大学の勉強は高校までとは違う。それには素質が必須だがそれへの望ましいスタンスは? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学の勉強は、高校までのそれとは違います。
まずそのことを認識する必要がありますね。
高校までは知識を脳内に入れることで満足していました。
教科書の片端から試験で出題される場所までを暗記して、その単語を書けばいい、あるいは選択して正答すればよかったですね。
しかし、大学では理論を学び、その理論が現代社会でどのような状態にあるか。
その状態についての是非を自ら論じる必要があるのです。
その論じた内容が知的であればあるほど、高得点を得ることが出来ます。

しかし、大学で学ぶ学問の本質がわかっていなくて、ただ理論を祖述するだけで高得点をくれた教授もいました。
そういう教授は…印象に残ってないですし、学術的に認められることはないから注意が必要です(笑)
その論じる際に、他の理論からヒントを得ることが出来るわけですから、他の教科を必死に学んでいる必要もありますし、自分で他の学問についての本を主体的に読む必要があります。
何気なく読んでいた本から、ヒントを得れるわけですから、そのセレンディピティという偶然ヒントを得れる現象に出くわすことしばしばでした。
それが楽しかったので、いろんな本を中古本屋で買ったり、大学構内の購買会で取り寄せて買ったりして読んでました。
そういう現象が非常に楽しかったです私は。
大学4年時に、カナダのケベックのナショナリズムについてが、自由研究発表でした。
その研究発表の内容は、モグリではいって受講した『政治学』で学んだ内容も織り交ぜたり、他の経済学の本で学んだ内容も織り交ぜて論実していったのです。
私が敬愛していた社会学者であった故.加藤秀俊(下写真)は、自分の本題についての理論づけのためには、目的のない散歩が必要であると申していました。

同じ科学の本から学ぶのも当然ですが、他の関係なさそうに見える科学の本を読んでいるときに、ふと出くわす理論や知識が、本題の理論づけに役立ったりするから非常に興味深かったし面白かったです。
その目的のない散歩でふと出くわすので、常にチェックのためのペンやミニノートが必要でしょう。
それを常にカバンの中にいれているのです。
学業で名を挙げている学者は、そういう知的な生産に余念がないのですね。
いや余念がないというよりも、必然的に興味深くそういう行動に出てしまうのですね、楽しいので。
それは知的生産で有名な外山滋比古氏もそういう生産法について本を出していますね。
私も散歩から学べたのです。
私が大学を卒業する際に、ゼミの後輩たち全員の声を色紙に書いてくれて、それをプレゼントされました。
そこには「研究発表の内容が幅広くてびっくりしました。」とか「知的ですね。」とか、「ゼミにおける発言が奥深いですね」と書かれていて大いに励みになりました。
しかし、自分から言わせれば、頑張って意気込んでたわけじゃなかったです。
ただ知的好奇心の赴くまま、いろんな本を読んで、重要と思われる部分についてはチェックして、小さなノートに書き留めてという作業を積み重ねていただけでした。
それが発言やタイピングに現れていたのだと思います。
そういった好奇心の赴くまま生産を続けることが非常に面白かったです。
だが、その面白いことを大抵の人はしない。
大抵の大学生の人は、受験という後ろ盾がなければ、勉強しない。
ゆえに大学に来ては怠け者になってしまうのです。

そういったことは大抵の人は、そういう知的な作業は億劫で虫唾の走ることだからです。
しかし、加藤秀俊とその仲間たちは違かったです。
その仲間とは、梅棹忠雄、小松左京、多田道太郎、米山俊直といった同僚たちです。
特に瞠目したのは、加藤秀俊のスタンスや姿勢ですね。
パチンコ、宗教、経済、政治、文芸…Etc、彼が論じて出した本の内容は多岐にわたるものでした。
よくもここまで多岐にわたる学問を修めたなあと感心するばかりでした。
加藤氏は大学時代に、1日に1冊という読書を課した時期があったようです。
それゆえに…と感心しました。

加藤秀俊曰く「専門を課題にするのではなく、問題点を課題にしていかなくてはならない」というのがモラルだったのですし、そういう姿勢に感心するばかりでした。
そういう自身で学んだ内容が読書量が半端なかったがゆえに、膨大になっていたのみならず、高校までに習った知識も引き合いに出して加藤氏はいろんな論文や本をたくさん書いていたのです。
その知的好奇心の広さには気宇を感じざる得ないのです。
片っ端から暗記していく高校までの勉強はあまり好きにはなれなかったですが、こういう知的生産がものをいう勉強であれば、私は非常に楽しかった記憶があります。
しかし、それは楽しいからやっていたのみならず、それを鼻をかけて威張るつもりもなければ、自分を持ち上げる気にもならない、というのが正直なところです。
それは自身のスタンスで選べばいいだけで、こちらがその矯正をしてあげるのも、こちらの手に余ることであると思っています。
講義をさぼりまくる人の方が圧倒的に多い日本の大学ですが、そのことに咎め立てする気も当然ならないのです。
大学での勉強がつまらないとして、サボりまくる人が多くても、それは好きにはなれないだけ、好みと違うという話しなだけであって批判する気にはなれないというのが正直なところです。
●では大学で主体的に学べない人はどのようなスタンスでいるべきか、は以下の加藤秀俊氏の偉業について書いた以下の電子書籍やペーパーバックに書いてありますから参考にしてくださいませ。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
大学の勉強は、高校までのそれとは違います。
まずそのことを認識する必要がありますね。
高校までは知識を脳内に入れることで満足していました。
教科書の片端から試験で出題される場所までを暗記して、その単語を書けばいい、あるいは選択して正答すればよかったですね。
しかし、大学では理論を学び、その理論が現代社会でどのような状態にあるか。
その状態についての是非を自ら論じる必要があるのです。
その論じた内容が知的であればあるほど、高得点を得ることが出来ます。
しかし、大学で学ぶ学問の本質がわかっていなくて、ただ理論を祖述するだけで高得点をくれた教授もいました。
そういう教授は…印象に残ってないですし、学術的に認められることはないから注意が必要です(笑)
その論じる際に、他の理論からヒントを得ることが出来るわけですから、他の教科を必死に学んでいる必要もありますし、自分で他の学問についての本を主体的に読む必要があります。
何気なく読んでいた本から、ヒントを得れるわけですから、そのセレンディピティという偶然ヒントを得れる現象に出くわすことしばしばでした。
それが楽しかったので、いろんな本を中古本屋で買ったり、大学構内の購買会で取り寄せて買ったりして読んでました。
そういう現象が非常に楽しかったです私は。
大学4年時に、カナダのケベックのナショナリズムについてが、自由研究発表でした。
その研究発表の内容は、モグリではいって受講した『政治学』で学んだ内容も織り交ぜたり、他の経済学の本で学んだ内容も織り交ぜて論実していったのです。
私が敬愛していた社会学者であった故.加藤秀俊(下写真)は、自分の本題についての理論づけのためには、目的のない散歩が必要であると申していました。
同じ科学の本から学ぶのも当然ですが、他の関係なさそうに見える科学の本を読んでいるときに、ふと出くわす理論や知識が、本題の理論づけに役立ったりするから非常に興味深かったし面白かったです。
その目的のない散歩でふと出くわすので、常にチェックのためのペンやミニノートが必要でしょう。
それを常にカバンの中にいれているのです。
学業で名を挙げている学者は、そういう知的な生産に余念がないのですね。
いや余念がないというよりも、必然的に興味深くそういう行動に出てしまうのですね、楽しいので。
それは知的生産で有名な外山滋比古氏もそういう生産法について本を出していますね。
私も散歩から学べたのです。
私が大学を卒業する際に、ゼミの後輩たち全員の声を色紙に書いてくれて、それをプレゼントされました。
そこには「研究発表の内容が幅広くてびっくりしました。」とか「知的ですね。」とか、「ゼミにおける発言が奥深いですね」と書かれていて大いに励みになりました。
しかし、自分から言わせれば、頑張って意気込んでたわけじゃなかったです。
ただ知的好奇心の赴くまま、いろんな本を読んで、重要と思われる部分についてはチェックして、小さなノートに書き留めてという作業を積み重ねていただけでした。
それが発言やタイピングに現れていたのだと思います。
そういった好奇心の赴くまま生産を続けることが非常に面白かったです。
だが、その面白いことを大抵の人はしない。
大抵の大学生の人は、受験という後ろ盾がなければ、勉強しない。
ゆえに大学に来ては怠け者になってしまうのです。
そういったことは大抵の人は、そういう知的な作業は億劫で虫唾の走ることだからです。
しかし、加藤秀俊とその仲間たちは違かったです。
その仲間とは、梅棹忠雄、小松左京、多田道太郎、米山俊直といった同僚たちです。
特に瞠目したのは、加藤秀俊のスタンスや姿勢ですね。
パチンコ、宗教、経済、政治、文芸…Etc、彼が論じて出した本の内容は多岐にわたるものでした。
よくもここまで多岐にわたる学問を修めたなあと感心するばかりでした。
加藤氏は大学時代に、1日に1冊という読書を課した時期があったようです。
それゆえに…と感心しました。
加藤秀俊曰く「専門を課題にするのではなく、問題点を課題にしていかなくてはならない」というのがモラルだったのですし、そういう姿勢に感心するばかりでした。
そういう自身で学んだ内容が読書量が半端なかったがゆえに、膨大になっていたのみならず、高校までに習った知識も引き合いに出して加藤氏はいろんな論文や本をたくさん書いていたのです。
その知的好奇心の広さには気宇を感じざる得ないのです。
片っ端から暗記していく高校までの勉強はあまり好きにはなれなかったですが、こういう知的生産がものをいう勉強であれば、私は非常に楽しかった記憶があります。
しかし、それは楽しいからやっていたのみならず、それを鼻をかけて威張るつもりもなければ、自分を持ち上げる気にもならない、というのが正直なところです。
それは自身のスタンスで選べばいいだけで、こちらがその矯正をしてあげるのも、こちらの手に余ることであると思っています。
講義をさぼりまくる人の方が圧倒的に多い日本の大学ですが、そのことに咎め立てする気も当然ならないのです。
大学での勉強がつまらないとして、サボりまくる人が多くても、それは好きにはなれないだけ、好みと違うという話しなだけであって批判する気にはなれないというのが正直なところです。
●では大学で主体的に学べない人はどのようなスタンスでいるべきか、は以下の加藤秀俊氏の偉業について書いた以下の電子書籍やペーパーバックに書いてありますから参考にしてくださいませ。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
今こそ日本人の学問に対するアティチュードを考えるべきでは? (加藤秀俊)
こんにちは。
学問というのは考えると不思議です。
日本人の誰もが憧憬の念を持っている雰囲気があります。
それで高校時代は、大学進学を目指して血眼になって勉強します。
それで苦心惨憺の末に大学に入学するも、大学での勉強に勤しむかと思えばそんなことなく、たいていの人は怠けます。

登録した講義には、だいたい半分くらい出席するだけで、ノートもとるかといえばそうでもなく、かいたり書かなかったり。
年末の試験のために、友人知人にノートを借りて、大学構内にあるコピー機や周辺のコンビニに行ってそれをコピーをして、そのコピーで勉強して試験に備えるのです。
登録した講義をだいたいどれだけ出席するのかという全国でのアンケートでは、8〜14%ということです。
この惨状を見て、「高校時代あんなに血眼になって勉強したのは何のためだったの?勉強が好きだから大学に来たんじゃないの?」と不思議でした。
嫌いならば大学に来なければいいじゃない、と思うのが自然でしょう。
なのに大半の人が何とか大学卒業までこぎつけるのです。
それに、講義の質は問われることはないのです。

それで卒業までこぎつけることが目的ゆえに、どんないい加減な講義をしようが毎年多くの人が受講するがゆえに、その講義のポストは確保されるわけです。
そんな状態では質の低下は免れないのです。
そんな状態では憤って、大学を辞める学生も当然いますが、哀しいけれども少数派なのです。
それが多数派になれば、必然的に質の向上は図られるわけです。
多くの学生に辞められたら自分のポストが危うくなる、と教授たちは危惧の念を抱くようになるからです。
そうなれば必死に研究に勤しむようになるのは必然です。
そんな質の低い教授の講義でも、毎年高い授業料を払い続けながら卒業までこぎつける…そんなパターンを私は大学時代に往々にして観てきました。
1コマの料金を、年間授業料から換算すると2500円くらいにはなるでしょうか?
今考えればそんな価値は全くないのは明らかでした。
普通の授業には平均100人以上が登録していました。
そうなれば、かなりの高額なお金を大学教授は得ていたのは間違いないです。
当時60歳を超えていた悪評高い(笑)、民法担当の某教授は、当時年収2000万円くらい得ていたでしょう。

その民法は法学部生にとっては必須科目だったので、ポストは永久的に確保されていたも同然でした。
しかし、声が小さく聞こえずらい講義だったのみならず、やたら難しい出題を毎年年末試験でするので毎年多くの人が民法を落第していたのです。
その時も小さな声ゆえに、書き損ねてしまった部分があったので、授業後にその教授に質問しに行きました。
その時、教授の手元にあった、まっちゃっちゃでボロボロな講義ノートを見て、私は思わず「うわっ!」と声を出してしましました。
その講義ノートが、その教授の人生を物語っていました。
研究らしい研究もせずに、毎年毎年同じ講義ノートを読んで説明しているだけ。
実際、その教授は35年間の教授生活の中で、編著本を1冊だけ出しただけでした。
そんな研究態度にも関わらず、学生には大きなものを要求する…人間の質も疑問が持たざるを得なかったですね!
また、私がとった政治学の教授は、学生時代にマックス.ウェーバーに憧れて教授になったにもかかわらず、これまでにどれだけ出したのか、私の大学のホームページを調べると、なんと1冊しか出していないのです。
「マックス.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで涙して感動し、自分も大学の教員になればウェーバーみたいになれるのかな、と思ってこの道に進みましたがなれないんですね…」と語っていました。
ウェーバー(下写真)に、質で負けていると思うならばせめて数を出したらどうか?と思いましたね。

その教授は今70歳に近い年齢です。
いま、この教授に期待するのが筋なのでしょうか?
もう無理だろう、というのが正直なところです(笑)。
その教授に聞いたところ、だいたい1教授あたり毎月10万円の研究費を大学からもらっているようです。
しかし、そんなにもらっても、研究していないのは明らかです。
そんな莫大な額を大学卒業まで学生の親御さんに出してもらっているにもかかわらず、質は問われないから旧態依然としたまま。
まさに大学教授は職業天国なのです。
そんな甘い汁を教授たちに吸わせたくないならば、多くの大学生が大学を辞めればいいのですが、実際はそういう行動に出るパターンは少ないのです。
これはひとえに日本全体でわけもなく学問への情景の念があるからでしょう。

ゆえにその実質は問われることなく無批判のまま通り過ぎてしまう。
ここまで書くと、教授の誰もが怠け者ととらわれそうですがそんなことないはないのです(笑)
毎回、研究結果を出す如く素晴らしい講義をしてくれていたパターンはありました。
しかし、それは少なかったです。
私の出た大学の毎月発行していた学論集なるものが、廊下においてあって、それを無料で自由にとっていっていいということで、和私はとって自宅にもっていきました。
その多くを私は近年まで保管していました(笑)。
それを今読むも、なんとも読むに値しないものが多いです(笑)。
中身がまるでないし、書き抜きだけ、祖述だけ、引用ばかりというおよそ教授といわれるには疑問がわくものばかりです。
そういう文しか書かない教授の出した本はやはり、同じような質のモノなのが通常です。
そんな講義ならば、受けていないで、自分で本を買って読んで糧にすればいいじゃないか、と思うのです。
大学受験のために現代文を勉強したでしょう。
そこで培った能力を生かせばいいのです。

大学に疑問を抱いている人は、そのことに気付くべきでしょう。
講義に1コマ2500円の価値があるのかどうか?
今はもっと高いですよね?
それに費やすならば、古本屋で安い本を買って読んで勉強すればいいのでは?
そんな疑問がわいて仕方ないのです私は。
毎年毎年同じ講義ノートを読んで説明しているだけの教授に年収1000万円だの2000万円だのといった高額な給料を払ってあげる必要があるかどうか?
ないと判断すならば、即刻大学を辞めるべきではないのか、と思わずにはいられないのです私は。
しかし、私は大学が違ったがゆえに、講義を受けることはできなかったけれども、大学が同じだったらどうしても受けただろうと思わざるを得なかった社会学者がいました。
それが加藤秀俊(下写真)です。

この人は故人ですが、生前は100冊以上もの本を出していたのです。
それもいずれの本もついつい読み進めてしまい、本来、トレーニング前のコーヒータイムのつもりで喫茶店にいって、その人の本を読んでいたら3時間くらいたってしまって、そのままトレーニングに行く気力がなくなって、そのまま帰宅…なんていう経験があるくらいです(笑)
この人の書いた本は、先の書き抜きだけ、祖述だけ、引用ばかりというものではなかったですし、毎回違う講義ノートを作成して講義に臨んでいたという教授としての素晴らしい姿を体現していた人なのです。
●そんな教授に興味の沸いた人には読んでもらいたいのが以下の電子書籍、ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
是非とも、覗いてもらいたいものです!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
学問というのは考えると不思議です。
日本人の誰もが憧憬の念を持っている雰囲気があります。
それで高校時代は、大学進学を目指して血眼になって勉強します。
それで苦心惨憺の末に大学に入学するも、大学での勉強に勤しむかと思えばそんなことなく、たいていの人は怠けます。
登録した講義には、だいたい半分くらい出席するだけで、ノートもとるかといえばそうでもなく、かいたり書かなかったり。
年末の試験のために、友人知人にノートを借りて、大学構内にあるコピー機や周辺のコンビニに行ってそれをコピーをして、そのコピーで勉強して試験に備えるのです。
登録した講義をだいたいどれだけ出席するのかという全国でのアンケートでは、8〜14%ということです。
この惨状を見て、「高校時代あんなに血眼になって勉強したのは何のためだったの?勉強が好きだから大学に来たんじゃないの?」と不思議でした。
嫌いならば大学に来なければいいじゃない、と思うのが自然でしょう。
なのに大半の人が何とか大学卒業までこぎつけるのです。
それに、講義の質は問われることはないのです。
それで卒業までこぎつけることが目的ゆえに、どんないい加減な講義をしようが毎年多くの人が受講するがゆえに、その講義のポストは確保されるわけです。
そんな状態では質の低下は免れないのです。
そんな状態では憤って、大学を辞める学生も当然いますが、哀しいけれども少数派なのです。
それが多数派になれば、必然的に質の向上は図られるわけです。
多くの学生に辞められたら自分のポストが危うくなる、と教授たちは危惧の念を抱くようになるからです。
そうなれば必死に研究に勤しむようになるのは必然です。
そんな質の低い教授の講義でも、毎年高い授業料を払い続けながら卒業までこぎつける…そんなパターンを私は大学時代に往々にして観てきました。
1コマの料金を、年間授業料から換算すると2500円くらいにはなるでしょうか?
今考えればそんな価値は全くないのは明らかでした。
普通の授業には平均100人以上が登録していました。
そうなれば、かなりの高額なお金を大学教授は得ていたのは間違いないです。
当時60歳を超えていた悪評高い(笑)、民法担当の某教授は、当時年収2000万円くらい得ていたでしょう。
その民法は法学部生にとっては必須科目だったので、ポストは永久的に確保されていたも同然でした。
しかし、声が小さく聞こえずらい講義だったのみならず、やたら難しい出題を毎年年末試験でするので毎年多くの人が民法を落第していたのです。
その時も小さな声ゆえに、書き損ねてしまった部分があったので、授業後にその教授に質問しに行きました。
その時、教授の手元にあった、まっちゃっちゃでボロボロな講義ノートを見て、私は思わず「うわっ!」と声を出してしましました。
その講義ノートが、その教授の人生を物語っていました。
研究らしい研究もせずに、毎年毎年同じ講義ノートを読んで説明しているだけ。
実際、その教授は35年間の教授生活の中で、編著本を1冊だけ出しただけでした。
そんな研究態度にも関わらず、学生には大きなものを要求する…人間の質も疑問が持たざるを得なかったですね!
また、私がとった政治学の教授は、学生時代にマックス.ウェーバーに憧れて教授になったにもかかわらず、これまでにどれだけ出したのか、私の大学のホームページを調べると、なんと1冊しか出していないのです。
「マックス.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで涙して感動し、自分も大学の教員になればウェーバーみたいになれるのかな、と思ってこの道に進みましたがなれないんですね…」と語っていました。
ウェーバー(下写真)に、質で負けていると思うならばせめて数を出したらどうか?と思いましたね。
その教授は今70歳に近い年齢です。
いま、この教授に期待するのが筋なのでしょうか?
もう無理だろう、というのが正直なところです(笑)。
その教授に聞いたところ、だいたい1教授あたり毎月10万円の研究費を大学からもらっているようです。
しかし、そんなにもらっても、研究していないのは明らかです。
そんな莫大な額を大学卒業まで学生の親御さんに出してもらっているにもかかわらず、質は問われないから旧態依然としたまま。
まさに大学教授は職業天国なのです。
そんな甘い汁を教授たちに吸わせたくないならば、多くの大学生が大学を辞めればいいのですが、実際はそういう行動に出るパターンは少ないのです。
これはひとえに日本全体でわけもなく学問への情景の念があるからでしょう。
ゆえにその実質は問われることなく無批判のまま通り過ぎてしまう。
ここまで書くと、教授の誰もが怠け者ととらわれそうですがそんなことないはないのです(笑)
毎回、研究結果を出す如く素晴らしい講義をしてくれていたパターンはありました。
しかし、それは少なかったです。
私の出た大学の毎月発行していた学論集なるものが、廊下においてあって、それを無料で自由にとっていっていいということで、和私はとって自宅にもっていきました。
その多くを私は近年まで保管していました(笑)。
それを今読むも、なんとも読むに値しないものが多いです(笑)。
中身がまるでないし、書き抜きだけ、祖述だけ、引用ばかりというおよそ教授といわれるには疑問がわくものばかりです。
そういう文しか書かない教授の出した本はやはり、同じような質のモノなのが通常です。
そんな講義ならば、受けていないで、自分で本を買って読んで糧にすればいいじゃないか、と思うのです。
大学受験のために現代文を勉強したでしょう。
そこで培った能力を生かせばいいのです。
大学に疑問を抱いている人は、そのことに気付くべきでしょう。
講義に1コマ2500円の価値があるのかどうか?
今はもっと高いですよね?
それに費やすならば、古本屋で安い本を買って読んで勉強すればいいのでは?
そんな疑問がわいて仕方ないのです私は。
毎年毎年同じ講義ノートを読んで説明しているだけの教授に年収1000万円だの2000万円だのといった高額な給料を払ってあげる必要があるかどうか?
ないと判断すならば、即刻大学を辞めるべきではないのか、と思わずにはいられないのです私は。
しかし、私は大学が違ったがゆえに、講義を受けることはできなかったけれども、大学が同じだったらどうしても受けただろうと思わざるを得なかった社会学者がいました。
それが加藤秀俊(下写真)です。
この人は故人ですが、生前は100冊以上もの本を出していたのです。
それもいずれの本もついつい読み進めてしまい、本来、トレーニング前のコーヒータイムのつもりで喫茶店にいって、その人の本を読んでいたら3時間くらいたってしまって、そのままトレーニングに行く気力がなくなって、そのまま帰宅…なんていう経験があるくらいです(笑)
この人の書いた本は、先の書き抜きだけ、祖述だけ、引用ばかりというものではなかったですし、毎回違う講義ノートを作成して講義に臨んでいたという教授としての素晴らしい姿を体現していた人なのです。
●そんな教授に興味の沸いた人には読んでもらいたいのが以下の電子書籍、ペーパーバックになります。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
是非とも、覗いてもらいたいものです!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
加藤秀俊に学ぶ今の学者や学生に必須のスタンスとは? (加藤秀俊)
私が大学時代に知り、すぐさまぞっこんになって、その著書をすべて集めてしまったという経験がある学者のうちの1人で、加藤秀俊(下写真)がいます。
この人はもう故人になってしまいましたが。

その大学生活の中ですぐさま購買会で入手して読んだもののうちの1冊で『比較文化への視角』というのがあります。
その内の1つの章で『無目標社会』というのがありました。
そこに書いてあるのは、日本および先進国は、無目標社会になった、ということです。
国家が、国民全部を1つの方向に向かわせるような大目的な設定はなくなり、個人がバラバラに動いている社会になった、ということです。
国家が1つの方向へ向かっている時代には根性論が流行るけれども、その社会が終焉したらそういうものが流行らなくなる、ということです。
ゆえに、戦前の人からすれば戦後に生まれ育った若者は弛んでるだの、根性がないといったような意見を聞くのも、その社会変化が理由でしょう。

しかし、それでも無目標社会のレジャー志向の若者の増加はいきなり増加するのではなく、漸次的に多くなっていくのでした。
戦後直後においては、逆境に負けない根性のあるキャラクターを主人公にした漫画が流行るも、その後はそういうキャラの漫画はそれほど流行なくなっているのは確かです。
無目標社会の到来は、多くの人がその大衆的な変化に気が付かずに生活していったのでしょう。
しかし、何気なく普通に暮らしていっている大衆を横目に、加藤は気が付いたのでしょう。
その到来によって、本山参り、文学といったものが、いずれも自己目的化していったという変化を感じたのだろうと思います。
それは本山参り、文学はそれぞれ、戦前は何のために人々は接していたのか?
それは、天下国家のためということでした。
しかし、戦後は、個人の目的のためというように変化していたのです。
そのことに察知した加藤秀俊は、本山参り、文学をそれぞれ個別に探求していったのです。
こういった変化は大抵の人は憤りを感じる者です。
「最近の若者はけしからん!」といったように(笑)

しかし、そういった変化を必然とみなしつつ、受け入れて、どのような社会を編じていくかを論じるのが学者の役目である、ということが他のいろんな科学や学問を論じる人間の役目なのです。
本山参り、文学は戦前の論理だけ論じるのではなく、戦後の論理で踏まえながら、その内情を分析したうえで論じる必要があるということですね。
その慧眼ぶりには驚きました。
変化を必然としながら、その内情を分析して論じる…今のどの分野の学者や学生にも必要なスタンスであると思いました。
●そんな加藤秀俊に興味がある人は以下の電子書籍、ペーパーバックをお勧めします!
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
この人はもう故人になってしまいましたが。
その大学生活の中ですぐさま購買会で入手して読んだもののうちの1冊で『比較文化への視角』というのがあります。
その内の1つの章で『無目標社会』というのがありました。
そこに書いてあるのは、日本および先進国は、無目標社会になった、ということです。
国家が、国民全部を1つの方向に向かわせるような大目的な設定はなくなり、個人がバラバラに動いている社会になった、ということです。
国家が1つの方向へ向かっている時代には根性論が流行るけれども、その社会が終焉したらそういうものが流行らなくなる、ということです。
ゆえに、戦前の人からすれば戦後に生まれ育った若者は弛んでるだの、根性がないといったような意見を聞くのも、その社会変化が理由でしょう。
しかし、それでも無目標社会のレジャー志向の若者の増加はいきなり増加するのではなく、漸次的に多くなっていくのでした。
戦後直後においては、逆境に負けない根性のあるキャラクターを主人公にした漫画が流行るも、その後はそういうキャラの漫画はそれほど流行なくなっているのは確かです。
無目標社会の到来は、多くの人がその大衆的な変化に気が付かずに生活していったのでしょう。
しかし、何気なく普通に暮らしていっている大衆を横目に、加藤は気が付いたのでしょう。
その到来によって、本山参り、文学といったものが、いずれも自己目的化していったという変化を感じたのだろうと思います。
それは本山参り、文学はそれぞれ、戦前は何のために人々は接していたのか?
それは、天下国家のためということでした。
しかし、戦後は、個人の目的のためというように変化していたのです。
そのことに察知した加藤秀俊は、本山参り、文学をそれぞれ個別に探求していったのです。
こういった変化は大抵の人は憤りを感じる者です。
「最近の若者はけしからん!」といったように(笑)
しかし、そういった変化を必然とみなしつつ、受け入れて、どのような社会を編じていくかを論じるのが学者の役目である、ということが他のいろんな科学や学問を論じる人間の役目なのです。
本山参り、文学は戦前の論理だけ論じるのではなく、戦後の論理で踏まえながら、その内情を分析したうえで論じる必要があるということですね。
その慧眼ぶりには驚きました。
変化を必然としながら、その内情を分析して論じる…今のどの分野の学者や学生にも必要なスタンスであると思いました。
●そんな加藤秀俊に興味がある人は以下の電子書籍、ペーパーバックをお勧めします!
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
何故、日本の大学の改革は遅々として進まないか?(加藤秀俊)
こんにちは。
日本の大学というのは他から比べて異様な場所です。
大学に入るために多くの人が予備校に通って必死に勉強していたでしょう。
その予備校では真剣になって講義してくれる講師が人気ありました。
しかし、いざ大学に合格して講義が始まると、いい加減な先生が多かったのではないでしょうか?
小言で何を言っているかわからない小さな声で講義している教授、毎回毎回同じようなことしかしゃべっていない教授、教科書を読んで説明しているだけの教授、まるで感動をおぼえない祖述だけの教授、休みが多い教授、遅い時間に教室に入ってくる教授…といい加減な教授が多かったです。
予備校だったら、そんな教授は普通、ボイコットする生徒が多くなってあえなく職なし、ということにならざる得ないですが、大学ではそうはならないです。
逆なのです。

真剣になって学べるかどうかは、学生にとってどうでもいいのです。
ただ大学卒、という肩書が欲しいだけで来ている、あるいはキャパスライフを就職するまでに味わっておきたいから来ているからです。
確かに、そういういい加減な教授が嫌で辞めていく真摯な学生もいることはいますが、少数派です。
それが多数派になれば、教授の方も真剣になって研究をして講義をしていくことでしょう。
しかし、学生の方はそんなことは不問にしている。
だから、日本の大学の教授の質はいつまでたっても高まらないのです。
私の大学時代に忘れられないのは、年末の試験で多くの不合格者を出していた講義の担当の教授でがいて、その教授に講義後、質問をしに行きました。
するとその教授の手元にあった、あまりにまっちゃっちゃな講義ノートでしかも、あまりにボロボロないでたちに驚いてしまったのです。
それで、その教授の教授生活を物語っていたように感じます。
研究らしい研究など一切せずに、ほとんど怠けていただけ、ということです。

後で知った話しですが、その教授は退官するまでに、編著本を1冊だけ出しただけで終わっているのです。
編著本というのは、いろんな人が集まって章を1つずつ担当して書いて、それを集めて本にしたものです。
ゆえに、書く量は、書きおろし本よりも断然に少ないのです。
また別の例では、政治学の教授で、大学時代にマックス.ウェーバーに憧れて教授になったにもかかわらず本は1冊しか出していない例もあります。
その教授は、講義中に「大学時代にマックス.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで、「学問ってこういうものなのか…」と思い涙が出ました。自分も大学教員になれば、ウェーバーみたいになれるなかなと思い、教員になったけれどなれないんですね」と語っていましたが、実際これだけしか出していないのです。
マックス.ウェーバー(下写真)に質で負けていると思うならばせめて数を出せ、と思いました。

30年以上、教員かつ研究者をしていながら、そんな数しか出していないのか、何してきた?といぶかしげに思わざるを得なかったですね。
その教授はいま70歳に近い年齢です。
大志を語っておきながら、この惨状…もうこの教授に期待するのは無理だろうと思います。
私が敬愛している桜井邦朋という教授は「大学教授たるもの研究結果として本を出さなくてはならない」と、ある本の中で書いていたのですがその通りと思いました。
より良き社会をめざすために研究機関があるのだから、そのために理論を集めて自分の考えを主張したものを紙にしていかなくてはならない、ということです。
そのためには、本の出版は必然なのです。
しかし、30年以上も大学の教員をしていながら、1冊しか出さなかったり、あるいは1冊も出さずに退官していく教授が、日本ではあまりにも多いのです。
大志を抱きながら、それがいつしか雲散霧消してしまう。

何故か?
研究らしい研究をしなくても、教員をしているだけで大金が入ってくるからです。
私が大学時代に出した学費あら計算すると、1コマの授業料は2500円もしていたのです。
それがそっくりそのままその教授に入ったわけではないですが、かなり高額のお金が給料として入ってきていたのは間違いないです。
何も苦労せずに大金が入ってくるのだから、研究などばかばかしくてしていられなくなったのでしょうか。
そうなれば、毎回毎回同じようなことしかしゃべっていない講義しかしない、毎年毎年おなじような講義しかしないのは必然でしょうか?
いつしか大志を忘れてしまっているのです。
いつか研究しよう、いつか本だそうといっても、怠惰でいても誰にもただされずにいるために明確さが曖昧になって、研究らしい研究をしないで高給取りのまま退官を迎えるのです。
それを正すには、学生が多く辞めてしまう事態になればいいのです。

しかし、学生の大半は勉強したいというよりも、遊びたい、大学卒の肩書だけ取ればいいと思って4年間通い続けているのでいつまでたっても大学の惨状を変革していくことはできないのです。
私があるメルマガで、「大学の学費の社会に出てからの対費用効果は5%」ということが書いてあったのを思い出します。
それは妥当な気がします。
そのことに多くの学生が気が付く必要があるでしょう。
そうしたらどのようか行動に移すべきかがわかるでしょう。
しかし、教授には多くの時間とお金がある。
ゆえに、怠惰な教授を多く生み出してしまうという反面、多くの研究をして多くの本を出版する教授を生みだすことにもなるのは間違いないでしょう。
二律背反なのです。
トレードオフなのです、哀しいことですが。
後者の例こそ、私が敬愛するパターンなのです。
その例として加藤秀俊という故人を紹介しておきたいのです。
その加藤秀俊の偉業の内容と、知識人としての姿を体現していた人生は、大学生にこそ読んで知っていただきたいと思います。
●その人に興味のあるひとにおすすめの電子書籍とペーパーバックは以下です。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
日本の大学というのは他から比べて異様な場所です。
大学に入るために多くの人が予備校に通って必死に勉強していたでしょう。
その予備校では真剣になって講義してくれる講師が人気ありました。
しかし、いざ大学に合格して講義が始まると、いい加減な先生が多かったのではないでしょうか?
小言で何を言っているかわからない小さな声で講義している教授、毎回毎回同じようなことしかしゃべっていない教授、教科書を読んで説明しているだけの教授、まるで感動をおぼえない祖述だけの教授、休みが多い教授、遅い時間に教室に入ってくる教授…といい加減な教授が多かったです。
予備校だったら、そんな教授は普通、ボイコットする生徒が多くなってあえなく職なし、ということにならざる得ないですが、大学ではそうはならないです。
逆なのです。
真剣になって学べるかどうかは、学生にとってどうでもいいのです。
ただ大学卒、という肩書が欲しいだけで来ている、あるいはキャパスライフを就職するまでに味わっておきたいから来ているからです。
確かに、そういういい加減な教授が嫌で辞めていく真摯な学生もいることはいますが、少数派です。
それが多数派になれば、教授の方も真剣になって研究をして講義をしていくことでしょう。
しかし、学生の方はそんなことは不問にしている。
だから、日本の大学の教授の質はいつまでたっても高まらないのです。
私の大学時代に忘れられないのは、年末の試験で多くの不合格者を出していた講義の担当の教授でがいて、その教授に講義後、質問をしに行きました。
するとその教授の手元にあった、あまりにまっちゃっちゃな講義ノートでしかも、あまりにボロボロないでたちに驚いてしまったのです。
それで、その教授の教授生活を物語っていたように感じます。
研究らしい研究など一切せずに、ほとんど怠けていただけ、ということです。
後で知った話しですが、その教授は退官するまでに、編著本を1冊だけ出しただけで終わっているのです。
編著本というのは、いろんな人が集まって章を1つずつ担当して書いて、それを集めて本にしたものです。
ゆえに、書く量は、書きおろし本よりも断然に少ないのです。
また別の例では、政治学の教授で、大学時代にマックス.ウェーバーに憧れて教授になったにもかかわらず本は1冊しか出していない例もあります。
その教授は、講義中に「大学時代にマックス.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで、「学問ってこういうものなのか…」と思い涙が出ました。自分も大学教員になれば、ウェーバーみたいになれるなかなと思い、教員になったけれどなれないんですね」と語っていましたが、実際これだけしか出していないのです。
マックス.ウェーバー(下写真)に質で負けていると思うならばせめて数を出せ、と思いました。
30年以上、教員かつ研究者をしていながら、そんな数しか出していないのか、何してきた?といぶかしげに思わざるを得なかったですね。
その教授はいま70歳に近い年齢です。
大志を語っておきながら、この惨状…もうこの教授に期待するのは無理だろうと思います。
私が敬愛している桜井邦朋という教授は「大学教授たるもの研究結果として本を出さなくてはならない」と、ある本の中で書いていたのですがその通りと思いました。
より良き社会をめざすために研究機関があるのだから、そのために理論を集めて自分の考えを主張したものを紙にしていかなくてはならない、ということです。
そのためには、本の出版は必然なのです。
しかし、30年以上も大学の教員をしていながら、1冊しか出さなかったり、あるいは1冊も出さずに退官していく教授が、日本ではあまりにも多いのです。
大志を抱きながら、それがいつしか雲散霧消してしまう。
何故か?
研究らしい研究をしなくても、教員をしているだけで大金が入ってくるからです。
私が大学時代に出した学費あら計算すると、1コマの授業料は2500円もしていたのです。
それがそっくりそのままその教授に入ったわけではないですが、かなり高額のお金が給料として入ってきていたのは間違いないです。
何も苦労せずに大金が入ってくるのだから、研究などばかばかしくてしていられなくなったのでしょうか。
そうなれば、毎回毎回同じようなことしかしゃべっていない講義しかしない、毎年毎年おなじような講義しかしないのは必然でしょうか?
いつしか大志を忘れてしまっているのです。
いつか研究しよう、いつか本だそうといっても、怠惰でいても誰にもただされずにいるために明確さが曖昧になって、研究らしい研究をしないで高給取りのまま退官を迎えるのです。
それを正すには、学生が多く辞めてしまう事態になればいいのです。
しかし、学生の大半は勉強したいというよりも、遊びたい、大学卒の肩書だけ取ればいいと思って4年間通い続けているのでいつまでたっても大学の惨状を変革していくことはできないのです。
私があるメルマガで、「大学の学費の社会に出てからの対費用効果は5%」ということが書いてあったのを思い出します。
それは妥当な気がします。
そのことに多くの学生が気が付く必要があるでしょう。
そうしたらどのようか行動に移すべきかがわかるでしょう。
しかし、教授には多くの時間とお金がある。
ゆえに、怠惰な教授を多く生み出してしまうという反面、多くの研究をして多くの本を出版する教授を生みだすことにもなるのは間違いないでしょう。
二律背反なのです。
トレードオフなのです、哀しいことですが。
後者の例こそ、私が敬愛するパターンなのです。
その例として加藤秀俊という故人を紹介しておきたいのです。
その加藤秀俊の偉業の内容と、知識人としての姿を体現していた人生は、大学生にこそ読んで知っていただきたいと思います。
●その人に興味のあるひとにおすすめの電子書籍とペーパーバックは以下です。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
勉強は大学を卒業したらそれで終わりではない。それからが本番?(加藤秀俊)
私が敬愛していた故.加藤秀俊(下写真)は、私が学ぶべきことを次から次に論述していってくれていたのみならず、共感すべき点が多かったので、一気にこの人の本を中古本で見つけたらすぐに買い、中古本屋にないものは大学の購買会で取り寄せて買って集めたのです。

このように夢中にならせてくれる著作家は、人生の中で5人といないのではないでしょうか?
そういう意味で、非常に貴重な人物でした。
共感とは、自分と同じ意見を持っているという面が強いですね。
そして、言い表すことが自分の能力では拙いながら、他の人が明確に言い当ててくれたから思いを寄せるようになった,ということが共感という面であります。
私は、小学校や中学校あたりから、学ぶべき事柄は、いくら成人してもどんどん出てくるのではないか、と思われて仕方なかったのです。
学校の教科書に書かれてないことで、学ばなくてはならないことはいくらでも出てきていたからです。
加藤秀俊の本で『独学のすすめ』という本で、まさにそういう場面が出てきていたのです。
そこには、「最終学歴が終わったらそれで終わりではない。いな、それが終わったら更に勉強していかなくてはならない。大学に入学した。それで満足するのではなく、更にここからしていかなくてはならない。」
ということが書かれていたのです。

成人してからこそが人生の本番なのだから、大学では遊んでいる暇はないのです。
社会の認識の内容と変遷、人との接しかた、言い方、人の上に立つ人間としての生きる姿勢、社会に出てからの各種技能の向上、運動(エクササイズ)の内容と行動、環境における行動、公害対策の内容と市民としての行動…いくらでもあるわけで、大学が終わったらそれでおしまい…なんていうのはおかしいのではないか?
そんな気がしていたところに、この加藤秀俊の言葉でした。
確かに、こういったことを主体的に学ばなくても、自分の属する集団‐代表的なのは会社ですね、会社が施してくれるのを待てばいい、という意見もあながち間違いではないですが、そういうスタンスよりも、自分から主体的に学び行動していった方が、レベルの向上になりますし、気持ち的にも心地よいことは間違いないのです。
こういう主体的に学ぶ姿勢のある人は、やはり現状に満足していないからそうしうるのです。
満足しない、ということは現状に不満を持って、それを改革していこうという気概のある、ということでしょう。
必ずしもそうではないですが大勢としてはそういう傾向があるのは否めない事実でしょう。
そういう人の多数の輩出を大学で学ぶ科学、あるいは学問といわれるものは目指しているのです。
現状の悪い意味での維持よりも、現状を変革していこうという気概を持った人が出て、変革のための行動をしてくれるのを目指しているのです。
そういう人が多ければ多いほどいいのは言うまでもないのです。
こういうことをしても、お金がもらえるわけでもなければ、栄誉が付くわけでもないです。

だから難しいといえば難しいのですが、早く多くの人が気付いて行動に結びつけてほしいものです。
それは何も大学でなければ学べないというような狭いものではなく、今の現代社会では本があふれていますから、そういう本を安いものでもいいから読みまくることで、次から次に学んでいける性質のものなのです。
一子相伝などというような秘伝的なものなどこんにちではないのです。
その『独学のすすめ』という本の冒頭では、「その辺でぶらぶらしている大学生ふぜいの知識などたいしたことない」と辛らつに書いていますが、その通りなのです。
ぶらぶらしながら大学生活を送ることが死刑並みの悪いこととは言いませんし、そういう生活を送りたい人は責めたりはしないですが、もったいない気がします、お金も時間も。
●そんな内容に興味ある人には以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
このように夢中にならせてくれる著作家は、人生の中で5人といないのではないでしょうか?
そういう意味で、非常に貴重な人物でした。
共感とは、自分と同じ意見を持っているという面が強いですね。
そして、言い表すことが自分の能力では拙いながら、他の人が明確に言い当ててくれたから思いを寄せるようになった,ということが共感という面であります。
私は、小学校や中学校あたりから、学ぶべき事柄は、いくら成人してもどんどん出てくるのではないか、と思われて仕方なかったのです。
学校の教科書に書かれてないことで、学ばなくてはならないことはいくらでも出てきていたからです。
加藤秀俊の本で『独学のすすめ』という本で、まさにそういう場面が出てきていたのです。
そこには、「最終学歴が終わったらそれで終わりではない。いな、それが終わったら更に勉強していかなくてはならない。大学に入学した。それで満足するのではなく、更にここからしていかなくてはならない。」
ということが書かれていたのです。
成人してからこそが人生の本番なのだから、大学では遊んでいる暇はないのです。
社会の認識の内容と変遷、人との接しかた、言い方、人の上に立つ人間としての生きる姿勢、社会に出てからの各種技能の向上、運動(エクササイズ)の内容と行動、環境における行動、公害対策の内容と市民としての行動…いくらでもあるわけで、大学が終わったらそれでおしまい…なんていうのはおかしいのではないか?
そんな気がしていたところに、この加藤秀俊の言葉でした。
確かに、こういったことを主体的に学ばなくても、自分の属する集団‐代表的なのは会社ですね、会社が施してくれるのを待てばいい、という意見もあながち間違いではないですが、そういうスタンスよりも、自分から主体的に学び行動していった方が、レベルの向上になりますし、気持ち的にも心地よいことは間違いないのです。
こういう主体的に学ぶ姿勢のある人は、やはり現状に満足していないからそうしうるのです。
満足しない、ということは現状に不満を持って、それを改革していこうという気概のある、ということでしょう。
必ずしもそうではないですが大勢としてはそういう傾向があるのは否めない事実でしょう。
そういう人の多数の輩出を大学で学ぶ科学、あるいは学問といわれるものは目指しているのです。
現状の悪い意味での維持よりも、現状を変革していこうという気概を持った人が出て、変革のための行動をしてくれるのを目指しているのです。
そういう人が多ければ多いほどいいのは言うまでもないのです。
こういうことをしても、お金がもらえるわけでもなければ、栄誉が付くわけでもないです。
だから難しいといえば難しいのですが、早く多くの人が気付いて行動に結びつけてほしいものです。
それは何も大学でなければ学べないというような狭いものではなく、今の現代社会では本があふれていますから、そういう本を安いものでもいいから読みまくることで、次から次に学んでいける性質のものなのです。
一子相伝などというような秘伝的なものなどこんにちではないのです。
その『独学のすすめ』という本の冒頭では、「その辺でぶらぶらしている大学生ふぜいの知識などたいしたことない」と辛らつに書いていますが、その通りなのです。
ぶらぶらしながら大学生活を送ることが死刑並みの悪いこととは言いませんし、そういう生活を送りたい人は責めたりはしないですが、もったいない気がします、お金も時間も。
●そんな内容に興味ある人には以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
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・加藤秀俊ホーム
誰もが経済的な恩恵を受けれない時代だからこそ、大学に行くことべきかどうかを考えるべし?(加藤秀俊)
こんにちは。
前回、大学生はなぜ、主体的に勉強しないか、という問いを立てました。
高校までは、次の大学進学という目標があるがゆえに、そのために勉強に勤しむけれども、その次の目標がなければやはり堕落した学生生活になってしまう、というのが一般的でしょうか。
私が大学時代に読んだレポートによれば、それにはアンケート調査がはってありましたが、全国の大学生のうち登録した講義のうち、全部に出席している人は8〜14%ということでした。
この結果を見て、「勉強が好きで大学に来たんじゃないの?」といぶかしげに思ったものです。
そのパーセンテージに、今もそんな変動はないでしょう。
私が大学時代に知り、敬愛する学者だった加藤秀俊氏(下写真)は、ある本で以下のことを書いていました。

「大学にはいってみたら、すべて高校までの学校生活と勝手が違う。
高校までは、ああしろ、これを覚えろと、とにかく詰め込み教育ばっかりで、それを無我夢中で過ごしてきたが、大学に入ってみると、学問というのはそれぞれの個人が勝手にやるものだ、と突き放されてしまう。
その突き放しはまさしく「自由」というものに違いないのだが、いきなり「自由」にやれといわれても、小学校から高校まで、およそ自由な勉強などしたことがないのだから途方に暮れてしまう。
何から何まで、こちらを頼り切っている。
既存のものを、ただつまらなそうな顔つきで、受動的に丸暗記することだけが、勉強というものだと思いこんでいる。」
私は、大学での勉強こそ一番力を入れてしていかなくてはならない、と大学時代に思ってました。
しかし、現状は逆なのです。

それでどうしたら、その状態をひっくり返すことができるか、なんていうことを考えてました。
ある教授は「せっかく高い授業料を払って大学に来てるんだから、もっと出席しろ」と発破をかけていました。
しかし、それがどれだけ効果があったかは疑問です。
いくらお金をかけているといっても、本人が勉強したいと思わないことには無理なのです。
スパルタ的な強制も無理でしょう。
自分がボクシングで大成できなかった・・だから、自分の子供が小さい時からやりたいことを一切させずに、無理やりボクシングをやらせて大成させる。
こんな努力は実りそうで実らないのです。
何故か?
本人がボクシングをしたいという気がなかったらトレーニングへ意志は継続しないからです。
意志が継続しなければ、練習だってしないし、練習しなければ成果を出すことなど不可能だからです。

勉強も、これも一緒なのでしょう。
次の進学というステップがなくても勉強したい、という欲求がなければいくら大事、金かかっているなどといっても、馬耳東風です。
そのことに咎め立てするべきではないだろうと、私は思うようになりました。
在学中は「高い授業料を親御さんに出してもらって大学に来ているのに遊びまくっている愚か者どもめ!」などと思ってましたが(笑)。
そのカギを解くには、人間の精神を分析してみる必要があります。
どういう類型が人間にはあるのか?
その分析をしていくうちに、自分はどのような職に就くべきなのかがわかります。
私は、在学中、登録した講義には全部出席していましたが、それは今思えばなんていうこともないことでした。
偉いわけでもなんでもなく。
ただそういうことが好きならば、そういう道に進めばいい、というだけのことだったのです。

しかし、私の親の世代‐所謂、団塊の世代といわれていた世代の人たちは、戦後の高度経済成長の恩恵に恵まれていて、30年間勤め上げれば、誰もがかならず年収1000万円と言われていた世代だったのです。
それゆえに、多少高い学費ながらもこどもを大学に行かせてやろう、という気になったのもうなづけます。
文系学部ならば、初年度で100万円、次の年度からは70万円前後の金を3年間払い続けることもなんとかできていたのです。
地方から上京してきた人たちは、それに加えて月に15万円くらいの仕送りを受けていたのです。
それを4年間もしていたら、学費+仕送りで計1000万円以上もかかっていたのです。
経済的に恩恵を受けていた時代であるならば、それも看過できたでしょう。
しかし、今や低成長の時代です。
年収1000万円を得る親はほんの1握りになってしまったのです。
そうなれば、奨学金を借りなければならないのは言うまでもないです。
私の世代では奨学金を借りていたのは全学生のうち、20%弱でしたが、今や55%にも上るのです。
しかも、借りる額が、私の世代とはくらべものにならないくらい高額なのです。

こういう切羽詰まった事態になると人間は誰もが、その状態を改善するように精神を働かせるようになるのです。
「果たしてそれだけの金銭的な見返りがあるか?」ということですね。
その答えは「見返りはない!」ということです(笑)
なぜならば、大学の講義を聴かなくても、ノートをとらなくても他のところで学べるからです。
私の時代は、大学の授業料は1コマ、1時間半で2500円という計算でした。
今はもっと高いでしょう。
3000円とか、もっと高い場合は4000円くらいするでしょう。
そんな価値は今も昔も全くないです(笑)
それでも行きたがる学生が多いのは、日本全体に学歴信仰なるものが覆っているからです。
学問を修めていれば、何かしらいいことがある…そんな信仰でしょうか。
それは偽りである、ということに早く目覚めるべきだと思います。
その趣旨で『大学に行っても意味はない』(みすず書房)という本にも書かれていましたし、大きな賛同を私はよせたのです。
安く家計に負担がかからない額であれば、それでもいいでしょう。
しかし、大いに負担になる時代になっているのです今は。
ゆえに「みんなが行っているから」とか「キャンパスライフを愉しみたいから」とか「就職するまでに遊んでおきたいから」という安易な理由で在学し続けるべきではないでしょう。
中途でやめるもよし、あるいは通信制に切り替えるのもよし、と私は思っているのです。
その思想の根源は?
興味ある方は、以下の電子書籍あるいはペーパーバックを読んでくださいませ!(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
前回、大学生はなぜ、主体的に勉強しないか、という問いを立てました。
高校までは、次の大学進学という目標があるがゆえに、そのために勉強に勤しむけれども、その次の目標がなければやはり堕落した学生生活になってしまう、というのが一般的でしょうか。
私が大学時代に読んだレポートによれば、それにはアンケート調査がはってありましたが、全国の大学生のうち登録した講義のうち、全部に出席している人は8〜14%ということでした。
この結果を見て、「勉強が好きで大学に来たんじゃないの?」といぶかしげに思ったものです。
そのパーセンテージに、今もそんな変動はないでしょう。
私が大学時代に知り、敬愛する学者だった加藤秀俊氏(下写真)は、ある本で以下のことを書いていました。
「大学にはいってみたら、すべて高校までの学校生活と勝手が違う。
高校までは、ああしろ、これを覚えろと、とにかく詰め込み教育ばっかりで、それを無我夢中で過ごしてきたが、大学に入ってみると、学問というのはそれぞれの個人が勝手にやるものだ、と突き放されてしまう。
その突き放しはまさしく「自由」というものに違いないのだが、いきなり「自由」にやれといわれても、小学校から高校まで、およそ自由な勉強などしたことがないのだから途方に暮れてしまう。
何から何まで、こちらを頼り切っている。
既存のものを、ただつまらなそうな顔つきで、受動的に丸暗記することだけが、勉強というものだと思いこんでいる。」
私は、大学での勉強こそ一番力を入れてしていかなくてはならない、と大学時代に思ってました。
しかし、現状は逆なのです。
それでどうしたら、その状態をひっくり返すことができるか、なんていうことを考えてました。
ある教授は「せっかく高い授業料を払って大学に来てるんだから、もっと出席しろ」と発破をかけていました。
しかし、それがどれだけ効果があったかは疑問です。
いくらお金をかけているといっても、本人が勉強したいと思わないことには無理なのです。
スパルタ的な強制も無理でしょう。
自分がボクシングで大成できなかった・・だから、自分の子供が小さい時からやりたいことを一切させずに、無理やりボクシングをやらせて大成させる。
こんな努力は実りそうで実らないのです。
何故か?
本人がボクシングをしたいという気がなかったらトレーニングへ意志は継続しないからです。
意志が継続しなければ、練習だってしないし、練習しなければ成果を出すことなど不可能だからです。
勉強も、これも一緒なのでしょう。
次の進学というステップがなくても勉強したい、という欲求がなければいくら大事、金かかっているなどといっても、馬耳東風です。
そのことに咎め立てするべきではないだろうと、私は思うようになりました。
在学中は「高い授業料を親御さんに出してもらって大学に来ているのに遊びまくっている愚か者どもめ!」などと思ってましたが(笑)。
そのカギを解くには、人間の精神を分析してみる必要があります。
どういう類型が人間にはあるのか?
その分析をしていくうちに、自分はどのような職に就くべきなのかがわかります。
私は、在学中、登録した講義には全部出席していましたが、それは今思えばなんていうこともないことでした。
偉いわけでもなんでもなく。
ただそういうことが好きならば、そういう道に進めばいい、というだけのことだったのです。
しかし、私の親の世代‐所謂、団塊の世代といわれていた世代の人たちは、戦後の高度経済成長の恩恵に恵まれていて、30年間勤め上げれば、誰もがかならず年収1000万円と言われていた世代だったのです。
それゆえに、多少高い学費ながらもこどもを大学に行かせてやろう、という気になったのもうなづけます。
文系学部ならば、初年度で100万円、次の年度からは70万円前後の金を3年間払い続けることもなんとかできていたのです。
地方から上京してきた人たちは、それに加えて月に15万円くらいの仕送りを受けていたのです。
それを4年間もしていたら、学費+仕送りで計1000万円以上もかかっていたのです。
経済的に恩恵を受けていた時代であるならば、それも看過できたでしょう。
しかし、今や低成長の時代です。
年収1000万円を得る親はほんの1握りになってしまったのです。
そうなれば、奨学金を借りなければならないのは言うまでもないです。
私の世代では奨学金を借りていたのは全学生のうち、20%弱でしたが、今や55%にも上るのです。
しかも、借りる額が、私の世代とはくらべものにならないくらい高額なのです。
こういう切羽詰まった事態になると人間は誰もが、その状態を改善するように精神を働かせるようになるのです。
「果たしてそれだけの金銭的な見返りがあるか?」ということですね。
その答えは「見返りはない!」ということです(笑)
なぜならば、大学の講義を聴かなくても、ノートをとらなくても他のところで学べるからです。
私の時代は、大学の授業料は1コマ、1時間半で2500円という計算でした。
今はもっと高いでしょう。
3000円とか、もっと高い場合は4000円くらいするでしょう。
そんな価値は今も昔も全くないです(笑)
それでも行きたがる学生が多いのは、日本全体に学歴信仰なるものが覆っているからです。
学問を修めていれば、何かしらいいことがある…そんな信仰でしょうか。
それは偽りである、ということに早く目覚めるべきだと思います。
その趣旨で『大学に行っても意味はない』(みすず書房)という本にも書かれていましたし、大きな賛同を私はよせたのです。
安く家計に負担がかからない額であれば、それでもいいでしょう。
しかし、大いに負担になる時代になっているのです今は。
ゆえに「みんなが行っているから」とか「キャンパスライフを愉しみたいから」とか「就職するまでに遊んでおきたいから」という安易な理由で在学し続けるべきではないでしょう。
中途でやめるもよし、あるいは通信制に切り替えるのもよし、と私は思っているのです。
その思想の根源は?
興味ある方は、以下の電子書籍あるいはペーパーバックを読んでくださいませ!(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
なぜ、日本の大学生は真剣に学ばないか? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学での学習方法についてはいろんな本が出ています。
私は文系の大学を出ましたが、その在学中にはいろんないい思い出があります。
大学の講義で学んだことを、自身で読んだ本の内容と重ねて議論していくことが非常に楽しかったです。

そこで、大学で学ぶ学問はどういう意義で存在しているのかを問うことから始めました。
それは社会にある問題点を構造的に明らかにして、それを良き方向へもっていくためにあるのだということがわかりました。
その際に、何をすればいいか?
そのためにすべきことは、首相や官僚、政治家といった人たちや、その他公務員といった人たちだけが議論して行動するだけでなく、一般市民も勉強し、行動していかないことには始まらない、ということがわかりました。
そのためには、多くの人が学問をこなしていくことが望ましいのは言うまでもないです。
社会にはいろんな物事が多岐にわたって存在していますから、1つの領域だけにこもって、その領域だけでいいと思われるものだけを論じるのではなく、いろんな領域からの議論が必要です。
1人だけでその多岐にわたる事物を観察できればいいですが、現代では無理です。
ゆえに、専門が分化させ、その領域内で情報を収集して物事を論じることが必要になったのです。
1人で経済や法、政治といった事柄について情報収集していけばいいのですが、それはかなわないから、経済学、法学、政治学といろんな科学に分化していったのでした。
日本という国は非常に学問が盛んな国で、誰もが大学に行こうとする気概を持ちます。
高校生の半数が行くことを目指すのです。

そうなれば受験勉強が激化します。
高校から、あるいはもっと早くからいろんな知識を詰め込むことを良しとします。
そういった知識の詰め込み教育に対する批判は、今も昔も存在しているのです。
しかし、その是非はどうなのでしょうか?
それは受験勉強に使った参考書の類を今取り出して見るのがいいでしょう?
社会に出たいま、それが役立っているかどうか考えてみましょう。
やはり役だたないですね?(笑)
私の受験生時代は、そういう知識が何らか役立つだろうと思って必死になっていましたが、実際は…ですね(苦笑)
しかし、今思えば、その知識で使えることは非常に少ないですが、その記憶力の醸成が役立つのです。
その記憶力醸成は、どんな産業社会においては必須です。

そして、物事を多面的に論じるためには、多岐にわたる情報摂取が大事なのです。
そのことを認識したうえで、物事を論じる際には、いろんな情報を摂取する際に、知識として脳内に入れておくことが大事になるのです。
情報摂取の際には、当然、本を読んだり資料を読みます。
そしてテレビやラジオ、そして人と話したり、ネットで情報を得たりします。
その際にいちいちノートに書いたり、パソコンに書いたりしているよりも、脳内に入れておくのがいいでしょう。
その際に、やはり詰め込んでいるのがいいわけです。
日本の受験勉強や高校までの詰め込み教育が批判されていた時に、その是非を問う教授会において、西林克彦という教育学者は、「詰め込めるなら詰め込んでしまえ!」という趣旨の話しをしたら失笑を買ったというエピソードを、その著書である『間違いだらけの学習論』という本で書いていましたが、私は西村氏の意見に賛同するものです。
しかし留保付きです。
社会に出て必要ではない知識をあれこれ詰め込むのではなく、物事を良き方向へもっていくために必要な情報を得て詰め込んでいくのであれば、それはそれで高次の事柄であるということは言えると私は思うのです。
となれば、どういうシチュエーションが妥当か?
やはり大学という場になるのでしょう。
ここでは、社会を良き方向へもっていくための知識や情報を得ることが出来るのです。
ゆえに、ここで多面的にことが学べるわけですから、誰もが取り組むべきでしょう。
しかし、ここに入学してもたいていの人は受験勉強で疲労困憊してしてしまって、遊び惚けているのが実情です。
私が敬愛していた社会学者の故.加藤秀俊(下写真)がいろんな本で書いていたのには、「大学で真剣に学んでいるのは全体の2割くらい」ということでした。

大学の教育に30年以上携わっていた氏が申していたのですから信憑性がありますし、私の体感でもそんなくらいだろうと思えます。
それでは何のために大学に来たのか…といぶかしげに思えますが、これは何も、熾烈な受験勉強に燃え尽きたから、というわけだけではない気がします。
それはどんな理由か?
話しを一変させましょう。
今や本が安く入手出来る時代であるということは言えます。
中古であれば1冊で50円などで入手出来る時代なのです。
新書などはその最たる例でしょう。

その安価な中古本が大学の講義1回分以上の有意義性を有しているのであれば、何も大学に行く必要はないでしょうし、大学に行かずとも、本を読みまくってかなりの教養を得られている友人がたくさんいたというエピソードを加藤氏は書いていました。
そうです。
私の経験からして、本のほうが全然有意義という講義も少なくなかったのは間違いないです。
ゆえに、大学進学にこだわる必要はないでしょう。
しかし、日本人は私も含めて学問をかなりステータスあるものと感じる人が多いのが実情ゆえに、何が何でも大学卒業の肩書を得ようとしてしまうのが哀しい事実です。
そこでどうすればいいか?
先の、「大学生が熾烈な受験勉強に燃え尽きたからという理由だけではなく勉強しない」という内容について知りたい人は、以下の電子書籍に書きましたので興味ある人は読んでくださいませ。
●非常にお勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
大学での学習方法についてはいろんな本が出ています。
私は文系の大学を出ましたが、その在学中にはいろんないい思い出があります。
大学の講義で学んだことを、自身で読んだ本の内容と重ねて議論していくことが非常に楽しかったです。
そこで、大学で学ぶ学問はどういう意義で存在しているのかを問うことから始めました。
それは社会にある問題点を構造的に明らかにして、それを良き方向へもっていくためにあるのだということがわかりました。
その際に、何をすればいいか?
そのためにすべきことは、首相や官僚、政治家といった人たちや、その他公務員といった人たちだけが議論して行動するだけでなく、一般市民も勉強し、行動していかないことには始まらない、ということがわかりました。
そのためには、多くの人が学問をこなしていくことが望ましいのは言うまでもないです。
社会にはいろんな物事が多岐にわたって存在していますから、1つの領域だけにこもって、その領域だけでいいと思われるものだけを論じるのではなく、いろんな領域からの議論が必要です。
1人だけでその多岐にわたる事物を観察できればいいですが、現代では無理です。
ゆえに、専門が分化させ、その領域内で情報を収集して物事を論じることが必要になったのです。
1人で経済や法、政治といった事柄について情報収集していけばいいのですが、それはかなわないから、経済学、法学、政治学といろんな科学に分化していったのでした。
日本という国は非常に学問が盛んな国で、誰もが大学に行こうとする気概を持ちます。
高校生の半数が行くことを目指すのです。
そうなれば受験勉強が激化します。
高校から、あるいはもっと早くからいろんな知識を詰め込むことを良しとします。
そういった知識の詰め込み教育に対する批判は、今も昔も存在しているのです。
しかし、その是非はどうなのでしょうか?
それは受験勉強に使った参考書の類を今取り出して見るのがいいでしょう?
社会に出たいま、それが役立っているかどうか考えてみましょう。
やはり役だたないですね?(笑)
私の受験生時代は、そういう知識が何らか役立つだろうと思って必死になっていましたが、実際は…ですね(苦笑)
しかし、今思えば、その知識で使えることは非常に少ないですが、その記憶力の醸成が役立つのです。
その記憶力醸成は、どんな産業社会においては必須です。
そして、物事を多面的に論じるためには、多岐にわたる情報摂取が大事なのです。
そのことを認識したうえで、物事を論じる際には、いろんな情報を摂取する際に、知識として脳内に入れておくことが大事になるのです。
情報摂取の際には、当然、本を読んだり資料を読みます。
そしてテレビやラジオ、そして人と話したり、ネットで情報を得たりします。
その際にいちいちノートに書いたり、パソコンに書いたりしているよりも、脳内に入れておくのがいいでしょう。
その際に、やはり詰め込んでいるのがいいわけです。
日本の受験勉強や高校までの詰め込み教育が批判されていた時に、その是非を問う教授会において、西林克彦という教育学者は、「詰め込めるなら詰め込んでしまえ!」という趣旨の話しをしたら失笑を買ったというエピソードを、その著書である『間違いだらけの学習論』という本で書いていましたが、私は西村氏の意見に賛同するものです。
しかし留保付きです。
社会に出て必要ではない知識をあれこれ詰め込むのではなく、物事を良き方向へもっていくために必要な情報を得て詰め込んでいくのであれば、それはそれで高次の事柄であるということは言えると私は思うのです。
となれば、どういうシチュエーションが妥当か?
やはり大学という場になるのでしょう。
ここでは、社会を良き方向へもっていくための知識や情報を得ることが出来るのです。
ゆえに、ここで多面的にことが学べるわけですから、誰もが取り組むべきでしょう。
しかし、ここに入学してもたいていの人は受験勉強で疲労困憊してしてしまって、遊び惚けているのが実情です。
私が敬愛していた社会学者の故.加藤秀俊(下写真)がいろんな本で書いていたのには、「大学で真剣に学んでいるのは全体の2割くらい」ということでした。
大学の教育に30年以上携わっていた氏が申していたのですから信憑性がありますし、私の体感でもそんなくらいだろうと思えます。
それでは何のために大学に来たのか…といぶかしげに思えますが、これは何も、熾烈な受験勉強に燃え尽きたから、というわけだけではない気がします。
それはどんな理由か?
話しを一変させましょう。
今や本が安く入手出来る時代であるということは言えます。
中古であれば1冊で50円などで入手出来る時代なのです。
新書などはその最たる例でしょう。
その安価な中古本が大学の講義1回分以上の有意義性を有しているのであれば、何も大学に行く必要はないでしょうし、大学に行かずとも、本を読みまくってかなりの教養を得られている友人がたくさんいたというエピソードを加藤氏は書いていました。
そうです。
私の経験からして、本のほうが全然有意義という講義も少なくなかったのは間違いないです。
ゆえに、大学進学にこだわる必要はないでしょう。
しかし、日本人は私も含めて学問をかなりステータスあるものと感じる人が多いのが実情ゆえに、何が何でも大学卒業の肩書を得ようとしてしまうのが哀しい事実です。
そこでどうすればいいか?
先の、「大学生が熾烈な受験勉強に燃え尽きたからという理由だけではなく勉強しない」という内容について知りたい人は、以下の電子書籍に書きましたので興味ある人は読んでくださいませ。
●非常にお勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
大学での学問は、高校までの勉強法とは違う!ではどのように? (加藤秀俊)
こんにちは。
私は大学は文系を選び進学しましたが、そこでは高校までに学ばなかったことを学ぶところでもありましたが、高校までの智識の詰め込みをすべきではないことはわかりました。
高校までは、設問があって()に単語をチョイスして選ぶか、単語を記述して合っていたら〇がもらえて得点に繋がる、という回答方式
でした。
しかし、大学では理論を学び、その理論を自分の言葉で書いて、それを論文にするのが一般的です。
それは、考えてみれば、高校までの学習法よりも難しいかもしれません。
高校まではペイントマークをして、それで下敷きで隠して答えを思い出す式のアイテムがありましたが、そういうアイテムは大学では皆無なのですから。

ゆえに、その大学で学んだり理論を覚えておくためには、シーズンオフからの用意が必要でしょう。
要するに春からするのがいいということです。
これは何も、受験勉強のように取り組めということではないのです。
しかし、受験勉強のように必死にしたいかたは是非ともしてほしいですが(笑)
大学では、年末試験においては、その理論を暗記して書くだけでは高得点を得ることはできないのです。
教授によっては、合格点ギリギリが、合格点すらくれないパターンもあるでしょう。
それは何故か?
大学で学ぶ学問は、その扱う事柄に存在する問題点について、それを構造的に明らかにして、それを良き方向へもっていくにはどうすればいいかという政策論を求められるものだからです。
ですから、理論の丸写しだけでは高得点はもらえないし、場合によっては合格点すらくれない、ということになりかねないのです。
その自身の理論を構築するには、いろんな本を読んでいなくてはヒントをえれないですし、考えを導き出すこともかなわないでしょう。
ゆえに、自身が履修した科目の多くも真剣に学ばなくてはいけないですし、他の本をも読まなくてはいけないでしょう。
しかし、そういったことを私が尊敬していた社会学者だった加藤秀俊(下写真)は、何と言っていたか?

創造力と呼んでいたのです。
その創造力は、何も大学の勉強だけに必要なのではなく、普段の生活でも必要ですし、卒業後の人生でも必要なのです。
それを人生に生かし、社会をよくするために覚えるべきなのです。
それを続行していくことで人生は実りあるものになるのは間違いないのです!
では暗記するアイテムが高校までのようにない大学生活においてはどうすればいいか?
学んでいく上で考えたことをデータベース化していったり、行いに結びつけることです。
例えば、人間関係についての本があったとします。
そこに「人と話さないで接していると誤解を招きいぶかしげに思われて人間関係がぎくしゃくする。ゆえに人と良好な関係を築くためには声に出して毎日話すべき」ということが書いてあったとしましょう。
その理論を脳内に入れることは大事でしょう。
しかし、それだけで満足するのではなく、実際の生活で実行に移すのです。

それによって理論を脳内に残すことが出来るのです、忘れないのです。
創造力の養成とは、このように難しいことではないのです。
もちろん、学問でも一緒です。
普段の生活をよくするために学ぶことなのです。
ことは政治学であろうと、経済学であろうと、経営学だろうと、心理学だろうと、法学だろうと、その他の科学でも一緒なのです。
こういった科学の中に内在する問題点を探し、それを構造的に明らかにした上で、良き方向へもっていくためには何をするべきなのか?
それは為政者だけではなく、一般市民としてもあるのは間違いないのです。
その問題点のあぶり出しはどうすれば見つけれるか?
それは新書の類を読むのが一番いいでしょう。
それも、自身の属する学部の学問だけでなく、他のあらゆる学問についての本をたくさん読むことです。

法学部生だから法律に関する本だけを読んでいればいいのではないのです。
他のいろんな学問の本を読み、そこで展開されている理論をたくさん学んでいくことが重要なのです。
それは他の学部でも一緒です。
ゆえにシーズンオフからの取り組みが大事ということです。
参考にしてくださいませ。
そんな学問の内容に興味ある人にはうってつけの電子書籍が以下になります。
●おすすめです!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
私は大学は文系を選び進学しましたが、そこでは高校までに学ばなかったことを学ぶところでもありましたが、高校までの智識の詰め込みをすべきではないことはわかりました。
高校までは、設問があって()に単語をチョイスして選ぶか、単語を記述して合っていたら〇がもらえて得点に繋がる、という回答方式
でした。
しかし、大学では理論を学び、その理論を自分の言葉で書いて、それを論文にするのが一般的です。
それは、考えてみれば、高校までの学習法よりも難しいかもしれません。
高校まではペイントマークをして、それで下敷きで隠して答えを思い出す式のアイテムがありましたが、そういうアイテムは大学では皆無なのですから。
ゆえに、その大学で学んだり理論を覚えておくためには、シーズンオフからの用意が必要でしょう。
要するに春からするのがいいということです。
これは何も、受験勉強のように取り組めということではないのです。
しかし、受験勉強のように必死にしたいかたは是非ともしてほしいですが(笑)
大学では、年末試験においては、その理論を暗記して書くだけでは高得点を得ることはできないのです。
教授によっては、合格点ギリギリが、合格点すらくれないパターンもあるでしょう。
それは何故か?
大学で学ぶ学問は、その扱う事柄に存在する問題点について、それを構造的に明らかにして、それを良き方向へもっていくにはどうすればいいかという政策論を求められるものだからです。
ですから、理論の丸写しだけでは高得点はもらえないし、場合によっては合格点すらくれない、ということになりかねないのです。
その自身の理論を構築するには、いろんな本を読んでいなくてはヒントをえれないですし、考えを導き出すこともかなわないでしょう。
ゆえに、自身が履修した科目の多くも真剣に学ばなくてはいけないですし、他の本をも読まなくてはいけないでしょう。
しかし、そういったことを私が尊敬していた社会学者だった加藤秀俊(下写真)は、何と言っていたか?
創造力と呼んでいたのです。
その創造力は、何も大学の勉強だけに必要なのではなく、普段の生活でも必要ですし、卒業後の人生でも必要なのです。
それを人生に生かし、社会をよくするために覚えるべきなのです。
それを続行していくことで人生は実りあるものになるのは間違いないのです!
では暗記するアイテムが高校までのようにない大学生活においてはどうすればいいか?
学んでいく上で考えたことをデータベース化していったり、行いに結びつけることです。
例えば、人間関係についての本があったとします。
そこに「人と話さないで接していると誤解を招きいぶかしげに思われて人間関係がぎくしゃくする。ゆえに人と良好な関係を築くためには声に出して毎日話すべき」ということが書いてあったとしましょう。
その理論を脳内に入れることは大事でしょう。
しかし、それだけで満足するのではなく、実際の生活で実行に移すのです。

それによって理論を脳内に残すことが出来るのです、忘れないのです。
創造力の養成とは、このように難しいことではないのです。
もちろん、学問でも一緒です。
普段の生活をよくするために学ぶことなのです。
ことは政治学であろうと、経済学であろうと、経営学だろうと、心理学だろうと、法学だろうと、その他の科学でも一緒なのです。
こういった科学の中に内在する問題点を探し、それを構造的に明らかにした上で、良き方向へもっていくためには何をするべきなのか?
それは為政者だけではなく、一般市民としてもあるのは間違いないのです。
その問題点のあぶり出しはどうすれば見つけれるか?
それは新書の類を読むのが一番いいでしょう。
それも、自身の属する学部の学問だけでなく、他のあらゆる学問についての本をたくさん読むことです。
法学部生だから法律に関する本だけを読んでいればいいのではないのです。
他のいろんな学問の本を読み、そこで展開されている理論をたくさん学んでいくことが重要なのです。
それは他の学部でも一緒です。
ゆえにシーズンオフからの取り組みが大事ということです。
参考にしてくださいませ。
そんな学問の内容に興味ある人にはうってつけの電子書籍が以下になります。
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⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

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失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
創造力は、大学の学問でも、卒業後の生活でも必須!? (加藤秀俊)
こんにちは。
私が大学時代に知って、大いに感銘を受けた学者だった加藤秀俊氏(下写真)の本を読んでいると、大学教育の重要さを認識し、それを表にださずにはいられない気持ちになります。

やはり加藤氏と私はその認識内容が一緒だったようです。
加藤氏は、やはり社会にでてからは、世の中にある問題点をよきものに変えていくことが大事という認識だったし、私も一緒です。
大学での勉強と、高校までの勉強は基本的に勉強のアプローチ方法が違うのです。
高校までの勉強は、単語を覚えて、答案では( )が示されて、その( )内に入れる単語を選択肢からチョイスするか、記述するのが一般的でした。
それが正解であれば得点が取れるということでした。
しかし、大学からは、理論を学んで、その理論を書きながら、プラスアルファをつけて論述をしていくのです。
ゆえに、高校までの勉強よりは暗記する作業からして大変でしょう。
単語だけ覚えていればいいわけではないですし、それまでのペイントマーカーや単語帳などの、暗記するためのツールなどもないのですから。
しかし、論文を書く時には、大学の講義で指定された教科書を片っ端から覚えていく必要はないのです。
骨子を覚えたら、それを自分の言葉で書いた上で、論述をすすめていけばいいのです。

その際に、重要なのは、その理論上の事象について問題点をピックアップして、それをよき方向へもっていくためにはどのようなことが必要か、ということを書いていくことが大事ということです。
大学での学問(科学や哲学)は、事象を構造的に明らかにして、問題点をよき方向へもっていくために、どうすればいいかを考えることを目的に存在しているのです。
それがなぜ問題か?
よき方向へもって行くためにはどのようにすればいいか?
その論拠を多面的に論じていかなくてはいけないのです。
その際に、必要なのは、いろんな意見を汲み取ることでしょう。
ただ理論だけを書いてある本を読んで、う〜んと唸っていても考えは浮かばないのです。
やはり問題点を指摘した新書本を読むこと一番いい気がします。

ゆえに、大学での年末の試験時に、短時日や一夜漬けで覚える作業だけではかなり難しいといわざるを得ないのです。
そこにおいて、その筆者の考えを学ぶことで自身の考えが浮かぶことが大いにあるでしょう。
その考えが全面的に正しいと思えば、その考えを自分の言葉で書けばいいでしょうし、ある面では賛同できてもある面では賛同できないのであれば、その賛同できない場面の理由を書くのです。
それでもいまいち納得がいかないならば、さらに本を読み、人の意見を聞いたり、テレビやラジオやネットといった媒体から情報を得て更に吟味を重ねていくことが大事なのです。
そのような作業の積み重ねで、自身の「哲学」が生まれるのです。
その作業の積み重ねが多い人ほど貫禄のある本が書けて、威厳が感じれる人物になっていくのです。
逆に、そういう作業のあまりない人には、そういったものが感じれないのです。
ゆえに、前者を目指す、あるいは本物の学者などを目指すのであれば、シーズンオフからの積み重ねや永続が大事になるのは言うまでもないです。
確かに、そういう作業の積み重ねは、人によって向き不向きがあるのは言うまでもないことです。

大学に入って私が感じたことは、大抵の人間はシーズンオフからそういう作業をしていないので、かなり苦労しているのがわかりました。
私が敬愛していた故.加藤秀俊という社会学者曰く「大学で真剣に学んでいる人は私の印象では2割くらい」ということを自身の本の中で何度か書いていました。
大学教員生活を30年以上もしていた加藤氏が言っていたのですから間違いないでしょう。
高校までの勉強の印象では、指定された教科書に書いてある理論を片っ端から暗記していくことが大事と思われそうですが、大学での勉強はそうではありません。
確かに、大学の学問はそういうものであるという認識の教授もいるわけで、そういう丸暗記の答案こそ高得点をあげている例もありますが、そういう教員は学問というものの存立理由がまるで理解できていないのです。
そうではなく、自身で印象に残った理論をとことんまで追求してそれを研究し探求していくことによって新しい業績が出来上がるのです。
片っ端から覚えていかなくては通用しないというようなことは社会生活ではありえないです。
しかし、会社に入って、業務の内容ではそういう事態は到来するでしょうし、実際自分の覚えたいことだけ覚えればいい、では通用しないのは言うまでもないです。
しかし、会社の業務内においても問題点は存在し、それを良きものに変えていく、という作業をするためには、やはり情報を得ながら考えに考えて、吟味に吟味を重ねることによって明らかになるのは言うまでもないのです。
その作業によって事態が改善されたなら、それは非常に生きがいを感じることは間違いないでしょう。
そういう、「問題点をよきものに変えていく作業」を加藤氏は創造力と呼んでいましたが、その力は学問においても、大学後の社会生活でも必須なのです。
大学は、そのための訓練の場でもあるということを覚えておいてくれたらいいなと私は正直思います。
そんなスタンスに共鳴できる人には、以下の電子書籍はお勧めできる代物であると思います。
●お勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
私が大学時代に知って、大いに感銘を受けた学者だった加藤秀俊氏(下写真)の本を読んでいると、大学教育の重要さを認識し、それを表にださずにはいられない気持ちになります。
やはり加藤氏と私はその認識内容が一緒だったようです。
加藤氏は、やはり社会にでてからは、世の中にある問題点をよきものに変えていくことが大事という認識だったし、私も一緒です。
大学での勉強と、高校までの勉強は基本的に勉強のアプローチ方法が違うのです。
高校までの勉強は、単語を覚えて、答案では( )が示されて、その( )内に入れる単語を選択肢からチョイスするか、記述するのが一般的でした。
それが正解であれば得点が取れるということでした。
しかし、大学からは、理論を学んで、その理論を書きながら、プラスアルファをつけて論述をしていくのです。
ゆえに、高校までの勉強よりは暗記する作業からして大変でしょう。
単語だけ覚えていればいいわけではないですし、それまでのペイントマーカーや単語帳などの、暗記するためのツールなどもないのですから。
しかし、論文を書く時には、大学の講義で指定された教科書を片っ端から覚えていく必要はないのです。
骨子を覚えたら、それを自分の言葉で書いた上で、論述をすすめていけばいいのです。
その際に、重要なのは、その理論上の事象について問題点をピックアップして、それをよき方向へもっていくためにはどのようなことが必要か、ということを書いていくことが大事ということです。
大学での学問(科学や哲学)は、事象を構造的に明らかにして、問題点をよき方向へもっていくために、どうすればいいかを考えることを目的に存在しているのです。
それがなぜ問題か?
よき方向へもって行くためにはどのようにすればいいか?
その論拠を多面的に論じていかなくてはいけないのです。
その際に、必要なのは、いろんな意見を汲み取ることでしょう。
ただ理論だけを書いてある本を読んで、う〜んと唸っていても考えは浮かばないのです。
やはり問題点を指摘した新書本を読むこと一番いい気がします。
ゆえに、大学での年末の試験時に、短時日や一夜漬けで覚える作業だけではかなり難しいといわざるを得ないのです。
そこにおいて、その筆者の考えを学ぶことで自身の考えが浮かぶことが大いにあるでしょう。
その考えが全面的に正しいと思えば、その考えを自分の言葉で書けばいいでしょうし、ある面では賛同できてもある面では賛同できないのであれば、その賛同できない場面の理由を書くのです。
それでもいまいち納得がいかないならば、さらに本を読み、人の意見を聞いたり、テレビやラジオやネットといった媒体から情報を得て更に吟味を重ねていくことが大事なのです。
そのような作業の積み重ねで、自身の「哲学」が生まれるのです。
その作業の積み重ねが多い人ほど貫禄のある本が書けて、威厳が感じれる人物になっていくのです。
逆に、そういう作業のあまりない人には、そういったものが感じれないのです。
ゆえに、前者を目指す、あるいは本物の学者などを目指すのであれば、シーズンオフからの積み重ねや永続が大事になるのは言うまでもないです。
確かに、そういう作業の積み重ねは、人によって向き不向きがあるのは言うまでもないことです。
大学に入って私が感じたことは、大抵の人間はシーズンオフからそういう作業をしていないので、かなり苦労しているのがわかりました。
私が敬愛していた故.加藤秀俊という社会学者曰く「大学で真剣に学んでいる人は私の印象では2割くらい」ということを自身の本の中で何度か書いていました。
大学教員生活を30年以上もしていた加藤氏が言っていたのですから間違いないでしょう。
高校までの勉強の印象では、指定された教科書に書いてある理論を片っ端から暗記していくことが大事と思われそうですが、大学での勉強はそうではありません。
確かに、大学の学問はそういうものであるという認識の教授もいるわけで、そういう丸暗記の答案こそ高得点をあげている例もありますが、そういう教員は学問というものの存立理由がまるで理解できていないのです。
そうではなく、自身で印象に残った理論をとことんまで追求してそれを研究し探求していくことによって新しい業績が出来上がるのです。
片っ端から覚えていかなくては通用しないというようなことは社会生活ではありえないです。
しかし、会社に入って、業務の内容ではそういう事態は到来するでしょうし、実際自分の覚えたいことだけ覚えればいい、では通用しないのは言うまでもないです。
しかし、会社の業務内においても問題点は存在し、それを良きものに変えていく、という作業をするためには、やはり情報を得ながら考えに考えて、吟味に吟味を重ねることによって明らかになるのは言うまでもないのです。
その作業によって事態が改善されたなら、それは非常に生きがいを感じることは間違いないでしょう。
そういう、「問題点をよきものに変えていく作業」を加藤氏は創造力と呼んでいましたが、その力は学問においても、大学後の社会生活でも必須なのです。
大学は、そのための訓練の場でもあるということを覚えておいてくれたらいいなと私は正直思います。
そんなスタンスに共鳴できる人には、以下の電子書籍はお勧めできる代物であると思います。
●お勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
自分のスタンスを決める際には、多面的に深く論じた著作家の本を読むべし? (加藤秀俊)
こんにちには。
自分の立場を確立するには、人の意見が大いに役立つことがあります。
こういう経験はないでしょうか?
某宗教に入っている人に、その宗教への入信を勧められたりするけれども、そういう場合、私は何とも回答に苦しむのです。
その人やその周りの人たちからは「この宗教こそ最高の宗教。入れば必ず人生は好転する」というようなことを情熱を込めて語られるので、こっちも窮してしまうのです。
しかし、読書をしていると、立場を同じくする人の意見を聞くとそれが自分のスタンスを決めるのに大いに役立ったりするものです。
こと宗教に関しても一緒です。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)とも私は宗教に対するスタンスが一緒でした。

「宗教の良さは認めるけれども、1つの宗教にだけぞっこんにはならない」
ということです。
これは、私と一緒でした。
私はかつて日蓮正宗の信徒団体だった創価学会に入会を勧められて入るも、講義や新聞では毎回毎回同じ言葉を繰り返すだけだったのでつまらなくなり、新聞の購読も解除し、集会にも行かなくなりました。
宗教というのは人間の精神にとって大事なものなのでしょう。
それがあることで日々の精神的な支柱になり、それが不可欠になってくるもののようです。
その精神的な充実の結果、多くの人の賞賛を集め、その結果、誇大な喧伝がなされて、この人こそが崇め奉る対象だ、などといった大仰な言葉で流布されたりする。
そして、その宗教を開宗した宗祖の大きな、そして巨大な像が建てられたりする。
その代表例は、大仏のモデルになった釈迦でしょう。

奈良の大仏は、ものすごく巨大ですが、あれは当時流行していた疫病を鎮めるために建てられたものです。
それは、医学の発達していなかった当時においては、ウィルスが人から人に伝播するというメカニズムゆえに疫病が流行るということが解明されていなかったがゆえに、ああいう巨大な像を立てて祈れば疫病が収めるための最高の手段として信じられていたがためゆえの結果だったのです。
ゆえに、疫病流行のメカニズムが解明された現代においては、ああいう巨大な像のモデルになりうる人物が現れるかどうか、非常にあやしいです。
よしんば、そういう人物が現れたとしても、私がその人物のすばらしさを喧伝したとしても、受け入れてくれる人がどれだけいるのだろうかと、これまたあやしくなるのです。
喧伝の際にも、喧伝する人のカリスマ性が必要なのは、人類の歴史を見ればわかるからです。
確かに、釈迦の遺した言葉から学び、日々の糧にしなくてはならないものがあるのはやぶさかではないです私は。
しかし、いくら釈迦の遺した言葉でも、全部を受けいられないというのが私の立場なのです。
もちろん日蓮(下写真)についても同様に!

鎌倉時代のお坊さんです日蓮は。
この人が生きていた時代に解明できなかったものが後世になって解明できた。
ゆえに、こういう場合はこうしろと日蓮が生前に言ったことについて後世になって間違いであるとわかったならば、それは矯正しなくてはならないでしょう。
ゆえに、いくら日蓮がカリスマ的な人物だったとしても、全部を受け入れるわけにはいかないのです。
しかし、日蓮正宗や、その信徒団体であった創価学会や顕正会の人たちは、せっせと日蓮の言ったことを学びに学び、それの是非を問うことは一切していないのです。
不思議でたまらないのです私は(笑)
しかし、部分的には学べるものがあると感じているので、そこだけは受けいれますが、全部はちょっと…(笑)
こういうスタンスを決めるには読書が大いに役立ちます。
それに際し、私は大いに加藤秀俊氏には助けられた、と思います。
ただ意見が同じうした、というだけではなく、加藤秀俊氏は多面的に広く、そして深く考察をしてから自身の意見を書いていたからこそ参考にできたのです。
短絡的な意見では知識人として失格です(笑)

しかし、宗教にぞっこんになる人はやはり畏敬の念をその宗教やその崇める対象に持っているがゆえに無批判になってしまうのです。
やはり神や仏は畏れる対象であり、敬する対象です。
ゆえに、その宗教内で言われることは無批判になってしまう気持ちはわかります。
この宗教で言われていることに関しては守らないと自分の身が危うくなってしまう、というような妄想に入ってしまうのでしょう。
しかし、私は惑わされません。
このように1つの宗教だけに拘らないで、その宗教で言われていることに関して賛同できるものに関しては賛同して、賛同できないものに関しては賛同しない…こういうスタンスを選んで生きていくと決めた以上、その責任は自分にありますから、そのことは心していくつもりです。
そのスタンスに決めた結果、被った結果については全部受けいれます。
誰の責任でもありません。
そんな人生を決めてしまうに際して、大いに助かった加藤秀俊氏の偉業について多面的に掘り下げて論じた電子書籍は以下です。
●大いに参考になります!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
自分の立場を確立するには、人の意見が大いに役立つことがあります。
こういう経験はないでしょうか?
某宗教に入っている人に、その宗教への入信を勧められたりするけれども、そういう場合、私は何とも回答に苦しむのです。
その人やその周りの人たちからは「この宗教こそ最高の宗教。入れば必ず人生は好転する」というようなことを情熱を込めて語られるので、こっちも窮してしまうのです。
しかし、読書をしていると、立場を同じくする人の意見を聞くとそれが自分のスタンスを決めるのに大いに役立ったりするものです。
こと宗教に関しても一緒です。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)とも私は宗教に対するスタンスが一緒でした。
「宗教の良さは認めるけれども、1つの宗教にだけぞっこんにはならない」
ということです。
これは、私と一緒でした。
私はかつて日蓮正宗の信徒団体だった創価学会に入会を勧められて入るも、講義や新聞では毎回毎回同じ言葉を繰り返すだけだったのでつまらなくなり、新聞の購読も解除し、集会にも行かなくなりました。
宗教というのは人間の精神にとって大事なものなのでしょう。
それがあることで日々の精神的な支柱になり、それが不可欠になってくるもののようです。
その精神的な充実の結果、多くの人の賞賛を集め、その結果、誇大な喧伝がなされて、この人こそが崇め奉る対象だ、などといった大仰な言葉で流布されたりする。
そして、その宗教を開宗した宗祖の大きな、そして巨大な像が建てられたりする。
その代表例は、大仏のモデルになった釈迦でしょう。
奈良の大仏は、ものすごく巨大ですが、あれは当時流行していた疫病を鎮めるために建てられたものです。
それは、医学の発達していなかった当時においては、ウィルスが人から人に伝播するというメカニズムゆえに疫病が流行るということが解明されていなかったがゆえに、ああいう巨大な像を立てて祈れば疫病が収めるための最高の手段として信じられていたがためゆえの結果だったのです。
ゆえに、疫病流行のメカニズムが解明された現代においては、ああいう巨大な像のモデルになりうる人物が現れるかどうか、非常にあやしいです。
よしんば、そういう人物が現れたとしても、私がその人物のすばらしさを喧伝したとしても、受け入れてくれる人がどれだけいるのだろうかと、これまたあやしくなるのです。
喧伝の際にも、喧伝する人のカリスマ性が必要なのは、人類の歴史を見ればわかるからです。
確かに、釈迦の遺した言葉から学び、日々の糧にしなくてはならないものがあるのはやぶさかではないです私は。
しかし、いくら釈迦の遺した言葉でも、全部を受けいられないというのが私の立場なのです。
もちろん日蓮(下写真)についても同様に!

鎌倉時代のお坊さんです日蓮は。
この人が生きていた時代に解明できなかったものが後世になって解明できた。
ゆえに、こういう場合はこうしろと日蓮が生前に言ったことについて後世になって間違いであるとわかったならば、それは矯正しなくてはならないでしょう。
ゆえに、いくら日蓮がカリスマ的な人物だったとしても、全部を受け入れるわけにはいかないのです。
しかし、日蓮正宗や、その信徒団体であった創価学会や顕正会の人たちは、せっせと日蓮の言ったことを学びに学び、それの是非を問うことは一切していないのです。
不思議でたまらないのです私は(笑)
しかし、部分的には学べるものがあると感じているので、そこだけは受けいれますが、全部はちょっと…(笑)
こういうスタンスを決めるには読書が大いに役立ちます。
それに際し、私は大いに加藤秀俊氏には助けられた、と思います。
ただ意見が同じうした、というだけではなく、加藤秀俊氏は多面的に広く、そして深く考察をしてから自身の意見を書いていたからこそ参考にできたのです。
短絡的な意見では知識人として失格です(笑)
しかし、宗教にぞっこんになる人はやはり畏敬の念をその宗教やその崇める対象に持っているがゆえに無批判になってしまうのです。
やはり神や仏は畏れる対象であり、敬する対象です。
ゆえに、その宗教内で言われることは無批判になってしまう気持ちはわかります。
この宗教で言われていることに関しては守らないと自分の身が危うくなってしまう、というような妄想に入ってしまうのでしょう。
しかし、私は惑わされません。
このように1つの宗教だけに拘らないで、その宗教で言われていることに関して賛同できるものに関しては賛同して、賛同できないものに関しては賛同しない…こういうスタンスを選んで生きていくと決めた以上、その責任は自分にありますから、そのことは心していくつもりです。
そのスタンスに決めた結果、被った結果については全部受けいれます。
誰の責任でもありません。
そんな人生を決めてしまうに際して、大いに助かった加藤秀俊氏の偉業について多面的に掘り下げて論じた電子書籍は以下です。
●大いに参考になります!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
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