなくいろんなジャンルに食指を伸ばし、毎回研究結果を講義に盛り込んでいた、本を多数出していた、ということです。
こういう人が、大学の教授のどの人もなってくれてたらなあと思わざるを得ないですが、現実はなかなか難しいですね(笑)
●こんな内容に共鳴してくれる人がいるのならば、その人は以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めいたします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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ありがとうございました。
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常識を疑え、しかし全部を疑ってはならない…これが学問でも実社会でも一緒の道理です? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学での学問においては、常識を疑え、ということをしきりに言われます。
ある理論がありますが、それはいつに時代においても正しいかどうかは保証のしようがないのです。
エクササイズを日課にしている人にとってはご存じだと思いますが、二昔以上も前においては、運動しているときには、あまり水分を摂るべきではない、とされていたのです。
休憩時間にだけ飲むだけでいい、とされていたのです。
しかし、それでは競技における習得や体力回復において不効率であるということが判明し、今では頻繁に水分を摂ることが推奨されているのです。
また、同じころに、筋力アップするトレーニング時には、スポーツドリンクを飲むのがいいとされていたのです。

しかし、のちにそれでは不効率であると判明されたために、プロテインを飲みながらトレーニングするのがいいとされているのです。
この方式を採ることで、私も効率は上がっています。
このように、今ある常識といわれているものに関しては、疑いを入れておくのがいいのです。
それでこれよりももっといい方法があるのではないかと模索しながら、そちらの方を試してみる。
それの方が断然いいということが判明したら、そちらを敢然とこなしていく。
こういうアティチュードを勧めているので学問および科学においては。
単なる既存のものの踏襲ではつまらないですし味気ないと思うのは私だけでしょうか?
そういう思いと故.加藤秀俊氏(下写真)は意見が一致していたがゆえに、私はこの人の本はいつも読んでいた気がします。
日常生活でもことは一緒です。
私は、あるレストランで大学時代バイトしてました。
しかし、他のバイト人は、気の向いた時だけお客様に「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」というだけで、基本的にはきちんとしている観はなかったです。
これではお客様がいい気はしないだろうと思いますし、実際そうでした。
しかし、私は毅然と、挨拶はして、お客様に話かけました。
するとお客様と一緒に食事することになったり、近くの飲食店のランチのチケットをもらうことになったりといいことが起きました。
しかし、周りの人たちは依然として…。
やはり組織全体がいいほうに向いているときには、そのままそのやり方を踏襲すればいいでしょうが、悪い方向へ行っているときは軌道修正する必要があるのです。
ゆえに、常識を疑え、ということが日常生活でも説得力があるのです。
その姿勢を崩さない方がいいでしょう。
しかし、変えてはならない常識もあることは確かです。
今までしてきたことが正しいとは限らない…ならばすべてアレンジしていいのか。
そんなことはないです(笑)
なら好き勝手やるぞ、といわんばかりに、入社時に定刻には来ない。
挨拶もしない。
礼儀もこなさない。
早く切り上げて帰る。
こんなことしていたらだめです(笑)。
会社内がカオス状態になります。
そうではなく、言われたことは言われた通りにこなす。
そのうえで、アレンジした方がいいことはアレンジする。
こういうスタンスが求められます。
そういうことは実際に人との交流なくして理解し、行動していくことなくしてできるわけはないです。
ゆえに大学時代には、バイトはして、いいこと悪いこと両方まなべ、ということは言えると思います。
私もバイトを経て、学んだことは往々にしてあります。
学問だけで成り立っているわけではないのです社会は。
そのようにして学んだものを社会生活に生かせ!ということは言えると思います。
ただ、いわれたことだけが王道とばかりに、アレンジすることに拒絶反応する頭の固い上司は古今東西いるもので、そのような上司が旧態依然とした脳内でいることで、その組織が崩れて、あえなく崩壊、要するに閉店ということも、古今東西やまほどあるということは、歴史学といわれる学問の本を読めばわかります。
興味ある人はそのことが書いてある本を買って読むべきでしょう。
そういう現代社会に生かせること、警句としなければならない事柄を学んだりすることが出来るのが学問なのです。
それは誰にでもできることです。
大学のレベルには関係なく、大学に入った入れなかったには関係なく。
現代文が読めれる人ならだれでも。
門戸は広いのです学問は。
●そんな内容に関心のある人は以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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学問を修めていくうえで、当為は必要か、不必要か? (加藤秀俊)
大学で学ぶ学問というものは、実学とも呼ばれ、それを実社会において役立つ知識や情報を学べるものなのです。
それを脳内に吸収して、どう生かすかを考えて行動していく、そういう姿勢を持つ人が多く出ることを学問は期待しているのです。
『生きる場の哲学』という表題の本がありましたが、まさに学問や科学全般がそういう性質を持っているのです。
そういうことを発見した私は、大学時代に「大学での勉強こそ皆が一生懸命に取り組まないといけない性質のものだ!」と強く思ったものです。
しかし、多くの大学生は、そういう性質のものを学ばずに、授業をボイコットしているのです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、その著書の中で、「大学生で真剣に学んでいるのは全体の2割くらい」と書いていました。
氏は30年以上大学に勤務していた結果、そういうことを書いているのですから信憑性があります。
どういう問題点があるかを考える。
それこそが大学生の大きな課題であるはずが、それが出来ない学生が多いということでした。
加藤氏(下写真)は、『独学のすすめ』という本の中で、「問題つくりができない学生がいる。」と嘆きの言葉を書いていました。

その問題点を探し、それを良きものに変えていくことこそが実生活での基本的に重要なことであるということです。
それは、何も大学の授業だけではなく、社会に出てからも必要なことであるのは言うまでもないことです。
ゆえに、大学の授業で単なる知識を求めるだけでなく、そこに自分の考えなり、主義主張が介在さえなくてはいけない性質のものであることは間違いないです。
その通りでしょう。
しかし加藤氏と盟友だった梅棹忠夫氏も亡くなってしまい、哀しい限りですが、加藤氏と対談集を出したり、編著本を出していたのですが、立場は若干異なるみたいです。
加藤氏は、問題点を見つけて、良きものに変えるための自分の意見を出すべし、ということでしたが、梅棹氏はいろんな知の世界を飛び回ればいいわけで別段、当為を語る必要はない、ということです。
今も版を重ねている梅棹氏(下写真)の『文明の生態史観』は当為を語るために書いたものではない、としているのです。

ここは難しい問題であり、一概にどちらを肯定し、どちらかを否定すべき、ということではないようです。
その論争の後、どちらに与するかは、その人次第としか言いようがないです。
学問は問題点を探し、その内容を構造的に明らかにして、その良き状態にするためにどのようなことをすべきか、ということを書くことによって印象付けて、脳内にそのことを忘れないようにインプットされるのは間違いないです。
そういう姿勢を持っていなければ、主体的に物事を学ぶ気力も出てこないでしょうし、本も読んでいて惰性になってしまうことは間違いないです。
ただ知識を得るためだけでいいのであれば、大学の教授など必要ないでしょう。
そういうスタンスゆえに、加藤氏は同著で、「毎年同じノートを講義で読んでいるだけの教授の講義はばかばかしくて出られなかった。」 と書いているのですし、そんな授業は私もでたくなかったですが、単位を取るためにいやいや出ていたのは難しい問題でした(笑)
また同じく私が敬愛していた桜井邦朋氏は、他の本からの引用ばかりして、自分の考えや主張の入っていない論文など読むのもつまらないと書いていたのですし、それには同感です。
私も引用ばかり、知識だけの祖述だけの論文の本には魅力を感じなくなってしまい、そういう本はそうそうに古本屋に売ってしまっていました。
単なる知識を得るためであれば論述など必要ないでしょうし、そもそもの学問の存立意義などないでしょう。

しかし、梅棹氏は、得てして考えを必ずしも書く必要はないとしているのです。
特に当為を書く必要はないとしているのです。
当為とは〇〇すべしである、という意見のことです。
これは難しい問題です。
特に梅棹氏は「知の巨星」とまで言われて、日本の代表的な歴史小説家であった司馬遼太郎氏とも対談をしてそれが本になっているだけに、その人にモラルでたてつくとは、といぶかし気に思われること必至です。
それはどうするべきかは、自身の頭で考えてこれからの人生をどうするかと行動で決めていくべきでしょう。
どちらが正しい、どちらが間違っているということで裁断されるものではないのです。
しかし私は加藤氏を支持したいのです。
●このような内容に支持できる人には、以下の電子書籍.ペ−パーバックはお勧めです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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今回はこれにて終わります。
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それを脳内に吸収して、どう生かすかを考えて行動していく、そういう姿勢を持つ人が多く出ることを学問は期待しているのです。
『生きる場の哲学』という表題の本がありましたが、まさに学問や科学全般がそういう性質を持っているのです。
そういうことを発見した私は、大学時代に「大学での勉強こそ皆が一生懸命に取り組まないといけない性質のものだ!」と強く思ったものです。
しかし、多くの大学生は、そういう性質のものを学ばずに、授業をボイコットしているのです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、その著書の中で、「大学生で真剣に学んでいるのは全体の2割くらい」と書いていました。
氏は30年以上大学に勤務していた結果、そういうことを書いているのですから信憑性があります。
どういう問題点があるかを考える。
それこそが大学生の大きな課題であるはずが、それが出来ない学生が多いということでした。
加藤氏(下写真)は、『独学のすすめ』という本の中で、「問題つくりができない学生がいる。」と嘆きの言葉を書いていました。
その問題点を探し、それを良きものに変えていくことこそが実生活での基本的に重要なことであるということです。
それは、何も大学の授業だけではなく、社会に出てからも必要なことであるのは言うまでもないことです。
ゆえに、大学の授業で単なる知識を求めるだけでなく、そこに自分の考えなり、主義主張が介在さえなくてはいけない性質のものであることは間違いないです。
その通りでしょう。
しかし加藤氏と盟友だった梅棹忠夫氏も亡くなってしまい、哀しい限りですが、加藤氏と対談集を出したり、編著本を出していたのですが、立場は若干異なるみたいです。
加藤氏は、問題点を見つけて、良きものに変えるための自分の意見を出すべし、ということでしたが、梅棹氏はいろんな知の世界を飛び回ればいいわけで別段、当為を語る必要はない、ということです。
今も版を重ねている梅棹氏(下写真)の『文明の生態史観』は当為を語るために書いたものではない、としているのです。
ここは難しい問題であり、一概にどちらを肯定し、どちらかを否定すべき、ということではないようです。
その論争の後、どちらに与するかは、その人次第としか言いようがないです。
学問は問題点を探し、その内容を構造的に明らかにして、その良き状態にするためにどのようなことをすべきか、ということを書くことによって印象付けて、脳内にそのことを忘れないようにインプットされるのは間違いないです。
そういう姿勢を持っていなければ、主体的に物事を学ぶ気力も出てこないでしょうし、本も読んでいて惰性になってしまうことは間違いないです。
ただ知識を得るためだけでいいのであれば、大学の教授など必要ないでしょう。
そういうスタンスゆえに、加藤氏は同著で、「毎年同じノートを講義で読んでいるだけの教授の講義はばかばかしくて出られなかった。」 と書いているのですし、そんな授業は私もでたくなかったですが、単位を取るためにいやいや出ていたのは難しい問題でした(笑)
また同じく私が敬愛していた桜井邦朋氏は、他の本からの引用ばかりして、自分の考えや主張の入っていない論文など読むのもつまらないと書いていたのですし、それには同感です。
私も引用ばかり、知識だけの祖述だけの論文の本には魅力を感じなくなってしまい、そういう本はそうそうに古本屋に売ってしまっていました。
単なる知識を得るためであれば論述など必要ないでしょうし、そもそもの学問の存立意義などないでしょう。
しかし、梅棹氏は、得てして考えを必ずしも書く必要はないとしているのです。
特に当為を書く必要はないとしているのです。
当為とは〇〇すべしである、という意見のことです。
これは難しい問題です。
特に梅棹氏は「知の巨星」とまで言われて、日本の代表的な歴史小説家であった司馬遼太郎氏とも対談をしてそれが本になっているだけに、その人にモラルでたてつくとは、といぶかし気に思われること必至です。
それはどうするべきかは、自身の頭で考えてこれからの人生をどうするかと行動で決めていくべきでしょう。
どちらが正しい、どちらが間違っているということで裁断されるものではないのです。
しかし私は加藤氏を支持したいのです。
●このような内容に支持できる人には、以下の電子書籍.ペ−パーバックはお勧めです。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
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学問で学んだことを覚えておくためにはどうすればいい? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学というのはいつも物議を醸すものですね。
そこはレジャーランド化しているとか、社会人になるまでのモラトリアムを過ごすための期間ゆえに、多くの大学生が遊んでしまう、ということで海外の大学や知識人から非難の的になっているのです。
それは私が、大学に入る前から聞いていました。
大学に入りたくって、希望校のパンフをその大学に頼んで自宅に取り寄せました。
そのパンフに映っている講義中に出席している大学生たちは、まさにやる気のない「早く終わってくれよ!」とでも言いたげな顔をしているのです(笑)。
そして私がいざ、大学に入学してから体験したことは、まさにその批判通りの、やる気のない大学生ばかりでした。
そんな大学生を横目に私は登録した講義には全部出席しました。
そしてすべてノートしてきました。
大学の存立理由が知りたくて、どのような意義がるのか学問に?、という疑問の解明をしたかったのです。

しかし、次に繋がる受験というものがないことには、やはりモチベーションは下がる一方なのは頷けました。
そこで忘れないためにはどうすればいいか、ということですが、これにはいろんな知的生産の本が出ていますが、まず大事なのは、興味を持った本を選んで読むべきであろうということです。
そういう本を沢山読んでいけば、その内容については忘れることは少ないでしょう。
しかし、そのような本であっても、時間がたてば忘れてしまうのです。
ではどうすればいいか?
やはり、ノートなりにパソコンのワード等に書き留めておくことが大事でしょう。
読む真っ最中に、そういう作業をしていると先に進めませんから、その際は、本にペンでチェックをしておき、読み終えたらそれをノートなりパソコンなりに書き留めることが大事でしょう。
「これだけ興味深く読んだのだから、忘れないだろう!」という気持ちを持つのは早計で、そういう知的作業のないものは時間の経過と供に忘れてしまうのです。
そうしたら、また最初からその本は読みなおしです(笑)
時間の無駄になってしまいます。
知的生産の本はいくらも出ています。

大学生が単位を取りやすくしようと、どういう風に日々しておけば、単位を落とさなくて済むか、大学の年末試験で良い論文が書けるか、といった要旨の本はいっぱいあります。
そういう本に書いてあることを実行して、ダメだったのは「本を読んで印象に残ったところは、赤鉛筆で線を引いておく。そうすることでまた見直せば、思い出す」ということでした。
しかし、おつむの出来が悪いのか(笑)、私はその方式ではうまくいかないし、どうしてもそんなに思い出せなかったのです。
知と知の結び合わせが知的生産の醍醐味であるとすれば、毎回毎回いろんな本をもってきて、それを参照していくのはかなり不効率そのものでした。
ゆえに、赤鉛筆方式は私はしないことにしました。
勿論、その赤鉛筆方式でうまくいくのであれば、その人はその方式でいいでしょう。
しかし、私はその方式ではうまくいかないゆえに採らないだけのことです。
いろんなことを試行錯誤して、自分に合う方法を見つけ出すのです。
これもまた知的生産の一環なのです。
私が在籍した大学で受けた講義で、印象を受けたものがありました。
その教授曰く「大学で学んだことで忘れないために重要なのは、考えろ、そのことで忘れない!」ということでした。
それがかなり至言だったのは間違いないです。
法学部では憲法の歴史は必ず習います。
憲法によって参政権が保証されるようになった歴史は印象的でした。

その内容を詳細にわたって覚えておくのは難関です。
では、そこで何をするべきか?
現代では参政権は当然自明のことですが、明治期にはそうではなく、男性だけ、しかも一定以上の税金を納めた人だけだったのです。
それゆえにか、それゆえにしても、あの悲惨な災厄を招いてしまっていたのです第二次大戦前の日本および先進国においては。
そういった紆余曲折を経て18歳以上であれば誰でも参政権が認められるようになったのですから非常にありがたいことなのです。
それを形骸化しないためには、常に政治家や官僚の行く道をチェックしていかなくてはないのです。
そのことから必ず選挙には行くようにする、政治運動をこなしていく終生、こういうことを考えることは大事でしょう。
そして実際の社会生活において行動に移すことが大事なのは言うまでもないでしょう。
こういうことを学び、そして考えて、行動に移すことでお金になるのでしょうか?
お金にはならないでしょう。
だが大事でしょう、社会をよくするためには、どうだろうか?と考えざるを得ないのです。
私が大学時代に話題になっていたオランダ人ジャーナリストのカレル.ヴァン.ウォルフレン氏(下写真)なのです。

そのウォルフレン氏は、日本には市民が不在であるというのです。
市民とは社会がよくなるために、日々行動をしていく民と考えているのです。
そのためにはいつも政治に関心を持ち続けて、それを矯正していくための行動をしていかないことには市民ではない、ということです。
しかし、その著『人間を幸福にしない日本というシステム』という本によれば、「日本の会社では、政治活動のために定時に仕事を切り上げて帰ると周りの人間から白い目で見られる…こういうことも人間を幸福にしないシステムの1つである」ということです。
これは目の覚める議論であると思いました。
このようにして、日々行動していくための教育が必須なんだ、と思った瞬間でした。
そういう市民を輩出するのが学問の目的の1つなのだとわかった瞬間でした。
どのような目的を学問は持っているのだろうかと探索していた私にとって、ウォルフレンの意見はかなりディシプリナリーなものでした。
あれだけ有名な人が唱えていることですから、やはり学問の存立意義を誰もが実感するべきだろうと思った瞬間でした。
しかし、市民の不在…自分の社会を自分だ良くしていこうという気概が失われてしまった社会では前途が暗澹たるものになる…これは過激でしょうか?

そこを突っつくといろんな議論が噴出して、このページだけでは足りなくなるのは明らかですから、ここではやめにしていきましょう。
それこそ自分の頭で考え、そして行動していくべきでしょう(笑)
そしていろんな学問を学んで、自分の妥当と思えることを日々行動していくべきでしょう。
それもまた「市民」として大事なことでしょう。
皆さんを応援しています。
●こんな内容に共鳴してくださる人がいるのならば、以下の電子書籍.ペーパーバックはお勧めです。
加藤秀俊氏もそういった創造力の育成の必要性を唱えていた人たちの1人でしたから!(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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大学というのはいつも物議を醸すものですね。
そこはレジャーランド化しているとか、社会人になるまでのモラトリアムを過ごすための期間ゆえに、多くの大学生が遊んでしまう、ということで海外の大学や知識人から非難の的になっているのです。
それは私が、大学に入る前から聞いていました。
大学に入りたくって、希望校のパンフをその大学に頼んで自宅に取り寄せました。
そのパンフに映っている講義中に出席している大学生たちは、まさにやる気のない「早く終わってくれよ!」とでも言いたげな顔をしているのです(笑)。
そして私がいざ、大学に入学してから体験したことは、まさにその批判通りの、やる気のない大学生ばかりでした。
そんな大学生を横目に私は登録した講義には全部出席しました。
そしてすべてノートしてきました。
大学の存立理由が知りたくて、どのような意義がるのか学問に?、という疑問の解明をしたかったのです。
しかし、次に繋がる受験というものがないことには、やはりモチベーションは下がる一方なのは頷けました。
そこで忘れないためにはどうすればいいか、ということですが、これにはいろんな知的生産の本が出ていますが、まず大事なのは、興味を持った本を選んで読むべきであろうということです。
そういう本を沢山読んでいけば、その内容については忘れることは少ないでしょう。
しかし、そのような本であっても、時間がたてば忘れてしまうのです。
ではどうすればいいか?
やはり、ノートなりにパソコンのワード等に書き留めておくことが大事でしょう。
読む真っ最中に、そういう作業をしていると先に進めませんから、その際は、本にペンでチェックをしておき、読み終えたらそれをノートなりパソコンなりに書き留めることが大事でしょう。
「これだけ興味深く読んだのだから、忘れないだろう!」という気持ちを持つのは早計で、そういう知的作業のないものは時間の経過と供に忘れてしまうのです。
そうしたら、また最初からその本は読みなおしです(笑)
時間の無駄になってしまいます。
知的生産の本はいくらも出ています。
大学生が単位を取りやすくしようと、どういう風に日々しておけば、単位を落とさなくて済むか、大学の年末試験で良い論文が書けるか、といった要旨の本はいっぱいあります。
そういう本に書いてあることを実行して、ダメだったのは「本を読んで印象に残ったところは、赤鉛筆で線を引いておく。そうすることでまた見直せば、思い出す」ということでした。
しかし、おつむの出来が悪いのか(笑)、私はその方式ではうまくいかないし、どうしてもそんなに思い出せなかったのです。
知と知の結び合わせが知的生産の醍醐味であるとすれば、毎回毎回いろんな本をもってきて、それを参照していくのはかなり不効率そのものでした。
ゆえに、赤鉛筆方式は私はしないことにしました。
勿論、その赤鉛筆方式でうまくいくのであれば、その人はその方式でいいでしょう。
しかし、私はその方式ではうまくいかないゆえに採らないだけのことです。
いろんなことを試行錯誤して、自分に合う方法を見つけ出すのです。
これもまた知的生産の一環なのです。
私が在籍した大学で受けた講義で、印象を受けたものがありました。
その教授曰く「大学で学んだことで忘れないために重要なのは、考えろ、そのことで忘れない!」ということでした。
それがかなり至言だったのは間違いないです。
法学部では憲法の歴史は必ず習います。
憲法によって参政権が保証されるようになった歴史は印象的でした。
その内容を詳細にわたって覚えておくのは難関です。
では、そこで何をするべきか?
現代では参政権は当然自明のことですが、明治期にはそうではなく、男性だけ、しかも一定以上の税金を納めた人だけだったのです。
それゆえにか、それゆえにしても、あの悲惨な災厄を招いてしまっていたのです第二次大戦前の日本および先進国においては。
そういった紆余曲折を経て18歳以上であれば誰でも参政権が認められるようになったのですから非常にありがたいことなのです。
それを形骸化しないためには、常に政治家や官僚の行く道をチェックしていかなくてはないのです。
そのことから必ず選挙には行くようにする、政治運動をこなしていく終生、こういうことを考えることは大事でしょう。
そして実際の社会生活において行動に移すことが大事なのは言うまでもないでしょう。
こういうことを学び、そして考えて、行動に移すことでお金になるのでしょうか?
お金にはならないでしょう。
だが大事でしょう、社会をよくするためには、どうだろうか?と考えざるを得ないのです。
私が大学時代に話題になっていたオランダ人ジャーナリストのカレル.ヴァン.ウォルフレン氏(下写真)なのです。
そのウォルフレン氏は、日本には市民が不在であるというのです。
市民とは社会がよくなるために、日々行動をしていく民と考えているのです。
そのためにはいつも政治に関心を持ち続けて、それを矯正していくための行動をしていかないことには市民ではない、ということです。
しかし、その著『人間を幸福にしない日本というシステム』という本によれば、「日本の会社では、政治活動のために定時に仕事を切り上げて帰ると周りの人間から白い目で見られる…こういうことも人間を幸福にしないシステムの1つである」ということです。
これは目の覚める議論であると思いました。
このようにして、日々行動していくための教育が必須なんだ、と思った瞬間でした。
そういう市民を輩出するのが学問の目的の1つなのだとわかった瞬間でした。
どのような目的を学問は持っているのだろうかと探索していた私にとって、ウォルフレンの意見はかなりディシプリナリーなものでした。
あれだけ有名な人が唱えていることですから、やはり学問の存立意義を誰もが実感するべきだろうと思った瞬間でした。
しかし、市民の不在…自分の社会を自分だ良くしていこうという気概が失われてしまった社会では前途が暗澹たるものになる…これは過激でしょうか?
そこを突っつくといろんな議論が噴出して、このページだけでは足りなくなるのは明らかですから、ここではやめにしていきましょう。
それこそ自分の頭で考え、そして行動していくべきでしょう(笑)
そしていろんな学問を学んで、自分の妥当と思えることを日々行動していくべきでしょう。
それもまた「市民」として大事なことでしょう。
皆さんを応援しています。
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今売れに売れている美脚本を紹介します!=『美脚創造』
みなさん、こんにちは! さて、これから真剣に「美脚」になるために取り組んでいきましょう!
この【美脚創造】に書かれていることは、家で充分実行できることしか書かれていません!難しいことしか書いてないと思った貴女!心配ご無用にお願いいたします(笑)しかし、何もしなくていいわけではありませんよ、実行すべきことはきちんとありますからね!あと、してはいけないこともありますよ、NG食材を摂ってはいけないということですね! ・今の自分の身体の部位のサイズを測り、どのサイズにしたいか明確に決める! ・摂るべきものを摂り、摂ってはいけないものは摂らない ・毎日7秒のエクササイズをおこなう これを14日間こなさせることによって1000人以上の女性を脚痩せに成功させてきたのです!貴女もこれをこなしましょう! ただし、「必ず書かれていることを忠実に実行してきた人たち」ですからお間違えなく! 美脚に頑張る貴女におススメの本がコチラ!
◆脚やせ◆たった1日2分流すだけ!現役読者モデルでもマイナス5cmに成功した美脚法! ↓
りりー『美脚創造』
この【美脚創造】に書かれていることは、家で充分実行できることしか書かれていません!難しいことしか書いてないと思った貴女!心配ご無用にお願いいたします(笑)しかし、何もしなくていいわけではありませんよ、実行すべきことはきちんとありますからね!あと、してはいけないこともありますよ、NG食材を摂ってはいけないということですね! ・今の自分の身体の部位のサイズを測り、どのサイズにしたいか明確に決める! ・摂るべきものを摂り、摂ってはいけないものは摂らない ・毎日7秒のエクササイズをおこなう これを14日間こなさせることによって1000人以上の女性を脚痩せに成功させてきたのです!貴女もこれをこなしましょう! ただし、「必ず書かれていることを忠実に実行してきた人たち」ですからお間違えなく! 美脚に頑張る貴女におススメの本がコチラ! ◆脚やせ◆たった1日2分流すだけ!現役読者モデルでもマイナス5cmに成功した美脚法! ↓
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学問事項へのアクセスは終生必要?その内容は? (加藤秀俊)
こんにちは。
学問についての事柄へは、終生追いかけなくてはならない性質のものです。
なぜなら、法律にしろ規則にしろ、常に変化するものですから、それにアクセスしないことには、必須のものが得られないからです。
いま、いろんな詐欺が横行しています。
疑似恋愛で相手に気持ちのいい気分にならせて、銀行口座に大金を振り込ませる。
その履歴があれば、その人から返してもらうことが出来る、と考えるのはかなり早計です。
振り込んだとたん、海外の銀行口座に送られる仕組みを作っていることがほとんど全部で、振り込んだら最後なのです。
戻ってくることはありません。
また、個人情報保護法というものがあり、個人情報を暴くことは法律上できなくなってしまっているのです。
マッチングアプリで知り合った異性に、架空の苦労話を話しを振り、それによっていくら必要という話をして大金を振り込ませて、そのまま逃げる手口なども往々にしてあるのです。
これも大金を振り込んだら最後、もう戻ってくることはないのです。
昔の法律感覚のままでいることによって、大きな損をすることになるからかなりの注意が必要です。
ゆえに、いつも学問的な情報へのアクセスは必須なのです。
こういう勉強をしておく教訓として、「おいしい話しに乗るな!乗ったら最悪の事態に!」ということ強調しておきたいです。
そういう重要性について話しを巷でも話されているにも関わらず、大学生はあまり勉強に興味がないようです。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、そのいくつかの本の中で「大学生のうち、真剣に勉強しているのは全体の2割くらい。ほとんどの学生は麻雀に勤しんでいる」ということを嘆いていました。
麻雀とは古めかしい娯楽ですが、昨今の大学生でも、そんなに勉学に勤しんでいないという事情は一緒でしょう。
その理由は、ウィリアム.ジェイムズ(下写真)の唱えた理論にある気がします。
ウィリアムによれば、世の中は、物事を固定的に考える人、物事を並列的に考える人の2タイプがあり、前者の方が多数派である、ということです。
前者のタイプは、物事は普遍的な原理によって成り立っているのであって、神や仏のお計らいで事態が生じるゆえに、市井の細事についてわざわざあげつらう必要はないという世界観で生きているということです。
後者の人は、世界はいろんなものが並列的に起こっているのであって、その詳細いついて調べていくことによって世界を理解していくことがでできるとしているのです。
後者の人であれば、勉強に勤しみますよね?
大学のような次に繋がる受験もないような状態であっても?
そういう人こそが、学業でも成功するのでしょう。
前者のタイプで学業で成功したパターンは、私は知りません。
その学業を修めるにしても、卓越した独自の理論など必要ないでしょう。
教授や著作家といわれる人たちは、自身で論文を書くときに、自分の考えなり、主張、自身で抽出した理論を書くのが通常ですが、その際にも、卓越した独自の理論など必要ないのではないか、と思います。
非常に独創性が強く、後世にまで語られる理論など誰にでも期待するのは誤りでしょう。
これは独自理論の理論ということになりますが、もし自分が特許を申請することで、大金を得たいという野望があるのであれば、そこは特許申請について学ぶ必要があるでしょう。
特許は申請主義です。
同じ特許内容が先に出されて申請されてしまえば、私が考えたのだと主張しても却下されてしまうから注意が必要です。
それでも特許などいらない、学業に勤しんでいるだけでいいというのであればそれはそれでいいでしょう。
自分が考えたことと全く同じアイディアがあったとして、申請が先に行われてしまったがために、自分には特許の印税が入らなくなってしまった。
その時、どうするか?
手柄など人にあげてしまえ!とするのがいいでしょう。
その気持ちはどういうときに思うようになるか?
大好きなことをしているときになりますね?
ゆえに、生業はその時代の花形産業だから、もうかりそうだからといって選ぶべきではないでしょう。
学業も一緒です。
その研究をすることで昼夜問わず時間がすぐに過ぎてしまう、というのであれば、その人は学業−大学教授、著作家に向いているでしょう。
●こんな話しに共感できる人には以下の電子書籍.ぺーパーバックはお勧めです!(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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著作物には主張や考えは必須?そういう創造性は、サラリーマンになる人にも必須か? (加藤秀俊)
こんにちは。
私は本を読む方ですが、それでも本ならば何でもかんでもいいわけではなく、自分の主張なり、考えが述べられている本でなくては、読む気がしません。
他の本からの引用ばかりの本や、知識だけを祖述しているだけの本は読む気がしないです。
「でも知識を得るために読書ってするんじゃないの?」と問われればその通りですが、それだけでなく、その著者の主張なり考えが盛りこまれているものでなくては、心労になってしまいます。
学問は単なる知識だけを得るのみならず、社会に必須の考えや主張を知るための手段でもあるはずなので、そういうものがない本は読む気にならないのです。
学者の書いた本で、自分の主張と一緒のものであれば、共感します。
しかし、自分の主張と違うものがあれば、それは吟味しながら、ある部分では取り入れ、ある部分では取り入れない、という工夫が必要でしょう。
そこに思考という作業が出てくるのです。
そういう作業が伴うことこそが、読書の愉しみではないでしょうか?
その学問の本ですが、独自の主張があって、それが自分を恍惚とさせる代物であれば、それはそれは、その著者の本の虜になるでしょう。
しかし、独自の主張が必要といいましたが、そんな卓越した独自性を誰にでも求めるのは筋違いでしょう。
そんなことは私自身出来ないわけですし(笑)、自分が出来ないことを人に求めるのは野暮というものでしょう。
しかし、学問の本の著者ならば、自身の考えや主張は書くべきでしょう。
そういうスタンスでいる人であれば、それほど独自性がなくても私は、その著者の本は出るたびに買いたいと思います。
かといって、あまりにありきたりであっては、買うのは難しいです。
あまりにありきたり、というのは、「犬が東を向いたら尻尾は西を向く」などというしょうもないことを書いている人のはだめですね(笑)。
必ず主張は書く。
大学教授や著作家に求めるのはそういう人間像です。
しかし、大学教授は、毎月研究費として普通は10万円もの大金を大学からもらっているはずですが、研究らしい研究をしないのみか、祖述や引用ばかりの本や論文しか書かない教授も多くいるのが現状のようです。
「思考が苦手な人は本を読むことで逃げる」と書いたのは、ショーペンハウアー(下写真)ですが、そういう思考を抜きにした本や論文しか書かない人は素質がないと私は思います。
考えや主張に卓越した独自性はいらないが書くのは必須。
しかし、考察しなければならないのは、学問からは卒業後遠ざかる一般人はそれほど、独自性の強い思想などいらないんでしょうか?
やはり盲目になって仕事に打ち込むだけでいいというのでしょうか普通の一般人は?
いな自己主張は不要なのでしょうかサラリーマンは?
それはケースバイケースということです。
自分が属している組織が、前例を踏襲するだけ、しかもその前例がよくない方向へ行っているのであれば、すぐさま軌道修正をしていかなくてはならないでしょうし、あまりに良き方向へ行っていると認識できている組織にいるならば軌道修正をする必要はないでしょう。
しかし、いずれの場合でも、何かしら問題点は存在しているわけで、何も考えなくていいわけではないでしょう。
しかし、そんな中でもどうしてもその組織に不満をもち、それを捨てきれないでいる人は必ずどの組織にでもいるのです。
それは飲食店に例えればいいでしょう。
外見では、それなりにいい店のような気がしますが、その店に務める店員で、どうしてもその店の雰囲気なり、値段なり、メニューなりに不満を持って、どうしてもそれらの満足できない。
それが長年つもりに積もって、自身の店を開きたいという欲望に駆られてしまったというのであれば、自身で開業するのがいでしょう。
しかし、不満を持つ店とはいえ、何から何まで見習う箇所がないかといえばそんなことはなく、何かしら学ぶことはあるわけで、そのことを踏襲しなければならないのは言うまでもないことです。
やはり人間だれしも保守的なものです。
やはりいきなり一変させるものではなく漸次的に物事を変えていくのがいいということです。
そして、その他、開業や経営について勉強しなければならないことは続々と出てくるでしょう。
それらは主体的に学んでいかなくてはならないでしょう。
参考にしてくださいませ。
●このような意見に賛同してもらえる方であれば、以下の電子書籍.ペーパーバックはお勧めです!(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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学問の効用は?社会に出て有益な学問の理論は本で学べる? (加藤秀俊)
こんにちは。
学問を学ぶことの効用は、いろいろありますが、私が思うに、大事なことの1つは、人の可能性を広げる、ということにあると思います。
例えば、人の成功を喜べる、逆に人の成功に嫉妬する、どちらの人間の方が望ましいでしょうか? 言わずもがな前者です。
しかし、人の成功に嫉妬してしまう人は、どうしてそういうパーソナリティになってしまうのでしょうか?
それは、いろんな科学、とくに心理学によって明らかになっているのです。
その嫉妬してしまう人の親が、その子を褒めずに教育してきてしまった。
あるいはどんな成功を子供がしても、その親はその子を褒めなかった。
こういうことが原因になっているのです。
ゆえに人の成功を褒めれない。

逆にその成功をこき下ろすようなことをしてしまうのです。
これは、社会に出て非常に足かせになることは間違いないのです。
こういう人の成功を嫉妬してしまう人を見て、人間としてレベルが低いだの、人の上に立つ人間としてみみっちい、といったような批判をすることでは解決しないのです。
それならどうすればいいか?
その、人の成功を喜べない人は、嫉妬するなと自分に言い聞かせること…ではないのです。
人の成功や幸福を喜べるようになるになるためには、人と比べてではなく、それをすると思ったら自然と楽しくなるものを生業や趣味として選ぶべきなのです。
これは若月謙司という恋愛心理学、家族心理学の教授の本から学んだのです。
その楽しいという感情ですが、人と比べてではなく、それをしているうちにすごく楽しくなる物事です。
なるほど、と思った私はそのテーゼを、人を観察しながら自分もそれを施策して検証していった結果、私もそのテーゼに賛同することにしたのです。
仕事選びですが、その際も、「花形産業だから」とか「儲かる仕事だから」といった理由で選ぶべきではなく、「楽しめそうだから」という方を選べ、ということなのは明白です。
第二次世界大戦の終戦直後に一番お金の貰えた職業は炭鉱労働者だったのですね。
しかし、エネルギーの元が変わりましたから、現在は炭鉱で仕事をしていても儲かる職業ではありません。
ゆえに、儲かりそうではなく、楽しめそう、を選べということを故.堺屋太一.経済産業省長官(下写真)がその著で書いているのです。

また、いろんな儲かっている会社の社長たちもその自叙伝で、その趣旨のことを書いているのです。
こういった受験勉強では出題されないけれども、社会に出て、必要な大事な理論を学ぶのは非常に大事なことでしょう!
こういった理論的な事柄は大学に行かなくても学べるたちのものなのです。
ではどこで学ぶか?
いろんな本をむさぼるように読めばいいのです。
これも、こういう本を読んでいれば体裁がいいからといったものを選ぶのではなく、好奇心の赴くまま、これは面白そうだ、これは自分に合っていそうだ、というものを手あたり次第に読むのがいいでしょう。
「読書にスタンダードはない」と書いたのは文学者、評論家であった中野孝次でしたが、その通りだと思います。
人との良好な関係を築きたいのであれば、主体的にどんどんと学問の本を読み、そして、そこに書かれている重要と思われたことをノートに書くなり、パソコンのワード等に書き留めておいて、それを現実社会で行動していくのです。
こういう主体的な態度が将来の自分を形作るのです。
こういったことは大学に行かなくても学べる性質のものなのです。
こういった学問の本ならば、900円から3000円前後で買って読めるものなのです。
古本ならば100円で買えます。

それなのに、大学の授業1コマはいまは3000円はします。 高いところでは4000円もします。
1コマ4000円…そんな価値はないのは明白です(笑)。
その1コマは、1冊の本に量でも、内容でも負けているのです。
ならば、大学になど行かず、本を買って読めばいいのではないでしょうか?
●そういうことに賛同してもらえる人におすすめなのは、以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
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学問を学ぶことの効用は、いろいろありますが、私が思うに、大事なことの1つは、人の可能性を広げる、ということにあると思います。
例えば、人の成功を喜べる、逆に人の成功に嫉妬する、どちらの人間の方が望ましいでしょうか? 言わずもがな前者です。
しかし、人の成功に嫉妬してしまう人は、どうしてそういうパーソナリティになってしまうのでしょうか?
それは、いろんな科学、とくに心理学によって明らかになっているのです。
その嫉妬してしまう人の親が、その子を褒めずに教育してきてしまった。
あるいはどんな成功を子供がしても、その親はその子を褒めなかった。
こういうことが原因になっているのです。
ゆえに人の成功を褒めれない。

逆にその成功をこき下ろすようなことをしてしまうのです。
これは、社会に出て非常に足かせになることは間違いないのです。
こういう人の成功を嫉妬してしまう人を見て、人間としてレベルが低いだの、人の上に立つ人間としてみみっちい、といったような批判をすることでは解決しないのです。
それならどうすればいいか?
その、人の成功を喜べない人は、嫉妬するなと自分に言い聞かせること…ではないのです。
人の成功や幸福を喜べるようになるになるためには、人と比べてではなく、それをすると思ったら自然と楽しくなるものを生業や趣味として選ぶべきなのです。
これは若月謙司という恋愛心理学、家族心理学の教授の本から学んだのです。
その楽しいという感情ですが、人と比べてではなく、それをしているうちにすごく楽しくなる物事です。
なるほど、と思った私はそのテーゼを、人を観察しながら自分もそれを施策して検証していった結果、私もそのテーゼに賛同することにしたのです。
仕事選びですが、その際も、「花形産業だから」とか「儲かる仕事だから」といった理由で選ぶべきではなく、「楽しめそうだから」という方を選べ、ということなのは明白です。
第二次世界大戦の終戦直後に一番お金の貰えた職業は炭鉱労働者だったのですね。
しかし、エネルギーの元が変わりましたから、現在は炭鉱で仕事をしていても儲かる職業ではありません。
ゆえに、儲かりそうではなく、楽しめそう、を選べということを故.堺屋太一.経済産業省長官(下写真)がその著で書いているのです。
また、いろんな儲かっている会社の社長たちもその自叙伝で、その趣旨のことを書いているのです。
こういった受験勉強では出題されないけれども、社会に出て、必要な大事な理論を学ぶのは非常に大事なことでしょう!
こういった理論的な事柄は大学に行かなくても学べるたちのものなのです。
ではどこで学ぶか?
いろんな本をむさぼるように読めばいいのです。
これも、こういう本を読んでいれば体裁がいいからといったものを選ぶのではなく、好奇心の赴くまま、これは面白そうだ、これは自分に合っていそうだ、というものを手あたり次第に読むのがいいでしょう。
「読書にスタンダードはない」と書いたのは文学者、評論家であった中野孝次でしたが、その通りだと思います。
人との良好な関係を築きたいのであれば、主体的にどんどんと学問の本を読み、そして、そこに書かれている重要と思われたことをノートに書くなり、パソコンのワード等に書き留めておいて、それを現実社会で行動していくのです。
こういう主体的な態度が将来の自分を形作るのです。
こういったことは大学に行かなくても学べる性質のものなのです。
こういった学問の本ならば、900円から3000円前後で買って読めるものなのです。
古本ならば100円で買えます。
それなのに、大学の授業1コマはいまは3000円はします。 高いところでは4000円もします。
1コマ4000円…そんな価値はないのは明白です(笑)。
その1コマは、1冊の本に量でも、内容でも負けているのです。
ならば、大学になど行かず、本を買って読めばいいのではないでしょうか?
●そういうことに賛同してもらえる人におすすめなのは、以下の電子書籍.ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
大学教授や著作家はどのような論文や本を書くべきか?そのための方法論は? (加藤秀俊)
こんにちは。
学問の役割の1つとして、学問の本を読んだ人の人生が覚醒するものでなければならない、ということは言えると思います。
日々の漫然たる生活の中では、悩みや、困難を切りぬけることはできた話しではないです。
そのためには、物事を構造的に明らかにして、その際にどうすれば、その悩みや困難から抜け出せるかといったことが書かれている本を読者が読んで、それに感銘を受けて、実際の生活でそれを行動してみる。
すると、見事、その人の人生が好転した、ということが起これば、それこそ「この本を読んでよかった!」と思えるわけです。
学問はそういうこと目指しているはずです。
前に、家で勉強や仕事をするとどうしても気が散って、他のことに目が行って勉強や仕事がおぼつかない人がいる。
その人は、リーキーアテンションといって、特有の精神状態であって、そういう人こそが、起業家に向いている、ということ話しました。
それについて自身の動画で紹介しているのはメンタリストのDAIGO(下写真)という人で、この人の動画で私もずいぶんと助けられたのです。

そのページについては以下をどうぞ!
※参考ページ
教授や著作家に求める著作の内容の2つの内容とは?
著作家や大学教授たるもの、そういった論文を書くべきでしょう。
やはり、世間一般の人が読んで感銘受けるようでなければ学問の意味がないのです。
こういう創造性こそが人生を明るくするものだからです。
より良き未来のために、いろんな本をむさぼるように読む、これが私が大学生に勧めたいアティチュードなのです。

だが、大抵の人はそんなことはしないです、大学生はもちろん一般人も。
大抵の人は、受験という後ろ盾がなければ、勉強しないのです。
なぜならば、そういった本を読むということは億劫で虫唾の走ることだからです。
大学教授といわれる人たちでも、そういう使命感を持って研究に没頭していた例は少なかった気がします。
そういうことが出来ないのは、1つの専門に閉じこもっているからでしょう。
自分の専門だけに閉じこもっているだけでは新しい発見もなければ、使命感も生まれないし、自身を鼓舞することもできないでしょう。
しかし、私が敬愛していた故.加藤秀俊(下写真)とその仲間たちは違いました。

関心の範囲は、パチンコ、宗教、経済、政治、文芸…Etc、多岐にわたるものでした。
それらにプラスして、高校までに習った知識も引き合いに出してことを対談集という形で出したり、書きおろし本を多数出していたのです。
学問の愉しみは、自分の専門の知識や情報に加えて、まるで見当違いの領域から関連事項や意外なる発見が出来たりすることでしょう。
そういう愉しみに浸れたら、論文や本を書き続けてしまい、気が付いたら何時間も作業をしていた、という経験は、やはりその知識と知識の結びつけによって可能になるのです。
これまで読んできた本の内容をただ覚えているだけで、それを受け売りするだけの、要するに単なる知識の書下ろしを本にしたり論文にしたりということであれば、そんな長時間は普通はできた話しではないです。
辛くなって、辛抱できても2時間がいいところでしょう。
少なくとも私はそうでした。
そんな知識の書きおろしであれば、面白くもなんともないですね。
それが面白くなるには、やはり自分の考えや思いを書かなくてはならないでしょう。
その考えや思いは取りたてて、独自性などは必要ないのです。
そんな卓越した独自性のある人物などそうそういないのですから。

しかし、それでも、自分の考えや思いは必ず書くべきでしょう。
その際NGにいてほしいのは、他の著者の本から抜き書きして「〇〇氏はこう書いている」と前置きして、その著者の論文から抜粋してそれで終わり、ということです。
これでは読んでいる方がつまらないこと間違いないです。
私の敬愛している桜井邦朋氏は、そういう論文は「読むのもつまらない」と書いてありましたし、私も同感なのです。
そういう論文は、読んでいて読みにくいことこの上ないのです。
そういう他の本からの書き抜きは、学術性があると感じられるだろうと思われがちですが、実際はそんなことはなく、逆に自身の考えや思いを書くことによって学術的に思われやすいのです。
それに加えて、いろんな研究を経て、自身で見つけた、あるいは抽出した理論が提示されれば、尚、学術性が高まるということが言えると思います。
その抽出された理論も、そんな独自性はなくてもいいのです。
そんな卓越した理論などそうおうあるものではないのですから。
抽出した理論を他の著者から借りるのもこれまたNGだということを強調しておきたいと思います(笑)
●こんな内容について興味の出た人におすすめの電子書籍.ペーパーバックは以下です(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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学問の役割の1つとして、学問の本を読んだ人の人生が覚醒するものでなければならない、ということは言えると思います。
日々の漫然たる生活の中では、悩みや、困難を切りぬけることはできた話しではないです。
そのためには、物事を構造的に明らかにして、その際にどうすれば、その悩みや困難から抜け出せるかといったことが書かれている本を読者が読んで、それに感銘を受けて、実際の生活でそれを行動してみる。
すると、見事、その人の人生が好転した、ということが起これば、それこそ「この本を読んでよかった!」と思えるわけです。
学問はそういうこと目指しているはずです。
前に、家で勉強や仕事をするとどうしても気が散って、他のことに目が行って勉強や仕事がおぼつかない人がいる。
その人は、リーキーアテンションといって、特有の精神状態であって、そういう人こそが、起業家に向いている、ということ話しました。
それについて自身の動画で紹介しているのはメンタリストのDAIGO(下写真)という人で、この人の動画で私もずいぶんと助けられたのです。
そのページについては以下をどうぞ!
※参考ページ
教授や著作家に求める著作の内容の2つの内容とは?
著作家や大学教授たるもの、そういった論文を書くべきでしょう。
やはり、世間一般の人が読んで感銘受けるようでなければ学問の意味がないのです。
こういう創造性こそが人生を明るくするものだからです。
より良き未来のために、いろんな本をむさぼるように読む、これが私が大学生に勧めたいアティチュードなのです。
だが、大抵の人はそんなことはしないです、大学生はもちろん一般人も。
大抵の人は、受験という後ろ盾がなければ、勉強しないのです。
なぜならば、そういった本を読むということは億劫で虫唾の走ることだからです。
大学教授といわれる人たちでも、そういう使命感を持って研究に没頭していた例は少なかった気がします。
そういうことが出来ないのは、1つの専門に閉じこもっているからでしょう。
自分の専門だけに閉じこもっているだけでは新しい発見もなければ、使命感も生まれないし、自身を鼓舞することもできないでしょう。
しかし、私が敬愛していた故.加藤秀俊(下写真)とその仲間たちは違いました。
関心の範囲は、パチンコ、宗教、経済、政治、文芸…Etc、多岐にわたるものでした。
それらにプラスして、高校までに習った知識も引き合いに出してことを対談集という形で出したり、書きおろし本を多数出していたのです。
学問の愉しみは、自分の専門の知識や情報に加えて、まるで見当違いの領域から関連事項や意外なる発見が出来たりすることでしょう。
そういう愉しみに浸れたら、論文や本を書き続けてしまい、気が付いたら何時間も作業をしていた、という経験は、やはりその知識と知識の結びつけによって可能になるのです。
これまで読んできた本の内容をただ覚えているだけで、それを受け売りするだけの、要するに単なる知識の書下ろしを本にしたり論文にしたりということであれば、そんな長時間は普通はできた話しではないです。
辛くなって、辛抱できても2時間がいいところでしょう。
少なくとも私はそうでした。
そんな知識の書きおろしであれば、面白くもなんともないですね。
それが面白くなるには、やはり自分の考えや思いを書かなくてはならないでしょう。
その考えや思いは取りたてて、独自性などは必要ないのです。
そんな卓越した独自性のある人物などそうそういないのですから。
しかし、それでも、自分の考えや思いは必ず書くべきでしょう。
その際NGにいてほしいのは、他の著者の本から抜き書きして「〇〇氏はこう書いている」と前置きして、その著者の論文から抜粋してそれで終わり、ということです。
これでは読んでいる方がつまらないこと間違いないです。
私の敬愛している桜井邦朋氏は、そういう論文は「読むのもつまらない」と書いてありましたし、私も同感なのです。
そういう論文は、読んでいて読みにくいことこの上ないのです。
そういう他の本からの書き抜きは、学術性があると感じられるだろうと思われがちですが、実際はそんなことはなく、逆に自身の考えや思いを書くことによって学術的に思われやすいのです。
それに加えて、いろんな研究を経て、自身で見つけた、あるいは抽出した理論が提示されれば、尚、学術性が高まるということが言えると思います。
その抽出された理論も、そんな独自性はなくてもいいのです。
そんな卓越した理論などそうおうあるものではないのですから。
抽出した理論を他の著者から借りるのもこれまたNGだということを強調しておきたいと思います(笑)
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ありがとうございました。
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