その著作家の本を1冊読んで良くなかったら、その人の別の本も必ず良くない? (加藤秀俊)
本は、自分が大事なコンテンツが詰まっているのです。
ゆえに、その本を読み終えた後に、その箇所を再び覗いて読むことで、また人生に必要な糧が得られるのです。
そういう本をたくさん書いた宗教の開祖の場合、その読者はその宗教者の信者になるのでしょう。

しかし、学べるものがあまりに少ない本であるならば、手元に残しておきたいとは思わないでしょう。
そういうものは中古本屋に売りにいくか、オークションに出してしまいます。
音楽にたとえてみればわかりやすいでしょう。
CDに収録されている曲が10曲中、いい曲と思える、いわゆる佳曲が2曲とか3曲しかないならば、そのCDは人にあげたくなったり、中古盤屋に売りたくなったり、ネットオークションに出品したくなるでしょう。
同じアーティストのCDで、そういう例が3回も続けば、そのアーティストのモノは買いたくなくなるでしょう。
気難しい人ならば、佳曲がアルバム中2とか3とかしか入ってないと分かれば、そのアーティストのは次は買わないと決めるでしょう。
こういう音楽アーティストとは違って著者の本の場合、学べる部分があまりに少ないのがわかったら、その場でダメ出しして、もう2度と買わないと私は決めているのです。
そういう著者は、つまらない本を書いていると、やはり次の本を読んでもつまらない場合がほとんどすべてだからです。
引用ばかりの本を書いている著者は、やはり他の本でも引用ばかりの本を書いている場合がほとんどすべてなのです。
しかし、音楽アーティストの場合は勝手が違うようです。
作曲や作詞を自身でする音楽ジャンルを私は聴いていますが、そういう音楽ジャンルでは、2人以上で作詞作曲することがままある。

それまで1人でそれらをやっていた人が他のパートナーを見つけて作詞作曲をする。
あるいは、それまで一緒に作詞作曲してきた人を解雇して、他のミュージシャンと作詞作曲する。
あるいは、それまで依頼してきたプロデューサーとの制作はやめて、違うプロデューサーに依頼する。
すると、それまでとは想像もできなかったほどの素晴らしい曲ができて、世界的な大ヒットにつながったりするのです。
こういう作詞作曲とは違って、論文や小説を書く、論文や小説の本を書く場合、1人でするゆえに、こういうまるで違う作品ができたりすることはないのです。
しかし、霊に憑りつかれたりすれば、それまでとは違う作風になったりする例があるのです。
そういう例で有名なのは三島由紀夫(下写真)です。

彼は、小説を書く能力のある霊に憑りつかれて、それまでとは違う作風になったのです。
彼は、自分の意志とは別に、ペンが彼の手を借りて小説を書くようになったと霊能者に相談に行ったのだそうです。
しかし、こういう例は三島以外、極めて稀ゆえに、他の人には起こりにくい。
しかし、私が敬愛してきた加藤秀俊氏(下写真)の本は最初から最後まで学べる箇所や、知っておきたい、ずっと脳内に入れておきたい知識や知恵がたくさん詰まっているし、知識人としてもモラルが行間にたくさん詰まっているがゆえに、彼のいろんな本を本棚に私はしまってあるのです。

その数30以上です。
こういう場合、その人の書いた本が良ければ、他の本も必ずと言っていいほどいい本なのが通常のようです。
こういうファンになってしまった場合、「集めよう!」などと意気込まずとも、いつしか何十冊も集まっている…そんな感じなのです。
そういう著作家が、人生の中で1人でもいればそれはそれは幸福な人生を歩めること間違いなしです。
そんな行動に私を移させてしまった加藤秀俊氏は、どんな知識人だったか?
興味ある人は、以下からお求めくださいませ!
●非常にお勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
ゆえに、その本を読み終えた後に、その箇所を再び覗いて読むことで、また人生に必要な糧が得られるのです。
そういう本をたくさん書いた宗教の開祖の場合、その読者はその宗教者の信者になるのでしょう。
しかし、学べるものがあまりに少ない本であるならば、手元に残しておきたいとは思わないでしょう。
そういうものは中古本屋に売りにいくか、オークションに出してしまいます。
音楽にたとえてみればわかりやすいでしょう。
CDに収録されている曲が10曲中、いい曲と思える、いわゆる佳曲が2曲とか3曲しかないならば、そのCDは人にあげたくなったり、中古盤屋に売りたくなったり、ネットオークションに出品したくなるでしょう。
同じアーティストのCDで、そういう例が3回も続けば、そのアーティストのモノは買いたくなくなるでしょう。
気難しい人ならば、佳曲がアルバム中2とか3とかしか入ってないと分かれば、そのアーティストのは次は買わないと決めるでしょう。
こういう音楽アーティストとは違って著者の本の場合、学べる部分があまりに少ないのがわかったら、その場でダメ出しして、もう2度と買わないと私は決めているのです。
そういう著者は、つまらない本を書いていると、やはり次の本を読んでもつまらない場合がほとんどすべてだからです。
引用ばかりの本を書いている著者は、やはり他の本でも引用ばかりの本を書いている場合がほとんどすべてなのです。
しかし、音楽アーティストの場合は勝手が違うようです。
作曲や作詞を自身でする音楽ジャンルを私は聴いていますが、そういう音楽ジャンルでは、2人以上で作詞作曲することがままある。

それまで1人でそれらをやっていた人が他のパートナーを見つけて作詞作曲をする。
あるいは、それまで一緒に作詞作曲してきた人を解雇して、他のミュージシャンと作詞作曲する。
あるいは、それまで依頼してきたプロデューサーとの制作はやめて、違うプロデューサーに依頼する。
すると、それまでとは想像もできなかったほどの素晴らしい曲ができて、世界的な大ヒットにつながったりするのです。
こういう作詞作曲とは違って、論文や小説を書く、論文や小説の本を書く場合、1人でするゆえに、こういうまるで違う作品ができたりすることはないのです。
しかし、霊に憑りつかれたりすれば、それまでとは違う作風になったりする例があるのです。
そういう例で有名なのは三島由紀夫(下写真)です。

彼は、小説を書く能力のある霊に憑りつかれて、それまでとは違う作風になったのです。
彼は、自分の意志とは別に、ペンが彼の手を借りて小説を書くようになったと霊能者に相談に行ったのだそうです。
しかし、こういう例は三島以外、極めて稀ゆえに、他の人には起こりにくい。
しかし、私が敬愛してきた加藤秀俊氏(下写真)の本は最初から最後まで学べる箇所や、知っておきたい、ずっと脳内に入れておきたい知識や知恵がたくさん詰まっているし、知識人としてもモラルが行間にたくさん詰まっているがゆえに、彼のいろんな本を本棚に私はしまってあるのです。
その数30以上です。
こういう場合、その人の書いた本が良ければ、他の本も必ずと言っていいほどいい本なのが通常のようです。
こういうファンになってしまった場合、「集めよう!」などと意気込まずとも、いつしか何十冊も集まっている…そんな感じなのです。
そういう著作家が、人生の中で1人でもいればそれはそれは幸福な人生を歩めること間違いなしです。
そんな行動に私を移させてしまった加藤秀俊氏は、どんな知識人だったか?
興味ある人は、以下からお求めくださいませ!
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・加藤秀俊ホーム
大学の講義に料金に見合っているかどうか吟味すべし? (加藤秀俊)
こんにちは。
今、私の大学時代を振り返ると、1コマの講義の代金を計算すると、1コマ2500円前後でした。
それを今、回顧すると、そのお金は価値に見合ってない、ということがわかりました。
しかし、当時とは違っていまは格差社会です。
にもかかわらず、大学の学費の料金は上がっているのです。
それで計算すると1コマ3000円以上するのです。
もっと見合ってないのは明白です。

例えば、大学での講義に出席して、ノートを取り、その内容と、本を中古本屋にいって1冊100円のを買って読んで、その内容を吟味して比較してみることが重要です。
そんなに違いはないはずです…そんなことないです(笑)
1冊100円で売っている中古本の方が有意義と思えるパターンの方が多いはずです。
格差社会において、そんな意味のない講義にお金を使わずに、自身で勉強したほうがいいのではないか?
そのことに早く多くの人が気付くべきではないか、と思われてならないですね私は。
確かに、どんな本でも学ぶものが必ず何か所かあるものです。
それと同じように、大学の講義でも参加していれば、なにがしか学ぶ箇所があるのです。
それに騙されて、大学を辞めずに4年間を費やす人が多いのではないでしょうか?

どうして4年間を辞めずに費やすのか?
それは入学した人の大半の人が大学卒業という肩書が欲しいからでしょう?
日本は世界でも珍しい国で、高校卒業生の大半が大学に行く国民がいるのです。
それは学業に対する畏敬の念が大半の国民が無意識のうちに内面化されているからです。
それゆえに、大学に大半の人があこがれの念を抱いているのです。
それで大学進学をする。
それはかつての70年代から90年代のように、一億総中流国家といわれていた時代ならば、「ちょっと財布に痛いけれども子供には大学へ行けせてやろう」という気概をもって、子供を大学に行かせることも不問に付していてもよかったでしょうか。
しかし、今や格差社会になってしまった現今においては、そういう選択は危ないです。
今は、大学生の55%が奨学金を借りる時代になってしまったのです。
それで、曲りなりにも卒業できたとしても、奨学金の返済生活が10年近く続くのです。
それがいい生活を送れることに足かせになるのは目に見えています。
1コマ3000円以上する…講義にそんな価値はないのは明白です。
なぜそんなことが言えるか?
その内容は本を読めば明白なのです。
講義内容は1冊100円で売っている中古本に負けるのです。
もちろん講義が全部が全部そうであるとは言えませんし、教授によって千差万別でしょうけれども。
私が大学の講義で頭にきたのは、4月から1月の最後までほとんど同じようなことを言っているだけの講義、あるいは何十年も同じ講義用のノートを読んでいるだけの講義、教科書に書いてあることを説明しているだけの講義です。
そんな内容に、3000円の価値などないです。

よしんば研究に研究を重ねている教授の講義を受けたとしても、卒業後の進路に差が出るかとは思えないし、脳内や精神にそんな大きな差が生まれるとは思えないです。
そういう講義を受けるのではなくて、自身で本を買って読んで学べばいいのは言うまでもないです。
大学受験で培った現代文の能力があればそれは叶う話しでしょう。
司法試験にしろ、会計士試験にしろ、各種公務員試験にしろ、大学卒業の肩書もなくても受験して合格できる時代になったのです。
ゆえに、大学に無理やり通い続ける時代ではないでしょう。
それでも行くというのならば、通信制に行くのがいいでしょう。
宗教と同じように、大学では昔の習わしをそのまま無批判に流し続けて、それを軌道修正しない傾向が見て取れる気がします。
昔は、大学にしか本などなかったのです。
本は非常に高価なものでした。
ゆえに、その内容を写経するために行っていた国民からは憧れの貴重な存在だったのです。
しかし、今や本などは子供のお小遣い程度の少額で買える時代になったのです。
ゆえに、そこから学んだほうが料金的にも全然いいでしょう。
そのことに気がつくべきです。
大学など行かなくても、自身で本を買って読みまくり、勉強しまくり、かなりの教養を持っている友人が何人もいるということを私の敬愛していた加藤秀俊氏(下写真)は、その著『独学のすすめ』という本で書いています。

私などよりも教養の深い人の言葉を読むことで、精神に迫ってくるものを感じるはずです。
その加藤氏の偉業について書いた電子書籍を以下紹介したいです!
●お勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
・加藤秀俊ホーム
今、私の大学時代を振り返ると、1コマの講義の代金を計算すると、1コマ2500円前後でした。
それを今、回顧すると、そのお金は価値に見合ってない、ということがわかりました。
しかし、当時とは違っていまは格差社会です。
にもかかわらず、大学の学費の料金は上がっているのです。
それで計算すると1コマ3000円以上するのです。
もっと見合ってないのは明白です。
例えば、大学での講義に出席して、ノートを取り、その内容と、本を中古本屋にいって1冊100円のを買って読んで、その内容を吟味して比較してみることが重要です。
そんなに違いはないはずです…そんなことないです(笑)
1冊100円で売っている中古本の方が有意義と思えるパターンの方が多いはずです。
格差社会において、そんな意味のない講義にお金を使わずに、自身で勉強したほうがいいのではないか?
そのことに早く多くの人が気付くべきではないか、と思われてならないですね私は。
確かに、どんな本でも学ぶものが必ず何か所かあるものです。
それと同じように、大学の講義でも参加していれば、なにがしか学ぶ箇所があるのです。
それに騙されて、大学を辞めずに4年間を費やす人が多いのではないでしょうか?
どうして4年間を辞めずに費やすのか?
それは入学した人の大半の人が大学卒業という肩書が欲しいからでしょう?
日本は世界でも珍しい国で、高校卒業生の大半が大学に行く国民がいるのです。
それは学業に対する畏敬の念が大半の国民が無意識のうちに内面化されているからです。
それゆえに、大学に大半の人があこがれの念を抱いているのです。
それで大学進学をする。
それはかつての70年代から90年代のように、一億総中流国家といわれていた時代ならば、「ちょっと財布に痛いけれども子供には大学へ行けせてやろう」という気概をもって、子供を大学に行かせることも不問に付していてもよかったでしょうか。
しかし、今や格差社会になってしまった現今においては、そういう選択は危ないです。
今は、大学生の55%が奨学金を借りる時代になってしまったのです。
それで、曲りなりにも卒業できたとしても、奨学金の返済生活が10年近く続くのです。
それがいい生活を送れることに足かせになるのは目に見えています。
1コマ3000円以上する…講義にそんな価値はないのは明白です。
なぜそんなことが言えるか?
その内容は本を読めば明白なのです。
講義内容は1冊100円で売っている中古本に負けるのです。
もちろん講義が全部が全部そうであるとは言えませんし、教授によって千差万別でしょうけれども。
私が大学の講義で頭にきたのは、4月から1月の最後までほとんど同じようなことを言っているだけの講義、あるいは何十年も同じ講義用のノートを読んでいるだけの講義、教科書に書いてあることを説明しているだけの講義です。
そんな内容に、3000円の価値などないです。
よしんば研究に研究を重ねている教授の講義を受けたとしても、卒業後の進路に差が出るかとは思えないし、脳内や精神にそんな大きな差が生まれるとは思えないです。
そういう講義を受けるのではなくて、自身で本を買って読んで学べばいいのは言うまでもないです。
大学受験で培った現代文の能力があればそれは叶う話しでしょう。
司法試験にしろ、会計士試験にしろ、各種公務員試験にしろ、大学卒業の肩書もなくても受験して合格できる時代になったのです。
ゆえに、大学に無理やり通い続ける時代ではないでしょう。
それでも行くというのならば、通信制に行くのがいいでしょう。
宗教と同じように、大学では昔の習わしをそのまま無批判に流し続けて、それを軌道修正しない傾向が見て取れる気がします。
昔は、大学にしか本などなかったのです。
本は非常に高価なものでした。
ゆえに、その内容を写経するために行っていた国民からは憧れの貴重な存在だったのです。
しかし、今や本などは子供のお小遣い程度の少額で買える時代になったのです。
ゆえに、そこから学んだほうが料金的にも全然いいでしょう。
そのことに気がつくべきです。
大学など行かなくても、自身で本を買って読みまくり、勉強しまくり、かなりの教養を持っている友人が何人もいるということを私の敬愛していた加藤秀俊氏(下写真)は、その著『独学のすすめ』という本で書いています。
私などよりも教養の深い人の言葉を読むことで、精神に迫ってくるものを感じるはずです。
その加藤氏の偉業について書いた電子書籍を以下紹介したいです!
●お勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
・加藤秀俊ホーム
格差社会において、大学進学の是非を講義内容から考察する(加藤秀俊)
こんにちは。
前回は、大学で学ぶ学問は、わざわざ大学で学ばなくても、本で学べるということを書きました。
試しに、新本ではなくてもいいです、古本屋で売っている学問の本を買って読んでみることをお勧めします。

そこで学んだ内容と、大学の講義で書いたノートを照らし合わせてみればいいと思います。
大差はないでしょう…いや、本で学べる内容の方が充実していることもしばしばあります。
そうでしょう、大学の教授はそんなに研究らしい研究をせずとも大金が入ってくるから、研究らしい研究をしないのです。
大学受験の予備校で、いい加減な授業をしていたら、誰もが文句を言って、そのことについて噂が広まり、その先生の授業は誰も履修してくれなくなること必至です。
しかし、大学ではいい加減な講義をしていてもほとんどの学生が抗議しないのです。
それはなぜか?
大学で学びたいからという人よりも、大学卒業という肩書が欲しいだけだからです。
開始時間からかなり遅く来て、予定時間よりも早く終わったりする教授は多いでしょう?
しかも、その講義の内容は、あらかじめ書いてきたノートを読んでいるだけとか、教科書に書いてあることを解説しているだけの講義というのがほとんどでしょう。

私が大学生時代に、民法の講義が終わった時に、その教授の元に行って質問しようとしましたが、そこにあったあまりにボロボロでまっ茶っ茶なノートにびっくりしてしまいました。
30年間、ずっと同じノートを読んでいるだけで、ほとんど研究らしい研究などしてこなかったのが、それで明らかになりました。
その教授は、その大学の教員を退官するまで、本を1冊しか出していなかったのです。
それも編著本で、その本の1章だけを書いただけなのです。
こんな教授でも、当時2000万円は年収でもらっていたでしょう。
なぜか?
そんないい加減な講義でも、抗議せず、退学せずに卒業までの4年間に高い学費を払い続けて通い続ける学生が大勢いるからです。
こんないい加減な教授ばかりだから、大学を辞めてやるといってやめる人は少数ながらいますが、それは全体的にはかなり少数であることは間違いないのです。

そういう人が大勢いれば、さすがにいい加減な教授はいなくなるのが必然です。
しかし、実際は日本では学問に対する畏敬の念が強く、自分が学んでいこうという気概がなくても、畏敬の念を持ち続けるパターンが全体の7割以上を占めているからこそ、こういう事態を招いてしまうのです。
私が大学に通っていた時は、1時間半の大学の講義は1コマにつき2500円くらいでした。
そんな高い学費でも、当時は1億総中流国家といわれた時代で、35年間働き続ければ誰もが必ず年収1000万円といわれていた時代だったのです。
それだけ潤沢であれば、高い学費を払い、毎月仕送り金を出してでも、大学くらいは自分の子に行かせてあげよう、という気になって、曲りなりにも行けたのだろうと思います。
しかし、今や格差社会に日本はなってしまったのです。
それでいて、今は1コマ3000円以上はするのです。
日本人の平均給与額が、当時よりも下がっているのに、大学の学費は上がっている。

こんな不条理な話しはないです。
そして、今や奨学金を借りる人は学生全体の55%にまで及ぶようです。
曲りなりにも、それで大学を卒業しても、それから後はその大きな金額の奨学金を返す生活が始まってしまう。
そこで考えてほしいのですが、1コマ3000円の価値などないことは明白でしょう。
今更ながら、そのことに気づいてしまいました。
先ほど指摘した、本で読んだ内容との参照をしてみることです。
本当に学びたいなら、そんな内容と価値が見合ってないことに莫大なお金を出すことはないでしょう。
大学の学費は、日本人の幻想によって価格競争から免れているのです。
普通不味い料理を出したらお客さんはその店に行かないのですが、大学ではいい加減な講義をしていても学生は辞めないのです。
良い内容であろうが悪い内容であろうが無批判のまま据え置かれるということです。

「大学の教授たるもの本を出して自分の研究内容を世間に問わなくてはならない」と書いたのは、私の尊敬する学者である桜井邦朋氏ですが、私はその通りと思いました。
しかし、大半の教授は本など出さないです。
なぜか?
本など出さなくても、莫大な年収が入ってくるからです。
研究などしなくても、毎年同じ講義ノートを読んでいるだけで大金が入ってくるからです(笑)。
こんな不条理な話しはないのです。
大学においてしか秘伝的な情報が学べるということはないのです。
しかし、大学での講義される内容は本を買って主体的に学ぶことで習得できるのです。
大学受験で培った現代文の能力で充分なのです。
私が敬愛してきた加藤秀俊氏(下写真)は、その友人で、大学は出ていないけれども、本を読んで学びに学んで教授と同等かそれ以上の知見を持った例を幾人もあるということを氏の『独学のすすめ』の中で書いています。

司法試験にしろ、会計士試験にしろ、高校卒でも受験できるのです。
その他、公務員試験も。
ゆえに不条理な教授をのさばらせることなく、見合ったものにお金を投資することで健やかな人生をあゆむことができるのではないでしょうか?
大学への無批判な信仰を辞めるべき時がきているような気がします。
●そんな思想内容に興味のある人は、以下の電子書籍をお勧めします。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
前回は、大学で学ぶ学問は、わざわざ大学で学ばなくても、本で学べるということを書きました。
試しに、新本ではなくてもいいです、古本屋で売っている学問の本を買って読んでみることをお勧めします。
そこで学んだ内容と、大学の講義で書いたノートを照らし合わせてみればいいと思います。
大差はないでしょう…いや、本で学べる内容の方が充実していることもしばしばあります。
そうでしょう、大学の教授はそんなに研究らしい研究をせずとも大金が入ってくるから、研究らしい研究をしないのです。
大学受験の予備校で、いい加減な授業をしていたら、誰もが文句を言って、そのことについて噂が広まり、その先生の授業は誰も履修してくれなくなること必至です。
しかし、大学ではいい加減な講義をしていてもほとんどの学生が抗議しないのです。
それはなぜか?
大学で学びたいからという人よりも、大学卒業という肩書が欲しいだけだからです。
開始時間からかなり遅く来て、予定時間よりも早く終わったりする教授は多いでしょう?
しかも、その講義の内容は、あらかじめ書いてきたノートを読んでいるだけとか、教科書に書いてあることを解説しているだけの講義というのがほとんどでしょう。
私が大学生時代に、民法の講義が終わった時に、その教授の元に行って質問しようとしましたが、そこにあったあまりにボロボロでまっ茶っ茶なノートにびっくりしてしまいました。
30年間、ずっと同じノートを読んでいるだけで、ほとんど研究らしい研究などしてこなかったのが、それで明らかになりました。
その教授は、その大学の教員を退官するまで、本を1冊しか出していなかったのです。
それも編著本で、その本の1章だけを書いただけなのです。
こんな教授でも、当時2000万円は年収でもらっていたでしょう。
なぜか?
そんないい加減な講義でも、抗議せず、退学せずに卒業までの4年間に高い学費を払い続けて通い続ける学生が大勢いるからです。
こんないい加減な教授ばかりだから、大学を辞めてやるといってやめる人は少数ながらいますが、それは全体的にはかなり少数であることは間違いないのです。
そういう人が大勢いれば、さすがにいい加減な教授はいなくなるのが必然です。
しかし、実際は日本では学問に対する畏敬の念が強く、自分が学んでいこうという気概がなくても、畏敬の念を持ち続けるパターンが全体の7割以上を占めているからこそ、こういう事態を招いてしまうのです。
私が大学に通っていた時は、1時間半の大学の講義は1コマにつき2500円くらいでした。
そんな高い学費でも、当時は1億総中流国家といわれた時代で、35年間働き続ければ誰もが必ず年収1000万円といわれていた時代だったのです。
それだけ潤沢であれば、高い学費を払い、毎月仕送り金を出してでも、大学くらいは自分の子に行かせてあげよう、という気になって、曲りなりにも行けたのだろうと思います。
しかし、今や格差社会に日本はなってしまったのです。
それでいて、今は1コマ3000円以上はするのです。
日本人の平均給与額が、当時よりも下がっているのに、大学の学費は上がっている。
こんな不条理な話しはないです。
そして、今や奨学金を借りる人は学生全体の55%にまで及ぶようです。
曲りなりにも、それで大学を卒業しても、それから後はその大きな金額の奨学金を返す生活が始まってしまう。
そこで考えてほしいのですが、1コマ3000円の価値などないことは明白でしょう。
今更ながら、そのことに気づいてしまいました。
先ほど指摘した、本で読んだ内容との参照をしてみることです。
本当に学びたいなら、そんな内容と価値が見合ってないことに莫大なお金を出すことはないでしょう。
大学の学費は、日本人の幻想によって価格競争から免れているのです。
普通不味い料理を出したらお客さんはその店に行かないのですが、大学ではいい加減な講義をしていても学生は辞めないのです。
良い内容であろうが悪い内容であろうが無批判のまま据え置かれるということです。
「大学の教授たるもの本を出して自分の研究内容を世間に問わなくてはならない」と書いたのは、私の尊敬する学者である桜井邦朋氏ですが、私はその通りと思いました。
しかし、大半の教授は本など出さないです。
なぜか?
本など出さなくても、莫大な年収が入ってくるからです。
研究などしなくても、毎年同じ講義ノートを読んでいるだけで大金が入ってくるからです(笑)。
こんな不条理な話しはないのです。
大学においてしか秘伝的な情報が学べるということはないのです。
しかし、大学での講義される内容は本を買って主体的に学ぶことで習得できるのです。
大学受験で培った現代文の能力で充分なのです。
私が敬愛してきた加藤秀俊氏(下写真)は、その友人で、大学は出ていないけれども、本を読んで学びに学んで教授と同等かそれ以上の知見を持った例を幾人もあるということを氏の『独学のすすめ』の中で書いています。
司法試験にしろ、会計士試験にしろ、高校卒でも受験できるのです。
その他、公務員試験も。
ゆえに不条理な教授をのさばらせることなく、見合ったものにお金を投資することで健やかな人生をあゆむことができるのではないでしょうか?
大学への無批判な信仰を辞めるべき時がきているような気がします。
●そんな思想内容に興味のある人は、以下の電子書籍をお勧めします。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
学問は何のために存在するか?そして、それは大学に通わずとも学べる?! (加藤秀俊)
こんにちは。
前回のページにおいて、学問は社会にある問題点を浮かび上がらせて、その内容を構造的に明らかにして、その問題点をよき方向へ舵取りしていく性質のものであると書きました。
そのためには、それについて書いた本を多くの人が読んで、それについて自覚して、日々社会生活において行動していくべきである、ということを書きました。
ゆえに、学問を学び行動する人が多ければ多いほどいいのは言うまでもないのです。
ゆえに、その学問を学ぶ場である大学においてこそ、人生上で一番心や時間にバイアスをかけて学んでほしいのですが、実際は逆なのです(笑)。
多くの人は遊び惚けていて、年末の試験にだけ時間と労力をかけて、試験後には、そこで学んだ内容については脳から雲散霧消してしまうのです。
私の通った大学は中より上のレベルでしたが、事情は一緒でした。

それについて、私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、複数の本の中で「大学生で真剣に学んでいる人は、全体の2割くらい…」ということを書いていたのです。
それをどう捉えるべきでしょうか?
私はいろいろ思索してきました。
いろんな本を読んで。
それはウィリアム.ジェイムズというアメリカの哲学者の言葉です。
それについては、このページで紹介している電子書籍を参照してほしいです。
しかし、学問は、人々をよき方向へ行動に結び付けるのを目的にしているということですが、そうでない部分もあるのです。
行動に結びつかないことであっても、読んだ人の思想を変えて、その人の人生を心温かいものに変えたり、その人の心を明るい未来に変えさせる要素を含んでいるものであることが必要です。

そういう性質をもったものでなければ、読書など必要ないでしょう。
たとえば、自分を卑下して、「自分は人から愛される資格などない」という人生観でいる人は社会内で一定数いるものです。
その人はどうしてそういう世界観を抱いてしまうのでしょうか?
それは、親から我儘な期待を受けて育ったがゆえにそうなってしまうのです。
「学校の成績は5段階評価で3以下は1つも取ったらだめだ!」とか、リトルリーグを子供がしていたら、「次の試合、必ずレギュラーを取ってこい!」とかいうような我儘な要求です。
それで子供が学校で3や2や1を取ったらこっぴどく叱るとか、子供がレギュラーを取れなかったらこっぴどく叱るなどというような我儘な要求です。
親がこういうことを何年もかけて行ってきたら、子供は自己卑下の精神をもってしまうのです。
それが社会生活や人生にいい結果をもたらすわけがないのです。
子供がそんな卑下した状態では、小さな声で話すようになり周りの人間に気味悪がられてしまうでしょうし、仕事や勉強においての生産性をあげることなどできた話しではなくなります。
何よりも卑下した状態では、生活が重く暗いものになることはないのです。

その他、いろんな弊害が出てくるのです。
それでは、このように自分を卑下した人は、どうすればいいのでしょうか?
概略で話しますが、まず「自分は人に愛される資格のある人間なんだ」というように自分の心を鼓舞するのです。
そして、少しでも自分が物事で向上したら、その際に、自分を褒めるのです。
そういう精神的な営みを長くしていくことで、いつしか自分に誇りが持てるようになるのです。
そういう精神的な営みなくして、日々の漫然たる生活だけで精神的に立ち直れることはないから注意が必要です。
やはり科学的な本が必須になります。
こういう状態から脱するのに、宗教的な行為、とくにその宗教で唱えられる経文を毎日あげていれば脱することができるなどと本気で思っている信者がいるから困ったものです(笑)
そういった手段には頼らずに、私はこういった科学的な方法こそが王道であると思っているのです。

確かに、宗教的な行為の効用は認めるのにやぶさかではないですが、すべて解決できるなどというものではないことは認識してほしいモノです。
このように、学問は、社会生活において行動に結びつけるものではなくとも、よき方向へ舵取りすることができる性質のものであることは間違いないでしょう。
谷沢永一という人が『悩みの9割は読書が解決してくれる』という本を書きましたが、まさにその通りなのです。
加藤秀俊氏も、まさにそのモラルでいるのです。
ゆえに、大学に通わなくても、本は巷に溢れているのですからそれらに頼ればいいのですし、ジャンルにこだわらずに、いろんな本を濫読していって、それを実際に生活上で行動し、精神的な覚醒を得たら、よき人生になることは間違いないのです。
●そんなスタンスに興味のある人に読んでほしい電子書籍は以下です。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
前回のページにおいて、学問は社会にある問題点を浮かび上がらせて、その内容を構造的に明らかにして、その問題点をよき方向へ舵取りしていく性質のものであると書きました。
そのためには、それについて書いた本を多くの人が読んで、それについて自覚して、日々社会生活において行動していくべきである、ということを書きました。
ゆえに、学問を学び行動する人が多ければ多いほどいいのは言うまでもないのです。
ゆえに、その学問を学ぶ場である大学においてこそ、人生上で一番心や時間にバイアスをかけて学んでほしいのですが、実際は逆なのです(笑)。
多くの人は遊び惚けていて、年末の試験にだけ時間と労力をかけて、試験後には、そこで学んだ内容については脳から雲散霧消してしまうのです。
私の通った大学は中より上のレベルでしたが、事情は一緒でした。
それについて、私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、複数の本の中で「大学生で真剣に学んでいる人は、全体の2割くらい…」ということを書いていたのです。
それをどう捉えるべきでしょうか?
私はいろいろ思索してきました。
いろんな本を読んで。
それはウィリアム.ジェイムズというアメリカの哲学者の言葉です。
それについては、このページで紹介している電子書籍を参照してほしいです。
しかし、学問は、人々をよき方向へ行動に結び付けるのを目的にしているということですが、そうでない部分もあるのです。
行動に結びつかないことであっても、読んだ人の思想を変えて、その人の人生を心温かいものに変えたり、その人の心を明るい未来に変えさせる要素を含んでいるものであることが必要です。
そういう性質をもったものでなければ、読書など必要ないでしょう。
たとえば、自分を卑下して、「自分は人から愛される資格などない」という人生観でいる人は社会内で一定数いるものです。
その人はどうしてそういう世界観を抱いてしまうのでしょうか?
それは、親から我儘な期待を受けて育ったがゆえにそうなってしまうのです。
「学校の成績は5段階評価で3以下は1つも取ったらだめだ!」とか、リトルリーグを子供がしていたら、「次の試合、必ずレギュラーを取ってこい!」とかいうような我儘な要求です。
それで子供が学校で3や2や1を取ったらこっぴどく叱るとか、子供がレギュラーを取れなかったらこっぴどく叱るなどというような我儘な要求です。
親がこういうことを何年もかけて行ってきたら、子供は自己卑下の精神をもってしまうのです。
それが社会生活や人生にいい結果をもたらすわけがないのです。
子供がそんな卑下した状態では、小さな声で話すようになり周りの人間に気味悪がられてしまうでしょうし、仕事や勉強においての生産性をあげることなどできた話しではなくなります。
何よりも卑下した状態では、生活が重く暗いものになることはないのです。
その他、いろんな弊害が出てくるのです。
それでは、このように自分を卑下した人は、どうすればいいのでしょうか?
概略で話しますが、まず「自分は人に愛される資格のある人間なんだ」というように自分の心を鼓舞するのです。
そして、少しでも自分が物事で向上したら、その際に、自分を褒めるのです。
そういう精神的な営みを長くしていくことで、いつしか自分に誇りが持てるようになるのです。
そういう精神的な営みなくして、日々の漫然たる生活だけで精神的に立ち直れることはないから注意が必要です。
やはり科学的な本が必須になります。
こういう状態から脱するのに、宗教的な行為、とくにその宗教で唱えられる経文を毎日あげていれば脱することができるなどと本気で思っている信者がいるから困ったものです(笑)
そういった手段には頼らずに、私はこういった科学的な方法こそが王道であると思っているのです。
確かに、宗教的な行為の効用は認めるのにやぶさかではないですが、すべて解決できるなどというものではないことは認識してほしいモノです。
このように、学問は、社会生活において行動に結びつけるものではなくとも、よき方向へ舵取りすることができる性質のものであることは間違いないでしょう。
谷沢永一という人が『悩みの9割は読書が解決してくれる』という本を書きましたが、まさにその通りなのです。
加藤秀俊氏も、まさにそのモラルでいるのです。
ゆえに、大学に通わなくても、本は巷に溢れているのですからそれらに頼ればいいのですし、ジャンルにこだわらずに、いろんな本を濫読していって、それを実際に生活上で行動し、精神的な覚醒を得たら、よき人生になることは間違いないのです。
●そんなスタンスに興味のある人に読んでほしい電子書籍は以下です。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
学問の存立意義とは何か?(加藤秀俊)
こんにちは。
私は、大学時代に本をたくさん読みました。
大学や科学や学問ってどういう存在意義があるのだろうという好奇心の元、いろんな本を読んでそれを確かめたかったのです。

それまでは、小説を多く読んでいましたが、科学について書いてある論文の新書を読んで、そこで書かれている明快にことを論じる筆致に興味を覚えたのです。
その結果、科学の存立意義は、社会にある問題点を構造的に明らかにして、それをよき方向へ向かわせるためにある、ということがわかりました。
例えば、自動車やバイク等を使って移動することで、排気ガスが出てしまう。
それが大気汚染や温室効果ガスを発生してしまう原因になる。
ゆえに、そういう行動をする人が少なければ少ないほどいい。
ゆえに必要最低限しか、使わないことが大事、ということを気が付いて、自分の足や自転車で移動する人が多ければ多いほどいい。
だから、自動車やバイクを使わずに自分の足か、自転車で移動することが重要ということで生活習慣を変えていく。
こういう日々漫然たる生活では、こういうことが気が付けない。
ゆえに問題点を指摘して構造的に明らかにした本を読む必要があるのです。
そういう人が多ければ多いほどいいのです。

確かに、自動車やバイクを使わなければ行けない場面も出てくるでしょう。
人類が社会生活を営む上で、自動車や飛行機などの運用手段をどうしても使わなければならない場面は多く存在します。
ゆえに全否定はしないのです。
しかし、自分の足や自転車で済ませられる場合であれば、そういう手段で済ますべきなのは言うまでもないのです。

それによって地球のために繋がるのですから。
問題点は環境以外にもいろんな場面で存在するのです。
そして人間が社会生活を営んでいくことで永続して問題点は出続けるのです。
ゆえに、多面的に学び、そしてそれを永続していかなくてはいけない性質のモノなのです。
しかし、そういう本を読み、行動することで何ら栄誉がつくわけでもなければ、お金がもらえるわけでもないのです。
ゆえに、行動にかり立てさせるのは難しい事であるのは難しい事ですが、私はやめていくつもりはないですし、多くの人がこういった科学的な本を読み、考えを覚醒させて行動に結びつけていくことを願っているのです。
大学受験までの勉強は、科学を理解するための基礎的な知識を得るための前段階であって、大学にはいったら、そこからが社会生活を営む上で最も大事なことを学ぶ場所なのですが、その大学受験で終わってしまっている人が大半なのが現実のようです。
私が大学時代に本を読んで大いに奮起した社会学者.加藤秀俊さん(下写真)は、いろんな著書で、「大学で真剣に学んでいる人は全体の2割くらいなもの…」 と書いていました。

30年以上も大学の教員をしてきた加藤氏が言っていたのですから間違いないでしょう。
それでは意味がない。
その通りですが、問題点を見出して多くの人の考えを良き方向へ変えさせ、そして行動に駆り立てさせることが重要であるならば、そういうことが書いてある本を読んだり、勉強することが好きな人は、多くの人をよき方向へ導くために日々イニシアティブを握って、規則を作ったり、人に指摘したり、そして日々自身が行動してしかなくてはならないでしょう。
会社や親族内、その他いろんな場所において。
学問はそんなためにあるのだということを知って欲しいのです。
いろんな学問についての本を読んでそんなことを考えたものです。
その内の加藤秀俊の本は大いに感銘を受けたものです。
●そんな加藤秀俊氏の偉業について書いた電子書籍を以下紹介しておきたいです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。

・加藤秀俊ホーム
私は、大学時代に本をたくさん読みました。
大学や科学や学問ってどういう存在意義があるのだろうという好奇心の元、いろんな本を読んでそれを確かめたかったのです。
それまでは、小説を多く読んでいましたが、科学について書いてある論文の新書を読んで、そこで書かれている明快にことを論じる筆致に興味を覚えたのです。
その結果、科学の存立意義は、社会にある問題点を構造的に明らかにして、それをよき方向へ向かわせるためにある、ということがわかりました。
例えば、自動車やバイク等を使って移動することで、排気ガスが出てしまう。
それが大気汚染や温室効果ガスを発生してしまう原因になる。
ゆえに、そういう行動をする人が少なければ少ないほどいい。
ゆえに必要最低限しか、使わないことが大事、ということを気が付いて、自分の足や自転車で移動する人が多ければ多いほどいい。
だから、自動車やバイクを使わずに自分の足か、自転車で移動することが重要ということで生活習慣を変えていく。
こういう日々漫然たる生活では、こういうことが気が付けない。
ゆえに問題点を指摘して構造的に明らかにした本を読む必要があるのです。
そういう人が多ければ多いほどいいのです。
確かに、自動車やバイクを使わなければ行けない場面も出てくるでしょう。
人類が社会生活を営む上で、自動車や飛行機などの運用手段をどうしても使わなければならない場面は多く存在します。
ゆえに全否定はしないのです。
しかし、自分の足や自転車で済ませられる場合であれば、そういう手段で済ますべきなのは言うまでもないのです。
それによって地球のために繋がるのですから。
問題点は環境以外にもいろんな場面で存在するのです。
そして人間が社会生活を営んでいくことで永続して問題点は出続けるのです。
ゆえに、多面的に学び、そしてそれを永続していかなくてはいけない性質のモノなのです。
しかし、そういう本を読み、行動することで何ら栄誉がつくわけでもなければ、お金がもらえるわけでもないのです。
ゆえに、行動にかり立てさせるのは難しい事であるのは難しい事ですが、私はやめていくつもりはないですし、多くの人がこういった科学的な本を読み、考えを覚醒させて行動に結びつけていくことを願っているのです。
大学受験までの勉強は、科学を理解するための基礎的な知識を得るための前段階であって、大学にはいったら、そこからが社会生活を営む上で最も大事なことを学ぶ場所なのですが、その大学受験で終わってしまっている人が大半なのが現実のようです。
私が大学時代に本を読んで大いに奮起した社会学者.加藤秀俊さん(下写真)は、いろんな著書で、「大学で真剣に学んでいる人は全体の2割くらいなもの…」 と書いていました。
30年以上も大学の教員をしてきた加藤氏が言っていたのですから間違いないでしょう。
それでは意味がない。
その通りですが、問題点を見出して多くの人の考えを良き方向へ変えさせ、そして行動に駆り立てさせることが重要であるならば、そういうことが書いてある本を読んだり、勉強することが好きな人は、多くの人をよき方向へ導くために日々イニシアティブを握って、規則を作ったり、人に指摘したり、そして日々自身が行動してしかなくてはならないでしょう。
会社や親族内、その他いろんな場所において。
学問はそんなためにあるのだということを知って欲しいのです。
いろんな学問についての本を読んでそんなことを考えたものです。
その内の加藤秀俊の本は大いに感銘を受けたものです。
●そんな加藤秀俊氏の偉業について書いた電子書籍を以下紹介しておきたいです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。

・加藤秀俊ホーム
人の心は社会によって規定される?そういうことに関心がある人は…(加藤秀俊)
こんにちは。
2023年に亡くなった社会学者,加藤秀俊(下写真)の本は私の精神にとって大きな変革を、もたらすものでした。

身の回りの事物を巧みに分析し、その分析事象を読んで読者にこれからの行方を占い、どういうおこないや言動をしていくかを脳内で自覚出来るのではないか、と思われて仕方なかったからです。
大学で習う学問とは、科学や哲学の総称ですが、その学問とは身近な事象について研究し、構造的に明らかにして、それを読んだ人が、そこに存在する問題点についてどう考えて、どう行動するかを問うものであるということがわかりました。
いろんな学問の本を読んで、そう結論せざるを得なかったです。
ゆえに誰もが学問を学び問題点を抽出した理論を知り日々の行動に結びつけなくてはらないなのではないでしょうか?
加藤秀俊の書いた本である『比較文化への視角』という本に所収の「無目標社会の論理」と題する論文には、当時書かれた60年代の日本はもうすでに工業化を達成してしまった。
ゆえに、国民全体を1つの方向へ行動づける一大動機が喪失してしまった、ということでした。
もちろん、工業はいつまでも稼働し続けるわけですが、国民のほとんどが衣食住に困らない生活になっていたがゆえに、国全体を1つのベクトルに向かわせるようなものは喪失してしまった。

それゆえに、国民の関心はバラバラで、根性論なるものはすたれていってしまう、ということでした。
その結果、日々刹那的に生きる若者があふれていってしまう結果になるのは目に見えていたのでしょう。
これには、目の覚める思いがしたものでした。
工業化を達成するまでは逆境に負けない主人公を描いた漫画なり、物語小説が人々の心に明かりを灯したものですが、工業化を達成してしまった後の社会においては、そういうものが関心を集めることは少なくなっていったのも頷けます。

その結果、どの分野においても自己目的化していっているというのだろうと思います。
工業化を達成している前の社会においては、山に登るのは自分の心を鍛えるため、という名目でしていたのが、それ以降においては、「山があるからそこに登るんだ」という国家が向かっている方向への動機付けからは離れていってしまった、ということです。
これにはかなり説得力のある論理だと思いました。
やはり社会によって、人の心は規定されるのでしょう。
人の心を捉えるものも違ってきてしまう。
経済的にあまりに恵まれすぎると、打たれ弱くなってしまう。
豊かな社会に英雄は出てこない。
そんな結果になってしまうのは目に見えてます。
そういうのを弊ととらえるならば、人とすべきことは何か。
やはり妥当な教育でしょう。

自分の子が、経済的に不自由しなくなれば、ハングリー精神を失い、打たれ弱くなってしまうのであることが、こういった社会学的な面からも明らかならば、やはり厳しく教育をしなくてはならない。
何から何まで与えてしまうのは精神的にもよろしくない。
適度にあげて、適度にあげないという工夫が大事でしょう。
しかし、難しいのは子供だけに厳しくしているだけでは、子供に健全な精神を植え付けることはできません。
その際に励ましながら教育するのがいいのか?
貶すだけでいいのか?
それには多面的な検証が必須です。
いろんな人と会い、接する中で検証を試みるのがいいでしょう。
ゆえに誰もが、大学時代にバイトをしていくのは良い手段だと思います。

ゆえに、私は勉強だけの生活には反対なのです。
そして、学問を修める際にも、1つの専門だけに拘るのは学問のアプローチとして加藤氏は反対していますし、私も反対です。
実際の社会生活においても、1つの面だけを見てこれが妥当と思われるものだけに拘るのも反対です。
いろんな方法や意見を聞きながら取り入れて柔軟に対応していくのがいいでしょう。
それによって王道が見えてくるのは、これまでの生活で明らかだからです。
やはり王道は、どの世界においても一致しているように感じます。
1つの面だけからアプローチしない、ということです。
そしてその検証と行動は永続していかなくてはいけないものなのです。
学問とは何も難しいものではなく、日々の生活や社会を良くしていくためのモノなのです。
そういうことに関心のある人には、加藤秀俊の思想には是非とも触れて、覚醒し日々の生活を生き生きとしたものに変えていってほしいものです。
●そんな論旨に興味のある人にうってつけな電子書籍は以下です。
おすすめです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終了します。
では失礼いたします。
加藤秀俊ホーム
2023年に亡くなった社会学者,加藤秀俊(下写真)の本は私の精神にとって大きな変革を、もたらすものでした。
身の回りの事物を巧みに分析し、その分析事象を読んで読者にこれからの行方を占い、どういうおこないや言動をしていくかを脳内で自覚出来るのではないか、と思われて仕方なかったからです。
大学で習う学問とは、科学や哲学の総称ですが、その学問とは身近な事象について研究し、構造的に明らかにして、それを読んだ人が、そこに存在する問題点についてどう考えて、どう行動するかを問うものであるということがわかりました。
いろんな学問の本を読んで、そう結論せざるを得なかったです。
ゆえに誰もが学問を学び問題点を抽出した理論を知り日々の行動に結びつけなくてはらないなのではないでしょうか?
加藤秀俊の書いた本である『比較文化への視角』という本に所収の「無目標社会の論理」と題する論文には、当時書かれた60年代の日本はもうすでに工業化を達成してしまった。
ゆえに、国民全体を1つの方向へ行動づける一大動機が喪失してしまった、ということでした。
もちろん、工業はいつまでも稼働し続けるわけですが、国民のほとんどが衣食住に困らない生活になっていたがゆえに、国全体を1つのベクトルに向かわせるようなものは喪失してしまった。
それゆえに、国民の関心はバラバラで、根性論なるものはすたれていってしまう、ということでした。
その結果、日々刹那的に生きる若者があふれていってしまう結果になるのは目に見えていたのでしょう。
これには、目の覚める思いがしたものでした。
工業化を達成するまでは逆境に負けない主人公を描いた漫画なり、物語小説が人々の心に明かりを灯したものですが、工業化を達成してしまった後の社会においては、そういうものが関心を集めることは少なくなっていったのも頷けます。
その結果、どの分野においても自己目的化していっているというのだろうと思います。
工業化を達成している前の社会においては、山に登るのは自分の心を鍛えるため、という名目でしていたのが、それ以降においては、「山があるからそこに登るんだ」という国家が向かっている方向への動機付けからは離れていってしまった、ということです。
これにはかなり説得力のある論理だと思いました。
やはり社会によって、人の心は規定されるのでしょう。
人の心を捉えるものも違ってきてしまう。
経済的にあまりに恵まれすぎると、打たれ弱くなってしまう。
豊かな社会に英雄は出てこない。
そんな結果になってしまうのは目に見えてます。
そういうのを弊ととらえるならば、人とすべきことは何か。
やはり妥当な教育でしょう。
自分の子が、経済的に不自由しなくなれば、ハングリー精神を失い、打たれ弱くなってしまうのであることが、こういった社会学的な面からも明らかならば、やはり厳しく教育をしなくてはならない。
何から何まで与えてしまうのは精神的にもよろしくない。
適度にあげて、適度にあげないという工夫が大事でしょう。
しかし、難しいのは子供だけに厳しくしているだけでは、子供に健全な精神を植え付けることはできません。
その際に励ましながら教育するのがいいのか?
貶すだけでいいのか?
それには多面的な検証が必須です。
いろんな人と会い、接する中で検証を試みるのがいいでしょう。
ゆえに誰もが、大学時代にバイトをしていくのは良い手段だと思います。
ゆえに、私は勉強だけの生活には反対なのです。
そして、学問を修める際にも、1つの専門だけに拘るのは学問のアプローチとして加藤氏は反対していますし、私も反対です。
実際の社会生活においても、1つの面だけを見てこれが妥当と思われるものだけに拘るのも反対です。
いろんな方法や意見を聞きながら取り入れて柔軟に対応していくのがいいでしょう。
それによって王道が見えてくるのは、これまでの生活で明らかだからです。
やはり王道は、どの世界においても一致しているように感じます。
1つの面だけからアプローチしない、ということです。
そしてその検証と行動は永続していかなくてはいけないものなのです。
学問とは何も難しいものではなく、日々の生活や社会を良くしていくためのモノなのです。
そういうことに関心のある人には、加藤秀俊の思想には是非とも触れて、覚醒し日々の生活を生き生きとしたものに変えていってほしいものです。
●そんな論旨に興味のある人にうってつけな電子書籍は以下です。
おすすめです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終了します。
では失礼いたします。
加藤秀俊ホーム
大学生としての資質とはどういうものか?加藤秀俊の理論から考える。
こんにちは。
私が大学時代に、ある1冊の本を読んで、その著者の本を数冊古本屋で買い、その後、財布の事情が許す限り、本屋に取り寄せを頼んで買ってしまったことがありました。
その著者は加藤秀俊(下写真)という社会学者です。

惜しむらくは、この人は2024年に亡くなってしまいましたが…。
その肩書から、その専門は社会学、ということになりますが、加藤氏は、社会学のみならず、いろんな学問に好奇心の赴くまま本を読み、勉強を修めて、本を書き、講演をこなしてきたのです。
彼は1日に1冊という読書を大学時代に課したことがわかったのです。
その著『独学のすすめ』で知ることができました。
こういう行為は強制によってできることではないのです。
人と比べてではなく、それをする段かいになった時に、おのずとそういう行動においてやりこんでしまい、気が付いたら閉館の時間になってしまっていた。
そういうものが人生生活において見つけれて、それを生業にできたらそれはそれは素敵な人生でしょう。

そういう事を大学の勉学において学生のだれもがしていくのが当然、と私は思っていたのです。
「大学に入るのを希望して大学に入ったのだから誰もが、勉強好きで当然」…そんなことを思っていました。
しかし、私の通った大学は、レベル的には真ん中よりも上であったにもかかわらず、誰もが遊びほうけている。
これでは、汗水たらして働き、お金を貯めて、それを払い、子供を大学に行かせてあげているお母さん、お父さんへの不幸者たちめが!と怒りを心に燃え上がらせていたのです(笑)。
こんな学生ばかりでは日本の未来は暗い…そんなことを思っていましたが、それは杞憂と思っていいのでしょう。
かなりの文字好き、読書好きの加藤秀俊氏によって本から抽出された理論によって、どうしてこういう事象になってしまうのかが知ることができました。
文字好き、文字嫌い、その違いは生まれ持っての資質にあるのです。
だから、学業をおろそかにしてもいたしかたない、とその理論を知ることで、私はその怒りを鎮静し消去することができました。
しかし、当時は、団塊の世代といわれる親御さんの世代の息子や娘が大学に行く時代。
その世代は、日本のほぼ全員が高収入に恵まれていた時代だったから、それでも良かったのです。
しかし、今や格差社会。

そんな時代であるにもかかわらず、大学の学費は上がっているのです。
1コマ1時間半で3000円はするでしょうか?
しかし、大学在学中に気づいていればよかったですが、そんな価値が大学の講義にあるか?
絶対にないです(笑)。
Fランなる大学ランク付けの言葉は、私の時代にはなかったですが、そういうレベルの大学になればなるほど、学費はもっと高くなるのです。
そういうこと(=大学に行って学ぶ)をする必要はあるか?
全然ないです。

対費用効果の面でも、大学教授たちをのさばらせるという面でも全然意味がないです(笑)。
大学に行くことによってしか得れなかったものがあった時代においては、高いお金を払ってでも行くべきでだったしょうが、今はそんな時代ではないのです。
各種公務員試験、司法試験、会計士試験…etcは、昔は大学を卒業しなくては行けなかった時代があったようですが、今や大学に行かなくても試験は誰でも受けて合格する時代になったのです。
だから無理やり行く必要はないでしょう。
もちろん、これは文系大学のみの話しですし、理系の職業で大学を卒業しなくては資格を取れないものはこの限りではありませんが。
では昨今において大学の勉強をどのようにとらえればよいでしょうか?
以下の電子書籍をお読みくださいませ!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。
失礼いたします。
私が大学時代に、ある1冊の本を読んで、その著者の本を数冊古本屋で買い、その後、財布の事情が許す限り、本屋に取り寄せを頼んで買ってしまったことがありました。
その著者は加藤秀俊(下写真)という社会学者です。
惜しむらくは、この人は2024年に亡くなってしまいましたが…。
その肩書から、その専門は社会学、ということになりますが、加藤氏は、社会学のみならず、いろんな学問に好奇心の赴くまま本を読み、勉強を修めて、本を書き、講演をこなしてきたのです。
彼は1日に1冊という読書を大学時代に課したことがわかったのです。
その著『独学のすすめ』で知ることができました。
こういう行為は強制によってできることではないのです。
人と比べてではなく、それをする段かいになった時に、おのずとそういう行動においてやりこんでしまい、気が付いたら閉館の時間になってしまっていた。
そういうものが人生生活において見つけれて、それを生業にできたらそれはそれは素敵な人生でしょう。
そういう事を大学の勉学において学生のだれもがしていくのが当然、と私は思っていたのです。
「大学に入るのを希望して大学に入ったのだから誰もが、勉強好きで当然」…そんなことを思っていました。
しかし、私の通った大学は、レベル的には真ん中よりも上であったにもかかわらず、誰もが遊びほうけている。
これでは、汗水たらして働き、お金を貯めて、それを払い、子供を大学に行かせてあげているお母さん、お父さんへの不幸者たちめが!と怒りを心に燃え上がらせていたのです(笑)。
こんな学生ばかりでは日本の未来は暗い…そんなことを思っていましたが、それは杞憂と思っていいのでしょう。
かなりの文字好き、読書好きの加藤秀俊氏によって本から抽出された理論によって、どうしてこういう事象になってしまうのかが知ることができました。
文字好き、文字嫌い、その違いは生まれ持っての資質にあるのです。
だから、学業をおろそかにしてもいたしかたない、とその理論を知ることで、私はその怒りを鎮静し消去することができました。
しかし、当時は、団塊の世代といわれる親御さんの世代の息子や娘が大学に行く時代。
その世代は、日本のほぼ全員が高収入に恵まれていた時代だったから、それでも良かったのです。
しかし、今や格差社会。
そんな時代であるにもかかわらず、大学の学費は上がっているのです。
1コマ1時間半で3000円はするでしょうか?
しかし、大学在学中に気づいていればよかったですが、そんな価値が大学の講義にあるか?
絶対にないです(笑)。
Fランなる大学ランク付けの言葉は、私の時代にはなかったですが、そういうレベルの大学になればなるほど、学費はもっと高くなるのです。
そういうこと(=大学に行って学ぶ)をする必要はあるか?
全然ないです。
対費用効果の面でも、大学教授たちをのさばらせるという面でも全然意味がないです(笑)。
大学に行くことによってしか得れなかったものがあった時代においては、高いお金を払ってでも行くべきでだったしょうが、今はそんな時代ではないのです。
各種公務員試験、司法試験、会計士試験…etcは、昔は大学を卒業しなくては行けなかった時代があったようですが、今や大学に行かなくても試験は誰でも受けて合格する時代になったのです。
だから無理やり行く必要はないでしょう。
もちろん、これは文系大学のみの話しですし、理系の職業で大学を卒業しなくては資格を取れないものはこの限りではありませんが。
では昨今において大学の勉強をどのようにとらえればよいでしょうか?
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ありがとうございました。
失礼いたします。
いかに素晴らしい教えでも、その国全体に即座にいきわたらせることはできないという人類の教訓!(幸福の科学)
こんにちは。
古今東西を問わず、人間社会には、人智を超えた存在に対する畏敬の念や、それに願いを込める行為は、存在せざるを得ないような気がします。
人間の力だけでは、社会にある問題点を改善することなどできた話ではないからです。
日本の仏教でいえば、日蓮系の宗派では毎日「南無妙法蓮華経」と唱えて、問題点の打開を図ることを目的にしているようです。

逆に浄土系では「南無阿弥陀仏」と唱えるのですが、それは決して、その行為によって現状を打破するのではなく、よくなったらその結果は阿弥陀仏のおかげという意味で、そう唱えるのです。
日蓮系と浄土系は、ほとんど逆な発想になっているようです。
私はどちらにつくでもなく、それぞれの人が、自分の支持する方を支持すればいいじゃないか、としているのです。
私が、どの人にいって、そのほとんどの人を改宗させることなどできない、としているモラルなので、唱えれば何とかなる、という考えにはならないですね。
だからといって、逆にうまくいったら、それは阿弥陀仏のおかげというようにも考えれないですね。
私はあの世になど行けないですし、その阿弥陀仏のおかげかどうかも判断しようがないのですから。
いわばどっちつかずですね(笑)。
どちらにするべきか?
どの程度中道をいくべきか、というその具合は人よって違うし、自分で見極めなくてはいけないので、その程度はこれから答えを見つけていく所存です。
これまで取り上げてきた幸福の科学のスタンスは、前者、つまり日蓮系に近い気がします。
自身のみの周りは思想と行動によって変えていかなくてはならないとする立場ですね。
その総裁だった故.大川隆法氏(下写真)は、死ぬまでに10万冊もの本を読んできたということもあり、その中に当然、政治に関する本も無数に読んできたことでしょう。

長年にわたる官僚機構が大手をふるってきたので、日本の現状が打破できない。
それを野放しにしたままではいけないが、既得権益を守ろうとするのはどの世界でも一緒で、やはり政権交代を目指さなくてはいけないと感じたのでしょう。
かといって、それを他の政党にゆだねるのを待つもので期待できない。
それに支えられているたの野党を選ぶにも、日々の仕事や娯楽や遊びに忙しく、政治になどかまっている時間のない国民にも期待できない。
当然、その国民に直接民主制を期待することなど無理としたのでしょう。
そこで大川総裁は自分の宗教から政党をつくった。
そして自身が総理になるとしたのでしょう。
しかし、同じように宗教をバックにして結党した公明党にしろ、国会議員として当選するまでに30年も必要だったのです。

それがいきなり、結党から5年もたっていない宗教団体をバックにしてできた政党には不可能だったのでしょう。
これまで、今だに幸福の科学のバックでできた幸福実現党からは国会議員が選出されていないのです。
地方議員は幾人も出ているようですが。
エリートに任せるのが政治…これは、国民主権の世の中では聞こえの悪い言葉ですが、事実です。
何も知らない、政治について勉強していない人に政治など任せられることではないのです。
大川総裁自身は東大法学部を出ているし、日々、政治に関する情報は入手して、政治の大家といえるほどの理論も持っている。
開宗からわずか30年なのに、世界160か国以上に、自分の興した宗教が広がっている。
それならば、自分がこの日本の舵を執るとしたのだろうことは頷けます。
しかし、どんな素晴らしい人でも、いきなり国中の認識を一変させることはできた話ではないのです。
その大川総裁のスタンスと私は共通する場面があったのは事実です。

大学時代に、科学は現状をよくするためにあるのだとわかりました。
現状打破のためには、多くの人が科学を学び行動につなげなくてはならない。
しかし、最高学府に通いながら遊び呆ける大学生たちを見ながら、これでは打破も何もない…として、現状を嘆いていたのです私は。
大学時代に、都市人類の冷たさをドキュメントした本を読むと、その感情がさらに盛り上がり、そして周りの人間への憎しみに変わったのです。
しかし、世の中を見るにつれて、そういう現状打破の気持ちを持つのはいいが、科学を学んでいる人だけで世の中は成り立っているわけではないし、その周りの人間の人の能力によって自分は生かされているということを知って、自分の考えを改めました。
それに社会主義の歴史を見てもわかるように、上から強制させても国全体の文化を変えることはできないのです。

主体性は、その人その人によって千差万別であって、政治に興味ある人もいれば、いない人もいる。
その興味の程度は、全然違うのです。
ゆえに、構成員全員がこう進まなくてはならないと意気込むのはいいですが、望む通りにはならない、ということがわかります。
そこで思い起こす言葉があります。
ロバート.キヨサキ(下写真)の言葉ですが、ロバートはこういいました。

「自分が金持ちになろうと思ったら政治に期待するのではなく、自分が金持ちになる努力をした方が早い。」
これは至言です。
もちろん、宗教に願うのも同じでしょう。
自分が金持ちになりたかったら、宗教に願うのではなく自分が金持ちになるように行動したほうが早いのでしょう。
こういった本などからも得られる思想なども、受け入れながら、自分の哲学を形成することもかなり重要でしょう。
もちろん宗教からも得れるものはありますが、それだけに依拠していてはいけませんね。
そんな立場に共鳴できる人には以下の電子書籍はお勧めです。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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古今東西を問わず、人間社会には、人智を超えた存在に対する畏敬の念や、それに願いを込める行為は、存在せざるを得ないような気がします。
人間の力だけでは、社会にある問題点を改善することなどできた話ではないからです。
日本の仏教でいえば、日蓮系の宗派では毎日「南無妙法蓮華経」と唱えて、問題点の打開を図ることを目的にしているようです。

逆に浄土系では「南無阿弥陀仏」と唱えるのですが、それは決して、その行為によって現状を打破するのではなく、よくなったらその結果は阿弥陀仏のおかげという意味で、そう唱えるのです。
日蓮系と浄土系は、ほとんど逆な発想になっているようです。
私はどちらにつくでもなく、それぞれの人が、自分の支持する方を支持すればいいじゃないか、としているのです。
私が、どの人にいって、そのほとんどの人を改宗させることなどできない、としているモラルなので、唱えれば何とかなる、という考えにはならないですね。
だからといって、逆にうまくいったら、それは阿弥陀仏のおかげというようにも考えれないですね。
私はあの世になど行けないですし、その阿弥陀仏のおかげかどうかも判断しようがないのですから。
いわばどっちつかずですね(笑)。
どちらにするべきか?
どの程度中道をいくべきか、というその具合は人よって違うし、自分で見極めなくてはいけないので、その程度はこれから答えを見つけていく所存です。
これまで取り上げてきた幸福の科学のスタンスは、前者、つまり日蓮系に近い気がします。
自身のみの周りは思想と行動によって変えていかなくてはならないとする立場ですね。
その総裁だった故.大川隆法氏(下写真)は、死ぬまでに10万冊もの本を読んできたということもあり、その中に当然、政治に関する本も無数に読んできたことでしょう。
長年にわたる官僚機構が大手をふるってきたので、日本の現状が打破できない。
それを野放しにしたままではいけないが、既得権益を守ろうとするのはどの世界でも一緒で、やはり政権交代を目指さなくてはいけないと感じたのでしょう。
かといって、それを他の政党にゆだねるのを待つもので期待できない。
それに支えられているたの野党を選ぶにも、日々の仕事や娯楽や遊びに忙しく、政治になどかまっている時間のない国民にも期待できない。
当然、その国民に直接民主制を期待することなど無理としたのでしょう。
そこで大川総裁は自分の宗教から政党をつくった。
そして自身が総理になるとしたのでしょう。
しかし、同じように宗教をバックにして結党した公明党にしろ、国会議員として当選するまでに30年も必要だったのです。

それがいきなり、結党から5年もたっていない宗教団体をバックにしてできた政党には不可能だったのでしょう。
これまで、今だに幸福の科学のバックでできた幸福実現党からは国会議員が選出されていないのです。
地方議員は幾人も出ているようですが。
エリートに任せるのが政治…これは、国民主権の世の中では聞こえの悪い言葉ですが、事実です。
何も知らない、政治について勉強していない人に政治など任せられることではないのです。
大川総裁自身は東大法学部を出ているし、日々、政治に関する情報は入手して、政治の大家といえるほどの理論も持っている。
開宗からわずか30年なのに、世界160か国以上に、自分の興した宗教が広がっている。
それならば、自分がこの日本の舵を執るとしたのだろうことは頷けます。
しかし、どんな素晴らしい人でも、いきなり国中の認識を一変させることはできた話ではないのです。
その大川総裁のスタンスと私は共通する場面があったのは事実です。
大学時代に、科学は現状をよくするためにあるのだとわかりました。
現状打破のためには、多くの人が科学を学び行動につなげなくてはならない。
しかし、最高学府に通いながら遊び呆ける大学生たちを見ながら、これでは打破も何もない…として、現状を嘆いていたのです私は。
大学時代に、都市人類の冷たさをドキュメントした本を読むと、その感情がさらに盛り上がり、そして周りの人間への憎しみに変わったのです。
しかし、世の中を見るにつれて、そういう現状打破の気持ちを持つのはいいが、科学を学んでいる人だけで世の中は成り立っているわけではないし、その周りの人間の人の能力によって自分は生かされているということを知って、自分の考えを改めました。
それに社会主義の歴史を見てもわかるように、上から強制させても国全体の文化を変えることはできないのです。
主体性は、その人その人によって千差万別であって、政治に興味ある人もいれば、いない人もいる。
その興味の程度は、全然違うのです。
ゆえに、構成員全員がこう進まなくてはならないと意気込むのはいいですが、望む通りにはならない、ということがわかります。
そこで思い起こす言葉があります。
ロバート.キヨサキ(下写真)の言葉ですが、ロバートはこういいました。
「自分が金持ちになろうと思ったら政治に期待するのではなく、自分が金持ちになる努力をした方が早い。」
これは至言です。
もちろん、宗教に願うのも同じでしょう。
自分が金持ちになりたかったら、宗教に願うのではなく自分が金持ちになるように行動したほうが早いのでしょう。
こういった本などからも得られる思想なども、受け入れながら、自分の哲学を形成することもかなり重要でしょう。
もちろん宗教からも得れるものはありますが、それだけに依拠していてはいけませんね。
そんな立場に共鳴できる人には以下の電子書籍はお勧めです。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯科学
♯ロバート.キヨサキ
幸福の科学は創価のように大宗教団体になりうるか?ウィリアム.ジェイムズの導き出した真理を元に考察する! (幸福の科学)
こんにちは。
人間精神を大きく俯瞰して論じる場合に大事なのは、アメリカの哲学者であったウィリアム.ジェイムズ(下写真)の言葉です。

彼は、「かたい心」と「やわらかい心」という2つの人間類型を挙げています。
この2つが人間社会に大きく分けて分類されるとしていたのです。
「かたい心」とは、リンゴでも、みかんでも、バナナでも、パインでもいい。
その間に序列をつけたり、関係づけたりするのではなく、いろんなものが並列的状態にあるというように、多元的に捉える思想です。
それに対して、「やわらかい心」は、この世は最終的に1つの絶対価値に収斂して、その体系の中に諸々のものがちりばめられているというように世界を一元的に捉える思想です。
前者が八百万の神々が併存する日本と、紙は1つとするキリスト教やイスラム教という違いになる。
「かたい心」の人は、当然ながらものごとを断片的に捉え、その断片1つ1つに意味があるという立場をとる。
それに対して、「やわらかい心」の人は、1つ1つの情報や事柄が大きな体系の中に組み込まれていないと満足しない。
体系の中に組み込めないものは無意味として排除して、理論や体系というものに関連させている。
いわば多元論者は相対的、一元論者は絶対的と言える。
この分析からすると、「かたい心」と「やわらかい心」の2つは形容の仕方が逆のような気もしますが、とにかくウィリアム.ジェイムズはこのように分析しているのです。
立場上の違いから察せるように、「かたい心」の人は文字好き、「やわらかい心」の人は文字嫌いという結果になってくるでしょう。
そして、ウィリアム.ジェイムズによれば、後者の方が多数派であるということです。

これで私は目が覚める思いがしたのです。
日本の大学では、多くの人が講義をさぼり、年末の試験時にしか勉学に勤しまない理由がわかった気がして。
全国の大学生のアンケート調査で、自分が登録した講義に100%出席している人は、1割前後という結果をみて、大学生当時には驚きましたが、いまとなっては納得のいく内容だったのです。
世間の大半が文字嫌いゆえにこういう結果になるのでしょう。
そうなると、今後の宗教の発展を考えるには、このウィリアム.ジェイムズの理論を引き合いに出して考えなくてはならないだろうことは間違いないです。
ウィリアム.ジェイムズのいったことが古今東西、そしてこれからも変わらぬ真理ならば、創価学会のような大宗教団体に幸福の科学はなりえないのではないか?と思われてならないのです。

いや、創価学会に限らず、他のいろんな宗教を見ていくと、たいていの宗教の信者たちは、その宗教の事しか勉強しないのです。
「この宗教以外の宗教や分野について何か本を読んでいますか?」という質問に対して、「1冊も読んでない」とか、読んでも「2冊か3冊」という答えがほとんどです。
それはひとえに文字嫌いだからでしょう。
好きならば、主体的に本を買って読んでいくのが普通です。
しかし、その宗教が発行している新聞や冊子しか読まないのであれば、物事を広く深く認識して等閑視することはできないのは言うまでもないのです。
異なる2つの立場があるとします。
2者の意見をまず聞くのが王道です。
1者の意見しか聞かないのは論外です。
こういうモラルで私はいますから、2者の意見を聞きます。
するとそれぞれ言い分があるのがわかりますから、どちらか一方に偏ることはないのです。
それぞれが互いをくまなく観察すれば、それぞれの言い分を尊重することができます。
ゆえに、それぞれ一長一短なのがわかりますから、毎回どちらか一方に必ず与することはないのです。

そういうように人生を生きてきましたから、ある1つの宗教だけに拘るということが出来なかったのです。
母の友人の勧めで創価学会にはいるように言われました。
その際にその人が言うに「創価学会こそが世界最高峰の宗教だ」ということです。
世界最高峰の宗教がどれだけ素晴らしいのか見てみたくて、入会し、新聞も取り、会合も参加しましたが、最高峰などとんでもなかったです(笑)。
毎回毎回話される内容は一緒だし、学ぶものがないと判断した私は3か月で飽きました(笑)。
しかし不思議だったのは、「創価学会員はなぜ毎回毎回おなじことしか話されていないのに、新聞を永遠に取り続け、会合も欠かさずに出席しているんだろう?」ということです。
しかし、ウィリアム.ジェイムズの言葉を知って目が覚める思いがしました。
「世のなかの大半の人は文字嫌いなんだ。
だから毎回毎回同じようなことしか言っていない新聞を読み、会合を聞いている方が大抵の人は心地がいいのだろう。そういう多数派を取り込めることに成功したから創価は大きくなったんだ!」ということです。

そのことを創価学会の当局は認知しているからこそ、新聞で毎回毎回同じことしか書かない。
しかし、それでは満足しない私ですから、決然と創価からは距離を置くことにしました。
こういう立場の違いは生まれもって決まっているのですから、教育によって矯正できる筋合いのものではないのです。
ゆえにわたしは決然と、自分の立場を守ろうと決意したのです。
創価の大半の人はやわらかい心の持ち主ですから、自分とは異なる立場の人の意見をくまなく聞く努力が見られないのです。
創価に敵対する人がいても、その人の意見をくまなくきこうとはしない。
自分と一緒の立場の意見しか聞かないで終わっているのが大半のパターンなのです。
これでは真理に到達するわけはないのです。
しかし、それで満足してしてしまっている。
創価のバックでできた公明党の議員の意見しか聞かずに選挙に行って、その議員に投票する。
私は、公明党議員だけがいいことを言っているわけではないのですから、立候補者全部の意見を読みます。
それで支持したいと思えた議員に投票する、というのがこれまで貫いてきた姿勢です。
創価の人は、選挙前になるとしきりに、「公明党議員に入れてくれ」と電話をかけてきたり、家の前にきて依頼してきたりしますが、公明党議員にいれるかどうかは、自分の脳みそで判断するとしているのです。
これは、思想信条の自由ということでしょう。
こういうスタンスに共鳴できる人や、興味ある人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
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今回はこれにて終了します。
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♯創価学会
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人間精神を大きく俯瞰して論じる場合に大事なのは、アメリカの哲学者であったウィリアム.ジェイムズ(下写真)の言葉です。
彼は、「かたい心」と「やわらかい心」という2つの人間類型を挙げています。
この2つが人間社会に大きく分けて分類されるとしていたのです。
「かたい心」とは、リンゴでも、みかんでも、バナナでも、パインでもいい。
その間に序列をつけたり、関係づけたりするのではなく、いろんなものが並列的状態にあるというように、多元的に捉える思想です。
それに対して、「やわらかい心」は、この世は最終的に1つの絶対価値に収斂して、その体系の中に諸々のものがちりばめられているというように世界を一元的に捉える思想です。
前者が八百万の神々が併存する日本と、紙は1つとするキリスト教やイスラム教という違いになる。
「かたい心」の人は、当然ながらものごとを断片的に捉え、その断片1つ1つに意味があるという立場をとる。
それに対して、「やわらかい心」の人は、1つ1つの情報や事柄が大きな体系の中に組み込まれていないと満足しない。
体系の中に組み込めないものは無意味として排除して、理論や体系というものに関連させている。
いわば多元論者は相対的、一元論者は絶対的と言える。
この分析からすると、「かたい心」と「やわらかい心」の2つは形容の仕方が逆のような気もしますが、とにかくウィリアム.ジェイムズはこのように分析しているのです。
立場上の違いから察せるように、「かたい心」の人は文字好き、「やわらかい心」の人は文字嫌いという結果になってくるでしょう。
そして、ウィリアム.ジェイムズによれば、後者の方が多数派であるということです。
これで私は目が覚める思いがしたのです。
日本の大学では、多くの人が講義をさぼり、年末の試験時にしか勉学に勤しまない理由がわかった気がして。
全国の大学生のアンケート調査で、自分が登録した講義に100%出席している人は、1割前後という結果をみて、大学生当時には驚きましたが、いまとなっては納得のいく内容だったのです。
世間の大半が文字嫌いゆえにこういう結果になるのでしょう。
そうなると、今後の宗教の発展を考えるには、このウィリアム.ジェイムズの理論を引き合いに出して考えなくてはならないだろうことは間違いないです。
ウィリアム.ジェイムズのいったことが古今東西、そしてこれからも変わらぬ真理ならば、創価学会のような大宗教団体に幸福の科学はなりえないのではないか?と思われてならないのです。
いや、創価学会に限らず、他のいろんな宗教を見ていくと、たいていの宗教の信者たちは、その宗教の事しか勉強しないのです。
「この宗教以外の宗教や分野について何か本を読んでいますか?」という質問に対して、「1冊も読んでない」とか、読んでも「2冊か3冊」という答えがほとんどです。
それはひとえに文字嫌いだからでしょう。
好きならば、主体的に本を買って読んでいくのが普通です。
しかし、その宗教が発行している新聞や冊子しか読まないのであれば、物事を広く深く認識して等閑視することはできないのは言うまでもないのです。
異なる2つの立場があるとします。
2者の意見をまず聞くのが王道です。
1者の意見しか聞かないのは論外です。
こういうモラルで私はいますから、2者の意見を聞きます。
するとそれぞれ言い分があるのがわかりますから、どちらか一方に偏ることはないのです。
それぞれが互いをくまなく観察すれば、それぞれの言い分を尊重することができます。
ゆえに、それぞれ一長一短なのがわかりますから、毎回どちらか一方に必ず与することはないのです。

そういうように人生を生きてきましたから、ある1つの宗教だけに拘るということが出来なかったのです。
母の友人の勧めで創価学会にはいるように言われました。
その際にその人が言うに「創価学会こそが世界最高峰の宗教だ」ということです。
世界最高峰の宗教がどれだけ素晴らしいのか見てみたくて、入会し、新聞も取り、会合も参加しましたが、最高峰などとんでもなかったです(笑)。
毎回毎回話される内容は一緒だし、学ぶものがないと判断した私は3か月で飽きました(笑)。
しかし不思議だったのは、「創価学会員はなぜ毎回毎回おなじことしか話されていないのに、新聞を永遠に取り続け、会合も欠かさずに出席しているんだろう?」ということです。
しかし、ウィリアム.ジェイムズの言葉を知って目が覚める思いがしました。
「世のなかの大半の人は文字嫌いなんだ。
だから毎回毎回同じようなことしか言っていない新聞を読み、会合を聞いている方が大抵の人は心地がいいのだろう。そういう多数派を取り込めることに成功したから創価は大きくなったんだ!」ということです。

そのことを創価学会の当局は認知しているからこそ、新聞で毎回毎回同じことしか書かない。
しかし、それでは満足しない私ですから、決然と創価からは距離を置くことにしました。
こういう立場の違いは生まれもって決まっているのですから、教育によって矯正できる筋合いのものではないのです。
ゆえにわたしは決然と、自分の立場を守ろうと決意したのです。
創価の大半の人はやわらかい心の持ち主ですから、自分とは異なる立場の人の意見をくまなく聞く努力が見られないのです。
創価に敵対する人がいても、その人の意見をくまなくきこうとはしない。
自分と一緒の立場の意見しか聞かないで終わっているのが大半のパターンなのです。
これでは真理に到達するわけはないのです。
しかし、それで満足してしてしまっている。
創価のバックでできた公明党の議員の意見しか聞かずに選挙に行って、その議員に投票する。
私は、公明党議員だけがいいことを言っているわけではないのですから、立候補者全部の意見を読みます。
それで支持したいと思えた議員に投票する、というのがこれまで貫いてきた姿勢です。
創価の人は、選挙前になるとしきりに、「公明党議員に入れてくれ」と電話をかけてきたり、家の前にきて依頼してきたりしますが、公明党議員にいれるかどうかは、自分の脳みそで判断するとしているのです。
これは、思想信条の自由ということでしょう。
こういうスタンスに共鳴できる人や、興味ある人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
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『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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いくらカリスマ的な開祖でも過ちは犯した。ゆえに無批判でいいわけはない?(幸福の科学)
こんにちは。
幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏は、宏洋氏(下写真)という不肖の息子と和解できないままこの世を去りました。

その内容については、前に書いた記事にありますが、どうも、現代人は、親に対するスタンスというか、必然的に求めてしまう人間像は、朝起きて、ごはんを食べて、出社する親の姿を見ることによって健全な精神を身に着けることができる、という状態のようです。
出社せずに、家にいたまま、本や雑誌や新聞を読んで過ごしている父親を見て育つと、その子は不健全な精神を身に着けてしまうようです。
大学教授、塾講師、アトリエ講師、芸術家…こういった職業の人達は、朝起きて出社しなくてもよく、最悪の場合寝ていてもいいのですか。
しかし、そういう親を見て育つと、子供は健全な精神を身に着けることはできずにいるパターンを散見することができるのではないでしょうか?
大川総裁もそういう日常を送っていたことは間違いなさそうです。
私の中学時代に、同級生で父親を大学教授にもつ男子がいましたが、どうもその人は、クラス一丸となって共同制作をしなければならないことがあると、非常にばかばかしく感じて、まじめにその共同作業をしている周りの人間を見下していましたし、いつも校則違反のシャツや靴下を着けて、帰宅までの道のりにおいて、校則違反だった買い食いをしていました。
そういう例ってよくありますね?
宏洋氏もまさにそういう精神になってしまっていたのです。
その心理的なメカニズムは、精神分析学者である日本が誇る小此木啓吾氏の本を読めば、一目瞭然でした。
かなりの読書家だった大川隆法氏(下写真)も、この人の本を読んでいた可能性はかなり高いのですが、こと宏洋氏への教育の際には、すっかり忘れてしまっていたのでしょう。

あるいは、子供の教育は生涯においてぶっつけ本番なニュアンスがあり、むやみに批判すべき筋合いのものではないのでしょうが、過ちについては敢然と認識しなければならなかったのは言うまでもないでしょう。
出社せずに、家で何やら本や雑誌や新聞などを読み、書き物もしている。
そういう親を見ると、子供は親が楽して生きているとしか見えないのですね。
そういう規律のなさが精神に伝播して、規律ある生活を送れなくなってしまう。
幸福の科学に反旗を翻す前に、宏洋氏は当会の映画にも出演していました。
しかし、その際も平気で撮影時間に何度も遅刻したりしていたがために、損害金が発生して、その賠償金として宏洋氏は幸福の科学から賠償金3000万円を請求されていたようです。
それのみか、スタッフの若い女性に対して声掛けしたりして、モラハラを訴えられていたもいたようです。
こういう自身のことを言及せずに、宏洋氏は、教団や総裁に対しては批判めいたことばかりを書いていたのです。

これはどう見ても公平ではないですね。
しかも、その批判内容は、事実と違うということで教団から訴えられて、7度の敗訴を招いていたのです。
ここまで、精神が堕落してしまうものなのか、と私は驚愕の思いになりました。
宏洋氏は、総裁に対して当会の本尊であるエルカンターレの使途として認めない、ということも書いていました。
それはそれでいいでしょう。
宗教的な、スピリチュアルな内容については信じるか信じないかは、その人の価値判断によるしかないので、無理やり信じ込ませる筋合いのものではないのです。
信じたければ信じればいいし、信じたくないならば信じなくていい、というのがスタンスですし、私自身、幸福の科学の信者ではないです。
しかし、大川総裁に対しては、ある程度の、いやかなりのカリスマ性を認めないわけはいきますまい。

86年の開宗から2023年の死去まで、大川総裁は3150冊もの本を上梓したのです。
ということは10日に1冊の割合で出版してきたのです。
この偉業について、宏洋氏はなぜ言及しないのか?
この大変さを何故理解できないのか?
これまで宏洋氏は、2冊の本を出してきただけです。
その経緯を経れば、どれだけ大変かがわかったでしょう。
彼の家庭教師を務めた人たちの証言によれば、宏洋氏は勉強は大っ嫌いだったようです。
大っ嫌いならば猶更、そのすごさを認めなければおかしいと思うのですが、彼はそうしなかった。
ただ総裁や教団を批判するだけでに終始していたのです。
私は、父親がサラリーマンで、朝かならず起きて出社していました。

しかし、大学教授やアトリエ講師、芸術家といった朝出勤しなくていい職の人を父親に持ったことがないがゆえに、そういう親を尊敬できずにいた人の気持ちを分かろうとしてもまるでできない話しです。
ゆえに、宏洋氏をことさら非難する資格はないでしょう。
総裁にしろ、大学教授にしろ、アトリエ講師や芸術家といった職の親たちはどうすべきだったか?
簡単です。
朝起きて、喫茶店なりファミレスにいって知的作業をすればいいだけだったのです。
家にいて、机の上で何かしら作業をしているというのは子供の精神上かなり悪いのです。
ましてや、睡眠しているなんていうのは更にたちが悪いのです。(笑)
しかし、ここでの要旨は、子供がそういう不健全な精神を持たないようにするためには、そういった職業の人たちは家にいずに、子供の登校時間よりも先に家から出て、家以外で作業をせよ、ということです。
それをするかしないかで、子供の精神は将来、天と地ほどの違いが出てしまう、ということです。
それは宏洋氏の生態を見ればわかるでしょう?
私がいくら著作家として敬愛している故.大川総裁でも、やはり批判的に見なければならないし看過はできないということです。
そんなスタンスに共鳴出来る人におすすめなのが以下の電子書籍です。
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♯宏洋
幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏は、宏洋氏(下写真)という不肖の息子と和解できないままこの世を去りました。

その内容については、前に書いた記事にありますが、どうも、現代人は、親に対するスタンスというか、必然的に求めてしまう人間像は、朝起きて、ごはんを食べて、出社する親の姿を見ることによって健全な精神を身に着けることができる、という状態のようです。
出社せずに、家にいたまま、本や雑誌や新聞を読んで過ごしている父親を見て育つと、その子は不健全な精神を身に着けてしまうようです。
大学教授、塾講師、アトリエ講師、芸術家…こういった職業の人達は、朝起きて出社しなくてもよく、最悪の場合寝ていてもいいのですか。
しかし、そういう親を見て育つと、子供は健全な精神を身に着けることはできずにいるパターンを散見することができるのではないでしょうか?
大川総裁もそういう日常を送っていたことは間違いなさそうです。
私の中学時代に、同級生で父親を大学教授にもつ男子がいましたが、どうもその人は、クラス一丸となって共同制作をしなければならないことがあると、非常にばかばかしく感じて、まじめにその共同作業をしている周りの人間を見下していましたし、いつも校則違反のシャツや靴下を着けて、帰宅までの道のりにおいて、校則違反だった買い食いをしていました。
そういう例ってよくありますね?
宏洋氏もまさにそういう精神になってしまっていたのです。
その心理的なメカニズムは、精神分析学者である日本が誇る小此木啓吾氏の本を読めば、一目瞭然でした。
かなりの読書家だった大川隆法氏(下写真)も、この人の本を読んでいた可能性はかなり高いのですが、こと宏洋氏への教育の際には、すっかり忘れてしまっていたのでしょう。

あるいは、子供の教育は生涯においてぶっつけ本番なニュアンスがあり、むやみに批判すべき筋合いのものではないのでしょうが、過ちについては敢然と認識しなければならなかったのは言うまでもないでしょう。
出社せずに、家で何やら本や雑誌や新聞などを読み、書き物もしている。
そういう親を見ると、子供は親が楽して生きているとしか見えないのですね。
そういう規律のなさが精神に伝播して、規律ある生活を送れなくなってしまう。
幸福の科学に反旗を翻す前に、宏洋氏は当会の映画にも出演していました。
しかし、その際も平気で撮影時間に何度も遅刻したりしていたがために、損害金が発生して、その賠償金として宏洋氏は幸福の科学から賠償金3000万円を請求されていたようです。
それのみか、スタッフの若い女性に対して声掛けしたりして、モラハラを訴えられていたもいたようです。
こういう自身のことを言及せずに、宏洋氏は、教団や総裁に対しては批判めいたことばかりを書いていたのです。

これはどう見ても公平ではないですね。
しかも、その批判内容は、事実と違うということで教団から訴えられて、7度の敗訴を招いていたのです。
ここまで、精神が堕落してしまうものなのか、と私は驚愕の思いになりました。
宏洋氏は、総裁に対して当会の本尊であるエルカンターレの使途として認めない、ということも書いていました。
それはそれでいいでしょう。
宗教的な、スピリチュアルな内容については信じるか信じないかは、その人の価値判断によるしかないので、無理やり信じ込ませる筋合いのものではないのです。
信じたければ信じればいいし、信じたくないならば信じなくていい、というのがスタンスですし、私自身、幸福の科学の信者ではないです。
しかし、大川総裁に対しては、ある程度の、いやかなりのカリスマ性を認めないわけはいきますまい。
86年の開宗から2023年の死去まで、大川総裁は3150冊もの本を上梓したのです。
ということは10日に1冊の割合で出版してきたのです。
この偉業について、宏洋氏はなぜ言及しないのか?
この大変さを何故理解できないのか?
これまで宏洋氏は、2冊の本を出してきただけです。
その経緯を経れば、どれだけ大変かがわかったでしょう。
彼の家庭教師を務めた人たちの証言によれば、宏洋氏は勉強は大っ嫌いだったようです。
大っ嫌いならば猶更、そのすごさを認めなければおかしいと思うのですが、彼はそうしなかった。
ただ総裁や教団を批判するだけでに終始していたのです。
私は、父親がサラリーマンで、朝かならず起きて出社していました。
しかし、大学教授やアトリエ講師、芸術家といった朝出勤しなくていい職の人を父親に持ったことがないがゆえに、そういう親を尊敬できずにいた人の気持ちを分かろうとしてもまるでできない話しです。
ゆえに、宏洋氏をことさら非難する資格はないでしょう。
総裁にしろ、大学教授にしろ、アトリエ講師や芸術家といった職の親たちはどうすべきだったか?
簡単です。
朝起きて、喫茶店なりファミレスにいって知的作業をすればいいだけだったのです。
家にいて、机の上で何かしら作業をしているというのは子供の精神上かなり悪いのです。
ましてや、睡眠しているなんていうのは更にたちが悪いのです。(笑)
しかし、ここでの要旨は、子供がそういう不健全な精神を持たないようにするためには、そういった職業の人たちは家にいずに、子供の登校時間よりも先に家から出て、家以外で作業をせよ、ということです。
それをするかしないかで、子供の精神は将来、天と地ほどの違いが出てしまう、ということです。
それは宏洋氏の生態を見ればわかるでしょう?
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